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第42話「みんなで祝おう!はじめての誕生日!」

○今週の出来事
①親がいない子ども達

 襲撃を受けるトランプ王国。何故こんなことをするのか問う王女に「それはお前が一番よく知っている」と問い返すキングジコチュー。この人達知り合いっぽい。7話の回想シーンで王女の表情が少し陰っていたのが気になりましたが、何らかの事情を知っている可能性が高まってきました。永遠の愛など存在しない。キングジコチューは王女に執着があるようです。実は許嫁で、王女がノッポさんといい仲になったんで…とかのドロドロ展開だったらどうしよう。

 夢から覚める亜久里。この子と王女には何か繋がりがある。


 星座占い。ラッキーアイテムがクマのぬいぐるみと知ってありすはランスに頼みます。が、プイとそっぽを向かれます。何をしているのか問う亜久里に、視線はそのままで星占いと答える六花。先ほどからずっと英単語を覚えています。マナは8月4日しし座。真琴は11月4日さそり座。ありすはふたご座、六花はおとめ座。まるで興味がない六花さん。運命が365パターンしかないわけないだろ、とごもっともな意見。血液型性格トークに絶対入らない人です。私も同意見ですが、私があの手の話しに乗っからないのは単純に話しがつまらないからです。あの手の話しは大抵型に当てはめて終わる。性格について話すのなら、~の傾向を持つ人は~しやすい、考えやすい。関連してこうしやすいというように前後の文脈や、自分は相手とどう接するか、解釈するかといった方向に持っていかないと性格を読む意味がない。占いに普段とは異なる選択肢を与える側面があるなら間違いではないと思いますが、場当たり的で経験として蓄積されにくい気がする。
 話していて六花はトランプ王国にも星占いがあるのかと尋ねます。あるそうです。例によって王女は好きだったようです。好奇心溢れてんなー。

 そんな感じで星座の話しで盛り上がっているところにマナの母が帰宅。マナは亜久里に何座か尋ねます。途端に表情を曇らせるマナの母。「わかりません」。星座が分からないのかと受け取った真琴が誕生日を聞きます。「ですから知らないのです」。バースデーケーキを食べたことがないが、誰かの誕生日にお呼ばれしてケーキを食べることが希望だと答えます。いや、そこまで訊いてないしそこ重要なとこじゃねーだろ、と思うところですが亜久里はそのままの勢いで帰ってしまいます。本人的には気にした風はありません。
 呆然と玄関を見つめるマナ達。母が手招きします。

 亜久里は養子だったと話す母。本人も知っている。血の繋がりは無いけど、本当の祖母と孫のように暮らしている。だから普通に接してあげて、とマナに話します。いいね、私のセンサーがビンビン反応しています。
 知らなかったとはいえ亜久里に悪いことをしたと反省。戸籍上の問題があるので誕生日そのものはあるでしょうが、自分の生まれについて知らないことに変わりありません。何故そんな大事なことを言わなかったのだろう。疑問に思う妖精に「大事なことだから言えないこともある」と真琴が答えます。
 「実はね、私も両親がいないの
 事故で両親を亡くした真琴は孤児として引き取られていたようです。寂しくなかった、王女さまの愛に包まれていた。なるほど真琴の忠誠心はこの頃から端を発しているらしい。憧れや自分を見守ってくれていた人として愛着、憧憬、思慕があったのだと思われます。プリキュアになって王女に近づけたのは彼女にとってまさに夢が叶ったことで、それなのに王女と王国を守れなかったのは非常に苦しいことだったでしょう。話しの都合上真琴の家族を登場させる必要性はないのですが、このように意味付けて整理されると話しの筋と人物の心情が引き締まります。亜久里にしても元々出自が怪しいところがあったし。もちろん、私が注目するのはそんな小手先の設定ではありません。わざわざ養子や孤児の話しを持ってきたということは、このアニメやるきだ。レジーナもそうですが、親子関係や愛情についてこの物語は踏み込む用意がある。

 真琴の話しを訊いてウルウルする一同。余計な気を遣わせたくなかったと答える真琴。どんなに親しい友達でも言えないことがあるとありすも相づちを打ちます。面倒臭いしね。イチイチ自分語りされても相手も困るし。マナが力みながら俯きます。ああ、いつものアレですか。
 「だったらお祝いだー
 ですよねー。
 誕生日がわからないならいつお祝いしてもいい。本人にバレ無いように明日決行。即決即断。


