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永遠の仔(天童荒太)

永遠の仔〈1〉再会 (幻冬舎文庫)


○永遠の仔 天童荒太 幻冬舎文庫
記:2013.3.9

 「子どものあなたは、絶対に悪くない。間違ってもいない。あなたは、本当は、少しも汚れてはいません。きっと、このことは信じてちょうだい。あなたの魂は、美しいままです

 「あなたたちのくれた言葉は一生忘れない。もう両親も弟もいないわたしにとって、真に支えとなってくれるのは、あなたたちの、心の底から発せられた、あのときの言葉だけです。もしかしたら、あらゆる人々が、ただあの言葉だけを求めて、生きているのかもしれません

 「あの絵を、あの頃の三人を、存在させておくためにも、おれは生きつづけてゆくだろう。そのとき、支えとなってくれるのは、優希が言ったとおり、あの嵐の日の、ここでの言葉だ



 ミステリー小説らしいのだけど、ミステリーはおまけ。共依存が本書のメイン。教科書的なくらい共依存にある人々の姿、声、心を描いていると思います。というか、登場人物のほとんどが共依存。
 「共依存」という言葉は定義が一律ではありませんが、単純にAさんとBさんが依存しあっている、ということに留まりません。アルコール依存症やDV、虐待などが行われることによって周囲の家族までもが巻き込まれその悪影響を強く受けてしまう状態のことを含みます。虐待やネグレクトを受けた子どもが成長して親になったときに同じことをしてしまうという話しがありますが、それは事実です。勿論全ての虐待児がそうなるわけではありませんが、少なくない割合で連鎖していきます。近年、児童虐待が話題になりますが、その一世代前の親子関係も無関係ではありません。

 一般論として考えたときに、自分がそんなに辛い体験をしたのなら、自分の子には優しくするのではないか?と思えるのではないでしょうか。私もそう考えていました。しかし共依存や幼少時の愛着障害について書かれた本を読んでその考えは間違っていたのだと気づきました。虐待を受けた子ども達は致命的と言えるほどの大きな傷を受け、また自尊心が著しく低く自己否定感を抱いています。何故そうなるのか。それは親から徹底的に自己の存在を否定されるからです。
 一番分りやすいのは虐待や性的虐待でしょう。理不尽な暴力は人としての尊厳を傷つける。それが本来自分を愛してくれるはずの親からともなればなおさらです。さらにこの親からの虐待がややこしいのは、それでも子どもは親からの愛情を望み、時には自分が悪いから親が暴力を振るうのだと考えてしまう点にあります。子どもの頃、誰にでも思い当たる節があるはずです。「自分が良い子にしていれば親は自分を可愛がってくれる、自分が良い子であれば優しい親でいてくれる」。虐待を受けてもなお、子どもは親を信じようとするのです。憎しみや怒りを同時に持ちながら。たとえどんな親であっても、子どもにとっては親なのです。親がいなければ精神的にも経済的にも生きていけない。しかしこうした虐待を振るう親は普段から子どもにプレッシャーや責任をかぶせます。作中の言葉を用いるなら、このようなものです。

 「私も辛いんだよ……おなかを痛めて、死ぬかと思うほど苦しんで、ようやく産んだんだもの。親の方が、何倍も辛いんだから。テレビでもタレントが言ってた、子どもを捨てざるを得ない親の方が、子どもより何倍も辛いんだって。私も、お前の何十倍、何百倍も辛いし、年をとるごとに苦しみはつのるのに違いないんだから。本当は辛いんだからね…

 「優希が以前のような良い子になって、お母さんと仲良くなってくれれば、お母さんも、家族を大事にしようと思い直してくれるだろう。お母さん、今なぜか怒ってる。それを慰め、しずめられるのは、優希しかいない
 「昔から成績は一番だったし、学級委員も続けていたじゃないか。勉強だけじゃない。礼儀正しいし、思い遣りもある、奉仕活動も進んでやるって、学校の先生も、周囲の人も、みんなほめていた。とってもいい子ですねって、お父さん、みんなから羨ましがられてた……学校をさぼったりしちゃいけない。食べ物を吐いたりしちゃいけない。街をうろついたり、病院で暴れたりしちゃいけない。お母さんと何があったかは知らないが、立派にやっていけるところを見せてくれ。いいね

