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死の家の記録(ドストエフスキー)

○死の家の記録 ドストエフスキー 訳:工藤精一郎 新潮文庫
記:2007.12.31

 ここに住む人々は、まれに見る人間ばかりだった。ほんとに、わがロシアに住むすべての人々の中で、もっとも天分豊かな、もっとも強い人間たちと言いうるかもしれない。ところが、それらのたくましい力がむなしく亡び去ってしまった、異常に、不法に、二度とかえることなく亡び去ってしまったのである。では、それはだれの罪か?
 ほんとに、だれの罪か?


 2007年を締めくくる最後の本なのだけど、タイトルを見るとなんだか凄惨な内容に思えるかもしれないが良い意味で裏切られる本です。
 ドストエフスキーは実際に監獄にぶちこまれた経験があり4年間服役しています。その体験が仔細に書かれています(監獄病院でメモを取ることを許された)。もちろん、この本はそのまま体験記なのではなく、小説(らしきもの)としてとある妻殺しで10年服役した人物の日記として書かれています。物語ではなく、記録が綴ってあるという体裁で、著者の記憶と思索が主なので時系列も頻繁によく飛びますが読む分にはさほど問題ありません。また、ロシア人の名前が覚えにくく大抵の長編小説では誰が誰だかわからなくなることが多いのですが、この小説では時系列がいい加減ですが「この人はまえに~と書いた人物で…」と補足してくれているので読みやすい部類に入ります。


 この監獄での体験はドストエフスキーに大変な影響を与えたようで、後の作品のモデルになる人物が多く登場します。監獄の様子や人達を彼はその観察力と洞察力をもって仔細に記述していて後の作品の描写を読む上で役立つと思います。むう、先にこの本読んでおけば良かった…。

 繰り返しますが、タイトルから想像されるような、囚人達の、いわば人間の腐ったような奴らがいる場所を「死の家」として凄惨な情景として描かれてはいません。確かに彼らは粗野で粗暴で教養の無い人達が多いのですが、その内心にある信念、心情には深いものがあることをドストエフスキーは見て取りました。
 例えば、クリスマスに囚人達が有志で芝居をすることになり、彼は囚人の演技を絶賛します。囚人の多くは農民(百姓)の者達で読み書きできない者も多くいましたがその素質、素養が貴族達と何ら変わることが無いこと、教養が無く虐げられた階層の者であっても精神のもっとも緻密な発達があることを彼は断言します。余談ですが、こういうところの文章の迫力は意志を感じさせるほどのもので、どれほど彼がその優れた才や非凡な精神に感嘆したかが分かります。
 また、囚人達は同じ囚人でも尊敬する相手と蔑む相手を明確に分けていました。その基準は「『自分』があるかどうか」でした。例え道化役を演じていても(そういう人は必ず囚人の中にもいたし、また息抜きの意味でも必要だった)、自尊心がある者は一目置かれ、そうでないただのアホは蔑まれました。囚人の多くは虚栄心が強く見栄っ張りだったのでなおさらその部分に敏感だったようです。
 ドストエフスキーが監獄の中で孤独を痛切に感じたのは、農民出である囚人達との根本的な違いでした。囚人達は貴族出の者に嫌悪と憎悪を持っており、同じ監獄に居ても決して「仲間」だと思うことはありませんでした。しかも、その「仲間ではない」という意識は憎悪や嫌悪からではなく、当たり前のこと、つまり自分とあなたは全く別の世界なのだから仲間なわけないじゃないですか、という自然な態度でした。日本人である私には想像するにも難しい感覚ですが、ドストエフスキーもおそらくこの直接的な体験が民衆を知るキッカケになったと思われます。この貴族と農民との乖離感覚は十数年や一世代などで作られるものではなく、百年単位、数世代をかけて培われた社会的な文化、風習であるとさえ言えます。日本人には全く無い感覚です。日本にも階級はありましたが、無くなっていますし、おそらく外国と比べて当時もそれほど大きな格差ではなかったのかもしれません。少なくても、その名残すら感じないほどに日本人は階級意識がありません。
 貴族を憎んでいた彼らですが、では貴族の者が獄中でも偉そうに優雅にしていたらさらに憎んだかと言えばそうではなかったようです。むしろ、貴族は旦那方としてそういう態度を取るのが当然だと考えていましたし、そうする人を内心では一目置いていたようです(でもやっぱり嫌悪していた)。ドストエフスキーはそういう貴族的な態度をしなかったようで、変わり者として嫌われていました。結局どうやっても貴族の人は嫌われていました。
 しかし、先ほどの芝居の際には貴族の人に特等席を与えました。これは寄付金が多く取れる(非公式ではるが獄中でも自由に出来る金はあった。この金の存在は重要で、囚人の精神的な自由とも繋がっていて、そのために何とか精神のバランスをも取っていた)という打算もありましたが、貴族の者に自分たちの芝居を見てもらいそれを正当に評価されることを望んでいました。これは自尊心と自負から出るもので、決して卑屈さから出たものではありませんでした。


