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戦争における「人殺し」の心理学(デーヴ・グロスマン)

戦争における「人殺し」の心理学 (ちくま学芸文庫)


○戦争における「人殺し」の心理学 デーヴ・グロスマン ちくま学芸文庫

 人間の悪行(残虐性)を述べた本は数あれど、この本は「なぜ人は人が思うより人を殺せないのか?」がテーマ。書かれたのは20年近く前なので学説や解釈に古い部分もありますが骨子は今なお新鮮さを失っていないと思います。

 第二次世界大戦中のライフル銃による発砲率を調査したところ、まとも銃を撃っているのは全体の15~20%という驚異的に低い結果が出ました(ただし指揮官が近くにいる場合はちゃんと発砲する)。加えて訓練時よりも命中率が低い。お互いに至近距離で打ち合っているのに想定される被害よりはるかに小さい。つまり兵士達は戦場で意図的に人を殺さないことがわかりました。ついでに大戦中のレシプロ機も同様の結果になっている。近代戦で主に殺しているのは火砲。
 どうやら時代をさかのぼって調査してみるとアメリカ南北戦争も同じようで、戦場から回収された銃(先端装填式)の9割が装填されたままで、さらにその約半数が複数の弾が入っていたそうです。勿論、誤装填や撃つ前に落としたという可能性はあるものの、一番納得のいく理由は「撃つ振りをしてその後弾を込めていた」。だからといって撃たなかった人たちが逃げていたわけではなく、弾薬の補充や伝令、味方の救出など場合によって発砲するより危険な仕事を買って出ていたそうです。
 でも大半の人はそんな話を聞いたことがない。戦場で兵士が人を殺すのは当然。祖国を、仲間を、自分を、家族を守るために敵兵を殺すでしょ?と専門家ですら首をひねったそうです。


 歴史学者として、兵士として、そして心理学者として、私はヴァーグツの批判(注釈:軍事史は常に軍を正当化し権威づける)は当たっていると思う。何千年も前から、戦場に出た兵士の大多数が、同類たる人間を殺すことにひそかにためらいを感じていたのだとしたらどうだろう。職業軍人もその事績を記録する年代記作者たちも、兵士たちを叱咤激励する側なのである。みずからの無能を後代に伝えるようなことをするはずがない。
 情報化の進んだ現代社会では、殺人はたやすいという神話の助長にマスコミが大きく貢献しており、殺人と戦争を美化するという社会の暗黙の陰謀に加担する結果になっている。(中略)だいたいにおいて映画に登場するのはジェームズ・ボンドであり、ルーク・スカイウォーカーであり、ランボーであり、インディ・ジョーンズだ。かれらはあたりまえのような顔をして何百人もの人間を殺してゆく。ここで重要なのは、マスコミの描く殺人も、これまで社会が描いてきた図と同じく実態からはほど遠く、鋭い洞察など薬にしたいほどもないということだ。



 実は戦場で実戦を経験した兵士にとってはこれは別におかしな話ではなく、暗黙の、表立って言えない事実だったようです。「兵士は敵を殺す」神話は一般常識や文化、深く考える必要のないものとして人々の意識に塗布されていたわけです。実際には人を殺すなんて怖くてとてもできたものじゃない。できれば殺したくないし、殺さないよう見逃すことも多々ありました。人を殺すくらいなら死んだ方が(撃たない方が)マシだと(暗に)抵抗する人も少なくありませんでした。だからこそ冒頭で取り上げたように発砲率が極端に低いという現象が起こりえる。
 では、具体的に兵士はどのような動機を持って戦うのか? 死の恐怖心から撃つのか?


 正気の人間なら望まないこと(つまり人殺し、殺されること)を戦場の兵士が実行する第一の動機は、自己保存本能ではなく、戦友に対する強力な責任感である。

 戦闘中の集団内では、この義務(仲間に対する)と匿名性(殺人に個人的に責任を負うという感覚が低下する)とが結びつき、殺人を可能にするうえで重要な役割を果たしている。本書でこれまで見てきたように、人間を殺すのは途方もなくむずかしい。しかし、殺さなければ仲間を失望させると感じれば、そしてその殺人行為に仲間を引き込むことができれば(罪悪感をみなで分かち合うことになり、個人の責任は分散される)、殺人はずっと容易になる。集団の人数が多いほど、集団への心理的な結びつきが強いほど、集団が密に集まっているほど、一般に殺人は容易になってゆくのである。



 兵士への聞き取り調査などを踏まえるとどうやら恐怖心は一般に考えられているほど強いものではなく、兵士達の連帯感、責任感、上手くやりたい、ヘマをしたくない、同調圧力によるものが強いことがわかりました。この同調圧力は戦場においては敵を倒し、仲間を救うわけですがこれが過ぎると今度は虐殺行為へと人を駆り立てることになります。


 人はみな、自分が残虐行為に参加するわけがないと思いたがる。必要ならば、仲間や上官にそむき、武器を向けることさえできると。だが残虐行為の環境には、同輩や指揮官に立ち向かうのを妨げる重大な要因が関わっている。まず第一の要因は、集団免責と同輩の圧力である。
 (中略)
 残虐行為の場で反抗をむずかしくする強力な要因はもうひとつある。それは、テロ行為と自己保存の影響である。いわれのない暴力的な死を目の当たりにするのは、衝撃的かつおぞましい体験であり、それに対して人は原初的な深い恐怖を感じる。残虐行為によって抑圧された人々は麻痺状態に陥り、服従と従順という学習性無気力状態に落ち込んでゆく。いっぽう、残虐行為を行う兵士のほうもこれと非常によく似た影響を受ける。残虐行為によって人の命の重みは著しく低下する。そして兵士は、自分自身の命の重みも同じように低下していることに気がつくのだ。



