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虐殺器官(伊藤計劃)

○虐殺器官 伊藤計劃 ハヤカワ文庫
記:2011.6.4

 「仕事だから。十九世紀の夜明けからこのかた、仕事だから仕方がないという言葉が虫も殺さぬ凡庸な人間たちから、どれだけの残虐さを引き出すことに成功したか、きみは知っているのかね。(中略)つまり、仕事とは宗教なのだよ。信仰の度合いにおいて、そこに明確な違いはない。そのことにみんな薄々気がついてはいるようだがね。誰もそれを直視したくはない」




 著者はすでに亡くなられている。この小説は闘病生活の合間に書かれたもの。全体をとおして生と死の匂いがつきまとっているが、その根幹には己の実存に対しての問いがある。

 SFの最大のメリットは、現実社会で生きる我々が抱く(あるいは抱きかけている)疑問を超設定で浮き彫りにできる点。この小説では現在の延長にある世界を舞台にしている。そこではセキュリティ強化によって個人認証を常としたテロ抑止政策が講じられ、戦争は民間会社が代行し、国家公務員の兵隊は消耗を防ぐため良心の呵責に囚われずに人を殺せる処置を施して戦争へと赴く様子が描かれている。
 なんの感情もなく人を殺し、殺し終えても良心の呵責に苛まれない。自分が人殺しをするのは国が命じたから。そしてこの世界では感情すらも脳機能の問題として制御可能。そのため主人公は常に自己の実存に懐疑を抱く。自分の意思というのはあり得るのだろうか? 彼が生を感じられるのは死と隣り合う戦場だけだった。


 物語全般にわたって、主人公は動機を持っていない印象を受けます。自発的な意思があまりない。自分で自分の主体を感じられない。これは現代の先進国に住む人なら大なり小なり似たような性質じゃないかと思う。生きる分にはほとんど困らない。お金があれば身の安全、食の安全は保証される。職だって大抵の人は就ける。俺はこれがやりたい!なんて明確な強い目標を持って生きている人なんて希です。私も特にやりたいことや明確な将来設計なんてものはありません。だから日常が意識的には希薄化します。なんで生きているんだろう?ってなる。食うに困っている人からすれば贅沢この上ない悩みなんだけどね。
 かといって自分の意思で何かをやろうとすると必ずそこには責任がつきまとう。場合によっては罪にもなる。小説では植物状態になった母親を安楽死させたことに主人公が思い悩んでいるのも例として分かりやすい。
 しかし実存感が乏しいとその罪は果たして自分の罪だと感じられるだろうか。自分の意思がないとしたら自分は負うべき罪すらない状況になってしまいかねない。これは責任逃れとかの問題ではなく、実感の問題です。被害者がお前のせいだ!と追求してくるなら実感として持てるでしょう。では被害者が死んでいたら? 関係者漏れなく死んで罪を犯した自分しかいなかったら。あるいは誰が赦してくれるのか。ここで神を信仰しているなら神が赦すか、神に対して誠実に生きようと改心できるかもしれない。神を感じる事ができれば己の犯した罪を常に意識していられるかもしれない。でも、現代人の多く(日本人は特にそうでしょうが)は無神論者です。その人達はどうやって罪と向き合えばいいのか?


 前置きが長くなりましたが、私が本題として触れたかったのはここです。神を殺した現代人にとっての罪と罰、生きるということの実存的な問題は今を生きる我々のテーマになると思っています。というか、どうもそういう話しに私は食指が動くようなので私自身がそうしたテーマを持っているんだと思います。
 この小説がユニークだと思ったのは、最初から最後まで実存を扱っていることです。「生きたい」という欲求よりも「生きている」という実感への欲求が色濃く出ている。人は(遺伝子や社会要請を含む)運命によって動かされる自動人形なのか、それともそうした諸々のことを含めた上で選択することができる自由意思を持つ存在なのか、という問い。責任から逃れることで自分を守りたい欲求と自分の意思で何かして実感を得たいジレンマ。その果てに人が背負う罪や罰すらも生きる実感に結びつけている本作の発想は面白い。愛情の反対は憎悪ではなく無関心。自我は他者の存在なくして発生しない。他者からの視線を感じることで自分の存在を意識できるし、常に他者と関わりを持つことで生の実感が沸く。母の愛情すら得られなかった主人公が最後に取った行動の根底には、実存への飢餓感があるように見えます。


 といっても、私自身はなにもそんな破滅的な行動で生を感じたくないので、もう少し明るい方向で行きたい。この感想を読んでいる人はすでに私が女児向けアニメ「プリキュア」の感想をメインにしていることをご存じかと思いますが、そういうテーマを持って見てもいます。
 日々を暮らす中での生の実感、人の可能性。罪と罰をもプリキュアは扱っています。罪と罰でならフレッシュプリキュアが強烈でした。あの作品は罪に対する罰を完全に棚上げしています。そもそも罰とは自分が罪を意識したときにずっとついて回る呪縛です。だから自分が悪いことをしてしまったと思っていたらそれはもう罰を受けている。ではその罪は如何にして赦されるのか、あるいはそのまま持っているべきなのか。この作品はそんな次元でモノを見なかった。幸せになることで全てを癒せると見せた。幸せを知り創っていくことで当事者ひいては全ての人間が前に進めるのだと見せた物語でした。翻って言えば、幸せとは日常(自分が生きてる現実)の中にある。その日常の些細な事柄、些細な関係から多くの糧を見出すその姿勢に私は惹かれます。

 自分を感じたいならそれは罪や罰ではなく、仕事や人間関係から見出すべきだし、その中で罪を償う(良心に基づいて行動する)べきであると思う。その行為もまた実存へと繋がる。もしかしたらそれは神に向き合うよりも困難かもしれません。人に向き合うよりも偶像に向き合う方が往々にして楽だからです。でも神を持たないんだからそうするしかない。夢や大げさな動機がなくても私達は現実を生きなければならないし、良心や憎悪を含む感情や理性を踏まえた上で何かを選択していかなければならない。今一度、日々の中から自分と、そして自分を見出す上で絶対に必要な他者と、その関係性を見出したいと思っている。そこまで分かっていて女児向けアニメ見るってんだから、ものすごく遠回りで婉曲的な見出し方ではあるのだけど。

 結局プリキュアの話しになったけど「虐殺器官」はクリティカルヒットでした。おかげで色々思うことが出てきた。そうした思索は自分の本質を探りながら、向き合いながら洗練させていくのに役立つ。
[ 2013年05月22日 14:09 ] カテゴリ:本の感想 | TB(0) | CM(-)
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