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映画「マナ結婚!!?未来につなぐ希望のドレス」

○本編
①前説

 ミラクルブーケライトについてマナ達がレクチャー。この辺の流れはスマイルの映画と同じ。毎回恒例なので映画が始まる前に親御さんが「プリキュアが言ったら振るんだよ」と教えることも少なくないです。今回の映画は細かい説明を省いてその分を本編に当てています。


②みんなの将来は?
 マナを呼ぶ声。部屋に行くと母がウエディングドレスを持っています。整理していたら出てきたらしい。母親が使ったものですが、元々はお婆ちゃんの品だそうです。割とハイカラなお婆ちゃんです。江戸っ子っぽい人ですし、サッパリした印象がありますね。ドレスを母から受けとるとマナはこれを着たいと言います。すると親父さんが相手がいるのか!?と慌てます。
 あくまで仮定の話し。それを訊いて一安心する父。忙しない人です。母はドレスは流行廃れがあるし、所々痛んでいるし、一生に一回しか着られないと娘に待ったをかけます。マナは代々受け継いでいくことにロマンを感じているようです。今回の映画はざっくり言って過去や想い出にどんな価値があるのか、前に進むためにはそれらは捨てられていくのか?というエピソードですので開始早々マナがスタンスを説明しているのは分かりやすい。勿論この後に試練が与えられるわけですが。


 OP。マナの結婚式。列席者の中には亜久里もいて格好からして高校生くらいでしょうか。制服姿がとても可愛い。マナの年齢は20をちょっと過ぎたあたりでしょうか。マナはメンバーの中では一番早いか一番遅いかって気がします。終盤で再び結婚式のシーンが出ますが、そっちは列席者の六花達の髪型や雰囲気が落ち着いて大人っぽくなっていることからも、OPの結婚式は今のマナが想像する結婚式、終盤のは現実にあったとしたら、という感じの違いでしょうか。
 さて、気になるお相手は、イーラ。ジコチューが結婚式に乱入。変身してバトル、という夢オチ。

 学校でマナはドレスの話しを六花と真琴にします。50年前の物とは思えない一品と気に入っています。六花は意外そうにマナの話しを訊きます。総理大臣が夢だから恋や結婚に興味があるとは思っていなかったようです。内心焦っているかもしれません。それはそれ、これはこれ。ウエディングドレスは乙女の憧れだと答えるマナ。
 二階堂君と百田がやってきてもらい手が居たらな、と突っかかります。失礼な物言いに六花が顔をしかめます。これがありすだったら笑顔でクシャポイされます。しかし実際に反応が速かったのは真琴。箒を構えて二階堂君を威嚇します。「そこになおりなさい!」時代劇にハマっているんでしょうか。
 マナが止めます。マナ本人は気にしていませんが、周囲の気が収まりません。六花は男の子は好きな女の子の気を引きたくて意地悪する、と反撃。精神攻撃は基本。分かりやすく反応する二階堂君。ブラフに弱ぇ。真琴もそれに乗っかって好きなら好きと言えと詰め寄ります。もうこうなると実際に気が有るか無いか別にしてこの場に居たくねぇ。そこにさらにマナが乗っかって自分の気持ちはハッキリと伝えろと言い出します。お前は何を訊いていたんだ。
 二階堂君の手を握っておまじないを教えます。近い超近い。きっと六花が鬼の形相で二階堂君を見ていると思いますが、二階堂君はそれどころではありません。で、誰が好きなの? 何故この状況でそこまで鈍感になれる。っていうか話しの流れで何故分からない。二階堂君は逃げるようにその場を立ち去っていきます。百田君は完全に舎弟ですね。昔大きな世話にでもなったのでしょうか。
 マナの鈍感ぶりに呆れる真琴。六花も昔からああいう人なのだと諦めたような声で言います。これはこれで六花さん的には安泰。


 ありすのお茶会でもその話題で持ちきり。ドレスがどうのといっても恋愛関係はからっきし。ありすと二階堂君は面識があるようで同じ小学校だったようです。すでに個人情報取得済みでした。前門の六花、後門のありす。鉄壁過ぎて見た瞬間諦めるレベル。そこからどんな小学生だったかトーク。今と変わらないと話す六花。犬を拾った話しに及びます。名前はマロ。ありありと目に浮かべるマナ。しかしマロはもういないようです。真琴がマロのことを訊いたときの六花とありすのちょっと沈んだ表情をしています。
 話しを変えて将来の話し。マナは六花に結婚はどうなのかと訊きます。来ましたガールズトーク。医者になる夢で手一杯、恋愛や結婚なんて考えられないとキッパリ。この子、才女で可愛いのだから学校でも人気があると思うのですが、マナにべったりなのと恋に興味ないのとで多くの男子生徒が撃沈してそう。しかしこれはこれで視聴者的には六花の地位が安定。流石六花さん!
 「実は」お見合いの話しを何度か打診されていると告白するありす。ああ、君ならそうだろうね。一斉にみんな驚きます。ランスも知らなかったようです。相手は色々。下は5歳から上は65歳。それを訊いて安心したのかどっかと椅子に座る六花。どう見ても政略結婚。65歳の奴は警察呼ばれるレベル。見合いは全て断っている。人としてまだ未熟だし今はみんなと過ごす方が幸せだと話します。いやいや、君すでに現時点でも人として一人前以上だよ、それで未熟だってなら人類の半数以上は未熟以前のレベルになっちゃうよ。
 ありすの話しを訊いて、落ち着きを取り戻すマナ達。この年齢で結婚は具体的な将来像というより遊びや想像の域でしょうから、そこに現実味のある話しが飛び込んできて一瞬焦ったという感じですね。それでもマナは最初に結婚するのは誰か気になるようです。六花はマナだろうと言います。ありすは真琴をプッシュ。芸能界で気になる人は? 話しは尽きません。


