カテゴリー [ 本の感想 ]
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- ・「ストーカー」は何を考えているか(小早川明子)
- ・大人のギフテッド(ジャンヌ・シオー)
- ・成瀬は天下を取りにいく(宮島未奈)
- ・世界少子化考(毎日新聞取材班)
- ・日本の少子化対策はなぜ失敗したのか?(山田昌弘) 他
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捏造された聖書(バート・D・アーマン)
○捏造された聖書 バート・D・アーマン 松田和也訳 柏書房
過激なタイトルに見えて中身は極めて真っ当。捏造というより改竄や書き換えという方が正しいですね。本文中でも改竄が使われています。
キリスト教の特徴といえばまずテキスト主義があげられます。聖書という経典があって、それを元に伝導したり読み聞かせたりする。経典なら仏教にだってあるけど、通常それを読み聞かせることはない。お坊さんがお経を唱えることはあっても、その意味や物語(があるのかは知らないけど)を信者に読み聞かせることはない。少なくとも私はそんな光景を見たことがない。あったとしても一般的だと思わない。よく言われるように世界一発行された本は聖書。本を通じて信仰を広げた宗教がキリスト教。聖書(テキスト)なくしてキリスト教は語れない。
なので聖書は神聖な、それこそ霊験あらたかなテキスト……と言いたいところだけど、よくよく考えたら人間が書いたもの。何をそんな当たり前のことを…と思うじゃん。でもこれが大事なことで、信仰の拠り所であるはずの聖書は心理的には神聖不可侵にしておきたい。けど実際には人間が書いたもの。聖書をより深く理解しようとすればするほど、あれ、これ人間が書いてて、しかも明らかに内容に矛盾があったり書き換えられた形跡があるよね?ってことになる。そうすると聖書って本当に神聖なものなの?という問題に突き当たる。信仰を深めようと教養を身につけると懐疑的になっちゃうパターン。本書の著者はまさにそんな経緯で本書を書いたと述べています。
聖書の真偽について分析した本というと、信者にとっても素人にとっても難しそうでハードルが高そうに見えるかもしれません。しかし本書はとても平易な文章で気さくに書かれていてとても読みやすい。聖書が書かれた時代の文化、改竄の経緯、どうやってそれを確かめたのか。オリジナルのテキストとは。そんな感じで宗教とは関係なしに歴史の勉強にもなります。
元々の聖書はギリシア語で書かれていたそうです。
で、この書かれ方がなかなか厄介で、句読点や単語のまとまりを作るための空白がなくひたすら一本調子でアルファベッドが並んでいる。ひらがなで延々と文章が並んでいるようなもの。この時点で単語の読み違えが発生し放題。しかも紙が貴重だったので単語を短縮して書くことも珍しくなくこれがまたヒューマンエラーを誘発する。当時の識字率は10%ほど。仮に読み書きできたとしても質もピンキリ。そんな人達が1字1句間違いなく写本できたかと言えばそんなわけがない。エラー、意図的な改竄、善意の修正という名の改竄、後付けなど枚挙に暇がない。そんなわけで現在の聖書はオリジナルと変わっています。そもそもオリジナルという概念もあやしく、口述筆記していた場合、書き(聞き)間違いの可能性もある。
たとえば姦通した女の話。これは日本人でも多くの人が知っているでしょう。実はこれ後世の後付けであることが判明しています。一番有名と言っていいのにそれすらオリジナルじゃねーのかよという。
また『マルコによる福音書』ではキリストの死後に復活を知った女たちが恐ろしくなって逃げ出したというエピソードで終わっています。は? え、なに終わり? 終わり。なのでこれもキリストが弟子たちと再会したエピソードが後付されています。もう全然テキストの意味変わってるやん。ちなみにマルコという人はキリストをわりと人間的に書いていたようです。言ってしまえば中小企業のワンマン社長というか、自信と尊厳、権威に溢れた人物として書いているようで、「助ける気があるなら」とすり寄ってくる病人に対してキリストは怒ったというシーンがいくつか登場するそうです。死ぬときに至ってはなんで神は俺を見捨てるんだ!?みたいな感じに書いていたりします。というわけで、流石に病人に泣きつかれて怒ったとかは世間体が悪いと思ったのか「慈悲深く」といった感じで改竄されたりしています。
さらに言えば『マルコによる福音書』を下敷きにした『ルカによる福音書』ではキリストは終始慈悲深く、落ち着いていて優しい人物として書かれ、死ぬときも尊厳を保っています。つまり弟子であっても解釈に違いがあるわけですね。なんなら弟子同士で改竄している。
一挙にまくし立てるように言いましたが、このように聖書はオリジナルであっても現代人の目から見て「?」な記述がある。だからこそ後世の人たちはそんなわけないだろ、と書き換えていったわけです。むしろマイルドになっているとすら言える。姦通のエピソードも史実ではなかったとしてもキリストの人となりを伝える意味では大いに役立っているはずです。
これをほら見たことかキリスト教なんて改竄の歴史じゃん。というのは容易いですが、私はその改竄の歴史こそ人間の歴史だと思います。だって2000年前のこと文字通りやったら現代に絶対合わないよ。仏教だって変節してますからね。この記事でも書きましたが、仏教は元々は超マッチョ思考な宗教でした。出家した人が日常捨てて修行だけするようなやつ。一般人がそんな廃人プレイヤーと同じことできるわけない。だからサービス開始して5年くらい経ったソシャゲみたいな感じでどんどん緩和とインフレを起こした。もう念仏(短縮)唱えるだけでOKって。新規プレイヤーは300連無料。育成素材山ほどおつけしますみたいな。舐めてるよね。でもそんなレベルじゃないとついていけないんですよ。
『マルコの福音書』もおそらくキチンと読めばキリストについてより深い理解や文学的な味わいがあるかもしれません。え?と思うところに新たな気づきがあるかもしれない。でも、そんな面倒くさいことを一般人はしないのです。文学性なんて求めてない。欲しいのは困ったときに助けてくれる便利屋さん。大衆が求めるのはそんなものです。だからわかりやすく、優しく改竄された。それを私は悪いことだとか、聖書の神聖さを損なうものだとは思わない。人間の営みとはそういうものだからです。人間のためにあるものが人間のためにならないでどうするよ。
本質的に言えば、その時代、その場所で生きる人が希望を持って生きられる。そんな拠り所になればいいのであって、テキストそれ自体の真偽などそこまで意味があるとは思わない。極論、人間は現実見てないですからね。見たものを見なかったことにしたり、見てないもの見たって言い張るから。処女から生まれたとか、死んだ人間が生き返るとか、神であり人間であるとか、ちょっと何言ってるかわかんないです。そんな感じで脳内変換余裕なわけよ人間って。マルコやルカにしたって同じキリスト見てるはずなのに全然解釈が違う。同じ聖書でも読む人によって解釈も変わる。著者もテキストの真偽を追い求める中でその解釈の違いに人間の営みを見ています。人それぞれの解釈に人それぞれの信仰があると言える。だからって好き勝手に改竄していいってわけではないけど。そりゃ古代の人も聖書の余白に「阿呆かお前は! 元のままにしておけ、勝手に変えるな!」って注釈いれる。
ってなことを書いてから、改めて上述した仏教の記事を読み直したら「人間は狂っている。狂っているからこそわけのわからないものを生み出し信じさえする。そこに私は人間の面白さを見出す」って言ってるの自分で笑っちゃうよね。6年前と人間観変わってない。たぶん20年前も同じだと思うけど。その人間観をより強固に、より柔軟に、より自分に都合よく、俺が幸せになるために追求する。そういうことです。
「ストーカー」は何を考えているか(小早川明子)
○「ストーカー」は何を考えているか 小早川明子 新潮新書
著者はカウンセラーとしてストーカー被害者のみならず加害者とも面談してきた歴戦の兵。その豊富な経験(自身もストーカーだったことがある)から様々な分析や対処法、また現行法での限界などが纏められています。同著者の『ストーカー 「普通の人」がなぜ豹変するのか』も読みましたが、本書の方が分析的で概要を掴みやすいと思います。
私のストーカーに対するイメージは柚木麻子の『ナイルパーチの女子会』で描かれた主人公(おそらく妄想性パーソナリティ)ですが、当然それ以外のパーソナリティでもストーカーは発生すると述べられています。本書で紹介されている事例では著者に議論をふっかけたがるストーカーが顕著。自分は頭が良いと居丈高な態度で最終的に著者が負けを認めると満足してストーカー行為を止めたそうです。これなんかは典型的な自己愛性型でしょう。
公式的な記録でいうとストーカーは一般に男性が多く、警視庁のデータでも相談者の約8割が女性です。しかし著者が受けた相談件数の男女比はほぼ半々とのこと。男性の方が被害を訴えないケースが多いのではないかと推察されています。世間体や身の危険度に差があるのかもしれません。
それを裏付けるように男女でストーキングの性質が異なるそうです。男性ストーカーは女性のプライベート空間を攻撃するのに対して、女性ストーカーは男性のパブリック空間、主に会社に突撃するケースが多いらしく、それもあってあまり事を荒立てたくない心理が男性被害者側に働くのではないかと思います。
さてそんな感じでストーカーにも男女差や性質の違いはありますが、概ねその本質には共通点があります。精神の未熟さです。
もともとストーカーは人間に対する不信感にとらわれています。その問いの根底にあるのは、「相手に裏切られていたのでは?」という猜疑心です。騙されることに常に怯えている彼(彼女)らが本当に欲しい回答は、「あなたを信頼して、自分は本心を言っている」というメッセージであり、言い訳でもなければ、ご機嫌とりでもありません。
程度の差はありますが、人が酒や薬物に手を出す時、「情動的喜び」(退屈からの逃避)を求めています。それに対してストーカーは、「実存的な生きる安心」を求めている。つまり、独りで生きること自体に強い不安があり、安心を過度に求めているように私には見えます。彼らが「自分なんか生きていていいのか」と口にするのは珍しくないことで、「あなたは生きる価値がある」と、誰かに承認してもらわないと不安でしかたないのです。
私が会ったストーカーと呼ばれる人の半分以上は、社会で活躍し、高い評価や尊敬を得ていました。ただ、彼らは、評価されなければ自分に価値はないと思いこんでおり、素のままの自分に自信を欠いています。
人は自信がないと防衛的になり、防衛のために自己本位な行動をとる。生きることへの安心を求めて、素の自分を補う何かを必要とするのです。
それは磨き上げた容姿とか築き上げた学歴や高収入であったりしますが、そうしたものが手に入りそうもなければ人から借りようとします。つまり、他人が羨むような恋人は精神的にも、肉体的にも快感をもたらしてくれますから、彼らは常に恋人を探している。好きだから恋人になるのではなく、恋人という存在がまず必要だと思っているのです。
自分の内面に向き合えないからその分だけ他人に寄りかかる。幼稚で面倒くさい精神構造。
著者はカウンセラーでもあるので、その治療風景なども説明しています。その中でも度々目にするのが限界設定の話。これは自他の責任を明確化するもので自分は自分、他人は他人という線引きの確認です。あなたがAだと思うなら、相手がBだと思うのも自由。普通の人からすれば当たり前の話。ところがストーカーはその認知が歪んでいる。自分と他者の距離感や認識がバグっているんですね。だからどの事例を見てもストーカーは自分の事で頭がいっぱいになっています。被害者意識も非常に強い。復讐する権利が自分にはあると本気で思っている。相手が自分の要求に答えるのは当然の義務だと。我欲に囚われている。
その根っこにあるのがコンプレックス。それを解く特殊解が必要だと著者は言います。ストーキングは結果であって、根本には満たされない思いがある。それを上手く見つけられると穏便に解決できるケースもある。
このコンプレックスを巡るケースで、わかりやすい事例を上げましょう。29歳になるまで童貞だった人が初めてのセックスで彼女になじられ、ストーカーになったエピソード。大抵の人は「そんなことで(呆れ)」と思うでしょう。童貞こじらせ君とか本当にいるのかよと。でも一部の人にとっては「やめてくれ、その話は俺に効く」んです。他から見ればしょーもない話でもその人にとってはクリティカルな負い目になっている。勇気を出して頑張ったのにバカにされたのでは立つ瀬がない。その怒りが制御不能なまでに身体を満たす。女性経験積んでテクニックのレベル上げればいいんじゃないの?というマジレスは通用しない。うん、だからコンプレックス持ってる人って面倒くさい。前に進まず後戻りする。あげくその補償を他人に要求する。だから話が噛み合わなくなる。欠点を克服できないなら素直にそれを認めればいいのにその度胸もない。自分の内面と向き合わないってのはそういうことです。
カウンセラーの何が凄いって、こんな未熟な連中の話を正面から聞いて、真面目に応えられる忍耐力に感心しますね。
このようにストーカーの分析や事例は興味深い。もちろん中には殺人に至ったケースもあり笑えないものもあります。ストーキングされること自体笑えない事態ですが。
なので本書ではストーカー被害を受けたときのアドバイスもギッチリ書かれています。一般にストーカー被害の対応として警察を真っ先に浮かべると思いますが、法律的にも人材的にも万全を期待するのは難しい。警察と言っても役人。お役所仕事って言えば期待値が下がるでしょう。そういうことです。弁護士もストーカーの専門家じゃない。ストーカーをぶち込む病院もない。だからこそ著者のような支援者を探しアドバイスを早期に受けるのは強力な武器になる。自分が被害を受けたときにまず何を思うって助けて欲しい、誰か自分の代わりに盾になって欲しいってこと。著者がやっているのはまさにそれ。被害者と加害者の間に入って時間を稼ぎ、解決のための方策を考える。話が通じない奴と独りで戦うのはどんな人にとっても無理ゲー。
勿論ストーカーもひとりでに生まれるわけではなく、それを育てる要因が被害者側にもあったりする。よくよく話を聞くとこれもうどっちが加害者(被害者)なのかわかんねぇなってケースも少なくない。正直読んでいて、こんな面倒くさい人間に関わる警察も大変だなぁって同情しますね。医者だってバカにつける薬はないわけで、幼稚な人間を賢くしろってのも酷な話である。
大人のギフテッド(ジャンヌ・シオー)
○大人のギフテッド ――高知能なのになぜ生きづらいのか? ジャンヌ・シオー=ファクシャン 翻訳 鳥取絹子 筑摩書房
「幸せとは、とどのつまり、それぞれの能力を百パーセント発揮することでしかない」(ミハイ・チクセントミハイ)
一周回ってそうなるよね。
ギフテッドの専門医師による解説本。
本書を読んだ印象で言えば、発達障害ならぬ発達しすぎた障害。それがギフテッドの落とし穴。
まずギフテッドとはなんぞや?ですが条件はいくつかあるも基本的に高知能(IQ130以上)。この人たちが上手く社会に溶け込めないことが近年日本でも問題視されています。
これだけだと何か頭の良い人が頭良すぎて浮いて困ってますみたいなニュアンスに聞こえるでしょう。正直私も本を読む前はそんな印象でした。メディアでの取り上げ方にもよりますがそういった紹介の仕方をしているものもあります。私が見たもので比較的バランスよく取り上げていたのは↓の特集。
冒頭で紹介されている少年のように、頭良すぎて学校が退屈というのなら話は単純。しかし中盤で紹介されている女性はずっと演技をしていたと語っています。これは本書でもたびたび事例として取り上げられているギフテッドの悩みです。
そもそもIQ130以上の高知能というのが我々が想像する頭の良さと質的に違うのだそうです。
人の何倍も覚えられて勉強ができるイメージがありますがこれはあくまで量的な頭の良さ。CPUでいうクロック数が高いみたいなもの。ギフテッドの知能は高クロック&マルチコアで同時に思考が広がっていく。漫画やアニメで頭脳系主人公が一瞬で何パターンもシミュレーションするみたいな、ああいうイメージで私は解釈しています。
やっぱり凄いじゃんって話ですが、これが問題。些細なことでも気になり延々と思考し続け内なる声が止まらなくなる。これにウンザリして思考を切るスイッチが欲しいと訴えるケースも少なくない。感覚過敏な人が周囲の音や刺激を四六時中受けて消耗するのと似ている。というかギフテッドも感覚過敏らしく共感覚も持っていたりするのでなおさら。
人の感情にも敏感。でもコミュニケーションは芳しくない。様々なことに思考が及ぶので普通の人なら気にしないことでも気になって訊ねたり、言葉の細かい部分までチェックしたり、際限なく議論に発展させたかと思えば話を先回りして終わらせたりと噛み合わずズレてばかり。思考を無理やり中断させるために無気力モードになったり、人と距離を置いたりと一般人から見れば問題児に見えてしまう。上述のニュース特集にもあるように子どもの頃から周囲と話が合わず孤立する。
そのためギフテッド自身は自分を無能だと思うこともしばしば。不安感情も強い。頭が良すぎて大変だぜ、なんて悠長な話ではない。
思うのですが、世間一般的に「頭が良い」ことを過大評価しがちです。
どうせ頭が良ければ何かとするだろとか、いい学校やいい会社に入るんでしょとか、妬みもあるかもしれませんが頭が良い人が成功しやすいのも事実なのでそのまま流してしまいやすい。
ですが考えてみれば頭の良さはそこまで万能ではありません。なろう小説ならチート無双でクラスの女の子にモテモテかもしれませんが、仮に小学生で東大入れるくらい頭良かったとして何ができるのか。大学には行けない。少年名探偵になって犯人を捕まえることもできない。発明や新理論を発見するわけでもない。小学生が東大入試問題を解く動画を出しても大して再生数は稼げない。頭は良くても経験知は小学生相応。子ども時代の頭の良さは実生活でさほど役に立たない。その結果待ち受けるのは退屈で馴染めない学校生活、教師もクラスメイトからも理解されず友達もいない、頭の中はノンストップ、自分で自分を持て余す、そんな現実です。主観的にも客観的にも不器用な小学生でしかない。親は理解してくれるかもしれないけど何か絶対期待している。このプレッシャーが常にのしかかる。頭が良いからって頭良いことしなきゃいけない法は無いのに。今こんな状況でこの先本当に成功できるのか? 成功させないといけないのか?
頭が良い代わりにそんなハンデを背負う。頭の良さで何とかできるなら子どもの頃からやっているでしょう。それができないギフテッドが少なくないということはそういうこと。
この話を聞いて思い出すのは、世界で一番記憶力が良いと言われた人のエピソード。
その人は本当に凄い記憶力を持っていましたが、そのせいで全てのものを個別的に知覚・認識してしまい抽象化する能力が著しく欠けていました。欠けているというよりできなかったのでしょう、それだけの記憶力を持っているのなら。結果としてその人は大成することはありませんでした。それと同じです。高すぎる知能は普通の一般人が当然のようにできることをできなくしてしまう。凡人の私からすると歪だとすら思える。もちろん成功するギフテッドは多い。けど失敗するギフテッドもまた多い。まあ、なんであれ、そんな自分をなんとかやりくりするのがリアル人生ゲームなんですが。
冒頭で触れたように自分がやりたいことを十全に行えることが一番の幸せだと思いますね。凡人が大きすぎる野心を抱いても面倒だし、日曜日のキッズアニメ見るのにIQ130もいらない。
成瀬は天下を取りにいく(宮島未奈)
○成瀬は天下を取りにいく 宮島未奈 新潮社
君、言うほど天下取ってないよね。
この小説を最も端的に、そして的確に表しているのは帯にある「可能性に賭けなくていい。可能性を楽しむだけで人生はこんなにも豊かになるのか」だろう。
成瀬という人物を一言で表せばエキセントリック。何か思いつけば躊躇いなく実行する。けん玉を始めたり、西武デパートが閉店すると知って1ヶ月間テレビに映ろうとしたり、Mー1グランプリに出場すると言い出したり。脈絡が無いどころか変人にしか見えない。しかし彼女はそれで良いと思っている。たくさんの種を蒔いて一つでも芽が出ればめっけもの。親友の島崎曰く「ほら吹きとどう違うのか」。
この小説はそんな彼女に巻き込まれた人々の戸惑いと、ささやかな笑顔を描く。ノリ的には映画『三十四丁目の奇蹟』に近い。
話が飛ぶが、最近26歳の市長が誕生したと話題になりました。文脈は忘れてしまいましたがその人が「若者は成功体験が少ない」というようなことを言っていたのを覚えています。それを聞いて思うのは「じゃあ失敗体験は多いのか?」。ぶっちゃけ成功失敗以前に何かをしたという体験そのものが無いんじゃないの?って思うのです。
これは何も若者を指して言っているわけではなく、私も振り返ってみれば何かにチャレンジしたと胸を張って言えることはほぼ無いし、おそらくみんなそうでしょう。大体みんな同じようなことを同じようなレベルでやっているだけ。
では、人と違うことをやっている成瀬は凄いかと言うと別に凄くはない。
彼女は優秀で何をやらせても高レベル。地元の新聞に何度も紹介されるほど。自己紹介でけん玉を披露すれば拍手喝采。しかしその程度でしかない。閉店するデパートを救うわけでもなく、Mー1も毎回1回戦落ちでそれも4年でやめてしまう。突然始めたかと思えば突然やめる。地元にデパートを建てる夢はあってもそのプロセスは白紙。器用貧乏な秀才。それが成瀬という少女。彼女がやっていることは誰でもチャレンジできる。
この意味で彼女は可能性に”賭け”ていない。一つのことに生涯を費やすことはおそらくない。その代わり「Mー1グランプリに出場した」とは言える。彼女の人生はそんな「やらねーよ」「やったことねーよ」な体験で満たされている。
ぶっちゃけ、世の大半の人は何者にもなれない。けど楽しい人生は作れる。そのために自分から何かを始め……なくてもいい。ここに本作の妙味がある。
自分が始めなくても友人がやり始めてそれに付き合った経験は誰しもあるでしょう。そしていつの間にか先に始めた友人よりもハマっていたことも一度や二度ではないでしょう。この物語はそんな繋がりで出来ている。友達がやり始めた。たまたま気が向いて話に乗った。そこから生まれる何かもある。
何者かにならなくても、なれなくても、楽しい人生は作れる。そのキッカケはすぐ隣にある。
世界少子化考(毎日新聞取材班)
○世界少子化考 子供が増えれば幸せなのか 毎日新聞取材班 毎日新聞出版
世界各国の少子化の状況について紹介した本。
紙面の都合で概要的な話に終始しているのは否めないが要点を押さえた説明と、インタビューなど現地の人々の声を拾っているのでわかりやすく纏まっている。また各国の事例のあとに専門家(当事国の識者も含む)のコメントも記してあるので多角的に見れるのもポイント。
○韓国
少子化と言えばこの国。要因は先日記事にした日本とほぼ同じ。さらに煮詰めるとこうなる。
産業構造が極端で極一部の財閥企業が幅を利かせているのだがその財閥企業に雇用されている労働者の割合は15%程度しかいない。日本で大企業に雇用されている人は約30%(本書では40%となっているが経済産業省の資料でも30%。意外と大企業に勤めている人は多い)。
勝ち組になるためにはどうするか。熾烈な受験戦争に勝つしかなく教育費が高騰する。有力大学は首都ソウルに偏っているので人口が集中。また結婚する場合は男性が住む家を用意するのが慣習だがこれも不動産高騰。従って結婚しようにも金がない。都市部に住めない。結婚しても子育てに金がかかりすぎて家計がもたない。だから韓国では結婚した女性から生まれる子どもの数も1.3程度と少ない。日本は1.9なので非婚化+少出産のダブルパンチの結果が出生率0.8という状況。
○中国
基本的に日本や韓国と事情は同じだが、一人っ子政策の爪痕がデカい。
この政策によって女性よりも男性の方が5%(20代では10%)人口が多く、特に地方では嫁のなり手がいない(出稼ぎで出ていったまま女性が帰ってこない)。結納金も高く地方で働く人には払えない。結婚する場合男性側が家と車を用意するのが一般的。日本では娘三人持てば身代潰すという諺があるが、中国の場合男の子が2人も生まれたら破産しかねない。そのため第一子が女児ならまだしも男児が生まれたら二人目は二の足を踏む。日本と違って韓国と中国は家政婦を雇うのは珍しくないが、これも懐次第。
一人っ子政策の真のヤバさは若者意識。現在の結婚適齢期にある若者は一人育ち世代。さあ、果たして彼らは子どもを2人育てる気になるのだろうか?
余談だが「配偶者(男性)が家事育児に非協力的」だと女性の出産意欲が下がるという意見が本書でも度々登場するが、これは言われるほど重要ではない。内閣府の意識調査からもわかるように出産に関する懸念事項は圧倒的に経済的理由。山田氏の著書でもこの部分は指摘されています。
ジェンダー論や男性の育児云々を語る人って女性識者が多いんだけど、そういう人って社会的地位や年収が高い。でも女性に限らず大半の人は安月給で働いている。何をするにも金がなければ始まらない。非正規雇用で働く女性からしたら夫が家事育児する以前に給料増えてくれって思うし、夫が1億稼ぐなら喜んで専業主婦するでしょう。私なら家政婦雇って奥様ロールプレイ始めるね。冗談に聞こえるかもしれないけど若者で専業主婦になりたいと考えている人は少なくない。これはそういう実情を反映していると思う。
従来のジェンダー意識を是としているとかじゃなく、子育てはなによりもまず経済的問題だと捉えている人が非常に多いということ。金がなければ子どもに良い教育を与えられない。子どもの将来はどうなるのか。自分たちの生活だってある。それらの不安が結婚・出産への意欲を削ぐ。統計的に見ても金がない人の結婚率は低い(ただし貧乏人から生まれる子どもの数は多い)。日本(と韓国と中国)では経済力と結婚の相関関係は極めて高い。
○フランス
独身女性や女性同士のカップルでも人工授精の権利を合法化しました! 以上。
なんだろ、この重箱の隅を突いている感。いや、わかるよ、フランスは先進国でも少子化対策に成功しているから進んでるって言うのは。でもそれって少数の話だよね。少子化対策の話してるときに性的マイノリティの話題を中心に取り上げる意味ある?
