六畳半のすごし方 TOP  >  本の感想 >  サマー・アポカリプス(笠井 潔)

サマー・アポカリプス(笠井 潔)

サマー・アポカリプス (創元推理文庫―現代日本推理小説叢書)

○サマー・アポカリプス  笠井 潔 創元推理文庫

 思想対決とミステリーを融合させた誰得小説の第2弾。(「哲学者の密室」はシリーズ4弾)
 今回はシモーヌ・リュミエールことシモーヌ・ヴェイユと対決する。なお、私はヴェイユを知らないのであくまで本作の登場人物であるリュミエールについて書いています。下記の抜粋は元の文章が長かったので行間をかなり抜いています(それでも長い)。


 「でも、虐げられた者はどうなるのです。惨めな難民たちはどうなるのです。収容所群島で呻き声をあげている無実の囚人たちはどうなるのです。餓えで下腹を膨らませた、今世界のいたるところで死にかけている子供たちはどうなるのです。あなたは、それも運命だ、〈すべてよし〉と咳くだけでこれらの悲惨の一切を、暴力と蛮行の一切を承認していくのですか。ほんとうに、それで済むのですか


 「カタリ派の人びとは、この世界が悪で満ちていること、この世界には神が不在であること、この世界は兇悪な暴力と権力が支配する場所であることを熟知していました。(中略)わたしたちのなかには、この世界を支配する悪、邪悪な力を決して承認できないなにかが含まれています。マチルドのなかにだって、それがあったのです。わたしたちのなかに、虐げられた人びとへの憐れみと愛がある限りでのみ、視えない世界、善なる世界の存在が確かめられるのです。あの、無力な愛、永遠に挫折すべく運命づけられた愛が、狂おしい祈りを呼ぶのです。魂の底から搾り出されてくる、苦しみに満ちた祈りのなかにだけ、神がその存在を示されるのです。マチルドは、この世界が悪に満たされていることを正しく認識しました。しかし、それを自分の力で解決しうるもの、しなげればならぬものと考えた時、あの邪悪な力の理論に憑かれてしまったのです

 「それでは尋くが、ここに邪悪としかいいようのない男がいるとしよう。(中略)無事の千人の子供を面白半分に虐殺しようとしている権力者の前に、拳銃を持った君が立たされたとしたら、いったい君はどうする。千人を救うために君は引金を引くか。いいだろう。しかし、無邪気な千人の子供を救うためにのみ薄汚い卑劣な殺裁者を撃ち倒した者は、既にマチルドと同じ選択をしたことになる。しかし君はマチルドを否定した。では君は、眼の前で千人の子供たちが眼を扶られ、腹を割られ、四肢を切断されていくのを自分の責任において黙視するのか。その時、君の悪への闘いの決意、弱いもの、抑圧されたものへの愛はどうなるのだ。君は分裂し、矛盾している。まもなく君は、この怖ろしい選択の前に立たされることになるだろう。その時、君はどうするのか」

 「不可能になるの……
 「わたしの苦痛、わたしの不幸、それらはただ、ますます強く神の愛を自覚するためだけのものです。たとえわたしが不条理に地獄に堕ち永劫に苦しむととになったとしても、それがなんでしょう。それでもわたしは、たった一瞬でもこの世でわたしを生かしてくださった神に、そして永遠の、完全な、無限の歓びである神の愛を知らしめてくださった神に、永劫の感謝をささげることでしょう。(中略)しかし、それなのに、この確信が根元から揺らぐ、いいえ、自分では何も判らなくなってしまう場合があるのです。それは、……不幸な人を眼前に見る時です。想像のなかでも同じか、それ以上なのです。痛む歯を、赤く膨れ上がった頬を力いっぱい平手で打たれた時のように、一瞬、わたしの神経は激痛で振れ上がり狂気じみた痙攣に襲われるのです。痛む歯ならば引き抜くことができる。その痛みでさえ、神的なものに触れているという体験を深めこそすれ、神への愛を忘れさせるものではありません。しかし、苦しむ他の人たちの存在だけは、引き抜いてしまうわけにはいかない。この激痛が極度の残酷さでわたしに襲いかかる時、……神への愛も、ほとんど、ほとんど不可能になってしまうのです


