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アドラーが生きた時代と、私達が生きる時代の違い(題材「嫌われる勇気」)

 心理学は哲学から派生した学問で、専門的に研究されるようになってからまだ100年ちょっとくらいしか経っていません。その間に多くの学説と治療法が登場しています。これはまだ若い学問であるとも言えるし、逆に100年も過ぎると社会情勢が変わって人の心性も変わることを意味しています。
 ここでは「嫌われる勇気」を題材にしながら、アドラーが生きていた時代と現代の人々の心性についてツラツラと書いていきます。なお、私は趣味で心理学の本をよく読みますが、体系的に学習しているわけでも専門家でもないので、こんな感じで理解しているという話しです。


 「嫌われる勇気」は自信を失った青年が哲人との会話をつうじてやる気を取り戻していく対話形式の本で、アドラー心理学が分かりやすく書かれています。
 アドラー心理学はその名のとおり、アルフレッド・アドラーという人が提唱したものです。この人はフロイトと同世代の人で、フロイトとは違う見方で人の心理を捉えました。基本的に本書で紹介されているアドラー心理学自体は妥当性・合理性もあり、人によっては目から鱗で、肩の荷を下ろしてくれる考え方です。大筋で私も賛同します。が、本書で登場する青年の心を救うことはアドラー心理学では無理だと思います。実際のアドラー心理学のカウンセリングがどのようなものかは分からないので正確なことは言えませんが、理屈から言えば青年はアドラーよりもコフートが提唱したような自己心理学、具体的には共感と対話によるカウンセリングで改善する見込みの方が強いですし、実際本書の流れから言えばアドラー心理学はあまり役に立っていません。
 この違いがなんなのかを中心にしながら100年前と現在の人の心の違い、青年が本当に必要だったのは何かを見ていきます。なお、アドラーと並んでコフートの名が多く登場します。アドラーが生まれたのは1870年、コフートは1913年、彼らが生きた時代は50年程度の違いですがこの差は無視できないものと考えられます。


①アドラーが対象としているモデル
 まずアドラー心理学の基本的な考え方は、人の苦しみや葛藤は全て人間関係から生じる(人間関係にまつわる葛藤)と規定してます。そしてここがポイントですが、フロイトの精神分析と明確に違うのは精神分析は過去に遡っていくことで原因を探り当てる、つまり今の自分がこうなった原因を突き止めることに主眼が置かれているのに対して、アドラーは逆の発想、今こうしているのはそうしたいからだという目的論的に捉えたことです。
 本書の例で言えば、青年は常に兄に比べられながら育ちました。しかも不細工でモテない。だから自分は苦しくて能力がなくて変われず惨めな今の姿になっていると考えています。このように原因論的な捉え方が精神分析の考え方なんですが、アドラーはそうじゃねぇ、お前はやりたくないから理由をあれこれでっち上げているんだと言います。
 アドラーの考えでは、人は過去を解釈するから、現在の状況が好ましくない時は過去も当然悪いイメージで捉えるのでそれが原因だと思い込みがちだけど、実際にはそれを言い訳にして今の自分を変えたくない、変えない方が何らかの形で好都合だからそうしていると考えます。目的論の利点は人は過去にこだわるのではなく、現在のスタイルにこだわると考えることです。だから「~したいためにそのような態度(行動)を取っている」と捉えるとその人を理解しやすい面があります。

 アドラーは自分は自分、他人は他人、と責任分界点を設けて他人に縛られない、他人の目から解放された生き方をしようと唱えます。あなたが変われないのは本当に変われないからではなく、変わろうとしないからだ、過去なんて関係ねぇ、変わろうとすれば変われるんだ、だって原因があって今のあなたがあるんじゃなくて、そうなりたいと思っているからなんだから変わろうとすれば変われるんだ、という論法です。

 そこでこれを実践するためのキーワードが下記です。
1.行動の目標
①自立すること
②社会と調和して暮らせること

2.この行動を支える心理面の目標
①わたしには能力がある、という意識
②人々はわたしの仲間である、という意識

 さらにこの自立と仲間の意識を持つためのキーワードが「共同体感覚」「自己受容」「他者信頼」「他者貢献」です。
 小さな枠組みにこだわらずにもっと国家や人類などの大きな視点で捉える(共同体感覚)
 できない事があっても良いし、普通であることを認める(自己受容)
 人を信じよう。裏切る裏切らないは相手の問題。自分のすべきことをする(他者信頼)
 人の役に立つことをしよう。人が見ていなくても自分が良いと思うことをする(他者貢献)