前段で韓国・中国は経済的事情から少子化が起こっているって指摘してるなら、同じく経済的事情を取り上げた上で出生率が高く維持できている理由について論じるくらいのことはして欲しいのだが。フランスの育児支援や税制については『少子化する世界』が詳しい。欧米、特にフランスは事情が日本と異なるというのは山田氏の著書で指摘されているとおり。本書のインタビューにもあるがフランス人の結婚観は個人の自由意識が優先されるため東アジア圏のような経済や家族の障壁はあまり高くない。
○イスラエル
同国の出生率は3以上と高い。また経済発展も著しく一人あたりのGDPはすでに日本を超えている。
景気もよく、宗教的に子沢山も推奨されているので出産子育ての経済的意識的ハードルは低い。加えて家族コミュニティがとても強く子どもを親族で育てる意識も強い。保育サービスも充実しているので母親の負担も軽減されている。ちなみにイスラエルには700万人近くのユダヤ人が居るが、実はアメリカにも600万人ほど居る。アメリカのユダヤ人の出生率は別に高くない。移民は移民先の出生率に寄るのはユダヤ人も例外ではない。
むしろこの国の特異な点はアラブ人との力関係。
現状は74:21と人口構成的にはユダヤ人が有利。ヨルダン川西岸地区やガザ地区を併合するとこの比率がトントンになってしまう。選挙をすればユダヤ人が負けてしまう可能性があるし、選挙権を与えなければ人権侵害の誹りを免れない。というわけでイスラエルでは体外受精などの医療費を全額負担にしたりとあの手この手で人口対策をしている。2018年に体外受精で生まれた子どもは1万人近くいて出生数の5%を占める。
しかしこうした支援は財政負担もバカにならないし、超正統派と呼ばれる宗教派閥も近年増加している。この派閥は出生率が6と極めて高い。しかし男性の多くは国から補助金を受けて宗教研究をするらしく、これまた負担が将来のツケになりかねない。また先に家族コミュニティが強いって言ったけど、当然それを重く感じる人も少なくない。
○アメリカ
晩婚・高齢出産を背景にした不妊治療、主に卵子凍結について。
日本でも2022年度から不妊治療にも公的保険が適用されるようになったが、アメリカでは大企業で治療費を補助・負担する動きもある。
このように書くと進んでいると思われがちだが、これにはちょっと裏がある。というのも高齢出産が進むということは、会社的には脂ののった女性社員に産休で休まれたり最悪離職されるリスクがある。募集する費用や手間を考えるなら、不妊治療支援と称して金を渡して引き続き仕事をしてもらった方が安く仕上がる。要するに労働力の囲い込みの面が見え隠れしている。また社員からするとこうした支援策が「卵子凍結させてまで働けってこと?」とプレッシャーにもなる。企業の態度が社員の生き方や働き方を方向づけているという指摘は尤もだと思う。
なお卵子凍結にかかる費用は本書の事例で約180万円。管理費用として毎年8万円ほどかかる。取材された女性は保険が対応していなかった(アメリカの医療保険は細分化されている)ので全額自腹。大手企業の幹部級だからこそ賄えるが普通は手が届きにくい。日本での初期費用は40万円ほど。
卵子凍結はあくまで保険のようなもので、必ずしもその後の人工授精が成功するわけではない。高齢出産となれば母体への負担も大きい。言わば安心や選択肢を買うわけだが、高い金出して大学行って、婚期逃してこれまた高い金出して不妊治療受ける現状の社会システムは人間に厳しい。まあ、そのシステムを作ったのは人間なので自業自得なのだが。
○ハンガリー
まず確認したい。ハンガリーってどこだっけ?(ウクライナの左下)
元々は社会主義国の東側陣営でソ連の崩壊後、経済が不安定になり少子化が加速。人口の流出もあり現在の総人口は1000万人。2050年には800万人まで減る予測まである。つまりこの国にとって少子化対策は死活問題でありそこにかける本気度も半端ではない。GDPの5%をさらに6%まで引き上げるまさに異次元な対策を講じている。
支援の中で目を引くのは出産ローン。
子どもを持とうと考えている夫婦に無利子で最大370万円を貸し出し5年以内に子どもが生まれれば3年延長。2人目の子どもが生まれればさらに3年延長に加えて返済額の3割が免除される。3人目が生まれれば返済不要。4人目を産めば女性は生涯所得税免除。まさに金がねーんだったら金をやるよ!政策。
実際これは子どもを持つ親からすればかなり手厚い政策であることは間違いない。○○無償化なんてちょいちょいまけてもらうよりもドンと金を渡された方が生活設計しやすい。本書では出産をキッカケに家を借り換えた、買ったなどのエピソードが紹介されている。
ただこれには懸念事項も当然あって、まず子どもを3人産んだとしてその3人を育てきるのは容易ではない。結局給料がモノを言う。また過大な少子化対策はその反動として独身者や子どもを持たない夫婦に間接的な負担となる。単純に言えば独身税という形で税金を多く払うことになる。目に見えてわかりやすいのは不動産価格の高騰。出産ローンによって不動産価格が上がり独身者たちが割を食う形になっている。
少子化対策で金をばら撒くと、その分だけ市場価格も上がり相対的な支出がそこまで減らない。外野にとってははた迷惑。日本では出産一時金を増額したら産婦人科が便乗して値上げした話もあって市場経済を歪めかねない。
○フィンランド
北欧といえば福祉が手厚いイメージ。実際フィンランドは男性の育児参加率も高く、ジェンダーギャップ指数では世界で2番目に格差がない。世界幸福度ランキングも2021年に1位。
そんな国でも出生率は日本とほとんど変わらない。なぜか? 子どもを持ちたくないと思う人が急激に増えているから。特に20代は24%が子どもを欲しいと思っていない。早い話、個人の自由が浸透してわざわざそんなめんどくせーことしたくねーってなったっぽい。国の経済的事情はよくわからん。
とまあ、長々と書いてきたけど国によって少子化の理由は違うし当然対策の方法も異なる。それらが出生率の向上に役立っていることもあれば、別なところにしわ寄せが来ているケースも散見される。日本に居れば日本の悪いところが目に付きやすいが、隣近所に目を向ければ五十歩百歩だったりする。長寿高齢化と少子化によって今後世界の社会システムも変容していくでしょう。一部の国を除いてほとんどの国は人口が減っていく。それをどう乗り越えていくかが人類の課題。
日本の少子化対策はなぜ失敗したのか?(山田昌弘) 他
○日本の少子化対策はなぜ失敗したのか?~結婚・出産が回避される本当の原因~ 山田昌弘 光文社新書
○これが答えだ! 少子化問題 赤川学 ちくま新書
少子化の要因や対策について論じた本。
山田氏は少子化問題に早くから取り組んでいた人物で「パラサイト・シングル」「婚活」の造語を作った人。赤川氏は社会学者として少子化対策が社会的に公平な対策と言えるのか?といった視点で論じているのが特徴。一個人が「早く産め」「結婚しろ」と言うのがセクハラになるのなら国の少子化対策は国家によるセクハラなんじゃねーの?というツッコミはそりゃそうだなって思う。世の中平然とダブルスタンダードがまかり通ってたりするよね。
どちらもこの業界では有名人らしくお互いの本に名前が登場していて、特に赤川氏は山田氏の持論に反論も加えている。なので両方を読むとより広い視点で日本の少子化問題について見えてくると思います。
世界的に少子化の流れなんですが、なんでそうなるのかは実はあまり説明されていません。文明が発達して小児死亡率が減少した、労働力を必要としなくなった、都市化、教育水準の向上、非婚化など色々ありますが、国や文化圏によって要因(の強さ、深刻さ)が異なるようです。
歴史的推移で言うとまず少子化が起こったのはヨーロッパでした。当然ヨーロッパの後追いをしている日本も少子化になるだろうと予想された。実際少子化が起こった。だから先行事例であるヨーロッパの中でも上手く行っている国を参考にした。が、少子化の理由がそれらの国と違ったために上手く行かなかった。というのが山田氏の見解です。
欧米人の結婚観や子育て観をざっくり言うと、
①子どもは成人したら親から独立する(親が面倒を見るのはそこまで)
②女性は仕事もするし恋愛結婚重視
これに対して日本人は、
①子どもに良い暮しをさせたい!という気持ちが強く、親子の経済的な関わりが強い。
②男女ともにリスク回避傾向が強い
③特に女性でハイパガミー(上昇婚、玉の輿)傾向が強い
先に言っておくと欧米といってもフランスのように出生率が高い国からドイツのように日本とほぼ変わらない出生率の国もあって「欧米」と纏められるものではないのですが、ここでは日本人が想像する欧米人(的なもの)だと思ってください。また日本と言っていますが、これらの傾向は韓国や中国でも見られるもので儒教圏か東アジア圏のような形で共通性があります。
話を戻して、欧米人は成人後独立するのが当たり前なので恋愛からの同棲の流れが自然です(余談だがホームレスやストリートチルドレンも多い)。非嫡出子も多く同棲と結婚の差があまりない。だから非嫡出子や同棲に結婚とほぼ同じ権利を与えていたりするのは現実の追認と言える。言ってしまえば欧米人は放っておいても勝手に子作りする。女性も独立心が強いから仕事もする。それなら育児支援や教育無償化などポイントポイントで支援をすれば対応可能。しかし日本ではそうはならない。
これは山田氏の本を読んで納得が行ったことなんですが、私は昔から疑問だったことがあります。よく金が無いから結婚できないっていうけど、金が無いなら結婚した方が得じゃない?って。家賃や生活共用部分を折半できるんだから経済的じゃんって。実際欧米人はそうしたことも理由になっている。ところが日本は違う。独身者の親との同居率は7割近くあるそうです。
働きだしたら家を出るのが普通だと思っていたのでこれには驚きました。そして同時に非婚化が進む理由もここから見えてきます。
若者にお金が無いのは当然ですが、実家暮らしをしていれば衣食住に困ることはなく生活の不便さを感じない。むしろ同居している方が安定しているとさえ言える。この状況では別居するインセンティブは働かないし、まして同棲するケースは稀になる。日本人の8割は同棲を経験したことがありません。欧米では半数あるいは8割以上が同棲経験あり。
ここにリスク回避傾向が加わってきます。
日本人ならおそらく自然に考えるでしょうが、恋人ができる。もし結婚するとしたら……子どもができるとしたら……何人作って大学まで行かせて……と算盤を弾くでしょう。先立つものが必要だと。はいこれ。これが結婚のハードルを上げる心理的要因。
日本人にとって結婚は子作りとその後の人生設計がセットです。欧米人はどうもそういう意識が薄いらしく、結婚したらしたでなんとかなるでしょ、そのとき考えればいいでしょ、といった思考のようです。これには国からの支援などもあるでしょうが、傾向として日本人は事前にそれら諸々を想定する。すると予期不安のように問題や課題が頭をよぎるから「あー、もうこんな面倒なら結婚なんていいや」と二の足を踏む人が出てしまっても不思議なことじゃない。段取り考えるのはいいけど、それを前提にみんなが動くという意識があるせいか、この段取り時点でめげてしまう人がいるのは結婚に限らず散見されることです。ちなみに若者で「恋愛が面倒」と答える割合が半数近くあります。
上述したように日本では親が子どもの面倒を成人後も見る(だから同居率が高い)ので子育て費用は実質的に青天井。大学まで行かせればそれで終わりとは限らない。あげく相手の親の介護まで視野に入れたらゲンナリでしょう。
で、最後にハイパガミー(上昇婚、玉の輿)。
これは日本に限らず、世界的に見られる女性の傾向。男性は可愛くて若い子が好き。女性は経済力がある人が好き。ま、普通のことですね。欧米では教育水準や仕事などで男女差がなくなってきているので比較的ハイパガミーの傾向は日本よりは低い(日本と比べて離婚しやすいので、女性が仕事をするのも自前で経済力をキープしておきたいという理由もあるらしい)。
選り好みしている間に婚期を逃す……そんなパターンもおそらく多い。出生率が下がっている大きな理由は非婚化なので結婚しない、結婚できない人が増えると一気に下がる。
だから若者の収入を増やして経済的安定性を確かなものにすべきだ、と山田氏は語っています。氏の要因分析は心理面で説明している点で説得力があり、面白い見解だと思います。
これに対して、年収増えたからって本当に結婚するの?と反論しているのが赤川氏。
赤川氏の論拠としては「男女平等、格差対策、少子化対策のトリレンマ」を持ち出しています。これは著書の中でも引用しているブログです。論理的で説得力がある説明だと私も思います。
要するに若者(男女)の年収を増やしても「自分よりランクが高い男性を求める女性」の割合が減らなければ選り好みした挙げ句売れ残る女性が出ることに違いはない。また底辺男性はそのまま売れ残る。男性だけ年収を上げればマッチングは可能だが平等社会にはならない。そもそも子育て支援と称して税金を使うのは独身税を取るということであり、金が無いから結婚できないと言っているのに金取るのかよという意味不明な対策をすることになる。これがフェアなやり方か?というのが赤川氏の主張。
山田氏の持論は少子化の要因として説得力はあるものの、その対策として有効なのか疑問を抱きます。ハイパガミー論をわきに置いたとしても今の若者の年収が倍になったとして、じゃあみんな結婚するのか。たぶんしない。結婚したい人はするでしょう。でも先に見たように結婚そのもの、恋愛そのものを面倒臭いと思う人も増えている。これは他の若者研究の社会学者の見解を見てもそんな風に思います。あと単純に都市部では出生率が低いので人口集中化によってこの傾向に拍車がかかるってのもありますが。
だいぶ記事が長くなってしまいましたが最後に。
今回2つ上げている本で見解が一致しているものがあります。それは中間層において特に少子化が顕著なこと。
実は金持ちと貧乏人は子どもを作る傾向にあり、中間層で減っている事実があります。この理由は、もし子どもを作ったら(結婚したら)今の生活が苦しくなってしまうのではないか、子どもに人並みの生活をさせてあげられないのではないか?という不安から子作り(結婚)を控える、と推測されています。
独身者の大半は親と同居しているため生活が安定しているので自分を中流だと思いがち。しかし独立するとなれば環境がガラっと変わり経済的にも不安がある。ここが若者メンタルの微妙なところで親と同居する限りは貧しくはないが、個人の所得は少ないので裕福とも言えない。早い話、贅沢を知っている人間がわざわざランクを落としたがらない。既婚者であればこれ以上子どもを作っても個室や十分な教育を保証できなければ可哀想。その帳尻は結婚や子どもの数で調整することになる。金持ちは金持ってるから気にならないし、貧乏人は最初から生活水準が低いから気にしない。
これを裏付けるデータとして、沖縄の出生率の高さ(2に近い)が例にあげられています。
沖縄は大学進学率が全国平均と比べて低く、おまけに所得も低い。大卒で頭のいい人は本土に行ってしまい残るのは高卒連中ばっかり。離婚率も高い。つまり子育てに対する要求水準が低いので意識的ハードルも低い。…と推測される。貧乏子だくさんってのは昔から言われていることですね。
山田氏と赤川氏の見解が一致する出生率向上の解は、金持ちと貧乏人に社会階層が分かれること。
自分は中流(さらに上を目指せる、中流のままでいられる)なんておこがましいことを考えられないくらい下層階級になれば余計なこと考えずに済む。子育て? 高校で十分だろ。大学? 無償化? 大学行ってる間の生活費誰が払うんだよ知らねーよ(欧米並感)。そんな感じなら出生率も回復するんじゃないかと両名とも見ています。山田氏はそんな社会は嫌だ、赤川氏はそれも一つの解だよねと言っているのはスタンスの違いが出ていて面白い。
どーせ何してもそんな社会になると思うけどね。出生率が増えるか知らないけど、金持ちと貧乏人には分かれるよ。
そんな感じで日本の出生率の低さ、そして今後の見通しについて理解が深まる本です。
大学なんか行っても意味はない?(ブライアン・カプラン)
○大学なんか行っても意味はない? 教育反対の経済学 ブライアン・カプラン 翻訳 月谷真紀 みすず書房
大学教授「大学って無駄じゃね?」
大学に行く一番の理由は就職に有利だから。大卒という肩書が欲しい。
大学に限らず学校で仕事のスキルを習得することはほぼ無い。なんなら専攻と全く関係ない仕事に就くこともザラ(哲学や宗教学に至っては関係ない仕事に就く方が給料が高いデータがある)。ではなぜ企業はそんなにも高学歴を採用するのか。余分な賃金を払うのか。それは学歴が足切りの指標としてこの上なく便利だから。その便利さのために社会全体で大学(教育)という無駄な金を払っている。
……という話を500ページ(内100ページは参考文献と注釈)にわたって論じた本。なるほど大学教授というのは一般人が普通に理解することをこんなにも冗長な時間と紙を使って説明するのか。確かに無駄だな、と思うまでがワンセンテンス。
この本は主にアメリカの話ですが、学歴で年収に大きな差があるのは日本も同様。大卒と高卒では5000万円程度生涯年収が違う(アメリカに比べたらこれでも差が小さい)。
しかし大半の仕事は高卒でもできる。大卒でなければできない仕事なんて限定的。もし仮に人口の10%以下の超エリートだけが大学に行く世界になったとしたらどうなるか。企業の採用条件が「大卒」から「高卒」になるだけ。おそらくそれでほとんど何の支障もなく社会は回る。現に何十年も前はそうだった。仕事に必要な知識やスキルは仕事で覚える。学校で教える内容で仕事に役立つのは四則計算と読み書きくらい。
本書が指摘しているのはここ。現在の学校はあまりに無駄が多すぎる。大学に至ってはその費用の大半が肩書を得るためだけに使われている。
とはいえ教育が無駄ってことはないだろう、と思うかもしれない。本書はそこにツッコミ(検証)を入れて、人間が如何に学習しないかをこれでもかと列挙しています。
学校を卒業して数年経つと内容をほとんど忘れてしまう。私は会社を辞めて5年近く経ちますがもうかなり忘れています。デバイス番号とかもう無理。必要ないこと、日常で使わないことはどんどん抜けていく。これは私だけではなく、統計的にみんなそうであることがわかっています。
以前、日本人の3分の1が日本語を読めないという話をしましたがそれと同じことが本書でも指摘されています。成人したアメリカ人の半数が算数レベルができない。人間は人間が思っている以上に賢くないし忘れやすい。
「学習転移」という概念を持ち出してもダメ。これは様々な分野の違う知識を統合・応用した思考法で「なんで学校に行くの?」に対する常套句「考え方やそのための下地を作るもの」に相当するものだと思えばいい。これも人間はあまり得意ではない。分野が違うと途端に別なこととして認識したり、時間が経つと脇に置いてしまう。知識横断的な応用は期待されるほど活用されない。専門家が専門以外でピンボケしたこと言うなんてザラ。
結局教育って、できる子をできるようにしているだけではないのか。できる子に「この子はできる子ですよ」というお墨付きを与えているだけではないのか。
教育を否定しているわけではなく、就職のための障害物競走に小中高大で16年もかける必要があるのか。日本でもFラン大学なんていらないだろといった意見が出るのも当然といえば当然の話です。
現代の教育をソシャゲで例えるならサービス初期は☆5が最高レアだったのにいつの間にか☆6になって、さらに上位ギルドに入るには☆6最強装備が必須、みたいなことになっている。その☆6最強装備は社会では銅の剣ほどの価値もない。学歴ソシャゲに重課金しているようなもん。
個人レベルではこの学歴競争は自分の価値を高く見せられる点で意味がある。しかしそのために安くない学費、生活費、時間を使って使わない知識を得る(その後大半を忘れる)。社会全体でもそのコストを払う。仮に大学を無償化して大学進学率100%になったら全員が大卒賃金でハッピーになるかといったらならない。頭の良い人は別なことで差別化を図り、企業も上からマシに見えるものを採用していくから結局バカが売れ残る。そしてその差別化のために新たにEX限定装備が発明されて課金が増える。ソシャゲのインフレと何ら変わらない。
著者は真面目に問題提起していますが、個人的には人間社会なんて無駄が多くてナンボだと思っています。その無駄で稼いでいる人がいっぱいいる。大学潰したら大学教授である著者自身が無職になる。人間の社会活動なんてそんなもん。
ただ著者も言及しているように人類の高学歴化は少子化の一要因と考えられます。私の記事だとこの本でも取り上げていますが、高学歴化によって社会参加が遅れるので必然的に晩婚化、高齢出産化は避けられない。日本で20年前の初産年齢は28歳でしたが現在は31歳。一昔前は人口爆発が叫ばれていましたが現在は人口減少の一途。
無駄なこと増やして人類そのものが詰んでいくの面白いよね。な? だから人間ってそんなに賢くないんだよ。
人口大逆転(チャールズ・グッドハート)
○人口大逆転 高齢化、インフレの再来、不平等の縮小 日経BP 日本経済新聞出版
チャールズ・グッドハート 、マノジ・プラダン 著 翻訳 澁谷 浩
今後の世界経済を予測した本。
結論から言うとインフレする。労働分配率(企業利益の労働者への還元率)は向上し賃金上昇から格差は縮小に向かう。ただし長寿高齢晩婚化により家計貯蓄は減少する。
世界的な傾向としてここ数十年インフレ率は低い水準で安定していたそうです。理由は人口ボーナス期の国が先進国で多かったから。
人口ボーナスとは労働者が多く非労働者が少ない状態の人口構成。必然的に生産量が消費を上回りデフレ圧力が強まる。この人口ボーナスは日本ではすでに終わっていて、今後他の先進国が後追いしてくる。
すると今度は労働人口が減る一方で、消費人口が増えるから需要が増えてインフレ圧力が強まる。これが中国を含めて世界展開されるからどこも働き手が足りなくなる(グローバル化が緩慢になる)。労働者の立場が強くなると賃金が上がる。けど高齢者を支えるための財政負担も増えるから税金も増える。それを織り込んで賃金を要求……とインフレ圧力がますます高まる。
単純に言ってしまえばこんな感じ。というか私はその程度でしか理解してない。
この説に対する反論として一般的なのが日本のデフレ。
これに関してはバブル崩壊と、同時期に中国市場が開放されたおかげで労働力をそっちで代替した(海外に投資した)こと、日本の労働市場は雇用優先で雇用を維持する代わりに賃金を抑えることで対応したため、と説明されています。これは他の本でも似たような話は読んだことがあるので一定のコンセンサスはある。これに加えてコストを価格に転嫁するのを極端に避けたのも特徴でしょう。ちなみによく日本は生産性が低いと言われますが、これも人口ではなく「労働者一人当たり」で見ると他の先進国と比べても高い水準にあると本書は指摘しています。
つまり日本のケースは今後の世界情勢には適用できない。ただ高齢者の再就職や生産性の向上などによってある程度の成長率(1%程度)は見込むことはできる。
ではインドやアフリカは第二の中国になり得るか? これも一筋縄ではいかない。
インドの行政資本は極端に弱いレベルから出発しているので、多数政党間および各州と連邦政府間の内部衝突によって協調的な成長戦略の運営が困難になっている。
各州間および州と連邦政府間の政治摩擦によって、民主主義の面でのハードルが一段上がってしまっている。ありふれた世俗的な問題に関してすら政治摩擦が生じる現状は、中国型の動員に向けて金融および実物資源を指揮監督する国家戦略を策定し従わせる可能性は、きわめて低いことを示唆している。
それは必然的に、インドの経済成長を勢いよく進めるのは民間部門であることを意味する。そして、インドの成長の道程を決定するのは、民間部門の成長する意欲と能力の高さである。政府の保護下にある国有企業の成長とは違って、民間部門は成功するために実効性がある公平な競争の場を必要としている。したがって、いかに早く、効率的にインド政府が経済を構造改革し規制緩和を行うことができるかに、多くがかかっている。
第一に、アフリカは個々に分かれた国家経済の集まりなので、中国に匹敵する製造業の複合体を形成にするのに必要な協調的なアプローチが実現する可能性は小さい。第二に、より重要な点だが、アフリカには、インドが享受している人的資本の量および中国な何世紀にもわたって磨いてきた深く広く浸透した徒弟制度、職人組合、効率性が欠如している。
アフリカの人口は2019年の時点で約13億2000万人であり、インドの13億7000万人とほぼ同じである。しかし、その人口はインドの領土320万平方キロ面積のほぼ10倍の広さの土地に分散している。そのアフリカ大陸に54カ国が存在している。したがって、アフリカが直面している重要な問題は、その分断性である。アフリカの54カ国、そしてその中の国それぞれがインドのような国内政治上の摩擦を抱えている。
コロナ禍によってインフレが加速したことは、この予測をある程度裏付けるかもしれません。一旦は落ち着くと思いますが長期的にはインフレは避けられないという印象を持ちます。
こういう生活をしている関係上、短期的な動向よりも長期的な動向の方が個人的には重要かつ関心度が高いです。真面目な話、人類がどういう風に衰退していくのか興味ありますしね。それを見届けることはできないでしょうが、長寿高齢化&少子化で自然衰退していく種、なんてSFチックで面白いよね。
みにろま君とサバイバル(谷本真由美)
○みにろま君とサバイバル 世界の子どもと教育の実態を日本人は何も知らない 谷本真由美 集英社
イギリスの歴史教育「大英帝国すげぇ!!! 偉い!! 超最高!!」
チャーチルがアメリカに頭下げて戦争に勝たせてもらった話?
