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第21話「トランプ王国へ!王女様を救え!」

○今週の出来事
①トランプ王国へ
 アジト。王女を確保したイーラとマーモは勝利の美酒を味わいます。イーラは今まで一番働いたのは自分なのだからこれからはマーモもベールも部下だとほくそ笑みます。今回はジコチュー側のスタンスがより顕著に描かれています。これは当然レジーナ、プリキュアを含めたコントラストを強調するためですね。
 氷は全く解けません。というか、これクリスタル状になってないか? ハンマーでもダイナマイトでも傷一つつけられません。
 埒が開かないのを見て取ったベールはお父様のもとへ持っていくしかないとレジーナに言います。気のない返事をするレジーナ。マナのことを思い出して辛くなります。まるで誰かを気にしているようだと言われ否定するも本心はそう思っていないことがありありと出ています。ベールはそんな彼女に含み笑いを漏らします。今回この人は当初そうだったちょい悪オヤジの雰囲気が戻っています。


 ソリティア。落ち着かないノッポさんは足をコンコンと踏みならします。六花がラケルの耳をいじっているのが可愛い。前もそういうシーンがありましたが、細かい動作が入っていると人間味が増します。身の回り品、自分の髪や身体の一部をいじることで気を紛らわせたり集中したり、間を保たそうとすることがありますね。
 居ても立ってもいられないノッポさんはトランプ王国へ行こうとします。王女がキングジコチューの元へ連れて行かれたはずと推測。それは当たっているんですが、そこへ行く方法はありません。手詰り。妖精がきっとなんとかなる、と重い空気を紛らわせます。するとアイちゃんの手元からクリスタルが飛びだします。そういえば、クリスタルはこちら側にありましたっけ。
 クリスタルはゲートを作り出します。……とっても便利なんだけど、このクリスタルはとことん自分勝手だなぁ。要するに助けに行けってことだろ。私の居場所はここだからこい、王女さん、超ジコチューっすわ。
 マナが行こう!と話しに乗ります。アイちゃんのお世話はお任せを、とセバスチャン。必要な時は持っていくし、そうじゃないときは持っていかない。これはこれで分りやすい。