 今まで他人の目を気にしたり、他人に認められることばかりを考えてきたけど、それをやめて自分を基点にして捉えて行こうというわけです。自由を得るためには、人に嫌われる勇気が敢えて必要なのだ。自分で自分に責任を持つ。他人のことまで無駄に口を挟むのは他人を支配しようとしたり、自分の都合を優先しようとしていることで、それが葛藤や悩みの源になる。その人が背負うべき責任までを自分が引き受ける必要はないのだと。
 だからアドラーは人の関係を縦ではなく、横と考えます。相手を褒めると優劣の関係になってしまいやすく、結果して相手を操作すること(相手の期待に応えようとしてしまう)ことになるのでやめよう、素直に感謝を伝えようと述べています。


 このようにアドラーが提唱する人物像は自立的で、道徳観が高く、意思と行動力が伴ったものです。これ自体は現在でも一般論的に見て文句のないモデルです。立派です。しかしこれが問題なのです。

 この考え方では青年の苦しみを取り払うことはできません。
 なぜなら、青年は無力感に陥っていて、自分は誰からも相手にされないつまらない人間だと考えている。そんな人に、人を信じろ、自立しろ、人の目を気にするな、人に褒められなくても良いことすれば君は立派な社会貢献者なんだと言っても意味が無いんです。明日生きるためには今日働かないとならない。けど仕事場に行くための交通費が無い。歩いて行く体力もない。連れていって欲しいと頼める相手もいない。そんな人にどうやって仕事場まで行けというのか?

 ここにアドラー心理学の限界というか、対象としているモデルの違いがあると思います。アドラー心理学が対象としているのは(効果が上がるのは)基本的には仕事ができて、正常な状態であれば十分に評価されるだけの力を持った人が、周囲の期待や干渉によって処理能力をオーバーしてしまいてんてこ舞いになっている人です。上司から仕事をガツガツ与えられて、友達に引っかき回されて、パートナーの愚痴を聞いて、子どもの成績に頭を抱えているような、そういう人です。こういう人達には多少人に嫌われてでも自由でありなさい、干渉されることも干渉することもやめて、本来個人がやるべきことを誠実にやりなさいと言った方が効果があります。


②現代の自己愛に悩む人々
 このモデルの違いにはアドラーが生きていた時代と現代との環境の違いが関係していると思います。
 アドラーの時代は人や社会の結びつきが強かった時代です。共同体、国民国家、民族などの思想が根付いた時代で、人々は社会や慣習、文化にどっぷり浸かっていました。自分の居場所、役目、帰属感が強かったと言えます。自己と社会を同一化させることが当たり前の時代でした。だから本来なら自立できるだけの力を持っているのに人間関係の糸に絡まってしまって身動きがとれなくなる人が多かった。コフートはこのような責任に押し潰されてしまいそうになるこの時代の人々を「罪の人」と呼びました。原因を自分に帰してしまい罪の意識を持ってしまったからです。
 しかし現在では個人主義傾向が強まった替わりに社会との同一化が希薄化しています。上述したことと逆、今度は自分の居場所や帰属感を持ちにくくなった。他者に承認されにくい(その感覚を持ちにくい)状況が生まれています。それと平行して昔に比べて自分がチヤホヤされたい欲求が強まったのだろうと思います。このため境界性パーソナリティ障害などのアドラーやフロイトがいた時代にはあまり見られなかった症状が現われるようになってきました。これらは自己愛が正しく満たされない(人間関係が正しく結べない)ことが起因しています。うつ病もこうした背景と関係していると思われます。だからこそ、コフートはこの人々を「悲劇の人」と呼び、相手に共感して受け入れることの意味を提起しています(コフートは人が依存することは当たり前のことだと考えました)。
 ざっくり言えば昔は世間の目や社会性を気にしたのに対して、現在は自分のことを気にするようになったと言えます。本書の青年は現代型と言えます。


 自分に自信を持つためには、自分が人から受け入れられている、認められているという承認欲求が満たされていなければなりません。しかしアドラーは他者からの承認は要らないと言います。その承認は「他者貢献」をつうじて自分で満たせばいいと言います。また、自分を信じろと。これではタマゴが先かニワトリが先かの話しになってしまいます。
 では、本書の青年はどうやってやる気を取り戻したかというと、哲人と話し込むうちに、彼に友情を感じ始めます。彼に励まされ、彼から友達だと言われたんですね。これ、普通にカウンセリングなんですよ。人生相談というか。別にアドラー心理学じゃなくてもいいというか。青年に安心感と自分が変われるかもしれないという示唆さえ与えられればなんだって良かったんです。

