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武士道(新渡戸稲造)

○武士道 新渡戸稲造 訳:岬 龍一郎 PHP文庫
記:2008.2.14

 新渡戸稲造と言えば旧5千円の人。新渡戸稲造と言えば武士道の人。という貧弱な知識しかなかったのですが、その武士道すら読んでなかったのでもはや新渡戸稲造は「丸顔で丸メガネの人」というイメージしかありませんでした。

 新渡戸稲造さん(1862年生まれ)ですが、この人、武士道書いたくらいだから生粋の日本人かと思えば、そうではなくプロテスタント系キリスト教徒らしい。文中でもキリスト教信者としての信仰を語っています。この武士道も外国人に対する日本人の精神や倫理観を説明するものとして書かれています。

 キリスト教と武士道って両立できるのか?という疑問も浮かびますが、読んでみると納得します。つまるところ、人間の倫理観や崇高とする気高い人格や行い、思想というのは人種や国や宗教をあまり問いません。突き詰めてしまえば、武士道もキリスト教もそれほど大差は無いのです。それを真に実践した人の言動を見てしまえば。
 逆に言えば如何に人間が堕落しやすいか、それが人種や国や時代を問わないことの証明でもあります。侍がみんな武士道の精神を持って誇り高い行動をしていたかと言えば、そんなことは無いと断言します。んな、みんなお利口さんで高潔な精神を持っているわけないじゃん。忠臣蔵とか武田に塩を贈った上杉の行動が美談として語られるってことは、それだけ当時から立派な行いが出来ていなかったってことなんだから。
 しかしだからこそ、正しさ、勇気、信、愛情、謙虚、忍耐、強い意志などの精神が理想として求められるということでもあります。気高い、高潔というときの意味はそれらを指していると思います。
 大抵の人は自分のために全力を出している人よりも、他者(この場合は特定の他者ではなく広い意味での他者、公的な意味)のために全力を出している人を信頼し、またその犠牲心と奉仕の姿に感動と強さを感じます。
 キリスト教系は神への奉仕が、武士道は主君への奉仕があると言えます。その主君も普遍的、平和的な統治への奉仕を行うというのが理想とされる精神です。これは別に嫌々犠牲になっているわけではなく、やっている人も大変だとは思いますが、案外充実しているんじゃないかと思います。理想のために自身を動かしてそれを実現させていくわけですから。誤解を恐れずに言えば狂信的な信者が命を顧みず破滅的行為を行うのも心理的には似たようなものです(本質的には全然違うんですけど)。

 現代においては最早日本人とて武士道を読んでも共感しかねる部分もあります。現代の多様で雑多な思想・文化・生活様式を貶しても、あるいは過去の文化を古臭いと言ってもあまり意味は無いと思います。肝要なのは、現代に生きる私達がどういう理想や道徳・倫理観を持って(知って)生きて、なおかつそれを伝えていくかということなのだと思っています。

 個人的には宗教を信仰していないし、まともに記憶に残る道徳教育を受けた覚えもないのですが(日本の道徳教育は宗教道徳が使えないので、体系化された規律がなく明文化されたものがない。武士道もそうだが、日本は不言実行というかそういうもんだろ、って感じで身につけて覚えさせられる習慣がある)、それでも日本で生まれて日本で暮らす中で身体に染み付いた道徳観(宗教的に分類するなら神道、仏教(日本の仏教は儒教と本来の仏教の混在))はあるし、最近はロシア小説を通じてキリスト教の道徳観も知ることが出来ました。それを受けて分かるのは、結局人の目指す理想の倫理観は案外同じだってこと。根っこは同じ。
 こういう価値観的なものは、自分で作って意識した方が面白い。
[ 2013年05月22日 13:52 ] カテゴリ:本の感想 | TB(0) | CM(-)
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