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悪霊(ドストエフスキー)

○悪霊 上・下巻 ドストエフスキー 訳:江川卓 新潮文庫
記:2006.9.17

 このぼくがたとえ何者であろうと、ぼくが何をしようと、それはもうどうでもいい!人間にとっては自分一個の幸福よりも、この世界のどこかに万人万物のための完成された、静かな幸福が存在することを知り、各一瞬ごとにそれを信じることのほうが、はるかに必要なことなのです。(ステパン・ヴェルホーヴェンスキー)

 とある本で「ドストエフスキーはニヒリズムに怯えた」という文章を見て気になって読んでみた。『罪と罰』以上に人間洞察が鋭い。当時のロシア情勢を読む意味でも価値あるものだと思います。
 ストーリー自体は快・楽という意味ではそれほど面白くはない。ページ数は1300もあるし、1ページあたりの密度も高い。ロシア人の名前は覚えにくいし同じ人でも苗字・名前・愛称で書かれるので混乱する(多分意図的に書き分けているように思えるが検証するのが面倒なのでパス)。景気の良い話しでもない。気楽に読むような本ではないと思う。ある程度の覚悟と気合が必要。でないと読みきる前に挫折する。

 ドストエフスキーは『罪と罰』『悪霊』の2作しか読んでいないが、それだけでも著者の心境がよく分かる。19世紀半ばのロシア情勢は非常に不安定で過渡期。1861年に農奴解放が起こり上流階級にも下層の階級にも変化が起こる。旧時代の価値観の崩壊、西洋からの思想移入。貧乏人は金が無ければツバもつけてもらえない、金持ちは見栄張りばかり、知識人は好き勝手ほざくが何もしない。学生達は新思想やら革命意識に振り回される。どこを見ても見栄、欺瞞、貧困しかない時代。混沌としています。
 今の日本も大差無いと言えば大差無い。経済的に言えば、会社組織の在り方が変わってきて旧来の終身雇用制は崩壊し能力・結果主義が台頭する。犯罪は低年齢化、凶悪化の一途。個人情報云々、セキュリティ云々。合理的・資本主義的発想は確かに発展しやすいが、発展することと生き易くすることとは別の話だと思う。

 ドストエフスキーはそんな時代の混乱、疑念、不安、不信を凄まじいばかりの洞察で書いている。自身の体験も凄いことになっているので非常に重みがある。とても100年前以上の人が書いたものとは思えないほど今の時代にも通用する観念がある。
 救いがたい、どうしようもなく混沌とした社会、人間性。それらに対してドストエフスキーはキリスト教の信仰を用いたが決してそれは神を信じろということではない、と思う。多分彼自身は神を信じていない。信じられなかったと思う。いくら神を信じてもこの現実が救われることはない。冷厳・冷徹に人を見るのが神なら、そんなものがいたところで何にもならないことはすぐに分かる。なら、真に肝要なのは『信じる』という意志である。神を信じる者、つまりはキリストへの信仰となる。『罪と罰』のソーニャはさながら神を信じるキリストの役であると思う。
 その神を信じる者への信仰はすなわち直接的に神を必要としないということである。それはニーチェらがすでに見抜いている(この時期の哲学者はドストエフスキーの影響を受けている。ドストエフスキーが実存主義の先駆者だという意見は彼の思想や後の思想からも妥当だと思う)。だから彼らは神に拠らずに人にその根拠を求めたのだと思う。神の代わりのモノを使うという意味で『信じる』ことの重要性は同じ。

 登場する人物に焦点をあてると、スタヴローギンがこの『悪霊』の主役。彼は善悪の判断が無い。善悪に支配されないというより感じない。人よりも強く、カリスマ的でもある。人間の価値に縛られない人間、この時代の世相を反映したかのような人物。人よりも高い位置にあるという意味ではある種神になれる資質があるのかもしれない(神は善悪を超越した存在)。ただし彼は自虐的・加虐的なことに悦びを感じ破廉恥な犯罪をも起こしているのでむしろ悪魔と言った方が良いと思う。彼は神になれない人間の姿であり、その末路は自殺である。人の社会で神は生きていけない。余談であるが「スタヴローギンの告白」にてチホン神父が言った「手紙の告白をする前に、それから逃れるために犯罪を犯す」の犯罪とは「自殺」のことであろうか。キリスト教における自殺は罪です。
 キリーロフは人が神になる方法として(我意による)自殺を選んだ。神がいないのであれば、自分を支配するのは自分であり、自己の存在を証明するのが我意による自殺であると彼は考える(実は似たようなことは私も中学・高校の頃に考えたことがある)。確かに彼は神になったのかもしれないが、人ではなくなる。生きてはいないのだから。

 結局のところ、人は神になれないしなったとしても人として生きていけない。人として生きるその方法としてドストエフスキーは合理性や論理ではなく、『信じる』ことを望んだのだと思う。信じることが出来れば自ずと自殺することも無い。(彼の著作の面白さとして、各思想を対決させる、あるいはその顛末を書くのが特徴的でありその点で論理的である)
 読んでいると景気が悪いし、今も昔もあまり変わらないなぁと思ってしまうのだけど、その中にある希望が心に活力を与えます。ドストエフスキーの略歴を考えるなら人間不信になってもおかしくないんですが、それでもこれを言えるのは凄くカッコイイと思う。
[ 2013年05月22日 13:38 ] カテゴリ:本の感想 | TB(0) | CM(-)
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