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コラム4「S☆Sの解釈」

 主にS☆Sのことについて。ただし感想や考察とか解釈というより、ほとんど私の考え方の話になります。なんでS☆S見てたの?という話でもあります。もともとこの感想はそういう色が強い感想なのですが、ご了承下さい。


①MH終了からの視点の変更
 MHが終わって私の中で理解された時点で私はある一つの到達点に至りました。それによって個人に起因する物語は必要としなくなりました。求めなくなりました。個人の経験、思い出、行動、心理、葛藤それらは無印やMH、それ以外の作品を見てきたこともあって十分自分の中で昇華されたと思っています。自己評価なので他から見ればまだまだなのかもしれませんが、少なくてもアイデンティティや意志の持ち方、行動のキッカケなどの自分にまつわる、自分の中の話は個人的には十分に理解し意味を見出したと思っています。
 そして、そこから私はもっと先の物語を見てみたいと思いました。(個人という意味の)人が立つ理由は見つけた。では、人と人が繋がる物語とは何だ?その繋がりの意味とは何だ?そこに可能性や希望はあるのか?それは如何にして現されるものなのか?
 それを見つけることが私の課題になりました。自己の中から視点を動かし、人と人との間の繋がりに目を向けるのが私の視点になりました。

※補足説明
 無印・MHも人と人との繋がりはありますし描写もされています。しかし、この描写は主に自己にスポットを当てる形でなされています。なぎさとほのかは違う個性を持った人間であり、お互いに関わり合うほどその個性の違いに気付きます。そこから相手への理解が生まれます。つまり繋がりをキッカケに自己と他者の違いに気付く物語であり、厳密に言えば、これは個人の物語と言えます。(無印・MHを通してほのかの物語だと解釈できる、という意見を見たことがありますが、そういう見方ができる点で個人の中にコミットできる物語つまり個人の物語だと言えます)


②S☆Sの出発点
 受け手が感情移入できるかどうかは物語の登場人物の心理が深く描かれ共感されるかに大きく左右されます。咲と舞はその意味では前作ほどの心理描写(お互いの個性の違い、ぶつかり合い)はありませんでした。また、非常に素直で善良な人として描かれたこともあって感情移入しにくいキャラクターとなりました。物語の描き方も変わったことから前作と別作品として認識されるのが一般的な見方かと思われます。が、個人的には前作の続きとしてすんなり受け入れられました。確かに物語の表現の仕方や見せ方は様変わりしていますが、継承している部分は全く同じでありむしろそれをさらに発展させようとしていることが感じられたからです。

 その継承している部分こそ、「人の生き方(在り方)」です(コラム5にも書いていますが)。個人の物語から発展し人と人との関係に目を向けたS☆Sはその意味で非常に素直でストレートで自然発展的な物語として描かれています。
 個人の可能性が確立され希望が見出されたなら、続く物語はその人達が持ちえる可能性と希望となります。私はそれが見たかったのです。(S☆Sの作風に視点を合わせたというより、プリキュアが目指したものと私の求めたものが同じだった言える)


③『人』の捉え方
 人は自己のみの存在ではありません。他者と関わりあって存在しています。私の持つ記憶、経験、行動は数え切れない人達との間で成された、得られたものです。私が生きているのも両親が居たからでしょうし、この感想を書いているのもプリキュアがあったからです(それを作っている人がいる)。
 同じ人でも、父親としての顔、夫としての顔、会社での顔、友人としての顔、お客さんとしての顔を持っています。よく個人の物語を描く時に本当の自分はどれだ?というような話があります。私はその問いは意味が無いと思います。だって、その顔全部が自分でしょ、と思う。ある時は(ある繋がりでは)とても優しい人だったのに、違う時(違う繋がりでは)非情な人だった、というようなことが人にはあります。プリキュア感想書いている私はそこだけ見れば何か理想論者っぽい良い人っぽいように見えますが(見えなくてもいいんですが)、実際には不満があったりすると八つ当たりすることだってあるし、相手によって態度が変わったりします。それは誰しもがあることです。そしてそこから言えることは、人(自己)というのは自分の中に自分があるのではなく、他者との繋がりにおいて自分があるということです。
 善人は善意だけで出来ていて、どんな人にも全く分け隔てなく善意を出しているから善人なのではありません。実際にはそんな人はいません。いないと思います。強いて言えば、善意を現す人間関係を多く作っているからその人は善人だと思われるでしょうし、そのことによって自分でも善人だと思うでしょう。自分とは幾人もの他者との関わりによって形作られるものだと思います。
 つまり、(人類という意味の)人の真の可能性、希望を現すには個人の物語ではなく、人と人との繋がりの物語である必要があります。それはまた同時に自己の理解と可能性をも引き出すことになります。


