六畳半のすごし方 TOP  >  ドキドキ!プリキュア >  第48話「ドキドキ全開!プリキュアVSキングジコチュー!」

第48話「ドキドキ全開!プリキュアVSキングジコチュー!」

○今週の出来事
①大貝第一中学生徒会長の矜持

 キングジコチューのダイナミックパンチ。レジーナの叫びに一瞬だけ動きが止まります。その隙を突いて脱出するプリキュア。ハートは国王にまだ愛がある証拠だと確信します。キングジコチューは自分の拳を見ながら戸惑っています。ラブリーパッドを通して国王の本体を発見。これ完全にデビルガンダムとレインのあれですね。今週Gガン的なノリで30分ニヤニヤとヒヤヒヤでした。
 レジーナは父の姿に見入ります。
 そうと分かればやることは決まっています。助けに行く、とハート。それを聞いて驚く4人。中に入る気かと正気を疑います。ここまでテンプレ。止めても無駄だと分かっているのでみんなむしろリラックス。本当にそんなことができるのか。エースが尋ねます。
 「できる!
 「あたしを、誰だと思ってるの。大貝第一中学生徒会長相田マナよ!
 大声で叫びます。なお、現時点でもテレビ中継されている模様。自分でバラしましたよ?! この子。
 最終決戦、最終回の手前。でも出だしからドキドキ節。


 衝撃の事実に当然学校では戸惑いの声があがります。学園祭の時に見たハートの顔にマナの顔を重ね合わせた二階堂君は合点がいきます。窓際に立つと大声でマナに向かって応援します。それにつられて学校の生徒達も応援。
 四葉邸ではセバスチャンが最早隠し通せないと困り顔。すると主人が隠す必要はないと答えます。プリキュアが居る空を見上げながら父は大声で応援。セバスチャンも。
 街中からプリキュアを応援する声があがります。まさにヒーローの最終決戦。この世界の人々は絶望なんてしない。
 そんな活況を見せる人々の声にジョナサンは呆気にとられます。生きてました。空飛べないんで陸路で頑張ってたんでしょう。全く活躍する姿が描かれなかったのは省かれたのか、そもそも戦ってすらないのか。アイちゃんも応援。

 「これは…幸せを望むみんなの声。友達を、家族を、この世界の全てを愛するみんなの声!
 「愛を見失った悲しい王様、このキュアハートがあなたのドキドキ取り戻してみせる!

 戦闘再開。レジーナはハートにパパを助けてとお願いします。合点承知、と快諾。前回はレジーナとエースが父親への愛を正しく(健全に)取り戻すのが目的でしたが、今回は父親側の健全化が焦点になっています。
 ジコチュー軍団が周囲を取り囲みます。ベールが現われます。自分はキングジコチュー様の忠実な僕。わー超説得力ない。マーモとイーラも。
 ソードハリケーンとハートダイナマイトで大量浄化。ミラージュとレジーナのコンボ。最終決戦ならではの大盤振る舞い。でもロゼッタは単品バリアで十分。「やっ!マジ!?」お前らノルマか何か課せられてるの?
 捕まったレジーナを救出。自分を心配するソードとエースを見たレジーナに笑みが溢れます。レジーナの父親を心配する気持ちや自分がマナ以外の人にも受け入れられていると実感する描写が丁寧。
 ダイヤモンドシャワーとイーラの激突。先に進ませて!と言うダイヤに、イーラはキングジコチューの中に入ったらタダでは済まないと阻みます。彼は六花の身を案じています。しかしダイヤの意思は変わりません。おそらく彼女も彼の意図を察している。
 「マナは私の大切な友達だから!
 「困ったときには手を差し伸べる。それが友達。あなたなら分かってくれるはずよ
 そう言い残してダイヤは進みます。置いて行かれたイーラは頭を抱えます。明確に和解したとかではないんですが、事実上この二人は対話が成立しています。ドキドキが徹底しているのは対話による解決です。少年漫画の番長対決みたいに拳を交えて理解し合うのではなく、最初から対話のみで戦っています。それはこの物語が人の愛を信じているからでしょう。人の暴力が誤解や迷い、葛藤、行き場を失った感情から生まれているのなら暴力を使わずとも解決可能だ、というスタンス。元々この物語は愛を失ったことから始まっています。


