六畳半のすごし方 TOP  >  本の感想 >  経済で読み解く明治維新(上念 司)

経済で読み解く明治維新(上念 司)

○経済で読み解く明治維新 江戸の発展と維新成功の謎を「経済の掟」で解明する 上念司 ベストセラーズ
経済で読み解く明治維新 江戸の発展と維新成功の謎を「経済の掟」で解明する


 とりあえず、歴史の教科書に書いてあることを真に受けてはいけない。
 歴史解釈や事実関係についてはわりかし変わるらしく、私が学生の頃に習った士農工商は現在記述が消えているそうです。江戸時代の雰囲気についても封建的で農民は苦しく貧しいイメージでしたが、他の本を読むと分権的で生産技術の向上によって年貢負担は相対的に下がったという記述も目にします。
 個人的な見解では、江戸時代末期には手工業制資本主義社会として完成されており政治・経済・技術力も先進国と同等(機械化されていないだけ)という認識。そもそもの事実として、明治維新後近代化して日清・日露戦争を勝ち抜いたわけで、こんだけの金と技術力とインフラと教育レベルが一朝一夕に獲得できたはずがなく、江戸時代末期の時点で基礎レベルが完成されていたと考える方が自然です。
 じゃあ、何故江戸時代は終わったのか? 大名も含めてみんな借金まみれで経済的に行き詰まっていた、という話はよく聞くんですが今ひとつ金の流れがわからない。特に薩長は借金していたのに何故クーデターを起こせるだけの武器を持てたのか? そこんとこを纏めたのが本書になります。


 徳川家の石高は400万石。一大名として見れば十分でも全国3000万石の中央政府としては貧弱。すわなち最初から経営的に終わってました。諸藩に対する徴税権は徳川にはありません。それをやろうとした豊臣に反旗を翻すことで政権をとった徳川がそんなことをすれば約束が違うということになって反発は必至。慢性的な赤字体質を抱えて幕府経営がスタート。
 ただし徳川にも切り札があって、それが全国にあった金山銀山からの収入。これをいいことに3代家光までは放蕩の限りを尽くす。これには諸藩の大名に対するご機嫌取りもあり、経済消費の点でも悪いことではありません。また、何かと徳川の悪行として名高い参勤交代は大名の方からすり寄ってきた節もあり、幕府から節約しろとの御触れが出されたことからも大名が財政難になったのは結果論というのが現在の説。
 頼みの綱の金銀が底をつくと、貨幣の改鋳を実施。具体的には小判2枚で新小判3枚を発行。名目上の金が1.5倍になり幕府は500万両の通貨発行益を手に入れます。貨幣の流通量が増えたおかげでインフレ傾向となるも消費が促進されて好景気を迎える。これは現在では当たり前になっている管理通貨制度の先駆けで、当時は世界的に金本位制が標準でした。つまり何らかの(主に貴金属)の裏付けがあって通貨が発行される制度。人の顔が描いてある紙切れが1万円の価値を持つのはそれを発行している日本国に信用があるからで、中央政府の信用力が江戸時代にあったと考えられます。
 とはいえ、完全に管理通貨制度に移行していたわけではなく、享保の改革で見られるように金貨の質を上げる政策もとられており行ったり来たりしながらも貨幣流通量に悩まされていた節が見受けられます。本来なら生産力と貨幣流通量はバランスを取る必要があったのでしょうが、この時代にそんな理論も統計も技術も無かったので無理な話。その代替手段というか緩和策として藩で独自に発行する藩札が多く使われるようになったようです。言い換えれば多用な決済手段と交換レートがあり、それらを使いこなしていたとも言えます。

 ここまでをざっくり年表にすると以下のとおり。

1603年 徳川家康、征夷大将軍に任命。
1628年 奢侈禁止令
1643年 金銀採掘が限界を迎える
      4代目家綱 600万両相続
1655年 主な輸入品 生糸、絹織物、皮革、香料、薬種、砂糖
      主な輸出品 金・金製品、銀・銀製品、銅・銅製品、樟脳
1657年 明暦の大火(江戸燃える)
1670年 河村瑞賢、海上輸送インフラを整える
1673年 三井高利、大名貸から町人向けのアパレル業に転向。これが「三井」であり「越後屋」
1680年 家綱没(この時点でストック100万両以下)
1695年 貨幣の改鋳(通貨発行益で500万両ゲット)
      1695年~1706年までのインフレ率は33%で年利3%程度のインフレ。
1688年~1704年 元禄文化 好景気
1716念 享保の改革
1782年 大飢饉発生。財政状況が悪かった諸藩は備蓄米が無く(あったら売ってた)、米価格が高騰。しかしこれにつけこんで民間の商船が大躍進(この当時海運業は幕府の認可制だったが有名無実化する)。民間ルートが開発され価格競争も起り安価で大量の輸送が可能になり、農業生産力の向上もあって米以外の付加価値の高い作物が生産されていくようになる。


 徳川の専横的なイメージの一つである奢侈禁止令は上記にあるように、この当時の日本は輸出品が事実上存在せず、支払いを金銀に頼っていたことからそれを阻止するためだったとする説明は説得力があります。上記のとおり1800年頃には農業生産は米だけでなく付加価値の高い作物を作り流通できるようになっています。この後、日米通商で為替レートやっちゃった事件が発生。金貨と銀貨の交換レートに不備があって外国に金が大量流出しちゃった有名なアレ。これも管理通貨制度の弊害というか仕組みが複雑で外交官が理解してなかったのが祟ったわけですが、その副次的作用で銀貨を大量に発行したため価値が落ちてインフレ(50年で9倍)が起きて、銀立て借金が相対的に緩和されたというオマケが付きます。また、国際的には円安になって生糸の輸出が急騰したという背景にもなっています。日本の生糸産業は昭和初期まで輸出の主力であり続けます。後述するように幕末~明治初期にかけて借金の踏み倒しや精算が相次ぎましたが、意外とバランスが取れていた模様。


 さて、諸藩の方はというと、初期の豪遊癖がなかなか抜けず借金しすぎて(金の無い徳川の代わりに公共投資をさせられたりもした)1800年前半には領民への徴税権すら金貸し業者に渡してしまう大名も。じゃあ年貢を上げればいいじゃない、となるが石高制に問題があって、米を作れば作るほど価格は下がるため本末転倒な状況。そもそも税金の取り方が悪い。おそらくだけど、この時代に金が無いのは上の連中で、商人以下の人々は売り買いを通じてキャッシュがあったのではないかと。
 では如何にして薩長はこの問題を切り抜けたのか。それは借金の踏み倒し。いわゆる250年ローン。正確には藩の財政を優良な収益のあるグッドカンパニーと赤字垂れ流しのバッドカンパニーにわけて悪い方を藩の帳簿に、良い方を藩主の財布に紐付けて二重帳簿化。これによって莫大な借金を抱えつつも潤沢なキャッシュを持つことが可能になって、その後の明治維新の資金源に。なお、廃藩置県では土地を手放す見返りに藩主に10%の家禄特権を付けることで手打ち。諸藩が持っていた借金は一部破棄の上精算。
 結局、明治維新とはゾンビ企業ならぬゾンビ藩を潰して中央集権化、徴税権を統一化することで財務体質の抜本的見直しを図ったと考えても良さそうですね。


[ 2016年08月24日 20:20 ] カテゴリ:本の感想 | TB(0) | CM(-)
トラックバック
この記事のトラックバックURL