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やさしさの精神病理(大平 健)

やさしさの精神病理 (岩波新書)「昔はよかった」と言うけれど: 戦前のマナー・モラルから考えるつくし世代 「新しい若者」の価値観を読む (光文社新書)菊と刀 (光文社古典新訳文庫)


○やさしさの精神病理 大平 健 岩波新書

 本書が書かれたのは約20年前の1995年。この当時のおじさん達から見れば本書に登場する彼らの優しさに眉をひそめることもあったかもしれません。しかし、おそらく今なら比較的多くの人が共感するのではないかと思う。
 一例をあげると、

 電車に座っていると、目の前に老人が立っていた。そこで逡巡し、居眠りの振りをすることにした。理由は今の老人は元気な人が多く、下手に席を譲ろうとするとプライドを傷つけかねない。かといってそのままにしていると周囲から咎められるような視線を浴びかねない。だから居眠りの振りをすることで「老人に気づかなかった」という言い訳が立つ。というもの。

 これは結構思い当たる節がある人は多んじゃないかと思う。客観的には無視しているし、何一つ優しいことはしていないのだけど、心情としてよくわかる。

 次の例はどうだろう。

 ちょっとおバカな女子高生が勉強して推薦枠をとりたいと思っている。そのために塾に行きたい。バイトはしているが遊びで消えてしまう。しかし親には相談できない。なぜならお金がかかるから。でもその女子高生は親から毎月1万円のお小遣いを貰っている。別に貧困ではないし、自分の将来のためにもなるのだから相談すればいいのに、何故か気を遣っている。お小遣いは貰っているのに? すると彼女は答える「お小遣いをもらってあげるのが優しさじゃないですか?」

 これはちょっと今でもうーん…ってなるかもしれない。でもこれも相手のプライドや見栄を受動的に尊重しているという意味では前者と同じです。これらは端的に言えば優しくしないことで優しくしている、ということが成り立ちます。
 何故このような不可解な(しかしなんとなく理解できる)ロジックが成り立つのか?
 それは現代が優しい世の中で、それが前提になっているからだと思います。


 現代は何がどう優しいのかを説明するよりも昔はどんなだったのかを紹介した方が早いでしょう。
 『「昔はよかった」と言うけれど 戦前のマナー・モラルから考える』
 簡易的な記事はこちら

 この本で紹介されているのは戦前の日本です。現在なら電車に乗るときは降りる人が優先、乗るのも列を作って整然と並ぶのが当たり前ですが、当時は全く当たり前ではありませんでした。我先に乗ろうとして押し合いへし合い、引っ掻き回す始末。窓の外から荷物を放り投げて強引に席を取ろうとするのも日常茶飯。公園ではゴミを捨てまくり、花や木の枝をへし折って持ち帰るのも当たり前。公衆浴場(銭湯)の使い方も不潔で汚く衛生のえの字もない。計量を誤魔化して少ない量で売ろうとする米屋があちこちにいた。優しくて礼儀正しい日本人? どこの国の話ですか?

 こうした日常が当たり前だった頃に比べれば、現代ははるかにルールが整っていて、礼儀正しく、かつみんなそれを遵守していると言えるでしょう。公園で遊ぶにしたって羽目をはずして騒音を立てる人は稀だし、そんな人がいたら冷たい視線を向ける。子どもの声すら騒音だと言ってしまう人が出てくるくらいです。
 現代では相手に気を遣って邪魔をしないこと、気分を害さないこと、ルールを守ることはごく当たり前のことです(それが既得権益だと言っていいほど)。付け加えれば元気な老人も多いし年寄りだと思われたくない人もいる。子どもに小遣いをあげるのも当たり前。そういう世の中では、相手のプライドを傷つけないこともまた一つの礼儀であり、優しさになる。

 そんなのは単に自分が楽をするための言い訳じゃないのか、本当に相手のことを気遣っているのか? 気持ちを共有して向き合って能動的に手を差し伸べるのが優しさではないのか?という意見もあるでしょう。勿論それも優しさです。でもこの優しさってある種の鈍感さが前提になっていて、上述した昔の日本人のようなガサツな関係だからこそできたし、それを受ける方も受け入れる土壌があったと思います。現代は優しさの閾値が下がっている。昔は本当にお節介を焼くくらいが優しさとして共有されたけど、現代はそこまでしなくてもみんな元気に楽しく生活することができる。連絡手段の多さ、手軽さを踏まえれば過剰なほど人と接することが可能な時代。なら、あまり余計なことをしない優しさだって成立する。