最近知った言葉に「海外出羽守」があります。簡単に言うと日本をこき下ろして海外(主に欧米)を礼賛する態度のこと。著者もそんな感じの人だったらしい。ところが国際結婚して子どもが出来てみると「あれ、日本もいい国じゃない?」と手のひら返し。この本は主にイギリスと日本の違いについて主観的に、散文的に書かれたもの。
海外は凄い! にしても日本は凄い! にしても言えることは、一部と全体を比較しても何の意味もないこと。上澄みと底辺を比較してどっちが凄い!してもだから何?って話。そもそも人間なんてそこまで賢い動物ではないので仮に日本人が国語で赤点を取るとしたらイギリス人は算数で赤点取ると思っていい。ベクトルが違うだけ。
主観的にと言いましたが身近な話題が取り上げられているのでイメージしやすい。たとえばイギリスは階級社会ですが、これがどれほどかというと趣味にまで影響しています。
北米も欧州も、もともと格差が凄まじい国で、中世の「格差」が社会の随所に残っています。ですから階級によって嗜む「趣味」「芸事」が違うのです。
例えばスポーツは、どこの国も「階級」によって取り組むものが違ってきます。「豊かな階層」が取り組むのはポロ、ヨット、乗馬、水球、アイススケート、テニス、器械体操、ダンス、フェンシングなどで、道具や場所が必要なものです。アメリカだとこれにサッカーが加わります。イギリスの場合は、さらにラグビーやクリケットなど、イギリスで人気があるスポーツが加わります。
一方で労働者階級や中流以下の場合に取り組むスポーツは、ストリートダンス、ボクシング、格闘技などで、イギリスの場合はそこにサッカーが加わります。
文化的な芸事の場合、音楽やカリグラフィー(西洋習字)、絵画、詩の創作、外国語、フラワーアレンジメントなどをやるのは、中の上以上の人々です。労働者階級や中流以下の家庭は、日本のように誰も彼もが俳句をやったり、ピアノを習ったり、習字を習ったりということがありません。
社会的な圧力も強く、労働者階級の子供が中流以上の芸事をやろうとしたら、近所や同級生から茶化されたりいじめられたりします。お前は俺らの仲間ではない、ということです。
流石大英帝国、プライドだけは一人前。
日本ではスポーツや習い事が一般大衆化しているのとは対照的。もちろん日本でも金のかかるスポーツや習い事は余裕がある家庭でなければ難しいでしょうが、階級差のようなもの(習慣や空気)は存在しません。『タテ社会の人間関係』で論じられているように日本は「所属」が個人の上位にくるので個人のステータスはほとんど意味を持ちません。一流大学に入ればその肩書がつくし、一流企業に入社すれば一流と見なされる。これは日本社会が均質的で階級移動が昔から容易だったからです。それが文化や慣習、意識として継続している。階級移動ができるということは子どもを教育すればワンチャンある。そういったインセンティブも働く。
学校教育については日本と正反対で暗記や反復を主軸とした学習(たとえば九九の暗記、計算問題の反復)は重視されず、論理や思考力が試される。以下は私立の中学入試問題。
1.「全ての政治的キャリアは失敗に終わる」この論述はどの程度有効なのか、あなたの判断で書きなさい。あなたが学んだ歴史的な人物の政治的キャリアを参照して論述を発展させなさい。
2.「伝説」と「歴史」の違いは何か。
3.イギリスの学校ではイギリスの歴史が優先的に教えられるべきか。議論しなさい。
ふーん……やるじゃん(震え声)
以前ドイツの教育制度について調べたことがあるんですが、それと考え方は似ていて要するに早期選別です。できる子どもとできない子どもをふるいにかけて早々に落としてしまう。出来るエリートはどんどん上に行き、できない子は放置(教育は親の義務として先生は付き合わない)。上述したように反復学習などはほとんど行わないのでこぼれた生徒は九九や暗算すらできないことがザラにある。
詰め込み教育の反省から90年代にこうした(良く言えば)柔軟な発想や創作能力を重視した教育に転換したそうですが、できない子どもを置き去りにした公教育が国民に資するものなのか疑問です。ただでさえ階級意識が残る社会でそんなことをすればより格差は増す。実際イギリスでは小学生の子どもが麻薬と関わって売人になるケースも珍しくない。だから都市部で子どもだけで遊ばせたりするのは危険。若者のホームレスも多い。親もしくは子どもが薬物中毒で追い出してしまうから。
このような状況のイギリスで子育てをするのは大変だと著者は言います。もっとも著者はおそらく低く見積もっても中の上階級でしょうから良い学校に入れる組。下のことなんて他人事だと思いますが。文章読んでいて危機感感じないもの。これは著者自身も書いていますが、付き合う人間は自分の階級と似たりよったりになることが多いので格差が激しい社会では自分よりも遥かに下、あるいは上の暮らしは隔絶されていてわからないものです。
格差、階級社会が厳然と残っている社会で公教育が選別試験になっていることは長期的には国力の低下、政治の不安定化を招くでしょう。自国民では九九や暗算もままならないから外国人労働者にそういう仕事をやってもらっている。そんな国をすげぇ!!超最高!!と私は思わない。
ちなみにイギリスでは公共放送の番組はプロガンダと言っていいほどの自画自賛らしく、自国批判、ネガティブな番組はほとんどないそうです。「自国に不利な研究をやる学者にも研究予算がついたり、大学で雇用されていたりする点も、日本の寛容さの現れだと(友人は)言っています。他の国だとそんな研究には予算がつかなかったり、大学に居づらくなることもあるからです。実は我が国は割りと寛容で自由なのです」。皮肉が入っているとしても欧州のイメージにある表現の自由とはずいぶんと違うことが見て取れる。
無論こういった比較もまた一面的なものにすぎません。日本は日本で30年給料が上がらないボンクラですからね。人のこと笑えない。
社会構造というのは凸凹していて楽園のように見える上澄みと地獄の様相を呈している掃き溜めはコインの裏表だったりする。結局「隣の芝生は青い」と思うのが人間の性。それを肝に銘じて判断したいものです。
最貧困女子(鈴木大介)
○最貧困女子 鈴木大介 幻冬舎
あえて糾弾されることを覚悟で書きたい。知的障害をもつ女性の売春ワークについては前述の通りだが、彼女ら売春の中に埋没し続ける家出少女らもまた、そのほとんどが「三つの障害」=精神障害・発達障害・知的障害の当事者か、それを濃厚に感じさせるボーダーライン上にあった。障害という言葉がよろしくないなら、こう言い換えよう。彼女らは本当に、救いようがないほどに、面倒くさくて可愛らしくないのだ。
ごめん、ちょっと笑った。そりゃそうだわな。
残念な家に生まれた少女がいつしか(というか最初から)セックスワーク業界に絡め取られていく。そんな「最貧困女子」の姿を取材した本。障害についても触れていますが統計的な調査をしているわけではなくあくまで著者の主観です。
ただ実際問題として刑務所が実質的な知的障害者の収容施設になっているように、知的障害の疑いのある女性が落伍してセックスワーク業に従事することは容易に想像できます。
毒親とか悲惨な家庭で生まれた子どもの話とかはこれまでにも何十冊と読んでいるので特に言及する部分はありませんが、本書を読んで真っ先に思ったのが「あらゆるジャンルに貴賎はない、されどジャンルの中には厳然として貴賎が存在する」という言葉。これは元々プロレス記事を書いていた村松友視氏の言葉だそうです(ラーメン再遊記で最近知った)。
風俗業界にもヒエラルキーがあるようで、街角に立っているような街娼は「売春」として風俗店から蔑まれています。報酬が安く素人扱いされている。低賃金=雑魚の構図はどこも同じ。最近では普通に昼働いて夜に週一風俗で仕事する女性も増えているそうです。逆に草食男子と言われるように需要は減ってきている。
つまりこの業界で何が起きているかというと供給側の厳選です。これはキャバクラなどの水商売も同様で『「ぴえん」という病』でもただ若いというだけでは採用されないと書かれていました。アイドル級に可愛くてスタイルも抜群。さらに接客も求められる。本書では客のニーズに合わせて自分磨きをしている女性も登場しています。そうした意識高い風俗嬢から見れば貧困セックスワーカーは底辺労働者。そんなのと一緒にしないで欲しいとど直球に言ってて笑っちゃいましたね。底辺女性の暮らしを著者がしたら正論パンチしたあげく最後には匙を投げる始末。そうだよな、同性以前に人間として生き方下手って思うよなと納得する。
どんなジャンルにも一流から五流までいる。普通に働いている人が風俗でも本気を出せば仕事をこなせるのは当然。逆に普通の生活すらままならない人が風俗で一流になれるかといえばかなり難しい。ここでも頭のデキや要領の良さが試されるわけで、冒頭の女性たちは最底辺に押し込められる。そうなるとさらに日陰の存在になっていく。著者はそれを懸念していますがこれが改善されることはないでしょう。
結局のところ世間では差別反対だとか多様性だとか言ってるけど、バカに対する差別だけは顧みられることがない。おそらく現代社会で最も、公然と許されている差別はバカへの差別です。バカは低賃金当たり前。底辺当たり前。差別と特権は表裏一体。頭が良い人が得をする社会ならその反対の人はそうなる。人権問題でも性別問題でもいいけど上手くやってる人にはお金や支援が行く。声を出せない人のところには雀の涙ほどにも手は差し伸べられない。弱者の中にも厳然として貴賤が存在する。
世界インフレの謎(渡辺努)
○世界インフレの謎 渡辺努 講談社
著者曰くインフレは2021年春頃から上昇しておりウクライナ戦争以前、つまりコロナの影響によるもの。このインフレは一過性のものではなくコロナ後の新しい価格体系へ舵を切っているのではないかというのが著者の意見。
以下ざっくりと要点。正直疑問点も多い。
・健康被害と経済被害は比例しない
アメリカと日本での100万人あたりのコロナ死亡者数の差は28倍。アメリカでは法的拘束力のあるロックダウンなども行われたが、GDPでの損失率が6.36%に対し日本は5.96%とほとんど差がない。ヨーロッパでも概ね同じ傾向で人がどれだけ亡くなったか、ロックダウンしたかしないかは経済的損失とあまり関係ない。
これはコロナの影響が各国単位ではなく、グローバル化した世界では全ての生産と物流が繋がっているため玉突き事故のように停滞するので全体的に似たような状況になることを意味している。
・現在のインフレ要因は供給力不足によるもの
①アメリカではサービス消費からモノ消費へとトレンドが変化
外食や観光を控えた代わりにスーパーやネットでモノを買うようになった。……ということなのだが今ひとつ意味がわからない。レストランでハンバーグを食べるのと家でハンバーグを作るのと本質的に何が変わるのか。巣ごもり需要でゲーム機が売れまくったとか言われた方がまだイメージがつく。
モノ消費の中身や具体例がないのでコロナ後の「行動変容」の説得力が弱い。
②労働者が職場に戻らない
みんな病気になりたくないので退職と離職が相次いだまま戻らない(ので生産力が下がった)。この説明も曖昧でじゃあこの人達どうやって生活するの?という疑問。
非労働力人口(働けるけど働かない人)が急激に増えたらしいのだが、これはコロナ対策による補助金や失業手当などによってギリギリまで粘っているのではないか?という気もする(ネットでそんな話を読んだことがある)し、単純に高齢化によって労働生産人口が減っているとも考えられるのでコロナだけで説明できるものなのか。
③サプライチェーンの変化
グローバル化していると上述した玉突き事故が発生しやすくなるので、安全・安定を求めて企業が自家生産できるように工場などを国内に戻す動きが見られる。……という意識調査結果もあるらしいのだけど、別に今も生産すりゃいいじゃん。潰してから建てるわけじゃないだろ。
供給不足で真っ先に思い浮かべるのは半導体不足。ここで説明されているような説明をして欲しいのだが。全体的に著者の書き方は学者先生って感じで企業や人が何をしているのか具体性がない。数字はそうなってるかもしれないけど、それを裏付けるヒトやモノの動きの説明がないのは本書の弱い点だと思う。
まあ、現在のインフレが需要が増えた影響ではなく供給力不足によるもので、景気が加熱しているわけじゃないから従来の経済政策では対応が難しいという説明は概ね理解できる。今アメリカが必死に金利を上げているけど、国ができることって企業の活動を鈍化(促進)するインセンティブを与えるくらいで生産力を直接上げ下げはできないからね。
視点を日本に移すと、このインフレによって慢性デフレ状態の日本がスタグフレーションに陥る可能性が懸念される反面、デフレマインドからの脱却の可能性もあると著者は述べています。
知ってのとおり日本人の賃金は約30年間上っていません(可処分所得は下がっている)。その間世界は順調にインフレしているので日本はインフレ率分だけ購買力が落ちています。単純に年間2%、30年上がり続けるとトータル約80%上がることになります。その分だけ日本は遅れを取っているってわけ。為替で円高になるかといえば円安になってるわけで(これはアメリカが金利ガン上げしたからなんだけど)、通貨としての円が強くなったわけじゃない。
結局30年も賃金も物価も変動しなかったせいで、モノの値段も給料も変わらないというマインドが消費者にも企業にも形成されてしまった。しかしここ最近のインフレによって値段は上がるもの、という認識に上書きされれば値段が上がる→人件費なども価格に転嫁する→給料が上がる、となり硬直状態を打破できるかもしれない。
現状ゼロ金利政策しか打てる手がないけど、インフレ率が正常に2%程度キープできれば政策余力も確保できるので名目賃金と物価の同時上昇(実質賃金は上がらない)でも良い。今がデフレを脱する分水嶺ってわけ。これに限らず日本人って一度そうなるとテコでも動かなくなるよね。融通の効かない人たちだ。賃金や物価が上がらない理由を精神論だけで説明できるかはわかんないけど。
経済政策の話は復習も兼ねて勉強になったし、デフレが払拭できるかは日本にとって大きな課題なのでその辺の情報を更新できたのは良かったですね。
傲慢と善良(辻村深月)
○傲慢と善良 辻村深月 朝日新聞出版
オースティン著『高慢と偏見』を知っている人ならこのタイトルにピンと来るでしょう。本書も婚活を軸にした物語。実際作中でも『高慢と偏見』を引き合いに出してタイトル回収している。
これは私の勝手なイメージだけど結婚をする人、しない人には以下のようなパターンがあると思っています(広義には結婚に限らない)。
①結婚に明確な意思を持っている人
②①ほどではないが結婚するものとして動ける人(尻に火がつく人)
③何も考えていない人
④明確な意思を持って結婚しない人
本作の主人公カップルは③
架は若い頃からモテモテだったけど結婚に踏み切れず曖昧なまま30後半になって婚活。ようやく苦労して真実(まみ)と出会うもこれまたダラダラと2年も過ごしてしまう。学生気分が抜けないままおっさんになったタイプ。
ヒロインの真実は箱入りお嬢様系(家は中流)で真面目タイプ。要するに本当に何も考えてない人。
私は常々思っていたんです。「真面目」「いい子」という言葉が都合よく使われすぎだと。
真面目を裏返せば「自分では何も考えず、周囲の意見に従順なボンクラ」です。ボンクラは言い過ぎじゃないかと思われるかもしれませんがボンクラです。私にはわかる。だって私もそうだったから。将来に明確なビジョンがないからこそ状況依存的になり大人しく従う。それが最も楽だから。これは楽をしようとして努力するのとは違います。そういう人なら世渡りを覚える。ただ流されているだけの人間はそれすらしない。
真実もそんな人間。親に言われた高校に入って、親に言われた就職先に家から通う。真面目で善良。言いつけを守ることしかとりえのない人間をそう言うなら。
もちろん真面目に勉強してスキルを身につけて積極的に役立てていく人もいるでしょう。それは意識高い人です。意識低いどころか意識がなく、かといって面倒も起こさない人の最後の言い回しが「真面目」「いい子」。このネガティブな部分にもっと目を向けた方がいいと思うんですよね。真面目という言葉でこの実態が覆い隠されすぎている。実際にはみんな気づいていて内心では「こいつ使えねー」とか思ってるけど、それ指摘しないんだよね。実害がほとんどないから。
正直この小説はストーリー的に面白い仕掛けがあるわけでもなく、セリフで長々と説明されるし、主人公とヒロインはアホだし、ラストも取ってつけたような終わり方で褒められる内容ではないんですが、ヒロインのクソみたいな思考は参考になります。ああ、うん、わかるわ。何も考えてない奴ってこういう思考するよなって。
何も考えていないから周囲に流される。それを「自分は周囲に配慮している」とのたまう。当然問題が起きたら「自分は従っただけだ」と責任転嫁。目的意識がないから知識やスキルが身につかない。人生経験も足りない。それを清廉潔白と勘違いして大人の駆け引きをする人たちを見下す。でも自分に誇れるものがないから彼氏や友達などの自分以外のもので誇ろうとする。見栄や評判を気にするくせに努力はしない。自分のレベルを上げて殴り返せよって思うじゃん。それをやらないのが何も考えない系ボンクラ。何も考えてないから行動もしない。ありあわせの物で身を守ろうとする。やれることがないからやることが浅はか。
「自己評価が低い一方で、自己愛の方はとても強い」は本書でたびたび出てくるワード。自己評価の低さをやらない言い訳に使う。でも自己愛は強いからこんな自分を受け入れてくれって欲求だけは堅守する。そうやって常に一番楽な方法を選ぶ。パッと見は素直で謙虚。実のところは我が身可愛さでしかない。
私は自己愛という言葉が好きです。
しばしばネガティブに使われがちだけど、誰だって自分は可愛い。自分可愛さに嘘をつくことだってあるし見栄を張ることもある。人に褒められたいとも思う。でも自己愛ってそれだけじゃない。自分がカッコ悪いとき、ピンチなときに「俺はここで終わる人間じゃねぇ!」って立ち上がる活力にもなる。自分の最後の拠り所。私は自分が大好きだから自分を幸せにできるのは自分しかいないと思っているし、それができるとも思っている。そう考えたときに私は真面目でなくなりました。
それともう一つ、分相応や身の程を弁えるって言葉も好きです。それらは一種の諦めを伴うからです。自分の限界を知る。人と比べてもしょうがないと納得する。逆立ちしたって勝てない人がゴロゴロいる。そんな世の中で自分なりの戦い方を見つける。勝つ必要はない。幸せになれば良いんだから。余計なものを切り落とすことも自己愛の育て方だと思います。
何も考えてないボン……もとい真面目な人が一律に悪いというのではありません。でもそういう生き方をしていると必ず壁に突き当たるときがくる。そのときに改めて自分のことを考えられるかどうかでその後の人生が大きく変わる。逆に言えばそうでもないと人生変える気なんて起きない。だからこそそれは貴重なキッカケなのです。
「ぴえん」という病(佐々木チワワ)
○「ぴえん」という病 SNS世代の消費と承認 佐々木チワワ 扶桑社
歌舞伎町とその一角にあるトー横。いつしかそこはぴえん系の衣装に身を包む若者とその候補生ともいえるキッズの棲家となっていた。
本書はそんな若者たちの刹那的な生き方を経験談たっぷりに書いた本。
読んで思うのはYouTuberにスパチャ投げて演者に読み上げてもらって喜んでいる人たちはまだ幸せそうだな~ってこと。ホストに何十、何百万もつぎ込んでその金を稼ぐためにパパ活してって地獄やろ。底辺感半端ねぇ。刹那的すぎて消耗品として潔いなと思うレベル。
若者というよりも現代の精神構造が最早そうなっているんだろうけど、こうした人々を見て感じるのは過剰なまでの承認欲求とコミュニケーション欲求(とその不全)。自分というものの価値を見失っている。そしてそれを担保してくれる他者との関係も見失っている。その2つが両輪となってブレーキが壊れた車のように暴走している。
一例としては本書で紹介されているようにホストとホスト狂いの関係がわかりやすい。お金を出せばホストは構ってくれる。しかし人気があるホストほど競争相手が多く、自分を見てもらうにはより多くの金を貢ぐしかない。アイドルに自分を認知してもらうために大金を投じるのと同じ。つぎ込んだ額=自分の権威にもなる。それが金で叩き合うゲームならそれでいい。けどそれだけでは済まない。これだけ尽くしている自分を見て欲しい。剥き出しの欲望が人間関係をより複雑で醜悪なものにしていく。ホストはそんな客たちをどうにかなだめすかしながら期待と欲望を背負い込む。現代のホスト(あるいはアイドル)はSNSを使って24時間営業が当たり前。自分の商品価値を常に示し続けなければならない。これで正気でいろと言う方がどうかしている。
普通の人は特別でもなければ、価値のある人間でもありません。十把一絡げ。その他大勢。ABCって記号を振る価値すらない。それが普通の人たち。フォロワー1万人の人から見れば1人のファンは1万分の1の人間でしかない。
そんな人たちにとって自分を表現する手段、評価してもらう手段がお金になるのは当然の帰結でしょう。いっぱいお布施した奴が偉いってのは今に始まった話でもない。現代は何でも数値化される。お金がない人はフォロワーや「いいね」を競う。
ちょっと話が飛びますがアウトローな人、はみ出しものって学校とかでも必ず居ますよね。昔から思っていたんです。アウトローなのに人とつるむんだなって。アウトローなら独りでいないの?って。いや、別にその人たちはアウトローになりたくてはみ出しているわけじゃないのはわかるんだけど、社会の規範から外れながら外れた先の社会や人間関係の規範にまるまる染まってるの面白いなって。結局服装とか行動様式とかコピーしてるんだなって。そうしないとその世界に溶け込めないんだなって。
そんなの当たり前でしょって思われるかもしれませんが、ガチの個人主義者たるシゾイドパーソナリティの私にはその辺の感覚があまり理解できません。私の持っている社会性は他人から邪魔されないための防波堤でしかないからです。だから友達の数とか何かの人気を示すバロメーター的なものにも興味がありません。
ちなみに記事の拍手ボタンは魔除けです。今ではほとんどないですが、以前は掲示板に面倒臭い書き込みをする人もいたので「ほら俺に賛同してるやつそこそこいるだろ? 失せろ」と示威的な圧力かけられるかと思って付けました。お金もそうですが私にとってこれらの数字は人に邪魔されないための武装でしかありません。自由を買う(人の命令をきかない)ために会社辞めてますからね。ここまで徹底できる人間からすると上記のような人たちの思考が本質的に理解しにくいのです。
話を戻して、フォロワーや賛同者、居場所が欲しい人にとって最も簡単で手っ取り早い方法は朱に染まることです。アウトローならアウトローな格好と行動様式。ぴえん系ならぴえん系の格好と行動様式をコピーすればいい。万人に受ける必要はない。自分の世界だけで評価されるならそれで十分。だから局所的にこれらの人々は増殖する。まるで量産品のように。
でも相変わらず個人としての価値は保障してくれない。だってコピー品だから。みんなと同じ格好で同じことしてる人が特別になれるわけがない。でもそれをやめれば今の居場所を失うからひっきりなしに同じコンテンツを貪る。『映画を早送りで観る人たち』で書かれていたように周囲と同化するために過剰に情報を摂取するが、その分だけ個としての存在感は薄れていく。根っこの承認欲求はいつまで経っても満たされない。腹を割って話せる友達も実はそんなにいない。そんな生き方になってしまう。
もちろんそういう人たちで世の中が溢れているかと言えばそうではないでしょう。普通の人は普通の人なりにそれなりに普通に生きている。現に社会回ってるしね。本書で描かれる若者たちは切り取られた一例でしかない。しかしそれらの人々に共通する思考や行動がそれ以外の人々にも見いだせるなら、現代社会にそうした病巣があり罹患者が増えていると考えられる。かつて精神科医のコフートは当時の人々を「悲劇の人」と呼んだそうですが、未だその悲劇から抜け出せない。
その後の不自由(上岡陽江・大嶋栄子)
○その後の不自由―「嵐」のあとを生きる人たち 上岡陽江・大嶋栄子 医学書院
当事者研究というのがある。
虐待や薬物依存症などを経験した当事者自身が研究者(支援者)となるもの。本書の執筆者の一人である上岡氏は重度のぜんそくから長期入院し処方薬依存、摂食障害、アルコール依存症などを経て女性サポート組織を立ち上げています。そのため目線が患者と近い。
本書はまさにその知見が書かれているわけですが、これが非常に興味深い。専門家の本では目にしない当事者視点の意見が多い。
上岡 聞き方がわからないということと同時に、私たちトラウマ持ちはね、テレパシーで話してるっていう感覚があるんですよ。
大嶋 伝わると思ってる?
上岡 そう、伝わると思ってる。解離のスイッチが自然に入ったり切れたりしてるでしょ。だから途中で解離しちゃうかもしれなくてね。そうすると自分としてはイメージの交換みたいなことで人と話してることも多くって。時の流れも変わっているし、景色も変わってる。第六感だけで動いていて、自分はこんなに困ってるってことが相手にテレパシーのように伝わってると思ってる。だからみんな自殺未遂しちゃうんだよね。
――どういうことですか?