 トランプ王国へ。王女を取り戻し、レジーナとちゃんとお話しする。変身。


②迷える子羊
 キングジコチューに謁見する幹部とレジーナ。王女を連れてきたことを報告すると「遅い!」と叱責されます。って、しゃべれたんかい。幹部は叱りつけますが、娘のレジーナは褒めます。
 早速、王女に雷を落とします。が、これまた無傷。ベールは先に人間界をジコチューにしましょうと提言します。その言葉に驚いたレジーナはそこまでしなくても、パパが動けるようになる分だけで……と思いとどまらせようとします。「ぬるいわ!」とパパ。トランプ王国も人間界も前菜、メインディッシュは宇宙、全宇宙のジャネジーは自分のものだと言います。スケールでけぇな。
 胸の奥がズキンとするレジーナ。先ほどかららしくないとベールが声をかけます。我々はジコチュー、人間界がどうなろうと関係ない。キングジコチュー様が本気を出せば人間界もプリキュアも終わり、レジーナ様も面倒な連中とおさらばできてせいせいするでしょ?と問いかけます。これは嫌らしい。レジーナの忠誠が問われているわけですね。初期の頃の彼女なら飽きたらポイ、で済ませられるところです。何かに執拗にこだわることはジコチューの一種でしょうが、相手を気遣うのは彼らの在り方ではありません。鼓動がどんどん大きくなっていきます。「愛を振りまくプリキュアなどいなくなってしまえばいい」そっと耳元でつぶやくベール。
 「そんなのダメ!」
 国中に響くように叫ぶレジーナ。人間界に手を出さないで!と父親に進言。何を言っているんだ?とイーラ。これがジコチュー的に普通な反応。ベールはすぐに謝られた方がいい、とレジーナを止めます。こいつ役者だな。
 もう遅い。誰に向かって口を訊いている。お前など娘ではないと雷を落とします。判断速ぇ。自分に不要なものは即切り捨て。素晴らしい。価値基準が明確であるからこそ迷わない。自分の世界観が構築されているということです。何かを捨てるということと、何かを得るということは心理面において等価であり同時的な取捨選択です。娘を切り捨てることで彼は自分の価値観の完成度を上げている。等価交換とは異なります。より純粋になる、と言った方が分りやすいでしょうか。その選択基準が不変かつ明確であればあるほどその人は純粋な人間性(の一つ)を構築していきます。以前レジーナはマナとアイスを食べに行ったときに「使える」という言葉を使いました。他者を「好き・嫌い」ではなく「使える・使えない」で判断するのは非常に自分勝手な、自己愛的で他人に興味が無く利用することしか考えてない奴の思考法です。私もそうです。私は他人に興味がないので好き嫌いではなく、使えるか否かで評します。この書き方だと薄情で傲慢に聞こえるでしょうが、裏返せば縁故で優遇したり個人的な感情で人を扱う(嫌いだから避ける、嫌がらせする)ことはほとんどありません。そういう意味では公平です。また、キングジコチューのように対人関係での決断が速い。これも場合によっては強味になります。私はここでキングジコチューや自分を弁護しているのではありません。モノの性質はこのように突き詰めればハッキリと分かれていくのです。それが功を奏す場合もあれば、そうならないこともある。常に一定の環境で、常に一定の心性であるなら悩むことも迷うこともないでしょう。やること、やれることが決まってくるからです。しかし人の心も環境も常に変わっていく。だからこそ矛盾が生まれる。レジーナがそうです。彼女は幼い故にジコチューとプリキュアの間にある存在でした。今はその間で揺れ動く迷い子となります。そしてキングジコチューと同じことを違う側からやっているのがマナです。

 倒れたレジーナにイーラもマーモも冷たい言葉を投げかけます。後の始末はお任せを、とレジーナを連れていくベール。なにやら考えがあるようです。


 悲鳴。空を飛ぶ何か。鳥か、隕石か、いやプリキュアだ!(この言い回しの大元ってスーパーマンかな)
 盛大に打ち上げられてそのまま落下。これぞ出落ち。ダイヤさんの扱いに全俺が泣いた。スパッツ着用でも尻餅付いた女の子は魅惑的ですね(ただし可愛い子に限る)。
 眼前にそびえるキングジコチュー。気持ちを引き締めます。イーラとマーモが迎え撃ちます。指パッチンの合図でプリキュアを囲むようにジコチューが出現。イカ、ゴリラ、コンドルに加えてカニと羊が追加になっています。
 ジコチューの先制攻撃をガード。ダイヤは羊を迎撃しつつ乗っかります。なんで? でも可愛いからアリだと思います。この場は自分達が引き受けるので先に行ってとハートを先行させます。マーモはノッポさん、イーラはソードが引き受けます。
 全力で駆けるハート。すげぇ砂煙上げて走ります。

 そんな様子を高見から観察するベール。ハートを逃がすふたりを使えないと評します。とはいえ想定内。愛だの友情だの虫酸が走る。そんなに好きなら愛のために散れ。


③全てを我がものとすること。全てを背負うこと。
 ハートが中央へ向かう間も仲間達は死闘を繰り広げます。ダイヤさんだけアトラクションぽくなってますが。
 進んだ先にレジーナが倒れています。目を覚ますと同時に足場が崩れ落ちます。蜘蛛ジコチュー。垂れ下がった糸を思わず掴みます。
 下はマグマ。一本の糸。レジーナを抱えた状況。なんて分りやすい構図。レジーナは力が封じられているため空を飛べません。この後のシーンでも分りますが、前回力を失ったのは一時的なものだったようです。王女を掘り起こすために勝手に使われたのかもしれません。ほんとジコチューしかいねぇな、この世界。
 ショータイム、とベール。ハート達の姿を映像で映し出してソード達に見せます。ハートはレジーナを背負ったまま勢いよく登っていきます。すると糸が切れかかります。「止まって!」「はい!」。ハート可愛い。
 状況を説明するベール。助かるのは一人。プリキュアの身体能力なら穴の壁を三角飛びで登れそうですが、そういうこと言っちゃいけません。ハートはベールの言葉に構わず静かに登っていきます。しかし背中にいるレジーナは心中穏やかではありません。ベールの言葉はレジーナに向けられたものです。
 「他人を想うから裏切られ、他人を気にするから単純な罠にもかかる。やっぱりジコチューこそが最高だなぁ」
 「違う! 人を信じなきゃ幸せになんてなれないよ!
 他人を信じつつ無関心でいることもできます。ソースは俺。