④S☆Sの解に求められること
 本当に万全を期すならS☆Sは完全ではありません。咲舞は善人過ぎますし、他者との関係性はほとんど濃淡はなく、善意的で親和的です。満と薫にも善意を与え続けます。しかしだからこそ純粋な希望を描くことができます。
 人と人には千差万別の様々な関係性がありますが、S☆Sは他者との関係を一つとして現しました。善意的、好意的、親和的な相手を思いやり働きかける関係を咲と舞は紡ぎます。それは、確かに現実味(世の中そんなに全部良い人や関係を作れるわけではない)を欠いてはいますが、それでいいじゃん、と思う。だって、綺麗で素敵で美しいんだもん(素で言っている)。どーせ、私は違う作品で人の醜さや愚かさを見るしね。プリキュアだけでも希望ある物語を見たい。あって欲しいじゃない。


 咲と舞が他者に善意の心を向け働きかける。それを受けた人達もそれを還していく。この関係にこそ人の本質があり個性があり自己実現があります。人との関わり、経験、行動に自分があり、同時に他者にとっても自分がある。

 しかしそれだけでは足りません。人と関わっていました、だけでは足りません。そこに何らかの普遍性、意味が見出されなければ確固とした人と人が作る可能性は示されません。
 これは難しいものだと思いました。何しろ、何を持って人と人との繋がりの強さ、可能性を現すのか。皆で頑張ったから出来ました。皆で協力すれば強い。というのは陳腐に感じられてしまいます。ありがちです。今更です。
 すぐ思いつくのは「元気玉方式」です。皆が咲と舞のために力を分けてそれで敵を倒す。これは最も陳腐です。結局これは数の問題になるからです。多ければ強い。10人よりも100人友達が居る人が強い。ゴーヤーンは60億人の人達が居れば倒せる。こんな量的、表面的、形而下的なものでは意味がありません。希望や可能性は数の問題ではありません。極論すれば友達が一人だけでも、いや友達がいなくても、それでも『何か』を確信することによって見出されるもの、普遍的で、形而上的な、現実を超えた、人の持つ本質的なものである必要があります。それは揺るがないものだからです。どんなに辛くても現実を見せ付けられても、諦めずに希望を持ち続けることが出来きるための揺るがないものである必要があります。そこに到達できるかがS☆Sに対する私の唯一にして最も面倒な課題でした。ちなみに、この課題に失敗していた場合、S☆Sに対する評価はとても酷い寒々しいものになったと思います。その点に関して私はシビアです。(別に作品にケチをつけるわけではなく、その程度かと残念に思い、しょうがないから自分で考えるということになる)


⑤S☆Sの解答
 S☆Sが見出した解こそ、私の想像を超え、そして最も素直でストレートでこの作品らしい真っ正直な解です。
 人と人の繋がりそのものの意味と可能性を自分達が確信する、ということです。
 48話の後半で、満薫が倒れ、緑の郷は滅びます。何もかもが無くなった(現実的に頼り頼られる術がなくなった)状況の中で、咲舞はまだこの世界があることに気付きます。「全てのものに生命は宿る」というのは、何も個別の品々のことを指すのにとどまらず、この世界にも適応できることです。世界はその『全て』を生んだのですから当然です。そしてその言葉を発したのは自分の父親です。世界があり、父があり、母があり、友達が居ることを、その人達(世界を含む)と自分は繋がっていることを彼女達は自分の中に見ます。世界があるから自分達が居る。自分達は皆と居る。このことによって、彼女達は繋がりそのものの意味を確信します。『繋がり』とは自己と他者を含有した複数のモノから成り立っている概念です。『繋がり』を信じることは常に他者の存在をも信じることになります。それが希望になります。だからこそ立ち上がれる。世界に呼びかけることができます。『繋がり』を信じるなら、呼びかけることが出来た時点でその力は発現されます。世界があり、彼女達がいる限りその可能性は失われていないからです。


