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白痴(ドストエフスキー)

○白痴 ドストエフスキー 訳:木村浩 新潮文庫
記:2007.6.11

 ああ、もし私に幸福になりうる力があれば、いまの悲しみや災難などはなんでもありません! 私は一本の木のそばを通り過ぎるとき、それを見ることによって、幸福を感じない人の気持ちがわかりかねます。人と話をしながら、自分はその人を愛しているのだという想いによって、幸福を感じずにいられるでしょうか! ああ、私はただうまく表現することができないのですが……すっかり途方にくれてしまった人でさえ、これはすばらしいなと思うような美しいものが、至るところにころがっているではありませんか。赤ん坊をごらんなさい。神々しい朝焼けの色をごらんなさい、育ちゆく一本の草をごらんなさい。あなたがたを見つめ、あなたがたをいつくしむ眼をごらんなさい…… (ムイシュキン公爵)



 毎回ドストエフスキーの小説の感想を書く際に言っていることだけど、この人は凄い。
 小説というより、この人が面白く興味深い。この人の情熱と真摯さは尊敬に値する。少年時代に父親が惨殺されて、思想犯として刑務所にぶち込まれて、死刑判決受けて、釈放されて、妻と死に別れて、再婚して、賭博好きで、癲癇(てんかん)を患っていたこの人が考え悩んでいたことがその作品に現れている。この人はきっと深く祖国ロシアを愛していたし、人には救いがあると信じていたんだろうと思う。そのために、深くロシアの現状を見つめ、深く人を見つめてその暗部や陰惨な面を直視しつづけた。それはとても真摯で純潔な精神だと思う。

 ドストエフスキーの有名な長編として『白痴』の他に『罪と罰』『悪霊』『未成年』『カラマーゾフの兄弟』がある(執筆順)。この『白痴』は『罪と罰』の次に書かれた。『未成年』は未読。
 どの順番で読んでも構わないが、執筆順に読むか、書かれた順に理解するととても面白い。もし『白痴』を『カラマーゾフの兄弟』より以前に読んでいたら今とは違った印象を抱いたと思う。それは白痴とカラマーゾフの主人公の在り方に関わりがあるからです。


 白痴の主人公であるムイシュキン公爵は人々から「白痴」と呼ばれる。ロシアにおいて「白痴」はその言葉通りの意味と「バカ」「マヌケ」という意味がある。この公爵は実際に白痴を患って(というのも変だが、精神薄弱のような状態だった)いたが、物語開始時には快復し言動も正常になっている。彼の頭脳は明晰と言ってよく、教養もあり、人を疑うことはしない。仮に疑ったとしてもその疑念を抱いてしまったことを恥じ入る自制心を持つ。他人の言動に対しても寛容であり、一言で言えばとても良い人です。登場人物達もこの公爵に好感を持ちます。彼が白痴と呼ばれるのは、その人の良さがあまりに強く、世間に対して無垢でありすぎるからです。世間知らず。
 公爵はキリストをモデルにしている、または現代に現れたキリストとして創造されたようです。彼の慈悲深さは物語においても印象的です。ナスターシャという少女の頃に性的虐待を受け、とても荒んだ女性に彼は憐憫の情を抱き、愛します。しかし、彼女を救うことが出来なかったことに、この物語と現代の悲劇があると思います。彼は彼女を理解し、愛し、慈悲を抱きますが、それを彼女は受け入れられません。彼女は自分が汚れた存在であることを十分に自覚しています。自分の身の程を知るがゆえに高潔な精神を持つ公爵を素直に愛することが出来ません(その意味で彼女も純粋な精神を持っていると思う)。そして、公爵と対照的な男であり、同じく彼女を愛するロゴージンに殺されます。彼女の死を目の当たりにして、犯人であるロゴージンに対しても公爵は慈悲を抱きます。しかし、公爵の精神は耐えられず、白痴へと戻ってしまいます。
 また、アグラーヤという女性と公爵は恋愛をしますが、公爵がナスターシャへの慈悲を選んでしまったために破局に陥り、彼女もまた自分の欲求のまま家を飛び出していきます。


 公爵は誰からも好かれ、好人物であり、慈悲深くとても聡明な人です。しかし、誰も救えないどころか自身すら滅ぼしてしまったのです。現代社会において、さまざまな人、考え、経験、過去、因縁があり、それをキリストのような純粋さを持つ(といっても私はキリストを知らないので、そういうことらしいということで進める)公爵は人を救うどころか、むしろ巻き込み掻き回して一緒くたに沈没してしまう。読んでいて胸が苦しくなる顛末です。純粋さや高潔さだけでは社会に立ち向かうどころか自分すら守れない。社会という大きな渦とそれを構成している様々な人々と一緒に不幸になり一緒に泥沼へと落ちていってしまう。
 しかし、だからこそドストエフスキーはカラマーゾフにてアリョーシャを創れたのだと思います。アリョーシャは信仰を持った青年であり、純粋な精神を持つとともにその信仰により強い意志を持ちます。それは人々に積極的に働きかけていきます。純粋さと理性を備えた彼は社会に押しつぶされることなく人々に愛を教えます。(カラマーゾフには続きが構想されていたようですが、著者が書く前に亡くなった)
 ドストエフスキーの一連の作品を読むと、著者の強い苦悩と理想を感じます。物語全体に感じる緊張感はその切実さがあるからのように思えます。この人の作品の何が面白いかといえば、この情熱ですね。思想、洞察、精神、理想、現実把握。諦めずにずっと苦悩しながら書いてきたんだろうと思わせる。それが作品に現れている。こういう真剣な人は大好きです。


 アリョーシャのような人物が本当に存在し得るのか、ただの空想で絵空事なのではないのか。それは分かりません。実際にそんな人を見たことはありません。いるのかもしれませんが、気づかないだけかもしれません。分からない以上それを証明することはできません。
 でも、アリョーシャのような人が実在できない、とは思えません。彼は決して人間離れな存在ではなく、とても身近な青年に思えます。彼は他の人よりちょっと純粋でちょっと信心深い青年のように思えます。信仰への強い確信によって行動力を持ち、理性を兼ね備えた彼の、人としての可能性を私は信じたい。キリスト教(宗教)への信仰を私は持ちませんが、だからといって人間が救われないで良いとは思いませんし、救われたいと思います。それはただ受動的に待つのではなく、アリョーシャのように行動し、意思し、何かを目指して歩んでいくことに意味と可能性があるように思えます。私が「意志」することに意味と興味を持つのはそこから来ているのだろうと思います。
[ 2013年05月22日 13:41 ] カテゴリ:本の感想 | TB(0) | CM(-)
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