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ハーモニー(伊藤計劃)

○ハーモニー 伊藤計劃 ハヤカワ文庫
記:2011.6.11

 このテクストはetmlの1.2で定義されている。

 「現時点ではこういう結論にならざるを得ませんでした」(生前の著者コメント)


 物語の舞台としては「虐殺器官」のその後にあたる。高度に医療が発達し、政府に代わって生府が人々を管理する社会。いわゆるディストピアもの。

 おそらくもうすでに誰かが指摘していると思うが、この著者はSF書きなのではなく、自分の思考や思想を書くためにSF的な世界を構築しているだけなのだと思う。世界観や構造は非常にロジカルで巧妙なレトリックが仕込まれている。「虐殺器官」がこの物語のための布石だとしたら大した物だと思う。
 人の意思とはなんぞや?というのは「虐殺器官」でも触れられた課題であるが、本作はそれをさらに一歩進めている。人(生物)は進化の過程で色々な機能を得て、あるいは放棄してきたわけなのだけど、だったら"意思"と呼べるものすら進化の過程で生まれた一器官に過ぎず、それを神聖化するのは間違いなのではないか、という指摘は盲点でした。そう言われるとそうかもしれない。

 この世界では医療が高度に発達した結果、人類のほとんどは超高性能かつ高機能なナノマシーンを仕込んでいる。おかげで人類は病知らず。健康第一が至上の世界。個々に最適化された食事、生活をすることでほとんどの人は同じような体型を維持し、誰もが個人情報を開示することでお互いがお互いを人質にとった監視社会を築き上げている。
 そうした社会に生き辛さを抱えているのが主人公達の立場で、こうした監視・管理社会を糾弾してその偽善性を暴くのがディストピアものの(たぶん)王道パターン。…なのだがこの物語はそれをしていません。もちろん主人公達はそうした社会を疎むんだけど、物語の本筋は違うところに進んでいく。
 お互いが監視され、常に健康アドバイザーの指示によってほとんど決められた生活をしている人間に意思なんてものがあるのか。あったとしてこの世界じゃ息苦しさしか感じない。意思なんて古くさい器官なんじゃないの?というわけ。そしてこの世界の科学は人の意思(報酬に対する人間の意思決定プロセス。行動経済学などで出てくる双曲線割引)を操作するまでに達しているため、だったら人間の意思なんて消滅させてしまえばいいじゃん、という発想になっている。科学が発達して、さらに社会的な公共性を人々に強いる社会は人間の意思を邪魔者扱いしてしまう。
 小説では意思のない人間は痴呆症のようなものではなく普通に買い物も食事もする、その行動決定は合理的で逡巡や躊躇いのないものだとされている。意識がない。つまり主体がないということらしい。そこはちょっと想像しづらい点だけど、このアプローチは面白い。個という概念が取り払われ完全に社会化された人類の姿は牛や馬を見るのと同じように映るのかもしれない。
 このように幻想を剥がしてリアリスティックに人間を提示されてしまうと辛いところがある。人間の意思や魂が神聖化(不可侵化)される根拠は結局のところ思い込み、信仰と言っていい。意識がなくてもみんな調和がとれた世界で暮らせるならそれは理想であるし、生物としての人間は保たれているんだからいいじゃない?と言われると、返す言葉が出ない。これは人間とは何か?という問いでもある。


 自由が求められ、少数の犠牲の上に成り立つ社会を糾弾するその背景には人間の個人主義がある。つまり「個」としての権利が尊ばれているのだ。だから管理社会はユートピアにはなれない。その世界では「個」を抑制し自由を剥奪しているからだ。「個」の観念が支配する限り人間は完全な社会化を嫌うだろう。その根源たる人間の意思が進化の過程の産物でしかない、と認めざるを得なかったときに、人は何を尊ぶのだろうか。
 勿論これはもはや思考実験に近い話しで、突飛な話しだと思う。意思を持ったまま朽ちるか、意思を捨てて繁栄するか選べなんてことはおそらくない。けど、科学の発達などによって概念が生まれたり変化しているのは事実です。個人主義が生まれたのは近代の話し。それ以前の人々が意思を持っていなかったというわけではないけど、「個」に対する捉え方は違っていた。人身御供は現代では認められないことだろうけど、古代では普通だった。その社会を成り立たせるために個人を犠牲にする考え方は通用したのです。社会の構成員の合意によって常識や考え方は変わる。個人主義の次の観念が生まれないとは限らない。そのときに人が尊んでいるものによって人の在り方は変わる。
 もっとも、私が生きている間はよほどのことが無い限り現在の延長で進むだろうけどね。100年、1000年先のことを心配しても仕方ないし、人類の行方なんてものは私の手に余る。
 とはいえ、著者が残した言葉のように「その先の言葉」を紡ぎ出せる物語があるのなら是非見たい。

[ 2013年05月22日 14:09 ] カテゴリ:本の感想 | TB(0) | CM(-)
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