③想い出の国の王
 古い映画館が取り壊されます。街の人達は昔を懐かしみ惜しみます。
 その夜、半壊した映画館に人影。どうやらその人影は人間に恨みを持っているようです。ケースからクラリネットを取り出すと演奏を始めます。映写機がガタガタを震え上空へと飛んでいきます。
 ゴミの山でまだ使えると口々につぶやく品々。捨てられた、忘れられた者達の怨嗟の声。基本的な路線は、フレッシュ、スマイルの映画と類似しています。言い換えればフレッシュの問題提起は近年のプリキュアテーマの核心を見事に抜き出していたと言えます。人が生きていく中で得るもの、捨てるもの、出会うもの、別れるもの。そこに私達は何を見るのか。

 車で移動していた真琴達はガラクタが空を飛んでいく異常事態を目撃。
 マナのウエディングドレスも不思議な音色に誘われて動き出します。シャルルがマナを起こしてなんとか食い止めるも、物置にあったガラクタが飛びだしていきます。六花の家でもピアノが豪快に窓を割って出ていきます。今回の事件はジコチューと関係無いんですが、終わった後自動修復されたんでしょうか。人によってはガラクタが処分できてラッキーと思っているかもしれません。
 空を見上げると、ガラクタで作られた巨大なクジラが浮いています。今回はCGの場面が多くクジラは勿論、クラリネットを演奏するときの指使い、終盤のバトルなど今までの映画以上に多くのシーンで使われています。
 想い出の国の王、マシューと名乗るマントの男。マシュー…マロ。白くてモフモフ。マシュマロなにしてるんですか。と開始10分くらいでボスの正体が分かります。現時点でマロの名前がマシュマロから取ったという話しはされていませんが、チラシか何かで読んだような気がします(主題歌2番の歌詞にもマシュマロの単語が出てくるのでそれかな)。マントを脱ぐとより分かりやすくなりますが、マシューは首輪をしていてチラっとハート型の装飾品が見えます。
 マシューはマナに呼びかけます。しかしマナは見覚えがありません。彼女の反応にマシューは失望を覚えます。いや、あんた姿形全く別物になっとりますがな。マシューのマナへの想いは相当なもので、この騒動の動機も全てマナへの想いからです。

 家族が心配して外に出てきます。トラップ発動、キャトルミューティレーション。対象は想い出の世界に引きずり込まれる。
 怪奇光線がマナにも迫ってきますが、こちらも召喚魔法、セバスチャン。ピンクのリムジンが階段を乗り上げて飛びだしてきます。ついでに怪奇光線を出すカメラを破壊。颯爽と登場。ありすがケガはないかと声をかけます。どっちかっていうと、その車に乗っていた君らの方が心配なのですが。
 真琴とも合流。変身。劇場の子どもらのテンションが一気に上がります。やっぱプリキュアは変身してこそのヒロイン。

 マシューは廃品をリサイクルして怪人を作り出します。パープルバギー。シルバークロック。マネキンカーマイン。
 戦闘開始。あっさり勝てます。ダイヤが氷属性を活かしてバギーをスリップさせるのは上手い。ところがクラリネットの音色で怪人は再生。ホーリーソードで一掃するもまた再生。キリがない。映画でハート以外の必殺技が全て使われるのは面白いですね。
 こういう時はヒーラーを叩く。マシュー目がけてフォースアロー。防御。マシューは反撃にイレブンファングをお見舞い。めっちゃ犬です。直撃を受けたプリキュアは変身解除して一気に窮地に陥ります。
 それでも諦めないマナは傷つきながらも立ち上がろうとします。そこにセバスチャンが駆けつけ脱出を試みますがリムジンがファングで破壊されます。RPGの直撃にも耐えそうなリムジンが一撃で!?
 セバスチャンも想い出の世界へ。マナ達はまた帰ってくると決意を込めた瞳を向けながら想い出の世界へと引き込まれます。