 親から責任を負わせられ、自分よりも親が辛いのだと言われた子どもは誰に責任を負わせられるでしょう? 逃げ場があるでしょうか? そんなもの無いんです。逃げようがない。結局、自分が悪いと思うほかに選択が無い。こうして親から肉体的な暴力に加え、精神的な抑圧によって子どもは深く傷つき、徹底的に自尊心を傷つけられ、自己否定感を植え付けられるのです。自分が生きていることが罪だと思うほどに。

 子どもと大人の違いは何かと言えば、それは自立しているかどうかです。大人なら仕事が辛ければ辞めるなり変えるなりできるでしょう。自分で自分の環境を変えられる状況にあるし、変える力を持っています。勿論様々な制約はあるでしょうが、子どもに比べれば天と地ほど違います。子どもは自分で環境を変えられる力を持っていません。学校で嫌な奴がいても転校なんてできないし、ずっと同じ教室、学校でそいつと付き合っていくしかない。人生経験も知恵も体力もない。何をするにしても親の許可が必要になる。親がいなければ生活もできない。つまり子どもは親に絶対的に依存する環境にあるのです。与えられた環境で適応して生きていくしかない。
 身勝手な親の下で生活を続けていけばその日常に適応するための処世術、感性を身につけていくしかなくなります。親の顔色を伺い無理にでも良い子を演じようとする反面、自分が抱え込んだ鬱憤をどこかで吐き出したり、感情と自分を切り離す(一種の解離性障害)ようになる。往々にして見られるように問題行動や学習障害を引き起こし、いつの間にか「子ども本人の異常」という形で世間から見られてしまいます。保護施設などで子どもを治療する試みは現在も行われているでしょうが、本来は子どもだけでなく、その親自身、親との関係を治療すべきなのでしょう。しかしそれはまず期待できない。虐待に遭った子どもが生きるために適応した結果、普通の生活、普通の人間関係が構築できなくなってしまう。それがまた悲劇の連鎖を作り出してしまう。
 また、本書に登場する聡志の存在は共依存の幅広さを知る意味で重要です。彼は虐待を受けていません。むしろ愛されて育っています。しかし、自己肯定感が低く家族に疑念の目を向けるようになります。機能不全に陥っている家族の特徴の一つに「秘密(タブー)」があります。家族内に絶対に触れてはいけない秘密(タブー)がある場合、その秘密を共有している当事者達はそれが鎖となって縛り付けられます(これはこれで一種の絆になる)。その外にある者にとっては疎外され、常に自分が蚊帳の外に置かれたような、真実を隠され続けて育ったような疑心暗鬼に陥っていく。この場合の秘密は内容に関係なく、その秘密が家族内でどのように扱われるかが問題になります。隠され、それを問うことすら許されないという雰囲気を子どもは敏感に感じ取る。

 本書では虐待を受けた人々が親の謝罪や親からの愛情のこもった言葉を渇望する描写がたびたび描かれています。おそらくそうなのでしょう。自分を一番傷つけた者からの謝罪があって初めて自分は無実だった、罪がなかった、自分は悪くなかった、自分は正しいのだと確信できる。いくら他人が慰めても心に響かないのだと思います。しかし現実的に本人からそんな言葉をかけてもらうことはほぼないでしょうし、仮にかけられたとしてもすぐに傷が癒えるわけでもない。だから彼らの心は常に充たされず、その代償を虐待者以外の人に求める。その結果、過度に献身的になったり、依存的になったり、暴力的になったりする。不健全で、機能不全な家庭環境に適応するために必死に生きたために、それがかえってその後の生き方を辛くしてしまう。そして一度染みついた生き方はなかなか修正がきかない。そのことを痛感します。
 ちなみに、共依存の人の心を癒す組合わせとして、同じ共依存の人とのペアが効果的なことがあるそうです。それは相手の境遇を受け入れられる可能性があるということもそうですし、互いの孤独を埋め合える可能性があるからです。共依存から抜け出せた人は包容力や精神力も高いので、過去に共依存を経験している人との出会いもまた重要だそうです。


