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シッダールタ(ヘルマン・ヘッセ)

○シッダールタ ヘルマン・ヘッセ 訳:高橋健二 新潮文庫
記:2008.5.4

 素晴らしい。バスの中で読みながら感動して泣いてました。ヘッセの本はこれまでのところ「車輪の下」「デミアン」を読んだが、年代を重ねるごとに彼の体験や考えが成熟しているのがわかる。ヘッセは自己の完成や実現、理想は自己の中にあると考える人で、宗教的な体験にまで至っている。よく誤解されがちだけど「宗教的体験」と「宗教をやる」こととはイコールではありません。宗教は1.何とか宗、何とか教の教えに従う、あるいはその組織に所属する。2.人間の精神的な活動、感動的な体験、ある(根拠の無い)確信的な心境を得る。の2つの意味合いがあります。私が言うのは主に2.であり、これを宗教的体験と言っています。またこれが重要であると考えます。組織に属するかどうかははっきり言ってどうでもいいことです。

 シッダールタは釈迦の名前です。この物語は実話ではなく、ヘッセの変遷とさぐり求めつづけた先に見出した物語です。
 このシッダールタが語っていることはドストエフスキーやトルストイがその小説の中で描いた宗教的体験と本質的に同じです。突き詰めてしまえば東洋も西洋も人種も年代も文化が違っても人間が到達する心境というは普遍的であると思われます。これを進歩が無いと思うか、人間の本質的な洞察力と思うか分かれるかもしれませんが私は素晴らしいと思います。何百何千年経とうと人間はその中から共通する普遍的なものを見出すことができる。そして、それは尊いものであると思います。その心境から生ずる行為は素晴らしいものであると思う。
 思想や探求ではなく、真に価値あるものとは行為であり、行為の中にその人の在り方があると考えることに心から賛同します。私もそうありたいし、そう思うならそう行為する人になりたい。

 「赦し」というものがある理由はシッダールタが話している中にあります(下記に抜粋した)。人間は善と悪を内包しており、そのどちらかだけあるということはありません(善と悪の概念自体人間が勝手に作っているだけですが)。悪党のようなことをした人間が善行を行うことは無い、とは限らないしその逆も然り。今現在「好ましいことをしている」か「好ましくないことをしている」というだけです。みんながみんなそうなのですから、今罪を犯し迷いの中にあっても、そこから脱し聖人のようになり得ることも可能性としてあります。自己実現や理想、意思、善、悪が人の中にあると考えればその人が今やっている何かはその人の中にある諸要素の一現象でしかなく、必ずしもそれがその人の全てではなく、だからこそ如何様にでも変わりえると言えます。変わらずともすでにあらゆる可能性を持っているのだと。
 余談ですが私はだからといって罪に対して人為的に罰を与えないとは考えません。罰は罰として与えるべきです。それは人間が持つ正義、道義的規範であるからです。罪を犯した者の更正や復帰とは別の問題です。悪と考えるものに対して罰をもって人間が考える正義を貫くと考えます。
 大体にして、罪の意識とか更正、反省というのはその人が自己の善悪、倫理観、感受性によって芽生えるものです。価値観が全く異なる相手にそれは悪い行為だと言ってもその相手は不思議に思うだけです。ある程度価値観等を身につけた大人が生活環境とか苦役によって容易に変更できるものじゃありません。これこれのことをやって捕まったらこれだけ辛い(面倒な)ことをさせられると思うくらいが関の山だと思います。単なる強制労働と強制束縛です。結局のところ、罪を犯した人が本当に反省し、考え方と行為を変えられるかはその人によるわけで、社会的規制や生活様式によって確実に変えられる保障はありません。それが出来たら洗脳と言って差し支えありません。
 さらに余談になりますが、ドストエフスキーの「罪と罰」で主人公が自身の信念に基づいて殺人を犯しましたがこれ自体に彼は道徳的罪意識を抱いていませんでした。しかし信仰を持つ少女との出会いによって大きく変化が起こりました。





 以下に必要な分だけ書き起こし。本来はこの境地に至るまでの彼の体験や思考的変遷も重要なのですが、彼が語っている中に僅かながらもそれが含まれているのでどのような変遷をたどったかは理解できると思う。