②愛される子ども、愛されない子ども
 王女の部屋でレジーナはボケーっとしています。死んだ魚の目と評するイーラ。前回前々回の出来事を思い返してため息を溢します。「マジでだるいわ」「風邪か?」。違うと答えるレジーナにバカは風邪を引かないと減らず口を叩くも、レジーナは興味なさ気。普段だったらお仕置きしてきそうなものですが。
 マーモがプリンを持って部屋に入ってきます。それには強く反応。プリンを食べたマーモにお仕置き。いつもの調子が出始めたのか、槍を担いで人間界へ。イーラも引っ張っていきます。たぶん、レジーナは段々億劫になってきているのでしょう。マナ達と会うことは彼女に何かを呼び起こしてかき乱す。
 膝を付くマーモ。なんかつぶやいてますがたぶん「やまじ」って言ってます。イーラもそうですが、ジコチュー組は「やまじ」ブームなのか。


 またあの夢。泣いているということはあの出来事は辛い出来事なのかもしれません。そうであるなら王女が氷漬けになって出てこないのもある種の引き延ばし、触れたくない事実がそこにあるからなのかもしれません。しかしそれにしてもプリキュアは王女が一枚噛んでいることが多いなー。
 物音に気づいたのか祖母が部屋を訪ねます。

 暖めたミルクを淹れた祖母は心配事があるのかと尋ねます。毎晩同じ夢を見て眠れない。そう話す彼女に祖母は自分もあなたが大人になった夢を見ると答えます。それを訊いた亜久里は真っ先にエースのことを思い浮かべます。白いドレスを着て、お化粧して、きっとウエディングドレスだと話す祖母。亜久里は祖母の膝にすがりつくと、自分は結婚しないずっと一緒にいると子どものようにダダをこねます。いずれ旅立つときが来ると静かに言う祖母。なんでプリキュアのお婆ちゃんはこんなに大人なんですかね。
 一緒に寝たいと話す亜久里を祖母は受け入れます。レジーナとは対照的。もっとも素の性格では亜久里の方がジコチュー的なのが面白いところなんですが。亜久里は祖母に秘密を持っています。それはもしかしたら彼女に罪悪感を抱かせるかもしれません。自分の全てを受け入れてくれる人への裏切りなのではないかと。次回どうなるやら。


 亜久里がスーパーに立ち寄ると真琴とダビィを発見。ケーキの材料を揃える真琴。「こんにちわ」「ギク」。真琴は自分は剣崎真琴ではないと分けのわからないことを言ってその場を立ち去ります。流石真琴、頭悪いわー。
 今度は花屋の前でマナと六花を目撃。バラを買おうにも予算が足りない。話しかけると、これまた避けられます。
 家に帰るとありすとセバスチャンに出会います。エンカウント率高ぇ。「ギク」。ありすが慌てる姿は珍しい。言葉に詰まったありすはセバスチャンに無茶振り。車内でパンケーキを食べようとしたところ、蜂蜜が切れていて、円家に立ち寄り借りていた。蜂蜜ないハチミツない、ミツないミツない、ないミツ。内密! これを即興で考えた頭の回転に感心したいのはやまやまだけど、それはねーよ。誤魔化して帰って行きます。

 みんなおかしい、と不思議がる亜久里。買ってきた食材を取り出します。あの一件以来ニンジンはOKになったようです。
 祖母が夕食は外食にしようと話します。買い物をしてきたばかりなのに。用事ができた、6時にぶたのしっぽ邸と告げられます。何か怪しい。

 そう思った亜久里は時間より早く来て中の様子をうかがいます。風呂敷をほっかむりしていますが、どう見ても不審者で補導されかねません。小学生のセンスじゃねーな。
 ぶたのしっぽ邸では亜久里の誕生会の準備が着々と進められています。人の手が足りなかったのかシャルル達も人の姿になって飾り付けを手伝います。
 何故?と訝る亜久里に喜んで貰いたかったからだと祖母が話しかけます。さあ、中に入ろうと促します。ただし知らない振りをしなければならない。目配せする祖母に亜久里は笑顔で頷きます。
 誕生会を始めます。メンバーはいつもの。エルちゃんが居ないのが惜しいですが、次回再登場するでしょうか。ロウソクを吹き消して、初めてのバースデーケーキを味わいます。

 ぶたのしっぽに来た一般のお客さんが今回のターゲット。


 ジコチューが襲撃。上手い具合にマナの家族が石化。レジーナはマナが読んでくれた眠れる森の美女を引いて、自分の犯行を説明。ケーキを食べ損なった魔女。誕生日を祝って貰ったことがない子どもがふたり。ひとりは今日初めて祝ってもらい、もう一人はそれをぶち壊すとかせつねーな。
 祖母を亜久里に任せて変身。

