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レ・ミゼラブル(ユゴー)

○レ・ミゼラブル 全5巻 ヴィクトル=マリー・ユゴー  訳 佐藤朔 新潮文庫
記:2010.6.28

 瀕死の老人(ミリエル司教が会った革命議会議員)の残した言葉は、革命の理想を正確に伝えております。実際、本物の国民公会議員で、「王様殺し」の張本人と言ってよいサン・ジュストは、1794年の2月26日と3月3日に、国民公会で演説してこう述べました。
 国家のなかに、一人でも不幸な人や貧しい人がいるのを放置しておいてはならない。そういう人が一人もいなくなったときに、はじめて、諸君は、革命をなしとげ、ほんとうの共和国を建設したことになるだろう。……
 フランスの領土内には、もはや、一人でも不幸な人がいてはならないし、また。他人を抑圧するような者が一人でもいてはならないのだ。諸君がそう決意していることを、全ヨーロッパに知らせるべきである。どうか願わくは、このフランスの実例が、地球の上で豊かに実を結び、徳への愛と幸福を地球の上にゆきわたらせることを!幸福とはヨーロッパにおいて新しい理念である。
 まことに、フランス革命の理想は、ミリエル司教が聞いた言葉と全く同様に、この世の不幸や悲惨を絶滅して人間の尊厳を回復することにありました。そして、「レ・ミゼラブル」の長い物語の全体が、革命のこの理想によって貫かれているのです。 (フランス革命 歴史における劇薬 遅塚忠躬)

 「地上に無知と悲惨がある以上、本書のような性質の本も無益ではあるまい」 (レ・ミゼラブル ユゴー)


 フランスの小説家でもあり政治家でもあったユゴーの長編小説。小説はナポレオンがワーテルローで破れた1815年からルイ・フィリップ王の7月王政中の1833年までが舞台となっている。なおユゴー自身はルイ・フィリップの時代から第二共和制の時代まで政治家をやっていたがルイ・ナポレオンの第二帝政とともに亡命したという経緯がある。本作は亡命中の1862年に書き上げられた作品。

 本作の冒頭部分である銀の燭台のエピソードは有名。司教の家に泊まった男が夜中に銀の食器を盗んで逃げるが憲兵に捕まり司教の家に連れてこられる。ところが司教は男に銀の燭台を見せてこれもあげたのに何故持って行かなかったのですか?と彼を無罪放免にした上に燭台まで差し出す。このことがキッカケとなって男は改心する。この男こそ本作の主人公であるジャン・ヴァルジャンであり、燭台を渡した司教こそミリエル司教である。この物語はジャン・ヴァルジャンがその後どう生きたか、そしてその生きた時代を描写した物語である。


 この物語には、如何に著者が人間の自由や権利の復権を望んでいたか、その意思の強さ、またフランス革命をつうじてそれを成そうとした母国フランスと民衆への誇りが込められている。勿論フランスの人々には王党派(王政派)、ボナパルト派(君主派)、共和派(国民国家派)などがあって一枚岩ではない。しかしその理想と信念はフランス革命が終わっても決して消えることなく燃え続けているという確信を著者は持っている。

 自由民権運動などのデモクラシーは日本でもありましたが、それは西洋から輸入されたものでした。というのもフランスでは封建社会の階級による格差が続くなかで、近代産業革命なども相まって古い体制の限界が生じました。具体的に言うと度重なる戦争や他国との競争で財政困難になり、その補填を(聖職者や貴族を除く)民衆から取り立てようとしたこと、イギリス産業革命によって競争力が減退している中での閉塞感や階級格差に民衆は不満を爆発させました。勿論、これは単に経済的な理由だけに留まらず、王権から脱して人間が持つ本来の自由を取り戻すのだ!という思想的な面での正当性を生み出すことにもなります。こうした思想や革命の指導的役割を担ったのがブルジョワ層で、この層が既存の権益を持っていた貴族や聖職者を打ち倒した(大きな譲歩を行わせた)というのがフランス革命の実利的な面です。
 日本は明治維新にともなって西洋のこうした思想などをそのまま輸入しました。日本も徳川幕府がそうであったように封建的社会でしたが、鎖国していたこともあって他国との経済競争に巻き込まれることもなく格差が目立つような社会ではなかったようです。そのため、人権はお上から授けられる形で日本人は知ります。西洋では民衆が蜂起して獲得しましたが日本ではそうなりませんでした。これは文化的、経済的、西洋圏と東洋圏の違いでもあります。