 これは決して現代だけに限った話ではありません。戦後間もなく出版された『菊と刀』を書いたベネディクトが指摘しているように、当時の日本人が困っている人を敢えて助けなかったことは珍しいことではありませんでした。何故なら助けてしまえばそれが縁となってその後の人間関係が面倒臭くなってしまう恐れがあったからです(たぶんお礼とか付き合いとかが増えたり心理的負担が大きくなる)。ちょっとしたことなら敢えて助けない方が、助ける方も助けられる方も心理的に合理性があったのです。
 優しさというと直接的に相手を助けたり、支援する姿がイメージされがちですが、広い意味では相手への信頼、尊重、礼儀もあるし双方の心理的負担を軽減することも日常生活の中では重要なことです。



 現代も同じです。優しくされる、優しくする、お互いの個性や生き方を尊重し変に決めつけたり、文句を言ったりしないことが当たり前の現代では、相手に必要以上に余計なことをするのはむしろ双方に心理的負担がかかり「優しくない」のです。優しさの閾値が下がるということは、心理的負担に感じる閾値も下がっているということであり、昔だったら心地良いお節介が、現代では余計なお節介になりえる。

 先日取り上げた『つくし世代 「新しい若者」の価値観を読む』ではSNSがコミュニケーションツールとして使われる現代ならではの優しさや気遣いが紹介されています。たとえば、遊びや飲みに誘うときでもLINEではなく敢えてツイッターを使うことがあるそうです。というのはLINEは読んだことがログに残ってしまうので「読んだけど返事がない」という状況が起きてしまい、なんで返事しないの?という疑問やプレッシャーが双方にかかる。それに比べてツイッターなら「読んでなかった」「見てたけど読み流してた」という言い訳ができるので誘う方も誘われる方も心理的負担が少ない。また身内感の強いLINEに比べてツイッターの方が不特定多数に向けての発信なので、直接顔を向けずにやり取りできるような心理的感覚になるようです。これは両ツールを使い慣れた人ならより共感できることかもしれません。
 人によってはまどろっこしく感じるかもしれませんが、私はそうしたくなる気持ちもわかります。相手や状況にも寄るでしょうが、直接誘って直接断られても気にしないときもあれば、ちょっと残念に感じるときもあって、相手から否定の返事を聞くのが億劫になることがある。同様に断りの返事をするのが億劫になるときもある。だからこそ「見てなかった」という言い訳ができる隙間を残しておくのは心理的に楽になる。
 そんな人間関係はそもそも弱い人間関係なんじゃないか、そんなのは友達と言えるのか?という疑問は、そういう友達や気分のときがあって何が悪いの?と答えておきましょう。断っていいなら私は会社の飲み会や時間外での人間関係を全て断りたい。あんなの何の価値もないんだから。でも社交上の付き合いや礼儀として付き合って「あげてる」んです。無駄な金と無駄な時間を払ってもね。これって優しさじゃないですか?(上から目線)

 あるいはブロクを運営している人ならわかると思いますが、コメントへの返信。これも丁寧にやろうとすると結構骨が折れる仕事で、気が合う人のコメントは喜々として返しますが、そうでない人、そもそもお前それ日本語になってねーぞ? ここはお前の日記帳じゃねーんだぞ? みたいな人もいてそういう相手にはうんざりして気が重くなる。読むのも面倒。コメント欄で消耗してブログをやめてしまう人も少なくありません。
 ちなみに私も昔は一人ひとりに返信していましたが、今は「話題」で返信することにしています。そもそも記事にコメント欄を付けずに今では古臭い掲示板を使っているのはそっちの方が時系列が管理しやすく、また発信した情報が目につきやすいからです。管理人である私が興味をもった話題にしか返信しないことで、このブログは最初から個別に細かく相手する気ねーんだぞ、という意思表示(ルール)になるし、私にとっても負担のない運営になる。

