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コラム「プリキュアシリーズの勧善懲悪から救済まで」

○はじめに
 プリキュアは主人公や世界観をその都度一新させています。作品同士の繋がりはありません(劇場版オールスターズを除く)。どの作品も少女達が諦めることなくひた向きに頑張る物語として描かれています。それは当初勧善懲悪の形で提示されていましたが、シリーズを重ねていく中で敵の救済へと変っています。私はこの変化がある種必然性を持ったものだったと思っています。物語に真摯に向き合えばこそ、女の子達が何と、何故戦うのか、何を力とするのか、心正しく優しい女の子に何が出来るのか追求していかなければならないでしょう。それを真っ直ぐに追求してきたのがプリキュアです。
 その変化がどのようなものであったかは作品個別の視点では分かりにくいでしょうし、10年近く放送しているシリーズであることを考慮すれば全てを視聴している人は限られています。そこでここでは各作品を個別に捉えるのではなく、連続した一つの長編物語として見ることでシリーズの共通性、継続性、勧善懲悪から救済への変遷がどのような性質のものであったかを説明します。作品個別の評価や感想とは若干異なります。それについては各シリーズの感想を参照下さい。
 もっともらしいような書き方をしていますが、意図してこのように製作されているとは私も思っていません。ただの私の持論です。本シリーズが様々なアプローチを行いながら人間賛歌の物語を紡いできたこと、常に変わり続けてきた物語であることを示すのがこの章の目的です。ざっくばらんに言うとこんな視点で見ても面白いよ、というお話し。


 本題に入る前に大まかな流れを書くと、次のようになります。
1.勧善懲悪。敵は抽象的な存在【ふたりはプリキュア、MaxHeart、Splash☆Star】
2.敵に人間性や感情、動機が現れ始める【プリキュア5、GoGo!】
3.改善懲悪から救済の物語へ【フレッシュ、ハートキャッチ、スイート、スマイル】
 シリーズ全体を通してみると、大きく流れが変っていることが分かります。また、その変化が単発的なものではなく長期的な試みとして為されていることも分かります。前作で出来なかったこと、やらなかったことを補足・補強しながら新たなプリキュア像を構築しています。なお、1作目~5作目(初代~GoGo!)の東映アニメプロデューサーは鷲尾氏、6作目~9作目(フレッシュ~スマイル)は梅澤氏が担当しています。概ねプロデューサーの交代によって方向性が変わっていると思っても差し支えありません。鷲尾氏のプリキュアは勧善懲悪、梅澤氏が救済のプリキュアと言えます。方向性は異なれど両氏のもとでプリキュアは一つの長い物語として紡がれています。
 以下、シリーズの放送順序に従いながら詳述していきます。



○個別解説および変遷
①勧善懲悪のプリキュア【ふたりはプリキュア、MaxHeart、Splash☆Star】
 この三作は基本的に同じ路線です。敵は「闇」「絶望」「滅び」などの抽象的かつ非人間的な存在として登場します。正味な話し、主人公達に人殺しをさせるわけにはいかないので、抽象的な敵と戦わせることによって罪悪感を回避させていると思われます。この結果、絶望に対する希望、滅びに対する生命などのように抽象性が高く思想戦の趣きが強いのが特徴です。
 普通に考えて、女子中学生がそんな訳の分からないモノと戦う理由はありません。そのため彼女達の動機は「日常を守る」「絶望や諦めと戦う」ことが主軸となります。日常を壊そうとする(日常に意味など無いと主張する)敵と戦うことによって、女の子達のひたむきな姿がより鮮明に描き出されています。
 後番組のプリキュア5、GoGo!もそうですが、日常VS非日常の構図はシリーズ初期の基調です。女の子達はあくまで日常を破壊しにやってくる敵を倒すためにプリキュアに変身しているだけで、戦いそのものは彼女達にとって必要とされていません。プリキュアの戦いは日常の外に置かれています。
 この三作は敵に負けない(諦めない)ことが目的です。したがって敵の救済は論理的に不可能です。これは相手が非人間であることも関係しています。ただし例外的に一部の敵とは和解しています。特に初代プリキュアでは和解するも相手と共生することが出来ないエピソードが綴られており「敵の救済」という問いはシリーズ当初からその萌芽があったと言えます。しかし物語全体を俯瞰すれば勧善懲悪であり、敵を倒すことでプリキュアの正当性、努力が立証される形になっています。