上岡 いや、自分が困ってるって相手がわかってるはずなのに、わかってもらえない。だから落胆して自殺しようって。
大嶋 遺された側は「どうして言ってくれなかったんだろう」ってよく言うじゃないですか。でも、もしかしたら相手は「伝わっているかもしれない」と思っていたかもしれない。そう思うとすごく怖いよね。
上岡 私たちが仲間うちだけで話してるとね、なにか一つの単語で「そうそう、よくわかってくれたのね」とか、「そうだよね同じだよね」とか、まったく説明していないのにわかった気になっちゃう瞬間があってね。説明を何ひとつしないのに10人くらいが「それ私わかるわ」って言う。本当にわかってるかどうかわかんないんだけど、でもみんな感じるものがなにか似ていて――たとえば落胆した感じとか、何かを失ったような感じ――、それで伝わったと思ってしまう。だから、「仲間たちじゃない人と話してるときには相手に伝わってないよ、テレパシーでは相手に伝わらないんだよ」って教えないとだめだよね。
この発想はなかった。
ここで書かれているように、医師に心を開いた患者が突然失望してしまうケースはよく聞きます。その理由もいくつか説明されているのを読んだ憶えがありますが、このテレパシー論は初めて聞いた。そして納得感がある。
本書で取り上げられている女性たちは境界性人格障害(ボーダーライン)の症状が多く、これに加えて虐待経験などかなり複雑化しています。本書を読んで改めて気づいたのが、そうした環境を経験してきた人々は感覚そのものが普通と異なっている点。
具体的にはボーダーラインで顕著なのが人間関係の距離感が極端なこと。いわゆるメンヘラと呼ばれるヤツですね。ちょっとでも気を許せばベタベタするのに、自分を受け入れてくれないと知れば失望し態度を急変させる。
ボーダーラインの人は、「自分をわかってくれる人と出会えて、はじめてこんな話ができました」とよく言いますよね。話を聞いたほうは、「通じたんだな」と思う。だけど、「わかってくれてありがたかったなぁ」とか、「援助者の期待に応えてクスリを使わないようにしよう」とはならないところがミソなんです。そんなふうに思えるようだったら、そもそも患者として病院にあらわれたりしないはずです。
逆に、「これだけわかってくれたら、私のつらい気持ちをもっとわかってほしい!」という気持ちが出てきてしまう。「ここまでわかってくれたのなら、自分がどんな自分であっても、丸ごと問題のあるまま受け入れてくれるんでしょう?」と思って、試したくなってしまう。「こんなでも受け入れてくれる? こんなでも受け入れてくれる?」と。
しかもしれを言葉じゃなくて、酒を飲んだり、リストカットしたり、オーバードーズ(大量服薬)したりといったように、行動化して表してくるということも知っておいてほしい特徴です。
実は、ニコイチとDVは表裏一体です。
相手と自分とのあいだに境界線がないときに暴力が出てきます。ニコイチになりたい者同士が恋人関係になったら、女の人は「自分以外の女と口をきかないで」と言う。男の人も「俺以外の男と口をきくなよ」「お前をホテルに閉じ込めていくからな」と言って出かける。すべてを共有化したい、心に空いている穴まで相手に埋めてほしいという願望ですね。
しかしそんなことは不可能ですよね。埋まらなかった心の穴によけいに気持ちが集中してしまって、あるときヤダーッと言って子どものように癇癪を起こしたり相手に暴力をふるってしまう。
ここでおもしろいのは、どんなに相手に物を投げたり罵倒したりしても、忘れたり、なかったことにできてしまうことです。それは「相手が」が、相手じゃなくて自分だから。おそらく暴力をふるわれたほうも、まるで自分が暴れたような感じになっているんじゃかいと思います。(強調は私)
自分と他者との境界が無い。それは彼女たちが(虐待を受けている場合は)幼少のころから暴力と支配という極端な人間関係の中で育ってきたからです。しかも自分を守ってくれる人もいない。距離感なんてないし、人間関係を選ぶという選択肢もない。では完全な被害者かと言えばそうじゃない。子どもによく見られるように自分がこんなにつらい目に遭うのは何か悪いことをしてしまったからじゃないのか? という罪悪感を覚えていることが多い。そして激しい怒りや憎しみを心の底に溜め込んでいる。だから自分よりも弱い人を見たときに酷いことをしてしまうということもある。被害者性と加害者性がゴチャ混ぜになっている。
こうした生活を続けるとどうなるか?
こういう親のSOS(子どもにしてみればグチ)をず~っと言われつづけていると、その緊張感のなかで、「眠い」「のどが渇いた」「お腹すいた」「疲れた」「おしっこしたい」といった生理的な欲求が言えない子どもになることがあります。これらは人間にとって基本的で大切なことなのに、安心する関係がないと言えないんですね。言えないだけじゃなくて、感じなくなっていく。緊張感のなかで身体の基本的な感覚が解離していきます。
生理的要求というのも実は、その表現の仕方を教えられてはじめて表出できることなのです。
実際にサポートの現場では「きちんと寝ましょう」「お腹をすかしてはいけません」というような注意を繰り返し行っているのだそうです。近年、育児放棄や虐待報道をテレビやインターネットで目にする機会は増えていますが、いずれも酷い場合は食事を与えられなかったり、家に閉じ込められたりと生理的欲求すら満足に満たすことができないケースがまま見られる。そうやって育てば自分自身に対するコントロール感覚(身体感覚)すら失われていく。
このような極端な人間関係や身体感覚の欠如を踏まえれば上述したようなテレパシー論も頷ける。
本書にもリストカットについての記述がありますが、別の本で取り上げたように「誰の助けも借りずにつらさに耐え、苦痛を克服する」ための孤独な対処法という見方は同じです。タコが自分の足を食べて生きながらえようとするようなものですね。寿命を縮める行為だけどその場を耐えしのぐためには他に手がない。こうした状況や考えになっている人は外に助けを求めることができなくなっています。どんなサポートがあるのか知らない。知っていても話すのが怖い、恥ずかしい、何を話せばいいのかわからない。自分の気持ちを言葉に表せない。
また、虐待などの暴力と隣合わせに生きてきた人は「他人の親切に逆に懐疑的になる」という心理が働くそうです。無償の厚意を受けたことがないから裏に何かあるんじゃないかと信用しない。支援者の言葉よりも怪しい人の言葉の方が真実味がある、自分を理解してくれていると思うのだそうだ。これも支援者と当事者との間にある大きな壁でしょう。
それでも未成年のうちは補導されたり保護観察がついたりする分マシだと本書は言います。そこで最低限の外との人間関係や軌道修正の余地がある。しかし20歳を超えると難しくなる。刑務所や男を渡り歩いたりしながら生きる人も出てくる。中には命を落とす人もいる。28歳くらいになるとサポートにたどり着くことが多い、というのはリアルな話です(28歳というのがミソ。身体の変化などもあり本人も意識することが多いのだとか)。
精神科医の話は何だかんだ言って家族が連れてきたり、ここまで荒んでいないことが多いのでおそらく対応している層に違いがある。元々医者の記述は患者と距離感を取って書かれるので、本書の場合は寄り添って(というより重ねて)見ている印象を受けます。それが当事者研究の善し悪しでもあるでしょうが。
本書の面白いところは、彼女たちの実態について素直に認めている点にあります。
極端な話、生き延びるためなら刑務所に入っていいと言っている。ぶっちゃけあそこは福祉施設化してるから30代後半までならそこに入って守ってもらった方がいいんじゃないかって。医者は絶対そんなこと言わない。視点が違うんですね。治すことよりもまずは生き延びること。その切実さがあります。
そして何よりも自分たちが治らないことに気づいている。
それでは、こうしたいわば被害と加害の「境界に生きる」人たちにとって、どのような生活を”回復”として思い描くことができるでしょうか。
性暴力の被害を背景に薬物使用へとのめり込んでいた20代の女性が勾留を解かれた後で、一まわり以上年上の男性と同棲を始める――こんな危うさぐらいが、「ちょうどいい落ち着きどころ」だと上岡さんは言います。そのぎりぎりさに、その人たちの居場所があるのだというのです。
ダルクのスタッフたちが講演に呼ばれて行くときに、なぜか「髪は切ったのに金髪」とか「スーツなのにあちこちじゃらじゃらとアクセサリーをつけている」みたいな姿をするのも、実はどこかが”はずれて”いないと収まりが悪いからだと言います。
薬物を使うような反社会的な世界でなんとか生き延びてきた人たちが、その薬物の使用をやめて社会生活に表面的な適応をし、自分のはずれてしまった部分を隠そうとする。あるいは昔の記憶を消そうとする。そのときが再使用の危機だと上岡さんは言います。生き延びるためには非行化することが必要だったし、反社会的といわれるようなぎりぎりの行動化によってでなければ、生きていくことができなかったからです。
上岡さんも以前は、「回復が進んでいけば社会生活への適応が可能になる」と考えていた時期があったと言います。ところが、適応しようとする人ほど逆に危機を体験し、結果として薬物の再使用に至る人を何人も見てきたことで、考えが変わったと言うのです。だから金髪でじゃらじゃらと”はずれたまま”で、教育委員会と薬物防止教育の件で協議するくらいが安全だといいます。
はずれ者として生きることは、薬物を手放した後で生き延びるために必須の方法ともいえるのです。(強調は著者)
彼女たちに対して「あなたは悪くない」「責任はない」と言うのは容易いでしょう。大抵の医者はそう言う。
でもそれは彼女たちの現実ではない。今まで自分が悪いと思って生きてきた人がそう言われてハイそうですかわかりました、私はこれから自由なんだ!なんて考えられるわけがない。自分がこれまで傷つけられてきたこと。同時に自分もまたそうした感情や行為を内面化してきたこと。そうやって必死にバランスを取って生きてきたこと。それを「悪くなかった」の一言で無かったことにはできない。それはその人を真っ向から否定することになる。
来た道は引き返せない。はずれ者として現実と折り合っていかなければならない。虐待や薬物依存を生き延びたサバイバーはその後も不自由を強いられる。トラブルがなくなるわけじゃない。でもそのトラブルの質が変わったことに気づくこと。人生が変わったんだと気づけること。そこに希望を見出すと語る本書には多くの学びがあります。
先生、どうか皆の前でほめないで下さい/映画を早送りで観る人たち
○先生、どうか皆の前でほめないで下さい―いい子症候群の若者たち 金間大介 東洋経済新報社
○映画を早送りで観る人たち~ファスト映画・ネタバレ――コンテンツ消費の現在形~ 稲田豊史 光文社
『映画を~』は元になっているネット記事にもあるとおり、若者のライフスタイルについて書かれた本。情報過多の現代で如何に手早く効率的に情報を収集し仲間内での話題についていけるか。大量のコンテンツを大量に売り捌くサービスが当然となった現代ならではのライフスタイルと若者の意識が取り上げられている。
『先生~』は教育者(研究者)視点で書かれた内容で、若者の処世術とその裏に潜む心理を面白おかしく解説している。
両書に共通して見られるのは若者の同質・右倣え化。
様々な著者や研究者が現代の若者(いわゆるZ世代)について特徴を上げた際にほぼ共通して見られるのは、その保守性とコミュニティの狭さ、そして決定的な自信のなさ。
人の目を気にしながら、適度な距離感と関係性を保つ。とてもナイーブでセンシティブな息苦しい世界。と同時に、安定した世界。その絶妙なバランスに揺らぎをもたらすものを、いい子症候群の若者は「圧」と呼ぶ。(『先生~』)
まさにこの論理が裏に、というか表から見てもバリバリにテカっている。
たとえば若者が出世欲に乏しいことは有名だが、これをワークライフバランス重視の志向から説明するのは間違っていると『先生~』の金間氏は指摘する。
第1の誤解は、若者のプライベートな時間の重要度が上がったがゆえに、仕事に対する意識が低下した、と考えることだ。
これの何が誤解かというと、「今の若者は積極的にワークライフバランスを取りにいっている」と考える点にある。人並み以上に努力する=意識高い系の人たち、ワークライフバランスを重視する=そのほかの人たち、というイメージだろうか。
しかしよく考えてほしい。いい子症候群の視座からは、積極的にワークライフバランスを取る時点で意識高い系なのだ。プライベートの時間を重視したい、私生活を豊かにしたい、といった「○○したい」という表現自体、意識が高い証拠であり、全然、いい子症候群らしくない。「積極的ワークライフバランス派」は大人が作った虚像にすぎない。「自分の時間を大切にしたい」なんて私から言わせればとても前向きだ。
いい子症候群の若者は、むしろ「○○したくない」という思考が中心となる。リスク回避志向とはそういうことだ。
多くの若者がプライベートの時間に何をしているかといえば、ゲーム、ユーチューブ、Amazonプライム・ビデオ、Netflix、そしてSNSだ。これらはコロナ禍のステイホームによってより加速した。
は? そんなこと? と思うかもしれないが、そう、そんなことだ。もう一度言うが、本書で議論しているいい子症候群の若者たちは、特にやりたいことはないのだ。そもそも、人に譲れないほどの趣味を持つ人なら、仕事もそれなりにがんばれる。ある意味で自分の中に1つの軸ができているから、陰キャぽくもメンヘラぽくもなったりしない。(同。強調は著者)
あけすけな意見だが『映画を~』読んだ上でこの文章を読むと驚くほど的を射た指摘だと思う。
『映画を~』で紹介されている若者はまさにこういうメンタル。SNSや仲間内で流行っている情報を聞きつければとにかくそれを漁る。中身を詳しく知る必要はない。話についていければいい。情報収集が目的だから倍速視聴で問題ない。ドラマの1、2話を見た後に最終回に飛んでもいい。彼らの情報は常に誰かの後追いであり、人気作などの勝ち馬に乗ることに重きが置かれている。またオタクにも憧れがある。それはオタクが○○の第一人者、精通した人として認識されているから。しかし実際にオタクになるには相当の時間と適正が必要。でも彼らはその努力を払いたくない。要領よく、手軽に、良いところだけ切り取りたい。つまりこだわりがない。
森永氏によれば、昔と今とでは倍速視聴の性質が違う。新たな”目的”が出現しているという。
「昔の人が早送りしていたのは、自分のためですよね。コンテンツが大好きな人が、限られた時間でたくさん作品を観て、自分を満足させるため。だけど今の若者は、コミュニティで自分が息をしやすくするため、追いつけている自分に安心するために早送りしています。生存戦略としての1.5倍速です」(『映画を~』)
これらの行動や趣向はもはや主体性ではなく、周囲に付いていくため(乗り遅れないため、知らないことで自分が浮かないため)の保険的行動に近い。まさに「○○したい」ではなく「○○したくない(のけ者にされたくない)」の精神。
また、学生の主体性としてよく社会貢献への意欲が取り上げられるがこれも金間氏はこう説明する。
いい子症候群の若者にとっての社会貢献とは何か。
それは、誰かに「貢献する舞台」を整えてもらった上での貢献を意味する。責任を取る誰かがいて、調整してくれて、意思決定もしてくれて、その上で自分らしさを発揮するお膳立てをしてもらってからするのが社会貢献。
さらに事後には「君がいてくれて本当に良かった。いつもありがとう」と言ってもらうのが社会貢献。(同)
別の本で大学教授が学生の社会貢献活動について褒めていたが、よくよく考えればその大学教授が必ず引率する形で同行していたように思う。学生だけだと万一のときに責任問題になるからだ。学生たちは大学教授という後ろ盾と弾除けがあることを前提に活動していたのではないか……そのように捉え直すこともできる。
ではなぜ社会貢献をするのか。それは承認欲求を満たすため。
上述したように常に後追いをする若者が第一人者になることはない。TwitterをはじめとしたSNSではすぐに自分の上位互換が見つかる。博識、情報通、絵が上手い、文章が上手い、フォロワー数、いいねの数など評価が可視化される。チヤホヤされるのは一部の人だけ。知ったかぶりをすれば誰かがシュババッとやってきてダメ出しされる。そこで残された手が社会貢献。イメージ的に良いし、批判されることもない。お金もそんなにかからないし、手を引こうと思えばいつでも引ける。リスクが低い割にポイントが高くコスパが良い。見事『映画を~』の若者像と合致する。
こうした行動の背景には若者の自信のなさが起因していることが見えてくるのだが、しかしこの理由については金間氏も明確な答えを用意していない。
若者が狭い範囲の仲間や友達の輪だけで完結していること、コミュニティ内での同調圧力が強いことは様々な研究者が観察・指摘しています。また、大学教授が口を揃えて言うのは、昔に比べて現代の若者は身内で固まること。まるで独りでいることが恥であるかのように常に誰かとつるむ。今の時代簡単に連絡が取れるのに。
この辺の詳細、根源的な部分についてそれっぽい説明はあっても個人的にスッキリするような説明は見たことがありません。
私見を言うなら、彼らは単純に自信がないわけではないのだろうと思う。
周囲の空気や意見、顔色を過剰なまでに先取りし、それを自身の行動規範にしているがゆえに主体性が後退して、その結果として自分から働きかける経験や手法を見失っているのではないか。あるアンケートによれば「人の気持ちがわかる」「思いやりがある」「よく相談を受ける」という項目について大学生の自己評価は高い。しかしこれらは金間氏が指摘するように「頼まれたらやる(言われたらやる)」という受動的な態度が起点になっている。事実最も自己評価が低いのは「リーダシップ」。
いわゆる指示待ち人間だが、言い換えれば具体的に指示を出して、模範例も与えれば彼らは従順なまでにやるという。SNSの話題にしてもそう。すでに人気な作品、勝ち馬に乗ることに関してはアンテナが高く敏感。これはもはや行動規範が自分の中に無いと言っていい。その先取りが低年齢化しているのだと思われる。
社会が個人の主張を許さない風潮(多様性という名の配慮と圧力)が強まっているのもそれに拍車をかけているように思う。
顕著な例をあげるなら、もはや医学的根拠ではなくみんなが着けているから(着けないと白い目で見られるから)マスクしているであろう現状を鑑みれば、なるべくしてなったと言えなくもない。みんな誰かが外すのを、あるいは偉い人が外せと言うのを待っている。だって自分は責任を取りたくないから。
こう書くとお前だってマスクしてるだろ、と思われるかもしれません。してないです。ずーっとノーマスク。無職のひきこもりが着ける意味がない。外出しても独りだからしゃべらないし。
仕事をしていたらマスクはしていただろう。が、これまで入店を断られたのは3回。マスク警察にも遭遇したことはありません。ということは仕事以外でノーマスクでもほとんどの日本人は気にしないのだ。日本人のメンタル的に知らない人に声をかけるのはハードルが高い。結果ザルになる。つまり身内同士で監視(牽制)し合っている。逆に言えばここまでドロップアウトした人間でないと割り切れないのが日本社会。
そりゃ自分の意見引っ込めて顔色伺うようにもなる。こういう小さな、でも日常生活全般にわたって空気のように染み込んでいるモノが人間の鋳型になってるんじゃないかな。
私が若者論について情報を得ようとするのは人間が社会的動物である以上、社会構造と精神構造は切り離せないと思っているからです。それを現在進行形で観察できる若者は生きた標本なのだ。
人口減少時代の土地問題(吉原祥子)
○人口減少時代の土地問題 「所有者不明化」と相続、空き家、制度のゆくえ 吉原祥子 中公新書
人口減少と超高齢社会によって近年表面化しつつあるのが空き家問題。
別の記事でマンション問題を取り上げましたが、本書が焦点を当てているのはズバリ「土地」。
田舎にある実家や土地って要らないよね。
税金や管理のことを考えれば相続しても負債にしからない。そもそも実家の土地が具体的にどこからどこなのかすらわからない。って人は少なくないでしょう。私もそうです。だから去年父親が亡くなったときに相続放棄の手続きをしました。これを母親や弟が亡くなったときにも繰り返せばOK。……そう思っていた時期がありました。実は相続放棄しても管理責任は放棄できません。これ勘違いしている人多いと思います。
ということで身近な相続問題から、国や自治体レベルでの土地問題について書かれているのが本書。
オビに「持ち主がわからない土地が九州の面積を超えている」と書かれていますがこれはちょっと語弊があります。あくまでサンプルとして選らばれた自治体を調査した結果、登記件数の割合的に約2割が所有者不明だったというだけであって、イコール全国、イコール面積ではありません。本書では2014年の国土交通省調査の資料が使われていますが2016年にも同様の資料があって、確かにそこにも九州の面積が引き合いに出されています。が、これは単純に掛け算しているだけです。たぶん数字を大きく見せたいからこんなことしてるんでしょうけど。もとを辿ればお前らの怠慢なんだけどさ。
それはそれとして、国の管理はザル&雑です。
土地の所有者が記載されている登記簿。これ、任意なので変更義務はありません。なので所有者が亡くなっても相続人が変更届けを出さなければずっとそのままです。これが段々と積み重なって所有者不明の土地が無視できなくなってきています。税金もそうだし、災害時や公共利用などで地権者の確認が煩雑あるいはほぼ不可能な状態に陥ってしまう。想像してみてください。所有者は100年前の人。相続人はその子ども、孫、ひ孫。何人いるのか調べて、関係者全員の場所を洗い出して、連絡して現在の地権者を特定する。特定できればいい。これがキッカケで相続人が土地を取り合ったり、押し付け合ったりしたらもう話が進まない。だから自治体も及び腰になる。
土地とその所有者についての管理はいくつか基礎データがありますが、それらは例によって法務省、総務省、国土交通省、農林水産省などに分散されていて一元化されていません。国土に関わるんだから統一的な土地データってあるんじゃないの?と思うじゃん。
あるんですよ。戸籍ならぬ地籍が。ところがこれの調査登録が未だに進んでおらず達成率は50%程度。本書が比較のために挙げているフランス、ドイツ、韓国、台湾は100%。断言しますが人手不足と予算不足で絶対完了しないね。そもそも登記が義務化されてないんだからやったところで所有者不明になるだけ。
え、でも税金は? 固定資産税払うんだから持ち主わかってるんじゃないの?と思うじゃん。
ここも運用上の手続きでナアナアにしているようなのです。登記上の所有者が故人であった場合の対応の一つに死亡者課税があります。
「死亡者課税」とは、死亡者への無効な課税を指す。土地・家屋の所有者が死亡した場合、本来は、次の二つのうちどちらかを行う。
①相続登記を済ませてもらい、相続人に納税義務者を変更する。
②相続登記が行われない場合は税務部局で相続人調査を行い、法定相続人の共有名義に納税義務者を変更する。
だが、②の場合、相続人調査には多大な時間が必要なため、次善の策として「親族の誰か、あるいは相続人の代表者が払っていればよい」としている。
ここに法的には無効だが、やむをえず登記簿名義人が死亡者のままで課税を続けている事例がある。
これは繰り返し述べてきたが、固定資産課税台帳の基礎情報である不動産登記が任意であるため、登記情報と土地課税に関する情報が完全には連動せず、自治体による土地所有者(納税義務者)の把握が困難だからだ。
元々慣習的にも法的にも相続による名義変更がされず、特に田舎ではその傾向が強い。土地を売買するでもなく、親の家や土地をそのまま相続するなら手続き上も生活上も支障がない。税金は払っておけばいい。この結果、税金は払われているけど土地の所有者は故人という傍から見れば謎な現象がまかり通ってしまうわけです。日本人は柔軟だよね(褒めてない)。
では、所有者もわからない。税金も払われていない土地はどうするのか?
課税保留または税金の徴収が不可能として不納欠損処分されます。つまり実質的な棚上げ。
(本書が紹介している自治体のコメント例)
当自治体ではこれまで課税保留は行ってこなかった。しかし近年、どうにも課税できない事案が出てきてどうしてよいかわからず、新たに要綱を制定し課税保留を始めることにした。具体的には、相続人不存在の事案や倒産法人の滞納分が対象になる。相続人不存在というのは、相続人全員が相続放棄している場合と、そもそも相続人の所在がまったく追えない場合とがある。相続財産管理制度を利用して管理人を立て精算するという方法もあるが、多くの場合、費用対効果が見込めない。納税通知書の送達先がないということは、課税客体として成り立たないということ。そうなると、課税保留するしかなくなってしまう。
専門用語がいくつか出てきて理解しずらいと思います。でもここがある意味個人レベルで大きく関わってくる部分なので人によっては大事な箇所です。
冒頭で相続放棄しても管理責任は放棄できないと書きました。おそらくほとんどの人は「相続されなかった資産(土地)は最終的に国庫に帰属される」ことはご存知でしょう。これは民法第239条第2項に書かれています。しかしこれがどのような手続きで帰属されるのか知っている人はわずかでしょう。私も本書を読んで、ネットで調べて初めて知りました。
所有者不明、もしくは相続放棄された資産(土地含む)は相続財産法人として扱われ、相続財産管理人がその整理を行います。
話を簡単にするために一族みんな私以外死んで家と土地が残ったとします。要らないので相続放棄をする。それだけでは家と土地は国に帰属されません。必要書類を揃えて裁判所に行き、相続財産管理人を選任してもらう必要があります。管理人が改めて資産と相続人の有無を調べ売却などを通じて最終的に国庫に帰属という形になります。その間の家や土地の管理責任は私にあります。また、当たり前ですが管理人への報酬も払う必要があります。
土地はいいとして(たぶんそれでも揉める)問題は家。空き家問題と言われるように撤去費用だって馬鹿にならない。そんなものをホイホイ自治体や国が引き取るわけがない。当然撤去しろと言われるか、ゴネられる。寄付も公共利用可能な土地でなければ受け付けない。つまり能動的に土地(と家)の権利放棄はおいそれとできないのです。ここは人によって重要な部分なので覚えておきましょう。この例は「私」として説明しましたが、所有者不明の土地であればこの手続きは自治体が行います。土地に価値があればまだしも二束三文な土地であれば費用対効果がマイナスになるのでやるだけ無駄。なら放置してしまおうとなってしまうわけです。
詳細についてはここや、ここ、ここなんかが参考になるでしょうか。一度相続放棄してしまうと下手に手を付けられなくなるなどの弊害もあり自分が最終相続人になった場合の対応はかなり面倒です。
田舎の家や土地なんて要らない。相続放棄したい。けど相続財産管理人に金も払いたくない。どうするか?
