六畳半のすごし方 TOP  >  本の感想 >  バイセンテニアル・マン(アイザック・アシモフ)

バイセンテニアル・マン(アイザック・アシモフ)

 学習型ロボットものの完成系。

 ここでいう学習型とは自分の意思で学習していくロボットの類です。部品を交換していけば永遠に生きられるロボットが人間のように学び自我を持つとき、その辿りつく先は「人間になること」。これがひとつの解答になるでしょう。代々人間の家に仕える執事として生きるのであれば孤独感や人間に使われる道具のイメージが拭えないし、ロボットにロボットの家族をあてがってもごっこ遊びの域を出ません。結局、学習する、学ぶ、知る、個を自覚し権利や自由を主張する、それらの活動は人間らしさであり学習型ロボットのテーマは「人間とは何か」に行き当たります。
 バイセンテニアル・マンは元々中篇くらいの物語で「聖者の行進」の一編として収録されていました。人気があったのか、後にロバート・シルヴァーバーグによって長篇小説として独立しています。また、映画化(「アンドリューNDR114」)もされています。私は元の原作と映画を見ています。


 映画は原作にエピソードを加えることでアンドリューの生き様が詳細に描かれていますが、原作との大きな違いは彼が結婚すること。ここが映画と原作とで雰囲気が異なる点で、それ故に物語の印象も変わっています。原作でも映画でも彼が自らの意思で寿命を設定するのですが、映画では「人間と結婚するため」の印象が強い。もちろんこれは心情的には多くの人が共感しやすいでしょうし、人と共に生き、死ぬラストは彼の人間としての生き様を見せるのに十分かつ正解です。でも、個人的には原作で強く主張されていた人間になりたい動機がインパクトがあって好きでした。あと、原作はロボット三原則の兼ね合いも出てくるので論理的、理性的な主張が強く「人間とは何か」を問う点で色濃くなっています。
 以下の感想は原作をベースとして記述しています。


 元々はたんなる家庭用ロボットにすぎなかったアンドリューが、自由を求めた動機についてこのように描かれています。

 「きみは何故自由を求めるのだね、アンドリュウ? きみにとって、それはどのような意味があるのだね?」
 「あなたは奴隷になることを望みますか、裁判長?
 「しかし、君は奴隷ではないではないか。君は優れたロボットだ。伝え聞くところによれば、並びない芸術的資質に恵まれた天才ロボットだそうだね。自由を与えられたとしたら、君は他に何ができるのだね?」
 「おそらく、今のままだと思います、裁判長。ただ、喜びは増すでしょう。当法廷においては自由は人間のみがこれを享受し得るものであると言われております。わたしは、自由はこれを求める者のみが享受し得るものであると考えます。わたしは自由を求めます

 アンドリューはこの時点で自分で作った木工作品によって一財産築いています。彼の持ち主は非常に理解のある人で、彼の口座をわざわざ作って彼を一人の人間として扱っていました。そして彼は全財産を渡す代りに自由を買いたいと言うんですね。ここで連想したのが自由奴隷(解放奴隷)でした。
 奴隷が自由を金で買ったのは古代ローマが有名です。この時代の奴隷は言葉から連想されるほど酷い扱いではなかったようで、高級奴隷には医者や家庭教師など専門性が高い者が存在しました。戦争で負けた人達がそういう身分に落ちたようですが。後のアメリカであったような黒人奴隷は、奴隷のイメージに近づきますが、ここで単純に奴隷を解放するのが正しいのかと言うとなかなかそうとも言えません。奴隷は教育を受けてない場合が多く、衣食住の提供を受ける代りに労働していたのでヘタにそこから解放されても行く場所が無いからです。元々そうさせるために連れてこられた人々だし、2世、3世となればもはや自活する能力を持たない。そういうこともあって、何らかの後ろ盾や先立つものがなければ解放されても逆に彼らの安全保障を脅かしかねない。独立する、自由を求めるにはその能力が必要になる。アンドリューは自活するだけの能力と財産を保有していた点でローマ型の奴隷に近い。

 ちょっと話しが脇道にそれましたが、アンドリューが主張する自由とは、一個の独立した人格として認めて欲しい。またその権利を得たいという自らの存在価値の主張です。ありのままの自分を認めてくれ。
 だからこそ、今度は自分を人間と認めて欲しいと裁判を起こした際に彼はこう言います。

 「いたって明快なことです。わたしは生存権を主張したい。ロボットはいつ何時解体されないとも限らないのです
 「人間もいつ処刑されないとも限りません」
 「処刑は法的手続きに従って行われます。しかし、わたしを解体するのに裁判はいりません。それなりに権力を持った人間が一言そう言えば、わたしは終わりです。それに…それに…
 「正直に言って、わたしは人間になりたいのです。人間が6世代変わる間ずっとそれがわたしの夢でした

