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第33話「ありすパパ登場!四葉家おとまり会!」

○今週の出来事
①お父様の帰国

 今日はありすの家でお泊まり会。マナが告白タイム!と言い出します。好きな人もなにも、お前ら全員男っ気ねーだろ、むしろ亜久里以外マナ狙いじゃねーか、という全視聴者のツッコミが入ることは確定的に明らか。六花さんはどうやって本音を隠すか今必死に考えているかもしれません。ちなみにランスがアイちゃんに食われています。
 ありすに話しが振られますが、ちょうど物音が空から聞こえてきます。
 「お父様ですわ

 ヘリポートに駆けつけるありす。案の定父親が帰宅しています。ガッシリした体の偉丈夫な感じ。娘を見て大きくなったね、と悠然とした態度でありすのもとへ行きます。3ヶ月ぶりの再会のようです。親父さんはマナと六花に挨拶。ありすは真琴と亜久里を紹介。親父さんは早速ユニットデビューさせたいとか言い出します。娘に似て、というか娘が似たのでしょうけど商魂たくましい。彼なりのジョークらしく豪快に笑い出します。気さくな四葉財閥当主です。
 今日戻ってきたのは急用らしい。
 「明日の大統領との晩餐会、私の代わりに頼めるかな?」
 「おやすいご用ですわ
 ……ん? なんか俺今ものすごい会話を訊いたような。忙しい親父さんはこの後スイスに行くそうです。私は思うんですが、どんなに富や名誉があったとしてもこんな忙しい生活はしたくないな。活動することが生き甲斐な人は仕事をやり続ける方が活き活きとするのでしょう。仕事は人生の暇つぶしくらいが私の場合ちょうど良い。暇つぶしでもやりたくねーけど。


 豪快なお父様でしたわね、と感想を話す亜久里。ランスが四葉財閥の社長と補足。勿論社長の意味は知りません。いつもお父さんの仕事の手伝いをして大変じゃないかと真琴が気遣います。まず認識が間違っている。手伝いってレベルじゃねぇ。大統領との晩餐会って実務レベルだろ。ありすの役職上から何番目なんだよ。事実上すでに継いでいるんじゃないのか。大変だけど楽しい、夢のためと答えるありす。
 「世界中の人を笑顔にするのが私の夢なのです
 あれだろ、防犯カメラの映像見せながら「ほら、笑いなさい」とか命じるんだろ。メビウス様もびっくりな統制国家の出来上がり。
 自分がそんな考えを持ったのはマナちゃんのおかげだと言います。これは初耳らしくマナにも心当たりがありません。
 ということで話題は告白タイムからありすの過去話しへ。つまりこれはありすのノロケ話し。マナとの馴初めトーク。流石ありす策士です。


②出会いと別れと巣立ち
 当時のありすは6歳。身体が弱く庭だけで遊んでいたそうです。
 蝶々を追いかけていると躓いてしまい、そこに駆けつけ助けてくれたのがマナ。いやいや、ここ人ん家だから。マナの登場に驚くありすですが、マナは蝶々を自分の指先に止めます。「蝶々好き?」。これありすから見たら相当ぶっとんだ不思議ちゃんです。これ以降もマナの行動は常人離れしていますがそれがありすの印象に強く刻まれたのだと思われます。彼女にとってマナ(達)は外界との接点、新しいこと、勇気や力の象徴として受け止められたと考えられます。もう少し違う視点で言うのなら、親の庇護からの解放(マナ達はその出口)と言えます。
 門の外からマナを呼ぶ声。網を持った六花が呼びます。どうやら虫取りに来て中に入ってきたようです。ちなみに敷地は高い塀で囲まれています。どうやって入ったんだ。
 蝶々はマナの手を離れて飛んでいきます。これで良かったんだ、と言うマナ。この辺はメタな構図ですね。檻に閉じ込めてしまうか、自由にさせるか。