②勧善懲悪と救済の狭間で葛藤するプリキュア【プリキュア5、GoGo!】
 基本路線は上述した三作を踏襲しています。敵がそれまでよりも人間的に描かれているのが特徴で、勧善懲悪、善と悪の二元論にほころびが生じます。前三作の敵は人間にとって悪だから、負けてはいけないから戦うで済みます。しかし同情や共感ができる敵を相手にしたことでプリキュア側にも葛藤が起きています。

 5・GoGo!はシリーズの節目であったと思います。主人公であるのぞみはとても優しい女の子でした。彼女に惹かれた友達が彼女を支え、あるいは支えられることで一つのチーム(親友)となって各々の夢を目指していった物語です。しかし、優しさが友情を生み出す一方で敵は倒さなければならない。勧善懲悪の限界と矛盾に行き当たった物語でもありました。もちろん、この二作は勧善懲悪を骨子として作られているため救済しなかったことで何かが損なわれているわけではありません。また、本作はシリーズのエポックメイキングでもあります。「ふたり」から始まったプリキュアが5人になったことで、プリキュアがテーマとする友達の価値や関係の多様性をより広く提示することが可能になっています。実際的な話しを付け加えればマンネリ化が顕著になってきたプリキュアを新生させ、女児向け定番アニメとして定着させるフォーマットを作り上げたことは特筆すべき点です(詳細については別コラム「プリキュアの変遷と継続性」を参照下さい)。
 プリキュアの魅力は諦めずに頑張り抜く女の子達の姿です。ややもすると日常の中に埋没しがちな小さな優しさや絆が如何に人間を支え強くするものであるかを丁寧に描いています。5・GoGo!も5人の友情を力強く暖かく描いています。未就学児童向けアニメであることを考えれば勧善懲悪に徹して良いのです。しかしプリキュアは敢えてそうすることを放棄しました。

 勧善懲悪の枠内で敵を救ったり友達になることが可能だとしても、ではその後どのように処遇していくか。敵と味方の区別はどこで付けられるか。以降のプリキュアはこの問題に取り組んでいきます。プリキュアは何と戦うのか、何故中学生の女の子が戦わなければならないのか、プリキュアとは何か? それを問うようにして新たなプリキュアが生まれています。


③罪と救済のプリキュア【フレッシュプリキュア!】
 前述のとおり本作からプロデューサーが鷲尾氏から梅澤氏に交代しています。インタビューで梅澤氏は次のように答えています。(このインタビューはスマイル放送時のもの。平成24年アニメージュ4月号)
 「プリキュアの対象年齢は未就学児なので、物語で描きたいことはすべて幼稚園の中で起こっていることなんです。未就学児にとっての悪とは、毎日の生活の中で一番怖いもの、つまり園長先生やお父さんやお母さん、あるいは意地悪な友達だったります。だけど、ちゃんと話してみたら思いが通じたり、よくよく考えてみると自分が悪かったりするんですよね。私はプリキュアでそういった単純で大切なことを描いているつもりなんです
 「私の考えるプリキュアでは絶対悪は存在しません。敵側にもちゃんと主張があって、それを言われたときに自分の中にも思い当たる節もある、というのが私の中のコンセプトなんです

 本作から明確に変った点は敵が人間になったことです。その最たる例として、当初敵幹部として登場していたイース(せつな)がプリキュアに転向します。また、ラスボスの正体はせつなの故郷ラビリンスの国家統制用コンピュータです。そのコンピュータに人々が支配されていたという筋書き(いわゆるディストピア)。この物語に悪は存在しません。ラスボスを悪だと断罪するならそれを作ったラビリンス人の責任は免れません。人間の罪と救済。本作からプリキュアは大きく転換します。