 マシューは他の人々を想い出の世界に入れるためにその場を離れます。戦闘跡から這い上がるシャルル達。万事休す。そこに見慣れぬ妖精が現われます。


④想い出の心地よさ
 かけられる言葉。朦朧としながらマナは夢を見ていたと、先ほどのことを話します。相手はずいぶんと具体的な夢だと相づちを打ちます。覚醒したマナは目の前に居る人物の顔を見て驚きます。他界したはずの祖母が座っています。マナが寝ぼけていると思った祖母は夕飯の支度をすると部屋を出て行きます。鏡に映る自分の姿に驚くマナ。机の上には小学4年生と自筆のノートが置かれています。マナは漢字で「相田愛」と書きます。マナは困惑しながらも、母なら憶えているはずだと買い物から帰ってきた母に尋ねようと玄関へ。そこにはマロが一緒にいます。それを見たマナはさきほどまで頭にあった疑問は消えてしまい、思わぬ再会に感激。

 マシューはマナが見る想い出を見つめながら、満足そうな笑みを浮かべます。

 見知らぬ妖精はシャルル達にマシューのことを教えます。人間達に忘れられたガラクタ達の復讐。未来を奪うと訊いたシャルルは憤慨します。まだまだ未来があるのにそれを奪うなんて。そうだね、子どもや若い人はそうだ。では、年寄りはどうなのだろう。未来がほとんど残されていない人達はどうなんだろう。痴呆症になるのは現実を受け止めたくないからだ、という説があったります。願わくば死ぬその時まで私は現実を「然り」と言いたいものです。
 妖精は奪還作戦を提案します。しかし何故こんなに詳しいのか。妖精はベベルと名乗ります。マシューとは知り合いらしい。声で気づく人は多いと思いますが、私は口調で確信しました。ヒントとしては、事前に知っておかなければなりませんが、お婆ちゃんの名前は板東いすず。鈴とベルをかけているようです。

 翌日、マナは六花に相談しょうと家を訪ねます。ところが姿を現したのは見知らぬ外国人。ご近所さん設定らしくマナに親しげな声をかけます。混乱したマナは撤退。表札を見ると「じょん・すみす」と書かれています。学校に行っても六花とありすの名は無く、二階堂君達に訊いても手がかり無し。変声期を過ぎていないためか少年声なのは細かい演出。どうやらこの世界は六花とありすが居ない世界のようです。マシューによって改竄されているのでしょう。この手のパターンだと、この世界に次第に染まっていって記憶も薄れていくというのがベターでしょうか。六花やありすはかなりその傾向が強かったようです。マナが家に戻るとマロとお婆ちゃんが迎えます。早く現実に戻らなければなりませんが、さりとて、懐かしい人々との温もりを捨てるのも惜しい。

 マシューは超満足。それにしてもマシューさんめっちゃ美声です。終始イイ声なので、真面目なシーンでこの声訊くと何故か笑いそうになります。
 この「想い出に逃避する(閉じ込める)」を扱った作品だと、クレヨンしんちゃんの映画「大人帝国の逆襲」が思い出されます。辛い現実から楽しかった想い出(過去)に逃避する。個人差があるのかもしれませんが、私は過去をそれほど良かったとも悪かったとも思っていません。大抵、想い出補正が働いて都合の良い部分だけが協調された記憶になるでしょうが(いじめなどの辛い記憶も自分は被害者だったと都合の良いように補正される)、それを含めても過去に未練はありません。同窓会の時に当時の先生から「やり直したいことはあるか?」と訊かれましたが「無い」と即答しました。いじめられた記憶も、学校でおもらしした記憶も、それは私がやってきたことです。生きていれば辛いことも楽しいこともあるものです。人はそうやって死ぬ生き物。勿論、そう思えるのは私が心身ともに健康だからというのもあるでしょう。30代前半なら体力はまだまだだし、精神的にも仕事力的にも申し分ない。だから私は今の内にそれを使いこなし、養う。10年、20年後はその時また考えればいい。って思うのは、多分に私の根っこには厭世観や諦念、楽観があるからだと思います。どうにもならないことをクヨクヨと考えたりはしない。考えるならどうにかなることを考える。

 クローバータワーに明かり。
 クジラに潜入するためシャルル達は待ち伏せ。ダビィはムササビスーツ(ウイングスーツ)を着用。妖精のままでは速度が出ないので、一気に乗り込む算段。シャルル達を胸元に入れて発進。
 マシューは罠だったこときに気づき、怪人を向かわせます。潜入に成功したダビィ達は奥へ進行。途中で現われたマネキン(怖ぇ)をダビィが軽やかに倒します。この人万能だなぁ。
 フィルムが保管されている部屋に辿りつくと、早速マナ達のフィルムを捜索。マナのだけが見つかりません。これをお探しかな?と怪人達が現われます。

 囚われの身に。マシューはマナ達が見ている想い出を映し出します。この幸せそうな顔を見ろ、とマシューはうっとりしたように言います。マロと戯れるマナの笑顔。彼は自分が居ない現実を認めたくないのでしょう。マナにとって彼は一つの出会い、一匹の犬でしかありませんが、彼にとってマナは全てです。この非対称性が彼・彼女の認識に大きな隔たりを生んでいる。彼はマナに自分を忘れないで欲しい、自分をずっと見続けて欲しいと思っている。彼が言う幸せそうな顔とは、彼自身のことを含んでもいるでしょう。トイマジンとは別な意味での正当な復讐方法と言えるかもしれません。ずっと、永遠に愛されたいと願うことは当たり前のことです。しかしそれはやっぱりジコチューでもあります。人を縛り続ける愛は愛足り得るか。