 祖母を外に連れ出すと、亜久里はマナ達と一緒に化け物を食い止めると言います。孫の言葉に従いつつも、別れ際彼女を抱き留めます。変身。

 ジコチューを蹴り倒して場外へ。決めポーズで登場キュアエース。人の家の壁をぶち抜くわ、カウンターに堂々と立つわ、この人が愛を語ることに疑問を抱くのですが、指摘したら蹴り倒されそうなので誰もそう言わないのだろうと思います。

 床に落ちたバースデーケーキを見たレジーナは苛立つと槍で突き立てます。エースに斬りかかります。
 「みんなと一緒にバースデーケーキなんか食べたりして、自分がいつも主役のつもりなんでしょう?」
 本音が漏れます。この子が言うと洒落になりません。機能不全家族、子どもが親のために働かなくてはならない家族では子どもは主役になれません。その役を親が取ってしまうか、与えないからです。言うまでもなく彼女達は祝福されません。されたとしても必ずといっていいほど条件が付くでしょう。~できたから、良い子だから。レジーナから見れば亜久里は甘やかされて、チヤホヤされていると映るでしょう。
 ところで話しが変わるのですが、よく「辛い経験をした人は人の痛みが分かる」と言われますが、それは誤認とまではいかなくても甘い認識だと思います。辛い経験をした人が、人に辛くあたることは往々にして見られることです。何故か。彼らは同情や思いやりがないのか。そうではない。まず基本的に人は自分が体験したことを正当化する癖があります。例えば、今では無くなりましたが私が会社に入社したころ、新入社員が朝一番に来て机拭きをするのは当たり前だと思われていました。部活などでも見られるように「下の奴が雑事を行う」ことに多くの人は同意か黙認しています。躾けにしてもそうです。体罰を行っても道徳や倫理を育てることに貢献しないとする研究結果もあって専門家でも体罰に否定的な人はいます。しかし現実には私自身も含め、場合によっては痛みを与えて教えるのは必要だと思っている人は多い。これらの担保は「自分がそうされた(した)」からです。やらされた、やった、それを経て今の自分がいる、問題なかったのだから別にいいだろ、俺もやったんだからお前もやれよ。辛いことを経験すればするほどその人は残酷になれると言われても私は不思議に思いません。自分の痛みが強ければ強いほど、人は他者の痛みに鈍感になり、またそんな自分を正当化する傾向がある。勿論全ての人がそうだとは言いませんが、そうした葛藤、合理化、誘惑を人は抱きやすい。身も蓋もなく言えば、人は他者の痛みを本当に分かることなど出来ない。それを知っている人は、下手な慰めや励ましなどせずただその人を受け入れるのかもしれません。

 レジーナの跳び蹴り。いい蹴りです。マナが割って入ります。「マナ!」。レジーナの声はやはりマナに対してどこか肯定的だ。ひとつの命が生まれてくるのは奇跡なんだ、あなたも私も亜久里ちゃんも。それをお祝いしたいと思うのは当然のことだとハートは言います。前回の流れを引き継いでいます。前回ありすは命そのものを肯定しています。マナはその命の誕生を祝福しようとしている。それは命は等価で、祝福されるべきもので、愛されるものであるという意思です。愛されなかった子は罪や穢れを抱いていることが多い。そうした子ども達を救うロジックはひとつしかない。「あなたに罪はない」「あなたが愛されなかったのは事実であるが、あなたに愛される価値がなかったのではない」ことを信じて貰うことです。自尊心とは命そのものの肯定です。その自尊心から愛が生まれるのだと私は思っています。

 胸がジリジリするレジーナ。連動してジコチューも弱体化。大嫌い!と叫ぶと同時に放たれたハートへの攻撃をエースが庇います。反撃開始。イーラはダイヤが足止め。「や~まじ~」。どんだけ身内ネタなんだ。最高額のアイテムで浄化。


