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キャラ化する/される子どもたち(土井隆義)

キャラ化する/される子どもたち―排除型社会における新たな人間像 (岩波ブックレット)


○キャラ化する/される子どもたち―排除型社会における新たな人間像 土井 隆義 岩波ブックレット

 事前にページ数確認しませんでしたが、この本すごく薄いです。てっきりハードカバーの本だと思っていたので、図書館で探したときに苦労しました。いやー思い込みって怖い。何度も確認したつもりが完全に見落としてた。

 同じ著者の本では『非行少年の消滅―個性神話と少年犯罪』を読んだことがあります。内容はほとんど忘れてしまいましたが、題材の一つにセーラームーンがあったのを憶えています。漫画、アニメなどの創作物やリカちゃん人形のように時代を跨いで存在するキャラクターの変化が社会背景を反映しているという切り口で述べられていたのが印象に残っています。


 対他的な場面において自己の印象操作の負荷を下げ、その潤滑剤の役割を担っているのが外キャラだとすれば、対自的な場面において自己の感情操作の負荷を下げ、その安定剤の役割を担っているのが内キャラです。どちらも、自己イメージの管理にともなう工夫の産物という点では違いがありません。このことは、特定の生き方を誰もが強制されなくなったという点では、現在の日本はたしかにユートピアでしょうが、しかしそれゆえに、いったい相手が何者であるか根本的には分からないまま、不透明な相手とつねに向きあって生きなければならないという点では、そして、自分が何者であるかも根本的には分からないまま、不透明な自分とつねに向きあって生きなければならないという点では、同時にディストピアでもあることを示しています。


 細かいことはすでに『つくし世代』『やさしさの精神病理』で書きましたが、現代の若者は人間関係、コミュニケーションがいってしまえば自分の基盤になっているきらいがあります。これはいわゆる「大きな物語」喪失後の世代に比較的共通する話で、要は社会全体と個人との結びつきが弱くなったことで、自分を社会と結びつけて規定できなくなった代わりに、それを人間関係で代用し始めたわけですね。これも細かい話は別記事『アドラーが生きた時代と、私達が生きる時代の違い(題材「嫌われる勇気」)』が参考になるでしょうか。
 もちろんこれは個人差があります。私のように抽象的なことが好きで、人間関係に興味がない人は昔型の人間に近いでしょう。ここでは全体的な傾向として押さえておけばいい。本書で書かれていたことで「へー」と思ったのは最近の若い世代では生まれつきの能力で決定する、宿命論的な風潮が強いことです。またタイムマシンがあったら未来に行くよりも過去に戻ることを選ぶ人が多いそうな。これには現代が未来に対して明るいビジョンを描けない事による閉塞感(と同時に現在を楽しもうとする志向性)もあると思うんですが、そういうわけで現代は、バリバリ努力して自分を変えて将来凄くなろう、みたいなのはあまり流行らないようです。これ自体は良いも悪いもないんですが、そうすると現状をどうやって維持していくか、今の関係を維持するためのコミュニケーション力が求められることになるわけです。そのためのコストやストレスをどう処理するか、というのは前述した記事のとおり。

 さらにここで加わってくるのは、ケータイやネットなどの優れたコミュニケーションツールがあることで本来ならどんな人とも繋がれるはずなのに、実際には同質的な人間関係が構築されやすいという実態です。付き合うなら自分と同じ話題が話せる人が良いと誰しもが考えるので当然と言えば当然の帰結なんですが、それが発展すると↓のようになっていきます。


 若い人たちの人間関係は、自己肯定感を維持するための基盤ですから、たとえ差し迫った切実な話題がなくても、コミュニケーションの場はつねに確保されていなければなりません。しかし、具体的な他者の反応に根拠を置くわけですから、その肯定感は相手しだいで大きく揺らぎます。そのため、少しでもそれを安定させようと、できるだけ自己承認を得やすい安全パイの関係が求められ、「類友」と称されるような同質の人間だけと結びつこうとします。ボケとツッコミの関係も、予定調和の枠組から外れないという点では、そのバリエーションの一つにすぎません。
 他方、異質な人間とは、適度な距離をもって付きあったり、あるいは対決を試みたりするのではなく、そもそも最初から認知対象の圏外へ押し出してしまいがちです。自分の内部に安定した肯定感の基盤があれば、それを拠り所にして異質な人間とも接触を保ち続けたり、場合によっては対立を表明したりすることもできるでしょう。しかし、いまはその基盤を自ら内面にもちえず、他者の反応にその役割を求めているために、目の前に現れた異質な人間は、自己肯定感を根底から揺さぶり、危機にさらしてしまうのです。
 ところが、ひたすら同質の類友だけとつながっている日常は、意外性による刺激を受けることがありませんから、徐々に活気を失って空気が澱んできます。このとき、関係の維持に脅威とならない対立軸を集団内にもち込むことで空気を掻き回し、澱んだ関係を再活性化するためのテクニックとして登場してくるのが、いじりやすい生徒のキャラを標的とした今日のいじめです。
 今日、いじめの標的にされるのは、同じスクール・カースト内の生徒か、せいぜいが隣りあったカーストまでです。最上位のカーストの生徒が、最下位のカーストの生徒をいじめることは、もちろん皆無ではありませんが、現実にはほとんど見受けられなくなっています。カーストが異なる人たちは、そもそも認知対象の圏外にいるので、いじめの対象にもならないのです。
 したがって、今日のいじめの多くは、異質な人間を排除しようとするのではなく、異質な人間がすでに圏外化されてしまった類友の世界で、同質な者どうしによる常時接続の息苦しさに風穴を開けようとするものです。しかし、いくら同質な者どうしの関係といっても、各自の関心対象は基本的に千差万別になっていますから、そこで最後まで共有されうるのは、対立をはらまない限りにおいてお互いの差異を認めあうという基本的な態度だけです。なにか具体的な目標を共有することでつながっているわけではありませんから、表面上はいくら同質的にな関係に見えても、一皮むけば簡単に傷つきやすく、じつは非常に危うい関係になっているともいえます。