 頑なまでに現実を拒否するマシューに、ベベルは言い返します。時間が止まってしまったお前には分からないかもしれないが、あの子達には未来がある。それを奪う権利なんて無い。ダビィが変身を解いて妖精の姿に。捕縛が解けてベベルはマシューに飛びかかります。シャルル達はその隙に想い出の中へ。
 お前の野望もこれまでだとベベル。「マナ…」「へ?」一瞬垣間見えるマシューの想い。人間だけが未来へ行くのを認めたくない。


 シャルルが想い出の中へ入ると、先ほど見ていた景色と一変して雨模様。お婆ちゃんが入院したことを父から知ったマナは急いで病院へ向かいます。マロは留守番。しかし縄が切れかけています。
 病院につくと案外お婆ちゃんは平気そうです。しかし最近よく転んだりケガをするとマナは心配します。少なくともここから4年以内には亡くなるので予兆はあったということでしょう。マナは自分がお嫁に行くまで長生きしてと懇願します。「モチのロンさ」。マナが以前言ったセリフはお婆ちゃん譲りでしたか。
 帰り道、シャルルに会ったマナは彼女を抱きしめます。どうやら記憶はちゃんとあるようです。シャルルは現実へ帰ろうと促します。マナは一瞬躊躇って、お婆ちゃんやマロへお別れをしたいと言います。彼女なりにけじめは付けたいのでしょう。
 家に着くとパトカーが止まっています。父に尋ねると、マロが車にはねられたと伝えられます。玄関を空けるとマロの亡骸が置いてあります。このシーンは地味に直球勝負に出たと思います。言葉だけで終わらせてもいいシーンですが、キチンと死を見せることでマナのショック、現実の重さを伝えています。これは後の別なシーンでも同じ事が言えます。
 2度マロを失うマナ。この出来事はかつてあった出来事とおそらく違う筋書きだろうとは思いますが(でなければマナが事前に思い出す)、マナがこれによって躓いてしまうのはマシューの思惑通り。彼女に慰めの言葉をかけながら彼女を自分の虜にします。愛は人を縛る。人から未来を奪う愛を、本作はジコチューと呼ぶでしょう。ジコチューは悪ではありません。人の迷い、罪、憎しみ、哀しみが混ざった愛のことです。

 END

 拍手するマシュー。彼の愛は歪んでいる。しかしこうした愛は現実のあちこちで見られるものです。
 ベベルはマナを信じます。どんだけ孫を信用してるんですか、この人。生前彼女は孫に伝えるべきものを伝えたのでしょう。
 マシューは怪人達に六花達を始末するように指示します。


⑤あなたが居ない過去、あなたが居る今
 六花のピアノ演奏会。両親が自分のために時間を割いてくれる貴重な時間。好きなものを食べさせると約束する父に、六花は「オムライス!」と答えます。本人も意図していなかったようなリアクション。ぶたのしっぽの記憶でしょう。
 リムジンの中でありすは独りでぬいぐるみ遊び。父がやってきて社交界デビューの日だと伝えます。「そんなもの」は置いていけと言います。「はい、お父様」素直に従うありす。これは結構くるものがあるな。車で留守番するクマのぬいぐるみはどこか寂しそう。いくらでも選択肢があるマナや六花達に比べてありすはがんじがらめ。それでも現在のありすが溌剌としているのはマナ達との出会いの賜でしょう。それに比べてマナや六花と出会っていないありすはどこか人形的で弱々しい。本編33話は映画のこぼれ話というかスピンオフになるそうですが、ややもすると鳥かごの鳥になってしまいかねないありすの心の自由が担保されるエピソードを映画よりも前にやったのは正しい事だったと思います。六花にとっても、ありすにとってもマナとの出会いは人生を変えるものでした。

 満ち足りているはずなのに何かが足りない。六花とありすがすれ違います。互いに立ち止まって声をかけあいます。
 「あなたは誰?」
 そこにラケルとランスが落ちてきます。六花とありすにぶつかって、彼女達は元の中学生の姿に。妖精との再会も束の間、自分達が置かれている状況に気づきます。先ほどまで親だったものはマネキンに。怖ぇよ。この世界に他者は存在しない。全てが自己愛で作られた幻。
 バギーとクロックが現われます。マナが居ない世界なんてなんの意味もない。そう言い切る彼女達は強くもあり脆くもあり一途。偽りの過去よりも現実を。それは多分、喪失よりも獲得するものの方が多かったからでしょう。変身。このふたりがコンビ組んで戦うのは本編でも無かったので新鮮です。