②怪獣大決戦&ミクロの決死圏
 キングジコチューの眼前まで来たものの、侵入するには口から入るしかありません。どうしたものか。ロゼッタが引き受けます。
 ようやく2回目のロゼッタバルーン。何が起こるか分からない仕様は伊達じゃない。特大風船から現われたのは……巨大ランス。このアニメバカアニメだった。カプセル怪獣のノリかよ!
 ランスが巨大化した!?とビックリする妖精達。当の本人もロゼッタの腰で驚いています。本体とは別のようです。
 キングジコチューはやる気満々。「こい!」。もう何だろう、この絵面。ここだけ切り取って女児向けアニメの最終決戦と言われても誰も信じ…あーでも、ジュエルペットサンシャインとかあったしなぁ。対話型のバトルなので緊張感を出すのが難しいことは分かってましたが、だからってこの発想はなかったわー。
 巨大ランスがキングジコチューに突撃。街の被害がやばそうですが、きっと四葉さんがなんとかしてくれる。手が短いのでパンチが届きません。ならばビーム。額の宝石から…でない。今度はキングさんのターン。おおーっと、かみつき攻撃だー。「耳は、耳はダメー」。こんな酷い茶番に付き合ってくれるキングジコチューさんの器でけぇ。
 そんな実況解説付きのどうしようもないバトルが進行しますが、チャンスはチャンス。外のでっかい器はロゼッタが引き受けて、残りメンバーは口の中へ。アイちゃんも一緒について行きます。一応この子も娘です。

 後方からジコチューが追いかけてきます。ダイヤが単独で足止め。最終決戦恒例のあれです。正妻力を発揮。

 内部の開けたところに出ると、陸戦型のジコチューが待ち受けます。当然ここはキュアソードが担当。
 キュアソード先生の次回作にご期待下さい。


 奥に行くと巨大なプシュケー型のオブジェ。キングジコチューの心臓。中央に国王が埋まっています。人型の物体が無数に出現。ジコチュー細胞。ばい菌を排除すると攻撃をしかけてきます。内部侵入もののお約束です。
 回避運動をとりながらレジーナが反撃。やっぱ槍かっこいいわ。しかし警戒した細胞達は合体して巨大化。ここはジコチュー達にとってホーム。通常よりも能力が向上。

 ダイヤの防壁が突破されます。
 「ラケル!
 「おうともさ!」
 「見せてあげましょう! 私達の底力!
 このノリは映画のあれ。
 「プリキュア! ダイヤモンドブリザード!
 自分も巻き込んで氷漬け。マナに願いを託します。

 1話冒頭を思い起こすキュアソードの動き。単身戦い続けます。あの時と違って今の彼女は強くなっている。手刀からホーリーソード、スパークルソードと繋げていきます。しかし消耗も激しい。最後に残ったゴリラジコチュー。ダビィと共に命を燃やします。

 外では怪獣大決戦が継続。劣勢。このままではパッドも持ちません。ちなみに耳がかじられた痕が残っていて芸が細かい。ロゼッタとランスは最後の力を使ってリフレクションを発射。それを囮にして上空から頭突き。巨大ランスは消滅。