 話を整理すれば、人は人が思っているよりも人を殺せない。しかし状況や条件が噛み合えば比較的容易に人を殺すことができる。殺人の罪悪感についても敵と顔を合わせる至近距離でのストレスが最も強く、距離が離れるとともに薄まり、また機械を介在するとなお一層薄まることがわかっています。例えば至近距離で銃殺すれば兵士の罪悪感は非常に強くなるのと同時に、殺意を向けられた側も強烈な不安や恐怖感を受けます。これが空爆による無差別遠距離攻撃になると攻撃する側も罪悪感が分散され、また受ける方も一種の自然災害と捉えるようです。それを裏付けるように長期間空爆に晒されたドイツ国民を調査した結果、PTSD(精神的疾病)の発症率は平時とほとんど変わらなかったようです。人間は殺した(殺された)という事実にではなく、それがどのように行った(行われた)かの解釈、受け取り方によって心理的作用が大きく変わる。事故や自然災害で人が亡くなってもある程度受け入れられますが、それが明確な殺意による殺人であれば困惑し、憤り、深く傷つく。


 第二次世界大戦の調査結果を踏まえ、その後軍で取り入れられた訓練プログラムによって兵士の発砲率は9割以上を達成します(その内何割が本気で何割が威嚇に留まっているかは不明)。この事実から考えるとよく映画であるような特殊部隊が現地ゲリラを圧倒するのは決してフィクションでは無いようです。特に至近距離での撃ち合いとなれば訓練の差は大きく出るでしょう。
 しかしこのような訓練を積んだとしても、反射的に人を殺せるようになるだけで、人そのものの精神がそれに完全に対応できるわけではありません。むしろ現代の戦争は、大量の殺人を可能とし、戦闘期間を長期化し、兵士の社会復帰をより困難なものにしています。本書でも言及されているように、過度のストレスを受けた兵士はその精神的負担をやわらげるために意識、無意識問わず合理化を図ります。自分が行ったのは当然だった、直接殺したところを見ていない等々。兵士の視点に立てば、戦場から戻ってきたときに社会的にそれを受け入れ彼らを労うことができれば負担を大きく減らすことができる。実際近代以前の風習を見ても戦士を清める儀式、あるいは冷却期間(戦場から戻るのに時間がかかった)があったのですが、現代は帰ろうと思えばすぐ帰れる上に、帰った途端反戦派からバッシングされる状況が待ち受けています。そのため兵士は孤独になり罪悪感を抱え込むようになっていきます。


 ……私が経験したのは、嫌悪感と不快感だった……私は銃を取り落として声をあげて泣いた……あたりは血の海だった……私は吐いた……そして泣いた……後悔と恥辱にさいなまれた。いまも思い出す。私はバカみたいに「ごめんな」とつぶやいて、それから反吐をはいた。
 この苦痛と嫌悪のコラージュがすべてを雄弁に物語っている。その根っこにあるのは、犠牲者の人間性に対する一種の同一化すなわち共感だという古参兵もいる。なかにはこのような感情に心理的に圧倒されて、二度と人を殺すまいと決意し、それゆえに戦場では役立たずになってしまう者もいる。だが、現代の兵士のほとんどは、この段階で強烈な感情を実際に経験しているにも関わらず、その感情を否認し、内部から冷たくかたくなになってゆく傾向がある。そうなると、以降の殺人はかえってずっと容易になるのである。
 否認するにしても、折り合いをつけるにしても、あるいは圧倒されるにしても、いずれにしても自責の念が消えることはない。人を殺した者の自責の念は現実に存在するものであり、だれもが感じる強烈な感情で、死ぬまで折り合いをつけてゆかねばならないものなのだ。



 ヴィクトール・フランクが「異常な状況に異常な反応を示すのは正常な行動である」と述べたように、人が人を殺さねばならない、あるいは殺されなければならないという状況に直面したときに起こす精神的な変化は平時から見れば異常です。しかしそれは人として当然の反応です。言い換えれば人を殺して平気な人間などいないのです(正確には一部そういう性格傾向を持つ人はいるのですが)。


 人間の身内にひそんで、同類である人間を殺すことへの強烈な抵抗を生み出す力、その本質を理解できるときはこないのかもしれない。しかし理解はできなくても感謝することはできる。この力があればこそ、人類はこれまで存続してきたのだ。戦争に勝つことが務めである軍の指揮官は悩むかもしれないが、ひとつの種としては誇りに思ってよいことだろう。


 人間というのは案外お人好しなのだと思います。『ヤバい経済学』でパンの無人販売を行ったケースが紹介されていますが、回収率が87%を切ることはありませんでした。しかし、だからと言って人間が不正や悪逆さに立ち向かえるほど強いかと言えばそうではない。同調し自ら手を貸す。それが地獄への片道切符だとしても人はそれを握らざるを得ない。その事実から目を背けてはいけないと著者は言います。


ヤバい経済学 [増補改訂版]


[ 2017年05月02日 18:28 ] カテゴリ:本の感想 | TB(0) | CM(-)
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