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カラマーゾフの兄弟 下巻(ドストエフスキー)

○カラマーゾフの兄弟 下巻 ドストエフスキー 訳:原卓也 新潮文庫
記:2007.1.5

 読めば読むほど心が熱くなってくる。これほどまでの圧倒的な、迷いの無い意志と信念を物語として書くこの出来るこの作家に畏敬と尊敬すら覚える。
 この作家は近代化・文明化が進む中で人々の心がバラバラになり、孤立し朽ちていく様に恐怖したんだと思う。ふたたび人々が繋がり、赦され、心から救済され幸福な生活を送れる方法としてキリスト教への信仰を唱えた、というのは大抵の人の見方だし私もそう思う。
 ごちゃごちゃ小説内の出来事を抜粋して書くので簡単にストーリーを書くと、ロクでもない父親のフョードル・カラマーゾフに三人の息子がいます。長男は父親に似た放埓者。次男は理屈屋。三男は信仰心ある心優しい青年。あるとき、その父親が殺されます。長男であるドミートリィに容疑がかけられる、という話。

①信仰という根拠のない確信
 ドストエフスキーが書く物語の中で徹底した、最も重要な、これが無ければ成立しないだろうという点は、(私の表現の仕方なので分かりにくいが)『根拠のない確信』だと思う。単に『確信』『意志』でも良いけど。
 神やそれに対する信仰ってのは、信じるか信じないかしかないんだよね。目の前にリンゴがあれば誰だってリンゴはあるって答える。これは信じる信じない関係無しに事実としてあるから(目や手や熱などで観測できるから)。目に見えないもの(観測できないもの)、思想、信仰は信じるか信じないかの問題にある。
 ちょっと飛躍して書いてしまうんだけど、恐らく『神の啓示』『天啓』『悟り』などは同じ現象を指していると思う。私なりの言葉なら『根拠のない確信』。『神の啓示』ってのは何も神様が現われて「やあ、私は神様なんだけど、ちょっと君に良いことを言ってあげるから聴いてよ。なんならメモも取っていいよ」などと言うわけじゃない、と思う。こういうのは、いわば自分の内から沸きあがるものだと思う。もう一人の自分に気付くとか、パッと目の前が開けたかのような感じになるとか。それが何らかの理由によってそうなるかは分からないんだけど、共通するのは大きな感動や意志や確信が内に生じること。根拠なんてものは無い。それが正しいという理屈は無い。が、それが正しい認識、意志であることは疑いようも無いという確信。「確信」という言葉には「信」が入っていますが、そのとおりでこれは信じるということなのです。

 ちょうど、中巻にてアリョーシャが確信を得るシーンがあります。
 彼はすべてに対してあらゆる人を赦したいと思い、みずからも赦しを乞いたかった。ああ、だがそれは自分のためにではなく、あらゆる人、すべてのもの、いっさいのことに対して赦しを乞うのだ。『僕のためには、ほかの人が赦しを乞うてくれる』ふたたび魂に声がひびいた。しかし、刻一刻と彼は、この空の円天上のように揺るぎなく確固とした何かが自分の魂の中に下りてくるのを、肌で感ずるくらいありありと感じた。何か一つの思想と言うべきものが、頭の中を支配しつつあった。そしてそれはもはや一生涯、永遠につづくものだった。大地にひれ伏した彼はかよわい青年であったが、立ち上がったときには、一生変わらぬ堅固な闘士になっていた。

 ここに至るまでに敬愛していたゾシマ長老が亡くなってその遺体から異臭が発せられたとか、色々騒ぎが起こったりアリョーシャ自身が大きなショックを受けたりするんだけど、この確信に至るプロセスは唐突で非論理的なんだよね。まともに受け取ったら「え?何でそうなるの?」ってなる。だがしかし、その「え?」は当然だと思う。というのも多分作者も分からないから。アリョーシャが確信するのはアリョーシャ自身の心の中の出来事であって、計算や論理などで作るものではないから。できるのは、限りなくアリョーシャ自身の心に近いところでの描写(説明)だけであって、その完全な論理的プロセスを書くことは出来ない。というか、そもそも論理的なものではない。