 「さぐり求めることを決してやめないだろう。これが私の天命だと思われる。御身もさぐり求めて来たと思われる。ひとこと私に話してくれまいか、尊敬する人よ」
 「私が御身に何の語るべきことがあろうか、おん僧よ。御身はあまりにさぐり求めすぎる、とでも言うべきかもしれない。さぐり求めるために見出すに至らないのだとでも」
 「いったいどうして?」
 「さぐり求めると」「その人の目がさぐり求めるものだけを見る、ということになりやすい。また、その人は常にさぐり求めたものだけを考え、一つの目標を持ち、目標に取りつかれているので、何ものをも見出すことができず、何ものをも心の中に受け入れることができない、ということになりやすい。さぐり求めるとは、目標を持つことである。これに反し、見出すとは、自由であること、心を開いていること、目標を持たぬことである。おん僧よ、御身はたぶん実際さぐり求める人であろう。御身は目標を追い求めて、目の前にあるいろいろなものを見ないのだから」
 「まだ私には十分よくわからない。それはどういう意味だろう?」
 「かつて幾年も前御身は一度この川に来たことがあった。そして川辺に眠っている男を見つけて、そのそばに座り、眠りの番をしてやった。だが、おおゴーヴィンダよ、御身は眠っている男がだれであるかわからなかった」
 「御身はシッダールタか」「今度も気づかぬところだった! 心からあいさつを受けておくれ、シッダールタよ。御身にまた会えて心からうれしい! 御身はたいそう変わった、友よ。では、御身は渡し守となったのか」