放置すればいいんです。家が老朽化しても周囲に迷惑をかけなければ問題ないし、田舎であれば固定資産税もそう高くないでしょう。30万円以下なら免税もされる。どーせ相続するときにはそれなりの歳になっている。役所から苦情が来るのが先か死ぬのが先かって話です。責任? 義務? そんなもん投げちまえばいいんです。不誠実なように聞こえるでしょうが、みんなそうしてるでしょ。その結果がこのザマ。マンションだって廃墟化が確定している。それが日本という国であり、そうやって後回しにしてきたのが日本人なんです。この手のものを調べれば調べるほど日本人は目先のことと、自分のことしか考えてないことがわかります。だったら私もそうするって話です。
ちなみに日本がこのような法律になったのはフランス法を下敷きにしています。
日本では、「不動産の売買などによる権利の変動は、当事者間の契約によって成立する。ただし、第三者に権利を主張するためには登記を必要とする」という考え方をとっている。こうした登記の性質は「対抗要件」と呼ばれ、フランス法の考え方を取り入れたものである。登記をしないと権利の変動そのものが成立しないとするドイツ法の「成立要件」の考えとは異なる。
不動産の売買の場合、所有権移転登記をしないと、買い主の側は、第三者の名義に登記されてしまうなどのおそれがある一方、売り主側も、固定資産税の納税義務を負わなければらない。そのため、売買当事者は、いずれも登記を申請するインセンティブが働く。
これに対して、相続については、契約ではなく所有者の死亡という事実によって発生するため、所有権移転の登記をしなくても、自己の所有権が失われることはない。そのため、登記申請をしないケースも多い。不動産を処分する、あるは金融機関から借り入れのために土地に抵当権を設定する、といった特段の必要性がなければ、相続人にとってわざわざ登記を行うインセンティブは低い。
なおフランスでも土地所有者不明問題が発生したので公証人制度を強化してこれを改善したそうです。
また、日本は土地所有についての権利が強いことも特徴です。
土地にかかわる法令を見てみると、所有者の自由度が高いことがあらためてわかる。
まず、土地の売買について、農地以外は売買規制はない。農地については、農地法によって売買規制が定められており、所有権の移転にあたっては事前に地元の農業委員会(農業関係者で構成された組織)の承認を得る仕組みになっている。運用面などで甘いとの批判もあるが、少なくとも農地を売買する際、複数の地元の農業委員に事前に情報が周知され、審査を経ることになっている。
しかし、農地以外であれば、売買の制限はない。売り主と買い主の二者が通常の経済行為として売買を行う。購入者は誰でもよく、たとえその土地が地域にとって大切な水源地や、港湾・空港・防衛施設の隣接地、国境離島など、国の安全保障上重要な土地であっても、二者の合意だけで売買取引は成立する。地下水の権利も原則、土地所有者に帰属すると考えられている。
10年ほど前に尖閣諸島を国有化したときや、水源地を外国人が買ったときなど土地や領土について話題になることがありますが、要するにその辺の法律がザルというか、土地は買ったもんの好きにしていいって法律になっています。公共性より個人の権利の方が強いんですね。一応その辺はこれまでも何度かテコ入れがあったようなのですが、高度経済成長期やバブルなどで地価が高騰して土地への執着と金儲けが優先されてきたという経緯があります。
しかし現在は時代の潮目が変わりました。人口減少と超高齢化によって管理維持できない土地や空き家が増え、それにともなって土地への執着も薄れている。けど制度としては従来のものを引きずっている。法的、運用的再整備の声がだんだんと強まっているものの人も予算も足りない。誰も責任を取りたくないから抜本的なテコ入れをすることもできない。
だからじっくりゆっくり腰を落ち着けて慎重に熟考していればいいんです。私が死ぬまで。
重ねて言いますが、不謹慎でもなんでも現行法や運用ではそういうインセンティブが働くんです。実際にみんなそうやってる。そうならないようにするのが国や議員の仕事なんです。そいつらが仕事しないんなら俺も仕事しないよって話。
みなさんも貧乏くじを引かないよう、もしくは引いたとしても誰かに押し付けられるよう法律や運用実態について勉強しておきましょう。
「宿命」を生きる若者たち(土井隆義)
○「宿命」を生きる若者たち: 格差と幸福をつなぐもの 土井隆義 岩波ブックレット
若者は科学的で、老人は信心深い。
若者は未来志向で、老人は保守的。
実はこれ、現在では逆転しています。
高齢者の方が科学的でチャレンジ精神があり、若者はスピリチュアル傾向で保守的。また、経済的な厳しさから大学生の半数が奨学金を借りている状況にも関わらず生活満足度が高くなっている傾向が見られます。正確には昔の老人と今の老人、昔の若者と今の若者を比較するとそれが顕著になり、両者のそれを比べると価値観のギャップが大きくなっている。
本書はこれらを様々な角度から心理的に読み取り、若者の意識の変化から時代性を読み解く一冊になっています。
おそらくこの記事を読んでいる人はおっさんが多いと思うので、老人の方から説明した方がわかりやすいでしょう。私もおっさんなので価値観的には老人側と通じる部分が多い。
ものすごく単純化して言えば、今の老人は高度経済成長やバブル時代を生きた人たちで現代資本主義、科学文明の恩恵を大きく受けています。努力すれば出世も夢じゃない。大学に行かなくても地道に働けば家を建てて家族を持てる。今が苦しくても遠くない将来甘い果実が手に入る。こういうストーリーがすんなり入りやすい。また、田舎の濃い人間関係に嫌気がさした世代でもあり、自由を求めて都会やしがらみの少ない生活を志向した世代でもあります。
だから今の老人は進歩的な老人なのです。神仏よりも科学を信じているし、努力主義で人間関係の煩わしさもわかっている。
これは日本社会が成長期だったことと無関係ではありません。むしろこの時代性が人々の志向を規定したと言っても差し支えない。人々が進歩的だったから進歩的な社会になったのではなく、社会が進歩していったから人々も進歩的になったという著者の見解に私も同感です。それを別な角度から証明するのが現代の若者です。
現在は成長が止まり社会は成熟期を迎えています。
登山で言えば登った先に高原地帯が広がっているようなもの。著者はこれを高原社会と呼んでいます。
たとえ山頂が雲に隠れていてもそこがゴールだと思えば頑張れる。しかし現在はどこを見渡しても同じような光景が広がっていて変化がない。昔はそれこそSFのような未来予想図が描かれていました。空飛ぶ車、チューブ状の道路。今から見れば滑稽だけど夢を見れた。でも今50年後を想像しろと言われても、ほとんど現在と変わらない社会しか思い描けないのではないでしょうか?
現在のそれは、生存の境界をさらに外部へと拡張し、現在の日常生活を隔絶的に飛躍させるものというよりも、すでに飽和した境界の内部をさらにきめ細かくし、現在の日常生活をさらにスムーズに営んでいけるようにするものです。その変化のイメージは、成長社会の変化のように階段を昇っていくようなものではなく、むしろ無限に横へずれていく感覚に近いといえます。その様相をもって、かつて静的な社会であった中世の再来と形容されることもあるほどです。たとえば、いま日本各地で喫緊の課題の一つとなっているのは、昭和時代に建設され、すでに老朽化した橋の保全をどうするかです。もはや新しい橋をかける時代は終わり、いまはそのメンテナンスの時代へと移行しているのです。
日本青少年研究所が実施した「高校生の生活意識と留学に関する調査」によると、「現状を変えようとするより、そのまま受け入れたほうが楽に暮らせる」と答えた人は、1980年には約25%にすぎませんでしたが、2011年には約57%へと倍増しています。このような心性は、若者たちからハングリー精神が衰えたと批判的に捉えられることも多いのですが、現状を変えることのハードルのほうが上がったと捉え直すこともできます。
未来が不確実なものだからではなく、逆に動かしがたく確定されたものだと感じているからこそ、にもかかわらずそれを先まで見通すことはできないからこそ、現在志向になっているのだと気づきます。いくらあがいたところで、それは変えようのないものだと感じられているために、そんな無駄なことはせずに現在の生活を楽しもうとするようになっているのです。
今の若者は生まれたときから現在までおそらく生活の質はほとんど変化していないと思います。ゲームもエアコンも携帯もインターネットも生まれたときからある。余談ですが『なぜ若者は理由もなく会社を辞められるのか?』の著者は大学教授の立場から学生の態度を不思議がりつつ、断片的に若者の意識を推し量っています。本書はまさにその回答となっています。
必ずしも経済的に豊かではない。でも生活に不満はない。人間関係を大事にしている。それこそ大学内で独りでいることの方が少ないくらいに。努力意識や出世欲も薄い。けどボランティアには積極的だし自分が成長できる何かを欲している。それらは現代社会の構造がそのまま人間に投射された結果です。
現在の人間関係については以前別の本と絡めて土井氏の見解を紹介したのでここでは詳細に説明はしません。人間関係の束縛が弱まった反動で繋がりを求めるようになった、とだけ押さえておけばいいでしょう。
未来を志向できないということは、自分のアイデンティティをも未来に置くことが出来ません。未来はただの平地です。そうなれば過去に置くしかなく、若者の間で地元志向や素朴な人間関係が志向されるのは自然の流れです。もっとも過去もまた平地なのですが。だからかはわかりませんがスピリチュアル傾向が強まっています。
5年毎にNHKで実施している日本人の意識調査によれば若者の間で奇跡やお守りを信じる傾向が強まっています。最近は減少していますがそれでも他の世代と比べて高い水準を示しています。若者が信心深くなったわけではありません。日本人は相変わらず無宗教です。より正確に言えば空気教。理由については不明ですが、物質文明的な進歩が実感できなくなったのでその代わりなのかもしれません。
本書のタイトルになっている「宿命」とは私のようなおっさん世代にとっては自分を縛る桎梏のように感じる言葉ですが、現在の若者にとっては自分の基盤、著者の言葉を用いるなら「生得的属性」となります。生まれ持った○○を希求しているわけですね。これは人間関係で言えば親、地元の友達などのことを指します。
現代の若者が承認欲求を満たすには人間関係に頼らざるを得ず、手軽に、確実にそれを得るには同質性の高いコミュニティに入りそれを維持し続ける、という一種のムラ化が進んでいます。
若者の生得感を窺い知るものとして「本人の社会的地位は、家庭の豊かさや親の社会的地位で決まっている」というアンケートの回答が一つの目安になります。
1995年が31%だったのに対して、2015年には46%とほぼ半数。これは壮年層でも同様だそうです。
これを裏付けるように学力調査においても親の経済状況によって学力に差が開いています。このグラフは国語だけに絞っているので他がどうなっているのか詳細に確認していませんが、要点としてはこうです。経済的に貧しい家の子どもは毎日2時間以上勉強しても、裕福な家で全く勉強していない子を(平均値で)下回っている。
貧乏だけど努力すれば慢心している金持ちに一矢報いる、ことすらできません。もはや学習時間の問題ではなく、身の回りの環境や人間(主に親)が重い足枷になっている。
今や大学生の半数は奨学金に頼っており、貧乏だけど優秀な学生が大企業でワンチャン!という状況はより困難になっています。貧乏で優秀な人と、裕福で優秀な人、どっちが勝ちやすいかと言えば比較するまでもないでしょう。
しかし事はそう単純ではありません。本書が指摘・考察するのはここです。
裕福な者とそうでない者。高学歴な者とそうでない者。という単純な図式で線を引けない。何故なら貧しくても、非大卒でも若者の満足感が高まっているからです。先ほど引用した著者の文章にも「現在志向になっている」「現在の生活を楽しもうとするようになっている」とあります。非大卒者が結託して学歴社会反対!とはならない。これはどういうことなのか?
よくある解釈として「未来に希望が持てないから、今が幸せ(すっぱい葡萄理論)」があります。しかし著者はこれに異を唱えます。このような理由付けをするのは成長社会で生きる人間の発想。高原社会は上述したように現在も未来もほとんど差がない。つまり最初から(心の底から)未来に期待していない。
最初から期待などしていないのだから、今の満足度が上がるのは自然なこと。頑張ってもお金を稼げはしないけど、人間関係は円満で心地よく、周囲は自分の考えを支持してくれる(ように同調圧力が働いている。人間関係こそが最後の頼みの綱なので)。今どき人にああしろ、こうしろなどとケチをつける人もいない。親とも仲がいいし、何かと便宜も図ってくれる。
大卒ならそうかもしれない。けど非大卒なんて非正規雇用も多いし、不満も多いのでは?
ところが不満はないのです。そのことを傍証するものとして若年層の犯罪率、犯罪数の低下が上げられます。彼らは世の中に不満や鬱憤があるわけではなく、貧しいままに普通に暮らしている。「未来に希望が持てないから、今が幸せ」なのであれば不満が蓄積されるかもしれないけど、本当に期待していないから不満も溜まらない。
これを補強するのが閉鎖的な人間関係です。
現在の若者たちが親しくしている相手は、彼らが20代の後半になっても、1位が家族、2位が学校時代の友人、3位が地元の友人です。学齢期ならまだしも、社会人になってからもそうなのです。職場の仲間は4位にすぎません。血縁や地縁に加えて、学校もまた偏差値で決まる比重が大きいとすれば、いずれも自己選択の自由度が低い関係です。しかし、組み換えが不自由な関係であるがゆえに、それらは安定した居場所と感じられ、絶対的な拠り所を与えてくれます。だから、社会人になった後もその関係をずっと引きずっているのです。
このように内閉化した人間関係のなかで、昨今は、大卒の家族と非大卒の家族が付き合う機会も減り、両者の生活圏が分断化されています。
吉川の分析によると、近年では夫婦間や親子間での学歴同質性も高まっています。こうして、現在では自己評価を行う際の準拠集団が同質化しているのです。(略)ものごとを判断するときの視点や視野もそれぞれの生活圏の内部で閉じられてしまい、自らと生活スタイルや生活レベルを同じくする人びとだけが比較の対象となっているのです。
昨今は「パワーカップル」という言葉も聞くようになったように高収入同士が結婚するのは珍しくありません。っていうかこれは別に日本だけじゃなく、普通に考えればそうするのが合理的です。
友人、知人、夫婦においてすら同質性が高くなると高学歴は高学歴と、低学歴は低学歴とつるむようになりコミュニティが分断化する。自分も含めて周囲も似たりよったりなら不満に思うこともない。幸せや不満は相対的なものだからです。現在ではスクールカーストという概念すら形骸化しています。何故ならコミュニティが分断化しクラスター化されたため自分が所属しているクラスターの外に興味関心が向かなくなっているからです。外の人たちのことなんて自分に関係ない。外の人と自分を比較すらしなくなる。すっぱい葡萄とすら思わない。
ここまででも十分な説明がつけられますが、著者は「しかし」と続けます。この人の深掘りしていく姿勢は面白いですね。
「大きな資産をもてるようになるかどうかは、本人の努力次第だ」というアンケートに対して最も多く賛同するのは非大卒の若者です。大卒若者、非大卒壮年、大卒壮年と続く。
いやそれおかしくねーか? 上述したように現在は親の収入などの環境要因によって学歴に差が付きやすくなっている。ならその認識が薄い壮年層が最も賛同して、一番苦しい立場にある非大卒の若者が「そんなものは親ガチャだ!」と答えるのが自然なんじゃないか。なんでよりによって君らが努力主義に傾いているんだ? 努力じゃどうしようもない結果が君らだろ?
じつはこの意外な事実こそが、生得的属性に根ざした宿命論的人生観の影響を表しているのです。さらに、非大卒の若年層が抱えている問題の根深さを物語っているのです。
努力することで自分の未来も拓けると思っているのであれば、そこから見えてくるのは「明るくて元気で、活気と意欲に満ちた若者たち」の姿のはずでしょう。大卒より非大卒のほうが努力主義を強く内面化しているのであれば、非大卒の若者の姿はなおさらそうあるはずです。ところが実際の調査データから見えてくるのは、吉川の言葉を再び借りるなら、「拍子抜けするほどおとなしく、活気と意欲に乏しい若者たち」の姿です。しかも大卒者より非大卒者のほうがその傾向をより強く示しています。両者の印象が齟齬をきたしてしまうのは、自分も努力すれば未来が拓けると思えることと、努力することに一般的な価値を認めることとが、じつはまったく別のものだからなのです。(赤字強調は私)
教育社会学者の西田芳正によれば、現在の貧困家庭の子どもたちは、自らの境遇に対して違和感や反発を覚えることなく、むしろそれをごく自然なことのように受け入れる傾向を強めているといいます。そこでは、勉強が分からない、学校でうまくいかない、暮らしが貧しいといった不満の様相はほとんど見られず、彼らの親と同じく不安定で困難の多い生活をさほど強く自覚することもなく自らの元へ引き寄せてしまっているといいます。それだけが自分に馴染みのある見慣れた生活であるために、そこに基準を置いた予期的社会化が進んでしまうのです。
彼らは、努力することの価値はそのお題目通りに認めています。素直すぎるほど素直に受け入れ、肯定しています。しかし、だからといって努力すれば自分の未来も拓けると思っているかといえば、けっしてそんなことはないのです。そんな未来がありうるなどとは露にも思っていません。なぜなら、それだけの努力に耐えられるだけの資質や能力は、自分には備わっていないと思い込んでいるからです。自分はあらかじめそんな能力をもって生まれてきてなどいないと決めてかかっているのです。なぜなら、そんな能力もあると実感しうるような機会にこれまでほとんど恵まれてこなかったからです。そのため、一般的な価値として努力主義の効用を認め、それを自分に適用しようとすればするほど、ますます期待水準は下がっていってしまうのです。
ここに学歴による生活圏の分断化が重なってしまうと、学歴差にともなう社会的格差もまた生得的属性に由来するものと考えるようになり、ますます格差の固定化を受け入れていくことになります。それは、自分自身の生まれつきの資質に由来するものだから仕方ない、そう考えて期待水準がさらに下降していってしまうのです。こうして、格差の固定化の元凶を社会に求めていく批判的精神は封印され、「活気と意欲に乏しい若者」がこの層に増えていくことになります。
環境要因によって十分に能力を発揮することができない人々が、しかしそれ故に社会の低層に押し込まれる。そのくせ社会規範である「努力すれば報われる」は刷り込まれる。現在の自分と未来の自分を比較してその矛盾に答えを出すなら「自分には最初からそんな能力はない」となる。
これを読んだとき、真っ先に思い出したのは『執事とメイドの裏表』で書かれた人々です。
そこでは上層階級と下層階級とに厳然たる意識の差がある。「自分は女主人に目をかけてもらって、文字を書くことや計算、針仕事といった「身分に不相応な」教育をしてもらったので、それに見合う職を他の家で見つけるのは難しいと語っている」と言われても現代人の感覚ではさっぱりわからない。
でもそれは現代の私たちが「本来人間は個人個人が自由」で「努力や意志」すれば「獲得できる」と思っているからです。生まれたときからそういう世界で生きてる。でもこれが「本来人間は生得的」で努力や意志に「かかわらず」生まれ持った生き方をするのが当然だ、という世界に生まれればおそらく上述したような考え方になるのでしょう。おぼろげながらも200年前と現代は地続きなんだとちょっと思えてきました。
先に引用した「中世の再来」という話も大げさではないのかもしれません。
中世に逆戻りすることは流石にないでしょうが、100年後どうなるかはわかりません。
でも安心してください。西暦2100年頃の人口は5000万人を切るんじゃないか?という推定すら出ています。コロナ関連で出生数が減っているので現実味はある。おそらく世界人口も減るでしょう。日本だけでなく人類が衰退する。至るところに老人だけがいる。ついでに廃墟化したマンションがずらり。そういう社会が遠からず間違いなく来る。高原社会どころか下り坂の社会に変わる。今度はみんなで転げ落ちるのです。
そうなってくると現代人(100年後の人から見れば旧世紀)の私にはもはや想像の外です。でも今現在の若者はこの時代に片足を突っ込みます。今生まれた子ども達は下半身くらい埋まります。
結局人間というのは生きた時代を超越できないのです。自分が生きた時代がすべてなんだと、そこでしか生きられないんだと、その生き方しかないんだと、どこかで気づくんだと思います。水上悟志『放浪世界』収録の「虚無をゆく」はまさにそのことを追認させてくれます。私はそれを悪いことだとは思いません。人間とはそういう生き物だから。その上で幸せや安寧を求める生き物だし、それが奇妙な自己肯定と現実認識をその都度生み出してく。笑っちゃうよね。1回しかない人生がそんな運ゲーなんだから。でもやるしかないんですねー。
やれるって思ってるところが私の傲慢さであり、生きた時代であり、哲学です。結局自分の話かよ。
そうです。そのためにこういう本を読んでるんです。自分がどんな時代に生まれ、これからどんな時代になっていくのか。それでもなお背負っていかなければならない宿命とどう向き合い、やってやるのか。運ゲーでもサイコロを振る権利はあるはずだ。そういうことです。
当事者は嘘をつく(小松原織香)
○当事者は嘘をつく 小松原織香 筑摩書房
一周回ってタイトルどおりの本。
本書は性被害に遭った著者がその研究者となった経緯や経験を綴った本で、研究内容の発表というより私小説に近い内容になっている。平たく言えばめちゃくちゃ主観でごちゃごちゃと書かれていて、当事者感という意味ではタイトルに偽りがない。つまり嘘を(多分に)ついている。
1ページ目冒頭から「私は19歳のときにレイプされた」という出だしで始まるのだが、まずこれが嘘。嘘というと失礼だが、かなり盛っている。その後の説明を要約すると次のようになる。
当時付き合っていた彼氏の家に行き、同意の上でセックスをした(当然暴力も脅迫もなかった)。初めての経験で痛く苦しい思いをしたが、彼氏につれない態度を取られた。その後も付き合っていたが「ダメ人間」「社会のゴミ」と罵られるようになった……と語っている。
これをレイプ、性被害に遭ったと第三者が捉えるにはかなり無理がある。著者は性暴力被害に遭ったと繰り返し言うのだが、例えばその後も無理強いされたというような説明は無いし、トラウマになってうつ病のような状態にもなったと言うのだが、それはDV被害が要因なのでは?という気もする。もっと言うと性行為後に不調になり、それをなじるような発言を彼氏からされたのではないかと推測するがその辺の時系列が曖昧で説明されていない。つまり性行為(性被害)が直接的原因なのか、DVが原因なのか著者の言葉だけでは全く判断がつかない。
著者は嘘をついていると思う。少なくとも正確なことを書いていないし、書く気がない(本人もそう断っている)。20年前の出来事なので大半の記憶が失われているとしても、彼氏との関係が具体的にどのくらい継続したのか、どういう状況だったのかがひどく曖昧でぼやけているにも関わらず、自分は性被害者だとそこだけ強調されても聞き手(読者)には納得しにくい。周囲の理解が得られないと嘆くが、実際問題として事件性が無いし、普通の見方としては痴情のもつれとしか認識されないだろう。当時担当していた精神科医のリアクションが薄いのもおそらく同じ目線で見ていたからだ。
こう書くとセカンドレイプだとか二次被害だと言われるのかもしれないので、念のため言っておくと私は著者の主張を否定したり貶める意図はありません。本人が苦しい思いをしたんだ!というならそうなのでしょう。むしろそこにこそ当事者の混乱ぶり、曖昧さ、誤魔化し、自分に不利なことは言わない打算さを見出します。悪口に聞こえるかもしれないけど、みんなそんなもんです。自分に都合の悪いことをわざわざ言うわけがない。この本は当事者性という意味でバッチリなのです。
たぶんこの著者はプライドが高い。文章中に何度も「アイデンティティ」という語が出てくるし、登場人物を敵味方に色分けする旨の発言が何度も出てくる。要するに主語がデカい。だから研究者としての文章というより、私が~私が~という文章になってしまっている。
疾病利得というものがあります。
病気であることを逆手に取って利を得る。具体的には助成してもらったり、仕事を休んだり、できないことの言い訳に使う、といったものなんですが、著者からはこの匂いがします。性被害者であることを言い訳(盾)にしたことはない、なんてことは絶対に無いと思うんですよね(独断と偏見)。
理由や事実関係はどうあれ、ひどく自尊心が傷つけられて苦しい思いをしたことに違いはない。けどその後の選択肢はいくつもあったと思う。単純にこの彼氏はハズレだった、もっと良い男がいるはずだと切り替える選択肢だってあったでしょう。でも著者は自分が「被害者」である選択をした。20年経った今でも。
これは意図的に選択する(できる)ようなものではないかもしれないし、難しい問題でもあるんだけど「被害者」で在り続けるのは諸刃の剣です。被害者にとって最も望ましい救済は何か?の答えが難しいことと絡むのですが、その回答の一つとして「事件を忘れてしまう」があります。今が幸せならそれでいい。わざわざ過去や加害者のことを思い出す必要がなくなればそれに越したことはない。逆にいつまでも「被害者」でいるとかえってそれが本人を苦しめてしまう危険性がある。
私がこのころ苦しむようになったのは激しい怒りの感情である。「被害者」というアイデンティティを手に入れた副作用だと言ってもいいかもしれない。彼に対して「赦せない」という感情を認識してしまったがゆえに、今度はコントロールができなくなってしまった。
という著者の言に「でしょうね」と読んでいて思う。バカにしているわけではなく、当事者の言葉として説得力があるなぁと感心しています。正直私にはこのアプローチは不毛だと思えるけど、そうしてしまう(なってしまう)人の言葉として現実的に意味がある。
そこで著者は何をしたかというと、別れた彼に電話して直訴しました。あなたは酷いことをしたのだと。すると彼はすんなりそれを認めて、そのまま軽く流して別の話題を出したそうです。すると拍子抜けするとともに自分の気持ちをわかっていない!という怒りが湧いたと語っています。でしょうね。
著者は「赦し」に傾倒していくのですが、この「赦し」についても肯定的スタンスと否定的スタンスがあります。本書でも取り上げられているように、
ハーマンは、性暴力被害者はしばしば復讐のファンタジーに取り憑かれることを指摘している。被害者は加害者に復讐することで自分の力を取り戻し解放されると考えたりするが、だんだんと復讐しようとする自己像をモンスターのように感じて苦しむことになる。
さらに、ハーマンによれば、性暴力被害者は孤独な加害者との一対一関係での復讐のファンタジーから解放され、ほかの人々とともに性暴力の刑事責任を追求することを通して、正義を探究できるようになる。そして、復讐のファンタジーの対として現れるのが〈赦し〉の幻想である。
復讐のファンタジーによって憤っているサバイバーの一部は、赦しの幻想によって自分たちの怒りを迂回しようとする。このファンタジーは、その対極にある復讐のファンタジーと同様に、エンパワメントの試みである。サバイバーは、自分が怒りを超越し、自らの意志の力、つまり愛による抵抗行為によって、トラウマの影響を消し去ることができると想像する。しかしながら、愛や憎しみではトラウマを払拭することは不可能である。復讐と同様に、赦しのファンタジーはしばしば残酷な拷問になる。なぜなら、ふつうの人間には到達できないところにあるからだ。民衆の知恵は、赦しが神の領域にあることを認めている。そして、神の赦しでさえも、ほとんどの宗教の体系では無条件なものではない。真の赦しは加害者が告白、償い、修復を通してそれを求め、受けるに値するまで与えられ得ないのである。(ハーマン『心理的外傷と回復』 著者の引用)
