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賢い利己主義のすすめ(頼藤和寛)

○賢い利己主義のすすめ ポスト・モラリズム宣言 頼藤和寛 人文書院
記2009.4.30

 著者は精神科医。直腸がんで亡くなっており、その"耐"病生活を綴った最後の本「わたし、ガンです ある精神科医の耐病記 (文春新書)」など多くの本を執筆している。
 頼藤氏の人生観やモノの考え方が好きで著作はよく読みました。この本も10年くらい前に買って、気まぐれでまた読み返しました。

 精神科医のくせに相手(読者)を慰めるどころか、現実はこんなもんだ、とざっくばらんな語り口調が爽快で現実認識を前提にした考え方は実践的で面白い。本書では人の精神的な発達、道徳観、犯罪者の精神的傾向を分析したうえで、結局人間は利己的な生き物だけど、自分に都合の良いことばかりやったら嫌われるから、親切な人には親切に、悪党には辛辣に、相手の性格が分からないならとりあえず親切にするナイスな戦略(政治学者アクセルロッドがゲーム理論で実証した戦略)をとろう、といっている。世の中には非常に世渡りの上手い人、お人好しの人、狡い人が居て、おそらくこの割合は変らないし、そう生まれついてしまったら本質的には変われないので、お人好しはもう少しずる賢く、狡い人はもう少し賢くなった方が世の中をより自由に楽しく生きられるんじゃない? と述べている。


 心理学や社会学の本を読むのは「果たして人間は生まれつき様々なものが決まっているのか、それとも環境によって決まっていくのか」というところに興味があるからです。もう少し言えば、自由意思があり得るかどうか。生まれつきにしろ、環境にしろ、果たして人は自分の意思で自分を生かすことができるのか。
 社会学者や教育者には残念な話であるけど、たぶん、人間の本質的な部分は生まれつきによる部分が大きいと思う。個人的な暫定結論としては、嗜好性、志向性、性癖、社交的か内向的か、知能などの基本的な能力は生まれつきだろうと思う。道徳性に関しても、教育や文化、社会による植え付けによって醸成されると考えられてきたけど、現在の研究では生まれついて成長するなかで勝手に自然と善悪や倫理観が身についていくようです。確かに海外の小説なんかを読んでも、善いと感じる行いや悪いと感じる行いなんかは共通している部分があります。時代や人種、文化を越えて人にはたぶんそうした共通する観念みたいなものがあるんだろうと思います。ただ、それが身につきやすいか難いかは個人差がある。
 男女の差にしても、やはり男児が好むものと女児が好むものには傾向的な違いが見られる。親や周囲が男の子だから、女の子だからと買い与えるからそうなっていくのかと言えば、これもどうやら子どもが親にそうさせているのではないかという説もあります。現代では男女平等意識が強くそうした相違を認めない言論も存在しますが、たしかにアナログ的な男は雄々しく、女はおしとやかにというのは社会が作り出した観念ですが、純粋な男女差はやはりあると思うし、それは別に良し悪しの問題ではなくそういうものなのでそれは認めるものだと思う。イデオロギーや思想、願望で言う「男とは~女とは~」も「男女は全て平等」も現実の実態を見ていない見解だと思う。

 では、社会環境や文化風習が人になんの影響もあたえないかと言えばそうではない。例えば言語の違いでも思考法に違いが出てくるし、多神教か一神教かでも思考や精神形成に違いが出てくる。文化や風習、生活様式によって動機付けが変ってくるだろうし、任意の行動を取りやすくしたり、逆に制限を加えたりする。与えられた情報によっては偏見や誤認が増幅される。ずっと同じ社会、職場、環境にいるとその視点に馴染んでしまって発想が固定化してしまうのも環境的な要因だろうと思う。
 社会や環境如何で人はどうにでも洗脳できてしまうと感じるのは、おそらく人の適応能力のためで、一端インプットされてしまうとそれを前提に行動してしまうのでリセットするのが容易なことではないからです。ただ、適応しやすさ、行動の傾向(積極的、消極的)などは個人の性質によるので個別の行動は変ってくる。

 人は生まれついて決まるのか、それとも環境によって決まるのか、どっちにしてもあまり面白いことではないような気もするんだけど、いずれにしてもそういう風に生まれついて、そういう環境にいてしまうことはもはやどうしようもないことだと思う。日本に生まれるのか、アメリカに生まれるのか、天才として生まれるのか、凡人として生まれるのか、そんなの自分ではどうしようもない。
 与えられた素養(初期条件、設定)で社会に放り込まれたら勝手に身体が動き出してあたかも自分の意思で動いているかのように見せかけているだけだ、とは思いたくないし自分でなんとか出来る余地ってのは絶対にあると思っている。単に希望的観測なんだけどね。そう信じられなきゃやってらんねーよ、っていう。
 そのためにはまず、自分はどういう性質なのか、限界はどこなのか、人はどういう生き物なのか、環境からどれほど影響を受けるのかを知りたいと思う。現実と遠いところに理想や願望を求めても地に足が着かないし絵に描いた餅では腹は膨れない。無理な要求を自他にしても疲れるだけ。
 現代は「個性」「自分らしさ」がもてはやされる時代だし、そのために「自己責任」も問われる。でも実際には「個性」や「自分らしさ」なんて言葉ほど良い物ではないかもしれないし、むしろ人を縛り付ける物かもしれない。嗜好性や限界が設定されていたらそこから抜け出せないんだからね。そしてまたその尊いであろう「個人」はその他大勢の中の一つでしかない。
 ってな風に書くと気が滅入ってきてしまうんだけど、私はこう思うんです。
 時に自分の限界を知って失望したり、社会や環境、他者によって絶望してしまったりするかもしれない。資質があっても活かせないかもしれない。過失もあれば自分にはどうにもできないこともある。でも(能動的に)生きるってことはそれらを受け止めた上で、なお生きることだと思う。諦めて生きるより、頑張って生きた方が面白いんじゃないかって思う。自分が弱くても強くても、社会や他人が甘くても厳しくても、どのように生きていくかは自分で決められるって信じるなら、どうせなら自分も他者も心地よく生きられるようになって欲しいと思う。そう意志して欲しい。だって、自分だけ良ければいいやってやられたら私が困るもんね。
[ 2013年05月22日 14:01 ] カテゴリ:本の感想 | TB(0) | CM(-)
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