③みなぎる愛!
 キングジコチューが頭突きで倒れた隙を突いて、ハート達は心臓部へ肉薄。すでに国王の魂は無いと言う細胞に向かってハートシュート。久しぶりの使用。王さまの愛の鼓動が聞こえた!と譲らないハート。
 「国王は王女を病から助けるために魂を、プシュケーを闇に捧げたんだ
 二度と目を覚ますことはない。ハートシュートを握りつぶすと同時に一斉射撃でプリキュアを追い詰めます。ところがそれがキッカケとなって、自分の家族に手を出すなと国王が目覚めます。
 予想外の事態ですが、しかし細胞は笑います。
 「貴様が娘の命を救いたいと我儘を言わなければトランプ王国の国民達は平和に暮らせていた
 「王でありながらどこまでも家族にこだわる貴様はこの世で一番ジコチューな人間! 全ては自分が蒔いた種ではないか!
 痛いところを突いてきます。
 「違うよ
 「親が子どもを助けたいって思うのは当たり前じゃない。そんなのジコチューでもなんでもないよ
 「家族ってね、すごいんだよ。どんなに落ち込んでる時も励まし合ってキュンキュンできる。だからね、あたしはレジーナと亜久里ちゃん、アイちゃんをもう一度お父さんと会わせてあげたい。そのためならこの命が燃え尽きるまであたしは絶対に諦めない
 「何故ならあたしは……あたしはみなぎる愛キュアハートだから!
 マナさん全くブレません。国王の自業自得、我儘がトランプ王国を滅ぼしたことについてここで問う気が一切ない。彼女は裁判官でも審問官でもない。親子を結びつけたい。ただそれだけ。いつもの人助け。今やるべきは国王を救出してレジーナ達と再会させること。国王の苦しみは愛に根ざしている。それこそが愛ある証拠で、再びこの家族は愛を取り戻せるはずだと信じている。娘への愛それ自体は尊いものだと彼女は思っている。
 プリキュアに世界を救う義務はありません。世界なんて知ったことじゃねぇ。この物語は世界を救わない。救うのは人の心。人を救ったついでに世界も救う。プリキュアの伝統的なロジック。私達は世界を救うために生きてるわけじゃない。幸せになるために生きている。その願いが時に過ちや苦悩を生み出すことがあっても、それでも私達のこの願いは正しい。それを信じて突き進む。それがプリキュアの意志です。このロジックは常にそのシリーズ毎に突き詰められ最終決戦で提示されます。

 ハートの力で細胞達を一掃するも、大型が粘ります。
 「家族の愛だと? ハハ…笑わせるな。娘一人の命を救うために国をめちゃくちゃにされたトランプ王国の民が赦すと思うか?
 ハートを喰らおうとする牙。一閃。キュアソードがハートを抱きかかえて登場。これまでの汚名を注ぐかのような大活躍。今のはアルティマソードだったと脳内補完しておきます。
 「愛に罪はない
 「悪いのは人を愛する心を利用したあなた達よ!
 ソードの一存が王国民の総意ということにはならないでしょうが、人の弱みにつけ込んで利用してきた奴らの尻馬に乗る必要もありません。仮に国王が国民を選んだ(娘を捨てた)としても、ジコチュー達は「お前はジコチューだ」と糾弾するでしょう。ジコチュー達にかかればどれを選んでも不正解(ジコチュー)です。彼らは行為の是非、社会道徳、正義を問うているわけではない。人の心に闇を見つけては言いがかりを付けるのが目的です。
 ジコチュー細胞の主張は要するに、人の愛が罪や暴力を生み出す。愛など信じるからお前達は滅びる。特にジコチューな心をとりあげて愛は否定されるべきものだと主張しています。単純に言えば愛なんて下らない。これには童話「幸せの王子」のような悲劇も含まれるでしょう。裏切られることもある。人間の愛に対する告発を行っています。
 これに対しプリキュアは、愛とは人間の根本原理でそれ自体に罪はないと言います。ジコチューも愛も人間の性。心。ジコチュー組は心の一つの側面に勝手にジコチューなどというレッテルを貼り付けて「ほら見ろ!これが人の醜さだ、悪だ!」と叫んでいる。しかし実際にはプシュケーはピンクと黒と2つあるように見えてもそれらは別個のものではないし、個別に名前が付いていたわけでもなく中立です。ここにおいてプリキュアはもはや愛とジコチューとを分けません。人の心に善悪を名付けない。ジコチューの言葉尻に乗らず罪はないと一刀両断するのは潔い。人が成すべきはその生(心)を燃やすこと。生きる責任と強さを持つ。それを証明するように彼女達はこの1年戦ってきました。愛を投げ出すわけにはいきません。それが人としての誇りを生むのだから。


 国王のもとに向かうレジーナとエースとアイちゃん。どうしよう、ここでレジーナとエースが手を繋いでラブラブ天驚拳とか、王さまが飛びだしてきてやっぱりラブラブ天驚拳とか、もうその期待と不安しかない。
 自分に差し伸べられた手。エースに娘の姿を見ます。彼が愛し求めた人の姿。その手を掴み取ります。エースはアン王女の魂の片割れ。父の愛を知りつつも国を守ることを優先させた心。その心と父とが再び手を取り合うことは、ある意味レジーナの再会よりも大きな意味を持つでしょう。ここのシーンが国王とアン王女の再会になっているのはそのためです。愛故に離散した家族がその愛故に再び形を取り戻していきます。