復讐も赦しも本質的には自尊心の回復を狙ったものです。昔読んだ本で、DV被害に遭っている人が何故その相手と別れないのか説明されていたのを思い出します。DVしている側も情緒不安定で「すまなかった! もうこんなことはしない」と泣きつくことがある。そのときに赦すことで全能感が得られる共依存の関係になっている。まさにこれ。復讐も赦しも自己効力感、自尊心、自分はできる人間なんだという感覚を取り戻すための代償行為であって、赦しという言葉から感じられるかっこよさとか、聖性みたいなものは無いんです。非常に泥臭い人間的な感情に由来している。
だからトラウマを克服するために無理に赦さなくてもいい、なんなら忘れた方が良いまである、というスタンスはある意味正しいのです。無理にそこにエネルギーを使う必要はない。
ところが著者はこのスタンスに猛反発します。自助グループに属し他被害者の生の声を聞いて「魂をふれ合わせる」経験をしたこと、また加害者に直訴した経験を持つ著者にとって自らのそうした体験を否定されるような意見は受け入れられない。
なぜ、私は当事者としての活動だけではなく、研究することを望み、支援者たちと闘っていこうとするのか。
「私の腹の底には支援者に対する「わかってほしい」という心がある」
だからこそ、私は「わかってくれない支援者」の言葉に逐一、とり乱し、傷つき、怒り、反論しようとしているのだ。
しかし、かれらにわかりやすい言葉で経験を共有しようとすれば、当事者の語りの本質は失われると、直感的に理解している。その傷つきやすく、混乱している私に向けられる、支援者の善意ややさしさや愛情こそが、私(たち)の言葉を「回復」の言説に回収し、もともと秘められていた生命力を奪っていく。支援者に「わかってほしい」と思っているかぎり、私の目指す道は拓かれることがない。
私は「わかってほしい」という心を捨てて、当事者として支援者と闘わねばならない。
なんで対立してんだ?って素朴な疑問が湧くんですが、上述したようにプライドが高いんでしょうね。すぐ敵味方に色分けするし。あと何か一時期ケータイ小説にハマって、自分でも執筆してランキング2位になったこともあるそうです。その情報必要だったかと言えば、特に無いと思いますが。
話を戻して、心を捨てたその10ページほど後に「わかってほしい」から「支援者に、当事者の世界を理解させねばならない」という文章を書いているあたりが徹底してますね。当事者的な主観性で投げつけてくる。この矛盾、錯綜ぶり。まさに当事者感。
というような感じで著者の研究内容については全く頭に入ってこないのですが、当事者の非常に生々しく雑多でごっちゃりした言葉と思考が聞けるので、この点では興味深い本です。
繰り返しますが、バカにしているわけではありません。皮肉で言っているわけでもありません。むしろ著者のこういう態度は自然で普通なのだと思います。誰だって自分を否定されたくないし、自分のやり方を誇りたいし、褒められたい。その感情のままに書かれている。自分に都合悪そうなことは伏せて。
この本のタイトルは『当事者は嘘をつく』
日本の著作権はなぜこんなに厳しいのか他
◯日本の著作権はなぜこんなに厳しいのか 山田奨治 人文書院
◯音楽はどこへ消えたか? 2019改正著作権法で見えたJASRACと音楽教室問題 城所岩生 みらいパブリッシング
取り上げている本の趣旨はいずれも「日本の著作権は固すぎる!」
日本の著作権保護は業界団体のロビー活動もあって厳しく設定されています。わかりやすく罰則の重さを上げると下記のようになります。
傷害罪 15年以下の懲役又は50万円以下の罰金
窃盗罪 10年以下の懲役又は50万円以下の罰金
著作権法違反 10年以下の懲役又は1000万円以下の罰金
罰金が抜きん出てない? 法人の場合は3億円以下の罰金。民事は別。似た法律に知的財産権がありますがそちらも同じくらいの設定になっています。おそらく合わせたんでしょう。
この罰則が妥当かどうかは別にして、日本では著作権絡みで制約が多く新しいサービスが生まれにくいという現状があります。度々改正されていますが亀の歩みと言ったところ。
少し脇道に入って、マイナーかつ著作権が絡むせいでできないことの例を上げます。
テレビCMには著作権があります。管理団体の説明にもある通りCMは「映画の著作物」に属しています。つまり15秒の超短編映画。そのため著作権の期限も70年になります。
これの何が問題かというと、アーカイブ化ができません。例えば韓国やフランスではCMのアーカイブがあって誰でも見ることができます。昔のCMなんて誰が見るの?と言ってしまえばそれまでですが、通俗文化を見る上でテレビCMは歴史的資料になり得ます。時代の雰囲気、視聴者に何が受け入れられていたのか、そういったことが見えてくる。そもそもCMって見てもらうために作られたものですからね。
しかしアーカイブ化するために一つ一つ権利者に許可を取るのは現実的ではなく、また原盤も廃棄されているのが現状。
そもそも何故CMが映画の著作物として著作権を持つようになったかと言うと、制作会社の収益のためでした。
当時CMはフィルムで納品し、かつそれをテレビフィルムに一つ一つ切り貼りしていました。CMを100回流すなら100枚のフィルムを必要とし、その分の制作費を回収することができた。日本全国で流すCMであれば相当な規模になる。ところがテレビ局で1枚のフィルムを使いまわして放送する技術が開発されたため死活問題に。そこで著作権のうち複製権を侵害していると訴え、これを認めさせたのが「CMは映画の著作物」の始まりです。
こういった状況になると『日本の著作権は~』の著者が直面したように、CMに関する学術書を出版する際に引用の範囲であっても「念のために権利者に確認しておこう」というマインドが働き、やっぱり許可が下りず不十分な内容になってしまうといったことが起きる。
著作権法には「文化的所産の公正な利用に留意しつつ、著作者等の権利の保護を図り、もって文化の発展に寄与することを目的とする」と条文に書かれています。権利の保護と文化の発展が対立し、結果として不十分なサービスや新たな産業の開発に乗り遅れてしまう、といったケースが出てくるわけです。
日本で著作権というと規制や保護の観点から語られることが多いと思いますが、「こういったことで不便な思いをする」「新しいサービスが生まれにくくなる」といった視点で捉えるのも著作権を理解する手助けになるでしょう。
「新しいサービスが生まれにくい」の一例として論文剽窃検出サービスの存在があります。
以前STAP細胞が話題になったときに、論文のコピペをチェックする手段として日本の研究者がこぞってアメリカのサービスを利用しました。アメリカには学生も含めた膨大な論文を蓄積し、それを照会するサービスがあります。当然書いた本人には無許可。何故アメリカでそんなことができるのか。そのキーワードがフェアユース規定。
フェアユース規定を乱暴に説明するなら「公正で権利者に損失を与えないなら使っちゃっていいよ」規定。身近なところではYouTubeにもフェアユース規定が記載されています。以下は抜粋。
1. 利用の目的と特性(その利用が、商用か非営利の教育目的かなど)
裁判所では通常、その利用が「変形的」であるかどうか、つまり、新しい表現や意味がオリジナルのコンテンツに追加されているかどうか、あるいはオリジナルのコンテンツのコピーにすぎないかどうかという点を重視します。営利目的での利用の場合、フェアユースと見なされる可能性は低くなりますが、動画を収益化の対象にしてもフェアユースと認められるケースもあります。
2. 著作物の性質
主に事実に基づくコンテンツの利用は、完全なフィクション作品の利用に比べフェアユースであると認められる可能性が高くなります。
3. 著作権で保護されている作品全体の利用割合と、利用部分の本質性
オリジナルの作品から引用するコンテンツがごく一部である場合は、コンテンツの大半を引用する場合に比べフェアユースであると認められる可能性が高くなります。ただし、ごく一部の利用であっても、それが作品の「本質的」な部分である場合、時としてフェアユースではないと判断されることもあります。
4. 著作物の潜在的市場または価値に対する使用の影響
オリジナルの作品が受けるべき利益を損ねるような利用は、フェアユースであると認められる可能性が低くなります。ただし裁判所がパロディをフェアユースと認めることもあります。
サイトの文字列を参照して表示するネット検索サービス、論文を集めてチェックするサービスもフェアユース規定により権利者にいちいち許可を取らずに済むというわけ。著作権は守られるべきものだし、創作物に対して代価も払うべきだけど、そのために社会がガチガチに固定されても世の中は回らない。新しい産業やアイディアを促進するインセンティブを与えている、と言った感じ。
こうしてアメリカでは人が作ったものを拝借して新たなサービスを興すことが日本よりも圧倒的にしやすくなっています。実際には訴訟も起きていると思いますが、Googleのように判例を待たずに事業展開することでスピーディに時勢に乗れるのは強み(ちなみにリンク先の著者は『音楽は~』と同じ人です)。
このようなことからフェアユース規定を日本にも取り入れるべきだという意見が出されるのも当然っちゃ当然の流れ。
とはいえ、法律や権利はその国の慣習や文化を反映しているものなので、フェアユース規定を制定すれば解決するかといえばそうではないでしょう。ここで指摘されているようにアメリカではこれまで数多くの訴訟実績があり、また企業もそれを前提にした法整備、対応力があるからこそ可能となっているわけで、日本で突然フェアユースを実施しても無断使用と訴訟を大量に生み出して市場が混乱することにもなりかねません。そこはある程度慎重になるのもしょうがないと思います。どーせ審議会のメンバー構成は権利団体の人が多いし。
それはそれとして、日本人1億人もいて世界的ITサービスが生まれないのはクソ雑魚だとは思いますが。
高いところから低いところに水が流れるように、安いところで買ったものを高く売れるところで売るように、グローバル時代ではモノもサービスも世界中を回る。すると一国だけガチガチに固めても他のユルユルな国が隙間を突いて商売を始め、そして巨大化し覇権を握りそれがスタンダードになる。そういう時代ではなおのこと、法もグローバル化して行かざるを得ないのだろうと思います。
執事とメイドの裏表(新井潤美)
◯執事とメイドの裏表 ─ イギリス文化における使用人のイメージ 新井潤美 白水社
タイトルのとおり、執事やメイドなどの使用人の実態について解説した本。
主に19世紀に書かれた小説や劇などからエピソードを引いているので多分に戯画化されていますが実像に近い説明になっていると思います。ここから当時のイギリスの階級間の考え方や文化の違いが見えてきます。
日本で執事やメイドというと何故か特殊技能を持っていたり、謎の強者感があったりしますが当然ながらそんな人はいません。ただ、イギリス人のイメージとして当時から上級使用人(アッパー・サーヴァント)は勤勉で教養もあると見なされていました。むしろ主人の方が知性と教養に劣ると思われていた。なぜそんなイメージが出来上がったのかというと、
イギリスの上流階級がこれほど「知性と教養」がないイメージを強調したがるのはひとつには、彼らが土地とのつながりを大事にし、家の中で本を読んでいる暇があれば、外に出て、狩や猟をしたり、領地を見回ったりすべきだという考え方があるからである。したがって、暇さえあれば「ためになる」書物を読んで、知識や教養を身につけようとはげむのは、ジーヴズ(小説に登場する従僕)のような、上昇志向の下層階級の人々ということになる。
「知性と教養」を身につけているジーヴズは、このように、一見、主人よりも「紳士らしい」存在のようだが、その懸命な教養の追及こそが、彼の階級の人間の特徴でもあるという意味で、やはり主人のような本物の「紳士」ではないのである。
いわゆる「私服使用人」は、アッパー・サーヴァントとも呼ばれ、特別な権限や力を持っていた。ハウスキーパーと執事はそれぞれ寝室のほかに専用の居間も与えられ、アッパー・サーヴァントは朝食とお茶、夜の軽食は他の使用人とは別に、ハウスキーパーの居間でとるのが慣わしだった。こういった明らかな差別と特別扱いは、まさに、パブリック・スクールの上級生に伝統的に与えられる特権を思わせる。ともすれば監督が行き届かず、無法状態になりがちだった、19世紀のパブリック・スクールに秩序をもたらしたのが、この上級生の特権制度だが、まったく同じ発想で、使用人の世界にも厳しい上下関係が適用されたのである。
使用人の世界でもきわめて厳しい階級制度が守られているのは、こうして実社会の縮図を作りあげることによって、その中で上昇したいという願望を育てるためであり、その願望こそが、従来の階級制度を守るものなのであった。
というような厳然たる区別、差別がされているからです。
確かに昔の小説を読むと上流階級は普段遊んでいるようにしか見えません。女性は社交界、男性は狩猟。どうやってお金を稼いでいるのかと思えば領地から上がってくる地代や年金、遺産などで働いている感がない。なんなら働かないことが上流階級の証みたいな印象すらある。実際上流階級のステータスとして自分で料理を作らない(作れない)、家事育児をしない、というのがあるので庶民との生活観、文化観がまるで違うのだろうと思います。既得権益の塊みたいなものですね。のし上がって上流階級になってやるぜ!みたいなものではない。上流階級は生まれながらしにして上流階級。そんな臭いを感じますが本書は上流階級がどうやってそれを維持しているのか説明している本ではないので詳しくはわかりません。
もちろん彼らは全くの無教養なわけではなくキチンと教育を受けているので、例えば100年前のミットフォード家は没落貴族とはいえたくましく経営していたことからもその自力の高さが伺えます。
以下は使用人達の実際の姿。
・執事
最高位の使用人。かなり大規模な家ではより上位の家令が存在する(19世紀にはほぼ消えた)。
序列は下男見習い→第二下男→第一下男→下男長→執事見習い→執事(→家令)
元々は酒類の管理人で今でいうソムリエ的な仕事が主。そのため酒の知識、製造法(この時代各家庭で地酒を作っていた)に熟知しており酒好きじゃないと務まらない。主人に隠れて酒を拝借するのはご愛嬌。礼儀作法やテーブルマナー、使用人の監督や雇用も行う。基本的に下積みを経て役職に就くのでその家の番頭(マネージャー)みたいなものをイメージすればいいかもしれない。
引退後はパブ(宿経営)の主人になることが多く、ロウワ―・ミドル・クラス(中の下)にクラスアップできる。下層階級であるワーキング・クラス出身者の出世コース。
日本人やアメリカ人、なんなら現代のイギリス人すらも「従僕」とイメージがごっちゃになっていることが多い。
・下男
丁稚奉公の小間使みたいな仕事が多い。
意外にも身長の高さと外見の良さが賃金の決め手だった。要するに高身長の色男が重宝された。これは人目につくことが多く、お仕着せなどで富の顕示にもってこいだからである。そのため下男は傲慢で態度が悪いと外からは評判が悪かった。
第一下男は食事のときには給仕をし、外食の際はお供をして主人の傍に立った。よく日本人が想像する美男な執事がお嬢様の世話をあれこれとするイメージは下男のそれに近い。主人とメイドが関係を持つのと同様、女主人と下男が関係を持つのもよくフィクションのネタにされる。
従僕は後述するレイディーズ・メイドの男性版で男主人の身の回りの世話をする役職。ファッション・コーディネーターを兼ねる。立ち居振る舞いは紳士であり、主人との距離も近いことから友情が生まれることも多い。
・ハウスキーバー
女性版執事といった立ち位置でメイドの監督・雇用を担当する。
従僕、レイディーズ・メイド、料理人、庭師、乳母は執事やハウスキーバーの管轄外。
執事が酒蔵の鍵を持つことが許されているのと同様、鍵を持つことが許された役職で食料管理、家計管理が担当。優秀かつ厳しい人物であることが多く、使用人たちから恐れられた。
また配下であるメイドの管理・教育も求められる。主人がメイドに手を出そうとしたり、外の誘惑に乗ってしまわぬようメイドを守ったり、教育することがハウスキーバーの理想像とされる。いわば寄宿学校の先生の面も持ち合わせる。よく恰幅のいい口うるさいおばさんメイドが登場したりするが、これはそういうイメージを再現している。
何十人もの配下を束ねる執事とハウスキーバーに求められる実務能力は高く、だからこそ使用人でありながら個室など相応の特権が与えられた。
この役職も女性のワーキング・クラスの出世コース。独身の主人に仕えることも多く、その家の「主婦」になるようなものなので生活の質がミドル・クラスになる。
・メイド
一口にメイドといっても役職は多種多様。
最上級のレイディーズ・メイドから始まり客間付きのパーラー・メイド、子ども部屋付きのナーサリー・メイド、ハウス・メイド、ランドリー・メイド、乳牛の世話をするデアリー・メイドなどがあり、さらにその中でもアッパー、アンダー、セカンド、サードなど序列も細分化されている。
おそらく一般にメイドとしてイメージされているのはレイディーズ・メイド。この役職は言わば花形のようなもので女主人やその娘の付き人になるため服の管理(裁縫)はもちろん、会話術、見た目も重視された。ハウスキーパー同様個室が与えられた特権職である。
その反面、中年になると再就職が難しく、ハウスキーパーになれる者も少ないのでメイドの出世コースからは外れる。さりとて結婚市場でもあまり人気がなかった。気位が高いわりに料理ができなかったのが理由。
ご多分に漏れず「お手つき」が発生することが多いのだが、発覚した場合解雇されるのが通例。主人とメイドが結婚することは例外的である。解雇されると推薦状も貰えず再就職ができなくなるので実家に帰るか、救貧院に行くか、売春をするしかなかった。1867年のロンドンには8万人の娼婦がいたがその多くは元使用人だったらしい。そのためハウスキーパーが目を光らせたり、戒める文言や劇、小説が大量に作られた。
時代が下るにつれて、特に第二次世界大戦以降の使用人の数は減っていくが最後まで残ったのはメイドだった。使用人を雇うのがミドル・クラスのステータスだったこともあるが、経済的に余裕がないこのクラスではメイドを1人雇うのがやっとで、結果仕事の負担が増え劣悪な労働環境になった。
・料理人
フランス人を雇うのがステータス。アッパー・クラスおよびアッパー・ミドル・クラスの夫人は料理を作れないことがステータスシンボルだったので料理人の地位は必然的に高く引く手あまただった。特にフランス人は芸術家肌ですぐ機嫌を損ねるので家の主人だけでなくハウスキーパーや乳母などとも対立が絶えなかった。
キッチン・メイドから出世して料理人の地位に就くものも居た。
伝統的(庶民的)な家庭料理と来客用の豪華な料理を作れる料理人が重宝される。前者の料理だけを作る料理人を雇うこともある。これは国内外を問わないのだろうが、金持ちが食うスカした料理なんて口に合わねぇぜ!という感覚やイメージがあるらしく、使用人がご馳走を食べても喜ぶどころか敬遠する描写がフィクションなどで描かれやすい。また実際乳母などはこういった食事を嫌うため主人の子どもにも食べさせようとせず、金持ちの子どもなのに庶民的な食べ物が好きという現象が生まれたりする。
料理人は使用人だが、すぐれた料理人は芸術家でもある。ただし、その芸術性を発揮するのは、従来のイギリスの階級制度の外にいる、「よそ者」でなければならない。イギリスの料理がまずいという伝統が長年続いているのも、料理人に対するこのようなアンビヴァレントな態度が原因のひとつなのかもしれない。
・乳母
7歳くらまでの子どもの世話をする文字通り親代わりになる役職。母乳係は別にいる。
7歳を過ぎると男子は寄宿学校へ、女子は家庭教師などがつき乳母は解雇される。子どもからすればそれまでべったりと懐いていた親(代わり)が突然いなくなるため大変なショックを受けることもあったが、それはそういうものとして流されていた模様。ただ実際には乳母がメイドになったりと継続して雇用される場合もあった。
この乳母という役職や文化は、他人に自分の子どもの躾をやらせない(自分で躾ける)日本人にはあまり馴染みがないが欧米(とその植民地)では広く認知され、ナニー(乳母)を題材にしたドラマや躾のトレーニング番組は人気だったりする。
上述したように上流階級の親は子育てにタッチせず、子どもとの時間も限られていた(1日に1時間だけという風に厳格にスケジュール管理されていた)ので、これで親子関係が成立するものなのか、っていうかどういう親子関係なの?と思わないでもないのだが、まさにこういう生活観の隔絶が上流と下流の違いなのだろうと思う。理解できないし、理解しなくてもいい。文字通り住んでいる世界が違う。そんな印象を本書を読んでますます強めますね。
この小説は、メイドとして仕えていた女主人が病死したことを、パメラが両親に書き送る手紙から始まる。興味深いのは、手紙の冒頭でパメラが、自分は女主人に目をかけてもらって、文字を書くことや計算、針仕事といった「身分に不相応な」教育をしてもらったので、それに見合う職を他の家で見つけるのは難しいと語っていることである。そして、読み書きができるようになったからには、もはやたんなるキッチン・メイドやハウス・メイドを務めるわけにはいかないので、実家に帰って両親の負担になるしか道はないと思って嘆いているのである。いったんある程度の教育を受けてしまったら、それに見合うだけの仕事以下のものは、たとえ失業しても引き受けるわけにはいかないというのは、いささか奇妙な論理に思われるが、それほどこの時代、この階級の人間にとって、自分の階級にふさわしい以上の教育を受けるのが特別なことであったことがわかる。
一つ知った気になっても次の場面では世界観の違いに突き当たる。海外とはいえ、たかだか200年前の話なんだがなぁ。
限界マンション(米山秀隆)
◯限界マンション ―次に来る空き家問題 米山秀隆 日本経済新聞出版
誰も責任を取らない結果がこのザマだよ。
マンションに限らず近年顕著化している日本の空き家問題について論じた本。
結論としてまずマンションは今後スラム化していきます。これはもう確定事項です。コンクリートの進化などで100年保つなどと言われていますが、仮に100年保ったとしても最終的に老朽化して取り壊すことは避けられない。また、ほとんどのマンションで修繕積立金不足が起こっており100年も保守・修繕し続けることは非現実的。他にも物件がある中で築80年のマンションを買おうとする人なんていないし、元々住んでいた住人も高齢化、死亡しマンション管理そのものが維持できなくなる。
現状、建て替えしているマンションは立地などの面で優れ、建て替え後に売却益が見込めるなどの要因がある物件に限られるため、ほとんどのマンションでは建て替えは現実的ではない。
そして極めつけはマンションの解体費が無い。よって今後日本は至るところに老朽・廃墟化したマンションが建ち並び、その撤去を自治体が行わざるを得ない……という状況になります。
マンションのスラム化は日本に限った話ではありませんが、それと同時に空き家問題が深刻化するのが日本の特徴です。国土交通省でもこんな資料を作っています。
そもそもなぜ日本はこんなに空き家が多いのか。っていうか、なんでみんな持ち家にこだわるのか? 著者はその経緯についてこう述べています。
戦前は小さな家から豪邸に至るまで、さまざまなクラス向けの借家の供給市場が機能しており、人々が持ち家にこだわる必要はなかった。戦後に持ち家と借家の逆転が生じたのは、戦争で住宅ストックが圧倒的に不足する中で、物価上昇により借家経営が成り立たなくなる一方、公営住宅の供給も不足したため、自らの手で住宅を建てざるを得なくなったという要因によるものであった。
戦後は深刻な住宅不足に見舞われる中、急激なインフレが進展したが、家賃・地代の高騰を防ぐため、1946年には第三次地代家賃統制令が出された。物価高騰により借家の建設費用もまた当然上昇したが、家賃は抑制されたため、借家経営は成り立たなくなり、新たな借家供給は停止する状態となった。
このように借家が不足する中、これに代わる公営住宅の供給も不足したため、人々は自力で住宅を確保せざるを得なくなり、持ち家比率が上昇していったのが戦後の状況であった。決して人々が持ち家や土地に執着して持ち家比率が上昇していったわけではなく、持たざるを得ない状況に追い込まれたというほうが正確である。
日本お得意の戦争で金や人が足りないんで民間ぶん投げ戦法。
家を探した経験のある人なら心当たりがあると思うのですが、日本の住宅は選択肢がありません。家族で住もう、あるいはそれなりの設備の家に住もうとすると家を買うしかない。賃貸物件は総じて安普請、あるいは割高な価格設定になっている。
日本には住宅の総量規制というものがなく、建て放題。デベロッパーは分譲で売ってさっさと資金回収。賃貸の供給そのものは多いけど、その内実は余った農地の節税対策として建てられた物件も多く必然建物そのものは金がかかっていない。
そのくせ先日書いたように賃貸ですら老人お断り状態。中古物件は利便性の良い場所ならその家族が住み続けるか、あるいは取り壊して新築にして売った方が稼げる。こうした事情から現在でもまともな家に住もうとしたら分譲一戸建てorマンションを買うくらいしか選択肢がない。
多くの国では空き家率は経済状態によって上下に変動するが、日本の場合、戦後一貫して上昇し続けてきた。この背景には、戦後の住宅市場が使い捨て型の構造になったことがある。高度経済成長期の人口増加に伴う住宅不足に対応するため新築が大量供給されたが、その間に物件の質が落ち、住宅寿命が短くなった。また、市街地が外延部にまで広げられ、立地条件の良くない住宅も多く供給された。
つまり戦後は、市街地を無秩序に広げ、そこに再利用が難しい住宅が大量に建てられたが、一転して人口減少時代に入ると、条件の悪い住宅から引継ぎ手がなく、放置されるようになった。
こうした状況は海外から見ると特異である。たとえば、近年のイギリスの空き家率は3~4%、ドイツの空き家率は0~1%未満と、極めて低い水準で推移している。ヨーロッパでは、市街地とそれ以外の線引きが明確で、どこでも住宅を建てられるというわけではない。建てられる区域の中で、長持ちする住宅を建てて長く使い継いでおり、購入するのは普通、中古住宅である。アメリカも同じ考え方であるが、空き家率が近年8~10%と比較的高い水準で推移しているのは、国土の広さが関係していると考えられる。
ヨーロッパやアメリカの住宅市場では、新築と中古を合わせた全住宅取引のうち、中古の割合が70~90%程度を占めるのに対し、日本ではその比率は10%代半ばという極めて低い状態になっている。
よく日本人はものを大切にする、と言いますが家は使い捨てます。
皮肉はさておき、こういうわけで家が大量供給され続けた結果、起こるのが空き家問題。田舎の実家なんて親が死んだら使わないのだから、相続してもそのまま放置されるかいっそ相続放棄してこれまた放置されてしまうケースは増え続けるでしょう。他人事じゃないんだけどさ。
この状況はある意味、家を持っている人にとっては悪くない話です。本書も指摘していますが、先に上げたマンションも同様に家が崩壊する前に自分が死んだらその撤去は他人(自治体)になすりつけられるからです。撤去費用なんて積み立てる必要もないし、老朽・廃墟化した家をどうしようなんて心配する必要がない。家なんて自分が死ぬまでに住めればいい。死んだ後なんて知らん、と割り切れるなら問題になりません。困るのは相続人と役人、その撤去費用を税金として払うことになる市民です。
つまるところこれは国の失策でもあるのです。
人口が減るとわかっているのに後先考えず家を供給し続け、中古利用も促進せず(税制面でも新築を優遇して)放置してきたのですから。国土交通省、てめーのことだよ。
面白い案として、最終的に住宅の撤去を自治体が行うのであれば、固定資産税に予め解体費用分を上乗せして徴収すればいいのでは?という意見を著者は(無理だとわかっていて)あげています。しかし結局は何らかの税金を引き当ててでも危険性の高い空き家は解体するしかない。それ以外は放置。日本中廃墟だらけ、という素敵な景観が広がって日本のオワコン感がマシマシになりますね。
個人の家なら相続人が責任を負うでしょうが、区分所有となるマンションでは責任が分散化され、意見統一も図りにくく責任の所在が曖昧になる。100年マンション? 100年後の撤去費用どころか修繕積立金すら満足に貯められないのに?
