カテゴリー [ 映画の感想 ]
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神は見返りを求める
これぞ胸くそ映画。
主人公の田母神はイベント会社に勤める中年男性。合コンをキッカケに底辺YouTuberのヒロインと出会う。親切心で彼女の動画を手伝っていくうちに……。という遅れてやってきた青春パートは30分程度で終わり、その先は主人公含め全員がクソキャラに成り果てていく清々しいまでの胸くそ展開。
展開そのものはよくあるパターンで、ヒロインの売れない時代を影から支えていたけど、バズってからは天狗になってしまい軽んじられていく。悪いことは重なるもので主人公が金を貸していた(さらに保証人にまでなっていた)元同僚が自殺してしまい自分自身の生活も切羽詰まっていく。元々は見返りを求めていなかったが、ヒロインにそれを求めるもすげなく断られてしまいそこから修復不能な関係に。
こう書くと恩を仇で返すヒロインみたいに見えるが、これはあくまで主人公側の視点。
そもそもこのヒロインはしょうもない動画で数字を稼ごうとしていた底辺YouTuber。倫理感や常識も希薄。数字が取れるなら人気YouTuberとコラボして裸でボディペイントしても構わないという良く言えば前のめりな配信者。有名になる前に動画の収益について分配しようと彼女から持ちかけてもいる。そんな彼女が自分のチャンネルを伸ばすためにセンスの無い主人公から離れていくのは自然な行動。元々動画のお手伝いという名目で繋がっていた関係で恋人でもなんでもない。
しかしこの映画が上手いのは、以前彼女が炎上したときに責任を肩代わりするために主人公が隠れて自腹を切るエピソードを入れていること。精神的には「あのとき助けたよね」「困っていたらお互い様だよね」と言い訳を作りやすく、事実彼は彼女にすがっている。
これ見て何を思い出すってラーメン才遊記の「『金を払う』とは仕事に責任を負わせること、『金を貰う』とは仕事に責任を負うということだ。金の介在しない仕事は絶対に無責任なものになる」
やっぱラーメンハゲ(芹沢)は良いこと言うなぁ。
この主人公は中途半端なのだ。その理由は自分を良く見せたい、嫌われたくないための親切をしているから。
僅かながらも収益金が出たときに分配の提案を断ったのもそう。お小遣い程度だったこともあるがこの態度からわかるのは配信者としてパートナーになるつもりがないこと。さらに一度ヒロインと肉体関係を持ちそうになったが主人公はそれも断っている。彼女の罪悪感につけ込みたくない、関係を壊したくないという意識なのだろうが、これが恋人でもないただの親切おじさんというヒロインからしても何かよくわからないポジションになっている。
収益金はいらない。見返りは求めない。最初はそれでもいい。深く関わらず傍観者に近い立ち位置で親切にすれば「良い人」だと褒められ頼られる。気持ちも良い。けど長く付き合うことになればその距離感を維持することはほぼ不可能になる。親切から親密あるいは疎遠になる分岐路に突き当たる。そのことに主人公が無自覚すぎるのだ。親切には親切をするための適切な距離がある。
誰だって余裕があるときは気前が良いし、切羽詰まってくると見境がなくなる。だからこそ最初から「貸しとく」と言っておく方がよほど親切なのだ。ここが恩の返し時だと納得もしやすい。それを「親切」と言って散々手を貸したあとで実はあれは「貸し」だったんだ、だから返してくれというのでは筋が通らない。親切にしてやったんだからお前も俺に親切にしろと言うようなもの。実際主人公そう言っちゃうんだけど。それなら困窮しているから助けてほしいと素直に言った方がまだ通る。ヒロインが恩知らずなら主人公は恩着せがましい。
結局主人公は親切を盾に自分を悪い奴だと思われないようにしているだけの小心者。自他の境界、絶対に超えてはならない責任のラインをナアナアにしているのは自分なのだ。彼が背負うことになった負債も本来は当事者が負うべき責任をナアナアにした結果にすぎない。なりふり構わなくなる中盤から終盤は本作の見所。ヒロインもまた自分自身がこしらえた負債を利子付きで払うことになる。
善意や親切はもちろん人として大切なもの。でもそれが既得権益化すること、責任を曖昧にしてしまうこと、独りよがりな押しつけに発展しかねないものであることは同じく忘れてはならない大切な事実。その危うさ、醜さから目を背けて「親切」「良い人」だけを享受しようなんてそれこそ厚かましい。
映画大好きポンポさん
映画ファンの間で評価が高い作品。映画を作る映画。
一本の作品としてとても完成度が高い。
タイトルにもなっているポンポさんは敏腕プロデューサー。超有能で自身で脚本も担当する。おそらく一人で何でもできちゃう系。上映時間は90分で良い(それ以上は長すぎる!)というこだわりを持つ彼女は感動できる映画が見たくてこの業界に携わっている。自分なら面白いものを作れるがそれでは感動できない。そんなわけでもう一人の主人公であるジーン君が抜擢され、初めて映画を撮ることに。
撮影自体はすんなり進む。撮影中のトラブルも難なく解決。この作品の一番の難所は編集。72時間もの膨大なフィルムの中から厳選しなければならない。この取捨選択にジーン君は大いに悩むことになる。
ここでポンポさんの主張の正当性が強調されている。どのシーンも捨てがたい。なら上映時間を長くすれば?
でもそれは製作者の甘えなのだ。例えば『天空の城ラピュタ』は地上でドタバタを繰り広げながら地下にも空にも行く。そんな冒険活劇が2時間でキッチリ描かれている。無駄なく盛り込めば2時間でも一つの世界を創り上げることができるのだ。文章もそうだけど長く書くのはそれほど難しくない。贅肉を切り落とす方がずっと難しい。
作る側からすればどのシーンも愛着があるし盛り込みたい。けどそれは観客が求めるものとは限らない。切り落として、切り落としたその先で見つけた答え。それを聞いたときのポンポさんの反応。ジーン君も腹を括るし、ポンポさんも腹を括る。何のため? 最高の作品を作るため。この映画はそんなクリエイター達の粋を感じる作品。
本作が上手いのは実写映画を扱いならアニメ的手法によって無駄を省いていること。実際にはCGや様々な編集を施すので切り抜いて終わりなんてことはないけど、そういった余計なシーンは描かれない。また撮影中のシーンと編集中のシーンを別々に見せることで視聴者がどんな物語なのか想像できるようになっている。これはジーン君がたびたび言っている「観客の想像で行間を埋める」という手法を本作も採っているという寸法。
つまり贅肉を切り落とした美しい映画であるべきというポンポさんのこだわりと、ジーン君の観客の想像力を加味した演出(編集)は作中の映画だけでなく、本作そのものがそれを体現している。
濃厚な物語を見終えた視聴者はそこでこの映画の上映時間に気づき思わずニヤリとするでしょう。事前にわかっていても、いやだからこその充実感。この映画はそんなクリエイター達の粋を感じる作品。
機動警察パトレイバー2 the Movie
まともでない役人には2種類の人間しかいないんだ。悪党か正義の味方だ。
ファンの間でもよく言われるようにこの映画は人を選ぶ。私は好きじゃない派。
その最大の理由は後述するとして、本作の概要を抜き出すと、
かつてPKOとして派遣された自衛隊が戦闘になり、その際戦闘許可が下りず部隊は壊滅。そのときに生き残った人物がこの物語の犯人。その後、彼は東京でテロを起こす。
まあ要するに「平和ボケした日本人に喝(鉄槌)を入れる」的な話でもあって、昔も今も耳にするワード。これにプラスして自衛隊と警察組織の対立も描かれる。自衛隊は元々警察予備力として朝鮮戦争のときに発足した組織。どうやら警察OBも出向しているようで組織的(人的)に繋がりを持っているようです。作中でもチラッとセリフにあります。
そんなわけで本作は政治、官僚機構色が強い内容になっていて映画1作目よりも地味。
率直に言うとこのテーマがあまりピンとこない。
有事の際に日本の対応が遅いのは新型コロナでもお馴染みの光景なんだけど、これは日本の組織が分割されていることも大きな要因です。例えば医療に関しては民間主体でインフラが整えられているので国が一元管理するのが難しく、医師会の政治力が強いことが実証されています。逆に政治力がないらしい飲食業界がスケープゴートにされる始末。
また、日本は公務員が海外と比べて少ないというのも有名な話。少ない分をどうするか? IT? まさか。それも民間に投げています。例えば民間会社自身に監査組織を置いて内部統制を図る。一例を上げると原子力なんかもそうです。電力会社自身が色々やっていました。国にも組織はあるけど基本は民間主体。福島の事故があって原子力規制委員会が設置されましたが、到底手が足りているとは言えない。こんな風に本来なら国がやる仕事を民間に投げて軽くすることで平常時はコストがかからない体制になっています。
デメリットは決定が遅いこと。関係組織が複雑に絡み合い、調整に時間がかかり、当然国が頭ごなしに命令する……ということが困難になります。有事の際に機動的に対応できないのは組織が横にいっぱいあるから。