 SNSを使っている人だと1人になりたいときは電源ではなく(アプリ機能を残すために)機内モードにして通信を切るといったことをしている人もいるようです。他者とのコミュニケーションが容易だからこそ、すでに多くの優しさで溢れている環境だからこその心理的負担があり、その負担を減らす工夫や言い訳が必要になっていることは案外見落とされがちです。
 どこで線を引くか、どこまで従い、どこから我をとおすかは悩みの種です。本書に登場する若者達は今から見ても幼く曖昧で浮ついています。ある意味では現代の優しさに翻弄された被害者とも言えるでしょう。いつの時代もその当時信じられている文化に染まりすぎて自分を見失ってしまう人はいるものです。現代だからこその優しさ、賢さ、厳しさ、線の引き方を身に着けていかなければならない。


 「もし、彼と結婚したら、犬を飼いますか?
 「ええ、きっと。私は犬好きだって言いましたよね
 もちろん覚えていたから、犬の話題を出したのです。絆の説明をしました犬の紐が、〈きずな〉であると同時に〈ほだし〉でもある(注釈:絆と書いて「きずな」「ほだし」と読む。束縛なくして絆はありえないという意味)。そのことを聞くと、彼女は語彙が増えたと喜びました。それから、ちょっと考えて、
 「英語にも似た言いまわしがありますね。ボンドって、たしか紐のことで…犬の紐かどうかは分からないけど。(中略)犬の飼い方って、日本とアメリカで一見両極端でしょう? 日本では紐をつけて飼うけれど、アメリカでは放し飼い。だけど、アメリカでは幼い時に徹底的にしつけて、主人の命令に従うようにするの。つまり、コトバが紐なんですよ。
 私たちみたいな若者が望んでいるヤサシサは、日本でもアメリカでも、こういう紐をやめてしまおうということだと思う。
 私と彼、二人で部屋にいて、ソファに並んで坐って、それぞれに黙って何かしている時、私はとっても心が落ち着くんです。彼もそうみたいですよ

 またひとつ思いつきました。
 「あなた方、ソファに並んで坐る時、くっついて坐りますか、それとも…
 「もちろん、ツカズ・ハナレズですよ。これは日本語だけど、この感覚はアメリカでも若い人たちの場合、同じですよ。とくに知的な人たちは、もう、ハリウッド映画の男女みたいにベタベタするのは皆、嫌い。セックス時代は終わった……あ、日本語英語でいうセックスレスの時代なんですよね
 (彼女のセックスレスは一種のジェンダーフリーを含むもので、夫婦=性的独占(近く強い肉体的距離感)に囚われない発想。この延長にあるのが『つくし世代』でも述べられていた「男女関係を友人関係に留めておきたい」願望だと考えられる)


 少し話が逸れましたが、「優しさ」というのはコミュニケーションの質と量によって変わってくるのだと思います。人によっては、現代は優しさが薄れた時代だと感じるかもしれません。こんな軽薄な優しさは優しさではないと。私はそうは思いません。この優しさもまた現代の「優しさ」です。時代、文化、社会背景によって人間関係のあり方や距離感、肌感覚は変わる。その時代なりの礼儀、距離のとり方、優しさがあると思っています。無論、今だって昔ながらの優しさは優しさとして理解されるし価値もある。それを尊ぶ人、そういう優しさを必要とする人もいる。現代だからと一概に薄い優しさが求められているわけじゃない。しかし時代の流れとともに求められるものも変わる。昔の人は今を生きているわけじゃないし、今の人は昔を生きているわけじゃない。良し悪しではないんです。
 それが優しさだと共有されるならそれでいいんです。現代風の気遣いをすることで相手も「ああ、彼は自分に気を遣ってくれているのだな」と伝わればそれは優しさでありコミュニケーションなはずです。そこに個人差や世代差があるなら、頑張るか諦めるかしてください。人間は必ずしも理解し合える生き物じゃないんで。
 俺の邪魔をしなければ、あんたが何者であろうが、どんな考えをもっていようが、かまわない。
 相変わらず投げやりな結論になるのが私の感想なんですが、無関心を以って肯定とする。これもまた優しさだと思っています。伝わるかは知りませんが。

[ 2017年06月20日 15:34 ] カテゴリ:本の感想 | TB(0) | CM(-)
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