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対岸の彼女(角田光代)

対岸の彼女 (文春文庫)


○対岸の彼女 角田光代 文藝春秋

 物語は現在と過去を行き来するように進む。結婚し子どもができた小夜子。しかし彼女は人付き合いがヘタで、公園ジプシーになっている。彼女の娘は親に似たのかどこの公園でも友達を作れない。彼女はそこから逃げ出すように仕事を見つけ、娘を保育園へ入れる。小夜子の仕事先の女社長葵にはかつて新聞沙汰になった過去があった……。

 人間関係ってほんと面倒くさいみたいですね、と他人事のように思う。
 物語を最初から最後まで貫くのは人間関係の脆さとそこへの不信。人付き合いがヘタな彼女たちは常に周囲の様子を伺い、ターゲットにされないよう振る舞う。昨日まで親しく接していた友達が何かの拍子に自分をいじめる側に回るかもしれない。そんな薄氷を踏むかのような、表面下での探り合い。いわゆる女の子グループの話。もちろん女の子に限った話じゃない。私も人付き合いはヘタだし、ターゲットにされたこともある。
 でも彼女たちのように悩んだことはなかった。というよりも人間関係に悩む、ということが理解できないしその発想もない。この小説を読んで自分の子どもの頃を思い出してみたけど、ほんとに悩んでないんだわ。いや、確かに絡まれたりするのは面倒だったんだけど、面倒・邪魔という以外の感情が湧かなかった。中高なら3年放っておけばメンツが変わるから気にする必要はない。会社の同僚は同僚であって、友達ではない。社内に友達はいない。友達は使い捨てて構わない。その都度都合がつけば友達になればいいし、解消するならそれで構わない。くるものは拒まず、去るものは追わず。必要なければ切り捨てる。薄い関係にもメリットがないわけじゃない。コミュニケーションの頻度を減らして密度を上げれば相手に対して退屈だ、同じことを言う、相手に合わせなければならないといった細かいコストを最小化でき案外長期間付き合える。要は質と量のバランスと妥協点。自分と合う人だけを見繕えばいい。なぁに心配することはない。日本人だけで1億人いる。自分と合う奴の1人か2人くらい見つかるだろ。見つからなかったらそれでもいいや。
 そういうわけで私は人間関係で悩むことにあまり実感がない。重要でもない。切実でもない。おそらくこの理由には自分の居場所をどこでも作れるからというのもある。私のようなタイプの人間は人ゴミの中だろうが、孤独の中だろうが自分の居場所を作りそれを堅持できる習性がある。自分にとっての基盤は自分の中にあり、それを誰かの手に委ねることを酷く、いや最も嫌う。恐れると言ってもいい。生殺与奪の権を渡すことと同義だからです。他者の存在を否定しているのではない。他者に自分を委ねたくないので、必然的に関係性や相手に期待することも軽くなるし、またそうでなければならない。

 しかし普通の、少なくともこの物語に登場する人々はそうではない。友達を疑いながらも本心では親友を求めている。自分を何処かに連れて行ってくれる、自分に翼を与えてくれる、自分のことを理解してくれる、半身のような相手、私とあなたの世界を作りたい。居場所が欲しい。そうした心の声が聞こえてきます。親友が欲しい。でもクラスや集会では他の人とも仲良くしたいし、悪目立ちしたくもない。その結果たいして親しくもない友人関係が出来上がる。0か1。敵か味方か。こっちかあっちか。そのシグナルを探そうと何かにつけてレッテルや属性分けをする。それが偏差値、独身か子持ち、幼稚園か保育所の違いかは本質的な問題ではない。ただ集団の中で身を守る処世術としての友達関係。濃密な関係を求める一方で、薄い関係に心血を注がなくてはいけないことが彼女たちをより複雑なものにしている。いやもしかしたらいっときでもその関係から親友になるのかもしれない。でもそれは非常に脆くもある。小夜子がそうだったように。環境が変わっただけで霧散してしまう友情。相手への期待はいつしか失望と嫌悪に転化され、些細な言葉が釘になって突き刺さり、また自らも相手を突き刺す。自分を理解してくれないあっち側の人間なのだと思い込む。その繰り返しが他者不信に、柔軟性を欠いた硬直した人間理解へと繋がっていく。
 あるいは単に話相手が欲しいからつるむといった程度なのかもしれない。なればこそ、敵か味方に色分けする意味がよくわからないのだが。不満を吐き出すために敵を作っても自分の生活は良くならないと思うのだけど……。

 話を戻して、私に言わせると「何をそんなに期待しているの?」と思うんだよね。友達は神か超能力者か。いつから自分の気持ちを理解し、自分の味方になり、すべてを受け入れてくれる存在になった。そんなエスパーな聖人君子がその辺に転がってるわけ無いだろ。そもそもその親友、テキトーに見つけたやつだろ。テキトーな理由で親友になったんだからテキトーに他人に戻ってもおかしくないだろ。私も大概だが、案外君らだって他人に対して淡白だよね、とも思うのだけど、親友や理解者を欲する反面、その相手に不満や疑いを持つ気持ちはわからないでもない。建前と本音、そこは察してよとは思わずにいられない状況、本当のことを言ったら拒絶されるのではないかという不安、勘違い。言いたいことを言えず不満が蓄積されギスギスとした関係に変わっていく。
 だから私は面倒になるとそのままストレートに言うことにしている。「給料俺より多んだから働け」「俺の方が給料多く貰ってるから俺やる」と。人間関係がスムーズに行かなくなる理由の一つは「察する(察してくれよ)」が過剰になること。期待を口にせず、不満を口にせず、どんどんストレスばかりが貯まる。そのくせ上手くやってもらっても褒めない。そういうのやめない?と。案外腹を割って言えば通じる。小説の彼女たちもそう。旦那に不満を持っていた小夜子はふと敢えて雑な頼み事をしてみる。すると案外素直に引き受けてくれる。人間相手に100%を期待してはいけない。重すぎる期待は自分も相手も泥沼に沈めてしまう。だから素直にできそうなことを頼み、できそうなことを引き受ければいい。もっともこれは親友を作る方法ではなく、人間関係を円滑にするためのものだけど。

