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ふしぎなふしぎな子どもの物語(ひこ・田中)

○ふしぎなふしぎな子どもの物語 なぜ成長を描かなくなったのか?  ひこ・田中 光文社新書

 ここで、指摘しておきたいのは、なのはやインデックスやナギや「パンツじゃない」という少女たち――女の子向けではないアニメに出てくる魔法少女たちは、『リボンの騎士』や東映動画、スタジオぴえろなどの魔法少女を換骨奪胎し、思春期以降の男(の子)たちにとって都合のいいように加工されて供されたのではなく、それら初期の魔法少女物の正統な子孫なのではないかということです。
 女の子の視聴者から魔法少女物を奪い取ったのではなく、それらが元々内に秘めていた要素が、解凍されて、本来の姿となり、男の子に消費されているだけ、と言ってもいいでしょう。
 逆の言い方をすると、本来男や男の子たちにとって安心・安全な女の子として機能するタイプの魔法少女が、より子ども化されて女の子向けに提供されていたのが、初期の魔法少女たちだったのではないか、と。
 なぜそんなややこしいことをしていたのか?
 それは、テレビアニメが、男の子向けマンガを原作とするか、男の子向け漫画誌とメディアミックスするか、男の子だけを主人公として展開していったからです(制作者は、たぶん子ども向けとして作っていたのでしょうが)。気づいたとき、そこにあるのは子ども向けアニメではなく、男の子向けアニメだけでした。
 だから、女の子向けに特化したアニメを作ろうとして、男の子向けとの差異化を図るとき、方法として思いつけたのは、大人の女を子ども化した像だった。
 そうして造形された魔法少女たちには、元々無理がありました。しかし、時代が移り変わったとき、そうした無理は通らなくなり、または必要がなくなり、彼女たちは、本来いるべき場所へと戻っていったのです。



 まずもって、この本、不必要に長い。
 全8章370ページ、ゲーム・テレビ・漫画・アニメ・児童文学と色んなジャンルに渡って説明するのはいいけど、ほとんどが作品名とそのあらすじの紹介を繰り返すだけの展開で、3章までのゲーム、テレビヒーロー、アニメ(男の子編)200ページは読まなくて差し支えがない。最後の総括で必要な部分を抜き出して説明されているので飛ばして問題がない。主張がないまま作品を紹介し続けるのは読み物としてつまらないし、意味が分からない。論文として読んだら落第点だと思う。逆に言えば後半だけの200ページ弱の読み物と見ればそれなりに要点が纏まっていて、著者の”読み”も面白い。
 特に、漫画やアニメが男の子向け作品を中心として女の子向けより先に出たという事実は当たり前のことだけど重要。これは単純に作り手が男だからで、男の子向けを先にリリースするのは当然のこと。女の子向けの漫画やアニメは数年遅れています。しかし男が作る女の子向け作品だから、本当の意味で女の子のニーズや希望を満たしていなかったことがここでポイントになる。後の女性作家達は男が作った物語を見て育っていて、そこをべースにして女の子向けの物語を取り戻す過程が必要だったという話しは興味深い。
 冒頭の引用は、それを示していて、魔法少女もの(サリーやアッコちゃん)が実際のところ男性視点(願望)で作られた作品群だったという経緯がある。
 女の子向けアニメのヒット作といえばセーラームーン(原作者は女性)だけど、これはどうか。この作品は戦隊ものを女の子でやらせているわけで、男の子向けでは当たり前だったことを女の子にやらせても面白いということが証明された作品でした。もちろん女の子が好きそうなネタや恋愛も入れている。つまりそれまでの魔法少女ものにあったような「(男から見た)女の子らしさ」を排して(格好良くオシャレに)女の子が変身して戦う物語は女の子にもウケたというわけだ。
 が、セーラームーンとて女性性は残る。
 そこで出てきたのがプリキュアで、これとセーラームーンの違いは恋愛を抜いてしまっていること。また、セクシャルな表現もない。恋愛ってのはどうしても性の対象としての女性を提示してしまうからね。つまりプリキュアは結果して「女への成長」ではなく「大人への成長」が表にでる形となって、女の子の成長像の幅を広げいているという見方ができる。もちろん作中で恋愛関係が無いわけじゃないけど、サブストーリーでしかない。プリキュア5のココは著者が指摘するように(女性の活躍を阻まない)安心できる男性として造形されている。
 勝手な憶測ですが、アイカツ!(未視聴)が人気なのもプリキュアが飽きられたとか、玩具がキャッチーとか、色々あるとは思うんですが、アイドルという具体的な仕事を目標にして描かれた作品であることも背景としてあるのではないかと思います。大人への成長という流れ的に。あとは、まあ、親が子どもに見せやすい(プリキュアのように殴る蹴るをしない、高額な玩具が次々と登場しない?)ってのもあるでしょうが。子ども向け作品はとかく親や大人の都合が入り込みやすいのも忘れてはならない点です。親を安心させるために世界名作劇場は原作からかなり改変されています。私が実際に見て比較できるものでは「少女コゼット」は原作をかなり良い子ちゃん風にアレンジしていて別物に近い。