これは第二次世界大戦のときも同様で、輔翼・輔弼、統帥権がどうのと組織が横に並んでいて責任や指揮命令系統がハッキリしない。海軍は海軍、陸軍は陸軍で物を考えて発言する……みたいなそんな話が今も変わらず続いている。日本という組織がそうなっているんですね。
だからテロを起こされようが、喝を入れられようがこの構造自体が変わらないんだからどうにもな~って。しかも日本はこの機動力の遅さを「空気」によってブーストする。なんだかんだ言ってワクチンもめっちゃ打ってるでしょ? そういうとこ。これはこれでバランスが取れていると言えるかもしれない。まあ、一度ブーストかかるとブレーキ踏めなくなるんだけど。
そういう国だし、そういう人たちだと思うよ、日本人って。
というのはこの作品を好きじゃない理由の2割で、残りの8割は単純に話がつまらない。
この物語、主人公達が寝ていても全く問題ない。何故なら犯人と同じ組織の人物(公安の人)が情報を持ってきてくれるから。時間が経ったら勝手に情報をくれて、指定された場所に行って犯人を捕まえるだけ。
1作目は犯人の足跡を追ったり、犯行目的を探ったり、ラストバトルのためにトンチを利かせたりと能動的に動いていたが本作ではそれがない。その代わりおっさん達が組織の板挟みになって役人も面倒臭そうってシーンを見せつけられる。居酒屋で愚痴聞かされるようなもん。私なら酒代払わせて帰りますね。
メランコリック
◯メランコリック 監督・脚本 田中征爾
バイト先の銭湯が殺し屋の処刑場だった。
主人公は東大卒の陰キャで定職にも就かずバイトを転々とする日々。銭湯に勤めた矢先、殺人現場を目撃してしまい否応なく仕事を手伝うことに。厄介事に巻き込まれ戦慄するかと思いきや特別ボーナスを貰ってウッキウキ。
この主人公、ちょっと…というかかなり抜けている人で危機感や不安よりも特別な仕事ができたと喜んでしまう。かと思えば同じく銭湯のバイトで働いていた松本(パッケージの後ろにいる金髪)がリーダーになると知って気落ちしてしまう。
この作品は以前参加したシネバトル(映画のプレゼン会)でオススメされたもので、映画マニアの目に留まるだけはある。ヤクザの裏仕事を手伝うバイオレンスな設定に陰キャが加わるとこんなにも間抜けになるのかと。そしてこんなにも普通な青春が描けるのかと唸ってしまった。
本作は遅れてやってきた青春時代というような内容で、偶然同級生と再会して、恋人になって、ちょっと冒険して、不良とダチになるストーリー。死体処理と書いて冒険と読んで、殺し屋と書いて不良と読むだけの至って普通の青春。
見終わって思うのはこの作品がとても牧歌的であること。主人公と同居する親は最初息子を腫れ物のように扱っているようにも見えたが、実はああいうノリなんだとわかる。主人公の彼女も最初は「東大卒」という肩書きに釣られたのかと思いきや別にそんなこともない。殺し屋家業をやっていた松本も年齢相応の不器用さと朴訥さが垣間見える。社会人になって成り上がった同級生も話してみるとちゃんと相談に乗ってくれる。彼らは主人公を過剰にも過小にも見ていない。だから主人公が打ち解ければ相応の態度で返してくれる。
彼らが変わったんじゃない。主人公が変わった。主人公(視聴者)が見ていた人物の見え方が最初と最後で見事に変わっているんですね。
この物語で描かれるのは環境を変え、意識を改め、自ら一歩を踏み出す。王道の青春ストーリー。バイオレンスな非日常と誰もが経験する日常が曖昧な形で同居しているこの空気感が絶妙。
「生きづらさ」って半分は自分で作り出してるよね、ってのは散々言われていることだけど、ではそれを打破できるかと言えばそれができるなら苦労はしない。コマが回るためには誰かに引っ張ってもらう必要がある。この作品はそれが「殺し屋の銭湯」だったわけ。クレイジーだろ? だがそれがいい。
血で汚れた床を洗い、死体をボイラーで焼く。こう書くと陰惨な雰囲気が漂うが実際の作風はかなり緩い。その最大の理由は上述したように主人公に危機感や当事者意識が薄く自分が犯罪行為に加担しているという認識がないからだ。それもどうなんだと思うかもしれないが、要するにいつの間にか人生のメインストリートから外れてしまった青年の物語なのでそこを突っ込むのは野暮ってもの。そりゃ松本もお前正気かよと頭抱えるよ。
そんな彼らが最後に見せる笑顔は「東大卒」も「殺し屋」の肩書きもない等身大のソレ。友達や恋人になるのに肩書きなんていらなかったあの頃。あの瞬間。
人生には何度か、一生これが続けばいいのにっていう瞬間が訪れる。
何もかもが完璧で、幸福で、この瞬間のために俺は生きてきたんだと、そう思える瞬間が、本当に何度か。
そして僕たちはまさしく、その瞬間のためだけに、生きているんだと思う。
その何度か訪れる瞬間のためだけに。
それで十分。
その経験こそが人生に彩りと深みを与えてくれるのだ。
警官というよりも正義の味方ってところだな(機動警察パトレイバー)
自然災害なら仕方ないよね。
映画館でリバイバル上映していたので観てきました。今見ても面白い。
よく言われるように本作は「OS」に絡むウイルスやその暴走が事件になっています。映画の公開が1989年。Windows95の登場はまだ先。当時としても先進的なテーマであり、またAIなどが普及している現代から見てもそれほど色褪せるものでもない。
なにより一本の映画としても良くできている。例えばロボットが登場するわりにアクションシーンと呼べるものは冒頭とラストのみ。約100分の上映時間のほとんどは会話劇で、事件の犯人である帆場暎一の痕跡や計画を探ることに当てられています。要するに地味。ところが間の取り方やシーンの繋ぎ方が上手いので退屈に感じない。陰鬱とした雰囲気の中、事件を未然に食い止めようとする特車二課の面々、官僚機構の中で上手くメンツを保ちながら無茶を通そうとする後藤隊長などキャラの個性がバッチリ際立っている。
改めて今見ると帆場暎一の造形が作品とマッチしている。彼は黒澤明監督『天国と地獄』の犯人を彷彿とさせる。貧しい下町から「上」に住んでいる金持ちを見上げ続けた人間の暗くて重い心理。帆場には一切セリフが無く、わかるのは彼が住んでいたのも貧しいスラム街のような場所。しかしちょっと見上げれば高層ビルが立ち並ぶ風景が広がっている。
パトレイバーは(当時としては)近未来の1999年が舞台で、ロボットが実用化された世界。でも本作で見られる街の様子は極端。高層ビルやマンション、都市開発計画で大規模な用地改良が進んでいるすぐとなりに昭和の風景が広がっている。そもそも主人公たちが拠点を構えている場所も郊外の埋立地で掘っ立て小屋みたいな場所。新しいものと古いものが共存するのではなく区切られ、そして新しいものに飲み込まれていく。まるでゴミを片付けるように。こういった描写や背景が本作に少し暗い印象を与えていて、それが帆場の心理と重なっています。作中でも言及されているように帆場暎一が海外留学したときのニックネームはエホバ(E.HOBA)。ご存知の人も多いと思うけど、正式な呼び名はヤハウェ、ヤーウェ。エホバは間違いなわけで、もうダメ押し。
今日日、こういうルサンチマンが視聴者に受け入れられるかどうかは別として、新しいものと古いもの、ハイテクとローテクの絶妙なコントラストがパトレイバーの魅力であろうと思います。新型相手に旧式で戦うラストバトルとかね。ウィンチを使うシーンは今見てもカッコいい。
視点を主人公側に移すと警察機構の中で正義の味方をすることがそれ自体外れた行為なのだ、というのも本作の面白いところ。
正義の味方がアウトロー側なんですね。事件を食い止めようとする特車二課は一歩間違えば犯罪者集団(超大型の洋上プラットフォームをぶっ壊そうとする)。基本的に警察って何かあった後に動くものなので未然に防ぐのはかなり難しい。これは現実でもストーカー被害を未然に防げなかった事件が数多くあることでもイメージしやすいでしょう。事件が起きていない。犯罪になるかもわからない。そういう状況の中でフライングで動くのは一歩間違えば人権侵害。犯罪なわけですから。
警察でありながら正義の味方をやろうとすると限りなくグレーになる。そのギリギリの中で組織としての体を保つバランス感覚が面白さになっている。正義の味方は「10番目の男ルール」でいうところの10番目の人間で少数派。体制から見れば異物。特車二課の面々がまともじゃないのは当然のこと。
そういった意味でも本作は地味だけどコクがある。今でもファンがいる納得の作品ですね。
残酷で異常
タイトルがテキトーに見えるけど原題も『Cruel and Unusual』なのでそのまんまだったりする。
物語冒頭で主人公は妻とともに死ぬ。しかし気づくと死んだ日の昼に戻っている。
いわゆるループもの。本作が他とひと味違うのはそこが地獄であること。
一般に地獄というと怖い、おどろおどろしいイメージだと思うけど、本作の地獄はグループディスカッションを行う一種の更生施設みたいな場所。そこでは毎日自分が殺人(自殺も含む)を行った日を体験させられ、その後にみんなの前で語り合う。これをひたすらに繰り返す。出所できるかは不明。確かに地獄らしいと言えるかもしれない。
そう、実は主人公は妻を殺したのだ。でもなぜ?
