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第22話「ピンチに登場!新たな戦士キュアエース!」

○今週の出来事
①団欒
 ソリティアへ帰還。
 氷漬けの王女を助けるには「王子さまのキスで決まりでしょ」六花さん意外とロマンチストです。それを聞いて慌てる真琴。ここにいる王子さまと言えばノッポさんしかいません。「ジョーさんお願いします!」それでいいのか。
 照れながらも実際にやります。六花の反応が可愛い。ラケルは、男の子的な居づらさを感じてそうだな。ありすはセバスチャンの教育的指導が入ります。
 変化無し。面目ない、と笑うノッポさん。妖精はこの氷は王女が身を守るために纏った鎧ではないかと診断します。アストロンみたいに敵も手を出せない代わりに自分(味方)も何も出来ない。ところでアストロンって本来どう使う魔法なの?(敵の攻撃パターンを読む、魔法切れを待つ、などか?)
 敵のターゲットにもなっているのでどこかに隠さないといけないわけですが、ノッポさんに一計があるようです。隠し場所はみんなにも秘密。後述するエースとの関係をミステリアスにするためでもあるのでしょうが、ノッポさんの場合、色々胡散臭いので別な狙いがあるんじゃねーのかと思えちゃう当たりが信用の無さを物語ります。変なコレクション部屋とかあったらやだなぁ。アイちゃんも連れていきます。

 王女の件はこれで良いとして、残る問題はレジーナ。みんなの視線を浴びた彼女はちょっとわざとらしい態度でこれからどうしようかな、とベンチに座ります。パパのことを怒らせた、謝っても許してくれないと落ち込みます。パパのことが大好きかと尋ねるマナ。頷く彼女に、あんなに酷い目に遭わされたのに?と重ねて問う六花。「だって私のパパだもん」。これは大事な問答です。大人になってしまうと忘れてしまいがちですが、基本的に子どもは親を嫌うことができません。自立した人間なら自分に不利益を与える人と距離を開けるなり、和解戦術をとるなり方法があるしそう考えますが、子どもの選択肢は一つしかありません。親に気に入られたい。それだけ。心の底で嫌っていてもそれを態度に表すことは出来ません。何か別なものを嫌うことに置き換えたり、自己否定に向かうしかありません。子どもにとって親は絶対的な存在であり前提です。親は子どもを承認する必要が必ずしもありませんが、子どもは絶対に親を承認しなければなりません。この非対称性が時に子どもに凄まじい抑圧と歪みを与えることがあります。
 「あたしもレジーナのことが大好きだよ
 レジーナの隣に座ります。この子は賢い。今彼女はレジーナがパパを好きであることを承認したのだ。自分がレジーナに酷いことをされても好きでいたことを前提にして。自分を助けてくれた時、優しい想いが伝わって嬉しかったと話します。真琴も彼女の言葉に同意します。マナを助けてくれてありがとうと正面を向いてレジーナにお礼を言います。ジコチュー勢そのものに対する憎悪はまだあるでしょうが、レジーナ個人へのわだかまりは消えています。
 六花、ありすもレジーナにそれぞれお礼を言います。こうして一人ひとりがレジーナを受け入れたことを描写しているのは丁寧であり、本作が自立した個人を描いている以上必要な手続きでもあります。
 大好きな気持ちは絶対伝わる。だからパパへの想いもきっと伝わるとレジーナを励ますマナ。頷く彼女を自分の家に連れて行きます。手を引っ張られたレジーナは驚きながらも笑顔を浮かべます。この温もりが人の心の氷を少しずつ解かす。


 親に頭を下げるマナ。レジーナも真似て頭を下げます。また人助けというわけか、とお爺ちゃん。恒例のようです。両親も呆れますが、却下するつもりは毛頭ないようです。レジーナの顔色を見た父は元気を出してもらうために腕を振るいます。
 家族揃っての夕食。オムライスを食べたレジーナは美味しい!と感嘆の声をあげます。いつものようにまだまだとお爺ちゃん。しかし母はもう越えていると異論を唱えます。にやりとする父。マナがレジーナに審査してもらおうと提案します。その話しに乗るお爺ちゃん。第三者ならえこ贔屓はなし。父は夫婦だからってわけじゃ…と言いかけて「それもありますけど」と母。この人絶妙だな。
 笑いの絶えない団欒を見たレジーナは胸がポカポカします。しかし同時に胸が苦しくもなります。マナの家族と距離を感じる。