 「旅を続ける前にシッダールタよ、もう一つ、尋ねることをゆるしてもらいたい。御身は教えを持っておられるか。御身は信仰、あるいは、御身がそれに従う知恵、御身が生きていき、正しく行う助けとなる知恵を持っておられるか」
 「御身も知っているとおり、私は若いころすでに、森のざんげ者のもとで暮らした当時、教えや師を疑い、それに背を向けるようになった。それは終始変わらなかった。だが、私はやはりそれ以来たくさんの師を持った。美しい遊女が長いあいだ私の師だった。裕福な商人が、そして数人の賭博者が私の師だった。あるときは、遍歴の仏弟子も私の師だった。私が森で眠り込んでいると、彼は遍歴中私のそばにすわっていてくれた。彼からも私は学んだ。私は彼にも感謝している。大いに感謝している。だが、私が一番多くを学んだのは、この川からだ。私の先達、渡し守ヴァズデーヴァからだ。彼ヴァズデーヴァはきわめて単純な人で、思索家ではなかったが、ゴータマと同様に必然の理をわきまえていた。彼は完全な人、聖人だった」
 「おおシッダールタよ、御身は相変わらずいささか嘲りを好むらしい。私は御身の言うことを信じる。また御身が師に従わなかったことを知っている。だが、教えではないとしても、やはりある思想、ある認識を、御身自身のもので、御身の生きるよすがとなったものを、みずから見出しはしなかったか。それについて何か話てくれたら、私は心からうれしく思うだろう」
 「私は思想を、たしかに、そして認識を時として持ったことがある。人が生命を心の中に感じるように、私もおりおり一時間か一日のあいだ知識を心中に感じたことがある。それはいろいろな思想であったが、それを御身に伝えるのは、私にはむずかしいだろう。ゴーヴィンダよ、知恵は伝えることができない、というのが私の発見した思想の一つだ。賢者が伝えようと試みる知恵はいつも痴愚のように聞こえる」
 「冗談を言われるのか」
 「冗談を言いはしない。私は自分の発見したことを言っているのだ。知識は伝えることができるが、知恵は伝えることができない。知恵を見出すことはできる。知恵を生きることはできる。知恵に支えられることはできる。知恵で奇跡を行うことはできる。が、知恵を語り教えることはできない。これこそ私がすでに青年のころほのかに感じたこと、私を師から遠ざけたものだ。私は一つの思想を見出した。ゴーヴィンダよ、御身はそれをまたしても冗談あるいはばかげたことと思うだろうが、それこそ私の最上の思想なのだ。それは、あらゆる真理についてその反対も同様に真実だということだ! つまり、一つの真理は常に、一面的である場合にだけ、表現され、言葉に包まれるのだ。思想でもって考えられ、言葉でもって言われうることは、すべて一面的で半分だ。すべては、全体を欠き、まとまりを欠き、統一を欠いている。崇高なゴータマが世界について説教したとき、彼はそれを輪廻と涅槃(ねはん)に、迷いと真、悩みと解脱とに分けなければならなかった。ほかにしようがないのだ。教えようと欲するものにとっては、ほかに道がないのだ。だが、世界そのものは、われわれの周囲と内部に存在するものは、決して一面的ではない。人間あるいは行為が、全面的に輪廻であるか、全面的に涅槃である、ということは決してない。人間は全面的に神聖であるか、全面的に罪にけがれている、ということは決してない。そう見えるのは、時間が実在するものだという迷いにとらわれているからだ。時間は実在しない、ゴーヴィンダよ、私はそのことを実にたびたび経験した。時間が実在でないとすれば、世界と永遠、悩みと幸福、悪と善の間に存するように見えるわずかな隔たりも一つの迷いにすぎないのだ」
 「どうして?」
 「よく聞きなさい、友よ、よく聞きなさい! 私も御身も罪びとである。現に罪びとである。だが、この罪びととはいつかまた梵になるだろう。いつかは涅槃に達するだろう。仏陀になるだろう。さてこの『いつか』というのが迷いであり、たとえにすぎない! 罪びとは仏性への途上にあるのではない。発展の中にあるのではない。われわれの考えでは事物をそう考えるよりほか仕方がないとはいえ。―-いや、罪びとの中に、今、今日すでに未来の仏陀がいるのだ。彼の未来はすべてすでにそこにある。御身は罪びとの中に、御身の中に、一切衆生の中に、成りつつある、可能なる、隠れた仏陀をあがめなければならない。ゴーヴィンダよ、世界は不完全ではない。完全さへゆるやかな道をたどっているのでもない。いや、世界は瞬間瞬間に完全なのだ。あらゆる罪はすでに慈悲をその中に持っている。あらゆる幼な子はすでに老人をみずからの中に持っている。あらゆる乳のみ子は死をみずからの中に持っている。死のうとするものはみな永遠の生をみずからの中に持っている。いかなる人間にも、他人がどこまで進んでいるかを見ることは不可能である。強盗やばくち打ちの中で仏陀が待っており、バラモンの中で強盗が待っている。深い瞑想の中に、時間を止揚し、いっさいの存在した生命、存在する生命、存在するであろう生命を同時的なものと見る可能性がある。そこではすべてが良く、完全で、梵である。それゆえ、存在するものは、私にはよいと見える。死は生と、罪は聖と、賢は愚と見える。いっさいはそうでなければならない。いっさいはただ私の賛意、私の好意、愛のこもった同意を必要とするだけだ。そうすれば、いっさいは私にとってよくなり、私を損なうことは決してありえない。抵抗を放棄することを学べぶためには、世界を愛することを学ぶためには、自分の希望し空想した何らかの世界や自分の考え出したような性質の完全さと、この世界を比較することはもはややめ、世界をあるがままにまかせ、世界を愛し、喜んで世界に帰属するためには、自分は罪を大いに必要とし、歓楽を必要とし、財貨への努力や虚栄や、極度に恥ずかしい絶望を必要とすることを、自分の心身に体験した。――おおゴーヴィンダよ、これが私の心に浮かんだ思想の二、三なのだ」
