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マインド・コントロールとは何か(西田公弘)

○マインド・コントロールとは何か 西田公弘 紀伊国屋書店
記:2010.5.29

 早い話がマインド・コントロールとは認知的不協和理論と自己知覚理論の応用であり社会心理学の実例。と言えば分かる人はそれで分かるだろう。

 心理学や心理分析と言うと文学小説を読み解くように人間の心を読み解いていくようなイメージがあるかもしれないけど、実は心理学というのは統計学を主に用いる。人間とはどういう行動を取りやすいか、特定の環境や条件を与えられたときの行動を集計することからこの学問は成り立っていると以前本で読んだことがある。ようするに所詮人間も動物であり人間特有の行動パターンがある。

 マインドコントロールというとイメージ的にはオウム真理教で使っていたヘッドギアを連想するが無論それとは関係ない。そもそもそんな怪しげなものを付けている時点でマインドコントロールされている。ちなみに本書ではオウム真理教の名は出てこない。本書の出版は95年7月で地下鉄サリン事件は同年3月だから盛り込めない訳ではなかったと思うが、元々本書はオウムを扱っているわけではないので過去の事例で事足りている。おそらく当時としてはタイムリーな出版だったのではないかと思う。ただマスメディアはマインドコントロールについてまともに考察はしていなかっただろうけど。
 著者によると「洗脳」と「マインドコントロール」は違う。前者は強制的に尋問や薬物投与など生理学的に行うのに対して、後者は本人が自分の意思で行動しているように作為的に行わせるものであり直接的な苦痛などはほとんど伴わない。ちなみに洗脳は朝鮮戦争で捕虜アメリカ兵が共産思想を植え付けられたことから大きく注目されるようになった。とはいえその洗脳はそれほど完全なものではなかったらしい。

 さて、マインドコントロールは如何に行われるかということなんだけど、それ以前に人間というは自分達で思っているよりも環境や周囲、他者に影響されやすいものだということを自覚すべきであろう。例えば、私達は紙切れを「一万円」などと言って大事にしているし、何故か仕事ではネクタイをしているし、死んだら坊主を呼んで葬式をする。これらは科学的には全く意味がない。単に人間が取り決めたルールに過ぎない。それを当たり前だと思っているだけ。つまり人間とは自分達が勝手に決めた習慣やルールを一度受け入れてしまうと疑問に思わなくなるし、そこに理由付けまでしてしまう生き物なのだ。

 カルト的な宗教団体や反社会的な組織が行うマインドコントロールの手法は社会心理学の理論から言えばかなり合理的かつ洗練されたものらしい。といってもそんなに難しいことではなくて、最初は気軽に声をかけたり簡単なセミナーなどで人を呼び込む。で、親切丁寧に会話をしたりする。すると「この人は親切で信用できそうだな」と思ってしまう。実際勧誘している信者などは大抵善良で騙そうという意図はない。本人達は至極真面目である。誘われている方も「いつでも止められるし断れる」と思っている。が、これがミソで一度要求を飲むと次々と要求を飲みやすい(心理的にそう働きやすい)。商品を買うときにオプションであれもこれもと付けていくのと似ている。
 現代人は非常に悩みが多いのではないかと思う。仕事での悩み、家族の悩み、将来の悩み、孤独、悩みの種は無数にある。そうしたときに親切にしてくれる人がそばに居るとその人が特別に見えてしまうこともある。平々凡々な人は通常あまり人から尊敬されたり誉められたりしない。だから勧誘者から親切に尊敬を持って接せられるとコロっと落ちてしまうことがある。そういうこところから本格的に組織に入ってしまい、またそうした組織は情報遮断や過労働を迫り判断力を落とすようなこともさせる。ここまでの流れで本人は全て自分の意思で行っていると思っているし(本当はそうなるように仕向けられている)、実際孤独や悩みなどが軽減されているので本人的には不都合が無い。
 先に書いた認知的不協和理論と自己知覚理論とは要するに事後承認を人間に行わせるもので、自分がやっていることは合理的で正しいことだと思ったり、間違っているのは他者や違う理由であって自分は正しいとか、自分の考えに不都合な情報は見ないなどの心理的偏向である。例えば自分が気に入っている家電製品の情報で良い情報と悪い情報があったら前者だけに注目することはあるだろうし、二者択一で片方を選んだ場合選択した方を正しいと思い、選択しなかった方はやはり選択しなくて良かったなどと思ったりする。人間は自分に都合の良いように解釈する。
 また一度組織に入ってしまうと財産などを寄付したり仕事を辞めさせられたり家族と別れる場合もあるので、抜けるに抜けられなくなるという理由もある。なお、組織が犯罪などで解散させられた場合などでも信者が残ったりするのは、結局行き場がなかったり、自分達こそ被害者であり世間は加害者であるというようなバイアスを自らかけてしまうことで内部結束が一層高まるなどの心理作用がある。どんな人でもそうだが、自分は社会の底辺でクズで反社会的な人間でロクデナシの穀潰しだなどとは思いたくない(末端の信者や構成員は元々普通の人)。
 マインドコントロールとは日常的に人間が行っている認知や判断を恣意的に他者が操作するもので、本質的にはごく当たり前の心理的作用である。だから連続的、段階的に考え方や行動が変わっていくのでおそらく普通は周囲も気づかない。気づく頃には遅い。


