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罪と罰(ドストエフスキー)

○罪と罰 上・下巻 ドストエフスキー 訳:工藤精一郎 新潮文庫
記:2006.7.2

 上下巻合わせて約1000ページ。かつ1ページの密度が高く隙間を見つけることの方が難しいという圧倒的ボリュームは読み手の処理能力を試すかのようでもある。ぶっちゃけこの本を本屋で立ち読みして試しに買ってみようと思える人はまずいない。
 すみません、読むのに約2ヶ月かかっていてほとんど時系列すら忘れている状態だったりします。
 正直な感想を言えばかなり読みにくい。文章量がケタ違いなこともあるが、主人公の言動が精神分裂病者かと思えるほど支離滅裂に見えるし、各登場人物のセリフ回しも独特。しかしこれはむしろ作者の描写が重厚すぎることの裏返しでもある。主人公の行動は後々他の登場人物の解説(推理)により客観視され分かるようになる。限りなく一人称に近い三人称とでも言うべきか、各人にスポット当てた際の濃密な書き込みは凄すぎて処理しきれず思わず眠気を誘うほどである(300ページ過ぎたあたりから読み方(作品の意図)がわかってきたので面白く読めるようになった)。その部分を抜いても入れてもこの作品好きです。

 この作品の主人公は貧乏で自意識過剰で傲岸不遜で自尊心が高いわりに大した度胸もない小心者でインテリを気取って自分を高く評価しているようなよくある元学生(学資が続かなくて大学やめた)。彼は金貸しの老婆を殺す。しかし彼は奪った金品を一切使わなかった。それは良心の呵責に苛まれたわけではなく、単にビビッたから。良心の呵責云々で言えば彼はこの殺人を罪と感じていない。それは物語が終わるまで変わらない。彼が唯一悔やむのは己の意志(殺害およびその後に取るべき行動)を真っ当できなかったその挫折感である。
 彼の小心者っぷりと自尊心の無駄な高さの描写は見事であり、伊達にそれだけにといって良いほどページを割いているわけではない。読む方がグダグダになるほど彼は迷い悩み迷走する。そして悟る。己が取るに足らぬ人間であることに。選ばれた者でもないし天才でもない。卑屈で小心な人間であると。彼が自首しなければならなかったのは最後の彼なりの自尊心でもある。僅かな自尊心が満たされようとも、今度は獄中でその後の人生に何の未来も無いことからくる絶望感に満たされる。自分には何も無い。未来も無い。そこから如何にして救済されうるか? それは陳腐であろうがなんであろうが「愛」である。彼を立ち直らせる、生きる希望を導き出させるのは娼婦だったソーニャという少女である。彼は神を信じない。しかし必死に神を信じ己の救済と平和を信じるソーニャを彼は信じる。彼にとって神は信じるに足る実像を持たぬモノであるが、ソーニャという実像は彼を惹きつける。しかしまだ彼・彼女らは真理に気付いただけであって、到達はしていない。その道程が如何に長く険しいものであるか。作者はその後の物語は新たなテーマとなり得ることを示唆しつつも幕を下ろす。


 主人公が現実に対して挫折していることを本人が自覚したくないという心理描写は圧倒的。人間性を回復するにはまず膿を出し切らねばならない。それはおぞましいものであると同時にまるで袋小路のような迷路を地図もコンパスも無く進むような感覚であり自分が今どこにいるかも分からなくなる。仮に手がかりを見つけてもそれが更に自らの傷を抉り出すように見える(事実そうなのであるが)ものだったりする。それは筆舌に尽くしがたいほどの苦しみと疲労を感じさせる。この主人公が終始そんな感じなのは当然である。簡単に言えば『自分のかっこ悪い・ダサい・醜い・弱いところを直視する』のはめちゃめちゃ難しい。よしんばそれが出来たとして今度はその修正が難しい。認めることは心理的に可能であり、理屈で割り切ることもできる。しかしそこからの修正は現実に対して『行為』しなければならない。過去の自分から脱却し新たなる生活をおくるにはその方向へ歩き続けなければならない。その手助けとなる、導き手となる、あるいは必要となるのは他者との繋がりだと思われる。一人では一つの世界しか知りえない。閉じた世界から他の世界へ導いてもらうには他者の介在が必要となるからだ。スヴィドリガイロフという男は主人公と対照的で、彼には自由になる金があるにもかかわらず結局愛を得ることが出来なかった。自分の世界に閉ざされてしまった彼は己の生を自ら閉じる。

 人間性の回復は必ずしも自己の肯定のみにあるのではない。自己の肯定のみであればそれはエゴの肥大であり他者をエゴで侵略することである。このままの自分を認めろ、変わるのはお前だ、という理屈が通じるのであればそれは理解ではなく支配に他ならない。個性や自分らしさなどというのは相対的なものであると思う。他者との距離、接し方、自己認識による自己、他者認識による自己それらの総合体が個性でありそれは流動的なものである。絶えず外の世界と摩擦を起こす(繋がろうとする)ことで自己の居場所を知り、歩んでいくことが人間性を回復する数少ない手段のように思う。(唯一と言えるほど私は達見してないので)


 個人的にこういう『出だしの物語』の筆頭作品がプリズマティカリゼーションで、『その後の物語』の筆頭作品がプリキュアになっています。というか、あまりにこの2作品の影響が強いので似たようなテーマを扱った作品は似たような結論ありきで見がちになってしまうのが少々反省点ではあります。もっと他にも見出すべき点は多いはずなんですけどね。しかしながら、やはりこういう作品を読むと活力が湧いてきます。
[ 2013年05月22日 13:37 ] カテゴリ:本の感想 | TB(0) | CM(-)
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