 王女からプリキュアを拝命される真琴。トランプ王国が平和だった頃、王女に近づけたあの日。ダビィが落ちてきます。世界の景色が変わりマネキンだけが居る世界に。王国は存在しません。真琴は幻だと分かっていてもかつての記憶にすがってしまうことを自覚しています。ここは丁寧な描写ですね。六花ありすと真琴の大きな違いです。いくらマナ達と出会ったとはいえ、真琴にとっては喪失の方が大きい。ダビィが意気地無し!と叱咤して、マナ達と誓ったあの日を思い起こさせます。こうして本編とリンクすることで彼女達の歴史と実績が感じられて感慨深い。冷静になる真琴。カーマインが現われます。変身。BGMがカッコイイ。今回の映画は映画オリジナルの曲が多く、また出来が良いので熱い。
 「愛をなくした悲しいカラクリ人形さん、このキュアソードが愛の剣であなたの野望を断ち切ってみせる!

 バギー達は先の戦闘経験を踏まえ手強くなっています。スパイクタイヤで氷もなんのその。バギーとクロックは合体して巨大化。ロゼッタのバリアも破られてしまいます。PVなどで先行的に出ている映像は多少修正されてほぼ本編で使用されています。てっきりロゼッタ無双かと期待したのですが。いや、まあ、無双するんですけどね。
 いつもマナに助けられた。今度は自分達がマナを助ける。後の先を取る。ロゼッタが敵の攻撃を防ぎ、ダイヤが新技ダイヤモンドブリザードで敵を氷漬けに。ロゼッタも2枚のバリアを出してダブルクラッシュ。流石黄色ゴリ押し。敵を撃退したものの、こちらも体力が尽きて相打ちに。

 動きを読むカーマインにソードは苦戦。カーマインもまた巨大化して窮地に陥ります。「きゅぴらっぱ~」。すっかり忘れていたアイちゃんとエース。どうやって来たのかと尋ねると、愛は次元を越えるとか言われます。初期のノリですね。戦闘力も初期のノリ。優雅に攻撃を躱してエースショットを撃ち込みます。女児のエース人気ってどうなんだろうと思っていましたが、彼女が登場した途端子どもらが顕著に反応したので人気(興味)が高いようです。ソードも上位技アルティマソードでカーマインを撃破。ソードは白兵戦が似合う。
 倒したと思ったカーマインが自爆してエースとソードは戦闘不能に。流石ソード、仕留めきれない。

 相打ちとはいえ、これで六花達がマナを助けに行くことはできないのでよくやったと怪人達に労いの言葉をかけるマシュー。これでマナは完全に自分の思いのまま。ベベルは何も言わず、しかし信頼は失わずにマナの想い出を見つめます。


 学校から帰ってきたマナをお婆ちゃんとマロが迎えます。しかしマナは返事もせず心ここに在らず状態。その様子にお婆ちゃんは何かを感じ取ります。いつものことですが、プリキュアのお婆ちゃんは作中最高位の大人ポジションです。
 部屋でシャルルはマナに帰ろうと言います。しかしマナはマロが死んだ世界に帰りたくないと答えます。レジーナの時もそうですが、マナは喪失の苦しみがかなり堪えるようです。マナは現実を直視するタイプですがこればっかりは復帰に時間がかかる様子。まあ、普通誰でもそうなのですけど。はからずもマロを死なせた遠因があるマナにとって、この世界に居続けることはある種の贖罪になるのかもしれません。
 ところで、私は現実は辛くて悲しいことばかりだという言葉に同意しません。辛くて悲しいことは否定しませんが、その辛くて悲しいことをずっと経験してきたんでしょ? なら、私はそのことを誇りにしていいと思います。惨めに逃げてきたのならいざしらず、乗り越えてきた、耐えてきたと思えるならそれは誇っていい。10年前が辛いなら、10年後もきっと辛いさ。でも、それが生ってもんです。いざとなれば死ねばいい。って割り切ることで私はダメージを最小限に抑える(過大な精神負担を逸らして、対処するための余裕を作り出す)。そして好奇心を武器に楽しむ。今までの楽しかったことと辛かったことを足し引きすれば十分おつりが来る。おつりがくるようにしてきたつもりです。現実を生き抜く処方箋は人それぞれですが、確実に言えることはその処方箋は自筆でなければならない。捨てるにしても、拾うにしても、そこに自分の意思があってこそ人は誇りを持てる。