最初はその自覚(記憶)が全くなくて、なぜ同じ1日をループしているのかと主人公が困惑するところから始まる。しかしループが繰り返されるたびに段々と1日のディティールが細かくなっていき、実はこの主人公が結構ヤベェ奴だとわかってくる。
主人公は太っていて見るからに非モテ陰キャ。弟はイケメンで彼女を寝取られたこともあるらしい。そのせいか、奥さんに異常な執着を持っていてほとんど軟禁している。ちなみにこの奥さんは東南アジア系の中国人っぽくて、傍から見ると金で買った感がある。その奥さんには連れ子がいて、主人公とは折り合いが悪い。
結局、束縛に嫌気がさしたことと息子を守るため奥さんは毒を盛り、主人公は奥さんを羽交い締めにして窒息死させてしまう。
ではこの映画、どういうオチになるかというと、ループものらしく過去を改変する。
1日を繰り返していく中で自分の傲慢さや家族の苦悩を知った主人公は協力者とともに因果に介入して、奥さんを死なせる前に自殺することで幕引きを図る。
1年後、主人公を追悼する奥さんと息子の姿が……
ってな感じでハッピーエンドに見えるし、他の人の感想もそんな感じで解釈しているものが多い。私の感想は「これエゲツねぇな」。
というのも奥さんと息子のエピローグの後に、主人公がまだ地獄にいる姿が描かれる。その際、主人公の罪は自殺したことになっている。そしてその自殺した主人公の傲岸でふてぶてしい態度。見た瞬間イラッってしたんだよね。こいつ反省してねーわっていう。
キリスト教的に自殺が重い罪だっていうのはあるにしても、この主人公は基本的にエゴイストで自分の感情を押し付けている感が終始漂う。言葉では奥さんを大切にするセリフを吐いたり、奥さんが死なないように自殺を図ったりと一見すると改心したかのように見えるんだけど、ラストの表情や態度を見ると「俺は妻のために死ねるんだぜ」「死んで過去を変えたぜ」感が半端ない。つまりこいつは自分の行動に満足と安心を覚えてしまっている。だからたぶんこの施設から出られない。キリスト教的に一度地獄行ったら出られるかは知らないけど。
作中で毎日のグループディスカッションに慣れてしまい、罪を受け入れることに安心を覚えている人の姿が映し出されている。おそらくこれも良くないんだと思う。お前が満足するために地獄でループしてるわけじゃない。そんなだから出られないんだよ的な。
だからこの映画的に、主人公はいささかも救済されていない。
奥さんや(本来死んだはずの)協力者が生きているんでそこは救われたと言えなくもないけど、あの世界も本当に現実なのか曖昧だし、そもそもこの物語は死んだ人間、もっと言えば罪を扱っているはずだから死ななかったとか生き返ったとかは本筋じゃないと思うんですよね。
人を殺すことが罪であるように、自殺も罪であるとしたら、結局この主人公は人を殺すか自分を殺すしかしていない。殺すことでしか未来を変えられない主人公は罪深い。っていうかあの顔がイラつく(めっちゃ主観的)。
トイ・ストーリー4

見終わって最初に思ったのは「ウッディを解放するための作品だな」。と同時に「それいいのか?」とも思った。やっぱり同じこと思ってる人がいて、一字一句同感です。
感想『トイ・ストーリー4』 アンディ世代のアラサー、怒りながらむせび泣く
『トイ・ストーリー4』というシリーズ最大の闇を受け入れるにあたって
トイ・ストーリーは3の時に初めてちゃんと見た作品で、面白かったので1・2と遡って見ました。
玩具達が自分の知らないところで自由に動き回っているんじゃないか、そんな子どもの想像力を刺激すると同時に、玩具達の悲喜劇を描いた非常に良く出来たシリーズ作品だと思います。
物語的には3のラストで別な持ち主へと引き取られたウッディ達が、4ではもはや脇役の玩具になってしまい、自らそこを離れるのが4の結末。
玩具の自立や解放って言えばそうなんだけど、でもお前ら玩具じゃん?って思うんだよね。ウッディが言ったように持ち主(子ども)への絶対的な忠誠。それこそが玩具の存在意義じゃないのか。好きなだけ遊んで、飽きたらポイしちゃう。そんなワガママを許し愛し忠誠を見せてくれるからこそ子どもは玩具を好きになるし色んな想像をする。その安心あってこその玩具なのに、玩具側から三行半を突きつけるのは矛盾するんだよね。なんなら興ざめすると言ってもいい。ボー・ピープ(魔法使いのような玩具)が「子どもは他にもいる」みたいなことを言うんだけどそれは玩具が言っちゃいけない言葉なんです。人を殺せる料理は料理ではなく毒って呼ぶでしょ? 定義を超えたらそれは別物になる。
(ウッディ達を「自我を持った玩具」と見るか「1人の人間」として見るかで本作の印象は大きく変わる。シリーズ的にこれまで前者で一貫していたのが本作では後者の色合いが強く、そこに引っかかりを覚える人は本作の評価が著しく下がる。私もそっち側)
要は玩具の使命は子どもに遊ばれ、そして捨てられるまでが含まれる。子どもが玩具を卒業して、そこで新たな引き取り手がいれば延命されるし、いなければそこで玩具としての寿命は尽きる。それが玩具にとっての生なのではないか。
玩具の人格云々、比喩云々は置いても、そういう身勝手で一方的な人間にとって都合の良いものが玩具だし、そうでなければ玩具足り得ない。絶対的な忠誠と奉仕。だからこそ1~3で見せたウッディ達の姿に大人は昔を思い出し、心を痛め、慰められ、感動するのだ。
だから、トイ・ストーリーは突き詰めると「死」しかない。いっときでも子どもにとって大切な思い出になればそれでいいではないか。そのために彼らは生まれてきたのだから。
3以降を書こうとするとその闇を隠せなくなってしまう。4の制作が出たとき「正気か!?」って思ったよ。案の定そうなったし。決して物語として破綻しているわけではない。持ち主がいる玩具、いない玩具両方の姿を描いてもいる。けどそれは玩具の生に対して目をそらしているのではないか。
総合的に言えば、トイ・ストーリーがこれまで作り上げてきた玩具達の世界観を逸脱して、その代償に「○○の玩具である」からの解放を得たけど、真の終点である「死」からは目を背けている。中途半端さが残る。突き抜けきれなかった印象を持ちます。
パラサイト 半地下の家族

監督:ポン・ジュノ
脚本:ポン・ジュノ、ハン・ジンウォン
評判に違わず良くできた作品。
『万引き家族』が引き合いに出されることが多かったので事前に見た上で鑑賞しましたが、なるほど確かに両作品は似ている。両方とも貧困問題が根っこにあります。でもその中身が違うところに両作品の性格の違いがある。ということで、そこをポイントに感想を書きたい。
まず『パラサイト』はどういう作品かというと、半地下の家に住む家族がいて、Wi-Fiの電波すらタダ乗りしようとするほどお金が無い。仕事も日銭を稼ぐような日々。ひょんなことからその家の長男(主人公)がお金持ちの家庭教師になる。そこから一家の「計画」が実行される。
上手くお金持ちの信用を得た主人公は知り合いと称して妹に仕事を斡旋。さらに運転手を解雇させ父親を紹介し、最後に家政婦を追い出して母親を就かせる。まさにタイトルにあるように一家総出でお金持ちの家にパラサイトする、という話。
もちろんここから奇想天外な展開になるのでお楽しみに。ネタバレしなくても話すことは変わりません。
一方『万引き家族』もお金が無いのは同じでタイトルのとおり日雇いやパート、万引きなどで食いつなぐ生活をしている。その家で暮らす子どもはとある事情から学校へ行けず万引きが常態化しているといった有様。
両作品とも貧困(底辺層)の生活が描かれているものの大きな違いもある。それは『万引き家族』が金無し・学無しの誰が見ても底辺なのに対し『パラサイト』の家族は金は無いが頭は良さそうなのだ。
たとえば主人公の長男は大学受験に4回失敗しているが、家庭教師としては優秀なようで受験対策への指導は本気の姿勢を見せている。妹は公文書を偽造できるテクニックのほか会話も上手い。父親も実地経験は少ないと思われる運転手を難なくこなす。母親も言わずもがな。意外にも器用に仕事をやってのけるのだ。
そんな彼らの口癖が「計画」。(人を騙すためとはいえ)事前に台本を書いて猛特訓している様子が映し出されるなど目標を持ち、そのための努力も怠らない姿が印象的。こうしたシーンはクライムムービーの定番ではあるが、彼らは金持ちの家を乗っ取りたいわけではなく安定した収入を得たいと思っている小市民に過ぎない。せいぜい小狡い程度。細かいことだけど家族間の言葉遣いも丁寧で地味に好感が持てる。その点『万引き家族』は雑多な印象で「あーこれダメだね」感が半端ない。