 マナは蝶々がいっぱい居るところを知っているから一緒に行かないか?と誘います。躊躇うありす。しかし結局は話しに乗ります。マナは視線を六花に送ります。これは最初から計画されたことでした。
 門を出ようとしたありすを見つけたメイドが止めようとします。それを遮るセバスチャン。責任は私がとる、とありすを見逃します。かっこいい。っていうか、セバスチャン様って呼ばれてるのかよ。執事長とかじゃないのか。まあ、この人の場合役職とか関係無さそうですけど。

 感動的なBGMが流れる中、蝶々と花が咲き乱れる広場を三人は駆け回ります。また躓いて転ぶありす。しかしその表情は嬉しくてしかたないという様子で笑います。横に寝っ転がりながらマナはあなたのことを知っていたと打ち明けます。六花も門の外から時々見ていたと続けます。身体が弱くて家から出られないと話すありす。それを訊いたマナ達は心配します。しかしありすは構わない、こんなに楽しい思いをしたのは初めてだと咳き込みながら言います。もっと色んな所へ行きたいと願い出ます。ここで自己紹介。
 「それが私達の出会いでした
 「それから、私はよく家を抜け出してマナちゃんと六花ちゃんと遊ぶようになったのです
 この当時は六花もかなりアクティブ。カエル好きはこの頃から片鱗があったのかもしれません。
 河原、遊び場、駄菓子屋、木登り、様々なことを学ぶありす。木陰からセバスチャンが見守ります。

 秘密基地に案内。でも雨漏り。三人で完成させようと約束します。


 雨の中で遊んでいたのが祟ったのかありすは熱を出してしまいます。セバスチャンが看病しているところに父親がやってきます。主人に謝罪。何故こんなことになったのか、と疑問を口にする父にありすは打ち明けます。隣に立つセバスチャンは無念がります。

 門の外から様子をうかがうマナ達。最近ありすの姿が見えません。セバスチャンがもう一緒に遊ぶことは出来ないと告げます。静養のために外国へ引っ越しすることになったと話します。今日出立。

 出発の時間が迫っています。マナ達の似顔絵を前に涙を溢すありす。おそらくありすにとって日本で唯一の友人です。ありすを呼ぶ声。庭の木にマナと六花の姿。お前らは忍者か。
 父親の意向に沿うしかない。これが普通です。四葉家は色々融通が利くので問題はなくなるのですが、一般家庭では親の都合に子どもは従うしかありません。逆に言えばその家庭がどんなに異常でも子どもにとってはそれが当たり前の世界になります。大人になるに従って自分の環境が異常だったと気づくのですが、気づいた頃にはもう手遅れ。その異常な世界で生きる術を身につけた人は正常な世界で生きる術をもたず苦しむ、というのが共依存などに見られる厄介な問題です。ありすの家と、キングジコチューの家は共通性がありつつも、親が子どもの気持ちをくみ取るか否か(子どもに寄り添って考えられる大人がいるか)の違いと言えます。子どもは親の付属品ではありませんが、それを真の意味で理解している人はあまり多くないだろうと推測します。親が子どものためを思って「良い環境」を与えてもそれをどのように受け取るかは子どもにしか分らないことです。先ほど述べたことと反するかもしれませんが、子どもは親のみによって育つわけではありません。周囲の人々、友達、環境によって変わっていくし、本人の性質もある。だから親が子どもの全てを決められないし、そんな責任も権限も影響力もありません。他者(家族、友人含む)は自己と完全に結びつかない。人はその意味で孤独(自由)です。だから「信じる」という言葉があるのだと私は思っています。