 最終回ではさらに一段上がります。世界まで砕かれます。しかし彼女達は諦めません。世界と自分達が共にあるということは、どちらかが砕かれてもその『繋がり』が希望として持たれている限り完全に消滅することは無いからです。世界があるから自分達もある、ということは自分達があることは世界もある、ということです。(正確に言えば、人間が滅んでも世界は在り続けるでしょうし、全ての生命が滅んでも世界はあるでしょう。が、世界は生命を生むことができる、という点で可能性そのものが消えるわけではありません)
 個人の枠を超え、人と人、世界との繋がりの可能性を見出すことにより、ゴーヤーンは前作のジャアクキング以上のスケールになります(敵が大きいから見出すものも大きくなるということでもある)。宇宙よりも大きな、そして絶対的な、希望や絶望すら打ち砕かんとする完全な『無(滅び)』です。ゴーヤーンはジャアクキングすらも否定するスケールです。極論すれば、S☆Sは無か有かの対決です。有とは生命でありこの世界でありそこに存在する者達です。その有に含まれる全ての繋がり、繋がりそのものの意味で無に対抗したことになります。「力を合わせれば何とかなると思っていますか?」とゴーヤーンは問います。力を合わせても勝てはしません。力を合わせて勝ったんじゃない。力を合わせられること、つまり繋がっていることそのもので勝ったのです。人(生命)の生き方、在り方そのもので勝ったのです。

 ソフトボールで優勝したい、とそれぞれの未来を語るシーンで、満薫の台詞が胡散臭いという他の人の意見を聞きました。それまでの積み重ねが無い、と。そんなパンを作りたいとか絵を描きたいといった経緯がこれまで書かれたことなんて無い。説得力を感じない、と。私はそれは違うと思います。違うというのはその見方が間違っているのではなく、彼女達がその台詞を語るのは過去から出されたものではないからです。希望を持つということは未来を見ることを意味します。実現されていない何か、それを実現する未来を夢見る。全てを諦めた人に未来はありません。未来を見ないからです。希望を持つその根拠を人と人との繋がりの中に見出したことが、S☆Sの最大級の解答であり昇華です。
 未来とは経験だけによって実現されるのではなく、そこに意思と希望と行動によって実現されていくものです。起こっていない出来事は起こすしかありません。エピローグにて満はパン作りの練習を、薫は美術部で絵の描き方を学ぶシーンがあり、そして現実にパンを焼き、絵を描きます。咲はソフトボールで優勝し、チョッピは泉の郷で暮らし、フラッピは想いを伝え、舞はその笑顔を描きます。希望が希望のままで終わるなら意味はありません。希望を持ち、実際に行動と意志とを持って実現していくことに、人の生きる意味があるのです。そしてそれは独りではなく、皆との繋がりを持ちながら得ていくものです。希望はその生きる者達の中にあるのです。それらを求めていた自分にとって、この結論は言葉が出ないほど強烈に感動を受けました。まさに人の在り方、生命の可能性を見たと言えます。

 また、余談になってしまいますが、自然のテーマについても同時に実現されていると思います。
 自然をテーマ、と言っても「自然を大切にしなさい」「自然は大切だよね」ということだけが自然を尊ぶ言葉ではないでしょう。世界と共に在ると確信することは、自分と自然は同じ空間、同じ立場でありその中で生きるという自然への賛歌にもなります。自然を支配したり克服したりするのではなく、共に在ると知ることは人に善意を与えることと同じように接することができます。


 肯定することを肯定することで生きる者達の美しさを描き、常に希望を見出し続けたこの作品(無印~S☆S)に出会えたことを嬉しく思います。作品との繋がりにも可能性はある。あらゆる繋がりに可能性はある、ということです。素晴らしい。
[ 2013年05月22日 09:28 ] カテゴリ:Splash☆Star | TB(0) | CM(-)
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