つまり『パラサイト』が描く貧困とは、貧困と聞いてすぐ思いつく怠惰で無学、社会からドロップアウトした落伍者的イメージではなく、比較的真っ当な人々の姿である。目標も能力もある。向上心だってある。けど定職に就くことすら難しい。これは韓国の経済が不安定という事情もあるだろうが、こうした貧困者は日本においてもいるはずで、貧困に対するイメージを作品一つで上手く逆転させている。
だからこそ物語終盤で父親が語った「計画」に関するセリフが刺さる。どんなに計画を立て、そのためにいくら努力しようとも予期せぬ事態が起これば全て台無し。ならもうどうだっていいじゃないか。そんな諦めがヒシヒシと伝わってくる。しかしこれが同時に本作に希望をも持たせる。
率直に言って『万引き家族』に希望は無い。家が貧乏ならハードモード。親がクズでもハードモード。家が貧乏で親がクズなら無理ゲーだ。まともな教育も受けられず、資金的援助もない。そんな人間が上に行くことなど宝くじが当たるのに等しい。でも『パラサイト』のような家族であればもしかしたら自力でたどり着けるかもしれない。
社会の深い諦め、絶望を描きつつもそこに仄かな希望を見る本作はエンタメとしても優れた作品。
ぼくらの7日間戦争
ジュブナイル映画にしておっさんホイホイ。
私が子どもの頃、宮沢りえが出演した同名映画がありましたが、ああいう秘密基地でホーム・アローンばりに大人達を翻弄してちゃんちゃん♪のノリって面白かったですよね。それがアニメ映画になったというので釣られてきました。
今回の舞台は廃鉱跡地。
主人公はコミュ障の歴史オタク。隣の家の幼なじみが気になるものの勇気がなくて言い出せない。そんな時、幼なじみが引っ越しすると知り……。
ちょっとしたプチ家出が思わぬ事態に発展して、やっぱりやっちゃうよホーム・アローンギミック! 閉鎖しているはずなのに何故か電気がきていたり、水が通っていたりするけど気にしたら負け。重機の扱いもお手の物。
そして唐突に始まる未成年の主張。
まさにジュブナイル映画。
ラーメン屋行ったらちゃんと餃子付きのラーメン出てきたって感じの作品。
現代風にアレンジしている部分も多いですが、改めて思うのは『子どもvs大人』『権力への反抗』という構図が今の時代にどれだけ共感を得るのか?っていう疑問があります。30年前ならそういう風潮も残っていたかもしれませんが現代ではそれほどキャッチーでもないのかなと。
本作では権力を代表する大人として議員の父親が登場していますが、そんなアナログ的で典型的な権威主義者を出さないと成立させるのが難しくなっているとも読み取れますね。
さらに付け加えるなら『大人=汚い、嘘つき』という構図もやはり古臭くなっていて、子ども達自身の汚い部分や嘘が暴露される中盤の展開は大人と子どもの境界を曖昧にしています。特に今作では主人公たちが高校生なのでなおさら。
確かに若い頃は真っ直ぐさや誠実さ、真実、正義みたいなものを上に置く見方が強いし、そうしたものが原動力になるんだけど、逆にそれが裏目に出てちょっとしたことでも許せないとか、不寛容の源になることがある(いじめなんてそうだよね)。むしろ大人の方が「お互い色々あるよね」とすんなり許容できる場面も多いんじゃないでしょうか。真実や本音ばかりが親密な人間関係を作るわけじゃない。隠し事や嘘、普段と違った一面性を許容することも絆を作るわけで、大人は汚くて嘘つきだという主張は一面的で片手落ちになる。大人達が最後にぶっちゃけるシーンがあるのはバランスを取ると同時に、『大人』と『子ども』の境界が薄れていることがここでも裏付けられている印象があります。
そもそも何故廃鉱に立てこもっているかと言えば、そこでタイ人の子どもを見つけたからで、この子と親はどうやら唆されて日本へ出稼ぎに来たものの良いように使われて帰るに帰れなくなってしまった…というパターン。入国管理局に目をつけられ逃げているうちに親とはぐれてしまう。不法滞在の疑いがあるのだが主人公たちはその子どもを成り行きで助けてしまい、入国管理局とのバトルに発展する。
要するにその場の勢いやノリでやっているので主人公たちの主張性や大人との対立性は極めて乏しい。そこに何らかのイデオロギーや主張があるわけではない。……のだが至るところで子どもと大人の違いを強調するセリフを入れてくるのでやや空転している印象を受ける。作品コンセプトと時代性が合わなくなっているんですね。
秘密基地は冒険心をくすぐられるし、そこでどんちゃん騒ぎを起こすのも面白い。けど何かと戦う動機が薄れているのが現代なんだろうなと。SNSにアップするのが関の山なのかなっていう。
これはちょっとネタバレになりますが「私実は○○でした!」みたいなカミングアウトって最近よく見る展開なんだけど、そんなに日本ってマイノリティに厳しいかな?
「お前がそうしたいなら(俺に迷惑をかけない限り)いいんじゃね?」ってのがほとんどの人の意見だと思うんだけど。そんなに日本って不寛容な社会かな。法整備とか遅い面はあるけど、心理的な差別意識とかは薄い国だと思ってるんですが。強いて言えば、マイノリティであることを笠に着て偉ぶったり、被害者ぶったり、金儲けしたり、押しつけてくる奴はウゼーー!!ってところじゃないでしょうか。
まあ、マイノリティ云々というより一種の流行りなのかもしれませんが。ミステリもので二重人格ネタが流行るみたいな。正直このパターン見るとまたかよ、ってガッカリしちゃうんですよね。とりあえずそれ言っとけば意外性と現代性持たせられる的な安直さを感じて。
結局、大人が子どもを縛っているんじゃなく、自分達で自分達を縛っているという話に落ち着いちゃう。だったら開き直るのが早い。『性格は既得権』ってフレーズが好きなんですけど、言ったもん勝ちなところあります。
日本で一番悪い奴ら/恥さらし 北海道警 悪徳刑事の告白
虎穴に入らずんば虎子を得ず。朱に交われば赤くなる。深淵を覗く時深淵もまたあなたを覗いている。目くそ鼻くそ。
道警であった実話をベースにした映画で、警察の仕組みがわかって面白い。これぞサラリーマン。
主人公は柔道一筋の実直な青年で、柔道で勲章が欲しかった警察に腕を買われて入るが仕事の方はうだつが上がらない。そんなとき先輩からアドバイスを受けてエス(スパイ。子飼い)を使うことにする。要するにヤクザや関連する組織と関係を持つことで情報や星(功績)を上げる見返りに融通を利かせる。先輩の失脚と入れ替わりで主人公は街の裏の顔となっていく。ここまではよくある話。
北海道内で銃撃事件が多発するとそれに対応した部署が発足し、銃の検挙が喫緊の課題となる。他の部署に先を越されたくもないのでできれば1週間以内に成果を上げて欲しいという上司からの要望に応え主人公は配下のエスを使い銃を確保、目論見通り部署の面目を保つ。
銃撃事件が悪化すると犯人の逮捕よりも如何に銃を押収したか(ポイントを稼ぐか)という話になって、じゃあ銃を買うかという話に。もちろん上司もわかっていてこれが当たり前状態。つまり警察が金を出して銃を買ってポイントを稼ぐ出来レース。どうせ銃は日本に入ってくるのだからその前に警察が買えば手間が省けるでしょ、という自己正当化理論もサラリーマン的にポイントが高い。体裁を保つために本末転倒になるのはどこでも見かける話でサラリーマンならしょうがないね、警察もサラリーマンだからね、と安心感を覚えます。
しかし次第に上司から渡される金では銃が買えなくなり、また自身もエスを育てるために借金していた主人公はついにシャブ売りに手を出してしまう。これが当たって大儲け。儲かった金で銃を買ってポイントゲットで警察もウハウハ。みんなハッピー。ヤクザと何が違うのか最早わからないけど、ノルマを達成するためには不正行為も致し方ない。サラリーマンならみんなわかる実家のような安心感。
特に山場であるシャブ20キロを囮にチャカ200丁を摘発する作戦は、シャブは流れちゃうけど関東だから関係ねーし、去年うちは30キロ挙げたんだからギリオッケーじゃね?みたいな会話しててウケる。サラリーマンならなんとなくわかるよね、この勘定(感情)。