というわけで、誰も責任を取らないので貧乏くじを引かないよう上手く立ち回りましょう。
私はぶん投げる気マンマンです。でも安心してください。資産運用が上手く行ってれば私が死ぬ頃には相当な額になっているはずですから。それでお釣りがくるでしょ。もし足りなかったらあの世に請求書を送って下さい。
環境リスク学(中西準子)
◯環境リスク学―不安の海の羅針盤 中西準子 日本評論社
20年前に書かれた本だが現在でも十二分に通用する。
というよりコロナ騒動を見る限り、ダイオキシンやBSE問題から20年経っても日本人は何も学んでいない。1ミリくらいは前進してほしいのだが。
本書は環境リスク、ひいてはリスク全般の考え方について纏められた本です。でもそれとは別に研究者のサクセスストーリーとしても読めます。
著者は日本の環境リスクの先駆け的研究を行った人で紫綬褒章を授与されています。その経歴も一曲あって、1967年に東京大学工学部都市工学科の助手として汚水処理の研究に携わることから学者人生がスタートしています。
当時は水俣病を始め公害問題は認知されていましたが、それを調査研究する技術や認識はまだ浸透していませんでした。著者が最初に調査した下水処理場もその一つで、重金属などを取り除くと謳っていましたが実際にはほぼ垂れ流し状態だったことが判明します。
その結果処理場は閉鎖され環境問題に一石を投じることになりますが、その反動で著者の研究グループは大学内で孤立する羽目に。研究費も足りず自腹は当然。研究室の学生たちもそれを覚悟でやっていたようです。さながら村八分だったと語っています。
大規模工事を推し進めたい建設省、環境に配慮したい厚生省、貴重な研究へ援助したい文部省、大学内でのパワーバランスなどが入り乱れる様は小説的。
著者の環境リスクに対するスタンスは一貫しています。
問題はリスクの大きさではなく、リスク削減のためのコストである
リスクに応じた経済的最適化。著者の主張は突き詰めるとこの一点であり、そのためのデータと解決策を提示することからじょじょにその業績が評価されていきます。
20年以上助手をやっていたのにその数年後には助教授を経て教授になったことからもこの分野が認められにくかったことが伺えます。謝辞の中で「旧文部省のどなたかよくわからない方のお陰です」「経済産業省の若い人たちのお陰です」と率直に語っていて、ちょっと笑ってしまいました。
ダイオキシンが騒がれた当時も著者は冷静にコメントしています。案の定、たくさん抗議文や脅迫状が届いたそうですが。
ちなみにダイオキシン騒動は以前の記事でも取り上げましたが、農薬に含まれていたことを発見したのが著者の研究グループだったそうです。
BSE問題にしても全頭検査の意味の無さは当時から指摘されていましたが、調べてみると2017年までやっていたようです。日本人は勤勉だなぁ(呆れ)
日本では一度基準値が決まってしまうとなかなか修正されない(過去の過ちを認めない)と著者は危惧していましたが、このザマです。はい。
リスク評価に関して日本はどちらかというとEU寄り(基準値をどーんと決めて守る)らしいのですが、アメリカでは事細かにリスクが計算されているそうです。欧州からもマニアックすぎると言われていたそうですが、アメリカの場合裁判で白黒つけるためにもリスク評価の観点が必要だったようなのです。しかも裁判官によっても判決や線引きが異なるので二転三転する。しかしそれがアメリカの良いところだと著者は言っています。それだけ議論が活発で、それが社会認識として共有化されるからでしょうね。
その裁判で著者が感激したと紹介しているものがあります。それを取り上げる著者の考えもまたここから見えてきます。
私がすごく感激した裁判の判決があります。ベトナム戦争に従軍した退役軍人が起こした、ベトナム戦争でのダイオキシンの裁判でした。裁判官は最終的に和解を勧めて、ダウケミカルという会社と退役軍人の組合が和解をします。そのときなぜ和解を勧めるかの理由を、長文にわたって裁判官が説明しているのです。その文章がすごい。その内容を紹介すると次のようになります。
このケースは非常にリスクが小さい。また、どちらも証明するのにコストがものすごくかかる。ダウケミカル側がリスクがないと完全に証明するのも大変である。退役軍人の方も、これで被害があったと証明することはできない。しかし、何らかの暴露があったことは事実である。だから、退役軍人のだれがどういう病気になってどういう補償をしろというのではなく、福祉施設のようなもので、裁判のために使うと予想されるお金の何分の一かを使った方がいい、とダウケミカルに勧告するのです。その際、だれが病気になったから補償をもらうというのではなく、福祉施設的なものを、退役軍人全体が使えるようにしろといって、和解させるのです。
それは本当に名文で、裁判官は科学がよくわかっていて、証明の限界というようなこともわかっている。数字を信用するとかしないとかではなく、この数字はどのくらい確かか、これが攻撃されたときに、どう防御できるかというところがわかっていて、なおかつ、人生の苦しみとか悲しみ、楽しみみたいなものがわかっている。これはすごいと思いました。この和解書は数百ページのものだったと思います。私が読んだのはその中の200ページ程度です。
水俣病は、45年にわたって裁判で争いました。それは、認定の問題でした。そこにももっとリスク論的な考え方があればと思いますが、日本の法律では、因果関係をはっきりさせ、ある人が病気になったら補償しなければならないとしているので、その人がどんなにメチル水銀を摂取していても一定の基準を満たす病気になっていなければ補償はない。このため、病気か病気でないかを延々と争うのです。(略)補償のための線引きは必要ですが、それ以下の人が大勢いることを踏まえて、暴露を受けた人全体が享受できるようなかたちでお金を出すとか、そういう発想はできないものでしょうか。
被害者救済に焦点を絞りすぎると逆に社会の公益性、より広い意味での被害者が救済されない。その損失もまた考慮されて然るべきではないか。もっともな意見だと思います。
冒頭でもあげたように、新型コロナは当初「感染を抑えつつ対応できる医療体制を整える」と政府は説明していました。しかしマスコミの報道や国民の不安、国の対応の右往左往ぶりからいつの間にか「ゼロコロナ」のようなゼロリスクに置き換わってしまいました。
現在コロナ陽性者数は1日数百人(重症者、死者ともにほぼゼロ)。1億2千万人いてそれなら事実上終息していると言っていい。なのにまだ毎日のように陽性者数をことさら強調して報道するこの国の人間はバカだと思います。別にバカでもいいんですけど。バカにできるから。
最近は聞かなくなりましたが、一人の命は地球より重いという言葉があります。日本の上には1億2千万人が乗っている。その人々は様々なリスクを抱え、様々な程度で苦労を抱えている。リスクというのは可視化し相対化することです。たった一つのことだけに囚われるならそれは盲目と変わらない。
タテ社会の人間関係(中根千枝)
◯タテ社会の人間関係 中根千枝 講談社現代新書
日本人なら押さえておきたいと言えるレベルの良書。
出版は1967年と50年以上前の本だが日本人の社会構造の本質をよく著していると思う。なんと言っても肝は社会構成基盤が家を始めとした「枠(場)」にあると喝破していること。
「家」というものは、生活共同体であり、農業の場合などをとれば経営体であって、それを構成する「家成員」によってできている、明確な社会集団の単位であるということである。すなわち、居住あるいは経営体という枠の設定によって構成される社会集団の一つである。
ここで重要なことは、この「家」集団内における人間関係というのが、他のあらゆる人間関係に優先して、認識されているということである。
すなわち、他家に嫁いだ血をわけた自分の娘、姉妹たちより、よそからはいってきた妻、嫁というものが比較にならないほどの重要性をもち、同じ兄弟ですら、いったん別の家を構えた場合、他家の者という認識をもち、一方、まったくの他人であった養子は、「家の者」として自己にとって、他家の兄弟よりも重要な者となる。兄弟姉妹関係の強い機能が死ぬまでつづくインドの社会などと比べて、驚くほど違っている。(赤字は私)
私が子どもの頃は江戸時代は士農工商や封建制によってガチガチに階級が固められていたように教えられた記憶がありますが、現在の研究では江戸時代でも階級チェンジは普通に可能だったことがわかっています。金銭や養子縁組、婿養子などで個人レベルでロンダリングできたんですね。
そもそも日本人の肌感覚として階級差というのが何なのかよくわからない、というのが実際のところではないでしょうか。それもそのはず、日本人にとって一番重要なのは個人のステータス(出自、階級、カーストのようなもの)ではなく、所属している組織そのものだからです。
家、大学、会社。自分を紹介するときに学校名や会社名を名乗ることは多いし、また聞き手もそれで理解することが多い。
組織(枠)に個人がまるまる抱え込まれるのが日本の社会構造。
先に挙げた引用も感覚としてわかるはずです。本家と分家の対立なんて腐るくらい聞く話でしょう。元々は兄弟だったのに家が別れてしまうと別の集団になってしまいウチとソトという風に捉え直される。『菊と刀』の著者ルース・ベネディクトも同じ指摘をしています。日本人はソトの人にめっちゃ厳しいよね、と。
これは日本の集団が単一的で閉鎖的なことと表裏一体ですが、その組織内では非常に厳格かつ柔軟な序列と保護を受けられるようになっています。だから個人に付随するステータスの影響は小さいのです。百姓の倅でも東大出たら東大だし、大企業入ったら大企業でみんな納得する。
この極端な所属意識の弊害として集団(組織)を併用できない点が上げられます。なぜなら人間関係に引っ張られるからです。人間関係が厚くなればそこで得られる便益も厚くなるのが通常です。なんで飲み会行くって、人間関係を雑にできないからです。そうなると自ずと偏っていく。
個人のステータスにほとんど意味がなく、所属している組織が最優先されるということは、日本の中間共同体の薄さに拍車をかけています。学校も会社も関係なしに付き合える場があるか? 非正規雇用者同士で団結できるか? ほとんどないし、団結もできない。それが日本社会であり日本人のメンタルです。なんなら非正規雇用者同士でマウント取り合うまである。
本書が指摘する「タテ」とは組織の影響力が強くそこでの序列や保護が強力であること、そしてその代償として組織外のヨコの繋がりがほとんど消失していることです。
このように書くと悪いかのように受け取られるかもしれませんが、本書を読んで私が感心したのは、むしろこの社会構造における柔軟性とバランスの妙です。
日本人は学校でも会社でも学年や年次を非常に気にする人達ですが、これは世間でよく言われるタテ社会を意味しません。むしろ柔軟(ルーズ)すぎて最低限年次くらいは体裁を整えておけ、くらいのレベルで運用されています。
リーダーシップにみられる上・下関係の特質は、日本によく発達している、いわゆる「稟議制」なるものによってもよくあらわれている。上の者の発想を下の者におしつけるのではなく、反対に下の者が上司に意見を具申して採ってもらう。これは官僚機構をつかって政治をやるという面にも出ているし、企業内においては、従業員の創意を活用するという点にあらわれている。
これを十分活用すれば、極端にいうと、上に立つものはバカでもいいということになる。事実、これが、年功序列体系がさして不便を来していないということにつながっている。
日本人のリーダーに協調型が望まれるのは実際の組織構造として部下を引き連れた幹部が多数存在していて、リーダーはその幹部を通じて組織を運営しているためです。上述したように日本の組織は閉鎖的ですが、その分だけ人間関係も濃密になるため偉いからといって部下を自由にこき使えるわけじゃない。お互いのメンツを立たせるといったやり方が主になる。リーダーが強権を持ちにくいことに特徴があります。
そしてこのことは部下達にとっても都合が良い。
この日本的内部構造は、他の社会のそれと比較すると、ある意味でたいへんルースにできている。すなわち、「タテ」線の機能が強く密着しているので、A-B-Cとある場合、BがAまたはCの仕事の分野に侵入しうることを容易にしている(他の社会であったら、これは非常にきびしい制裁を伴うものである)。能力のある者はつねにここで大いに羽をのばして活躍するわけである。極端な場合は、BがリーダーAを自由自在に動かすほどの活動をしたりする。
この意味で、日本のリーダーほど、部下に自由を与えうるリーダーというものは、他の社会にはちょっとないであろう。日本の組織というのは、序列を守り、人間関係をうまく保っていれば、能力に応じてどんなにでも羽をのばせるし、なまけようと思えば、どんなにでもなまけることができ、タレントも能なしも同じように養っていける性質をもっている。
この組織運営は実体験としてしっくりきます。
『日本で働くのは本当に損なのか』で論じられていた日本企業はまさにこの形です。日本の労働環境がどのような変遷を経て現在の形になったのか正確にはわかりませんが、年功序列という形態も時代の流れの中で偶然生じたというだけでなく、それまでの日本人の感覚と合致していたから採用され、より適した形で運用されたと考える方が自然だろうと思います。
このように社会構造とそこで暮らす人間の意識は密接していています。これはこれでデメリットも多いですが、他の社会にも違うメリット・デメリットがある。階級で差別されず、集団内で出世できるチャンスがあることは日本社会全体として見たときに非常に強い平等意識と待遇を提供しています(それが自己責任論に繋がるわけだけど)。
このことからも日本人の民主主義が特に欧米と異なる成立過程を辿っていると理解されます。本書が書かれた50年前、戦前、江戸時代から続く意識が如何に色濃く、それでいて空気のように日本を包んでいるかがわかりますね。
アルゴリズムの時代(ハンナ・フライ)
◯アルゴリズムの時代 機械が決定する世界をどう生きるか ハンナ・フライ 訳:森嶋マリ 文藝春秋
アルゴリズムそれ自体の解説というよりはその使われ方、人間との比較・影響を多角的に論じた本。
この手の話は往々にしてAI系技術を褒めそやしたり、人間が操られてしまうと警笛を鳴らしたりと本によって主張が偏りやすいのだが本書は中道的でバランスが良い。アルゴリズムの利便性を説きつつ、人間の側の問題も論じている。
2013年にフェイスブックは物議を醸すような実験をおこなった。68万9003人の利用者に対して、前もって知らせることも、同意を求めることもせずに、人の感情を操って、気分が変わるような投稿をニュースフィードに流すという実験だ。まずは、肯定的な言葉を含んだ友人の投稿をニュースフィードに表示しないようにした。次に、否定的な言葉を含む友人の投稿をニュースフィードに表示しないようにした。そうして、何も知らない利用者がそれぞれのケースでどのように反応するかを観察した。否定的な言葉が使われていない投稿をたくさん見せられると、ユーザーは肯定的な投稿をおこなうようになった。一方で、肯定的な言葉が使われている投稿が表示されないと、ユーザーは否定的な言葉を使って投稿するようになった。それはどういうことかといえば、そう簡単には心を操られないと思っていても、実際にはそうではないというわけだ。
(中略)
つまり、そういった方法が買い物はもちろん、選挙の投票にも大きな影響を及ぼすのはまちがいない。とはいえ、最終的な結論を出す前に、もうひとつ知っておいてほしいことがある。
これまでに挙げた例はすべて事実だが、その影響はごく少ない。フェイスブックの実験では、否定的な投稿が表示されなかったユーザーのほうが、肯定的な投稿をしたが、その差は0.1%以下だ。
ターゲット広告も、内向的な人の性格に合わせた広告を表示させたほうが、商品が売れたが、その差はごくわずかだ。全員に同じ広告を表示した場合、1000人中31人が広告をクリックし、ターゲット広告では1000人中35人だった。学術論文の冒頭には50%増と書かれているが、実際にはクリック率が1000人中11人から16人に増えたということだ。
効果があるのはまちがいない。だが、ターゲット広告のメッセージを、冷静な人々が鵜呑みにすることはない。人はそう簡単には操られない。そういったメッセージを送ってくる人たちが考えているよりも、人は広告を無視したり、プロパガンダに自分なりの解釈をくわえたりするものなのだ。
アルゴリズム、人間ともに長所と限界がある。決してアルゴリズムは万能な預言書じゃない。
元技術職として実感を伴って思うのは、アルゴリズムや高度な計算ソフトが作られると楽になる反面、思わぬ落とし穴にはまり込む可能性があること。
ディープ・ラーニングもそうなのだが、この手の技術の難しいところは中身がブラック・ボックス化して何故そう判断したのかAI自身が説明してくれないし説明できない点。統計的に正確かもしれないけど絶対ではない。その顕著な例として裁判への応用がある。
アルゴリズムを量刑の判断材料にしている国がある。また、様々な研究からアルゴリズムの方が裁判官より正確に分析できるという結果も得られている(というより裁判官の判断にバラツキがありすぎる。何なら同じ人でも午前か午後かで判断が異なる)。
じゃあアルゴリズム(極論するとAI)に全て判断させればいいのか? そうとも言えない。
例えば再犯リスクの中に年齢が加味されている場合、ちょっとヘンなことが起きる。本書で紹介されている事例として、19歳の男性が14歳の少女と合意の上で性交し結局強姦罪で捕まったケースがある。アルゴリズムの判定では再犯リスクが高いため通常より重い量刑となった。ところがもしこの男性が36歳だったら再犯リスクが下がるのだ。したがって量刑も下がる方向になる。36歳が14歳と性交した方が刑が軽くなると聞いたら普通は「何言ってんだおめー?」だろう(もちろんそれだけが判断材料ではないだろうが)。
アルゴリズム…というよりツール全般に言えることだけど、内部でどのように処理(計算)されてその結果が得られたのか。可視化されていれば「このケースではここの評価点はあまり重要じゃない」という具合に補正することができる。しかし見る人間がそのツールの中身や本質を理解していないと誤った計算から誤った判断が下される。
この論文で指摘されているとおり。「アルゴリズムが導いた評価を「疑う」能力が裁判官に欠如しているとすれば,この「是正」は期待できない。この点で,システム開発者には,再犯予測アルゴリズムが実際にどのようなデータ(インプットデータ)を使い,どのような計算式によって評価を導いているのかについて一定の説明責任(アカウンタビリティ)が求められるように思われる」(3.2 再犯予測アルゴリズムの偏見)
※アルゴリズムは既存の情報をもとにデータベースを作る。黒人の方が犯罪率や再犯率が高いのは事実としてあるが、だからといって黒人だから刑を重くするのはおかしい。なんなら全犯罪者に占める男女比は男性が多いのだから男性犯罪者は一律刑を重くすると言われるのと同じ。アルゴリズムによって裁くと現実社会の歪みが増幅しかねないという懸念がある。
アルゴリズムはツールの一つであって、その使い方、限界を理解していなければ意味がない。一方で人間の判断もまた曖昧でミスも多い。だからケース・バイ・ケース。人間はミスするけど機械はミスしないならそれは機械に任せる。機械がミスする可能性があるなら人間が総合的に判断する。ツールがあれば便利になるけど、その分だけ人間も賢くならないと使いこなせない。
技術の進歩によって遠くない将来”ほぼ完璧”なアルゴリズムが完成するかもしれない。そのとき人間は正しく判断できるのか、正しい行動がとれるのか。アルゴリズムが賢くなることは人間がバカになることと表裏一体。
本書はこの他マーケティング、医療、自動車、犯罪、顔認証など様々な事例が取り上げられているので入門書にうってつけ。
余談だが、イグノーベル賞にゴリラを見逃してしまう実験がある。同様にCTスキャンにゴリラを紛れ込ませた実験が紹介されている。当然大半の医者は見逃した(人間は選択的集中をするとその他の認識が弱まる)。どんだけゴリラ大好きなんだよ。
また、生活様式がほぼ均一な修道女が書いた日記と寿命を比較してポジティブな人ほど長生きしやすいという研究がある。同様に修道女の脳を使ったアルツハイマー病の研究がある。これも若い頃に書かれた日記と比較したところ言語能力(作文力)が低いほど認知症になるケースが多かったという相関関係が得られている。修道女便利だなぁ。
Humankind 希望の歴史(ルトガー・ブレグマン)
◯Humankind 希望の歴史(上) ルトガー・ブレグマン 訳:野中香方子 文藝春秋
人間は人間が思ってるほど性悪な生き物じゃないよ、と色々な事例を並べ立てて書いた本。
上巻だけ読んだが、全体的に切り貼りというか「ああ、この本から持ってきたな」とわかるくらい知っている内容がポンポン出てくるので下巻はパスした。
全く関係ない例を出すと、ベーシック・インカムのアンケートで「実施されたらみんな仕事を辞めると思いますか?」的な質問をすると大抵の人が「(自分は辞めないけど)みんな辞めると思う」と答えるそうだ。自分は辞めないけど他人は仕事を辞めて怠けると思うんだろうね。
お前が辞めないなら他人も辞めねーよ。
つまりそういうこと。
人間はこんなに残酷だ!とセンセーショナルにかき立てたり、心理学者が謎の実験をやったりするけど、現実見ろって。なんで人間こんなに増えてんだよ。
閑話休題。
別な本で家畜化すると脳が小さくなるという話を読んだことがある。
また、別な本ではネアンデルタール人の方がホモ・サピエンスよりも脳が大きく身体も強かったという話を読んだことがある。ネアンデルタール人は発声が上手くできなくてより連携が取れるサピエンス種が有利取れたとか何とか。
この2つは統合できるらしい。
チャールズ・ダーウィンはすでに100年前に、ブタやウサギやヒツジなどの家畜にはいくつか注目すべき類似点があることを指摘していた。まず、それらは野生の祖先より体が小さい。また、脳と歯も野生の祖先より小さく、多くの場合、耳は垂れ、尾はくるりと巻き上がり、毛皮にはまだら模様がある。そして、おそらく最も興味深いのは、生涯にわたって幼く、可愛らしく見えることだ。
それについて、ベリャーエフは過激な仮説を立てた。こうした可愛らしい特徴は、農民が選択したのではなく、何か別なものの副産物にすぎないのではないか。つまり、それらの特徴は、動物が長い期間、ある性質ゆえに選択されつづけた結果、生まれたのだ、と彼は考えたのだ。
その性質とは? 人懐っこさだ。
実際にベリャーエフ氏はギンギツネを使って実証したそうです。この種は凶暴で人に懐かないんだけど、その中から「人懐っこい」要素だけを選択基準にして交配させ続けた結果、上記のような家畜の特徴が見られるようになったそうです。そしてこれは人間にも言える。
2014年、アメリカ人のチームが過去20万年の間に、人間の頭骨がどのように変化したかを調べて、一つのパターンを突き止めた。その長い年月の間に、人間の顔と体は、より柔和で、より若々しく、より女性的になった。脳は少なくとも10パーセント小さくなり、歯と顎骨は、発生生物学の用語を使えば、幼体成熟(おとなになっても幼体の特徴を保つこと)した。簡単に言えば、子どものようになったのである。
人間が一番家畜化されていた、ってわけ。
人の真似をし、学習し、それをまた人に伝えていく。その社会性が何より人間の武器になった。協力プレー無双。だから脳が小さくなってバカになったとしても賢いことが成り立つ。不要な部分が減って最適化された結果なんだろうけど。
こういうわけで現在の人間はそもそも本質的に人懐っこい。だから乱暴なことや悪いことをさせようとしても実際には難しいし、反発感も強い。そりゃそうだ。「あいつを殴れ!」「盗め!」とか言うやつの方が嫌悪対象になる。だからひと手間工夫する必要がある。
つまりこういうことだ十分強くプッシュしたり、しつこく突いたり、うまく誘ったり、操作したりすると、多くの人に悪事を行わせることができる。しかし、悪は心の深みに潜んでいるので、引き出すには、相当な労力が要る。そして、ここが肝心なのだが、悪事を行わせるには、それを善行であるかのように偽装しなければならない。地獄への道は、偽りの善意で舗装されているのだ。
ネット炎上とかそうだけど「正義にもとる!」と思った人ほど過激な行動に出たり口撃が激しかったりする。最近だと環境とかエコとかその辺をお題目にしてやれば多くの人が自らの善意で地球をより壊してくれるでしょう。
人間は賢いね。
野ブタ。をプロデュース(白岩玄)
◯野ブタ。をプロデュース 白岩玄 河出書房新社
ドラマ化されたこともあるので知っている人も多いでしょう。私は読むまで内容知りませんでした。
桐谷修二はクラスの人気者。男子からも女子からも注目され、彼がいれば必ず会話が弾み笑いが起こる。しかし実は全て計算されたもの。「桐谷修二」は彼にとって着ぐるみなのだ。
そんな折、転入生として小谷信太がやってくる。見た目がキモい。デブ。「しんた」ではなく「のぶた=野ブタ」の間違いではないのか。案の定クラスからハブられ、いじめを受けてしまう。
ひょんなことから野ブタを助けることになった修二は彼をプロデュースすることを思いつく。自分の力を発揮するちょうどいい機会を得た修二は様々な作戦を思いつき、野ブタを人気者へと押し上げていく……
ドラマ化されただけあって中身はいい意味で軽快でわかりやすくクセもない。それでいて人によっては突き刺さるだろうと思う。
本書が出版されたのは2004年で、時代性を上手く切り取れていると思う。というのも土井隆義著『キャラ化する/される子どもたち』が出版されたのは2009年。子ども達がコミュニケーションのためのコミュニケーションを行っている様子が認知されるようになったのもこの頃だからです。
周囲から逸脱せず、周囲の期待に答え、心地良い会話とネタを提供するコミュニケーション。徹底的に空気を読み、戯画化・簡略化されたキャラによってスムーズにボケ・ツッコミをこなし人間関係の摩擦係数を限りなくゼロにする。既知的で安定的な関係。
主人公桐谷修二は見事にそれをやってのける。
この距離感、居心地がいいんだ。遠過ぎたら寂しいし、近過ぎたらうっとうしい。適当に笑わしておけば波風立たないし、誰にも嫌われない。むしろ好かれることのほうが多いし、いろいろ得することだってある。自分が他人と合わないからって1人の世界を作ってしまう奴。そんな奴は弱過ぎる。
俺が欲しいのは適度な愛情だ。どうやったって消えはしない寂しさと虚しさを仮に埋めるだけの薄っぺらい愛情だ。だから誰も俺の中に入ってこなくていい。どうせ孤独は埋まらないんだ。愛してるって抱きしめたって、抱きしめられたって何一つわかりやしない。いつだって疲れて、虚しさに苛まれるだけだ。
いい感じにこじらせてますね。
多少極端なところがあるとはいえ、彼の行動や思考に共感できる部分も多い。例えば私は彼の言う「弱過ぎる奴」ですが、他人を自分の近くに置かないために逆に社交的になります。口数も多くフレンドリーに話す。けど絶対に親しくならない。一定の距離を絶対に保つ。いわば防御のためのコミュ力。これのメリットは自分の影響力(発言力)をある程度キープして、必要に応じて使える点。嫌なことだったら断るし、是非・可否について自分の意見を言う(ねじ込む)ことができる。
まあ、単に言いたいこと言ってるだけなんだけど、こうした言動は意識される部分もあるが勝手にそうなっている部分も多い。身に付いた処世術であり所作だから。
演技性パーソナリティはこの手のエキスパートでしょう。話題を作り、注目を集め、言葉巧みに人を操作する。主人公はこの気があります。意識的に人を操作・誘導している。こっちは完全に攻めのコミュ力。そうやって周囲を演出し自分を魅力的に見せることに喜びを感じる。
主人公の独白、その行動から見て取れるのは空虚感を埋めたり、人間関係の煩雑さを避けるために自分を演じているのではなく、演じることが目的化しているがために人間関係そのものが形骸化していることです。一見すると寂しさを埋めるために演じているように見える(本人もそのように説明している)けど、こいつ絶対演じることを楽しんでる。それしか楽しめないから他が雑になってるだけ。人に見られているときにだけ本気を出すのが何よりの証拠。そりゃ楽しいだろうよ。周囲が自分が思ったように反応するんだから。普通の人間がいじめられっ子を人気者に仕立て上げようなんて考えるかよ。観客の目と口と手を自在に操れるパフォーマー。
時代のニーズ的に彼のような社交的で口が上手い人は人気が出る。自分を「こういうキャラ」と思わせるのが上手い。それはこちらの対人コストを引き下げてくれるし魅力的にも見える。
上述したように現代はコミュ力が重視される時代なので少なからずこういったスキル、処世術は用いられるのでやや極端とはいえ本作が提示する「演じられたキャラ」「作られた人気」は時代性を捉えていると思う。誰にでも心当たりあるよね、と。
当然の結果として主人公が「演じられたキャラ」だとバレてしまうんですが、ぶっちゃけこういう人って周囲から薄々感づかれています。「こいつ口先だけだな」って。何故なら常に「演じる」ことが目的化しているから。その演じている内容も突き詰めれば「私を見て」だから。でも周囲は気づいていないように演技している。空気読んでいるから。実害が無い限りスルーする。
人間って複雑だけど単純でもあって、好きなことってやりたいじゃないですか。なんならずっとそれをやっていたい。その好きなことっていうのがその人間の本質に近いことがある。私であれば孤独でいたい。だから1人でいることを好むしその時間も長い。
同じようにキャラを演じる人はキャラを演じることそのものが好きなんだと思う。孤独を埋めるため? 違うでしょ、君は演じるのが好きなんだよね? 演じるのが好きなあまりそれ以外に充実感を得られないんだよね? あなたにとって他者は自分を魅力的に見せるための観衆でしかないんだよね? そんな風に思えるのだ。正体がバレた主人公がそれでも演じることを止められないように。それは(動物的なという意味での)習性だからだ。
正しいかは知りません。演技性パーソナリティの知り合いいないので。
・追記
以下の指摘は本作主人公の心性と一致している。
何ゆえこのような行動を取るのかについて、これまでの臨床経験では、行動の背後に「心内の空っぽ感」があるからだとする。「空っぽ」というのは、本当の自分の姿を心の奥深く隠してしまっていることに由来する感覚である。換言すれば、自分の真の姿に向き合うことができずにいるということになる。そうした心内の事情は、内的な自分を感じ取り、あるいは観察することができないと同時に、周囲の状況に立ち向かうこともできなくしている。(略)演技性の人の大仰な感情表現には「浅薄さ」がつきまとうといわれるのは、この内面的な現実に由来している。(牛島定信『パーソナリティ障害とは何か』)
私なりの解釈ではおそらく「空っぽ感」と「演技」は癒着している。シゾイドにとって「呑み込まれ不安」を回避するために「孤独でいること(孤独が好き)」が同時的に両立しているように。自己の内面が見えない(向き合えない)が故に表面的な付き合いや装飾によって紛らわせているし、またそれによって自己の安定化を図っているのだろうと思う。
言い換えれば、シゾイドにとって他人と仲良くやるくらいなら1人で居た方がずっと楽なように、演技性は自分の内面に向き合うくらいなら華々しく盛った自分を演出する方がずっと楽なのだ。
「コミュ障」の社会学(貴戸理恵)
◯「コミュ障」の社会学 貴戸理恵 青土社
彼ら・彼女ら(注:大学生)は、「社会環境を変えていじめをなくす」ということに、夢や希望を抱いていない。社会環境を所与として受け入れたうえで、自分の能力と努力で何とかこの不確かな社会を泳ぎ抜くしかない、と考えている。そのように、「問題あるこの社会」と「人生に対する態度」を切り離していまえば、「諦め」「絶望」といった陰影はぬぐい去られ、「今この状況でできる精一杯のことをやろう」と思える。そのように「前向き」になって初めて、過酷な就職活動の荒波に乗り出していける、という現実がある。
「問題あるこの社会」と「人生に対する態度」を切り離すとは、「社会に問題があるのはもう仕方がない、そのうえで何とか勝ち残れる方法を探すしかない、そして負ければ自己責任」ということだ。こうした態度のもとでは、失敗をすべて「自己責任」で引き受けざるを得なくなり、長期的には本人が追い詰められてしまう。さらに、こうした態度をとる人が増えれば、「よりよい社会」を設計するための基盤が薄くなってしまう。
既にその兆候はある。朝日新聞とベネッセの共同調査によれば、「高所得の家庭の子ほどよい教育を受けられる」という現状を、是認する保護者が増えているという。格差を「問題だ」と見なす人は、2008年の53.5%から、2012年には39.1%、2018年には34.3%となり、年々少数になっている。不平等が「常識」になってしまえば、問題の改善は見込めない。
子ども・若者のリアリティに根差しながら、個々の「生きづらさ」を、いかに関係性や社会へとつなげていくことができるか。大きな課題である。
こうやって奴隷が奴隷として飼いならされていくの面白いですよね(クズ並感)
コミュ障と銘打っているけど中身は不登校を主題にした本。各章が書かれた時期が異なるため繋がりが悪く読み物としては洗練されていない。あと著者が女性だからか、女性差別(あるいはハンデ)をほのめかした文章がチラホラと出てくるのだけど具体的にどう不利なのか説明されないのでモヤる。
それはそれとして、かつては不登校が病的なもの、非社会的なものとして矯正の対象となっていましたが現在では公的にも容認されるようになっています。
不登校はたまに話題になることはあってもそこまで世間の関心を集める事象でなくなっている。むしろ「自己責任」として個人リスクの観点で見られることが多い。一時期は社会問題として扱われたのに、なぜ個人の問題として認識されてしまうのか?
