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戦争と平和(トルストイ)

○戦争と平和 全6巻 トルストイ 訳:藤沼貴 岩沼文庫
記:2007.11.4

ピエール
「不幸だの、苦労だのと言いますが」
「もしも今、この瞬間に、捕虜になる前のままでいたいか、それともはじめからあれを全部もう一度やりたいか?と言われたとしますね。是非とも、もう一度捕虜と馬の肉をお願いしたいですよ。慣れた道から放り出されたら、何もかもおしまいだと僕たちは思う。ところが、そういうときには新しい、いいものがはじまるだけなんです。生命があるあいだは、幸福もあります。先にはたくさんの、たくさんのものがあります。これはあなたに言っているんですよ」
ナターシャ
「ええ、そうですわ」
「あたくし何ひとつ望みませんわ、ただ何もかもはじめからもう一度、あの体験ができさえすれば」
「そう、それにもう何もありませんし」
ピエール
「まちがいです、まちがいです」
「僕が生きていて、生きたいと思っているからといって、僕が悪いわけじゃない。あなただってそうです」


 素晴らしい。ドストエフスキーにしろ、このトルストイにしろ、こういう人達が居て、生きて、残したものを読めることが嬉しい。百数十年以上前でも人種や国が違っても同じように悩んで考えて生きていたことを感じられる、そのことが嬉しい。

 とても長い小説…ではない。これは小説ではない。読んでいてびっくりした。最後のエピローグは2篇に分かれているのだが、2篇目つまり物語の最後の文章(それ自体が80項ある)は、トルストイの独白だったから。そしてその思考こそがこの物語を作っていた。著者自身が言うようにこの小説(のように見えるもの)は「著者が表現しようと思い、それが現に表現されている形式で、表現することのできたもの」だろう。

 簡単に物語を整理すると、「戦争と平和」は1805年からスタートし、1820年で終わる。その中で生じたことは、ナポレオンのロシア侵攻。物語を歴史的に見るなら、ナポレオン侵攻に伴う大きな戦争を軸とした物語、と言える。同時に上流社会にいた様々な人達のドラマも展開する。

 彼は自分の考えを書くにあたって、マクロ的な大きな変動と人々が個人的に体験するであろうミクロなことを同時に書かねばならなかった。その思考とは何か。何を書きたかったのか。それは、人間の自由意志について。

 話を若干飛ばして、トルストイの思考・思想には東洋的な影響が見られます。実際老子について翻訳などもしたそうです。「アンナ・カレーニナ」のときにも思いましたが、彼は決して一面的に見るのではなく、相対的に、全体を見る視点があります。その全体的なものを捉え、全体を一つのもとして考えていたであろうことが読み取れます。また風土的なものだと思いますが、ロシアでは大地を母なる存在だと見ているようです。大地に接吻をする、というのをドストエフスキーの小説で読みましたが、広大で厳しいくもある大地をロシア人は信仰の基本としていたのかもしれません。それは自然を感じ取ることが文化的・宗教的(神道は自然崇拝(←宗教というか習慣として根付いている))にある日本人にも共通することです。読んでいて親近感がわくのはそういうところも一つの理由です。

 はっきり言ってこの小説(としておきます)は、エピローグ最後の2篇目だけを読んでも分かる人には分かります。この2篇目はもはや論文のようなもので、自身の主張を論証しています(物語の途中でも何回も数項に渡って補足文を書いている)。しかし、それは理屈的なもので、物語を読むことでそれが理屈ではなく我々が感じる感覚的なもの、感情的なものとして得ることができます。その意味で、トルストイは自身の思考・思想を見事に物語として書くことが出来る優れた筆者であると思います。(私が言うまでもないんですが)


 本題。人間に自由意志はあるのか?
 歴史、人の生活を見たときにまるで必然的に動いているかのように見えるときがあります。様々な外的条件、前提によりそれがあたかもそうするしかなかったかのように人を動かしているのではないか?と思える。必然、つまり何かしら法則が人間を支配しているなら、我々には自由な意志というものが無いことになります。これはおそらく現在でも取り扱われるテーマだと思います。我々は自由な存在なのか? それとも束縛された、何かの法則によって動いている存在なのか?
 生まれたときから決まっている条件、環境等々を考慮し計算することができたら我々がどう動くかが必然としてわかるのか。一卵性双生児は趣味や趣向、行動が似ると言います。もし、同じ環境、同じ条件のもとでこの双子をそれぞれ生活させたときに同じことを行ったとしたら、私達には個々の自由な意志というものが無いんじゃないか。単にバリエーションが多いだけで、その条件下でそういう風に動いているだけで、同じ条件・環境なら同じことをしたに過ぎないのではないか。私達は自由な存在なのか、それとも操り人形なのか?
 この疑問は私も感じます。私は自由意志があると信じたい。でも、理性が自由なんて無いと教える。