この物語の顛末は映画ラストでも、また『稲葉事件』の項を見てもわかるように個人的犯罪として処理され、裁判でも実質的に道警の組織的犯罪には言及されていない。つまりトカゲの尻尾切り。いやーサラリーマンキツイっす。
みんな手柄が欲しい。でも厄介事に手を出してズルズルと深みにハマっていく様は、やっぱ身軽なのが一番だなと思わずにはいられない。手柄や名誉欲しさに裏と繋がって、借金して、上司とヤクザの顔を立てて、ヤクの元締めになって、そんな面倒なことをして果たして何が手元に残るのかと疑問に思ってしまうのだが、一度深みにハマりこんでしまうと抜け出せない。
最初から最後までサラリーマンの悲哀で満たされた、サラリーマンなら同情を禁じ得ないオススメの映画。これを見てみなさんも社ち…もとい、賃金ど……もとい、サラリーマンとしての自覚を持って仕事に励んでいただきたい。なお、どんなに頑張ろうが会社は責任を取らない。
元ネタの『恥さらし 北海道警 悪徳刑事の告白』も読んでみようと思います。
というわけで原作を読んでみたんですが、映画の方がマイルドだったというトンデモ展開。さすが現実。
例えば警察がやった泳がせ捜査(実際には警察が銃を依頼した犯意誘発型で違法捜査)については、映画では裁判が端折られていますが現実には警察が偽証と隠蔽を積極的に行い裁判所がそれを飲んでいます。
また、警察の捜査では最初に○○罪の容疑で捜査して実際に△△罪になった場合は後者として捜査・裁判を行い、○○罪のために行った令状手続きなどは無視される。警察がその気になればテキトーな犯罪あるいはでっちあげた犯罪で捜査し、捕まえたら罪名を切り替えて立件できる。なんなら偽証・隠蔽を行い罪を着せることもできる。そう、警察ならね。
映画では当初20キロという話でしたが、実際には最初から130キロ。計画では3回密輸させ4回目に銃200丁を摘発する算段。銃をパクるためならそれ以外の密輸すら厭わない。銃器対策課という名が体を表していますね。1回目の密輸で映画のように失敗してしまうのですが、引くに引けなくなった警察は2回目に大麻2トンを密輸。その見返りに税関の顔を立てて銃密輸事件をでっちあげて罪なきロシア人を巻き込んだ挙げ句上司たちが異動になったので拳銃200丁作戦はたち消えになるという尻切れトンボ。サラリーマンあるある。
これらは警察のノルマ主義や体裁を気にする風潮から生まれた組織的犯罪で別段これ自体は警察組織特有の問題というわけではないでしょう。最近よく言われるSNSで承認欲求を満たすために嘘をついたり他人の業績をさも自分の手柄のように騙る人がいるのと大きく変わらない。しかしそこに組織(人、金)と権力が結びついたとき個人のおバカ投稿などとは比較にならない悪質性と被害が生まれる。個人投稿なら炎上して最悪職を失うかもしれないが、組織の方は責任者が責任を取ることもなく出世していく。
つまりこのことから言えることは、悪いことをするなら大きい組織で偉くなってやる方が良いということ。サラリーマンのみなさんはそれを肝に銘じて出世競争を勝ち抜きましょう。
うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー
「お兄ちゃんはね、好きな人を好きでいるために、その人から自由でいたいのさ。わかんねぇだろうな、お嬢ちゃんも女だもんなぁ」
よく評判を聞くので見たんですが、なるほどこれは確かにマニアックな人たちに評価されるのも頷ける。
『うる星やつら』は子どもの頃に再放送で見ていたものの、ほとんど覚えていないのでその印象だけでいうと典型的なラブコメ。というかラブコメのジャンルを作ったのが本作という話を聞いたことがある。ラブコメと聞いて連想されるドタバタ、男女の痴話喧嘩、突発的で荒唐無稽な展開が凝縮された作品というイメージがありますね。
で、この映画は文化祭前日をループしていることに気づいた主人公達が四苦八苦してそのループから脱出しない。
というのも、ラストシーンで校舎が映し出されるのだがそれが2階建て。本来は3階建てで、劇中でも夢であることを示唆するために4階建てになっている描写が入っている。
つまり本作は自分たちの体験を夢(ループ)だと気づき、脱出して現実に復帰したかに見えて夢の中に居続ける物語として作られている。
原作の『うる星やつら』はもちろんのこと多くのラブコメは歳を取らないまま同じ季節を繰り返す仕様になっている(いわゆるサザエさん時空)。主人公達は基本的には成長せず、同じ関係をつかず離れず維持する。原作の最終回を調べてみるとやはり主人公のあたるはラムと明確にくっつくわけではなく、関係を維持して終わっている。おそらくこれもラブコメの典型的なパターンだろう。ちなみに映画のラストでも同じようなやり取りをしている。
この意味で本作はラブコメの本質を喝破している。同じ時間を繰り返し、ときに違和感を持つことがあっても決してそれを超克することはない。なぜならそれを破ってしまえば、物語の本質が損なわれてしまうからだ。本質とは「ダーリンと、お母さまやお父さまやテンちゃんや終太郎やメガネさん達とずーっと、ずーっと楽しく暮らしていきたいっちゃ」にほかならない。
このシチュエーション、青春の一時期を切り取って延々と繰り返し見続ける夢(虚構、フィクション)という自覚があるからこそラブコメは終わらない日常として終わる。逆に言えば最後に特定のヒロインと結ばれるラブコメはラブコメであっても質的に違う。夢から醒めることを登場人物にも視聴者にも強制するからだ。
ループ系作品は基本どれもループから脱出することを目的にするんですが、本作のようにループこそが物語の本質だとして、その状況を自覚し、足掻きながらもその世界に内包される作劇は非常に珍しい。『うる星やつら』としてだけでなく、ラブコメの本質を回答し得た作品だと思います。
『うる星やつら』の映画としてどうなの?っていうのはあるでしょうが。クレヨンしんちゃんの映画でオトナ帝国とか、戦国大合戦やるみたいな。本編とちょっと温度差はあるかもしれない。
カメラを止めるな!
ポン!
低予算で作られた良質なエンターテイメント作品。
冒頭37分のワンカットゾンビ映画は、ワンカット撮影それ自体は凄いとしても、映像は安っぽく、話もグダグダしていて辻褄が合わない部分もあり正直退屈。そもそもゾンビ映画がギャグっぽいってのもあるんだけど。
どういう風にしてこのワンカット映画が作られたのか、そのメイキング風景がこの映画の本題であり笑いどころ。専門のゾンビチャンネルを立ち上げることになったので、そのオープニングとしてワンカット生放送で撮ってくれ、という無茶振りオーダーを受けた監督の奮闘記。
如何にも現場のことなんて知りませーん、役者と金集めてきましたって感じのプロデューサー、役者も意識高い系、アイドル系、アル中、メールしましたよね?が口癖の面倒臭せー奴と曲者ぞろい。腰痛を抱えたカメラマンと自分で撮りたがっている助手。何とかナアナアで済ませてきたものの、肝心の撮影当日に役者が出演できなくなり……ハプニング&トラブル連発の中、カメラを止めることなく37分間乗り切る内容。
ちなみに↑の画像に映っているカメラを持った人が本作の主人公であり監督なんだけど、一見して気の弱そうな人が冒頭の映像ではキチガイじみた演技を見せていて、こいつなんなんだ? っていうかなんで監督が映画に出てるんだ? その疑問が解決した瞬間から怒涛の勢いでネタばらしが始まる。
意味不明なグダグダや辻褄が合わなかった理由が次々と判明してパズルのようにカチリと冒頭映像へと繋がっていく。話題作だけあってほぼ満員でしたが、私も周囲も笑いまくり。ラストでスタッフ一丸となって映画が完成し謎の感動と充実感とともに幕を閉じる。その視聴後感も良い。
エンディングクレジットで実際のワンカット映画を撮っているシーンを流すのも美味しい。撮影中に一瞬手の空いたカメラマンが水を飲んでいるシーンとか現場のリアリティを感じる。
映画を撮っている映画、と言ってしまえば珍しくもないアイディアだけど、それをワンカットハプニング映像に纏め上げたことで質の高いエンターテイメント性が生まれている。まあ、映画館で見るほどの映像か?と言われれば予算に見合ったこじんまりな話しではあるんだけど、こういう小作品が日本映画から出てくるのは良いことだと思う。お金が無くても面白いものが作れる実例。
レディ・プレイヤー1
現実だけが本当のリアルなんだから(キリッ
仮想世界で彼女つくった君が言う?