 なお、少数ではあるものの、監獄には非常に優れた、優しく、素晴らしい人物が居る事にも彼は驚かされました。彼らはある種の共通性があり、精神的な強さ、高潔さを持った人達でした。
 その中で特に文章からして気合が入っていたのがアレイという青年で「カラマーゾフの兄弟」の主人公アリョーシャのモデルとなっている人です。彼自身に罪はなく兄達が悪さをしたので共連れで監獄に来たようです。
 アレイに対するドストエフスキーの印象は
 「この少年が監獄生活の間中どうして心のこのような柔和さを持ち続け、自分の中にあのようなきびしい誠実さと、素直さと、思いやりを育てて、荒んだり、堕落したりせずにいられたのか、とても考えられないほどである」
 「しかし、彼は見かけは優しいが、芯は強くしっかりしていた。私が彼の人間をよく知る事ができたのは、あとになってからである。彼は清らかな処女のように純潔で、獄内で誰かの忌まわしい、恥知らずな、不潔な行為や、暴力的な不正行為などを見ると、その美しい目に怒りの炎が燃え上がり、そのために目がいっそう美しくなるのだった。しかし彼は喧嘩や口論はさけた、といって、罪も無いのに恥かしめられておとなしくひっこんでいるような男では、けっしてなく、自分を守る術は知っていた。(中略)誰からも好かれ可愛がられていた」
 「生まれつきあまりにも美しく、あまりにも神のめぐみを受けているために、いつかそれが悪いほうに変わるかもしれないなどとは、考える事さえできないように思われる人間がいるものである。いつだって安心してみていられるような人間。私は今でもアレイのことは少しも案じていない」


 ドストエフスキーは彼との出会いを生涯における最良の出会いの一つと言っています。よっぽど感銘を受けたんだろうなぁ。(作品内での話しなので、正確には彼が言っているわけではないんだけど、そう解釈して問題ないと思う)

 ちなみにこのアレイは非常に頭もよく、獄中でロシア語を理解し読み書きできるようにまでなります(彼はタタール人でロシア語は使えなかった)。
 兄達からも非常に愛されていた人物で、信仰心も強く、人に何かを施すときに決して見返りを求めないなど多くの点でアリョーシャのモデルとなっています。なお、別の親殺し(冤罪)の貴族だった者もおり、その人物はアリョーシャの兄のモデルになっています。

 これらの出来事をとおして、ドストエフスキーは民衆にも優れた才能や、思想、信念があることを知ります。なお、獄中には他にも数名貴族は居ましたが、ドストエフスキーのように囚人達を観察したり気に留めることはなかったようです。
 ちょっと話しは変わりますが、トルストイもこうした農民達が持っている非凡な才に関心を持っていて自前で塾を創設しています(その後当局に怪しまれて摘発された)。


 貴族と農民という関係は私にはよく分かりません。おそらくこの感覚はその文化にいなければ感じる事は難しいでしょう。異質な者であるという感覚。農民は貴族を嫌悪し、貴族は農民を劣ったものとして見る感覚。いや、もはや嫌悪などの感情を抜いても自然体として当然そうであるものとして感じられるほどに別の世界の住人であると思える感覚。でも、同じ人間、同じ存在であることに彼ら(ドストエフスキーやトルストイ)は気づき、そのことを喜びました。ロシアの民衆は優れた才と文化を持っている、そのことに気づき、だから後の小説では民衆やそれに近い人物、民衆と交わった人物を書いたような気がします。


 同じ存在であることに気づく、というのは日本人であっても共通することです。例えば、囚人でもいいし、別の何かの階層でもいい。自分と違うと思っていた人達もよく観察してみれば同じことを考え、人として扱ってもらうことを望み、渇望し、自尊心があり、素養がある。
 ちょっと話しを飛ばして、よく「命の大切さを知る」教育だとかいうけど、私はこの言葉からその真意を知ることは出来ない。意味が分からない。実感できない。試しにネットでどういう教育をやっているのかと簡単に調べました。その前提理論や思想は分かります。異論がないほどに賛成する。けど、じゃあ、実際にどうやってそれを「知らせる」ことができるのか? 大抵の場合は、被災地見学とか、死と向き合うとかボランティアとかが多いようです。私にはよく分からない。本当にそれで知ることができるのか。知る人もいるかもしれないからやらないよりはマシかもしれない。けど、効果的なのか分からないし、また代案も無いから文句を言う気は無い。
 けど、命って言われても抽象的で分からないし、被災地とか悲惨な体験話も、非現実的すぎる。実際にそういう体験は稀であるし、一時的である。まあ、それゆえに記憶に残るのかもしれないのだけど、それは当事者の意識問題で、見聞きした人には大きな影響を与えるとは思えない。私は自分の感覚として、むしろ、今まで接していた人や、簡単に考えていた人達を知ることの方がよほど意味あることだと思う。相手を軽く見るのは人間の心理的特性ではあるのだけど、それは無知や想像力の欠如から来る。相手のことを知れば、案外自分と同じかそれ以上だと分かる。命ってのは我々のことだ。我々がそれぞれに等価に生きて、存在していることで、なら、それを知れば良い。わざわざ非日常的、一時的、特殊な環境に置く必要なんてない、そんな気がする。…話しが飛びすぎた。


 ドストエフスキーの小説は、それ自体が示唆に富んでいて、そして彼の発する意志はとてもストレートで繊細で素晴らしいと感じます。彼の愛読者は多いですし、どういう理由で多いかは分かりませんが、私はこの物語の中から発する意志、人間の可能性や尊さへの渇望と要求が好きです。これを感じられる作品は多くない。そんな作品に出会えることが喜びであり、自分の糧としたいとも思う。来年も彼の作品や他の作家の作品に出会いたいですね。
[ 2013年05月22日 13:50 ] カテゴリ:本の感想 | TB(0) | CM(-)
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