 「これは石だ」「石はおそらく一定の時間のうちに土となるだろう。土から植物、あるいは動物、あるいは人間が生じるだろう。昔なら私はこう言っただろう。『この石は単に石にすぎない。無価値で、迷いの世界に属している。だが、石は変化の循環の間に人間や精神にもなれるかもしれないから、そのゆえにこれにも価値を与える』。以前ならたぶん私はそう言っただろう。だが、今日では私はこう考える。この石は石である。動物でもあり、神でもあり、仏陀でもある。私がこれをたっとび愛するのは、これがいつかあれやこれやになりうるだろうからではなく、ずっと前からそして常にいっさいであるからだ。――これが石であり、今日いま私に石として現れているがゆえにこそ、私はこれを愛し、その条紋やくぼみのすべての中に、黄色の中に、灰色の中に、硬さの中に、たたけばおのずと発する響きの中に、その表面の乾湿の度合いの中に価値と意味を見る。油のような手触りの石も、シャボンのような手触りの石もある。葉のようなものも、砂のようなものもある。それぞれ特殊で、それぞれの流儀でオームをとなえている。どれもが梵である。が、同時に、同様に、石である。油のようであったり、シャボンのようであったりする。そのことこそ私の意にかない、驚嘆すべく、礼拝に値するように思われる。――だが、これ以上それについて言葉を費やすのはやめよう。言葉は内にひそんでいる意味を損なうものだ。ひとたび口に出すと、すべては常にすぐいくらか違ってくる、いくらかすりかえられ、いくらか愚かしくなる。――そうだ、それも大いによく、大いに私の意にかなう。ある人の宝であり知恵であるものが、ほかの人にとっては常に痴愚のように聞こえるということにも、私は大いに同感だ」
 「友よ、涅槃はことばであるだけでなく、思想である」
 「思想、そうであるかもしれない。御身に打ち明けなければならないが、私は思想と言葉の間に大きな区別を認めないのだ。ありていに言えば、私は思想をもあまり重んじない。私は物のほうを重んじる。たとえばこの渡し舟では、一人の人が私の先達であり、師であった。聖者で、多年ただ川を信じ、ほかのものは何も信じなかった。川の声が彼に話しかけるのに気づき、その声から学んだ。その声が彼をはぐくみ教えた。川は彼には神と思われた。長い年月の間、どんな風も、どんな雲も、どんな鳥も、どんな甲虫も、尊敬すべき川と全く同様に神性を有し、同様に多くを知り、教えることができる、ということを彼は知らなかった。だが、この聖者は森に入って行ったとき、いっさいを知っていた。御身と私より以上に知っていた。師も書物も持たなかったが、ただ川を信じていたがゆえに」
 「だが、御身が『物』と呼ぶものは、実存するもの、実体のあるものであろうか。それはマーヤ(迷い)のあざむき、形象、幻影にすぎないのではないか。御身の石、木、川――それらはいったい実在であろうか」
 「それもさして私は意に介しない。物が幻影であるとかないとか言うなら、私も幻影だ。物は常に私の同類だ。物は私の同類だということ、それこそ、物を私にとって愛すべく、とうとぶべきものにする。だから私は物を愛することができる。この教えには御身は笑うことだろうが、愛こそ、おおゴーヴィンダよ、いっさいの中で主要なものである、と私には思われる。世界を透察し、説明し、軽蔑することは、偉大な思想家のすることであろう。だが、私のひたすら念ずるのは、世界を愛しうること、世界を軽蔑しないこと、世界を自分を憎まぬこと、世界と自分と万物を愛と賛嘆と畏敬をもってながめうることである」
 「それはわかる」「だが、それこそ、彼、覚者は幻覚と認識された。彼は好意といたわりと同情と寛容とを命じるが、愛を命じはしない。彼はわれわれに、心を愛によって地上のものにつなぐことを禁じた」
 「それは知っている」「それは知っている、ゴーヴィンダよ。気をつけるがよい。その点でわれわれは意見の藪の中に、言葉のための争いの中に巻き込まれている。愛についての私の言葉がゴータマの言葉と矛盾していること、一見矛盾していることを、私は否定できない。だからこそ私は言葉をひどく疑うのだ。この矛盾は錯覚であることを、私は知っているからだ。私はゴータマと一致していることを知っている。ゴータマがどうして愛を知らないことがあるだろう! いっさいの人間存在をその無常において、虚無において認識しながら、しかも人間をあつく愛し、辛苦に満ちた長い生涯をひたすら、人間を助け、教えることにささげたゴータマが、どうして愛を知らないことがあるだろう! あの人、御身の偉大な師の場合でも、私にとって物は言葉より好ましい。彼の行為と生活は彼の説教より重要だ。彼の手ぶりは意見より重要だ。説教や思索にではなく、行為や生活の中にだけ、私は彼の偉大さを見る」
[ 2013年05月22日 13:55 ] カテゴリ:本の感想 | TB(0) | CM(-)
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