小説「ゲーム・ウォーズ」の映画化。
まず驚いたのは本当に版権問題をクリアして様々なキャラクターが登場していること。流石に原作に出てきたキャラを全て出すことはシナリオ的にも無理だとしても原作にいなかったキャラを含めこれでもか!と登場する。メカゴジラ(若干爬虫類寄り)VSガンダムのシーンは日本人にとっても激熱。BGMもゴジラのアレが流れていたりと芸が細かい。
映画化にあたって原作からエピソードやキーアイテムを抽出して自然に繋いでいて映画単体として見てもそれほど違和感や強引さは無い。それでも駆け足気味というか、冒頭はずっと説明が続くし展開が早かったり、そこで全滅爆弾使う意味ある?という疑問はあるもののアクション映画でそんな細かいことを気にする方が野暮なのでエンタメ的には全然OKなレベル。
作品世界的にマジレスするなら最終決戦で戦っているときに、街中で人々が所構わず路上でも真っ昼間からゲームに夢中になっている姿(歩きスマホならぬ歩きVR)は「この世界の人間マジやべー」「国民全員ゲーム中毒かよ」と思えるレベルで割とマジでこの世界滅びそうな絵面で笑える。あとIOIの連中がゲーム上で負けるたびにリアル世界で脱落していく姿(レッドランプが点いてぐったりする様)はシュールで、この会社楽しそうだなって思える。教官っぽい人もちょっとかっこよかった。
原作との大きな違いはやはりアクション面で、第1関門がレースゲームに変更されているのは映画的には正しいけど、この作品的には魅力を落としてるなーという印象。この作品は超リアルなVRゲーム上で80年代のローテクゲームを完全再現するところに面白さがある。ダンジョンズ&ドラゴンズを完全再現したダンジョンに潜ると最深部で待ち受けるのはアンデッドの王リッチ。ここで緊迫のバトルが始まるのかと思いきや、地面からゲーセンの筐体が出てきて「ジャウスト」対戦するなんて誰も予想できない。原作はそういうマニアックな作品。VRは80年代を再現するための舞台装置に過ぎない。
もちろんこれを映画でやってもほとんどの客は食いつかないしネタがわからない。万人向けにキャラをちょい出ししながらテキトーにアクションさせるのは正解。ただ、それで終わらないのがこの映画の良いところで最終関門はちゃんとローテクに回帰したもので原作でも触れていた作品。伏線の回収としても素直な締め方だったと思う。ちなみに「ジャウスト」は名前だけ映画の中で出てくるので原作をフォローしている印象を持ちますね。
それはそれとして、個人的に「そういうのいらないから」と思ったのはVRは仮想、現実がリアルというよくある論。
なんていうのかなー、仮想や空想は現実ではない、現実逃避、しっかり現実を見なくちゃ! 現実を疎かにしてはいけない。みたいなの意味無いと思うんだよね。だってゲームも小説も映画も物語も全部現実で体験するものでしょ。要はリソースをどう割り振るかの問題であって、それが合コンなのかゲームなのか、チャットなのか空想世界なのかに本質的な違いは無いでしょう? 全て肉体を持った人間が経験するものなんだから。現実逃避を含めての現実なわけで。あの世界の人は中毒だけど。
空想(仮想)と現実という境界があるわけじゃない。それを体験しているのはすべて現実。物語は人間が作ったものだし、ネットゲームなら画面の向こうに人間がいる。そこで得た知識、経験、知古は紛れもない現実。そもそも人間は自分で体験していないことを容易に信じたりするでしょ。有名人がやってるから、テレビで言ってたから。自分で実証したものなんてほとんどない。テレビがどんな原理で動いているかなんて知らない。マッチすら自作できない。そう言われているものを鵜呑みにしているだけ。何を以って現実というのか。自分で体験したもの、肌で五感で感じたもの以外は虚構というのなら人伝ての話は全て虚構ではないのか。っていうか自分以外が人間であるという保証は?
空想や物語が事実ではないと知りながらもそこに面白さや感動があるから、それが時に現実の自分を変えるキッカケになることはそれを愛する人なら誰だって知っている。空想や仮想もまた現実の一部なのだ。そこに一銭の価値が無くても関係ない。私の大切な思い出であり、今なお続く素晴らしい体験だ。ゲームで莫大な賞金と彼女をゲットした奴に現実が大事とか説教されたくないです。この点で本作は最後の最後に作品内容をまるごと全否定して論理破綻している。ゲームは1日1時間というような配慮なのだろうが、余計なお世話である。
楽園追放-Expelled from Paradise-

ベースストーリーはコッテコテの何十番煎じで、序盤の電脳空間描写なんかは進歩のしの字もねーなって感じなんだけど、王道的で終盤の盛り上げは良い。ラストバトルもCGにありがちなただ早く派手なだけの描写ではなくメリハリが利いていてかっこいい。ロボットも昔のSFに出てくるようなデザインで懐かしさを覚える。何より魅力的なのがヒロイン……ではなく、フロンティアセッター(AI)。
「ナイトライダー」のキットとか、ガンヘッドとか、「アイ,ロボット」のサニーとかのAIって好きなんだよね。最近の作品で言うと「翠星のガルガンティア」のチェインバーあたりを想像するとわかりやすいかな。
なんでかな?って考えてみると答えは単純で「友達になってみたい」なんだろうと思う。時に人間臭く、時に人間よりも真摯で情熱的。それとたぶん属性的に中立というか純粋さがあるからだと思う。極論すればAIは人間関係や人間社会とは別個の独立した存在で、その意味で穢れがない。実際には製造・保守・運用は人間(社会)が行うからそんなわけはないんだけど、イメージ的にはそんな感じがするんだね。AIが暴走して人間を襲うっていう発想はこれとおそらく根っこが一緒でコインの表裏なんじゃないかと思う。
親しみを感じる一方で特別であって欲しいし、またそこに憧れを感じるのは自分が人間という存在に囚われているから。
だからAI君には申し訳ないんだけど、地球は人間がいただきます。人間のものです。その代りそれ以外の全部をAI君にあげます。君にはそれが相応しい。自由に使って欲しい。君は自由なんだから。…って思えるエンディングでとても清々しい。エンディングロール後のシーンはまさに画竜点睛である。
スリー・ビルボード
アメリカのとある片田舎に、レイプ殺害事件の犯人が捕まらないことで警察をなじる看板が突如として現れる。広告主は被害者の母親。無能警察への告発ストーリーかと思いきや、映画は予想もしない方向へと進んでいく。
まず主人公である母親がかっこいい。如何にも年食った外見とそれに見合う度胸を持った中年女性で、警察に対しても自身に敵対する人々に対しても毅然とした態度を取る。事件から7ヶ月。全く捜査が進展しないことに業を煮やしての思い切った行動。田舎町なので事件のことは当然皆知っていて彼女にも同情的。
しかし彼女がわざわざ署長を名指ししたことで話がややこしくなってしまう。署長は好人物で人望もあるが実は膵臓がんで余命幾ばくもない。それも町の人なら誰もが知っている。だから町の意見は彼女には同情するが広告はやりすぎだという意見に傾き、諌める声も出るが彼女は聞く耳を持たない。
何故ここまで彼女は強情な態度を取るのか? 実はその裏には後ろめたさがあった。事件当日娘とケンカをしてしまいそれが事件を誘発する事態になってしまったのだ。勿論彼女に責任は無い。しかし潔白だとも言えない。「もしあのとき…」という苦い思いが残る。人が軽率で強情な態度を取る場合、大抵それは強さではなく弱さから出ている。彼女の強情な態度は自分の弱みを隠そうとする隠蔽行為でもあるのだ。だから娘が事件前に別れた夫のもとへ行き、そこで暮らしたいと語っていたこと、元夫が母親のもとへ戻れと諭していたという自分にとって都合の悪い真実を彼女は認めたがらない。
映画を見てすぐ気づくのは犯人探しが目的ではないこと。
主人公は「後ろめたさ」という真実を隠したままやり場のない怒りを警察というわかりやすい対象にぶつける。警察も直接主人公にぶつけられない怒りを看板主にぶつける。そして署長は病気を苦に自殺する。映画を見ている人なら自殺の理由は病気によるもので広告は全く関係ないことを理解できるが、もし実際に起きれば作中と同じことが起きるだろう。つまり、広告によって追及された署長がそれを苦に自殺してしまったのではないか、と。話しはますますややこしく、全く見当違いな方向へと進み次第にエスカレートしていく。
この映画が描き出すのは語られない(語られていない)部分に真実の核心が潜んでいること。ちょっと話が離れるが『ディア・ドクター』という映画では無免許医師が村の医師になりすました様子が描かれる。村人は医師を神様のように褒め称え慕っていた。しかし嘘が露見した後、インタビューで村人は途端に口が重くなるか、あるいは医師を責める言葉を並べる。村人が豹変したわけではない。偽医師を医師として頼っていたという事実が不都合なために誰もそれを口に出せないのだ。彼らの言葉を鵜呑みにすれば彼らは被害者で医師は詐欺師だが、事実はそうではない。翻って本作の主人公がもう少し自分を見つめることができたらこんな軽率な行動は取らなかっただろう。自分に都合のいい解釈をし目先のものに飛びついた結果ボタンの掛け違いが起こり、本来なら起こらない揉め事に発展してしまう。物事には見える部分(表)と見えない部分(裏)がある。看板の後ろが映る場面が多いのはそれを示唆している。
これを踏まえて印象に残るのは2つ。本作の希望的なシーン。
一つは広告会社の若社長。彼は普段ヘラヘラしていて風見鶏なところがある人物だが、あるとき逆上した警官に突き落とされてしまう。入院中、その警官が重症を負って担ぎ込まれる。相手が自分に大怪我をさせた警官だと知った彼は、葛藤しながらも優しい態度をとる。
もう一つはラストシーン。劇中敵対していた主人公と警官が共同して犯人(ではないのだけど八つ当たり先としてターゲットにしてしまう)を追う中、主人公は彼に真実を告げる。すると彼はそんなことはわかっていたと笑って赦すのだ。そしてこの不毛な復讐劇を続けるのか、終わらせるのか、それは行きながら考えようと言って物語の幕は閉じる。
真実が明かされたとき、人は立ち止まれるだろうか? 正しい答えを出せるだろうか?