②確信を得た者の未来
 『根拠のない確信』を得た人は原動力が内に湧き続けます。あるキッカケで感動してそのときに得られたモノが心にずっと持ち続ける。理屈じゃない。もはや衝動的な、永続的な、揺るぎの無い方向性を持った情動。「~をすることが正しいのだ。自分はそれを実行するのだ」という意志が生ずる。
 多分、これ読んでいる人はオカルトちっくに聞こえるかもしれないし、何を言っているのか分からないのかもしれないけど、私が言えるのは実際にそういう経験をしているからです。
 学生の頃に社会に対して斜に構えていて、それでいて何もしなかったんだよね。何をしていいのかも分からないし、何が正しいのかも分からない。ただ漠然とした不安と猜疑心が募る。ルーチンワークとした日常に嫌悪を覚えつつも自分から変えようとしない。そういう自分を知りつつもやっぱ何も出来ない。自己嫌悪。中学の時なんて望んでもいないのに修学旅行行くのが嫌で拒否して、旅行中に学校行って自習したほど社会に対して不満があった(自分がわけの分からない枠の中に入るのを嫌がったのかもしれない)。
 それを打開するキッカケになったのがプリズマティカリゼーション(以下プリズマ)だったんだけど、要はそういう人間の内心を露骨に見せつけられたんだよね。痛いくらい。で、プリズマでも主人公が確信を得る。それは日常を進むことに対する能動的な意志。やっぱりそれも何で確信を得るのかは論理的に分からない。でも分かることが一つだけある。それはその確信を得た人間は迷い無く自分の意志の命じるままに行動することができるということ。これが最も重要な点であり、最も羨望を覚えた点でした。そして自分もその確信を得られた。

 これらの、生きることに対する確信は如何なる状況、不安定な状態、環境においても力を発揮し、生きる気力を与え続けます。カラマーゾフの長男であるドミートリィがやはり確信を得たとき(彼は夢で見た「童」の悲惨な体験を通じて確信を得た)、とてつもない感動を覚え、アリョーシャにそれを訴えるシーンは凄い迫力。
 「たえず『俺は存在している!』と自分自身に言い、語れさえするなら、俺はどんなことにでも、どんな苦しみにでも打ち克ってみせるよ。数知れぬ苦痛を受けても、俺は存在する。拷問にのたうちまわっても、俺は存在する!柱にくくられてさらしものになっても、俺は存在するし、太陽を見ているんだ。太陽が見えなくたって、太陽の存在することは知っている。太陽の存在を知っているってことは、それだけでもう全生命なんだよ!」

 小説の話に戻ると、これらの確信を得た者の結末は当然生きることへの賛歌へと続いていきます。逆にその確信を得られなかった者は自殺あるいは自分の中をさ迷い続けます。カラマーゾフの兄弟それぞれを見れば分かりやすいでしょう。
 長男のドミートリィは父親に似た感情的な人間で放蕩と淫蕩を繰り返すような、早い話が理性の無いダメな人間です。しかし、彼は素朴な、純粋な心の持ち主であり物事をストレートに捉えることが出来る人でもあります(だから放蕩にも走るんですけど)。感動する心が無ければ運命は訪れない(プリズマ)という言葉があるのですが、まさにその通りで、彼はその純粋な心を持つ故にキリスト教の愛(これはドストエフスキーの思想なので)に目覚めます。
 次男のイワンは上巻ラストの大審問官を論じた、いわば理性の人です。神を信じてもその結果である世界を認めることができません。結局信仰を持つことが出来ません。確かに彼の言うことは一理あって、アリョーシャも反論できないのですが(確信を得る前なので、得た後ならできそうですが)、ではイワンが何を出来るかというと何も出来ないのです。下巻中盤で彼は幻覚を見るのですが、その相手はもう一人の自分です。この議論はかなり興味深いです。信仰を持てず、理屈によって自分を支えるのですが、理屈というのはいくらでも正当化あるいは反駁化が可能です。自分はこういう理屈で動く、ふーん、じゃあ、その理屈で君は安心を覚えているんだ、ところで、もしその前提がなくなったら君は動く理由がなくなるんじゃないの?何でそんなことするの?得にならないよ?ただのプライド?自尊心?止めときなよ、君は臆病者なんだよ、理屈で正当化しているだけさという自己の反駁にイワンは答えられません。強く苦しい葛藤に苛み、結局病気で床につきます。もし、これがドミートリィやアリョーシャのような確信を得ていたなら、そんな戯言を振り払って(そもそもの初めから戯言などでないでしょうが)行動することが出来たでしょう。
 三男アリョーシャについては割愛します。この人はいわば信仰の体現者なので。