 トルストイは考えました。外的条件が観察されるときは必然性が大きく感じられ、外的条件が分からず内的条件が多く観察されるときは自由があるように見える、と。例えば私がスーパーにジャガイモを買いに行ったとします。そのスーパーでレジを打っていた店員は私がジャガイモを買うのを見て、「カレーを作るのか、それとも肉ジャガか?」と考えます。ジャガイモだけでは私が何を作ろうとしているのかわかりません。つまり、店員から見て私は自由な行動をしているように見えます。肉ジャガを作っても、カレーを作っても良い訳です。では、ここで私がスーパーに行く前に友人に「カレー作る」と言って出て行った場合、その友人は私がジャガイモを買ってくることを容易に想像することができます。つまりジャガイモを買うのは必然であると言えます。観測者によって必然なのか自由なのかの割合が変わります。私自身カレーを作りたいならジャガイモを買うのが当然として買います。もっと言えば、この世界にカレーが存在したことが私の行動を決めたと言えます。
 乱暴な例えでしたが、私達は過去から現在、人々との関わりによって制限を受けています。観測者によって自由にも法則に従った存在にも見える。だから、トルストイはマクロだけではなく、同時にミクロな物語を書くことで人間全体の現象を書きました。ナポレオンは天才と歴史家達は言う。天才的戦術を用いた、と。しかし実際は戦場の様子など刻々と変わっていくために司令官がその状況を完全に把握することは出来ません。命令を与えた瞬間にその命令が実行不可能な状況になっている、報告を受けたときには状況が変わっていることが大半です(当時は伝令役を飛ばしていたので情報の行き来が今よりもかなり遅く不正確)。兵士の士気、物資の状態、地形によって部隊がとれる行動は制限され、消去法的・必然的にそういう風に動いてしまう。一人の天才が歴史を動かしたのではない。様々な人、関係がそういう流れを作ってきた。その大きな流れの中で、一人一人の人間が感じること、出来ることが描かれています。しかしその人々もやはり周囲との関係によって大きく取れる行動は制限されます。



 トルストイは人に自由意志があると言います。
 私達に自由意志があると言える根拠は何か?
 それは、生きていることです。生、そのもの。

 私達が何か知らない法則の中に存在したとしても、歴史が証明しようとも、経験的に百回でも千回でもそうなることが必然だった、そうなるしかなかったと理性が発しても、それでも常に自分が自由な行動をしていると信じられること。同時に結果が2つ存在する(失敗する、しない。自分がそうした、しない)ことを考えずにはいられないこと、そのこと自体が自由な存在であることを証明します。理性ではないものがあり、それがあるから私達は生(可能性、自由意志)を意識して感じるのです。
 生きるということは自由を求めることです。もっと良い生活がしたい、美味しいものを食べたい、寝たい、偉くなりたい、いっぱい物が欲しい、良い女と寝たい。それらは程度の差と言える。腹が減っているか満腹か。善か悪か。その幅の中でよりよいものを求めようとすること。生への意欲、願望。生という自由がある。自由を知ることは生を知ることでもあります。逆にその願望や意欲が無かったら? 人は生きる意欲を失い生きることをやめるでしょう。それでも生きているなら抜け殻と言えます。(余談ですが、ドストエフスキーが自殺する人間を描くとき、その人物は理性の人間です。生やそれに付随する意識、感情的なものを蔑ろにしています。理性として世界や自分を理解し、その希望の無さに生きることをやめる)
 作中、ピエールという人物はこの自由を感じ取ります。決して彼が得た自由は我々が期待するような自由さではありません。捕虜となり、みすぼらしい格好、貧しい食事、およそ自由とは言い難い制限の中で彼は自由を感じます。何故ならその制限の中でも満たされることがあり、満たされたと感じたとき人は自由を感じるからです。腹が減り食事を取る。寒いから暖をとる。一日を無事に過ごす。贅沢をすることが自由なのではなく、自由を感じられることが本当に重要なことです。
 彼は広大なロシアの大地、自然に感謝し生と自由を実感します。この生への信仰こそが人に自由意志があると言えるただ一つの…他にも理由はあるかもしれないけど、この一つの理由だけで十分だと言えるものだと思います。
 結局、生きている者の最後の拠り所は「生きていること」なのかもしれない。

 人の肉体的・精神的自由は他者との関わりによって大きく制限されます。人を操る権力は自分と他者との関わり方における力です。家に居れば親の、学校に入れば先生の、会社にいれば上司の、自分の生活の中でも友人やその他の人々との関わりがある。その潮流の中では個人の自由は制限され歯車のように動くしかないこともある。人はある法則によって動く。でも人はその歯車となりながらも全体を構成する一人として存在もする。生きることが自由であるなら私達は自由な存在でもある。操り人形でもあり自由でもある。
 私達は自由を感じることができる。生を実感できる。それを喜べる。私達はそうすることが出来る存在です。
 この物語の人々はピエールを含めて決して全く問題が無く幸せなわけではありません。家庭内での多少の不和はあります。しかし、人を愛すること、愛を与えること、愛した相手の中に自分を見ること、自分が相手を受け入れていることを相手が気づいていると知っていること、相手と堅く結び付けられた関係にお互いに満足を覚えます。生きていれば決してハッピーエンドにはならない。エンドじゃないから。生きている限り何かの不満や問題は出てくる。でも、だからといって不幸なわけじゃない。出来ないこと、思うようにならないことはある。その中で幸福を感じることは出来る。生を喜び、生を愛し、その生に従い生きる。そして私達が生きるこの世界はそういう生が集まり、各々関係している世界です。



 ドストエフスキー、トルストイの物語は生きることを尊び、生への信仰を描いています。それは人がずっと思ってきた悩み、不安、孤独、不幸を描き出しながらもそれでも人が生きることを信じた物語です。
 理性で生命を知るのではなく、生命を実感する。そこに人の可能性がある。

 私は未だに「文学小説」というものが何なのか分かりません。でも、彼らの小説が素晴らしく、人の可能性や生命を称えた素晴らしいものだと感じられます。難しいことが書いてあるわけじゃありません(読むにはそれなりの読むための意識付けが必要ですけど)、私達が感じ、悩んでいることを彼らも考え書き綴っています。それを知ることが出来るだけでも良い体験だと思いますよ。
[ 2013年05月22日 13:50 ] カテゴリ:本の感想 | TB(0) | CM(-)
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