 お父様に逆らえない。マナはどうしたいの?とありす自身の意思を問います。どう考えても幼稚園児の会話ではありませんが、この物語が自立と依存の関係性をベースに置く以上この問いは必然です。
 部屋をノックする音。父親が来ています。マナは部屋の鍵をかけます。ありすは「あたし……ここに、居たいです」「あたし、マナちゃんと六花ちゃんと一緒に居たいです!」。ハッキリと自分の気持ちを言葉にします。
 部屋の外では埒が開かないと見て取った父が使用人達を使って部屋に強行突入する合図を送ります。セバスチャンが立ちはだかります。マナ達を手引きしたのは彼だったかと親父さんは気づきます。ならばその使命を貫いてみせろ!と親父さんは使用人達に指示を送ります。親父さん的にはセバスチャンが造反したとしても問題はないようです。っていうか、こういうときに自律判断できるから使っているという感じがします。正しいか間違っているかは力量で決める、という趣旨なのかもしれません。
 「セバスチャン様お許しを!」
 使用人達が迫ってきます。
 「執事拳法! 三式! 燕尾舞!」
 謎の技を出すと使用人達を纏めて吹っ飛ばします。なにもんだよお前。いや、なんか分ってたっていうか、もうこの人に突っ込むのは野暮だって知ってたけどさ。
 セバスチャンの動きを見事と褒めつつも無数に使用人達を送り込む親父さん。もう趣旨が変わっているような気もします。

 セバスチャンが足止めしている間、六花はもらったタブレットを使って屋敷の構造を頭にたたき込みます。逃走ルートを調べ中。「よし、大体分ったわ」。六花ちゃんパネェ。逃走劇が始まります。

 部屋に突入するともぬけの殻。親父さんの視線から推測すると抜け道を使ったことを察したかもしれません。
 セバスチャンは使用人達に囲まれていますが、戦力的には問題なさそうです。周囲の使用人達の方がきつそう。

 抜け道についてはありすも知らなかったようす。「この家、こういう仕掛けがたくさんあるみたい」。なんで金持ちは自分の家を忍者屋敷に改造したがるんですかね。
 使用人に発見されます。仕掛けを把握している六花がスイッチを押すと巨大な球が落ちてきて転がってきます。なんでそんなものが家の中に。っていうか誰が何の目的で設置したんだよ。六花が壁を叩くと隠し扉に。もうなんなのこの家。っていうかあの短時間で家の構造を把握した六花がやべぇ。
 壁に入ったと思ったら、階段から出てくる三人。何がしたいんだこの家。熊のオブジェを押すと床が抜けます。六花ちゃん容赦ありません。アレか、この家の設計者はホームアローンに感化されたのか。六花の巧みな誘導と使用人達の無能さにより三人は庭へ出ます。しかし親父さんが噴水から現われます。うわー、この人ノリノリだよ。娘と追いかけっこ楽しー!とか思ってそう。
 全力で走っているのに娘になかなか追いつけません。娘の成長を実感します。
 もう少しで門。しかし目の前の道から使用人達が出現します。だからこの仕掛けは一体なんなんだ。泥棒対策と使用人達を訓練するためのトレーニングとかでしょうか。そりゃ突然鉄球とか落ちてきたらビックリするわ。それに臨機応変に対応できたらセバスチャンみたいになれるのかもしれません。ちなみにメイドさんがぬいぐるみを持っているのはありすの気を引くためでしょうか。