 子ども向け作品、と一口に括れるほど私は作品を多く見てはいないけど、全体的には男女の役割を意識するような(させるような)作品は減ってきているんじゃないかなという気がします。それは子どもと大人の関係もそうで、著者が指摘するように何故成長しなければいけないのか、大人にならなければならないのか?という疑問に現代は答えられなくなっている。ニール・ポストマンが「子どもはもういない」で指摘していたように元々子どもという概念自体近代の発明なので、元に戻り始めてきただけだとも言えます(著者がこの本のタイトルをあげていたのは流石でした)。
 子ども向け作品というのは、結局作っているのが大人なので、その大人達が置かれている環境や社会情勢と無関係ではない。成長という目標や手段に意義を見いだせなくなった現代人は、その結果として子どもに対して「成長しろ」「大人になれ」とも言えなくなってしまったわけだね。早い話し大人が「大人」を定義できないんだわ。まあ、もちろん、別に大人にならなくてもいいじゃん、大人になる大人、大人じゃない大人、大人を拒む大人がいてもいいじゃね?という発想もあるだろうけどね。

 個人的にはだからといって、玉虫色の、奥歯に物が詰まったような言い方をしたような作品なんて見たくもないんだけどさ。
 成長の意義が薄れたからと言って、それで幸せや豊かさが失われたわけじゃない。現代には現代なりの幸せや豊かさがあるはずで、それを物語として形作るのが作家の使命と仕事だろって思うのですよ。日本の漫画やアニメのエンターテイメント性は児童文学に比しても引けを取らないものだと思ってます。児童文学でも離婚や家族崩壊を書いたものが近年は多く見かけられるようになったらしいですが、プリキュアだってドキドキのレジーナなんて完全に機能不全家族がモデルですから。
 昔は子どもには見せたくない現実を隠蔽していましたが、今ではそれが大分薄まっている。では、現実にそのまま子どもをぶちこめばいいのかといえば、私は了承しがたい。やはり子ども達に安心して現実を生きられる道を見せたいじゃない。なんだかんだいっても大人達は大人になって生活しているわけなんだから。その水先案内として物語は多くの可能性を持ったものだと思う。


 それはそれとして、ガンダムに見られるように大人が物語を卒業しないままずっと同じ物語を消費し続けている、という指摘もあらためて思うと確かに。普通物語というのは、想い出になったり、咀嚼されて糧になったり、忘れ去られたりする、つまり使い捨てられていくんだけど、それをずっと持ったまま遊ぶというのも大人が子ども化している、あるいは成長が失われた一つの示唆ではないかというのも興味深いかな。

 いずれにしても、子ども向け作品を語る場合、そこには大人を語るということ、成長とは何か、それは必要かというテーマが内在するわけだね。


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(2011/08/17)
ひこ・田中

[ 2014年11月06日 21:27 ] カテゴリ:本の感想 | TB(0) | CM(-)
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