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復活(トルストイ)

○復活 上下巻 トルストイ 訳:木村浩 新潮文庫
記:2008.1.3

 愛とは、自分、すなわち自己の動物的個我よりも他の存在を好もしく思う感情である。
 個人の幸福の否定の上に育たなかったいわゆる愛のもとでままるように、個人の迂遠な目的の達成のために、その個人の目先の利害を忘れることは、自分の個人的な幸福のためにある存在を他よりも好もしく思うことにすぎない。真の愛は、実行的な感情になる前に、一定の状態にならなければいけない。愛の源、愛の根源は、ふつう想像されているような、理性をくもらせる愛の衝動ではなく、もっとも理性的で明るく、したがって、子供や理性的な人間に特有な、おちついた喜ばしい状態なのである。
 この状態はあらゆる人に好意をよせる状態で、子供には特有のものであるが、大人にあたっては個我の幸福を否定してはじめて生じ、その否定の度につれて強まってゆくものだ。(トルストイ 人生論)


 トルストイが晩年に書いた作品であり、彼のキリスト教への信仰ぶりが明確に分かる作品。同著「人生論」を読んでいると入りやすいかもしれない。囚人の様子はドストエフスキーの「死の家の記録」を参考にしているようで、似たような部分がある(ドストエフスキーの書いた年代とトルストイの年代は若干違うため、前者よりは囚人の待遇がほんのちょっと改善されている点など面白い)。


 この作品にはモデルがあります(下巻の解説に書いてあります)。ある裁判の陪審員をしていた男がその被告の女性を知っていました。というのも、かつてその女性は男の親戚の家に預けられ育てられていたが、遊びに来た男が彼女を誘惑し姦淫する。妊娠した女性はその家から追い出され(当時のロシアでは未婚の女性が姦淫するのは不浄と見られ白い目で見られた。ついでに言えばこういう上流家庭のお坊ちゃんが遊びで使用人の娘などと関係を持つことはよくあった)身を落とし娼婦となり窃盗の罪で裁判を受けることになった。彼女との思わぬ再会にショックを受けた男は彼女と結婚することを決意しそれを即実行しようとするが、斎戒期のため延期するも運悪く女性はチフスにかかり亡くなってしまう。男がその後どうなったかは分からない。
 この話を聞いたトルストイは興味を示しました。というのも彼も若い頃に使用人の娘に手を出したことがあったからです。この作品では女性は死なず、囚人移送に男が追従し特赦が下りることになっています。

 タイトルが示すように、人が持っている良心の「復活」を書いた作品であり、また「人生論」で論じているように、人の真の幸福、愛は自分の動物的欲求や幸福を捨てた他者への奉仕にあるとするトルストイの考えが如実に現れています。また社会の制度や仕組みについても強く批判的に書かれています。「死の家の記録」でも仔細に書かれていますが囚人達が受ける待遇は劣悪を極め、もはや人間の人格や尊厳を貶めより一層劣悪な人間を作り出すことにしか貢献しない状況になっています。朱に交われば赤くなるのとおり、悪い環境の中で悪い人達がいる状況で悪くならない方がおかしい(当時のロシアだけでなく、現在の各国の刑務所も大差無いと思われる)。このような現状を彼は強く批判し、他者に対する慎み深い態度、奉仕、つまり福音書に書かれている「汝~をしなさい」というような戒律の正しさ気づく、というような内容。


 裁判員や陪審員、看守、警察、行政などの杜撰な体制や意識が現代にも通じる部分が多く今読んでも褪せない内容です。陪審員の「早く帰りたいなぁ」という意識や裁判で長々とどうでもいいような論告をきかされてグダグダになっている様子など、近々実施される裁判員制度にも当てはまりそうで怖い。結局は「他人事」という意識、犯罪者はロクな人間では無いという意識、制度上自分には責任が無いという意識などさまざまな条件が重なりそれらの職務につく人間から愛情や人間的感情を奪い囚人や被告に卑劣な行いをしてしまう(ちなみに、心理実験で囚人役と看守役で分けたら看守役がどんどん横暴になっていったという実験結果がある)。
 また、これは読んでいて感心したのだけど、例えば密売人やスパイ、娼婦など世間一般では白い目で見られるようなことを生業としている人々が自分で悪いことをしていると思っているかというと思っていないこと。というのも、人は自分の職業なり役割に合う形で自分のものの見方を変えるからです。自分の人生の過程や立場を基本的に人は肯定しようとします。分かりやすいを例を出すなら、自分が持っている物、好んでいる作品があったとしたらそれらの好意的解釈がなされている意見を集めようとします。集めないまでもそういう意見を意識します。自分の乗っている車は~で優れている。自分の好きな作品は~で素晴らしい、などなど。人間関係も同じで自分に都合の悪い人よりは都合の良い人と付き合うようにします。そうやって自分の環境が知らず知らずの内に限定化され、自分の居心地が良いように作られていきます。密売人なり娼婦だって自分が必要とされていることを自分の誇りとするようになる。たとえそれが必要悪であろうとも、自分の行為の結果が「良い事」に結びつくなら自分は卑劣な人間ではない、男たちが魅力ある女性との性交が最大の感心事だとするなら自分は魅力ある女性であり自分の一存に大きな決定権があるのだから自分は必要とされ重要な人間なのだ、と思う。そうだよね。そう思う。誰だって自分がやっていることを間違っているとは思いたくないし、そういう環境にずっといればそれが当たり前になって、それがおかしいことだとは思わなくなる。一度こびり付いて一体化してしまったそういう意識はそう簡単には落とせない。そういう意識を捨てることは自分を否定されるような感情を抱くから普通はそこから脱したいとは思わない。