 本作最大の目的はせつなの救済にあります。彼女が愛情の無い環境で育ち苦しむ姿を通して見えてくるのは、プリキュアが行うべきは悪を倒すことではなく、苦悩を抱え絶望している人間を助けることではないか?ということです。ここが勧善懲悪から救済への転換の核心です。人間に向き合う。いわば人間の矛盾、罪、苦悩が敵となっています。これをどのようにして乗り越えていくか。敵味方を越えて人が幸せになれる希望の模索が始まります。
 せつなの救済を行うために本作は物語をとおして舞台を用意しました。主人公ラブはその名の通り愛情深い人物で、その親もせつなを娘として受け入れています。彼女達が住む四ツ葉町は多様性と暖かさを感じる街として描かれています。要するにせつなが安心して暮らせる環境を整え、彼女に幸せの意味を知って貰うことで彼女が自ら愛を与えられるように自立させています。心の再生、救済をとおして幸せを生み出していく。それがこの物語が出した答えです。
 戦う相手が人間である以上、もはや戦って勝つことは大きな意味を持ちません(逆に倒すことは人間の否定になる)。プリキュアの正当性を証明する方法が悪を倒すことから、人間の歪みを正すことへシフトしています。
 このようにフレッシュから大幅な路線変更が試みられましたが、プリキュアの基本精神である「困難にぶつかっても諦めることなくひたむきに頑張る少女」というコンセプトと魅力は些かも損なうことはありませんでした。むしろその美点こそが救済に必要なこととして昇華されていきます。


④自分の心と戦うプリキュア【ハートキャッチプリキュア!】
 本作では日常的な題材を取り上げ、人間関係のもつれやコンプレックスなど広範囲の事案を対象にしています。これまでの敵怪人は無機物や人間以外の生物が主でしたが、本作では葛藤に苦しむ一般人(時にはプリキュア自身)が怪人化するなど、「心」を中心に物語を展開しています。
 前作に続き本作の主人公つぼみも救済者としての位置づけにあります。彼女はどんな人の心も肯定し信頼を与える存在として物語を支えています。

 劣等感や悩み、罪、自分を認める勇気……自分の心と向き合い克服していく様が描かれていますが、その締めくくりに問われたのは憎悪の感情でした。ラスボスのデューンが何故憎悪を抱くようになったかは描かれていません。しかしプリキュアと砂漠の使徒との泥沼の争いは結局憎悪の連鎖、暴力に対して暴力を返すことが起因しています。プリキュアもまた結果として共犯者になっていました。この負の連鎖を乗り越えさせるために終盤でゆりの父親を死なせています。プリキュアに憎悪を抱かせた上でそれでもなお愛によって戦うべきだと覚悟を問わせています。宿敵を赦すことによって戦いは終結します。ただしデューンを赦すことは出来ても彼と共生するには至っていません。本作の主要なテーマは心の克服と、その心を(つぼみが)認めることによって多様な人間の姿、心を肯定することにあります。人と人を繋ぐ絆や共生のテーマは次の物語が引き受けています。なお、本作でもっともインパクトがあるシーンであろう「食らえ、この愛」はプリキュアが愛で戦うことをストレートに表しています。
 話しが脇に逸れますが、プリキュアは作中で「伝説の戦士」と形容されています。ですが実際に先代プリキュアが登場しているのはシリーズ中でも本作のみです。その先代たちは敵を一時的に退けることはできても戦いを終わらせることはできませんでした。これまでのプリキュアの比喩とも言えるでしょう。本作はプリキュア自身が自ら変えていけることを暗喩しています。つぼみの「チェンジ」はまさにそれを示しています。


 ①の項で述べたように、初期のプリキュアは戦うことそれ自体は忌避されていました。「日常」に戦闘行為は必要とされません。日常を守るために敵と戦う。この構図もまた変化しています。それは人は日常の中で様々な葛藤や苦悩と戦っているという認識に基づく変化です。戦いは日常の中へと組み込まれていきます。日常に起こる困難と戦い、曇った顔を笑顔に変えていく。幸せの創造。日常の中で戦い続ける人の姿がプリキュアなのだと再構築・再解釈されています。


⑤ケンカしながら友達を作るプリキュア【スイートプリキュア♪】
 救済の道を歩んだプリキュアシリーズのいわば集大成となるのが本作です。
 本作の特徴は響が普通の人である点です。彼女は愛情が欠乏し不安を抱えていました。彼女だけでなく、プリキュア全員が他者との関係に不安を生じた状態から始まっています。本作は絆を結ぶことの難しさと、人の心や関係が不確かで移ろいやすいことを課題にしています。

 ケンカや誤解を経ながら彼女達は絆を取り戻し新しい友達を作っていきます。その最後にラスボスであるノイズとも友達になります。ノイズは人の悲しみから生まれた抽象的な存在であると同時に人から忌み嫌われ愛されなかった存在です。プリキュアとノイズは孤独を体験しています。フレッシュ・ハートキャッチは救済の物語でしたが依然としてラスボスは非人間であるか相互理解が困難な相手でした。コミュニケーションを主題とする本作は最後の難関として、孤独な心を相手にしています。不安や恐れ憎しみが孤独を作りだし、孤独が憎悪や悲劇を作り出す悪循環。プリキュアも他人事ではありません。その孤独な心を如何にして癒すことができるか。スイートは、人は誰もが傷つきながらも心を繋げ共存しうることを提示しています。シリーズの原点である「友達」が受容・共生・信頼を兼ね備えた関係を示すものとして、人を救うものとして、大きな意味と価値を持つに至ります。