 重みに耐えられない糸はさらに細くなります。ふたりとも落ちて愛など何の役にも立たないことを証明してくれればそれで結構。万が一レジーナがハートを犠牲にしたとしても俺が糸を切ればいい。そうすれば俺は確実にジコチューのナンバー2。そしていずれは…。実に分かりやすい野心。キングジコチューに比べるとスケール小さいですが。
 今にも切れそうな糸。足下のマグマ。レジーナはハートを抱く腕に力を込めます。
 「ねぇマナ、あたしとマナは何なのかな?」
 「友達だよ
 即答。この子はブレない。レジーナの記憶にあるマナはいつだってそうでした。自分を常に友達と言ってくれた。
 「マナは変わらないね」
 「あたしね、マナと会ってからおかしくなっちゃったみたい。マナに優しくしてもらうと胸がドキドキするようになったの。マナが辛そうな顔をすると胸がズキズキするようになったの。ねぇ、何なのかな? この気持ち」
 「それは人を思いやる気持ち、愛だよ
 「愛…これがそうなんだ」
 一筋の涙がこぼれ落ちると同時に
 「マナ…大好き」
 レジーナが落ちます。

 映像を食い入るように見つめるプリキュア達。特にソードは衝撃と言えるほどの形相を浮かべています。なるほど、これは上手い。ベールの作戦ではプリキュアの士気を挫くものとして映像を使ったのでしょうが、作中における本当の目的はレジーナの決断を他のプリキュア、特にソードに見せるためですね。ジコチューである彼女が自分を犠牲にしてまでマナを助けようとする。彼女の決死の覚悟を見てしまった以上、今度は真琴の覚悟が問われていくはずです。プリキュアはこの辺恐ろしいまでにロジカルで逃げ道を潰します。

 なんかもうめっちゃ良い表情で落下するレジーナ。ハートを映した瞳を閉じて闇が覆うと……ハートが蟹挟みをかましてきます。汗垂らしながら割と必死な表情を浮かべるハート。てっきり足を掴むのかと思ってました。そうするとスカートはどうなるのかな、反重力スカートか?とか思ってたんですが、蟹挟みは想定外。諦めちゃダメ、と叱責が飛んできます。
 「『でも』も『だって』もいりません!」 
 「こんなの全然ピンチじゃないよ! あたしを誰だと思ってるの!
 「あたしは、大貝第一中学生徒会長よ!
 フン、と鼻息荒く気張ります。ああ、そういえば、この子バカだった。猛烈に1話を思い出しました。スマイルの時もそうですが、こういうシーンを美しく描かずに泥臭く人間臭く描くのは良いことだと思います。必死な人間ってどこか滑稽で間抜けに見えるものです。彼らは強いのではありません。必死になるから強いのです。
 「それってすごいの?」
 「すごいよ! 生徒会長はみんなの笑顔のためならレジーナのパパよりも強くなれるんだから!
 マナの言葉をシャルルも支持します。そんなわけないだろ、さっさと落ちろ、とベール。
 「お断りです!
 なんでさっきから丁寧語になってるの。この子はリキむと言葉遣いが変わるタイプなのか。マナの迫力に気圧されるベール。
 「大丈夫! 糸が切れたら壁を登ろう。壁が崩れてもきっと方法はあるよ
 何が何でもレジーナを助ける。そのために私は戦う、とマナは言っています。ふたりで頑張ろうと言うとシャルルが3人だとツッコミを入れてきます。そんなマナの言葉にレジーナは笑顔で「うん!」と答えます。マナは人の想いもその重さも背負う。
 レジーナの身体が光ります。
 「何だろう…すごくドキドキが…高鳴る!」

