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イワン・イリッチの死(トルストイ)

○イワン・イリッチの死 トルストイ 訳:米田正夫 岩波文庫
記2009.3.16

 わずか100ページの短編。徹底的に「死」の描写を書き出している。
 ごく普通の、普通に出世欲があり、結婚し子をもうけ、家庭内の不和から逃避するために仕事に熱中するようなごく普通の人が不慮の事故が元で病気を患い死に至るということのみが描かれている。
 当事者だけではなく、その周囲にいる人々がどういう風に関わるか、相手が死ねば仕事上のポストが空いて自分にチャンスが回るのではないか、死んだ際には葬式に出て遺族に慰問に行かなければ、とストイックな描写も忘れていない。じょじょに弱っていくイワンが孤独を感じ、死ぬと誰もが分かっているのにそれを口にしないこと、偽り続けるよそよそしい態度に対する苛立ちと苦しみ、老境にさしかかってるとしても自分を憐れんで泣いて欲しいという願望、自分をそのまま憐れんでくれる相手への安心感などの描写は「戦争と平和」「アンナ・カレーニナ」の著作だけに折り紙付き。

 著者がこの「死」をテーマにしてただ弱って死んでいくしかない普通の人を取り上げたのは、死の間際にイワンが悟る死の克服を描くためだろうと思う。死が怖くないということではなく、天へと召される瞬間の穏やかな死を超越した安心にも似た感覚をごく普通の人でも持てるということなのだろうと思う。実際にそうなのかは分からない。死んだことは無いし、死の瞬間にこういう感覚でしたと書いた人もいないだろう。死んでみないことには分からない。

 死生観に関しては宗教色が出る。その意味で本作はキリスト教徒らしい描写になっていると思う(トルストイ自身は東洋思想にも通じている)。死の間際に自分のこれまでの生活が死を隠蔽するだけの偽りに過ぎないと悟り浄化されたように死を迎えるのはキリスト教的な認識だろうと思う。
 聞きかじった知識なので誤りもあると思うが簡単に宗教別の死生観を書くと、キリスト教はそもそも現世で生きることをあまり肯定していない。というのも発生した土地環境が過酷だったので楽園である天国へ召されることが本当の幸福であると考えるからです。仏教も同じで輪廻転生を繰り返すにしても最終的には天国へ行くことが最終目的です。
 日本には仏教が輸入されていますが、その途中で中国の儒教が混ざっています。儒教は現世で生きたいという思想があります。これは発生した土地環境が豊かだったからだそうです。先祖を敬い遺骨を保管しておくのも儒教の考えです。本来の仏教なら遺体に価値はありません。血縁にこだわり家族の中で輪廻転生を繰り返す思想があります。日本は仏教と儒教、そして土着文化であった神道と融合した死生観が形成されています。おそらく天国へ行きたいと考えるより、生まれ変わってまた生きたいと思うのが普通の考えだろうと思います。あるいは多神教らしく仏様になると考えるか。科学的な話は別として輪廻転生や現世で生きたいと考えるのは宗教的な価値観として日本では妥当です。

 キリスト教の死生観と多神教的な死生観の違いは些細な問題(いや、些細でもないんだけど)なので置くとして、「死」というものは基本的に誰もが避けたいし忘れたいし自分とは無縁な話だと考えます。その割に100%死ぬことが確定している。嬉しくない話だし、しかも神秘的でもない。周囲からすれば葬式の手配、遺産はどうだ、今後どうするかなど結局生きるための手段を講じなければいけない。死と向き合い、死者(になる人)を直視する人、できる人というのは案外少ないかもしれない。
 だから、まあ、なんだろうね、あまり辛気くさい話をしても面白くないんだけど、要するに死ぬときは腹を括るしかないんだね。身も蓋もない話だけど。


 トルストイは一時期文壇から離れていたらしいのだけど、本作や「復活」は再び文壇に戻ってきた後に書かれた作品です。離れていた理由は詳しくは分かりませんが、人生の迷いの類のようです。それを自身の宗教的な再構築によって復帰したそうです。だからだと思いますが文壇から離れる前に書かれた「アンナ・カレーニナ」「戦争と平和」は東洋思想とキリスト教思想が混ざった思想が感じられますが、本作、「復活」ではキリスト教一辺倒な思想を感じます。それ自体に良いも悪いもないのですが、復帰後の彼の作品には一種切迫したものを感じます。「アンナ・カレーニナ」「戦争と平和」は生きる過程、まだ人生に余裕があってこれからどのように生きていくかに重点が置かれた作品だと思いますが、本作も「復活」も何か償いや死を前にした諦観のようなものを感じます。トルストイ自身の心境と言えるかもしれません。
[ 2013年05月22日 14:00 ] カテゴリ:本の感想 | TB(0) | CM(-)
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