 プリキュアの救済に必要なモノは愛情と承認です。フレッシュは相手を受け入れ愛情を注ぐことで、ハートキャッチでは赦す(承認する)ことで救済の道筋を示してきました。そのためには強者(救済者)が必要とされました。強靱な精神、博愛精神を持つ主人公です。ラブとつぼみはいずれも博愛的で精神的に強い女の子でした。しかしこれは限られた強者を救済の根拠にする危うさがあります。スイートが試みたのは普通の人達でも救済が可能であることの証明です。ここで言う「普通の人」とは「強者」の対比として使っています。傷つきながらも優しく強く成長していける人。苦しみ、悲しみ、人が人と争いあってしまう現実に圧倒されてしまうことは決して珍しいことではありません。しかし誰もがその困難を乗り越えていける(可能性がある)ことを描き出すことによって人が持っている普遍的な価値と力を際立たせています。
 ノイズとの共生は同時に悲しみとの共生でもありました。日常には幸せだけでなく悲しみもまた存在している。それは決して無くなることはない。そこから目を逸らすことなく現実に向き合っています。日常の戦い、このテーマもまた継承されています。スイートはその名が示すように、これまでプリキュアが積み上げてきた様々な課題や成果を継承しつつ昇華させています。


⑥依存と自立のプリキュア【スマイルプリキュア!】
 本作のキャラクター造形は王道的でその関係性も模範的なものとして描かれています(フレッシュ~スイートはある意味屈折したキャラクターや関係性をベースにしています)。また、人を助けることよりも助けられることに重きが置かれているのが特徴で、みゆき達は自分が貰った優しさをみんなに分けていきたいと考えるようになります。愛情の恩返しによって絵本で虐げられる狼たちを救済するに至ります。このように本作は健全な関係や心性が正の循環を作り出せることをその核としています。例えるならフレッシュ~スイートは溝を埋める(救済のシチュエーションが生じる)話しでしたが、本作は優しさをお裾分けしていくお互い様な関係として友達が描かれています。

 友達はシリーズの根底に流れるテーマです。どのような性質を持ち、どのように人の心に作用するか、成長の助けとなるか、逆にその摩擦によって苦しみが生まれることが描かれてきました。友達がいるからこそ強くなれる。救われる。友達は大切な存在なのだと。しかしそれは友達の重要性が増せば増すほど依存が強くなっていくということでもあります。これはプリキュアが内包する根源的な課題です。友達と協力して困難に立ち向かっていくことと一人で自立して責任を負っていくことの両立を図れるか。友達を大切にするあまり新しい友達を作ることに消極的になるのではないか。その依存の克服は可能か? スマイルが最後に課題としたのはそれでした。友達と別れなければならないという絶望を経てみゆき達は自立し大きく成長します。本作は友達との結びつきが強い一方で、一人一人が自分で考え答えを出す自立性が高いプリキュアとして描かれています。

 ラスボスのピエーロは人の負の感情が生み出した絶望の権化であり、ノイズのような擬人化はされていません。プリキュアが依存の克服(友達との別れ)をするとともに倒されています。しかしその最期はプリキュアが笑顔で包み込む描き方になっています。
 広義にはこの最終決戦も救済の枠内と捉えられます。元々勧善懲悪と救済とを分けて考えたのは、プリキュアが二元論によって善と悪、幸せと不幸というように比較させて一方の正当性や価値を証明する手法をとっていたからです。プリキュアは救済とともに一元論の手法を取り入れました。善と悪が一つのものから派生する。つまり人です。人が善と悪、幸せと不幸という価値観を作る。人の心が生み出す感情の一方を否定し、一方を肯定することは結果して人の否定、人の歪みをさらに強めるだけです。希望と絶望、愛と憎しみ、共生と疎外、それらを分けて考えるのではなく包括(一元化)して再考する。人の有り様を認め、その上で人の幸せがなんであるか、どのようにしてその道を歩めるかを追求しています。スマイルにおけるラスボスも絶望という人の心理の一面であり、その克服をとおして成長が描かれている点で包括されています。