④みなぎる野心
 断末魔。国王が愛を取り戻すと同時にキングジコチューは消滅します。
 主人が消えたのを見てマーモとイーラは目が点になります。この人達はキングジコチューと連動しているわけではないのか。
 巨大なクッションに座りながら空を見上げるありす。相変わらず四葉財閥は用意がいいですね。
 不思議がるセバスチャンに、ジョナサンはプリキュアがキングジコチューのハートに火を付けたんですよ、と上手いこと纏めます。この人口ばっかだな。

 「成し遂げたのですね…生まれながらに背負っていたあなたの使命を…。見事です。亜久里」
 事の成り行きを知った祖母は誇らしげに言葉を贈ります。


 街にぽっかりと空いたクレーター。これ自動復元されないんでしょうか。
 目を覚ましたマナ達は親に取り囲まれています。変身は解除されています。よくやった、見ていたと親達は言葉をかけます。
 レジーナがマナに飛びつきます。約束を守ってくれてありがとう。大好き。感激したマナは彼女を抱きしめようとしますが、生徒達が駆け寄ってきます。会長の無事を知って喜ぶ生徒達。六花達もその姿を見て思わず顔が綻びます。ありそうで無かったパターン。一般人に知れ渡っていたフレッシュやハートキャッチでもみんなに迎えられることはなかったので、これは珍しい。
 それはそれとして、ジョナサンは国王を真琴と亜久里に支えさせるのを黙認ってどうなの。あんたホント仕事しないな。

 このままスイート式に最終回まるまるエピローグかと思いきやそれは問屋が卸さない。
 「バカめ、闇は永遠に消え去ることはない」
 ベール。キングジコチューの欠片に1万年ぶりに復活したのにずいぶんみすぼらしい姿になったと皮肉を言います。
 「あなたの意志はこの私が受け継ぎます」
 「これで俺はナンバーワン」
 「人間界もトランプ王国もすべての世界は、この、俺のものだ!」


⑤最終回予告
 マントはヒーローの証。幸せの王子ここに見参。


○トピック
 シリアスとギャグの波状攻撃。そしてやっぱり次回予告の全部持っていった感。ドキドキ節全開の48話。最終回のサブタイトルもそうですが、変身の名乗りや必殺技の口上がここぞ!という時に使われるのはグッときます。

 愛とジコチュー、父と子の愛、他者を信じるマナの愛、それらと巨大怪獣が大バトルを繰り広げる神がかった展開。本作の芯が最初からずっと貫かれていたのだと確信する見事な決戦です。人の愛とは人の原理そのもの。愛とかジコチューというような実体があるわけじゃない。ピンクと黒のプシュケーは同じ人の同じ心です。黒い方が悪いというのなら、レジーナは悪い子なのか。そうじゃない。あくまで心の側面でしかない。ジコチュー組はその側面をやり玉にあげ、自分勝手な我儘だと糾弾し愛を非難してきました。しかしそれは勝手なカテゴライズでしかないこと、自分達の都合の良いように利用しているだけだとプリキュアは喝破します。愛が大きくなればジコチューも大きくなる、その逆も然り。ピンクと黒は表と裏なだけ。人のそうした心を認め、信じることがプリキュアの使命なのだとマナは断言します。快刀、乱麻を断つ。