 本作「レ・ミゼラブル」は惨めな人々、虐げられる人々という意味を持っています。こうした人々を救い、無くし、人々が本来のあるべき姿で暮す社会を望む意思が本作を形作っています。人道主義的な思想ですね。読んでいて気づいたのはそうした「人道」の根本がどこにあるかと言えば、それはキリスト教精神であることに気づきます。キリスト教圏の社会なので当然ですが。
 キリスト教は一神教です。唯一絶対の神が存在する。人間はこの神と一人一人が契約します。レ・ミゼラブルで書かれているのは、人間には本来の自由と権利があり(神と契約しているからです)、それは人間が勝手に作り上げたルールに束縛され抑圧され蝕まれてはならないという精神です。人間は不完全な生き物ですが神の偉大な意思と理想を良心をつうじて体現する。人が神の声を聞いたとか、人の言動の中に神の意志を見るといったようなことは、こうした人間と神の関係や人の良心の在り方を指している(たぶん)。
 こうしたキリスト教精神はそこに住む人々の文化となり、精神的な前提となります。人の精神や良心といったものは文化圏や宗教によって大きく影響を受ける。それは日本人には日本の、東洋の、仏教や儒教、神道の精神が根本にあるのと同じです。レ・ミゼラブルにおける、いやフランス革命において芽生えた人道主義的な思想はキリスト教文化から生まれた自然的な発想なのだと思います。
 そして多少の違いはあるとしても西洋と東洋の思想の中に共通する人間の気高い理想があることにも気づきます。旧5千円札でお馴染みの新渡戸稲造の「武士道」にもそうした東西思想の違いや共通性が書かれている。人々が感動し素晴らしいと感じる精神にはそうした文化、宗教に根ざした精神、あるいは人の普遍的な精神があると知ることに私は感慨深いものを覚えます。
 もっとも、キリスト教の言う人間の権利、自由とはキリスト教徒のみをさすものとしてそれ以外の教徒を迫害、奴隷化した歴史も忘れてはならない点です。全ての人間が公正ではないし、どんな高尚な理念も人間によって歪められる。

 宗教が信じられたのはおそらく19世紀が最後でしょう。トルストイやドストエフスキーも同時代の人ですが、彼らの書く作品の中ではすでに宗教は廃れつつありました。神なんていない、非科学的だ、今後は科学の進歩こそが人を自由に幸せにするとして信仰の対象が移行していきます。私が宗教に意義を見出すとすれば、神仏の概念です。これってようするに人間が作った理想像なんですよね。自然への神秘と畏怖と合わせて、人間の道徳や倫理の集大成として作られ洗練されていったものだと思っています。だから、神を信じるということは人間のそうした理想を信じる(清く正しく生きましょうというスローガンを遂行する)ことになります。神が死んだ、というのはつまり人間が生み出した理想を否定することになる。ドストエフスキーが危惧したのはそこでした。神を信じなくなることで、道徳や倫理も忘れ去られ科学の発展と称して人間の力が無制限に肥大化していくことを恐れたのです。ニヒリズムや個人主義が社会の結束を壊してしまう。事実、近代では都市化と工業化によって地域のコミュニティは崩れているし、日本では会社がコミュニティの機能を持っていましたが現在では雇用形態の変化からそれも機能しなくなってきている。
 現代が宗教に代わる道徳や倫理、理想的な人間の在り方、結束を提示できているかは分かりません。宗教の残滓として慣習や文化が残っているし、人間は先天的に道徳観を持つらしいので道徳観が崩壊することはないでしょうが。それに全員が利己的だと逆に不都合になる(ゲーム理論的に)。
 宗教が信仰の対象となり得ない現代で、ではどうのようにして道徳、倫理、正しさを提示し実現していくかというのは個人的に追い求めている点でもあります。



 小説の中では様々な人物が登場しますが、ジャン・ヴァルジャンとジャベールは対照的で各々の行動原理を表しています。
 訳者が巻末の解説でジャベールが自殺するのを(心情的に)いささか理屈に合わないと書いていますが、私は別な解釈を与えます。
 ジャベールは虐げる人の代表であり、その信念は人間が作ったルールの徹底遂行です。法によって人を罰し、権威に従う。犯罪者は罪人であってそれ以外ではない。明確なルールと境界線があると信じている。人間が作った正義の代行者。対してジャン・ヴァルジャンは寛容と理想を持った神の正義の代行者。
 ジャンに赦されたジャベールが、ジャンを赦したとき、彼は神の正義の存在を感じるも認めることができず、さりとて今までのように人間の正義を確信することもできない自己矛盾に陥ります。今まで信じてきたものを信じることが出来なくなり彼は生きる場を失う。彼が困惑したのは罪人が聖人になりうること、社会の法や権威が絶対ではないこと、誤りがあり得ること、そうした混沌とした社会に自分が立っているという不安でした。もっと簡単に言えば、人は人を裁くことができないということ。キリスト教はたしか、人間が完全ではない以上人に過ちがあり得ることを認めているはずです。だから人が人を厳密には裁けない、人間の限界を認める考えがあったと思います(逆に日本人は人の合意で決めてしまうので押し通す傾向がある)。人間が人間を裁く社会、人間が作ったルールによってのみ運営される社会で生きる人間の限界を描いたのがジャベールの顛末だと解釈します。