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マネー・ショート

「金融業界がどれだけ無知かわかってないよ」
「確かに、あり得ないことが起きてる」
(サブプライムが焦げ付き始めたのにモーゲージ債が高騰している)
「信じてくれ、それは何もわかってないからだ」
「みんなもそうだろ?」
「世を拗ねたような顔をしてたって、どっかで市場を信じてる」
2007年頃起きたサブプライム・ローン破綻を発端とする世界的恐慌。この原因や理由については様々に論じられていてこの映画もその一つ。専門用語も多く登場するのでいくつか事前予習しておいた方が入りやすいでしょうが、作中でも登場人物が視聴者側を見ながら説明してくれるので知識無しでも楽しめます。この映画は群像劇であり、ドキュメンタリーであり、シニカルなコメディーでもある。
「人生は近くで見ると悲劇だが、遠くから見ると喜劇である」という言葉があるが、今振り返ってみるとほんとなんだこれ?って話ですね。
簡単に用語説明。
①サブプライム・ローン
家を買うときに、その家を担保にして借りるローン。日本と違ってアメリカでは家の価格は落ちないどころか上がる傾向があった。
この時点でヤバイ臭いがプンプンするが、キチンと返済できるのは極一部。いつ職を失ってもおかしくないような人、移民もこぞってこのローンを利用した。審査も甘かった(変動金利型ローンは売る方も特に美味しかった)。
「うちの会社じゃそういうときニンジャローンを使う。収入なし、仕事なしのローン。収入の欄をブランクで出しても本社は何にも言わないし、みんな家が欲しいんだよ。あとはなるようになれだ」
これが現場の実態。
2007年頃に住宅ローンの変動金利が切り替わり金利が上がる予定だった。当然低所得者がこれを払えるわけがない。主人公の1人マイケルはそこに目をつける。
②モーゲージ債
①のサブプライム・ローンを債権化したもの。元々は返済がちゃんとしていた優良なものだけを集めてAAAの評価を与えていたが、後に玉石混交となるも見た目上の評価は変わらなかった。このAAA評価された債権を銀行は投資家向けにばら撒いた。
③CDO(債務担保証券)
優良なモーゲージ債は数が少なく優先的に売れる。残るのはそれよりも劣る信用度の債権。この売れ残りを再パッケージ化したものがCDO。SSRが入っていると表記されているが実際にはクソSRとRしか入ってない10連ガチャだと思えばいい。もはや詐欺のレベル。銀行が売るために都合のいいCDOを欲し、その期待に答えるクズCDOを作り出す。それにみんなが太鼓判を押した。
④CDS(クレジット・デフォルト・スワップ)
上記の債権がデフォルトしたときに保険金を受け取れる商品。毎月保険料を払う。作中では主人公達がこれを仕掛けた。
誰もサブプライム・ローンが破綻すると思っていなかったので銀行は「ばっかじゃねーの?」と喜んで引き受けた。しかし当然通常のファンドも同じ感想なのでプランがあっても資金力に乏しい主人公達は四苦八苦している。
物語を見ていくと当初は誰もが安全と見ていたモーゲージ債がヤバイことが判明していく。
低所得者でも簡単に家を買い、ローンを組む。ストリッパーですら5軒持ってる始末。いずれ家の値が上がると信じているので誰もが大丈夫だろうと胡座をかいている。貸す方も貸し放題。それらを纏めたモーゲージ債はいつでも安心のAAA。誰も債権の中身までチェックしていない。格付け会社も流れ仕事。そのメクラ判に銀行がメクラ判を押し、さらに投資ファンドがメクラ判を押す。
話を辿っていけばとても単純で小学生でもわかる話。でも誰も気づかない。安心が期待に、期待が欲に、欲がバブルとなって膨らんでいく。
この作品を見てわかることは、頭の良い専門家ですら全部をチェックするどころか誰かの言葉やサインを(気づかない内に)信じていること。誰も格付け会社の仕事がどんなものか知らない。誰もどうやってローンを貸しているのか知らない。誰もモーゲージ債の中身を知らない。知らないけど「専門家」「信用のある会社」が担保しているから大丈夫だろうと思いこむ。一事が万事これ。要するに流れ仕事なのだ。仕事が複雑化して分業化した現代において全ての流れ、仕組みを把握している人は存在しない。ちゃんと仕事していると信用するしかない。誰かが誰かを騙そうとしてそうなったのではなく、誰もが自分に都合のいいように流してきた結果がこれ。
物語後半で遂にカタストロフィが始まる。しかしそれは逆張りをかけていた主人公達にとっても福音ではありませんでした。なにしろモルガンすら破綻しかねない状態では傘下のファンドもただでは済まない。CDSの保険金を払うべき銀行すら潰れかねない。そうなれば折角のCDSが紙切れになってしまう。読みを当てたはずの主人公達ですらてんてこ舞い。世界中でドミノ倒しが始まる。
サブプライム・ローン破綻によって世界経済は一時期大打撃を受けましたがそれでも経済は回っています。サブプライム・ローンは確かに大きな問題だったけど、人間社会の極一部でしかない。人がいれば経済は回るし回す。溜まったツケは精算するが精算し終わったら次のツケが始まるだけ。そのツケを払うのは常に弱者。偉い奴は責任を取らない。そういうもん。
バブルが膨らみ、弾ける。それを繰り返しながらも経済は回り人類の富は増える(その富は均等に配分されないだろうけど)。これまでの人類史はそうだったし、これからもそうだと思う。
個人で投資をしている私からすれば、何とかバブル、何とかショックはさほど意味がありません。要するに世界経済が今後も回っていくかどうかだけが問題。
ちなみにこれ↓を見ると景気が良かろうが悪かろうが投資を続けた方が儲かることがわかります。
図表で見るS&P株価指数 1871年~2017年【投資向上委員会】
図表12は投資10年選手でリーマンショック時にマイナスに転じていますが、図表13の投資20年選手はそれまでの蓄積もあって持ちこたえています。「投資」「株」というと胡散臭く聞こえるかもしれませんが、企業は利益を生み、配当を株主に還元する仕組みになっているので経済がまわる(富が増えていく)ならそのオコボレに預かれる。
私自身は人類の人口が増え続ける(または人口ボーナスが発生する)限りはこの成長を続けていくと思っています。
それに、これは確実に言えることですが、人間は金のためならなんでもする。今も昔も同胞の命すら金に換えて儲けようとする守銭奴が人間という生き物です。私は人間のクズさ、強欲さを信じます。
ファウンダー
○ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ
監督 ジョン・リー・ハンコック
脚本 ロバート・シーゲル
執念の勝利。
『ウォルト・ディズニーの約束』の監督と聞いて事前情報なしに観たけど、やっぱり面白い。エンディングロールで実際のインタビューが流れてちょっと笑いそうになった。
本作は今や知らぬ者はいないであろうハンバーガー店マクドナルド。その創設の物語。
主人公レイ・クロックはしがないセールスマンでドライブイン向けのミルクシェイクミキサーを販売しているが全く相手にされない。そんなとき1店舗で6台もの発注が入る。誤発注だろうと電話をかけてみるとさらに追加して計8台ものミキサーを依頼される。一体どんな店なのか。足を運んでみると、そこには革新的なシステムと安い料金でハンバーガーを出す店があった。
1954年。当時はドライブインブームもあって外食産業が盛ん。古い映像や映画で観たことがある人もいると思うが、ローラースケートを履いたウェイトレスが車に食事を運んで給仕するのが一般的な風景。古き良き時代というか、注文してから届くまでが遅い、注文を忘れられる、注文したものと違うものがくるなんてのは当たり前。さらにはガラの悪い連中の溜まり場になったりと、問題を感じる人達もいました。
そこに目を付けたのがマクドナルド兄弟。よくよく調べてみると客が頼むのは大半がハンバーガー。ならメニューをハンバーガーとポテト、シェイクに絞ってしまえばいい。調理の流れを入念にシミュレーションして厨房を効率的に配置。ウェイトレスと食器を廃止して紙で包み注文から30秒で客に手渡しする当時としては画期的なシステムが作られた。独特な販売システムに客側は当初戸惑ったものの、早さ、安さ、美味さもあって連日長蛇の大繁盛。
…という話を直接マクドナルド兄弟から聞いた主人公はこの店に惚れ込み、フランチャイズ展開すべきだと持ちかける。勿論それは兄弟もわかっていて何店かすでに進出していたが品質を保つためにもこれ以上広げようとはしない。どうも兄弟は店のシステムもさることながら味の品質、店の評判にもこだわっていて拡大路線には慎重。それでも諦めきれない主人公は兄弟を説得するとフランチャイズ化の権利を獲得し挑戦していく。
マクドナルドは徹底したマニュアル主義、と昔ビジネス書で読んだ憶えがあるけど、創業の時点から超効率的な調理システムが作られていたというのは初耳でした。また、結論を言えば主人公はマクドナルドを兄弟から買い上げます。そのやり方はこの映画で見る限り少々強引で、拡大路線中の様子からもほとんどマクドナルドを自分のものにしていたと言って差し支えない。冒頭でしがないセールスマンと書きましたが、彼は調子に乗りやすいというか野心家で、一度権利を得ると態度が大きくなる癖があります。マクドナルド兄弟に文句を言ったり、半分命令を無視する形で動いたりと好き勝手に動く。勿論契約上はビジネスパートナーであり、その権利もあったのでしょうが、まるで自分がマクドナルドの創業者といった顔をする彼は鼻持ちならない人物に見える。妻とは溝が深まっていくし、癇癪を起こすと社交界への出入りもやめてしまう。じゃあ、彼はロクでもない奴なのかというとそういうわけでもないんですね。そこがこの映画の面白いところ。