 逃走劇は終わり。親父さんが「驚いたよ」と声をかけます。いつの間にかずいぶん元気になった。ありすはマナちゃん達と出会ってたくさん元気をもらったと自分の言葉で答えます。
 本当かどうか私は確かめようが無いのですが、子どもが風邪を引く(熱を出す)と子どもは成長しているという説があります(どっかの医者がそんなことを言っていた)。成長すると風邪を引くというか。だから風邪を引き終わった子どもは前にくらべて何かしら発達しているのだそうです。本当かどうかは知りません。子どもが全力を出して疲れて風邪を引くから結果して成長しているようにも見えるし、元々子どもの成長速度から言えば風邪の有無に関わらずそうだと言えるのかもしれません。この説の要旨は、子どもが風邪をひいたり熱を出すのは弱いからではなく強くなろうとしているサインなのだ、ということだろうと思います。私も子どもの頃病弱で喘息&アトピー、点滴打つところ無くて足に打ったってくらいでしたが今では健康そのものです。元々子どもは大人に比べて免疫作用が働きやすい傾向にあって、それがアトピーなどを誘発しているそうです。実際長じてみるとアトピーはなくなりました。喘息もほぼ見られません。全ての子どもがそうだというわけではないでしょうが、人間というのは案外タフに出来ているというのが私の実感です。もちろん、ダメな場合もありますが。
 親父さんはマナと六花に視線を送った後、娘に好きかと尋ねます。ありすはふたりの手を握ると「ハイ」「マナちゃんと六花ちゃんと一緒に居たいです」と父に向き合い伝えます。

 先ほどのシーンでは部屋の内と外に分かれていましたら、ここで意思表示をするのは丁寧な流れです。自立しているというのは他者を頼らないこと、全部独りで出来るようになることではありません。そんなことを言い出したら結婚している人、組織に勤めている人、そもそも人間社会に暮らす以上自立した人間など存在しなくなります。そうではなく、自立しているとは自分の意思を持つこと伝えられること、自分の判断によって自分の人生を歩む覚悟を決める(責任を負う)ことです。だから一人暮らしをしているから自立しているということでもありません。自立心があって他者と協力することは依存にはなりません。自立の延長の依存になる。ドキドキの物語はこの点を意識的に描写しています。自分の判断によって動き、他者の協力を仰ぐ。他者と居るために自分もまた成長していかなければならない、自分の成長が他者の成長に貢献する、各々動機が違う、関係性や付き合いの長さも違う。そうした違いや緊張が自立と依存の関係性を浮き彫りにしています。
 普通に暮らしているだけでも人生のスピードは速い。次から次へと色々なことがあるし、色んな人と出会う。そこで漫然と構えているとただ受け身の「~が~と言っていたからそうした」ということになりかねない。そうしたときにふと自分は何かを選び取ってきたのだろうか?と疑問に思ってしまうことがあります。26話の六花がそうですね。だからある程度定期的に、あるいはここぞというときにしっかりと自分の人生が今どういうときなのか、この選択がどういう意味を持つのかと考えることは心の健全性、自立、孤独を埋めることに役立つと考えます。っていうか、私はそうやっている。
 セバスチャンが少しやつれた姿で親父さんに話しかけます。お嬢様は変わった。今こそ輝いている。
 娘が初めて逆らったことを親父さんは嬉しいと話します。マナと六花に娘を託します。

 何故こんなにもありすのために?ともっともな疑問を持つ親父さん。友達のために力になりたいって思うのが普通じゃないですか、とあっけらかんに話すマナ。「それに…」。隣でマナに信頼の視線を送る六花はその答えを知っているのでしょう。
 回想が終わりかけた頃、父親がヘリで出発します。ついでにジコチュー。


③久々の黄子力
 ヘリのパイロットがジコチュー化。マーモがリングの腹いせに暴れています。この人、よくこの家に来るよね。変身。
 マーモはダイヤ達が引き受けて、ロゼッタは親父さんの救出。

 ヘリに飛び乗ると、すでに親父さんは意識を失っています。ドアを蹴破って脱出。ヘリは墜落して爆発します。てっきりヘリ操縦するのかと思いました。
 親父さんとヘリのパイロットをセバスチャンに預けます。立ち去ろうとすると、親父さんが目を覚まして声をかけます。前回に引続きプリキュアの姿が一般人に明確に認知されているのは後々に何か関係しそうな気配。ありすはキュアロゼッタだと答えてその場を立ち去ります。

