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荒野のおおかみ(ヘルマン・ヘッセ)

○荒野のおおかみ ヘルマン・ヘッセ 訳:高橋健二 新潮文庫
記:2008.6.21

 必ずしも大勢の人ではないだろうし、もしかしたらそれはごく少数の人だけが感ずるのかもしれないけど、世の中にはこの世界が自分の居場所ではないと感じる人がいる。この小説ではそういう人を「荒野のおおかみ」と呼んでいる(違う言い方だとアウトサイダー)。具体的に実例をあげると私みたいな人間。必ずしも社会からのはぐれ者、浮いた人間、脱落者ということではない。他の人と考え方や感じ方が違い社会と距離を感じている人々。
 他の人が楽しむものを楽しめない。例えば野球やサッカーやみんなが熱中しているものに興味を持たないばかりか、そんなくだらないものに熱中するなんて馬鹿げている。すぐに冷めるくせいに、と。なんでもっと大切なもの、真理を求めないんだろう、この社会はおかしいことばかりで人を歯車のように扱い捨てている。何故そこに疑問を感じないのだ、と。ま、みんな大なり小なり思っているだろうけどね。「荒野のおおかみ」達はちょっとその気が強い人なんです。

 この世界の中で孤独を感じ、疎外されていると感じる人達。社会が間違っていると強く感じる人は革命家(あるいは殺人者に)に、内省的過ぎる人は自殺し、死ぬ度胸も革命を起こす行動力も無い人は惰性的に、でも案外それなりに順応して生活し(大抵このパターン)、またある人はそこから昇華する。
 そんな寂しがり屋でそのくせ一丁前に自尊心がある荒野のおおかみ。この小説は基本的に著者の自己内面の変遷を物語化したもので、抽象的で非現実的です。いわば自分の分身、自分の半身、自分に欠けた物を持つ相手が現れ補完していきます。ダンスなんて踊ったことがない主人公が叱咤されダンスを教えられ、その楽しさに目覚め、自分の知らない自分に気づき、自分が過去に感じていたことを思い出し、享楽と悦び(それには性欲もかかわる)を感じる。
 東洋思想的なのはこの辺ですね。善も悪も、良い自分も悪い自分も、自分が知っている自分も自分が知らない自分も肯定する。自己とは多様な面を持ちその総体であるという考え。だから情欲に溺れ背徳的に見えてもそれもやはり人の一面であり、快楽の一つであり、愚行も賢者への道であり、賢者は愚者にもなり得る。
 私が常々思うのは、生得的にこの社会に馴染めないような人でもこの社会、世界、人生を前向きに能動的に捉えるとこができるよ、ってことなんです。ずっとそんなことを考えていたんです。具体的に言うと小学校高学年あたりから。嫌な小学生だよね。中高生のときなんて世の中なめてましたね。こんな面白くも無い社会なんてどうでもいいや、って。でも、自分が生きている世界を捨てるということは、その中で生きてる自分の価値すらも捨てることになると気づいたのはここ数年くらいのことです。この世界と自分は同時に存在し、世界も自分も様々な面を持ちうるんです。苦しみがあり快楽があり、悩みがあり悦びがあり、生があり死があり、意志と無気力があり、人は愚者であり賢者であり、世の中で孤独と疎外感を感じ舐めきった私のような人間でもこの世界で生きる喜びを感じることができるんです。どうやったら感じられるかというと、多分感受性です。個人的に感受性こそ人が持つべき最も大切なモノだと思っているので、それだと思っています。といっても私はそんな感受性豊かでもないんですが(かなり限定的)。
 なんというのかな、自分が悩んだり、苦しんだりしている中でその本当の理由や本質を見つけたら、何か同時に良いものも見つけたんですよね。そのキッカケがプリズマティカリゼーションだったり、プリキュアだったり、ドストエフスキーだったりトルストイだったりする。さらになんで自分がそれに感動したんだろう、と考える。突き詰めていったら気づいたんだね。しかも意志力を持続できるようになったというか、価値観も変わったというか(この状態を本当の感動、あるいは確信と個人的に呼んでいる)。
 っていう風にヘッセもやっていたんだろうな、って思う。私もヘッセも思索の人なんだろうと思う。天邪鬼で不器用で遠回りなことしている。しかも理屈くさい。感受性が豊かな人はすんなり出来ることを私達は何年もかけてちょっとずつ進めている。でも、それで構わないと思う。どちらにしたって、私達も生きることを能動的に肯定し、他者とこの世界を愛し肯定できるのだから。
[ 2013年05月22日 13:56 ] カテゴリ:本の感想 | TB(0) | CM(-)
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