 真っ先に何を思ったかと言えば、シモーヌは人を助けたいわけじゃないんだな、ってこと。
 彼女の主張の根幹は「貧しい人、虐げられている人を見るのが辛い。それらは世界が悪で満たされている証拠だから。こんな世の中耐えられない!(一応頑張って我慢する)」ってことです。

 確かに彼女は給料の大半を貧しい人達のために使っているしボランティアもしている。けど所詮は私人レベルでのこと。人を助けるために金とコネと頭脳をフル活用したナイチンゲールのようなやり方はしていない。他にもやり方はもっとあるはずなのに、何故か彼女は自分まで貧しい生活をして常に半死半生のような状態になっている。別な理由で命を絶ったものの、おそらくは遅かれ早かれ彼女は先が長くなかったと思う。
 要はね、彼女は社会不適合者なんですよ。普通の人は他人が苦しんでいるのを見たらちょっと同情はするかもしれないけど、私財をなげうったり、自分までボロボロになって世をはかなんだりはしないんですよ。ずる賢く、無関心に、いい加減に柔軟に生きている。彼女はそれができない。普通に考えて、この人おかしいんです。
 別に精神異常者のレッテルを貼るのが目的ではなくて、ここで言いたいのは、感性が極端な人は極端な生き方をしがちだってことです。極端になればなるほど選択肢が減り、柔軟性がなくなり、妥協できなくなる。ある特定の生き方以外はストレスに耐えられなくなる。私もかなり尖った性格傾向を持っているので経験談に基づくんだけど。

 傍から見れば彼女は清貧で高潔に見えるかもしれない。世の中の矛盾や業を直視して、それに向き合おうとしている。けどね、私に言わせれば彼女は単に居場所がないんですよ。彼女にとって現実は地獄そのもの。だから彼女は耐えることによって無理矢理居場所を作りだしている。そのために自分の中に必死で神の居場所を作りだそうとしている。あたかもそこが安全地帯であるかのように。なんのことはない、彼女は自分の感性に素直に生きているだけ。自分の感性に反して何かしようとしているわけじゃない。そんな人が本当の意味で人を救ったり、世の中を変えたり、あるいはたった一人の悪(テロの共謀者である弟)すら倒すことはできない。現実を変えるために生きているわけじゃないから。彼女の視線は自分の中にしか向いていない。
 彼女は自分の意思で餓死するんだけど、それも結局はそれが彼女にとってコストが安かったからだろうと思う。神を失ったり、他人への愛を失いながら生きるのに比べれば餓死した方が楽だったんだろうなって。そもそも彼女は英雄思想を持った自己愛性パーソナリティとは逆に、自己評価は低いと考えられる。英雄にならない代わりに救済されたい。おそらくそれが彼女の望み。苦痛しかないこの世界(ここが被害妄想的)に耐えながら救済へと至る。そのためには餓死も辞さない。普通の人から見ればキチガイじみたコストだが彼女にとってはそれが一番安上がりなのだ。コストの見積もり方はその人の感性や価値観によって軽重が変わる。当然極端なものの見方をする人は極端になりやすい。

 私は決して彼女のような生き方を否定しているわけではありません。自分の感性に素直に生きるということは、その人の適性を限りなく発揮するということでもあって、これが上手くハマれば妥協している普通の人よりもずっと大きな成果を出すことがある。ここはもう結果論でしかありません。
 ただ、こういう何か極端な人が希に思想とか何かに昇華することがあって、それがたまたま何故か人にウケることがある。


[ 2016年07月02日 23:25 ] カテゴリ:本の感想 | TB(0) | CM(-)
トラックバック
この記事のトラックバックURL