 部屋でマナのアルバムを見ます。「マナ可愛い!あたしの次にね」ですよねー。
 浮かない顔。父との思い出がないと言うレジーナ。思い出そうとしても頭の中がもやーっとするそうです。ふむ、本当の親子ではなない可能性が出てきましたね。この場合の親子関係の真偽は本質的に意味が無いようにも思いますが、一工夫あるかもしれません。
 マナはこれから思い出を作っていけば良いと言います。怒らせちゃったし…とまた落ち込むレジーナ。これから、なんてあるのか。マナは力強く絶対伝わる。その証拠にレジーナは自分達に気持ちを伝えてくれた、パパもきっと分ってくれると言います。なかなか説得力のある言葉です。彼女はキチンと実績、見本を示しています。それでもレジーナは気乗りしません。するとマナは落ち着いたら一緒に会いに行こうと言い出します。一緒に気持ちを伝えたい。これには「うん」とレジーナも頷きます。一人で頑張れないのなら一緒にやろう。彼女が人助けをするロジックの大元はこんな素朴な意識なのかもしれません。ちなみにこの会話でも分るようにマナはキングジコチューを倒す気がまるでありません。完全にレジーナの親と見ている。ラスボスに対するこのスタンスは凄い。シリーズ10年目はほんと、どこに行くんだろう。
 就寝。レジーナはロフトを使います。あ、他にもベッドあるんだ。にも関わらずマナと一緒のベッドで寝る六花さんはマジ正妻。レジーナも一緒に寝てあげるとマナのベッドの半分を占有します。一緒に眠ります。きっとありすはこれを隠し撮りしながら楽しんでいると思います。

 レジーナを探す幹部。前回簡単に捨てたのにも関わらず連れてこいと命じたようです。ジコチュー過ぎると不平を漏らすイーラとマーモ。しかしベールは面白がります。もしまたレジーナが悪に染まれば…。


②一時の逃避
 今日はみんなでピクニック。マナの父が車を出します。トンネルを抜けると青い海が広がっています。
 浜辺で遊びます。海水浴には少し早いのでこのシチュエーションは不自然ではない。く、やるなスタッフ。これでは海に入れとは言いづらい。海に来たけど水着にはならない。乾坤一擲の妙手。しょうがない、今年もカレンダー待ちかな(それでも水着イラストがある確率は半々。例年の流れだと今年は無いパターン)。ビーチバレーでアタックを決めるありす。このメンツだとマナと体力勝負挑めるのは彼女くらいでしょうね。

 夕方。楽しい時間もあっと言う間。楽しかったと話すレジーナ。海を見ていると気持ちが落ち着くと言います。
 「僕は心が迷って進めなくなったとき、こうして海に来るんだ」
 「そしてどこまでも続く空と海を見てこう思うんだ。この海は世界と繋がっている。この空は果てしない宇宙と繋がっている。だったらちっぽけなことで迷ってないで、ちょっとずつでいいから前に進んでみようって」
 ああ、あれだろ、涙は世界で一番小さな海、アンデルセンの言葉だろ?(全然違います)。この手のものだと個人的には「大概の問題はコーヒー1杯飲んでいる間に心の中で解決するものだ。あとはそれを実行できるかどうかだ」が好きですね。迷ったら悩み、悩みながら行動する。それでダメならそれまで。解決できなかったら自分はその程度の器だったと思えばいい。死ななければ次がある。死ぬことに比べれば大概の問題は軽い。人間の器は失敗で決まらない。やった数、成功した数、質、順応性、感受性、向上心、積極性、楽観性、度胸、知性、自尊心その他諸々で決まる。つまり全体に占める割合の中で迷いや不安や失敗は大した数値ではない。というか、そんな項目がない。それに疎外されて他の要素が前に出なくなるのが問題なのだ。

 照れ笑いする父。たまにはカッコイイパパもいい、とマナが答えます。マナちゃんのお母さまはそういうところが好きになったのですね、とありすはからかいます。
 また胸がポカポカする。でも苦しい。
 記念撮影。マナがコケたのを父が支えます。どんな体勢で倒れてんだよ。さすがマナのパパ、と六花。多分内心ではお義父様って呼んでると思います。こんな風にパパと仲良くできたらいいのに…と心の中でつぶやくレジーナ。


③檻と鎖
 そこに幹部が現われます。
 キングジコチュー様がお待ちだ、と言われたレジーナは心が動きます。帰りたくないと断るレジーナを無理矢理連れて行こうとするイーラにマナの父が割って入ります。突き飛ばされて気絶。ということで、心置きなく変身できます。