 ここまで見てきたようにプリキュアはシリーズを重ねながら長所を伸ばし、不完全な部分を補完しながら「プリキュア」という一つの物語、一つの像を作り上げています。プリキュアとは人の戦う姿であり、有り様であり、成長であり、可能性を示すものとして提示されています。



○結び
 プリキュアが一貫して紡いできたことは何だったか、それは人の肯定であったと思います。日常の肯定、そこで生きる人々の肯定、悲しみ苦しみの中にあっても人は幸せを自らの手で掴み取れることを描いた物語だったと思います。敵の救済を通じて人の心の救済を提示しています。

 初代からスマイルまでプリキュアが一つの長い物語を紡いできたことをここまで説明してきました。個々の作品を論じるだけでは見えないことがあります。「勧善懲悪と救済」の視点から捉えることでシリーズの共通性や連続性が見えたと思います。説明の過不足があったかと思いますが、簡単に言えばプリキュアは毎年創意工夫と継承・発展を続けてきた物語である、ということです。
 例えば戦隊や仮面ライダー、ガンダムのような長期シリーズは作品個別にロジックとテーマを持っています。同じタイトルは付いていてもパラレルな関係にあって独立しています。それに対してプリキュアは独立しつつも論理を内在化させて発展拡張しています。「プリキュアとは何か」。自らそう問いかけるようにして研鑽し続けている。そこが興味深く、他作品には無い希有な魅力です。
 念のために断っておきますが、過去のプリキュアが陳腐で最新のプリキュアが優れているとか、作品の優劣をつけるためにこのコラムを書いたわけではありません。論旨の都合上、救済に転じたフレッシュ以降の作品にクローズアップしましたが、初代からGoGo!までの作品はシリーズの基礎を作った作品であり、その意志は最新作であるスマイルにも受け継がれています。それぞれの作品が全力で課題に向き合い、そしてバトンを渡してきました。出来なかったこと、もっと追求すべきことを次の作品で叶えていく。この脈々と受け継がれてきたプリキュアの意志を私はとても高く評価しています。10年近く飽きることなく視聴し続けられたのもそれがあったからだと思います。私にとってのプリキュアとは、全てが繋がった物語なのです。このコラムを通じて伝えたいのはプリキュアのそうした魅力です。


 もちろん、こんな小難しい(小賢しい)理屈を並べなくても、プリキュアは子ども向けとして、子ども目線の物語を書き続けてきただけであり、例えば初代~GoGo!は友達との友情を大切にしてどんな困難にも立ち向かっていく物語でした。フレッシュ~スマイルは梅澤氏のコメントのとおり子ども達が幼稚園で体験する出来事(新しい友達を作る、仲直りする)をベースにした物語でした。子ども目線で作られた子どものための作品だからこそ私はプリキュアが好きですし、それを前提に大人としての見方、感じ方を書いています。
 冒頭でも述べたように、勧善懲悪・救済云々は私の持論です。ですが、この視点、文脈をとおして楽しませてもらっています。プリキュアの物語は常に人間を肯定し、人が生きる姿を力強く尊く描き続けています。「勧善懲悪と救済」の視点はそれを可視化するための一つのアプローチです。その根底にある人間賛歌こそがプリキュアの本質だと思います。苦しく悲しい出来事にさらされてもなお強く生きんとする彼女達の姿に心打たれ、勇気付けられます。
 ドキドキ!プリキュアでシリーズは10年目を迎えます。プロデューサーも梅澤氏から柴田氏へバトンタッチします。おそらく物語の方向性も変わるでしょう。救済するとは限らなくなる。それを私は不安に感じません。また新しい物語が始まる。今までプリキュアから数え切れないほど多くの物を受け取ってきました。今後も遠慮無く受け取るつもりです。

 プリキュアを立ち上げた鷲尾氏、プリキュアブランドを不動のものにした梅澤氏、両氏のもとでプリキュアはすくすくと育ちました。スタッフの皆様方にお礼申し上げます。娘さんは私が貰います!(これが言いたかっただけ)

 ということで、こんな視点で見てもプリキュアは面白いよ、というお話しはここまで。プリキュアを楽しむ一助になれば幸いです。
[ 2013年05月22日 21:39 ] カテゴリ:スマイルプリキュア! | TB(0) | CM(-)
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