 そう、人間の生存権、自然権ですね。人間とは一人一人尊厳と意思を持った存在であり、何人もその権利を侵害してはならないという近代に生まれた人間の権利を規定する上で前提となるものです。
 最初の裁判長のセリフにあるように、その権利を法的に認めなくてもアンドリューの身分はまず保証されるでしょう。自我を持った唯一無二のロボット、多彩な才能に恵まれた彼が発明したものは人々の役にも立っている。でもそれでも彼はロボットでしかなく、また貴重なロボットだからこそでもある。彼が役に立たない不良品なら取り替えるか破棄されかねないし、価値があったらあったで盗まれるかもしれない。モノとしてしか扱われない。この意味で奴隷的と言えます。
 彼が認めろと言ったのは、まさに自分の存在そのものなのです。

 しかし映画にも出てくるセリフですが、永遠に生きるロボットならみんなは認めるが、永遠に生きる人間は認められません。恐怖や畏怖の対象になってしまうし、ヤッカミもある。だから彼は最後の手段として脳機能が自然劣化して壊れてしまうように改造する。

 「わたしは、わたしの肉体の死とわたしの希望、願望の死を秤にかけた。より大きな死の犠牲において体を生かすこと、これこそまさに第三原則を破ることなのだよ

 第三原則とは人間を守れる限りで自己を守らなければならない規定ですが、彼は死ぬことの見返りとして個人の自由と権利を得る。それが自己を守ることだと解釈したわけですね。生きるために死を許容する。

 話しを最初に戻すと、学習型ロボットとは、つまり成長する人間に置き換えられます。自立し知性と責任、権利を持った人間。人間は死にます。では死ぬために生きているのかと言えばそうではない。誰だってやりたいことがあるだろうし、死にたいとも思っていない。でもやっぱり死ぬんです。本当の意味での真の自由なんてありません。色んな制約がある中で自由に振る舞えると思ってるだけ。でも、それを自分にも他人にも認めてもらえる、許されるからこそ自由は実感できるものになる。

 命が何故尊いのか。それはおそらく生が一回きりのものだからです。権力者であろうと被権力者であろうと金持ちだろうと貧乏人だろうと天才だろうとバカだろうと一回切りしか生きられない。必ず死ぬ。だからこそ尊く、平等なのだと。でも、それが永遠に生きながらえるとしたら、どうなるのか。実際に不老不死の人間がいるわけではないので何とも言えませんが、同胞とは見なさないでしょうし、別の存在として見ると思います。そうなると人間ではない何かになってしまう。
 また、尊厳という言葉には多分に責任が含まれていて、アンドリューが自らの意思で決断したことは彼の尊厳をこれ以上なく高めています。人間とは個々に尊厳と権利を持ち、死をも生の在りようとして受け入れる(場合によっては死を使って主張する)。正真正銘アンドリューは人間になった。バイセンテニアル・マンとは「200歳の人間」の意。


 人間は変な生き物で、自分の信念や正義、存在を主張するために命をかけることがあります。誰かの身代わりになることもあるし、敢えて犠牲的な立場に甘んじることもあるし、極端な話し当てつけに自殺することもある。自分の存在を証明するために命をかけることは人間が持っている強い願望、一回きりの生を超克しようとする試みなのだろうと思います。名を残したいと考えるのもその表れでしょう。永遠を求めながら、しかし命をかける矛盾が人間の面白いところですね。



 最後に、本作のオマージュとして面白い作品があるので紹介。

【第10回MMD杯本選】バイセンテニアル・ガール ~二百周年の少女~
http://www.nicovideo.jp/watch/sm20117041

 初音ミクを使った短い作品ですが、本作の意匠とミクの特性を上手くミックスさせた出色の出来。ラストの回想シーンは原作のオマージュ。原作でも感動的な名シーンです。


聖者の行進 (創元SF文庫)聖者の行進 (創元SF文庫)
(1979/03/09)
アイザック・アシモフ
アンドリューNDR114 (創元SF文庫)アンドリューNDR114 (創元SF文庫)
(2000/04)
アイザック アシモフ、ロバート シルヴァーバーグ 他
アンドリューNDR114 [DVD]アンドリューNDR114 [DVD]
(2009/06/03)
ロビン・ウィリアムズ、エンベス・デイビッツ 他


[ 2014年11月16日 00:57 ] カテゴリ:本の感想 | TB(0) | CM(-)
トラックバック
この記事のトラックバックURL