 幹部との直接対決。4対1なら分がありますが、3人相手だと分が悪い。幹部の攻撃をバリアでガード出てきているあたり、レジーナが召喚するジコチューの方が攻撃力が高いという地味に情けない事実。でも数で押せる。
 レジーナはどちらの側にもつけません。マナを気遣うも胸が痛みます。これはジコチュー(父)とプリキュア(友達)の両天秤にかかっているからで、どちらを選んでもどちらかへの背信行為になります。二律背反。その間にもプリキュアは窮地に立たされます。
 強い胸の痛みを感じるレジーナ。なんで?
 「それはお前が愛を知ったからだ
 現われるキングジコチュー。正確にはその幻影。竜巻がレジーナを包み込みます。プリキュアは手を出すことが出来ません。
 父と邂逅するレジーナ。キングジコチューはお前の心には愛が芽生えてしまった、と冷静な声で言います。感情的だった前回とはまるで別人のようです。プリキュアと心を通わせてしまったから、だから心が痛み、苦しくなる。そんなものは捨てて帰っておいで。あくまで穏やかな口調。直感的に分る、やべぇ、このアニメ本気だ。
 嫌、私のこと娘じゃないって言ったじゃない!と反発するレジーナ。これが本心ではなく、ちょっとした反抗、ややもすると今自分が言った言葉を打ち消して本当は「愛しているのだ」と言って欲しいことを確認したいがための反発であることは明らかです。
 「すまなかった
 「許しておくれ。私にはお前が必要なんだ…
 このセリフを聞いたときに私は悪寒が走りました。プリキュア容赦しねぇ。本当に、本当にクソ親を描く気だ。
 「あたしが…?」
 父の言葉に先ほどの態度を崩すレジーナ。こうなればあとは意のまま。
 「ああ、私の可愛い娘、私だけのレジーナ
 子どもを縛る呪文。呪いの言葉。親の愛を欲する子どもが一番欲しい言葉。何度騙されようと「今度こそ本当のパパ、優しいパパになってくれる。自分を愛してくれる」と期待を抱いてしまう言葉。
 胸が痛み出すレジーナ。
 「でもあたし、マナ達のことも好き!」
 「どうしていいか分らないの!」
 「可哀想に…大丈夫だよレジーナ。ジャネジーを受け入れれば苦しみも消えてもっと強くなれる
 「さあ、受け取っておくれ。これがパパからお前へのプレゼントだ
 稲妻がレジーナに落ちます。そしてレジーナの心に闇が広がっていきます。なるほど、これは盲点だった。苦しみが消えていきます。「でも…」。マナ達との想い出が脳裏に浮かびます。苦しみが消える代わりにマナ達との想い出も消える。レジーナの苦しみとは大切なものが増えたことの苦しみ、それをどう扱うべきか、どう序列を付けようか、心のどこに置くべきかという苦しみ。けどその大切なものを忘れてしまえば、苦しむこともない。しかしところてんのようにそれを繰り返すのは、自ら人間性を捨てることと同じことなのではないか。逆説的に、迷うことは人間である証拠であると言えないか。その迷いから人は自分を作っていく。迷いを捨てる過程を含めて人はそこから拾うものがあるはずだ。迷うことを最初から捨てることは間違っているのではないか。ましてそれを子どもに強制する親など、虫酸が走る。私はそういう親をクソ親と呼びます。文字通り周囲を汚染していく元凶。