 シャルルは何故お婆ちゃんやマロの分まで生きようと思わないのだ、自分に甘えているだけだとマナを責めます。よくある説得の常套句ですが、甘えて何が悪い?と言われると返す言葉が無いんですよね。悪くはない。単に先に進まないだけで。
 お婆ちゃんが部屋に入ってきます。シャルルに気づいています。マナは自分の葛藤を話します。本来なら断片的な情報でお婆ちゃんにはなんのことか分からないはずですが、おそらくこの世界はマナの記憶から創られた想像の世界なので、問題なく伝わります。マナという名前は愛と書く。名の由来を話し始めるお婆ちゃん。
 「困った人がいれば手を差し伸べ、共に未来に進もうとする気持ち。それが愛さ
 これまで本作がやってきた愛の形を表す見事な言葉です。愛とは人の優しさ、自己と他者を包括する概念。だから立ち止まってはいけない。閉じ込めてもいけない。自由でありながら、繋がりと連環を持ったもの。
 お婆ちゃんに促され、マナは六花達の声を聞き取ります。みんなのところへ行けとお婆ちゃんは言います。離れたくないと躊躇うマナに、ずっと一緒だ、愛は受け継がれるものだと教えます。マナにおまじないをしてみせます。おそらく生前もこれに似たやり取りなり、お婆ちゃん像が作られる出来事があったと思われます。その記憶、印象が再構築・再解釈されていると見る方が自然です。過去の辛い出来事はあなたの糧に、幸せな時間はあなたの愛になっていくのだ、というのがこの映画のメッセージです。過去を忘れることもあるでしょうし、糧にならないこともあるかもしれません。しかし記憶に限ることなく、人とはその人格や行動原理において過去の蓄積と資質によって変っていくものです。未来に進むとは過去を捨てることではなく、その経験を経て変わっていくことです。人は誰かの一部に、何かの変化のキッカケになる。

 マナは中学生の姿に戻ります。また会える?「モチのロンさ」。
 変身。敵と戦うことだけが変身の目的ではありません。新しい自分になるための再生も含む。ここからフィルムが解放されて現実へと戻るシーンはBGMも格好良くて出色の出来です。音楽担当の高木さんは良い仕事をしています。


⑥愛憎の果てに
 プリキュア達は元の世界に戻ります。マシューは本性を現します。

 巨大な犬の姿になるマシュー。プリキュア達の言葉から過去が否定されたかのように受け取ったようです。ハートは目の前にいる彼がマロだと思い至ります。マシュマロとの初めての出会いの記憶。
 マシューは執拗にハートを狙います。むき出しになった犬歯が眼前に迫る。イレブンファング。回避。ロゼッタのバリア便利だなぁ。しかし本命はハート。マシューはハートに喰らいかかります。ハートはそれを受け入れます。
 肩に食い込む牙。ハートはよろめいてマシューから距離を離します。マシューも彼女の無防備さに驚き動きが止まります。口からしたたる鮮血。傷口を押さえるも指先に伝わった血がこぼれ落ちます。作り手に覚悟があったのだろうと思います。プリキュアはこれまで流血シーンはありませんでした。そもそも製作担当にもよりますが、直接的に(特に顔を)殴られるシーンを禁じていたくらいで、プリキュアが血を流すことなどありえませんでした。先の死についてもそうですが、これはマナが背負わなければならない責任であり現実なのだと思われます。フレッシュやスマイルのように言葉でわかり合えたならそれでも良いでしょうが、それが出来ない場合、本当にあなたは彼らのために痛みを引き受ける覚悟があるのか。理屈や言葉に頼らず、行動や痛みとして引き受けられるかをマナに問わせたのだと思います。そしてそれは同時に、
 マナはマロに詫びます。楽しい想い出を一杯もらった、ありがとうとマロを抱きしめるマナ。人の姿に戻ったマロは自分がやったことを後悔します。そう、そしてそれは同時に愛が人を傷つけてしまうこと、自分が一番大好きだった人を傷つけてしまうことを浮き彫りにします。どうしてジコチューではいけないのか。人を傷つけるからか、我儘だからか。それもあるし、多くはそうです。しかし、愛がジコチューに変わったときに、自分の大切なモノを自分で壊してしまうことで深く傷つくことがある。その意味でジコチューは破壊と自滅を生むのです。愛している人と共に居たいという願いが全く逆の結果を生む。

 マナはみんなを想い出の世界から解き放てばみんな許してくれるとマロに手を引くよう促します。しかし黒幕がそれを拒みます。クラリネット。 そのクラリネットってやっぱドとレとミの音が出ないんですかね。
 マシューと呼ばれたマロはマシュマロだと毅然と言い返します。カッコイイんだけど、なんか間抜けに聞こえるのが絶妙。
 クラリネットは過去ならず未来まで奪おうと次元を越えます。クジラが消失してプリキュア達は落下。エースの変身も解けてしまいます。
 ラスボスは未来に飛んで、こちらは打つ手無し。しかしハートは傷つきながらも未来へ行くと頑として言います。こんな時は亜久里えもん。伝説のミラクルブーケライトを使えば可能。もう伝説って付ければなんでも有りのような気がしてきました。そのライトはアイちゃんが配布。亜久里が映画を見ている観客に応援を促します。色々次元越えすぎだろ。ラストバトルはあっさりなので、実質ここだけでしかライトは使いません。ライトの力でHP満タン。エースも再変身。未来へ行きます。


⑦最終決戦
 プリキュアが気づくと、結婚式場にいます。
 教会から人々が出てきます。上述のとおり、六花達はこちらの方が大人っぽい。マシューはマナの将来の姿を見て嬉しそうに微笑みます。ちなみにこの結婚式はやはり女児の興味を惹くようで、場面転換としては効果があったように思います。ブーケを投げたところで止まってしまいます。

