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じぶん探し系とひきこもり系

 メモ的に。

 じぶん探し系とひきこもり系の最大の違いは、自己イメージの透明性である。それが透明で操作演出が可能なものであるほど、自己イメージは不安定でリアリティを欠いたものとみなされるだろう。したがってじぶん探し系の表現者は、転移や同一化の能力をフル稼働して、自らにとって不透明で咀嚼しにくい特権的な他者に自己イメージを依託する。彼らはしばしば解釈や引用の能力にすぐれており、時代や状況を的確に反映した作品を「症状」として生産できる。
 それを「症状」と呼ぶ理由は、彼らが自らの作品を愛してやまないことによる。彼らの自己愛は、彼らの「症状=作品」によってささえられる。このため彼らは非常に多作になるか、ある時期からまったく作品が作れなくなる。

 いっぽうひきこもり系の表現者は、不透明な自己というリアリティをすでに確保している。彼らにとって、自己とは最初から他者なのだ。したがって自己の内的過程に没頭し、そこに生起するもろもろを表現の素材として利用することができる。その結果、作品はきわめてオリジナルで特異なものとなるが、それが一定の限界を超えて受容されることは多くない。彼らの作品が流通するためには、大きな賞をとるとか、「癒し系作品」といった「誤解のフィルター」を必要とするだろう。「ひきこもり系」作家の場合、作品と生き方のギャップが小さいこともあり、存在そのものが症状化しがちである。
 彼らの自己愛は、自己の不透明性に向けられており、これが内的没頭を可能にしている。作品は一種の排泄物であり、はがれ落ちたかさぶたのようなものなのだ。彼らは意外なほど自らの作品を愛そうとしない。作品は完成するそばから無造作に見捨てられることになる。



 なるほど、しっくりきた。私は完全にひきこもり系なんだけど、まさにこのとおりだわ。つまりアイデンティティが強固があるが故に、自己イメージを具体的なモノとして対象化できる(「最初から他者」とはそういう意味)。その対象化された自己との折衝によって作られた作品類は副産物みたいなもので、別にそれ自体は重要じゃない。あくまで主体は自己。その自己をどれだけ料理できるか、磨けるか、分析できるかってところに興味がある。作品は所詮その過程でしかない。
 対して、じぶん探し系はおそらくアイデンティティが不安定であるが故に、他者にそれを見る。で、共感と同一化によって言わば自分の分身を作り上げるわけなんだな。それが作品になるというか。一つの完成された世界(自己の一部)を作り上げるということなんだろう。たぶん。
 著者も言うように、このふたつは明確に分れるわけじゃないし相互に関係するとも思うけど、指標みたいなもんとしては分かりやすい。

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斎藤 環

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[ 2014年10月27日 23:12 ] カテゴリ:よもやま話し | TB(0) | CM(-)
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