 マナを見て感心するのは、彼女の行動原理がシンプルかつ有言実行なことです。彼女は愛を信じている。それは他者の愛を信じることにも繋がっています。また、人を助けたい気持ちや優しさに価値や意味を見出しているということもであります。人の価値観(物事の捉え方)は、その人の思考や行動に大きく影響を与えます。行動そのものと言ってもいい。マナの価値観は彼女の行動基準そのもので、とても筋が通っていて、それを実現できるだけの粘り強さと力があります。
 マナが自分の考えを行動に移す場合で、特に面白いのが国王関連です。国王を助けることについて、彼の事情を知った人は「娘を助けたいと思うのは心情的に理解できるけど、だからって国王の身分で国民を危険にさらす選択をしたことは好ましくない(国王は悪い選択をした)」と考えるんじゃないでしょうか。でも、これは部外者が国王を助けてはいけない理由にはならない。国民は国王を非難するかもしれませんが、マナの立場から見れば彼を糾弾したり、自業自得だからと放置する理由にはならない。友達と父親を再会させたいし彼自身が困っている。それで助ける理由には十分。彼女のシンプルさ、人助けするのに深い理由や細かい条件を付けない態度は潔い。マナにとっての人助けの基準、どこまでを考えて行動するかをよく示している事例です。
 これはドキドキが提起する愛についても同様で、国王の例は身分的責任の観点が入り込みやすいけど、これが自分の子どもを助けるか他人の子どもを助けかの選択になれば一層難しい問題になります。これで自分の子どもを助けたとしても非難することは難しいでしょう。でもこの物語はそうした優劣、価値観は扱わずにその選択をした背景には愛がある、愛それ自体には罪は無いと強く主張しています。それは、この物語が人の心には善い心と悪い心があるのではないか?という単純な見せ方から発展させて、二律背反する愛の選択を迫るに至ることで心の性質を浮き彫りしたことと大きく関係しています。
 だから本作はもう一度問うのです。愛に罪が無いのだとしたら(その選択もまた正しいのだとしたら)、困っている人を助けることはいけないことなのか?

 マナなら「そんなわけない。私は助けるよ。だってそれが当然だもの」と答えるでしょう。彼女の行動基準はとてもシンプルで筋が通っている。私がここで感心するのは、マナが思考停止に陥らないこと、あれこれ難しいことを考えて足を止めてしまったり、やらない理由をあげつらったりしないこと、自分がやりたいことをやるためにあらゆる手段と情熱を持って望むその姿にあります。
 私も上述したように国王の選択に不義を感じる方の人間です。だからきっと私だったら助けない。さらに言えば友達の家族問題にも首を突っ込まない。他人だから。そうやって理由をあれこれ付けて(その背景には無関心や遠慮や不快感があったとしても)やらない自分を正当化します。人は自分がやることについてはそれほど理由なんてつけない。好きだから、やりたいからで済ませられる。けど、やらない場合は文句を言われないように身を守ろうとする。…っていうのは少し卑屈な言い方なので、別な言い方をすれば、私は、人はやったことで評価されるものだと思っています。自分を評価するときもそうです。やらなかったことをいくら積み上げても点数は上がらない。無回答みたいなものだから。何をやったのか、どうやったのか、その時自分は何を考え、何を決断し、何を叶え、それを見た人になんと思われたのか。そこにその人の評価があると思っている。評価が高ければ素晴らしい人間かと言えばそういうことではありません。これは自分に誇りを持てるか、価値があると思えるかということです。マナは自分を大貝第一中学生徒会長だと自信を持って言い張ります。その姿には誇りと自負、矜持がある。自分でこれまでやってきた実績とこれからもやれるという自信が漲っています。この彼女の姿、自分がやりたいことをやりとげてきた人の持つオーラに私は感心します。私がやりたいことはマナのやりたいこととは違います。でも、自分がやりたいと思ったことに対しては、彼女のようにやり抜いていきたいと思える。
 マナの自信と存在感。最終局面においてさえ、不安など微塵も感じさせない頼れる主人公を描いたプリキュアの実績と自負を感じる部分でもあります。プリキュアのこの真っ直ぐさは清々しい。そこに惹かれます。


 さて、最終回も間近となったので物語を整理していきましょう。ざっくり分けると下記のようになります。
1.悲劇から始まる(作中の時系列上では0話的な位置)
2.マナ達の愛を積み上げる(1~44話)
3.悲劇の根源が判明(45~46話)
4.愛とジコチューの統合(47話~)