 主題歌がかかります。珍しい。ハートを掴んで上空へ逃れるレジーナ。力が戻ったようです。
 イーラとマーモがベールの失態を罵ります。蜘蛛ジコチューがレジーナを絡め取ります。が、逆に投げ飛ばされてしまいます。すげー、何がすごいって、レジーナがジコチュー側の力を使ってジコチューと戦っていること。彼女は敵のまま味方(友達)になったという明示ですね。通常プリキュアでは、敵が仲間になるときは一旦無力化されてプリキュア属性が付与されるのですが、ドキドキはそれをすっ飛ばしています。素晴らしい、やはり10年の歴史は新しい時代を作り出すまでになっている。勿論、本格的に味方になるならジコチュー能力は消去されるはずです。いつでも人をジコチュー化できる能力とか持っててもアレだし、空飛べたり瞬間移動できると便利すぎて話し作りにくいし。

 ジコチュー軍団が一挙に攻めてきます。4人でラブハートアローを召喚。ちょいちょい新バンクを追加してますね。っていうか、いつになったらダイヤ単独の召喚バンクが出るんでしょうか。そのうち出るかなーと思って今まで言わなかったんですが、まさか4人同時が来ると思わなかった。ちなみに一時停止したときのハートがマジ可愛い。一気にジコチューを浄化。この人達プシュケーが戻るのはいいけど、またジコチュー化されそう。マジ詰みゲー。
 ノッポさんが王女を持っていきます。来た道を逆戻り。

 レジーナはどうすべきか躊躇います。憎々しげに娘の名を呼ぶキングジコチュー。雷撃が落ちます。ソードがとっさに庇って回避。ケガはない?と言葉をかけます。彼女がレジーナをどう受け入れていくかは次回以降に持ち越しですね。
 ハートはレジーナに手を伸ばします。不安な表情を浮かべながら真意を問うようにハートに視線を向けるレジーナに、ハートは行こうと促します。ダイヤとロゼッタも頷きます。
 躊躇いながら手を伸ばすレジーナ。背後から自分の名を呼ぶ父の声が聞こえてきます。怯えてすくむ彼女の手をハートが握ります。これ来週以降間違いなくキチンと手を繋ぐシーンが入りますね。現状では色々と混乱した状態。友達と父との間で揺れ動く。
 雷撃から逃げながらプリキュア達は人間界へ戻ります。

 王女様を取り戻し完全勝利と湧く妖精達。ソードとノッポさんに笑顔が戻ります。
 「これでよかったんだよね…」
 ただ一人笑顔を浮かべられないレジーナ。心の変化は、人を新しい矛盾と困難へと向かわせます。


④次回予告
 今年も水着は無し! プロデューサー代ってもそこは変りません。口紅さしたプリキュアとか初めてだな。


○トピック
 相変わらず次回予告のもっていった感が酷ぇな。
 ジコチューの在り方を巡る構図として「ジコチュー-レジーナ-プリキュア」という連続した関係が描かれてきたわけですが、これが「父-レジーナ-友達」へスライドしてレジーナの内面の変化が彼女自身と物語を深掘りしていく格好になっているのが見事。これ絶対作り手は楽しんでると思うね。ドキドキはレジーナの物語だって言っていいほど中核を成すまでになっています。