 勿論アドラーの考えは現在でも有効性はあります。彼がいた時代と同じような苦しみを持つ人は大勢いますし、責任感が強い人、人間関係に疲れている人には良い処世術を教授してくれるでしょう。Amazonのレビューを見れば如何に「嫌われる勇気」によって勇気付けられた人が多いかが分かります。しかし、自分を見失い、不安と孤独を抱えた人にとってはアドラー心理学はハードルが高すぎると思います。
 正しく自分を肯定できない、愛されていると実感できない、信頼関係を結べない。そのような人達が少なくない。コフートとほぼ同時代人のフロムは利己主義と自愛についてこのように述べています。

 「利己主義と自愛とは同一のものではなく、まさに逆のものである。利己主義は貪欲の一つである。すべての貪欲と同じく、それは一つの不充足感をもっており、その結果、そこには本当の満足は存在しない。貪欲は底知れぬ落とし穴で、決して満足しない欲求をどこまでも追求させて、人間を疲れさせる。よく観察すると、利己的な人間は、いつでも不安気に自分のことばかり考えているのに、決して満足せず、常に落ちつかず、十分なものを得ていないとか、なにかを取り逃がしているとか、なにかを奪われるとかいう恐怖にかり立てられている。
 この一見矛盾した謎は容易に解くことができる。利己主義は、まさにこの自愛の欠如に根ざしている。自分自身を好まない人間や自分自身をよしとしない人間は、常に自分自身に関して不安を抱いている。彼は純粋な好意と肯定の基盤の上にのみ存在する内面的な安定を持っていない。彼は自分自身に気を遣い、自分のためにあらゆるものを獲得しようと貪欲の目を見張らなければならない。彼には根本的な安定と満足とが欠けているからである。これと同じようなことは、いわゆるナルシス的人間にも当てはまる。彼は自分自身のために物をえようと腐心するかわりに、自分自身を賞賛することに気をかけている人間である。このような人間は、表面的には自分自身を非常に愛しているように見えるが、実際は自分自身を好んでいないのであり、彼らのナルシシズムは――利己主義と同じように――自愛が根本的に欠けていることを、無理に償おうとする結果である。フロイトは、ナルシス的人間は彼の愛を他人から却けて、それを自分自身にさしむけていると指摘した。この説の前半は正しいが、後半は誤っている。ナルシス的人間は他人をも自分をも愛していないのである
」(フロム「自由からの逃走」)


 自己愛というと利己主義やナルシズムを連想しがちですが同一のものではありません。自分には価値がある、自分が好きだ、自分に自信があるという気持ちを適切に持つことは情緒の安定、意思の強さ、他者への信頼感の源になります。逆に自己愛が欠けて渇望するほどになると、利己的な行動に走り自分の都合しか考えられなくなってしまう。このように現在は自己愛や自己肯定感は安定的な精神に必要不可欠なものだと考えられるようになっています。
 アドラーは劣等感の概念を生み出しました。劣等感自体は努力の源にもなるので悪いものではありませんが、これに囚われすぎてしまうと正常な機能を失ってしまいます。フロムのこの言葉が分かりやすいでしょう。

 「心理学的な意味では、力への欲望は強さにではなく、弱さに根ざしてる。それは自我がひとりで生きていくことが不可能であることを示している。それは真実の強さが欠けているときに、二義的な強さを獲得しようとする絶望的な試みである」(フロム「自由からの逃走」)

 必ずしも現代人が愛情に不足しているわけではありません。むしろ十分に愛されている(注目や手間暇をかけられている)にもかかわらずそれに満足を覚えない場合もあります。そうした飢餓感、物足りなさが上述したような力への渇望、具体的には注目を浴びたいとか、人より優れていたい、人の中に埋没したくないという行動を生み出していくと考えられます。逆に劣等感が強すぎると打ちのめされて青年のように回避的な行動に出る場合もあります。


 フロイトやアドラーがいた時代は比較的道徳観が強くて、なんていうか「如何に一人前になるか」みたいな発想を感じます。フロイトはかなりマッチョな人で、癌にかかってもモルヒネを使わずに耐えていたほどです。その鉄人ぶりを見た弟子達が「やっぱフロイト先生すげー」と思ったかどうかはわかりませんが、それもまた支持者を集めた理由の一つかもしれません。