それは現代のリスクが分散化していることにあります。不登校が社会問題になった時期はまだ良い学校→良い会社というレールが存在していましたが、現在では非正規雇用やリストラなど雇用そのものが不安定になり学歴に関わらず落伍してしまう可能性が増えた。同じように男女差別も男だから有利、女だから不利というわけではなくなっていること、最近ではマイノリティ問題など様々なケースが表面化するようになり、誰でも落伍者になり得るし、落伍者が一律にこういう人たちだとも言えなくなったことがあげられます。
要するにみんな生きづらさを抱えている。それぞれの生きづらさは個人リスクとして捉えられ、それぞれで生存戦略を考えろ、考えた方が早いよねって話になっているわけですね。
ついでに言うと、生きづらさを訴えるにしてもどこに、どうやって訴えればいいの?という問題があります。中間共同体がないので意見をすくってくれる場所や組織がない。ネットで「拡散希望」とハッシュタグ付けて打ち込めばいいのか? 社会を変えようにも変える方法がわからないし、そんなことに時間と労力を費やすならES書いて面接の練習やってた方が勝率が上がる。
自営業も減り農業従事者も減った。昔であればサラリーマンに向かない人はそこで吸収できたかもしれないけど現在はそれもままならない。労働環境も悪く仕事を選べないし選べる仕事もない。
ということを踏まえて思うのは、じゃあ、どういうルールなら勝てるの?
不登校になってひきこもりを何年も続けた人が楽にやれる仕事って何? そんな仕事ならみんなやりたがるんじゃない?(競争倍率が上がる)
発達障害にしてもその他マイノリティの問題にしても、どうなればあんた勝てるの?(望んだ生き方ができるの?) そのビジョンってあるの?
これは本書でも指摘がされていて、生きづらさを抱えている人が明確にその理由を上げられるかと言えばそういうわけでもない。何かわからないけど学校に行けない。仕事が上手くいかない。人間関係が上手くいかない。その理由を本人がわかっていないことも多い。またそのことに向き合わないことも多い。
自分が無能だと突きつけられたくないからわざと手を抜いたり、途中で逃げたり、全力を出さない(出せない)人がいる。神経過敏で雑音が気になることを自覚しないまま仕事で失敗する人がいる。そのことに後になって気づく。
自分の人生なんだから、自分で攻略法見つけたらいいじゃん。
自分の人生に対して責任を取れるのは自分しかいない。誰も他人の責任なんて取らない。俺は取らない。あんたも取りたくないでしょう? そういうこと。
不登校だろうと、仕事ができなかろうと、その他諸々なんでもいいけど、自分の人生どうしたいかは自分しか知りようがない。自分がどういう人間で、どういう方法なら満足して、そこに至るにはどうすればいいかなんて他人が知るわけない。
自分の処方箋、自分の攻略本は自分で書くしかない。もちろん一朝一夕で書けるもんじゃない。私であれば10代後半から20代前半にかけて四苦八苦した。でもそのおかげもあって自分なりの攻略法ができた。
私が勝てるルール「無職」
仕事が面倒なので辞めました。逃げました。責任なんて負いたくない。人間関係なんて薄くていい。1人で居たい。好きなことだけやっていたい。この全てを満たすのが無職。はい、クズです。社会不適合者です。でも別に生きづらくはないです。自分が生きやすいルールを作ったから。高校を卒業してから18年半かかったけどね。
10代や20代の頃に悩んだり、立ち止まったりすることはしょうがないと思う。そういう時期があるし、そういう時期だからこそ悩めることもある。その結果自分がどうしようもないクズだと気づいて自尊心を傷つけることだってある。
でもね、そこで自分を捨てるわけにはいかないんだよ。そのクズでやるしかない。自分という人間をちゃんと理解して、自分が望むものを見つけて、それを実現する方法を編みだす。それができるのは自分だけだし、そのための時間が人生にはあると思ってる。
私のプリキュアの感想はその断片です。何を言っているのかわからないかもしれないけど、私にとってはそうなのです。最初からそういうつもりで書いてたわけじゃないけどいつしかそうなった。そういう成り行きや偶然もある。人には理解できないやり方でもいい。どーせ自分だけの処方箋なんだから。
いい歳こいたおっさんが「はー人生くそ」「親ガチャ失敗だわ」「何の希望も見いだせねぇ」とか言ってたらカッコ悪い。何のためにその歳まで生きてきたんだ。おっさんになってまで文句垂れるしかできねーのかよってなるじゃん。
自分を誇りたい。プライドを守りたい。マウントを取りたい。幸せになりたい。じゃあやろうぜ。
こういうことは単純でいいと思うね。
レアメタルの地政学/資源の世界地図
◯レアメタルの地政学 資源ナショナリズムのゆくえ ギヨーム・ピトロン 訳:児玉しおり 原書房
◯資源の世界地図 飛田 雅則 日本経済新聞出版
要約すると↑の解説動画のとおり。この動画を見て興味が湧いたので本を読みました。
脱炭素社会が叫ばれる昨今ですが、その肝となるのは再生可能エネルギー。またそれを利用した電気自動車などで、これは石油エネルギーからの脱却を柱としています。二酸化炭素を減らし地球温暖化を食い止め、環境保護にも適したクリーンな社会。やったね!
……ってならないんだよなぁ。
再生可能エネルギーや電気自動車、高度な情報処理装置を作るために必要不可欠なのがレアアース。
あまり知られていませんが、現在この資源を牛耳っているのは中国です。このため価格・供給・技術力・安全保障の観点から警戒感が強まっています。これまで中東情勢が大きな関心事になっていましたが、エネルギー転換によって今後は中国が中心になっていくと考えられます。
シェールガスの開発でアメリカはサウジを超える産油国となっており、相対的にアラブ諸国の影響力は低下。石油価格も市場原理が強く石油の供給を通じて政治的・経済的に操作することも困難。こうした背景もあって中東情勢はより不安定になっています。
サウジなどアラブ諸国では、国民は政治への参加を大幅に制限される代わりに、国家が医療や教育、生活の安全など人々の生活の面倒を見てきました。国を率いるのは世襲制の国王や首長が多く、選挙すらない国も多くあります。エジプトなどでは軍出身の強権的な大統領が統治をしています。強い父親のようなリーダーが引っ張る国家が、国民を我が子のように大切に守るという、アラブの伝統にも合っているとも言えます。この仕組みを資金面で支えてきた源泉は、石油や天然ガスの輸出収入でした。エジプトなど非産油国はスエズ運河の通行料や、サウジなど産油国からの援助が統治を支えてきたのです。
しかし、原油価格の下落に伴う福祉削減や増税といった国家の方針転換によって、負担が増加した国民は戸惑っているのです。人々は「税金を支払っているのだから、政治に自分たちの意見が反映されないのはおかしい。政治に参加させろ」と言い出しかねない可能性が出ているのです。(『資源の世界地図』)
さて、レアアースに関してですがおそらく一般には「地中に埋まっている希少金属」程度の認識だと思います。私もそう思っていました。これ実際は結構厄介な鉱物です。
レアアースは鉱石の中に複数の種類の元素が混じっており、個々の元素を分離するには高い技術力やコストが必要なのです。分離や精錬のプロセスで環境被害をもたらす可能性があります。さらにレアアースの鉱石には放射性元素であるトリウムなどが含まれていることがあるため、分離にあたる作業員が被爆してしまう恐れさえあります。(『資源の世界地図』)
地殻から鉱物を採掘することは、それ自体が汚染を生じる活動だ。ブラックスミス研究所の最近の報告書によると、鉱業は世界で2番目に汚染の多い産業である。前回2013年の調査からワンランク上がった。世界中でやめようとしている石油化学産業はそのランクの10位にも入っていない。(『レアメタルの地政学』)
大量の水を使い、大量の汚水がでる。大量に採掘するから地球を削りまくる。レアアースとは環境破壊によって得られる物質です。
中国が優位性を持っているのは、レアアースを産出する鉱床を持っていると同時に、環境規制が緩いために格安で精錬できるため価格競争で他国が勝てないからです。
いわゆるエネルギー問題や環境問題に関する話を聞いても眉唾だと思うのは、システム全体で本当にエコなの?という疑問が残るからです。
「クリーン」といわれるエネルギーは、採掘がまったく「クリーン」とは言えないレアメタルを必要とする。むしろ、環境保護面から言うと、重金属の廃棄、酸性雨、水汚染などと紙一重なのだ。別の言い方をすれば、クリーンにするために汚している。
化石燃料への依存度を減らすことを可能とするため「脱炭素エネルギー」とも呼ばれる再生可能エネルギーは、実際には温室効果ガスを排出する活動に依拠している。鉱山採掘、金属精錬、その金属を風力発電機やソーラーパネルに利用するために発電所へ輸送するのに、膨大なエネルギーを必要とする。
この観点からすると、エネルギー転換とデジタル転換は最も裕福な社会階層のためのものである。金持ちの都市圏の汚染をなくし、実際の環境負荷を貧しく人目につかない地域に負わせる。問題あると知らなかったら行動しようもないだろう。われわれの新たなエネルギー・モデルは非常に有害である。脱炭素経済の関係者は、自分たちが環境を汚染していることを否定できないのと同様、新たな「グリーン経済」も自ら汚染しつつ、次世代への責任を云々する倫理的な主張の陰に隠れているのである。(『レアメタルの地政学』)
自分の家のゴミを隣の家に投げ捨てて「ヨシ、綺麗になった」と言っているようなもの。
・二酸化炭素が温暖化の原因だから化石燃料を減らして再生可能エネルギーや電気自動車を普及させよう。
・それを生み出すには別の資源を使う。
・その資源を使うために地球を掘削して環境を汚染する。
やっていることはそういうことです。
いや、でも一度作ってしまえばクリーンなんじゃないか? これについても例えば電気自動車であればライフサイクル(製造から運用)を考慮すると結局ほとんどガソリン車と大差ないんじゃないか?という調査・指摘がされています。風力発電しても他の発電方法と比べたときに同じ電気を作り出すために必要な資源が何十倍もかかる。
太陽光にしても廃棄コストや廃棄にかかる環境負荷に関してまともに検討されてないのが実態。
そうなると、問題になるのはレアアースの埋蔵量はどうなのか?
これも使用ペースが年々増加していることを鑑みるとモノによってはあと数十年というものもある。あくまで採算が取れる埋蔵量なので技術力の向上や採算性の変化で増減するけど、採掘しにくくなればそれだけ余分なエネルギーを使って採掘することになり、エネルギーを得るためにエネルギーを使って、環境汚染を広げるという構図が深刻化する。
リサイクルしようにも現在のレアアースのリサイクル率は1%前後。電子製品をかき集めて、一個一個分解して、合金加工された物質を分離・生成して……採算が合わない。
結局、石油資源の問題をレアアースに置き換えただけ。
石油を掘り起こさない代わりにレアアースを掘り起こす。二酸化炭素排出が減るかわからないけど、掘り起こす過程で放射性物質による汚染や汚水は排出される。現代文明は地球を破壊して汚染することでしか持続させることができない。
その事実を隠蔽しているのか、知らないふりをしているのか、単に無知なのか、それで「エコ」「クリーン」とのたまう。二酸化炭素を出さなければ地球がどれだけ汚染されても構わない。数十年後レアアースを掘り尽くすかもしれないけど、そんなこと別にどうでもいい。狂気を感じるよね。
資本主義社会においてエコやクリーンなんてものは存在しない。身近な例で言えばレジ袋が有料化されてマイバッグが推奨されているけど、店頭に並んだマイバッグを見ると何が環境に良いのかまるでわからない。そのマイバッグは在庫が無くなるまで売り続けるのか? 違うだろう。そのうち処分されて別な新製品が並ぶ。余計に資源使ってるんじゃないの?
環境保護、エコというならレジ袋使いまわそうでいいじゃん。それがなんで新製品買って使おうになるんだ? 環境保護を訴えながら消費者の志向は消費型から脱却しないどころか悪化している。
10年ほど前にエコポイントが実施されたとき、トヨタのCMで「エコだから買い換えよう」というのがあった。露骨だよね。でも資本主義ってそうなんだよ。モノ作って売らなきゃ生活できないんだから。
海のゴミの大半は漁具という調査結果がある(海域によっても違う)。つまり漁師は海洋生物を大量に殺して、海を汚染している。それが指摘されることはほとんどない。これが海底資源を掘るとなると環境への影響が~と散々言われるだろう。
要は人間というのは近視眼的で自分の庭が綺麗であれば、隣の家がそのために汚れていても気にしないのだ。その程度の視野と想像力しかない。それが悪いとは言わない。私だって現代文明と資本主義にどっぷり浸かってるんだから。
でもだからって人の話をホイホイ真に受ける気はない。環境に良いと言いながら(思いながら)環境をさらに悪くする。そんな茶番に付き合わないためにも勉強は必要ですね。
9.11後の現代史(酒井啓子)
◯9.11後の現代史 酒井啓子 講談社現代新書
近年はテロ=イスラム主義というイメージが定着していますが、実はイスラム系のテロや事件は元来そこまで多いものではなく、ある事件をキッカケに急増しています。それがイラク戦争。知ってた。
この背景や経緯について様々な角度(各国の情勢)で論じたのが本書。
情報密度が高く、また複雑なので私が理解できる範囲で要点を絞りながらピックアップしています。
◯イスラム諸国の政治体制
この地域は長らくオスマン帝国として君臨していました。現在は西欧・白人主義ですが以前はオスマン最強であの地域をイスラムが牛耳っていたのでアジアとの取引が直接できず航路を使って大回りしていたわけ。が、その最強帝国も盛者必衰、第一次世界大戦の頃にはボコボコにされサイクス・ピコ協定によって分割、あげくヨーロッパ人が勝手に差別して冷遇していたユダヤ人を押し付けられる(イスラエル建国)という散々な目に遭います。
イスラム諸国は国民国家の民主主義にベースがあるわけではなく、カリフ制と呼ばれるような一種の王政、有力な氏族によって統治される体制が主流。
そんなわけで西欧への不満と、長期的で独占的な政治体制への不満が蓄積していました。
◯アルカイダとIS
事の起こりは1979年のソ連によるアフガニスタン侵攻。
アフガニスタンの内紛で共産主義を掲げていた人民民主党がソ連に支援を求めたのがキッカケ。冷戦下のアメリカは当然対抗措置をとり周辺諸国を支援。サウジアラビアやパキスタン協力のもと、軍事訓練を受けた武装勢力を作り上げる。
この武装勢力の中にビン・ラーディンがいました。この反共武装組織はその後も戦地を転々としながら活動、巡り巡ってアフガニスタンのタリバン政権下のアルカイダとして勢力化します。
こんな感じで冷戦時代の名残や周辺国が支援した(茶々を入れた)結果、武装勢力が生まれて中東の混乱と内戦が長期にわたっている、というのがデフォです。これはアメリカだけでなく欧州も絡んでいます。結局お前らがツバ吐いた結果じゃねーかよ、というツッコミは100万回やっても足りることはありません。
ちなみに時系列的には9.11後、同年10月にアフガニスタンに侵攻、40日で終結しそれに自信を得たアメリカがこれならイラクもイケるやろ、と調子に乗って2003年3月に侵攻した、という流れ。
ISはその起源を辿ると2006年頃、イラク戦争後に成立。実はイラク戦争当時はアメリカの侵攻はイラク人に嫌悪されたわけではありません。イラク政権がクソだったからです。が、結局戦後処理に躓き反米意識が増し周辺諸国の武装勢力などが合流してISが勢力化。
ガンダムで例えるとジオン残党や反連邦組織などが寄り集まっているような感じ。この辺読んでて思うのは国境っていう概念ないんじゃないかってくらい人がポンポン行き来してて日本人の感覚からするとそんなに簡単に移動できるもんなの?と不思議に思う。政治が不安定で公共福祉や支援が満足に受けられないなら定住するより組織に繋がった方が手っ取り早いんじゃないか、という気もするのであぶれた人達が寄り集まるのは自然な流れなのかもしれない。
◯イラク戦争の後始末
イラク戦争は42日間という短期間で終了しましたがその後の復興や政治体制は思うように進みませんでした。何でかはわかりません(本書でも詳述されていない)。
戦後の政治体制を無理やり作るために行ったのが、イラク人亡命政治家による宗教的党派作り。彼ら亡命政治家はイラク国内では支持基盤がない。なので(体制側だったスンナ派とは逆の)シーア派を使って政治力を持たせようとします。さらに金をバラまいて支持を得ようとしたので腐敗と汚職を進める形に。
急激な民主化はそれまで政権機能、実務的な組織運営を支えていた中間層が締め出される(新体制に馴染めない)結果となり、体制移行が遅れたのも要因の一つ。
◯イスラム教の宗派対立(シーア派vsスンナ派)が必ずしも直接的な原因ではない
著者によれば宗派対立は結果論的なもので必ずしも直接的な原因ではないと言います。元々はオスマン帝国内でそれなりに上手く協調していたからです。まず政治的・経済的対立が先にあってそれが宗派対立に至っていると分析しています。
実際問題、生活上で差がつく要因は家の経済状況、学歴、職などで宗教、それも宗派の違いだけで極端な差や意識差を感じることは少ない。上述のように、政治利用のために特定の宗派を利用したことで対立が可視化(単純化)し拍車をかけた感じでしょうか。
ちなみにシーア派とスンナ派はイスラム人口比で言えば1:9です。イラクはこの比率がどっこいだったらしく、シーア派を利用しやすかったのでしょう。
◯アラブの春
2011年頃、にわかに聞かれるようになったのがこのワード。
チュニジアで路上売りしていた青年が警察にとがめられて焼身自殺したことをキッカケに抗議デモが始まる。チュニジアも一族が牛耳る国だったので鬱積していた不満が爆発、大統領が亡命。これによってデモ活動がアラブ世界に急速に拡大。エジプトでもムバラク大統領が国軍から見放されこちらも政権交代の憂き目に。
このアラブの春は急速に広がり、急速に萎んでいきます。
まずリビア。この国はカダフィ大佐の独裁政権で反体制デモに対しても強気の姿勢だった。しかし普段の行いがよほど悪かったのか、みんなに嫌われていたらしくフランスやイタリアが介入。アラブ諸国もこれを容認。結果、カダフィ大佐は死亡し政権交代。とはいえ元々旧体制の地盤が強く外国頼みの新政権にならざるをえず政情は不安定。この混乱に乗じて武装勢力が入り込みさらに混迷を深めてしまう。
続いてアサド政権のシリア。
さっきからリビアとかシリアとか、イランとイラクにしても名前が似てるし位置関係わかんねーんだけど!?という人は下図を参照。