 表向きは王女様救出作戦ですが、本筋はレジーナとマナのお話し。
 そもそもレジーナとキングジコチューは本当の親子なの?という疑問もありますが、真偽がどうあれそれは問題になりません。レジーナの心象的に父であることに変わりないし、彼女が父と友達との間で揺れ動く中で何を見いだすかというところに意味があります。方向性としてはフレッシュのせつなとメビウスの関係にちょっと似ているかな。レジーナは洗脳を受けていたとか、ややこしい事情があってジコチュー側に居た人物ではなくて、本当に子どもとして親元に居た人物です。だから何度も言うようにこれは改心とかではない。彼女の属性が無垢、純粋性を示しているように彼女はニュートラルで、そんな彼女が少しずつ自分の好きなモノ、好きな人を知って成長していく過程にあります。だから前回マナが言った架け橋になろうというのは継続しています。次回どうなるかは分りませんが、単純に親子関係を切って(実は親子じゃありませんでしたを含む)終わらすということはしないはずです。プリキュアはこういうところは逃げない。子ども番組である以上、親子関係はキッチリ描かなければならないでしょう。親父を爆死させて審を問うた事例もありますが。


 愛の反対語は無関心。無関心から抜け出す一つの方法は相手を好き(嫌い)になることです。人を好きになることも嫌いになることもどちらも自分と他者の距離を近づける。他者を他人としてではなく「あなた」と捉えることで代替可能な記号から唯一性を持った個として認識する。愛と憎悪は本質的に同一であると思って差し支えない。他者を個として認めたことの証拠です。では無関心でいることは悪いことなのかと言えば、そんなことはありません。よく海外の貧しい人達はその日食べるものにも困っているのにご飯を残すのか。とか、毎日悲惨な死を迎えている人がいる。なんて言い回しがありますが、私は「だからなんだ」と即答しましょう。自分と全く関係ない人を意識しない、考えないからこそ私達は生きていけるのです。全ての人間を背負おうとしたら思考がパンクします。人が人に優しくするのは元々限界があるのです。友達を100人作るのは可能だとしても1000人は難しい。1億人は絶対無理。相手が困っているなど状況も要因に絡みます。

 回りくどい言い方をしましたが、どんな人でも他者に対して無関心であるし、またその中から特定の誰かと親しくなるものです。当たり前の話しですね。そうやって特定の誰か、特別な誰かを見つけることによって人の内に様々な感情が芽生えます。レジーナが感じたようなドキドキやズキズキです。その起伏が人の形をも変えていく。心に変化が起こるということは、その人に変化が起こるということです。親と友達は違います。友達と恋人も違う。相手の属性、立場によって様々な「好き」様々な「こうしたい」「こうなりたい」が生まれていきます。だから、ドキドキを失ってしまうことは変化を失うことと同じではないかと捉えることができる。なるほど「あなたのドキドキ取り戻してみせる!」とはこの意味で人の変化、成長を再び呼び戻すということに言い換えられる。変身すること、変わることはプリキュアにおいて肯定されることです。事実ジコチュー側は変化がありません。より純粋性を強めている(画一化する)と言えます。自分の世界に籠もると頑固になったり偏屈になったりするしね。ややもすると自分のジコチューを発見して凹むプリキュアは起伏がありつつもそれ故に変化(成長)の可能性があります。
 しかしここで疑問も生じます。では、マナは何なのかと。