 アドラーにしても、褒めてはいけないというのは合点がいきません。褒めることが上下関係を前提とした上からの言葉で、相手を自分より劣った存在と見なしている行動だという見解に同意しかねます。必ずしもそうではないと思う。他者からの承認は自尊心や自分の価値を計る意味で非常に大きな意味を持ちます。社会人ならまだしも、子どもや学生はどうしても上下関係になってしまうし、そもそも人は他者に褒められたい、認められたい、優越感を持ちたいとも思う生き物なので一概に「褒める」ことと「感謝する」ことを分けるのは難しい。大抵の人はごっちゃに捉えているはずです。相手に感心したことを「すごいね」「良かった」と表現することはごく当たり前なことだし、それを自信や勇気に結びつけることも自然でしょう。
 人間関係はそもそも相手を操作してしまう(そうならざるを得ない)もので、互いにそれをやり取りすることで絆や信頼が生まれるものです。操作とは言い換えれば相手に影響を与えることで、まさにそれが相手に対する自分の存在感、有意性の証明にもなる。私だからあなたが応えてくれた、あなただから私はこうしたい。自立と依存の関係は繊細で曖昧です。アドラーの考えもちょっとマッチョすぎるというか、イデオロギー(思想)が強い。人間の欲求の多様性、曖昧さ(人間は結構アバウトな生き物)を軽視しているような気がします。ちなみにアドラーは社会主義に思い入れがあったそうなので、人の変革、目的論的な革新を目指す彼の思想は社会主義思想と比較的通じるところがあるようにも思えます。

 また、アドラーはトラウマや原因論を否定していますが、愛着障害や虐待、トラウマなどは比較的最近研究されだした事象で、これらを目的論で説明付けることは無理があると思います。
 確かに人は過去を解釈し、そのイメージを改変することはできるでしょう。当時は辛い想い出でも、時が経てばあの経験が自分を強くしたのだと思えるかもしれません。しかし、敗北や無力感、自己卑下が絶え間なく蓄積され、同時に他者に対する不信を積み重ねたその記憶と処世術は身体に染みつくのです。現実を変えられたと一度も思えたことがない人に、自分を変えろ、自分が変われば世界は変わるのだと言うことがなんの励ましになるのか。仮に「~したいために」過去を言い訳にしているとしても、その言い訳したい気持ち、動機は軽んじられるものではないと思います。その人が生きてきた証しであるし、生きるための処世術でもあったはずです。それを尊重しつつもよりよい生き方、豊かさを得られるものへと自分を変えられる、もっと自分を好きになって自分から変えたいと思えるような勇気付けを与えていければいい。人から嫌われる勇気ではなく、自分を好きになるための勇気が彼らには必要です。それは人から好かれることで、人から受け入れられることで育まれる。依存と自立を相互に繰り返しながら愛を獲得していくことが現代人の課題になっていると思います。


 「愛はある対象を肯定しようとする情熱的な欲求である。その対象の幸福、成長、自由を目指す積極的な追求であり内面的な繋がりである」(フロム「自由からの逃走」)

 「人は『この人と一緒にいると、とても自由に振る舞える』と思えたとき、愛を実感することができます」(岸見一郎「嫌われる勇気」)


 大雑把な説明になりましたが、社会情勢や文化、生活様式によって人の心性は多少変動します。それに伴って悩みの背景や中身も変わってきます。心理学が生まれてからこれまで100年程度ですが、人の心、生き方は変わっています。もちろんアドラーに同意できる部分は多くあるし、目的論は多くの示唆に富みます。上述したようにある程度自立する力があって人間関係に苦しんでいる人や責任感の強い人には良い刺激になる概念だと思います。人の悩みにしても昔型、現代型というように分けられるものでもありません。ここでは代表的な例で比較しただけで、人は一人一人違うので一つの理論で測ることはできません。私は医者でもなんでもないので、どの学説や理論が優れているかはどうでもいいです。色々取り入れて自分なりの人間理解を組み立てるのに使っています。

 心理学に限らないことですが、学説や文献、著書はそれが書かれた時代や思想と無関係ではありません。趣味で心理学の本を読んできて、最近は自己愛関連の記述を目にすることが多くなったような気がするんですが、年代ごとに注目されていることが違うのだと知ったのは比較的最近のことでした。そういうこともあって、自分なりに心理学というか、人がどのような社会に生きて、何を求めているのかを概観する良い機会になりました。



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[ 2014年05月19日 22:25 ] カテゴリ:本の感想 | TB(0) | CM(-)
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