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小公女(フランシス・ホジソン・バーネット)

○小公女 フランシス・ホジソン・バーネット 訳:菊池寛

 言わずと知れた「小公女セーラ」の原作。
 アニメの方はあまり見たことはありません。というのも、子ども心にセーラが毎回可哀想な境遇に居るのが見てて辛かったのと、OPだかEDが妙に侘びしくて。原作もキツイ感じの作品なのかと思ったら、全く違いました。

 最初から最後まで「セーラさんマジパネェ」。この一言に尽きる。
 彼女の境遇は金持ち→貧乏(小間使い)→金持ちなんですが、そのあらゆる断面で彼女の想像力が発揮されています。想像力で日々を楽しく彩るのは「赤毛のアン」も同様ですが、こちらはアンが長じるのに反比例してその想像的世界観が薄くなっていくのに対してセーラのそれは変わることがありません。ここが両者の違いであり、アンとセーラの本質的な違いとも言えるかもしれません。

 極端に言えば、セーラには生まれ持った高貴さがあります。
 金持ちの子女として学校にやってくると瞬く間に人気となりプリンセスと呼ばれるようになります。本来セーラは読書家で、いつも「つもり」になって想像を膨らませる内向的な女の子のため自ら表にでるようなことはありません。が、彼女の飛び抜けた存在感は周りがほっとかない。セーラが嫌いなミンチン先生も広告塔としての華があることを認めざるを得ない。
 彼女の裕福さ、落着いた雰囲気と柔らかい物腰、想像力(自分で作った話を聞かせるのが上手く、また彼女がそれを話すと魅力的に聞こえた)が周囲の人々をウキウキさせていたわけですね。この序盤は周囲がチヤホヤするプリンセス像を映しています。


 一転して貧乏になると今度はセーラの気位の高さが見えてきます。
 父親が破産したセーラはミンチン先生の小間使いとして働く代りに下宿することになります。働かなければ乞食(浮浪児)になる。その意味でミンチン先生はセーラの生殺与奪権を握っている。ところがどっこい、彼女そんなこと気にしないんですね。自分は働く代りに下宿しているのだから、と卑屈にならない。一種の契約でそうしていると言わんばかりの態度。それがまたミンチン先生の不評を買うんだけど、ここにセーラの我の強さ、自立心、教養が見て取れる。このシーンを見たとき、彼女に同情する必要はないのだと気付きました。一人の自立した人間がそこにいる。そしてここからがセーラのターン。
 想像力を駆使するセーラは自分が劣悪な環境にあっても屈しません。自分はバスティーユの囚人だと思えばこれくらい平気だと考えたり、さらには「私の心だけは、いつでもプリンセスだわ。ぴかぴかする衣装を着てプリンセスになっているのは容易いけど、どんなことがあっても、見ている人がいなくても、プリンセスになりすましていることが出来れば、なお偉いと思うわ。マリー・アントワネットは玉座を奪われ、牢に投げ込まれたけど、その時になってかえって、宮中にいた時よりも、女王様らしかったっていうわ。だから、私マリー・アントワネットが大好き。民衆がワアワア騒いでも、女王はびくともしなかったそうだから、女王は民衆よりずっと強かったのだわ。首を斬られてた時にだって、民衆に勝ったんだわ」とプリンセスごっこを始める。
 ミンチン先生に厳しくあたられても、常に胸中では「私がちょっと手を上げれば、あなたを死刑にすることだって出来るのですよ。私はプリンセスなのに、先生は愚かな、意地悪なお婆さんなのだと思えばこそ、何と言われても赦してあげているのよ」と立場を逆転させて乗り切る。
 「あの方は、私がお嫌いなのよ。でも、それは私が悪いからかもしれませんわ。なぜって、私の方でも先生が嫌いなのですもの
 これは子どもにありがちな逆転的発想(自分の思考が世界に反映されると考える)なんですが、見事にセーラはそれをやりきってしまうわけですね。どんなにミンチン先生やラビニアが意地悪でも彼女の心を脅かすことはできない。むしろ彼女(の想像力)が周囲を規定し、それに巻き込んでいく。彼女のプリンセスごっこは徹底していて、自分よりひもじい少女を見つけたときに折角拾ったお金でパンを買って分け与えています。しかもご丁寧に拾ったお金を使っても良いか?と尋ねるほどに。
 この気位の高さは周囲に同情よりも興味と関心を与えて、彼女の支援者が現われる。友達のベッキーはもちろんのこと、隣の家に住んでいたラムダスも彼女を気に入って色んなプレゼントをして、彼女の生活苦を和らげていきます。貧困期におけるセーラは彼女自身がプリンセスであることを望み、その結果周囲の人々が彼女の人間性を認めていく。貧乏生活は一種の修行で、知見をより深め、真に大切な友達を見つけるキッカケを与え、高貴さにより磨きをかける訓練になっている。

