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黄金時代(ミハル・アイヴァス)

○黄金時代 ミハル・アイヴァス 訳:阿部 賢一 河出書房新社
黄金時代

 本、物語、インターネット、人生、その他諸々、それらの集合とパロディ。

 架空の島とその島民の独特な文化ついて書かれた本という体裁。二部構成で、前半は島の文化について、後半はこの島独特の「本」について書かれている。
 読んでいる途中でも、読み終わっても思うのが、掴み所がない。本書に本筋と呼べるものは無い。本筋と関係ないエピソードが平気で挿入されるし脱線しまくる。

 類似するもので思いつくものにエンデの『はてしない物語』、マルケスの『百年の孤独』があるが、本書の読みにくさはこれらを上回る。『はてしない物語』は深入りする前に端折ってしまうし(元々読みにくいわけではない)、『百年の孤独』は時系列順になっているから読み進めれば物語が進むことが実感できる。だが本書は袋小路に入っていくので、本をテーマや目的があるものとして読む人には結構辛いのではないかと思う。読んで面白かったかと言えば正直微妙。……なのだけど、それはあくまで本書そのものの話しであって、むしろこの本は連想の呼び水として面白みがある。それこそが本書をパロディたらしめている。

 例えば本文中には哲学をモチーフとしたものが多数盛り込まれている…らしい。私はほとんど気付かなかったけど。
 読んだ人が同様に言及しているのが後半のテーマである「本」について。島民に伝わっている「本」は一冊しかなく、内容の修正・追記・削除は誰が行ってもいい。余白にエピソードや解説を書いてもいいし、至る所にポケットが作られ無数の挿入がなされている。なんなら全部消して白紙に戻してもいい。二次創作の概念がない本(書き込まれたらそれが公式)。この読み手と書き手の垣根がない全員参加型のシステムはインターネットやウィキペディアを連想せずにはいられない。本書の後半はこの「本」に載っていた一つのエピソードがメインになるが、上述したように脱線を繰り返す。もうあれだ、ウィキペディアである記事を読んでいたら紹介されているエピソードや解説が気になって、リンクたどって読みふけっちゃうみたいなノリ。やっている本人は楽しいだろうけど、それを聞かされている方は本筋に戻れよとイラつき、呆れてしまう。

 でも、読んでいて気付かされるのは本筋ってなんだ? という根本的な疑問。
 元々この本はかつて旅行した島について語り手が自由に語っていくスタイルで、別にストーリーがあるわけではない。後半で語られる「本」のエピソードにしても数ある物語の中の一つでその物語が本筋だと決めてかかるのは読者の思い込みに過ぎない。むしろ見方を変えれば、語り手が脱線することで「本」に書かれた多様なエピソードや追加・挿入の実例を見られるのだから良心的とすら言える。けど、普通の読者はそうは思わない。ここに本というメディアの特性がある。始まりと終わりがある。それが小説ならストーリーがあるはずだし、エッセイや学術書ならメッセージやテーマ、結論があると思う。これは紙面が有限で、その中で意味あることが語られているはず(語らなければならない)という思い込みとルールがあるからだ。
 これがウィキペディアやネットサーフィンだったら読者は気にせず自由に飛び回るだろう。興味をひいたブログを開いてもつまらないと思ったならブラウザバックするなり違う検索キーワードを入力すればいい。だったら本も同じように扱ってもいいのではないか?
 最近私はそうしている。本書でも面白くなさそうな記述は読み飛ばしているし、50ページくらい読んでつまらないと思った本は切ることも多い。同じ著者で別な本と内容が被っている場合なら読み飛ばし、切り捨て余裕。自分で好きな本、興味ある部分を取り入れて自分だけのライブラリを作ればいい。つまらない本を無理に読む必要はない。無駄にする時間があるなら他の本を探した方が良い。そうやって自分の記憶、連想、思考を追記・修正・削除し……ん、それってまさに「本」じゃないのか?

 本書が面白いパロディだと思うのは「本」の在り様が色んな喩えに見えること。小説、ドラマ、アニメ、漫画だってそう。これらの物語なんてもはや古くからある使い回しでどれもパクリ、二番煎じ、繰り返しでしかない。古いやつを(それとは知らずに)書き換えたり、オリジナルだ!と言い張っているだけ。新しいものが斬新で正しいわけでも、古いからつまらないわけでも無い。
 あるいは人生なら、果たして本筋と言えるものがあるのか? 仕事が本筋だと答えたら嫁さんから大ヒンシュクをかう。結局は重大な、またはどうでもいいエピソードの積み重ねが人生で、その中から自分の都合にあったものを見繕って「自分の人生はこうだった」と言っているに過ぎないのではないか。他人から見たらクソ脚本だと切り捨てられるかもしれない。

 そのような読みを助長しているのが至る所で行われている相対化。読者を意識した茶々や断り、キリがないほどの蛇足と説明。王がいるのに島民は誰が王なのか知らず、興味も無いなど妙なエピソードも多い。じゃあ何故王が必要なのか。島民はのんびりしていて階級もないのに何故「本」の物語には魔法使いや王、怪物などが登場するのか。語り手はその仕組みを解き明かしながら相対化する。相対化するほどに価値の序列や優劣は曖昧になっていく。指標がなくメッセージ性が薄れる。結局語り手は何を言いたいのか。読み手を不安にさせ負担をかける。しかし、それがこの本を掴み所がないものにし、読者を戸惑わせ、自由な解釈を与えることに寄与している。
 結局この感想も曖昧な文章になっているんだけど、それはこの本が「こういう本だ!」と言い切れないから。10人読んだら10の解釈と連想があって、それでいいんじゃないかなって気にさせる。他の感想記事を読むと人それぞれに本の例をあげていて面白い。ある意味読んだ人の知識量や連想力が試される。そういう本。繰り返すが、読み物としてはあまり面白くない。けど、独特な味わい方ができる。



 作り話は、出会いをもたらす冒険であると同時に故郷へ帰還することでもある。そして、君をある風景に連れていってくれるのだが、そこでは、まだ知らない物語がざわつき、顔のない人物の輪郭が浮かび上がり、闇のなかで口では言い表せない生物や巨大な幼虫が君にすり寄ってくる。その風景を通して、物語が生まれるばかりか、自分に固有の振る舞いや活動や思考も生じるのを理解するはず。その風景で生まれた物語を通してのみ、君は自分自身に遭遇できる。
 (中略)
 そればかりか、君の人生は、この風景で立ちのぼる物語を奇妙なかたちでコピーしたものにすぎないのを知るはず。日記文学が真正なものからどれだけ程遠いか君に説いても、君はくすっと笑みを浮かべるだけだろう。自分から魔術的な物語世界へ足を踏み出さないかぎり、自分自身に遭遇することはない。深遠と思われる日記文学でさえ表面的なものにすぎず、率直に書いたとされる日記もまた痛々しい詐欺でしかない、日記文学の「私」は、島の「本」に出てくるあらゆる王、王子、王妃よりもはるかに現実離れしていて、空想上の不憫な人物でしかないんだ。



 時に日記文学(私小説的な「リアル」とされている読み物と理解していいのかな)よりもフィクション性の強い物語の方が人間の奥深さ、心理、意思を感じることがあるのは、その差し迫ったおぞましさ(口では言い表せない生物や巨大な幼虫への恐怖や洞察)が別な形で物語に現われているからだろうと思う。たまにこういう文章が入っているのもズルイんだよなー。心にズシってきちゃうじゃん。


[ 2015年05月31日 00:44 ] カテゴリ:本の感想 | TB(0) | CM(-)
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