 クジラに足が生えたタコみたいなのが飛んできます。
 最終決戦スタート。ここからはほぼCGによる戦闘。これは大胆な試み。フレッシュの映画やオールスターズで部分的に使っていましたが、本作では尺が長いのと、CGの出来が良いのとで臨場感があります。ソードの射撃シーンが個人的にお気に入り。個々人の攻撃ではクジラの装甲を破ることは出来ません。叩き落とされてしまいます。
 ハートはクラリネット本体を叩くと言います。探知はマロが引き受けます。突撃。エースはハートの判断は正しい、彼女を信じようとハートを支持します。ダイヤ達は呆れながらも援護してハートをクジラに近づけていきます。アクションが熱い。エースとソードで装甲を打ち破ります。必殺技を使うより物理で殴った方が威力があるのがプリキュア。
 内部に侵入したハートはマロと共にクラリネットが居る部屋へ辿りつきます。ここまでのシークエンスも立体感と迫力があります。CGの採用は実験的でありながらも成功していると思います。そしてやっぱりBGMが熱い。
 ハートはあなたのドキドキ取り戻してみせる!といつもの口上をあげます。このあと3分くらいで許さない!と言って倒すんですけどね。
 ダイヤ達が駆けつけ、そのまま最強必殺技を打ち込みます。ノーダメージ。クラリネットは歯車を飛ばして攻撃。狭い部屋なのでこれはちょっと厄介。マロがハートをかばって倒れます。3度目の別れ。元々マロは死者なので別れざるを得ません。おそらくマロは史実でも事故などの不慮の死でマナと別れているので、ここで死に際を引き取ってもらえるのは彼にとって本望だろうと思います。マロはプシュケーに変わります。なるほど、そう来たか。これは予想してなかった。黒いプシュケーを使ったビーストモードがあったのだから、それとは逆に白いプシュケーを使うのはよくよく考えればあり得た発想です。
 「キュアハート・エンゲージモード!
 ウエディングドレスに身を包みます。この場合のエンゲージは当然「約束」でしょう。約束は信頼と行動を互いに課す契約。人を縛りつつも互いを高めるものとしてのニュアンスがあります。

 クラリネットを倒す気満々のハート。クラリネットも譲る気はなく第二第三の私が生まれる的に不死身だと豪語。矢を放って倒します。クラリネットは本編でいうところのベール達みたいなポジションで、マロのジコチューを利用した悪役。ジコチュー側の救済がありうるかは本編に委ねられる。スイートを除けば近年のプリキュア映画はボスを倒さないのと、この後の終わり方も余韻が短く一気に畳まれるので、ちょっと物足りないと感じるところではありますね。

 マナが生まれた時の想い出。名付け親はお婆ちゃん。完全に自分で名付ける気満々じゃないですか、この人。即決。


 空から流れ星のように幾筋もの光が落ちていきます。想い出から解放された人々の魂。ベベルはマロのプシュケーを連れて帰ります。これは一種の鎮魂、供養と別れの儀式なのでしょうね。マナがまたマロと会えるかと尋ねると「モチのロンさ」。ベベルの言葉がじょじょにお婆ちゃんになっていくのが綺麗です。
 想い出は去り、新しい朝が訪れます。


⑧ED
 前振り無しでEDになだれ込みます。TV版の長さよりも多少時間があるのでその分はエンゲージモードになってダンス。
 春映画はNS3。ラストステージ。


○トピック
 70分間見入る映画でした。プリキュアの映画は何回も見るんですが、見慣れてくると大概「あのシーンまで待機」状態になってテキトーにダレたり、子ども達のダレ時が読めたりするんですが、今回の映画はそれが無くて、一連でずっと見たいと思うドラマチックな仕上がり。