 相手を信頼する、ということは相手を100%完璧だと思うことではない。人間は豪華客船じゃない。寄りかかりすぎれば転覆する。相手の漕ぎ方に自分も合わせる必要がある。息が合ったときに船は前に進む。その爽快感、躍動感、感動、共感、楽しさはかけがえのないものであるが、そのコストは自分で払わなければならない。善意がなければ友達になれないが、善意に胡座をかいた関係は膿む。いずれはそのツケを払うことになる。親友になるためには、自分もまた親友であるための覚悟が必要になる。彼女たちはそれに気づく。


 おとうさん、なんであたしたちはなんにも選ぶことができないんだろう。父の言葉にうなずきながら葵は心のなかで叫ぶように言った。何かを選んだつもりになっても、ただ空をつかんでいるだけ。自分の思う方向に、自分の足を踏み出すこともできない。ねえおとうさん。もしどこかでナナコがひどく傷ついて泣いていたら、あたしには何ができる? 駆けつけてやることも、懐中電灯で合図を送ることもできないじゃないか。なんのためにあたしたちは大人になるの? 大人になれば自分で何かを選べるようになるの? 大切と思う人を失うことなく、いきたいと思う方向に、まっすぐ足を踏み出せるの?


 なんのために歳を重ねたのか。人と関わり合うことが煩わしくなったとき、都合よく生活に逃げこむためだろうか。銀行に用事がある、子どもを迎えにいかなきゃならない、食事の支度をしなくちゃならない、そう口にして、家のドアをぱたんと閉めるためだろうか。

 手をつなぎ屋上から飛び降りた二人の女子高生が、なぜそれきり会わなかったのか小夜子はふいに理解する。連絡しなかったのではない、子どもだからすぐ忘れてしまったのではない。葵ももうひとりの女の子も、こわかったのだ。同じものを見ていたはずの相手が、違う場所にいると知ることが。それぞれ高校を出、別の場所にいき、まったく異なるものを見て、変わってしまったであろう相手に連絡をとるのがこわかった――友達、まだできないの? と訊かれるのがこわかった――。

 私たちはなんのために歳を重ねるんだろう。遠ざかるクラスメイトに手をふり続けるあかりを見下ろして、小夜子はぼんやりとさっきの問いをくりかえす。

 「英子の子どものころにそっくりだ」夫が言った。娘の名らしかった。
 「そうだわ、ねえ、週末にお食事会しましょうよ。英子と雅史も呼んで。あの子たち、きっとくるわよ。田村さんも大丈夫よね? だれかの都合が悪ければ次の週。それもだめなら来月だっていいわ。にぎやかになるわね」
 その思いつきに顔を輝かせ、早くも献立を考えはじめる妻を見ていて、小夜子はようやくわかった気がした。なぜ私たちは年齢を重ねるのか。生活に逃げこんでドアを閉めるためじゃない、また出会うためだ。出会うことを選ぶためだ。選んだ場所に自分の足で歩いていくためだ。



 かつて親友だった少女たちが大人になって感動の再会を果たす……ことは現実的に起こらなさそうだし、起こっても感動しないかもしれない。そのときには環境も相手も自分も変わっているから。約束が魔法のように叶えられることはないのかもしれない。では、その思い出は埃をかぶって消えていくだけなのか。そうとは限らない。あのときのあの繋がりを求めて人を進ませることだってあるし、それが救いになることがあるかもしれない。色眼鏡を外すと見えてくることだってあるかもしれない。
 繋がりが孤独を生み、孤独の中で繋がりを求め、居場所を探し放浪する人々。その光景を私はやっぱりどこか距離を置いて眺めてしまうのだけど、それが無意味だとは思わない。私が怖くて触れられないものに触れられる人生はそれはそれできっと豊かなのだろうと思う。人の人生にケチをつけられるほど私の人生は高尚ではないしね。
 歳を重ねることの一つのメリットは経験を積めることだ。思い出が勇気になり、失敗が盾になり、開き直りが武器になり、知識が深みになり、貯金が命綱になる。人との出会いは私にとっても有用だが、しかし有毒になりえる。だから私は本や物語との出会いを期待する。それもまた大事な出会いであり、人生を豊かにしてくれる。子どもの頃にできなかったことを、大人になってできるようになるなら、歳をとるのも悪くない。

 「私はさ、まわりに子どもがいないから、成長過程に及ぼす影響とかそういうのはわかんない、けどさ、ひとりでいるのがこわくなるようなたくさんの友達よりも、ひとりでいてもこわくないと思わせてくれる何かと出会うことのほうが、うんと大事な気が、今になってするんだよね」


[ 2017年05月13日 19:58 ] カテゴリ:本の感想 | TB(0) | CM(-)
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