 竜巻が消えてレジーナの姿が現われます。安堵するハート。
 「あ~! なんかスッキリした感じ」
 突然プリキュアをエネルギー波でぶっとばします。容赦ねぇ。その力に幹部達は息をのみます。
 ソードはキングジコチューが邪悪な力を植え付けたのだと推論します。理解早ぇな。また疑心暗鬼ごっこをしても意味が無いのでこれはこれで話しが早い。レジーナはクリスタルに魅入った時と同じように紅い瞳をしています。正常な状態ではない、何者かの恣意が影響していることの示唆と見られるでしょうか。これの厄介なところは、元々レジーナには父親に愛されたい、父親と一緒に居たいという欲求がある点で、それが心の闇を広げている、つまりジコチュー化していることです。基本的にプリキュアでは純粋な洗脳を行いません。人の欲求、心の隙を突くことで少なからず自己責任を問わせます。言い換えればそこから抜け出す鍵も本人が持っていることになります。
 ハートの声もレジーナには届かない。「もうあなたは必要ないの」「あたしには必要だよ!」。
 ロゼッタ、ダイヤ、ソードも口々にレジーナに想いを伝えますが、全く届かない。ちょっとした仕草からも分るようにレジーナの無垢さ、純粋さは損なわれていない。この子の本質はここにあるのだと思う。それ故に染まりやすい。実際衣装も染まっているし。
 ラブリーフォースアローなら悪い心を浄化できるかもしれない、と思いつくソード。石化も浄化できたしナイスアイデア。構えます。照準をレジーナに合わせ……「あたし、やっぱりできない!」
 作品的にもマナ個人としても正しい判断です。重要な場面においてプリキュアは必殺技で人の心を浄化しません。それは、圧倒的な力で人の心を変えることが敵のやっていることと同じだからです。結局人の心を操作しているということになってしまう。人の心を変えるには、愛を取り戻してもらうには彼女達自身の心と拳でぶつかり合うしかありません。だから愛を食らえと殴ることはあっても必殺技で浄化することはありません。
 レジーナの攻撃をモロに受けて、プリキュアは変身が解除されます。


④ありがとう! 知らない人。
 トドメの攻撃を準備するレジーナ。
 「さようなら、偽りの愛の戦士プリキュア!」
 偽りの愛? 彼女(ジコチュー達)が真の愛と思っているのは自己愛だからか?
 困ったときのアイちゃん。クリスタルが新商品にくっついていきます。なんかこの形前に見たことあるな。ミルキィパレット的な。
 レジーナの攻撃を粉砕する閃光。光のバラが舞い、観衆の注目を集めます。
 「なんなのあなた!」
 「愛の切り札! キュアエース!
 えっと、どちら様?


⑤次回予告
 改めて過去のEDクレジット見てみたら王女の名前が出てない。なんという偽装工作。王女さまはあれですか、「凍れる時間の秘法」とか使えるんでしょうか。天地魔闘の構えといい、ダイの大冒険と馴染みがあるアニメですな(絶対関係ない)。


○トピック
 今年は全然わからんなぁ。っていうか、口紅ですよ、口紅。あれ基本的に大人の象徴として使われるので、少女が主役のプリキュアでは異例です。口紅型の玩具が出そうな予感。すると、ゆくゆくはマナ達も? ふむ、少女から女性へ、というプリキュアにおいては未知の領域へ踏み込む可能性も見えてきましたね。

 話しを戻すと、プリキュアの本気を見た回。キングジコチューのレジーナに対する呼びかけはガチです。ガチでクソ親の言動です。もう少しちゃんと言えば、共依存における親の言動そのままです。アルコール依存症などで子どもに暴力を振るう親が、時折見せる優しい言動、親自身が自分を見捨てないで!と子どもにすがりついたり、自分は良い親としてやり直そうと(その場では)思う時に見られる言動です。ああいう態度を取られた時、子どもは親に付いて行くしかなくなります。キングジコチューは自覚的にそれをやっているように見えますが、一番タチが悪いのはこうしたことに無自覚で、子どもの気持ちを全く鑑みずに同様のことを行う親がいることです。(共依存について、他作品で言及した記事があるので興味ある方は「永遠の仔」の感想を参照されたし)


 子どもにとって親は絶対必要な存在で、好きな相手でもあります。その親から嫌われることは子どもにとって耐え難い苦痛です。また、レジーナの場合は親に嫌われる理由がハッキリしています。マナ(プリキュア)に荷担したから。マナが好き、パパも好き。でもパパはそれを許さない。そうした時に子どもはどう考え、感じるか。おそらくその子は自分が「悪い子」だと思うでしょう。友達もパパも悪くない。なら友達を好きになってしまった自分は悪い子だと思うしかなくなります。自分が悪いから嫌われるのだと。レジーナはまだそこまで思考が至っていないでしょうが、あのまま葛藤が続くとそれを解消するためにそうした歪んだ解決方法を取る可能性もあります。彼女に大人のような判断力や行動力があるのならそんな思考には陥らないでしょう。しかし彼女は幼い子どもです。子どもというのは言わば親の檻に閉じ込められた生き物で、その中でしか動くことを許されません。奴隷に対する主人の支配と、子どもに対する親の支配とに大きな差はないと言った精神科医もいます。どんなに憎くても、どんなに理不尽でも子どもは親を否定することは出来ない。そのしわ寄せは子ども自身に全てのし掛かります。それは往々にして子ども自身の自己否定(自発的な意思を疎外され、歪められてしまうことも含む)という形を取ります。レジーナのケースは子ども視点で見たときの人間関係、親との関係、力関係をとても分りやすく描いています。これを女児向けアニメで取り扱う本作に只ならぬものを感じます。父親に捨てられたり、父親を娘の前で爆死させたり、家庭崩壊しているエピソードは過去にもありましたが、今回の話しもそれに劣らぬ、いや、ある意味でそれ以上に生々しいテーマに挑んでいます。