1.悲劇から始まる(作中の時系列上では0話的な位置)
 最終決戦で持ち上がった「父から受け取った愛」「世界中の人々の笑顔を守る愛」この二つの選択は、「自分の幸せ」と「他人の幸せ」に言い替えることが出来ます。これは番組当初から六花がマナに言い続けてきた「幸せの王子」問題の延長です。この物語ではその懸念が的中している事例があります。それがトランプ王国の崩壊とアン王女の(実質的な)死です。ドキドキプリキュアには二人の幸せの王子がいて、作中の時系列的に一人はすでに悲劇を迎えたところから物語がスタートしています。プシュケー(心臓)を二つに裂いて物語の舞台から降りるアン王女と、彼女に付き従う真琴は幸せの王子とツバメに見立てることができます。二つの愛を両立することができなかったアン王女はその愛ゆえに身を滅ぼしてしまった人物です。真琴もマナ達と出会わなければいずれ人間界で姿を消していったことでしょう。
 本作が童話「幸せの王子」をモチーフにしていたことは最初から明示されていましたが、プリキュア流に幸せの王子を解釈して物語のコアに組み込んでいたことが分かります。さらにこの悲劇から始まる物語は、単に一つの王国が滅びるだけには留まらず人間界にまで波及していく。要するにこれはまだ序の口で、悲劇の連鎖、アン王女の忘れ形見となった亜久里とレジーナを再び過酷な運命へといざなう始まりだったわけです。
 このように本作は童話同様の悲劇から始まっています。ですが、もう一人の王子であるマナを創造することによって、悲劇に終わった幸せの王子の物語を幸せの王子によって包括し再生させます。それが本作の骨子です。


2.マナ達の愛を積み上げる(1~44話)
 では、マナにどうしてそんなことが可能だったのか?ということになりますが、これについて本作は具体的に積み上げています。
 マナは「自分の幸せ」と「他人の幸せ」を両立させてきました。生徒会の仕事を六花に手伝って貰ったり、プリキュアや私生活についてもありすや真琴、亜久里を巻き込みながらやりくりしています。ここでのポイントはマナだけがそのネットワークを持ってるわけでなくて、時には六花やありすを中心にして度々描いてきたことです。
 そもそも事あるごとにマナを心配する六花にしたって、彼女から見ればマナは他人です。六花は他人であるマナのために頑張ってきた。友達は他人ではない? ではいつ友達を作るのか。どうやって作るのか。他人が友達になる。だからこの物語は友達を作ることから始めました。それもすでに親友がいる中で、新しく友達を作っていくことにチャレンジしました。話しが脇道に逸れますが、スマイルは(話しを単純化すれば)幼稚園に入った子が初めて友達を作って卒園するまでの話しでした。最終回で友達とお別れを決意すると同時に新しい友達を作っていきたいと願う彼女達の意志はそのまま本作に継承されています。すでに友達がいても新しい出会いや可能性に目を向けていくことがプリキュアの(子ども視点に立ったときの)新しいチャレンジでした。
 友達が新しい友達と親しくなることに不安や焼き餅を焼いてしまう友達、そんな友達を優しく励まし支えようとする友達、友達の姿から学んでいく友達。本作は自分と他者を結びつけていく中で幸せや成長があること、時に苦しい想いをしながらも変身していく人の姿を描いてきました。マナにとって六花やありすがツバメであるなら、六花やありすにとってマナはツバメでした。その相互的な関係性を描写してきたことは本作の大きな特徴です。ややもするとマナのスーパーウーマンぶりに目が行きがちですが、六花やありす、真琴達の主体的な視点、決してマナの腰巾着やオマケにならない存在感と矜持はこの物語を立体的にしています。こうした複雑で幾重にも絡み合った関係が人間の生き方である以上、「自分の幸せ」と「他人の幸せ」は切り離せません。この感想で繰り返し取り上げてきた自立と依存がそうであるように、両者は互恵的なものでどちらも人間にとって必要なものです。


3.悲劇の根源が判明(45~46話)
 …というのは個人レベルの話しでは成立しても、アン王女が迫られた国家レベルでの話しでは勿論そう単純に話しは進みません。だからここが焦点になります。「父から受け取った愛」と「世界中の人々の笑顔を守る愛」のために苦しみ、ジコチューに陥ってしまうことがある。それは決して愛が無いからではなく、愛があるからこそ人の苦しみがあるのだという本作のメッセージなのです。普段ジコチューになる人々が良心の呵責に苛むのも、それが愛と反してしまうからです。
 ここでさらにアン王女の答えの出せない選択、答えを出したとしても悲劇へと転がり込んでしまう国王の事情から見えてくるのは愛への絶望です。愛するが故にその愛に行き詰まる、愛で解決することができないという諦め。ハートが冒頭で言ったように彼らは愛を「見失った」のです。話しを幸せの王子に戻せば、結局あの物語も幸せの王子や街の人々を最後まで信じることができなかった、それを信じるよりも裏切られてしまう事の方を信じた結末だったと言えます。読者もあの結末にどこか納得する気持ちがあるはずです。現実は容赦無い。