③信仰と理性
 理屈が悪くて、感情が良いんだ、ということではなくて、『確信』や『信仰』というのは理屈ではなく心で捉えるものであり、その確信は人の行動に大きな影響を与える、というのがドストエフスキーやその他の作品でえがかれている点だと思います。
 この小説の驚くべき点は、理性についても言及している点です。ドストエフスキー考えすぎ。それはこの小説を締めくくる裁判の中で弁護士が言ったことです。父親殺しに対して感情的な批判が起こりますが、その父親が子どもに愛を与えず自分の好き勝手にするような親は親ではない、と言います。子どもの頃に体験した出来事や愛はその後の人生に大きく影響を与えると言います(恐らくドストエフスキーの体験談)。父親の資格の無い親が我々の敵であるようにその子どもも敵になってしまう、その原因は我々にもある。勿論、ロクでもない親とは言え親は親かもしれない。それは信仰のように信じられている。しかし、ただ信じるのではなく、理性を持って、深い思慮と経験を持って、試練を耐え抜いた理性的な信念を持てと言います。これ凄いよ。考えすぎだよこのおっさん。いや全くそのとおり。心の中にある確信は何も具体的な行動指針というわけじゃなくて、漠然とした方向性のようなもので、理性によってその場その場での適切な行動を取捨選択していくものだと思う。信心が人を動かし、理性がその行動を洗練する。
 幼児虐待が人の嗜好にあり、それをなくさなくてはその子ども達はまた自分の子どもに同じことをしてしまう。そうならないよう、子ども達に愛を与え、愛を説くアリョーシャの姿が最後印象に残ります。


 人間てのは弱い生き物で、ドミートリィだって確信を得ても終盤自分の未来に不安を覚えます。それでも自分の心に生じた確信はなくなることはないし、アリョーシャもその確信を抱き続けて、と言います。
 何もお偉いお坊さんだとか聖人君主や苦行が人に信仰を与えるのではなく、むしろドミートリィのような放埓で下品な人でも信仰を得ることが出来るとしたドストエフスキーの主張は確かに正しく、また希望的でもあります。ドストエフスキーはキリスト教の信仰を皆が心から信じ、その結果生まれる共同意識による社会形成が人々に幸福な生活を与えると信じたのだと思います。


④次の課題
 さて、ここから先は私の課題の話になるのですが、ドストエフスキーのキリスト教信仰は、いわば全体的な大きな思想だと言えます。その大きな思想をみんなが持つことで、共同体の一つとなりそれぞれが繋がり赦しあい救われるという性質があります。

 では現在はどうなのか。残念ながらドストエフスキーが望んだような信仰が復興することはなく、むしろ懸念されていたことが深刻化しています。人の信仰心は薄れ、人々はそれぞれ自分の生活に閉じこもり、個人主義的になっていると感じます。
 なぜ、そうなったのかは専門家では無いので私は分かりませんが、一つには一人でも暮らせるほど社会が安定したからだと思います。日本人は信仰心が薄いと言われますが、これは半分誤りです。単に他の文化圏と信仰の形が違うだけで、やはり日本人には日本人なりの宗教観・信仰が存在します。神を信じることだけが信仰なのではありません。ちょっと前に読んだ山本七平氏の受け売りになりますが、日本人は会社や組織(地域のコミュニティとか)を通じて共同体を作り上げその中で人は同じ生活をしてきました。同じ共同体というのはその中では規律や常識、信仰が共有されることです。
 ところが、現代ではその共同意識すら薄れつつあります。会社や組織の中にあってもそれぞれが無関心でいたり、自分の好きなことばかりに目を向けるようになってきています(かく言う私もそうなんですけど)。大きな思想がなくなってきています。それが悪いとは言いません。しかし、私が感じる不安は、その結果バラバラになりつつある人達が、果たして繋がり得るだろうか?という不安です。