 ジコチューに苦戦するハートとダイヤ。マーモも一筋縄ではいきません。ビーム。バリア。ロゼッタが駆けつけます。メイン盾来た!
 助かった、と笑顔でロゼッタを迎えるハートをロゼッタは笑い返します。
 ロゼッタが単身突入。無数のミサイルがジコチューからはき出されると、両手のバリアを使っていなして回避、ならびに反転させて誘爆を引き起こします。片方のバリアを足場にして肉薄。前回の次回予告からタダならぬ気配を感じていましたが、黄色優遇回です。映画を間近に控えつつも作画リソースを贅沢に使用。地味にですが、敷地のライトが灯っているため立体的な機動がさらに引き立ちます。ライトの演出と言えば、この人、ということで4話でもロゼッタ回をやった田中氏の仕業です。
 ジコチューのパンチで残ったバリアが粉々に砕けます。ラブハートアローを支給されても従来技を現役で使っているロゼッタの汎用性は高い。デカいバリアは小回りが効かないので小型を敢えて使うあたりにありすの戦闘センスの高さが伺えます。しかもこの黄色、盾役に見えて格闘が得意というおまけつき。そのまま肉弾戦に入ります。捕まってゼロ距離射撃。リフレクション使用。すでに傍観者になっているハート。ロゼッタはマナの言葉を思い返します。
 「それに…誰かの喜ぶ顔を見るとこっちまで嬉しくなるから
 その犠牲者(?)が彼女。ただ友達と居たいと思っていたありすにとって、マナはずっと先を行っていた子です。マナはずっとありすの笑顔を見るために冒険や危険を冒してきました。
 「私もマナちゃんのようになりたい!
 憧れ。それはとても素晴らしいものです。その感情が正しく、強く人に動機を与えれば人は今よりもさらに高みへと行くことが出来る。あなたの姿が誰かを高みへと引き上げ、その誰かがまた誰かを高みへと引き上げていく。あなたとは違う方法であなたと同じことをする。
 バリアが真っ二つに割れます。ロゼッタは割れたバリアを掴むとジコチューに斬りかかります。えー、そのバリア割れたら消えるとかじゃないのー!? 流石黄色、流石東堂いづみ。好き放題。プリキュアのバリア役はアタッカーでもあります。
 先ほどはバリアを足場にしましたが、今度は空中を蹴って跳躍。バリアを投げつけて体勢を崩したジコチューを掴んで投げ飛ばします。本来バリアが破られるのはピンチのはずですが、それをチャンスに変えるのはマナから学んだことなのだと思います。ちなみにここで流れている戦闘BGMは個人的にロゼッタのテーマ曲というイメージがあります。4話の印象が強い。変身BGMはダイヤのテーマ曲。
 前回ジコチューのパワーは10倍だ!と言っていた人がいましたが、ロゼッタは20倍くらい強くなってそうです。
 「プリキュアもお仕事も、誰かの喜ぶ顔が見たいから。世界中を笑顔で愛でいっぱいにしたいから、だから
 「さあ、あなたも私と愛を育んで下さいな
 逆さまになりながらロゼッタは言います。印象的なシーンです。たぶん逆さまに言わせたのはクラブをハートに見せるためだろうと思います。それはそうと、私はロゼッタの太ももも好きです。あの内股加減とか特に。

 「ロゼッタバルーン!
 新技披露。風船が割れると蝶のような形をしたものがジコチューを取り囲んで捕縛します。
 「ロゼッタバルーンは何が出るのか毎回のお楽しみですわ
 流石黄色あざとい。パッドによる新技は従来技とは別系統になるので使い道が差別化できます。といっても、足止め専用な感じはしますが。締めはハート。


 母親はパリのオペラ座に居るようです。有名なオペラ歌手だそうです。
 親父さんはありすに伝言を頼みます。
 「笑顔を守るのもいいが、あまり危険な真似はしないように、とね」
 どなたに?と尋ねる娘に
 「もちろん、キュアロゼッタ君にだ」
 ウィンク。この娘にしてこの親あり。
 きっと娘のプリキュア姿を喜んでいるに違いありません。「セバスチャン」「は、こちらがキュアロゼッタの写真、動画です」「うむ。流石だな」「いえ。なお、こちらに秘蔵の…」「む、セバスチャン」「はい」「これは秘密だぞ」「かしこまりました」とかそんな会話してそう。