 この作品の主人公は過去に犯した自分の卑劣な行為を恥じ、償いをしようと幾多の葛藤を抱きながらも精神の浄化と女性への(ひいては他者全てへの)奉仕へと向かいます。例えば、いくら良心を復活させようと、少年時代に持っていた純粋さを思い出そうと、自分の行為が周囲から見て奇異な行為でありまた自身の物質的要求に反することに躊躇いを覚えます(自分の私有地を無償で農民に分け与えることは自分の収入を減らすため何度も躊躇した)。当初は自身が許されたい、罪滅ぼしをしたい意識が先行していましたが、それを超えて女性への愛情(性愛的なものではなく精神的なもの。彼女も彼に対してそういう感情を抱いていることを知り彼は非常に喜んだ)を抱き人の善なる行為である福音書にある戒律こそが人が幸福になるものであると確信します。


 私はキリスト教ではないし、他の何かの教徒でもありません。だからといって宗教を認めていないわけではなく、それ自体はあって良いと思うし興味関心もあります。でも宗教団体や組織には興味がありません。宗教という概念に興味があるだけ。組織化すると大抵は権力とかそういうのが発生しますからね(基本的に私は組織や集団に馴染まない性質なので好んで属したい欲求が無い)。
 トルストイの言わんとしていることは分かりますし納得もします。人の良心や善の意識というのは時代や宗教や国が違っていてもあまり違いは無いと思われます(変なカルト宗教でなければ、大抵宗教の目指すところや心理状態、善とされる行為などは似通っている、と思う。←個別の宗派に詳しいわけではないので間違ってたらごめん)。ロシア人の彼らがいう善い人や善い行為というのは私にもやはり良い物だと思うし好まれます。打算ではなく純粋な好意からの行為や、見返りを求めない態度、謙虚さ、慈しみ、愛情は誰からも好かれますし、求められます。ただ自分がそれをやろうとするときに、そう出来ないわけです。理由は胸に手をおけばいくらでも出てくるでしょう。またどんなに強い確信を抱こうと迷いや人間的感情(嫉妬や嫌悪などの負の感情)を無くすことは出来ません。それを排除することは不可能です(感情を理性で抑え込むことは可能)。
 ぶっちゃけた話をすれば、福音書やそのた戒律に書かれていることの真意を分かっていて、それが皆実行できるなら苦労はありませんが、実行できないので苦労します。こういうことをいうと非常に傲岸不遜に聞こえますが、宗教信じている人でも確信(宗教でいうところの回心や悟りや天啓などのある種の心理的高揚状態)を抱いている人は少ないとは言いませんが多くも無いです。基本的にそういう心理状態になるには個人的な欲望だとか功名心だとかは足かせになるのでただ単に宗教信じているだとか、その中で権力を持とうとする人には普通抱けない状態です。逆に言えば別に宗教信じていなくてもそういう確信を抱くことは出来ます。昔や今が傍若無人な人でもそういう心理を抱くこともできます。
 トルストイが言うように大人で真の愛情を持って実行できる人というのは少数ですし条件的にも難しいです。どうしても身近にある物質的な充足や雑事に意識を向けてしまうし、またそれが実際の生活に役立ちます。精神的な充足を求める人の方が少ないでしょう(仮に全財産あるいは多額の寄付をした人がいたとして、その人を尊敬すると同時に変な人だと思うだろうなぁと思う。物質的な欲求が強い人は精神的な充足の価値に疎い)。
 早い話、皆戒律を守ったり、それに気付いたりするなんて無理だよね、という話。社会システムでそれを構築するのも困難を極めるだろうと思う。だって物質的欲求や自己の幸福を第一に考える人の方が多いし、よほど強い確信か元々そういう性質のある人でないと納得はしない。私はそれでいいと思うし、またそうなるより他無いとも思う。また、同時にそれでも(物質的な欲求が強い人でも)善意を愛する気持ちというのがあるだろうし、それを求めるのもいいものであると思う。
 いわゆる正義と悪と言われるような正義というものに私は興味は無いのだけど、人の持つ善良さというものには興味があるし、また在って欲しいと思う。それは悪と対比されることなくそれ自体良いもので愛されるものであると思う。もしこの世に正しさ、正義というものがあるなら、それの根本は人が持つ善良と認識されるものであると思う。もちろん、その善良の基準がなんであるかという話も出てくる。キリストなら聖書だろうし、他宗教でも戒律なり経典、または明文化されていないものです。宗教を持たない私のような人だとそこの基準が無いわけなんですが、先ほども書いたように宗教違ってても、国が違ってても好かれる、良いものだと思われる観念、つまり普遍的なものがある。それを基準とする。というか、私が善良だと思うもの(独善的な言い方だなぁ)。善意の在り方にも良し悪しがあるのだけど割愛します。


 そんな感じで方向性が全く分からない感想になったけど、そんな感じ。散文もいいとこだなこの文章。明確に書きたいことがあって書いてないのでいい加減です。
 無理やりまとめるなら、私は人の善良さを信仰している、と言えるかもしれない。(人が元々善なる存在である、という意味ではありません)
[ 2013年05月22日 13:51 ] カテゴリ:本の感想 | TB(0) | CM(-)
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