 社会を形成している以上は、薄くても繋がっているのかもしれませんが、その社会が有る無しに関わらず人が人と繋がり得る!という確信が私は欲しいのです。いや、なんで繋がらなきゃいけないの?というのもあるんですが、なんと言うか経験的にというか、やっぱある程度社会や人生経験積むと人と人との繋がりって大切だよな、って思うだけど、それが思想的、意志的に確立してないんですね、私。その確信が無いとどこか不安で、自分の行動に自信が持てなくなる時があるんです。それに対して「そりゃ、お前が弱いだけだ」「単に自分が動かないことに対して言い訳している」と言われたらそれは甘んじて受けます。先ほど書いたように、確信が私を動かし続けるのであり、私のような怠け者で弱い人間にはそれが必要なのです。

 恐らく一般論的に「自分と繋がっている人、例えば友達とか家族とか大切にすればいいよ、他の知らない人にも善意を分けてあげればいいよ」と言われるでしょう。しかし、そんな言葉は分かっているのです。んなことは言われなくても知っている。そうすることが現実的であり、また当然であることも知っている。違う、そんな言葉が欲しいのではない。その言葉はそれを信じていようがいなかろうが出てくる言葉です。深く悩まなくても、妥協と一般的な常識に照らし合わせて言うことができる言葉です。私が欲しいのはその言葉に含まれている『確信』『意志』なのです。
 自分と繋がっている人を大切にしたり、知らない人にも善意を与えるというのはそのとおりです。では逆に、自分のとってマイナスになるような、繋がっていない方が良いという相手や、自分に悪意のある人に対してまで、果たして自分は善意を与えることができるでしょうか? あるいは自分が悪意を相手に与えはしないか? 自分に都合の良い相手だけに善意を与えるのなら、それはやはり範囲が少々広くなったエゴでしかなく、ドストエフスキーが描いたような自己に埋もれ自殺するしかない人間の闇を見ることになるんじゃないか。悪魔はささやくでしょう、「それ、単に自分の都合だよね。自分達で作った大きな落とし穴に自分達で落ちるよ」と。善意に対して善意で返すことが簡単なように、悪意に対して悪意を返すのもまた簡単です。そんな悪魔の戯言を振り払える確信があって欲しい。排他的ではない肯定的な、まさに信仰のように全ての人を赦し救済するような信念。そんな理想的なものがあって欲しい。


 人が個人主義的になり、自分を基点にして人生の意味や行動を得ることは間違ってはいないと思います。でも、神という人の上に存在する大きな存在(日本で言えば組織的共同体)が消滅し、個人でしか他を推し量ることができなくなった(相対化され個人レベルにまで下がった価値観の)中で人と人との繋がりをどのようにして得ることができるのか、というテーマの作品に今一番興味があるのですが、あまりそういう作品って聞かないような気がします。あったとしても問題提起に留まっていそうなんですけど。
 現代とその後に続く時代の中で、人の心の支えになり、繋がりを希望し続ける思想が有り得るか、その確信を得ることができるのか、これは私の課題として探して行きたいと考えています。


 自分にとってこのタイミングでドストエフスキーを読めたのはとても意味あることでした。これが5年前では早すぎたでしょうし、5年後では遅すぎた。今までの自分の中に乱雑にあった考えが綺麗に整理できました。こういう風にして作品を自分の糧として、あるときは感動し、あるときは貯えて、あるときは繋げていく面白さ、充実感こそ作品を見る最高の喜びと意義です。
[ 2013年05月22日 13:39 ] カテゴリ:本の感想 | TB(0) | CM(-)
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