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コンビニ人間(村田沙耶香)



○コンビニ人間 村田沙耶香 文藝春秋



 現代人らしい普通の人が普通の日常を送る話なのかと思ったら、普通の主人公ではなかった。

 こんなエピソードがある。
 小学校の頃に男の子たちがケンカして周囲が「止めて!」と騒ぐ。主人公はおもむろにロッカーからスコップを取り出すと躊躇なく男の子殴りつける。彼女いわくその方が手っ取り早かったから。その他にも色々あるが基本的に情緒性と倫理観に欠けている。また感情に起伏がない。
 そういった経験から彼女は自分が周囲と違うと気づいて目立つ行動を控えていく。でも大人になっても倫理観の欠如は変わらない。バイト中にこっそり同僚のバックを開けて化粧品などのメーカーをメモして後日似たような商品を買ったりする。彼女的には「普通」を真似ているわけだが、犯罪ではないにしろモラルが欠けている。そのことに本人は自覚がない。
 次のような独白もそうだろう。

 (友達の子供ばっかり見に行かないで自分のところにも顔出しして欲しいと言う妹に対して)
 妹は笑うが、私はミホの子供も甥っ子も、同じに見えるので、わざわざこっちの方も見にこなくてはいけないという理屈がよくわからない。でも、こっちの赤ん坊のほうが、大事にしなくてはいけない赤ん坊なのだろう。私にとっては野良猫のようなもので、少しの違いはあっても「赤ん坊」という種類の同じ動物にしか見えないのだった。

 シゾイドの私でもここまでの回答はできない。
 サイコパス的、と言えばそうなのだがより近いのは「のっぺらぼう」だろうか。彼女は喋り方も周囲の人達を真似て合成する。情緒性の欠如を合理的判断によって補っている。他人に興味はないがよく表情を観察している(真似るためでもあり、自分とは違う人間らしい人間を観察するため)。
 この点でもシゾイドと違う感じがする。シゾイドは人との心理的距離を離す必要があるから顔をマジマジとは見ない(私は見ない)。

 彼女がサイコパスかどうかは本題から外れるが、こうしてみるとなんとなくその心性が見えてくる。そのままの自分では社会に溶け込めない。だから相手の良いところや特徴を真似したり、方便として嘘を多用する。騙すというよりその方が皆が納得しやすいからだ。妙齢の女性なら結婚あるいは恋愛に興味があるのが普通だが主人公には一切それがない。しかしそれをそのまま言っても納得されにくい。だから取ってつけたような嘘を建前にする。元々嘘をつくことに抵抗がない。というより感情的な起伏が起こらない。怒ることもなければ喜ぶこともない。だから行動が合理的になる。これがエゴイスティックな動機と繋がるとやり手のビジネスマンや厄介な人になるが、主人公の場合は欲が無いので言わば仮面を付けたのっぺらぼうと言った体になる。
 世の中から排除されないために必要最低限の社会性を保つ。それを担保してくれる場所がコンビニというわけ。


 私は自分のことを社会不適合者だと思っている。その私から見ても彼女は社会不適合者だ。
 その社会不適合者から見たときに社会には「普通」という名のマニュアルがあることを痛烈に実感する。恋愛して結婚して子どもを作る。冠婚葬祭のアレコレ。芸能人の誰に似ている、誰が好み。みんなで同じようなことを同じように話す。
 ……でも本当にみんな心からそれを望んでやっているのだろうか?

 常々思うのだが、目の前にいる人間が同じOSで動いてる保証はない。相手も自分と同じように社会不適合者で、普通マニュアルを参照して生きているかもしれない。私がそうだから。
 ある調査によれば幻聴を日常的に聞いている人がそれなりにいるのではないか?という指摘がある。ただそれを言うとおかしな奴だ思われるので誰も言わないだけで。おそらくそういうことだ。みんな大なり小なり異常だとは言わないが、それなりの数の人々は普通から外れるだろう。でも普通を装うことはできる。
 そういった人々もまた一定数いるのだ。

 Amazonレビューに次のようなコメントがあった。

 この本のレビューで「主人公はサイコパスのような、この世に生まれたはいけない人間なんだ」と書いている方がいて、その感想に「いいね」が沢山ついていました。
 自分はそれを見て複雑だったのですが、そんな感想を持てる人はこの世界では多分「普通の人」側の人間であり、そんな人が正直羨ましくもあります。
 私は多分主人公程極端ではないけど、主人公側の少数派の人間です。誰にも迷惑をかけていないし、自分は幸せなのに それでも「そんな事ではいけない」と口を出してくる人がいます。
 そのことにずっと悩んでいました。自分はいけない生き方をしているのか・・・?



 普通であることがそんなに偉いのか。普通でないと思ったものを好き勝手に言うことがそんなに真っ当なことなのか。誰が不倫しただの、結婚しただの、そんなどうでもいいことをテレビでダラダラ垂れ流して、それを見てゲラゲラ笑ってる人間が普通で正しいのか。普通を盾にして鈍感になっているんじゃないのか。

 不幸自慢、少数派自慢をしたいわけじゃない。普通に生きているように見える人々は色んな種類の人間で成り立っている。「普通の人間」は存在しない。在るのは「普通」を共有している人々だ。その中には平凡な人間もいればユニークな人間もいる。私はそのすべての人間を肯定する気はないし、理解できるわけでもない。逆に普通でなくても普通のように暮らすことができる人々までも否定する気はない。

 よくわからない人間はたくさんいる。中身のOSがまるで別だなと思うこともよくある。私から見ると大抵の人がそうだ。シゾイドの人口比は1%程度(と言われている)だから99%の人は別のOSで動いていることになる。
 でもだからって自分を、あるいは99%の人間を否定する理由にはならない。自分の無理解や無関心を棚に上げて「普通じゃない」の一言で切り捨てるのはフェアじゃない。第一否定し続けたら生きづらい。だから私はこう思う。

 人が私を理解しない権利があるように、私には人に理解されなくても幸せになる権利がある。

 結局、自分を卑屈に思わない。世を儚んだり恨んだりなんてしない。堂々と生きる。
 そういう人生を作れるかどうかだと思うね。そう生きようとしている人の邪魔をしてはいけない。それが対等な人間に対しての礼儀だ。



[ 2021年04月29日 16:25 ] カテゴリ:本の感想 | TB(0) | CM(-)
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