 昨年のスマイル映画と同じように過去エピソードを扱っていて、なおかつ主人公に復讐をするというところまで同じですが、やはりその年の本編テーマに軸足が置かれています。


 本映画の大きなテーマとして「生と死」があります。フレッシュでは「捨てられた玩具」、スマイルでは「忘れられた絵本」をモチーフにしていましたが、本作ではよりストレートに「死者」を扱っています。大切な人との別れ。その人との記憶が薄れ想い出の一つに過ぎなくなっていく。誰しもが経験することです。それが文字通り過去のものになっていくのか、そうではない何かになっていくのか。マナとお婆ちゃんのやり取りはそれを扱っています。本編で幾度も描かれたように、何気ない行為、意図しない行為から人が学び、憧れ、真似をしながら自分のスタイルへと変えていく。人の姿や意思というのは姿形を変えて伝播していくものです。これは近視眼的に「心で繋がっている(相手との一体感や同一感)」というのでなく、もうその人の一部となっていくということです。元は誰が言いだした物なのか分からなくなるくらいにその人にとってそれが当たり前のことになる。そうなったときに本当の意味でそれがその人の血肉になったと言うのではないかと思います。
 私は天の邪鬼なので敢えて言いますが、過去を忘れたって良いと思います。というか、表層的な意味での記憶にあまり意味を感じていないと言うべきか。重要なのは学ぶことです。極端な話し、今現在のことをキチンと学び教訓や糧として身につけていけばわざわざ過去を振り返るまでもないし、囚われることもなくなると思っています。今起きている現実を真っ直ぐに見据えて、自分と関連付けて捉えて行けばいい。そこでの体験の多くを忘れてしまっても、学んだことを実践していけさえすれば良い(記憶に残すことと、実践することは全く別物)。フレッシュの映画の時にも書きましたが、人は忘れていくし、捨てていくし、取っ替え引っ替えしながら生きていく。玩具が友達になり、友達が恋人になり、恋人が伴侶になり、伴侶が子どもになり、そうやって死んでいく。私はそれを悲しいこと、寂しいことだとは思いません。それは人に許された素晴らしい特権です。出会いや別れを愛と呼んで、死をも超越しようとする人の生命力、創造力だと思っています。詭弁を弄してでも死を直視したくないだけだ、と言い換えることも出来るでしょうが。どちらにしたってやることは同じです。私達は様々なもの、人から多くのものを学び、そして多くの人に教え、何かを残していく。
 大切なのは全てを背負って(記憶して)生きることじゃない。時に何かを捨て、時に何かを拾いながら自分の生を進めていく決断と意思です。マナのお婆ちゃんは孫が過去に囚われてしまうことを望まないでしょう。例え自分との記憶が薄れてもマナに進んで欲しいと思うはずです。それは決して薄情で悲しいことではありません。人が生きていくために必要なことで、ひとときであっても自分がその人の想い出や成長の糧になるのであれば、それは人の在りようとして正しいことだと私は考えます。マナが何かを為し得たなら、それに関わる多くの人に恩恵を与えていくでしょう。未来を目指すということは、いま在る人々のために愛を伝えていくということです。
 想い出を大切にするとか、忘れないというようなことにこだわらずに(自身の人格と離れた抽象的な願い、意志である)愛をマナに託して成長を見守るお婆ちゃんは非常に大人で、理性的であり同時に情熱的です。無論こうした「学び」「継承」は深い関係性、信頼で繋がっていた方が効果が高いのも事実です。日常で接している時間が長いほど、あるいは印象が鮮烈で強いほど人の記憶にも残る。


 しかし、その結びつきが強いからこそ生まれてしまう弊害もあります。それがマシューです。
 マナとお婆ちゃんの愛の継承が本作が意図するところの愛の形であるとしたら、マシューがやったことはジコチューと見なせます。何度も述べているようにジコチューとは単純に悪いものではありません。それどころか本質的な意味では愛と同じところから発しています。お婆ちゃんは「共に未来に進もうとする気持ち」を愛だと言っていますが、マシューだって「共に」居たいわけです。そのために閉じ込めようとするところが間違っている。マシューは死者ですが、例えばキングジコチューもレジーナを手元に閉じ込め思いのままに操っている点で同じです。マシューが提示するジコチューは決して特殊なものではありません。友達でも恋人でも親子でも、様々な関係に見られる人の心の現れ方なのです。
 愛する者を傷つけそれによって自身もまた傷ついてしまうマシューの姿は、ここまでで引用してきたフレッシュやスマイルのエピソードよりもさらに踏み込んだものになっています。過去の人が復讐者となって襲いかかってくるとか、忘れた側の罪という問題にとどまらず復讐者自身もまた傷つき、出口を失う。ここにジコチューの自己矛盾、自己崩壊の芽があります。実際に共依存関連の本を読んでも自滅的な関係性が見られます。
 このジコチューを救いたいと思うのがマナです。何故救いたいか。それは彼らと友達になりたいから(友達だから)です。マロは愛犬ですしレジーナは友達です。だから彼女は彼らと共に未来に進める道筋を見つけようと努力し、時に痛みを引き受けます。この映画で見せた彼女の覚悟は、別な形で本編でも見られると期待しています。全ての人が最初から愛を持っていてスムーズに共有できたら苦労はしません。でも実際にはその逆で、前提も目標も全然違う。それを繋ぎ、共により良い関係を作るために彼女達は努力してきました。六花、ありす、真琴も同じです。わざわざそんな手間をかけて他者と繋がろうとするのはそれが自分にとっても他者にとっても利益になるからだ、なんて野暮ったいことではなくきっともっと単純に「あなたが好きだから」「あなたとそうしたいから」なのだと思います。それはマナ達に限らず、みんなそうした素朴で単純な気持ちを持っているはずです。その気持ちを正しく、強く、しっかりと持ち続けることがプリキュアの意志であり力です。

 プリキュアの映画は、その年のプリキュアのテーマが色濃く出ることが多く、また本編の先行きを見る上でもとても参考になるものですが、ドキドキについても同じことが言えそうです。プリキュアもまた製作者が代りながらも受け継がれていくものがあるのだと改めて実感します。


[ 2013年10月28日 13:39 ] カテゴリ:ドキドキ!プリキュア | TB(0) | CM(-)
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