 『“菜々子さん”の戯曲 Nの悲劇と縛られた僕』『対岸の彼女』を読んだときもずいぶん下らない、というか理由のない理由でいじめが起こるんだなー(言ってみれば身内同士でいじめが起きる)と思いましたが、ここで標的にされるのは、その身内の中でも場の雰囲気を壊す人、あるいはいなくても機能する人で、異質性はあまり関係がないことがわかります。

 また、昨今ネット上で炎上するものに身内ウケを狙ってやらかしたものが多く見受けられるようになりましたが、いわゆるネットのムラ(村)化というか、本当に自分の身内しか見ていない視野の狭い人が稀に、でもよく出てくるのはこういうことなのだと思います。同質性を求め、同質な人たちのみが集まった環境で、それに最適化することで最大利益を得られるなら圏外のことは無視しても支障がない。これはこれで一部の頭の足りない人の話ではあるのでしょうが、同質性が高くなることはその内在論理、行動規範として「見られている」意識が薄くなりがち。


 学校裏サイトは、最近はネットいじめの温床として悪評が高くなっていますが、じつはその多くは健全なものです。本来は、学校の公式サイトに取り上げられない話題を、生徒たち自身が自由に取り上げて作ってきたものです。もちろん、そのなかには、いじめの場になっているものもあります。しかし、それらも開設されてしばらくは健全だったものが多いのです。
 どんな集まりであっても、似通った者どおしが寄り固まって、そこで過剰な配慮が繰り広げられていくと、関係の維持は重くなってしまいがちです。そして、そのガス抜きのために、内部にいじめが起きることもあります。2007年に、神戸の高校生がいじめに耐えきれずに自殺した事件で、その舞台となった学校裏サイトも、当初はフットサル同好会の情報交換の場として開設されたものでした。大人たちから見れば安全圏内にあったはずのものが、外部から閉じられた狭小な世界が作り上げられていくなかで、いつのまにかその圏外へと変質しているのです。



 裏サイトの件はよくよく考えればなるほど、と頷ける。たとえばネットのブログなどでも見られることで、最初は何かのファンサイトだったものが多少有名になり、そのブログ自体にファンが付く。ところがあるとき管理人がその何かが気に入らなくなってアンチサイトと化してしまう。この時点でそれまで来ていた多くのファンは抜けてしまうのだけど、管理人に馴染んている古参が残り、またアンチブログとして新たなファンがつく。こうなってくるとその同質性から空気が滞留してただの愚痴の集まりになる。さらにはこのアンチに対するアンチが湧いたり…と荒らしが定例化してさらに空気が悪くなっていく。
 …というのもこれとおそらく同じ。同質性が高いということは変化が少なく、もとある傾向が強まっていく。またその枠内でコミュニケーションを維持しようとすれば話題のためのスケープゴートが必要にもなっていく。いじめの対象や、アンチの対象は実はそれ自体なんでも良い。話題が必要なだけ。だからこの手のものはおそろしく生産性がない。場を繋ぐための場でしかなくなるから。


 職場の若い人で、普段は饒舌なのに苦手な人に対してはとことん打たれ弱い人がいるらしい(私は最近転勤してきたのでその人をあまり知らない。そういう理由でうちの部署にその人は異動したんじゃないかという噂がある)のですが、同質性に慣れることの弊害の一つは異質な人間に対する抵抗力が育たないこと。
 著者も述べているように、人格形成とは他者との関係を通じて構築されていくもので、好きな相手、嫌いな相手とも付き合いながら学んでいくものです。時には同調し時には対立することで自分自身もまたどういう人間かを発見し随時修正を加えていく。私がそう思うのは、それが結果してコストが低くなるからです。凹んだからといって会社に行けなくなったら経済的に困るし、誰かが面倒を見てくれるとも限らない。異動させてくれるとも限らない。結局自分で自分の身の振り方を決められる程度には精神耐性と対人関係力を鍛えておいた方がいい。私はいわゆるコミュ障ですが、自分で言いますが結構レベルの高いコミュ障だと思ってます。その気になれば対立・折衝・懐柔もできる。だいたい他人に興味なさすぎて好きにも嫌いにもなりませんからね。その利点は大いに有効活用しています。
 自慢話をしたかったわけではなく、コミュ障でもやりようがあるってことです。コミュニケーションが上手いからといって良い関係ばかりに執着していると案外落とし穴があったりする。落ちたときに助けを求められるならいい。けど現代人のメンタルはおそらく助けを求められない。特に親しい人には。それが迷惑なことだと、重い話だと知っているから。現代人は迷惑をかけたがらない。なら、自分で這い上がれるメンタルは持っておきたい。


 最近この手の記事が連続したけど、とりあえずこんなとこかな。手持ちのネタも尽きたし。


[ 2017年06月25日 20:52 ] カテゴリ:本の感想 | TB(0) | CM(-)
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