 …というような話しはこの感想ではどうでもいい話しで、私が言いたかったのは人間っていうのは自分で思っているほど明確で確固たる意思を持っているわけではないということです。随時比較検討しながら変化していく。
 最近ではマスメディア(特にテレビ)の報道に信頼性が持てないと考える人が多くなっていると思うけど、じゃあその代り何を信用しているかと言うと、ネット上の情報だったり、どこかの専門家の意見だったり、自分が読んだ本だったりする。ではそれらが正しいという根拠があるのか?と言われれば「?」になる。直接自分が調べた訳じゃない。詳しい人や専門家の意見を信用していると言えば聞こえは良いが、権威性に従っているだけとも言える。特に自分が知らない事柄なんて受け売りでしょう。
 私達は通常、学校に行って、卒業して会社に入って、朝から晩まで仕事して、自分の意思とは無関係に上司の命令を聞いたり、休むに休めなくて身体を壊すくらいに働いたりしている。会社を辞めたくても再就職が難しくて出来ない。これってどれだけカルト的組織と違うの?と思う。時には会社の命令だからと法律に反する、人命にかかわるような違法行為もあり得る。それは実行者が悪人だからではなく、自分は命令されているだけという責任転嫁があったり家族を養うためとかの事情があったりする。本当に残酷で徹底容赦ないことをするのは悪人などではなくごく普通の一般人なのです。確固たる意思がないからこそ社会や組織や人に従う。従わなければ不利益を被るのは自分。
 自分の意思で動き、不正を行わない人を聖者と言うかもしれないけど、それは社会組織の中では偏屈で使いにくいと一般的には言われるでしょう。そういう人は尊敬されるが疎まれることも多い。一番良いのは無難に風見鶏で過ごしながらチャンスに目を光らせるしたたかさである。そこまで出来なくても無難で十分。その無難さは結局周囲の動きや空気、権力に従うということであり、自由意思を持っているように見えて実は自動人形になっているのではないかと思える現象でもある。一人一人実は不満があるのに誰も口に出さないから結局不満が無いように見えてしまいそのまま進んでしまう。人間は「社会」という環境と情報にどうしても支配(制限)されてしまう生き物です。その社会を一人一人の人間が作っている。

 ぶっちゃけ私はそうした意味で人間をあまり信用していません。知能が多少高い動物というだけで固有の行動パターンと性質がある。自由意思などというものは元から制限されている。そのことに自覚すらない。
 でも、だからこそ人間というのは面白い生き物でもあると思う。そうした中での苦悩や足掻き、意思の発現がある。それらは生きる中で一人一人が直面し体験する。俺馬鹿だから馬鹿でいいよ、という人は面白くも格好いいとも思わないけど、馬鹿なりにやれることをやってやるよ!というのは面白いし格好いいと思う。会社でこきつかわれて、嫁さんから粗大ゴミ扱いされる人も居るだろう。でも、どこかに、会社で働くことで社会に貢献できたり、人に認めて貰えたり、人を育てたり、愛したり、愛されたりする喜びもある。社会は人を束縛し自動人形のようにさせるけど、その中で人の心は喜びを感じ、自らの意思でなにがしかを行うことだってある。苦しみの中に喜びが、抑圧の中に自由がある。
 これはもう、ただの美学というか趣味なんだけど、格好いい馬鹿になってみたいと思う。それは人間の意地というか、抵抗というか、俺は生きてるんだぜ!という根源的な叫びなんだと思う。苦痛と苦悩の中から喜びや幸せを掴み取ろうとする人間の姿を私は肯定します。その方が格好いいから、というだけの理由で。
[ 2013年05月22日 14:06 ] カテゴリ:本の感想 | TB(0) | CM(-)
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