 人の原体験と言える幼年時代の体験が、その後の人生に大きな影響を与える。
 私自身、自分の体験や感動、素朴な感情が大人になった今でも息づき、その延長上で生きているのだとも思えます。しかし、それは人は変わらないということを証明するものではないと思っています。どんな人でも、自分を誇れる何かを持っているはずです。こんなクソッタレな人生、地獄のような環境の中でも自分は生きてこられたのだという誇り、それを支えた何かがあるはずです。それをただ後生大事に仕舞うことなしに、磨き上げ宝物とし、その宝物を人にも分けてあげたいと思えたとき、おそらくその人は真の意味で解放され自分の生を肯定することができるのだと思います。
 何かの拍子に人の努力や頑張り、優しさや勇気に触れることがあるはずです。その時に、ちょっとでもいいからその人のことを見てみると良いでしょう。もしかしたらその人は自分より辛い体験をしているかもしれないし、常に頑張っていたり、愚痴を言わずに明るく振る舞っているかもしれません。それが何で、何のためなのか分らないにしても、その人なりの宝物や信条があるのかもしれないし、なかったとしてもその人の努力や功績は無くなりはしません。何も特別なことじゃなくていいんです。毎回必ず挨拶するとか、面倒見が良かったり、いたわることでもいい。そういう小さなことを長く続けられる力ってのは、言うなればその人の人格、器だと思います。だから私は思うのです、きっとその人は自分の宝物を人に分け与えられるように努力しているのだと(我をとおそうとしている、とも言えますが)。それがその人をより強く、たくましくしているのだと。
 こんなことを言っても綺麗事と取られるかもしれません。言っている私自身嘘くさく聞こえそうだなと思う。そもそも共依存の人は他者を根本的に信頼できないだろうと思います。でもね、私に言わせれば信頼しなくったっていいんですよ。私なんて他人に興味ありません。私が人に関心を持つのはそれを通じて「人」というものを捉え、その「人」を通じて自分を捉えるためです。共依存に興味を持ったのもそうした人々を理解したり共感するためでなく、単に観察対象として面白そうだったからです。人ってこういうものなんだってね。つまり私は自分が好きなだけ。本質的に言って私は自分以外の人のことなんて知ったこっちゃない人間です。
 人を幸せにしなくったっていい。自分が幸せになるために、自分の宝物を磨いて人に自慢できるような、人に誇れるような自分になれれば自ずと結果は付いてくる。上手く行けば自分が他人の見本になれることだってある。人との関わり方だって千差万別ある。愛し方、愛され方だって一つではない。私は他者と親密になることができない性格だけど、でも人の愛情や友情、信頼を感じることができるし、それをある程度は還元できるとも思っています。世界にたった一人しかいない「自分」を生かすも殺すも自分です。その自分を誇りにすることは正しいことです。勿論、誇るということはその分だけ責任を持つということでもあるんですけどね。自分に恥じない生き方をすればいいだけです(簡単に言いやがった)。そこに辿りつくまでに多くの苦難と過ちを繰り返すのかもしれません。しかし、それを恐れてはならない。その道を経て人は変われるのだと思っています。

 ここ十数年そんなことを考えたり、経験していくことで自然とそう思えるようになりました。たぶん、運が良かったんです。知らず知らずに良い人や良いモノに触れられたのだと思います。だから私は素朴に信じられるんです。人は変われるし、人生は面白い。様々な人がいるように、様々な出来事や出会いが人を変えていく。もしかしたら自分が変わることを屈辱、敗北と感じる人もいるかもしれません。自分は正しいのに何故変わらなければならないのかと。その葛藤はわかります。その疑問に対する答えは単純です。自分を変えることは負けではないし、自分の正当性を損なうものでもありません。そんなもので人の価値や正しさは損なわれません。それを本当に理解するまでには時間はかかるでしょう。腹に抱えた葛藤はじっくり消化していけばいい。
 いやー、完全におっさんの説教だよね。歳を感じちゃうね。でもね、私は歳をとることを悲観しません。歳に見合う自分でありたいと思う。歳をとるということはそれだけ生き、体験し、出会うことでもあるのですから。だから私は自分の歳に恥じない自分でありたいとも思うのです。
 でも、女の子は若い方が好きです。
[ 2013年05月22日 14:13 ] カテゴリ:本の感想 | TB(0) | CM(-)
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