 彼女の高貴さが生まれ持ったものだと言えるのは、彼女が環境の変化に屈しないからです。お金を持っていても、貧乏でも彼女のメンタルは変わらない。むしろ強くなる。この物語の面白さは、子どもの想像力、ごっこ遊びが現実に対して勝利することと、それを通してセーラの持つ高貴さが圧倒的な輝きを見せるところにあります。金持ちに戻るキッカケを作ったのも彼女の高貴さ、人柄によるもの。苦境の中でも失わない善良さと強さが最高の財産なのだと暗にほのめかされている。もうね、同情のしようがないんだわ、ミンチン先生やラビニアなんて三下にしかならない。


 想像力によって自分の心をガードするのは現実によくある手段なんですが、これは傍目には憐れさを誘いかねないものです。そのイメージが本書で薄くなるのは、セーラの頭がいいこと、卑屈さがないこと、周囲に理解者がいるためです。彼女の想像力は弱さ(危うさ)よりも強さ(安定)を強調している。また、生まれたときに母親を亡くして父親から「小さな奥様」と呼ばれていたように、最初から娘としても妻としても育ったのも大きく関係しています。
 実際、子どもが大人の役目を負わされるケースでは精神的に早熟になりがちです。作中で精神年齢が実年齢よりも高いと紹介されているのはそのためです(彼女は自分がもうすぐ死ぬんじゃないと思うほど老成している)。ミンチン先生が彼女を嫌うのは彼女が子どもらしくないからです。泣いたり、悪びれたり、物怖じしない。何故ならセーラは最初から妻(大人)を期待されて育っているから。これは近年なら機能不全家族とか共依存とかのテーマで扱われたりするものですが、本作では良い意味で箔付けが行われています。子どもでありながら、大人のような強さと教養を持たせる点でマッチした背景設定だったと思います。
 ちなみに本書を読んでいて真っ先に連想したのが「死の家の記録(ドストエフスキー)」のアレイですね。監獄で不正や悪が芽生えたり堕落してもおかしくないのに毅然とその善良さを発揮し続けた彼の姿に著者は深い感銘を受けています。セーラも同じで、彼女の立居振る舞い、善良さ、高貴さは見るものに恩恵を与えていく。ラストのパン屋さんのくだりがその例。この感想の冒頭から「高貴」と言っている理由はそこにあります。高貴な人間は周囲に恩恵を与える。周囲を感染させていくほどの魅力を持っている。セーラは根っからのプリンセスなのです。

 まあ、ぶっちゃけて言えば、金持ちの女の子が貧乏になっても、良いこと正しいことをしていればそれが報われてまた金持ちになれるよ、っていう教育的エンタメ小説なんですが、子どもが持つ想像力が現実の困難を凌駕しうるカタルシスは大人が読んでも面白いし、人間腐ったら終わりだと教訓ももらえる本ですね。さすが100年以上名が残るだけはあります。

小公女小公女
(2012/09/13)
フランシス・ホジソン・エリザ バーネット

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[ 2014年12月04日 18:50 ] カテゴリ:本の感想 | TB(0) | CM(-)
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