4.愛とジコチューの統合(47話~)
 マナがアン王女の立場だったらなんとかできたのか、それは分かりません。この物語最大の問題提起は愛が人を傷つけてしまうこと、人の在り様すらも変えてしまうこと、時に愛の前に絶望してしまうことでした。もはや愛かジコチューかという二元論は意味を持ちません。愛とジコチューが表裏一体のもので、善悪の問題ではないことは亜久里とレジーナの生い立ちを考えれば分かりやすいでしょう。上述したようにレジーナは悪い子ではありません。心はその時々で色(感情)が変わるものです。または見る角度によっても変わる。
 ジコチューが指摘したように、愛のために間違った選択、あるいは非難を浴びる行動をとってしまうことはあります。しかしだからといって愛がなければ、私達が感じる「正しい」「優しい」「素晴らしい」ことだってできません。だからこそプリキュアは愛を見失ってはいけない、その辛さや苦しさを受止めながらそれでも愛を信じるべきだと答えます。
 父の愛を優先させたレジーナ、人々の笑顔を優先させた亜久里を融和(レジーナは父親以外との愛を、亜久里は父親への愛を承認)させたのもそれぞれの愛が正しく、また同時に両方必要だからでもありました。その仲介役となったのがマナで、彼女の心の強さ、愛を信じる確信は最終決戦の最中であっても発揮されます。その彼女の愛は、他者(の愛)を信じることでもあったのです。
 マナはレジーナに深く関わってきた反面、他の人々にはさほどタッチしていません。この点でマナは万能ではなく、自分のお気に入りの子にだけ目をかけたと言っても差し支えありません。限られたリソースの中でどうするのか、全ての人は救えない。これはヒーローものの大きな課題です。ハートキャッチはそれ故に個々の人々に深く関わることができなかったし、スイートは絆の醸成に時間がかかったため他者への関わり合いは限定的でした。でも、ここでその考えを逆転させます。そもそも全ての人を救う必要がない。マナができなかった分は他の人達がなんとかする。何故なら他の人々にも愛があるから。学園祭で見せたマナのスタンスがそれです。六花達に限らずマナは周囲に恩恵を与える役割を担っていました。私はこの顛末を見てもご都合とは思いません。事実世の中はなかなか上手いこと回るものです。現実は悲観するほど愛がないわけではない。
 というのが、これまでのお話しの流れです。レジーナや亜久里の個別的な問題はすでにこれまでの感想で述べているので省略します。


 話しが長く横にも逸れてしまいましたが、話しを纏めると、本作は幸せの王子を二重化させることで悲劇に終わった物語を再生させています。これは失敗と成功、善と悪、愛とジコチューのような二元論的な対比ではなく、心や行動の二面性を意味しています。幸せの王子のもう一つの可能性です。また、それらは苦楽を繰り返す人の在り様を映します。悲劇から始まった物語は亜久里とレジーナに過酷な運命を背負わせますが、二人の物語までもが悲劇になるとは限らない。しかし、いつどこで同じ悲劇が繰り返されるとも限らない。
 私がプリキュアから受け取る最大のメッセージは人間の肯定です。この物語は人が抱く様々な想いを否定しない。誰もが陥る暗い気持ちや弱さを切り捨てない。その弱さと醜さから人の強さと尊さを見つけ出す。愛もジコチューも元を辿ればば同じ。「父から受け取った愛」も「世界中の人々の笑顔を守る愛」もどちらも必要。自立も依存もそう。微妙なバランスの上に成り立っている。そのどちらかだけを求めようとすれば人の心は均衡を失い歪んだり醜く変わってしまう。だからこそ常に弛まぬ努力と思考、決断によってそのバランスを保ち続けなければならない。矛盾を内包する人間の強い生き様を見せるこの物語が大好きです。


 キングジコチューとの戦いは愛を持つが故に苦しむ人々の救済と承認でした。愛があるからこそ人は悩み、苦しみ、そして幸せがある。では、愛を完全否定する闇に愛は届くのか、何をなしうるか。次回、堂々の最終回。ベールさんなら絶対やらかしてくれるって私信じてる!

[ 2014年01月19日 17:27 ] カテゴリ:ドキドキ!プリキュア | TB(0) | CM(-)
トラックバック
この記事のトラックバックURL