 彼女が幸せの王子として我が身を犠牲にしてしまうことに危険や不安はもう感じません。彼女は六花達の力を借りながらキャパを広げている。彼女達の自立心と依存心は高度にバランスが取れているから、六花達がマナの犠牲になるという心配もない。マナがレジーナと友達になりたい、また、レジーナも真琴も頼んでいないのにトランプ王国とキングジコチューの架け橋になろうと言ったように彼女自身の願いで周囲を巻き込み始めている。彼女は童話幸せの王子とは違う方向へと向かっています。だから童話で描かれたような破滅の心配は感じません。むしろ彼女の影響力が強いことが気になってきました。
 マナは真琴を背負い、ノッポさんを背負い、レジーナを文字通り背負います。つまりこの物語では世界がマナに収斂している。世界を我がものにしようとするキングジコチューと、世界を自分の中に取り込んでいくマナに同質的なものを感じます。ふたりとも純粋と言えるほどの願望、欲望、希望をその内に抱き、世界をそれで染めていく。他者を切り捨て利用するキングジコチューにとって他者はただの記号、頭数でしかないでしょう。では、全ての人を救おうとするマナもまた、全ての人を記号化していると言えないか? 究極の博愛は個を形骸化するのではないか。結局誰でもいい、ということになりはしないか。キングジコチューとマナは似ていると思う。どちらも純粋性を突き詰めようとしている。
 何を突然藪から棒に、と思われるかもしれませんが、私の理解では人間にはキャパがあります。全ての人に対して無関心でいることができないように、全ての人に関心を持つなんてこともできません。それが出来る人は一般的に病気扱いされます。マナがやろうとしていることはその意味で極端で現実味がありません。普通であればあんなに人助けに奔走するには相当な動機が必要で、何かしらの理由が無いと人間として許容できません。おそらく人によってはマナを人間として見られない人もいると思います。あるいはなんか動機があるんじゃないかと勘ぐる人もいると思います。プリキュアのパターンから言って主人公の善意に理由付けはしないので、これはこういう子だと割り切った方が良いと思います(私はそういう子ならそういう子として許容する)。が、ここではそういう話しは問題ではなくて、私がここで問題にするのはこの極端な純粋性ですね。ここまで極端かつ純粋ならば一つの純粋型、モデルとして提起できる。例えば幸せの王子のように自己犠牲、あるいは自己犠牲的な自分を助けてくれる仲間の犠牲をどうするか?とかですね。上述したようにこの問題は解決の糸口が見えてきたのでクリアできそうです。そうすると、今度はいずれは対決することになるキングジコチューとの対比、対立軸が浮上してきます。ジコチューという共通したものを持つ者同士が、何を軸に戦い、示唆するのか、と。

 大なり小なり人は我儘です。自己の欲望を現実化しようと様々な努力、働きかけを行います。自分を変えようとすることもあれば人に働きかけて利用することだってあります。それを純粋にやるには尋常ではない力と動機が必要になるでしょう。マナはその意味で自分の本質を敷延させる力を備えている。しかし彼女はまだ自分の本質に気づいていません。何をすべきか(例年最終回で主人公達が気づくもの)も分っていない。いずれは彼女自身がその経験を自分の中で体系付けて意味化(物語化)する必要があります。みゆきが友達の優しさから大切なものを発見したように、響が苦しみ悲しみから見つけたように。っていうのはどうせ最終回近くにならないと分らないことなので、今はそんな感じってことで頭の片隅に置いておきます。もうあと半年物語を積めば自ずと答えが出る。
 一つ言えることは、この物語のジコチューは多種多様にあるということです。他者を切り捨てるジコチューもあるし、愛するジコチューもある。果たしてマナのジコチューはキングジコチューを越えられるか。そしてマナ自身のドキドキは彼女をどこに導いていくのだろう。


 特定の誰かにこだわること、それを絆と言い換えて物語にすることができる。しかしこれは閉じているだの、多様性を否定するだの、依存だのとツッコミが入る。じゃあ、みんなを助けるヒロインにしたらしたで今度は人を記号化しているとか言いやがる。視聴者とは何とも自分勝手なものです(自分のこと棚上げ中)。長々と感想書いてますが、これものすごくプリキュアを褒めてます。だってプリキュアは新しいことにチャレンジしているのだから。10年やっているのに同じことをしない。おかげで同じ感想を書けない。でもすっごく楽しい。考えて書いて物語と一緒に歩んでいるから。もう10年目です。これ完全に夫婦だよね、私とプリキュアって(いい加減現実に帰れよ)。救済、絆の回復、自立を経てプリキュアは人助けするヒロインを選んだ。この意味、この可能性を私は考えていきたい。


[ 2013年06月23日 22:42 ] カテゴリ:ドキドキ!プリキュア | TB(0) | CM(-)
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