 祖母がおまわりさんを連れてやってきます。しかし何もありません。プリキュアがやってきて退治したと亜久里が答えます。誕生会の続きを始めます。



③次回予告
 まさかの2連続。


○トピック
 情報が開示されてきました。アイちゃんの疑似親子関係を経て、血の繋がらない家族、孤児を持ってくる本作はどこまで踏み込むのか。

 前回の感想でも触れたように、最終個人回の目的、方向性はほぼ定まっています。また、それに合せてその先も見えてきました。
 ここ最近の個人回は終盤に相応しい成長が描かれています。マナの感受性や洞察、真琴の一生懸命さ、ありすの包容力。ドキドキは彼女達が持っている何気ない気持ちや性質が愛として昇華しうることを見せることで多様で多層的な人の愛を映し出しています。真琴だからこそ、ありすだからこその愛し方、伝え方を見せています。それぞれの長所が活きつつ、愛の形が明確になっていく。それは私達一人一人に愛があり、形は違えど人を愛し、人を豊かにしていける力があることを伝えています。
 元々マナ達は高い自立性、コミュニケーション力を供えていて、友情から生まれた自信と経験、意思、決断力を持っています。ややもすると高スペックぶりが目立ちますが、私が感じる彼女達の強さは地頭の良さ、認知、変化・柔軟性です(現実把握と対処力がある)。要は、生徒会長だとか、お金持ちだとかアイドルだとかはさほど重要ではなく、安定した、そして変化にも耐えうる関係性と自己肯定感こそが彼女達の才能を引き上げているのだと私は見ています。自信、自尊心を持つことはある意味で人を愛すること以上に重要です。自信を持つことでより重く苦しい現実にも耐えていけるし、己の決定と責任を背負っていけます。5つの誓い、アイちゃんの子育て、この物語は一年かけて彼女達にその自覚を持たせ成長させています。
 フレッシュ以降、プリキュアは他者を認め、友達を作り、自立してきました。それは大雑把に言えば「他者を受け入れる」ことでした。ここでさらに「他者に与える」ことへと進んでいるように見えます。自立の先にあるのは、愛を与えること、贈り物をすること(スマイルの最終回で書きましたが、私は人に優しくすることは「贈り物」だと思っています)。それは親が子を育てるような愛情に近いのかもしれません。見返りを求めずさりとて一方的でもない。勿論、全てを受け入れ全てを愛するのは難しいし現実的でもない。ですが、他者との健全で愛情深い信頼関係が人の幸福にとって重要なものであることは確かで、マナが示す幸せの王子のように愛の種を蒔くことが必要なのも事実です。
 健全な関係が健全な愛を、健全な愛が健全な関係を、人の愛は贈り物によって大きくなっていく。女児向けアニメの面目躍如ですね。愛を個人の才能や資格に求めることなく、創造していけることが証明できるなら、それは人の豊かさを示すものになるでしょう。

 レジーナの存在はその試金石です。レジーナが登場した時からこの子は物語の中心にいると感じていましたが、今はさらに強く感じます。初登場時のレジーナと今のレジーナは同じではありません。22話で一旦ジコチュー側に戻った彼女はリセットされたわけではなく、むしろマナ達との想い出(の影響)が残った状態で登場しています。それは言うなれば、中途半端な形で愛を引き裂かれた子どもと見ることができるでしょう。彼女は愛情や人との結びつきが極端で偏っています。再登場後のレジーナがマナを気にかけていることは明らかですが、見方によってはマナを試しているとも取れます。自分を構って欲しい、あるいはどうせ自分を捨てるんだろうと諦めている子どものような、そうした不信感、苛立ちをも連想させます。
 一度も愛されたことが無い、あるいは途切れた(裏切られた、見捨てられた、自分の気持ちが蔑ろにされた)経験は人の心を蝕む辛い原体験となり多くの禍根と問題を残します。子どもが愛されるのは当然のことです。それが踏みにじられることに多くの人は怒りや哀しみを抱きます。ドストエフスキーは小説の中で虐待された子どもの例を用いながら子どもの魂が救済のための代価として支払われることに納得がいかないと無神論者に言わせています(「カラマーゾフの兄弟」叛逆の項)。子どもの命とはつまり純粋な命、魂を象徴するものです。子どもの命、子どもへの愛は、命そのもの、愛そのものへと辿るアプローチです。プリキュアは例年終盤戦のテーマがロジカルなのですが、本作はそれに加えて現実的な手法で答えようとしています。いやーもう、テンション上がります。人間の奥深くに踏み込んでいく物語を見ると血が騒ぎます。

 そこに命がある限りそこには愛がある。それを証明するのがプリキュアの戦いです。人が持つ、人の誇りと力を全力で肯定し証明する。友達との関係から人間賛歌へと拡大していくこのダイナミズムこそプリキュアの醍醐味であり、終盤戦の見所です。
[ 2013年12月01日 16:25 ] カテゴリ:ドキドキ!プリキュア | TB(0) | CM(-)
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