 余談ですが、子どもが何か問題を抱えている場合、少なくない割合で親に問題があります。例えば子どもに対して関心・共感がない、大切にしない、親からの一方的な行動制限を行うなどです。また、こうした親は貧困家庭に限った話しではなく社会的に成功している家庭でも見られます。親本人は普段行っている教育が当たり前で、子どものためになり、善意でやっているとすら思っていることが多い。そのくせ子どもを意のままに操り、個人としての尊厳を著しく疎外する。しかし私は敢えて彼らが行うことを悪だとは言いません。それもまた愛の一つの形であると思います。ただしその愛は子どもを一つの個、一つの独立した生としてではなく、自分の付属品として同調化を強制する愛、つまり自己愛です。彼らは自分に執着するあまり他者を利用する。愛とは執着することです。だからその対義語は無関心だと言える。そして強固な自己愛は自己すら欺く。この手の人に自省を促すことは不可能に近い。親が歪んでいると子どももそれに巻き込まれてしまう。これは一つの現実です。この悪循環、呪縛、歪んだ対人関係から抜けだし自尊心を回復し、健全な対人関係を結ぶことができる余地は僅かですがあります。人間とは常に変わることができる可能性を持った生き物で、それを牽引してくれる人もいます。ああ、そうか、この流れはこれまでシリーズが積み重ねてきたことの反復でもあるんだな。自尊心の回復、絆の回復、親子の愛情を取り戻し、新しい友達を作っていく。
 目的如何にかかわらずキングジコチューは悪い親の見本です。しかしだからといって、レジーナが彼を好きになってはいけない理由にはなりません。子どもが親を好きになることは当たり前のことです。それはマナによって肯定されています。この物語は人を好きになることを肯定する。その好きという意思を力に換えて戦う。別な目線で見れば、キングジコチューもまた治療の必要がある人だと言えます。親を悪者扱いしたら子どもが救われる、というわけではありません。如何にしてレジーナが健全な心と関係を取り戻していけるかが問われます。


 そういった流れで見ていくと、正直前回書いた話しはズレてたかな~って思ってきました。マナの博愛に対して人を記号化するのではないか?と書いたんですが、この視点では大事なことを見落としてしまいかねない。そもそも本作は何をしてきた物語なんだ?と考えてみれば、新しい友達を作ってきた物語だと言えます。マナはこれまで「分け隔てなく人と接し」「好きな人に対して誠実であり」「周囲を巻き込みながら友達の輪を広げて」きました。友達を天秤にかけない、天秤にかけないために彼女は幾多の困難に立ち向かっています。時にそれが友達との関係に軋轢を生むことがあっても、時間をかけながら打ち解け信頼関係を作り上げている。自立心を養い適度に依存することでそれぞれがそれぞれの物語を生きる物語を描いている。誰の視点から見てもドキドキの世界は友達を作ることの素晴らしさ、尊さがあり、また同時に自分で決断して選び取っていくことの誇りと気高さを見ることが出来ます。その原動力と理想が彼女に仮託されていると思う方がスッキリする。彼女の愛は極端ではあるけど、バランスが取れている。おそらくレジーナはまたジコチュー側に戻ることになるでしょう。マナは挫折を味わうことになる。それを彼女がどう乗り越え、成長していくか。
 いやー、素晴らしい展開です。レジーナと和解して彼女がプリキュアになる、というのが一番単純で分りやすい話しになるはずです。キュアパッションやキュアビートがそれですね。でもそれを敢えてやらなかった。レジーナと敵対関係のまま友達になり、新しい問題が突きつけられています。これまで以上に人間関係の広さ、深さ、複雑さ、そして友達であることの意味と可能性が試されることになります。ほんとにこれ、どんな結末を迎えるのか。最終回が楽しみでしょうがない。


[ 2013年06月30日 16:14 ] カテゴリ:ドキドキ!プリキュア | TB(0) | CM(-)
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