 本作の主人公であるジャン・ヴァルジャンの生き方はそれに対して対極的です。
 銀の燭台を受け取ったとき、彼はすぐに改心したわけではありません。その直後に彼は図らずも子どもからお金を奪ってしまいます。このとき決定的な打撃を彼は受けます。最早自分はミリエル司教以上の聖人となるか、徒刑囚以下のクズとなるか選ばなければならないと悟り、前者を選ぶ。このときの描写は圧倒的なインパクトがある。人間の内面が破壊されすぐさま再構築されていく過程、つまり回心、啓示が示す人間の心の変化、価値観の変容が描かれている。
 その後、ジャンは名を変え市長となり街の発展に大きな成果を上げます。しかしある男が自分と間違われて罪を着せられてしまう。それを知った彼は苦渋の決断の末に自分が罪人ジャン・ヴァルジャンと明かし全ての地位と名誉を捨てる。
 著者は作中で「人生の最高の幸福は、自分が愛されているという確信である」と書いています。ミリエル司教は独身で晩年盲目になりましたが、彼に付きそう妹の存在が彼を幸福にしました。自分が必要とされていること、必要としている人に必要とされること、自分を愛してくれること、愛すこと、それをお互いに知っていること。この幾重にも結ばれた関係が人を幸福感と満足感で満たす。ジャンはコゼットを愛することで、彼女からも慕われ愛され無上の喜びを得ます。彼はコゼット以外を必要としなくなる。しかしジャンがミリエル司教と違ったのは、コゼットは若い女性となり他の男と恋に落ちたことでした。コゼットの瞳が自分ではなく他の男に向いたとき、彼は奈落の底に落ちたような絶望感と嫉妬を覚える。
 罪人である彼は、自分がコゼットと一緒にいることでコゼット達を穢してしまうのではないかとも考えます。もし自分が徒刑囚だったことが明るみに出ればコゼットの幸せをぶち壊してしまう。彼はコゼットの結婚を見届けると自分の全てであったコゼットとも別れて独りになる。コゼットを失った彼は日々衰弱していく。

 彼のこの生き方に感ずるのは、一種の哀れみです。人間の身でありながら神の正義を貫いたその生き方に感動と気高さを感じるものの、同時に苦悩と痛みを伴う人間の弱さ脆さをそこに見る。彼の選択は普通の客観的な視点で見れば間違っています。あまりに犠牲的で超人的すぎる。彼の功績は彼が犯した罪の数や質に比して圧倒的に勝っている。妥協して良かった部分があるし、妥協しても責められることじゃなかった。勿論心情的に理解出来る部分もあります。ジャンはコゼットを愛するあまり自分の穢れに触れさせたくなかったのでしょう。しかし彼はコゼットを必要としていた。その矛盾に何度も苦しんでいる。
 ジャベールが社会秩序を求めていたように、ジャンは理想を求めていた。そしてジャベールは人間の正義を越える理想を知って苦悩したように、ジャンは人間の本能、欲求に苦悩した。
 ジャン・ヴァルジャンを理想と高潔さを持った人物として褒め称えることは私には出来ません。彼の生き方は人間には過ぎたものです。現実的ではない。こう言っている時点で妥協しているんだけど、だって人間であって神じゃない、そんな理想を簡単にみんなやれたらそれを理想なんて言わない。
 それでもなお、彼ジャン・ヴァルジャンの行動、生き様、最後の言葉に感動するのは彼の全てに人間の理想があるからです。前述したように、神の正義、理想とは人間が作りだしたものです。人間の道徳や倫理そのものです。良心の復活、人を赦す、罪を償う、社会に貢献する、貧しい人々を救う、人を愛する、幸福を希求する、そうした精神を苦しみながらも決して失わなかったその姿に、人間の素晴らしさを見る。

 フランス革命の精神を持ったこの作品でジャン・ヴァルジャンが創造されたのは、貧しく虐げられる人々にも自由と権利、そしてなにより偉大で尊い精神があることを示すためだったのだと思います。ジャン・ヴァルジャンは革命家ではなかった。一個人として質素に慎ましく生きる人間でしかない。しかしそこに人間の理想、良心を示すことでフランス革命という血で血を洗う惨劇の中で成そうとした人間性の復権を提示している。
 レ・ミゼラブルはその歴史的背景と描写、人間賛歌が見事に集約された名作です。この作品が生まれたその時代を知る上でも非常に参考になります。
[ 2013年05月22日 14:06 ] カテゴリ:本の感想 | TB(0) | CM(-)
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