 お泊まり会はまだ終わっていません。マナ達との想い出が詰まった部屋に戻ります。


④次回予告
 そろそろアイちゃんの謎が解けていくのでしょうか。


○トピック
 私 「ありすの体術はセバスチャンに教わったもの?」
 友人「いや、あれは執事の技だろ。主人なんだから王の技だろ」
 そんな回。
 ありすにとってマナと六花ならマナの方が印象強いと思いますが、この出会い方を見るとふたりとも彼女にとって重要な存在であることが見て取れます。ありすがふたりと等距離に接するのはそのためかもしれません。

 今回のエピソードはこれまでの話しを色々補強・補足しています。
 まず一つ目はマナの影響力について。これは前回の一般生徒達でも語られましたが今回はそれをより具体的な動機として提示しています。六花とありすはマナに憧れています。彼女達にとってマナは恩人であり頼れる友人であり新しいことを体験させてくれる入り口でもあります。本作ではその憧れが嫉妬や依存(頼りすぎ)にならない形で示しています。六花とありすは自分に出来ることでマナと同じことをやろうとしています。彼女達なりの葛藤やキッカケ、動機の強さ、方法論が描かれることで自立心が確保されています。耳にタコが出来るくらい自立という言葉を使っていますが、これはジコチューに対する対抗手段になりうるからです。適度に自立している人は適度に依存しています。それは他者との関わりの中で自分は生きているということを浮き彫りにします。本作の愛の定義は自己と他者の包括・成長性なのでこれは重要な要素です。幸せの王子は犠牲のシンボルではなく、人に希望(夢)を与えるシンボルなのだというのが本作のメッセージ。

 もう一つは親と子の問題です。これはおいおいキングジコチューとレジーナの対比になると思われますが、キングジコチューとレジーナの関係は言うまでもなく歪です。極端に放任されているかと思えば過干渉を行い、父親としての権威や安心感を与えるのではなく、自分は弱い存在だからお前に居て欲しいと責任の押しつけを行って不安を与えています。また理解者となるような大人も周囲に居ません。ありすの場合は父親が当初過保護的でしたが、娘の声を訊き裁量権を与えています。いずれにしても子どもは親の檻の中にいなければ生きていけないのですが、親の都合で全て決してしまうことは子どもに無力感を与え依存的環境を作り出します。現在のありす父は娘に仕事を与えるなどパートナーとしても認めているので、プリキュア側はこうした自立性、自己判断、子どものやっていることに強く干渉しないということで線引きを行っていると見ていいでしょう。平たく言えば、プリキュアの親子関係は信頼関係であると言えます。キングジコチューは寄生と呼べる共依存です。

 ありすの父が海外に連れ出そうとしたのは紛れもなく「娘のため」だったでしょう。しかし本作では否定されています。というか「~のため」という理由付けは愛ではないと言っているに等しい。誰かのためというのは結局はその人の判断であって、当事者が本当に望んでいるか、喜んでいるかは知り得ません。つまり「~のため」で行われる行為はジコチューなのです。自分の願望でしかない(キングジコチューがレジーナの痛みを和らげるために魔力を与えるのはまさにこれ)。では、本作は何を愛としているかというと、自分が成長し相手も成長するとき、だと思われます。私もあなたもドキドキするとき、と言い換えてもいい。今は当事者だけ、あるいは時間を置いて相互にという形で提示されていますが、これが同時的に起こりうるかは今後物語が進めばハッキリするでしょう。



[ 2013年09月22日 17:08 ] カテゴリ:ドキドキ!プリキュア | TB(0) | CM(-)
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