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ナイルパーチの女子会(柚木 麻子)

ナイルパーチの女子会


○ナイルパーチの女子会 柚木 麻子 文藝春秋


 だから、どんだけ「友達」に幻想抱いてるんだよ。
 『対岸の彼女』が回避性パーソナリティの主人公なら、本作の主人公は妄想性パーソナリティ。ぶっちゃけ、友達作るの向いてないよね、このタイプ。人のこと言えた義理じゃないけど。

 栄利子はブログ「おひょうのダメ奥さん日記」の愛読者。ふとした偶然でそのブログ主と出会い、近所に住んでいることを知る。偶然の出会いはふたりにとって運命的な出会いになるものと期待された。しかしその期待は数日後には裏切られふたりの人生は大きな転機を迎える。

 栄利子の行動はエスカレートしてストーカーに至るわけだけど、妄想性はストーカーの素質(傾向)があると言われています。
 なぜそうなのかというと、このタイプ……という言い方をすると人を定型や一定のカテゴリに分類するようで誤解を招くかな。栄利子は妄想性が一番強いけど自己愛性の傾向も強いと思うし、翔子はややシゾイド傾向があるけど決定的というわけではない。それぞれの心性の代表的で特徴的なものを○○性パーソナリティと名付けているだけ。この心理的メカニズム、思考の傾向を把握することでその人の行動が当人にとって合理性があることが見えてくるのがポイント。
 栄利子は猜疑心が強く疑い深い人で、これは妄想性パーソナリティの特徴。

 「根底のところで人を信じていないんだろう。だから君に誰も近付かないんだと思うよ。そうやって型にこだわり、常に心を武装する君に、誰が本音で向き合うんだ? 君の仕事のやり方にも言えることだと思うよ
 「何故、そうやって武装するくせに、人を求めるんだ。ならば、一人で居なさい。人を信じられるようになるまで、ずっと一人で居ることだよ。少しも恥ずかしいことではないんだよ。いい加減、大人になりなさい


 心の底から相手の気持ちや行動に信頼や友情、愛があるのだと確信を持てない。ではどうするか? それを証明するしかない。そのために手っ取り早いのは相手を所有すること。監視したり、相手がそうするように仕向けたり、相手を支配したり、操作することでその担保を取ろうとする。
 本書を読んだ人の大半はおそらく栄利子の思考におぞましさや気持ち悪さ、居心地の悪さを感じる。ブログの情報から住んでいるところを特定し、普段行きそうな場所に見当をつけて先回りして偶然の出会いを装う。やっていることは完全にストーカー。だけど彼女の中では「誤解を解きたい」「自分を分かって欲しい」「相手のため」という目的が先行し、そのための手段は正当化される。相手の意思や自由裁量という発想が決定的に欠けているが、彼女は自分の思考を正常だと思っている。

 とにかく、おひょうを元に戻さねばならない。これ以上、自分のように傷つく人間を増やさないためにも、再び読者を共感させるブログを書かせなければならない。友人として、いや、ここまで彼女を育ててやった読者として当然の要求だ。自分は断じて、おひょうの敵などではない。誰よりもおひょうを思う熱心なファンなのだ。だから、おひょうが耳を傾けるのは自分の言葉であるべきだ。ぽっと出のNORIなんかではなくこの古くからの理解者、志村栄利子を尊重するべきなのだ。間違った道に足を踏み入れた彼女を正せるのは、彼女をよく知り、ビジネスや常識にも精通した自分だけ。だって、彼女は栄利子の他に本当の友達などいないのだから。

 どこか既視感がないだろうか? 「おひょう」をアイドル名や作家、アニメに置き換えればネット上で見たことがある人は少なくないと思う。本人はおそらく本気で相手を気遣っているのだろうけど、自分のこだわりを押し付けているだけ。妄想性の他者理解はひどく独善的で画一的。何かの型に押し込もうとする。しかしそのことに本人は気づかない。自分が熱中し、尊敬し、理想し、情熱を傾ける対象は絶対に自分のイメージどおりでなければならない。そのためには厳正に管理し、適切に指導し、正しき方向へと導かねばならない、と義務感すら抱く。

 こんな性格であれば、自分のブログに張り付いたことも納得出来る。翔子のブログの方向性が変わってからも、離れるのではなく逆によりしつこく追いかけるようになった。栄利子の中で他者との価値観の違いは忌むべきもの、自分を孤独にするものであり、なんとしてでも正したいものなのだろう。こうしている今も、翔子を厳しく値踏みしているに違いないのだ。


 しかしその一方で、心の底では信頼していないから冷めるときはすぐに冷める。自分の理想とはかけ離れた取るに足らないものだと気づいてしまえば興味を無くす。興味があればあったで極端に干渉するし、なくなれば捨てる。ものすごく自分勝手で自分の基準を押し付けて対象の価値を測る。束縛と薄情さ。それがこのタイプの特徴。人を信じてはいないくせに、人に理想を求めるとどうなるかという見本。
 もっとも、栄利子は心の底から友達を、親友を欲していたかというと少し怪しいところもある。同性の友達がいない、ということに対するコンプレックスや羞恥、見栄、対抗心が彼女を駆り立てた節がある。模範的なエリート、なのに友達だけがいない不完全さに対する劣等感(この辺が自己愛性っぽいところでもある)。冷静になって考えれば「そんなに友達必要でもなかったわ」ってなったかもしれない。
 妄想性に対してボロクソに書いたけど、猜疑心が強いということは慎重でもあるし、(自己愛性的に)プライドが高いことで努力家な面もある。実際彼女は学業でも仕事でも優秀。ただそれが悪い方向に向くと劣等感と猜疑心の塊となり、完璧な自分を求めて他人を食らう。


 友達という関係には非常に多くの形態があると思う。
 一心同体のように密着した関係もあれば、一緒に居て疲れない、無理に会話をしなくても一緒にいられる関係もあるだろう。個人的には数年ぶりに会ったとしても、まるで昨日会っていたかのようにすんなりと打ち解けられる関係もまた友達ではないかと思う。頻繁に連絡を取り合わなくても、会いたいときに会って、下らない話をして、別れてそれぞれの日常を営む。それを続けられる関係だって友達だと思う。
 望ましい友達(関係)は人によって異なる。漫画やアニメで見るような関係が正解とは限らない。そこで重要になるのは、自分に合った関係を自分で作れることだ。私がよく身の程、身の丈という言葉を使うのも、自分の本質を知っておけば一般論と自分にとっての正解が異なっていても揺らぐことはなくなると思っているから。自分が欲しいと思うものを自分で手に入れられる感覚、満足できる感覚は大事だ。シゾイド、妄想性、回避性、自己愛性パーソナリティなどという言葉を用いるのも、それらには特有と言えるほどの傾向、心理的メカニズムがあってそれらにはそれに相応しい収まり方があると思っている。妄想性のそれがどんなかは知らない。それを体得するのが各自の仕事。それが人生、自分を生きるってもん。



[ 2017年07月16日 03:05 ] カテゴリ:本の感想 | TB(0) | CM(-)
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