話をストーリーに戻すと、拡大路線を進めようとしたものの誰も話に乗ってくれない。それどころか主人公がかつてセールスマンをしていたことからまた来たのかとバカにされる始末。自分で直営店を作り手応えはある。店さえ出せれば絶対に勝てるのに。
なんとか(上流階級)クラブを通じて金持ちから出資してもらいフランチャイズ化にこぎつけるが、彼らは金儲けのことだけ考えて契約にないメニューを勝手に追加したり、店も汚く、ガラの悪い連中がたむろする有様。これに主人公はブチ切れ。ここでも彼の猪突猛進的で短気な性格が表れる。だが、主人公が単なる拝金主義者ではなく、彼なりのマクドナルド観があることもここでわかる。確かに客に人気のあるメニューを出せば儲かるけど、それではマクドナルドのイメージから離れてしまう。彼は自分が思い描くマクドナルドをアメリカ中に広げたいという夢がある。そしてこのマクドナルド観について創業者の兄弟と意見が別れていきます。
次に主人公が目をつけたのは比較的若い夫婦。仕事を求める夫に話を持ちかけ店を持たせる。店のオーナーとなった夫は良き監督として店を維持し、妻は良きパートナーとして夫を助ける。家族が経営しファミリーにも来てもらう。これが主人公にとっても理想的な形となり、このビジネスモデルが大ヒット。彼が店について語るシーンは建前もあるでしょうが、自分が理想とする店を広げたいという純粋な想いを感じる場面でもあり、上述したように拝金主義、商業主義的な色合いよりも彼自身の思想性を強く感じます。男なら成功したい。そんな思惑とともにより良いものをより多くの人に伝えたい。そうした考えも含まれていたように感じます。
拡大路線が波に乗ると今度は主人公が引く手数多の人気者に。新店舗の様子を見ようと現地に行くとVIP待遇で迎えられる。この時の主人公の有頂天ぶりが最高に決まっていて、ああ、この人こういうのが大好きなんだなってのがわかります。おだてられて超ご機嫌。ある意味自分に素直な人だと言えるかもしれません。
しばらくすると順調に見えた拡大路線にも陰りが見えてくる。拡大しようにも資金が底を尽きてショート寸前。そこで彼は店を経営しているとある夫人からのアドバイスを受けてシェイクを粉タイプに切り替える案を思いつきます。これによって原料費を安く抑え電気代も省ける。でも品質にこだわるマクドナルド兄弟はとうてい受け入れない。そうしている間も資金は減っていく。ここのシーンは両者のマクドナルド観が出ている場面。主人公も単に安かろう悪かろうで良いとは思っていない。実際に自分で味を確かめてイケると判断したからやろうとしている。彼も店の品質を保つことに関して妥協しない(自分で店の掃除をしていたりする)。ただより安く同程度に保てるなら安くていいじゃないかと考える。それに拡大路線を続けるためには資金が必要で、いくら自分の店が繁盛していても売上の一部を本店である兄弟に渡している以上どうしても金欠になってしまう。フランチャイズのオーナーだって経費を抑えられればその分だけ楽になる。決して主人公だけの都合というわけではない。何もしなくても金が入ってくる兄弟とは立場が違う。(金ができるまで)待てばいいじゃないか、と言う兄弟に対して常に前進し続けようとする主人公との対立がここにきて大きな亀裂となっていきます。
そんなときに偶然とあるビジネスマンと出会う。長蛇の列ができるほど売れているのに儲けられないのはやり方が間違っている。そう話す彼は帳簿を確認すると店舗の契約に切り込みます。店のオーナーが場所を決めて20年リースで土地を借りる。このシステムでは結局金は外に流れてしまう。では土地を持てばいいのでは? 主人公が土地を買い、そこに出店させる。借地代は主人公のところに入り、その金でまた土地を…と資金を回すことができる。ここがマクドナルドが不動産会社としても巨大になる転換点でした(エンディングロールでも説明があるがマクドナルドは有数の不動産会社)。
その後勝手に「マクドナルド社」を設立。兄弟との亀裂は修復不可能な状態になりマクドナルドの権利を買い取る。名実ともに彼はマクドナルドのファウンダー(創業者)となる。
物語ラストの兄弟との会話が興味深い。兄弟は確かに超効率的な調理システムを作った。でも店の中を見たのは決して主人公だけではなく、他の人も見て、実際に同じような店を作った。けど結果して大成功を収めたのは彼だけ。彼は言います。調理システムだけでなく名前なのだと。「マクドナルド」この響きが素晴らしい。これがクロック・バーガーではしょぼい。このアメリカ的な響きに惚れたのだと(インタビューでもそう語っている)。
実際レイ・クロックという人は成金趣味があったわけではないようで、純粋に野心家だったようです。パメラ・トラバースのように内的世界を頑なに守ったり、ウォルト・ディズニーのようにその内的世界を娯楽として提供するといったタイプとは違い、モノはなんであれ自分の手でそれを広げていくことに手応えや快感を得るタイプだったのではないかと思われます。そんな彼にとってマクドナルドを田舎の中だけで終わらせることは我慢がならなかったのでしょう。野心的な彼は家に居ることはなく妻との関係は悪化、離婚。上述した夫人と再婚したことがラストでわかるのですが、ここでも彼の執念深さ、どんな手段を使ってでも手に入れる人柄がよくわかる。
客観的に見れば主人公は店を乗っ取ったわけですが、彼がいなければマクドナルドがこれほどの企業になることもなかったでしょう。自ら語るように、彼自身はしがないセールスマンでしかありませんでした。独創的なアイデアがあるわけでも、弁舌巧みというわけでもない。年齢だって物語開始時点で52歳。壮年を過ぎている。いい歳して夢を捨てきれないおっさん。お前の人生ゲーム終わってるよ、と思ってしまう。しかし彼が人よりも持ち得た才能、それこそが「根気」です。どんなに革新的な店でも誰も話に乗ってくれない。それでも諦めずに粘り、夫婦オーナー制を閃き、ファミリー層にアピールし、不動産会社となることで帝国へと進化させた手腕は紛れもなく主人公の力であり、この意味で努力が実を結んだ物語と言える。夢を諦めることなく叶えたのです。映画の演出は控えめで、彼に肩入れするわけではなく、かといって彼を批判するわけではありません。好意的、否定的にも解釈できる。「野心」が「傲慢」にも見えるし、「根気」が「執念」にも見える。マクドナルドを発展させた「英雄」にも、マクドナルドを兄弟から奪った「怪物」にも見える。その匙加減が絶妙。
えらくダラダラと長い感想になってしまいましたが、みんなが知っている店がどんな風にして作られたのか、そしてその裏でどんなドラマがあったのか。『ウォルト・ディズニーの約束』のような内的世界を巡る物語とは趣が異なるとある男の野心の物語。
なお、シェイク問題ですが、顛末がエンディングロールで明かされます。あれ絶対皮肉で書いたでしょ。
39 刑法第三十九条
![39-刑法第三十九条- [DVD]](https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/4125YXYZAPL._SL160_.jpg)
監督 森田芳光
脚本 大森寿美男
原作 永井泰宇『39 刑法第三十九条』
「小川香深、あなたの登場は予定外でした」
「予定外の共犯者でした」
出演者全員ボソボソしゃべりすぎ。
タイトル直球な映画。
刑法第39条
1.心神喪失者の行為は、罰しない。
2.心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。
ある日、小学1年生の少女がいたずら目的で連れさられ殺される。犯人は15歳の少年で39条によって罪は問われなかった(ツッコミを入れると少年法が適用されると思う)。第一発見者でもあった兄の主人公は復讐を計画し、戸籍を変え別人になりすましてかつての犯人を殺す。逮捕された主人公は2重人格を装うが、彼を精神鑑定した小川香深は彼に殺意がないことから詐病ではないかと疑う。
この主人公は無罪判決(正確には精神保健福祉法29条に基いて措置入院の手続きがされる)が出た瞬間に真実を告げる予定だったのではないかと思う。無罪になった精神異常者を精神異常者を装って殺して無罪になる。この皮肉を以って司法を殺す。
狂人ゆえに無罪、というのは慣習的に世界的にも認められることのようです。なんで無罪になるのかと言えば、色々あるようなんですが、人間を自由意志を持った存在と定義した場合、その意思で殺意を持って他者を殺すことは悪であり罪と言える。禁忌を知りながらなお禁忌を犯すのだから。ところが(自由)意思がない人間が人に害をなしても極論すれば人形が人を殺すようなもので罪に問うこと自体意味がなくなる(罰を与えても罰と認識しない)とかなんとか読んだような覚えがあるんですが、よう知りません。たぶん昔からの慣例が残ってるんだと思います。精神異常者はその奇矯な行動から神がかり行者、狐憑きなどのように一種人ならざる者と見なされ扱われていたんだけど、都市化に伴ってそういう人が大量に寄り集まっちゃって病院に拘束するようになって、病名つけて今に至ってるんだと思ってます。ヨーロッパでは昔見世物として料金取ってましたからね。つまり、精神異常者を「精神異常者」として認知し扱っているのもまた現代ならではのこと。異常者が殺人を犯す確率(殺人を犯せる環境)も現代の方が整っているだろうし。現代的な疑問と言えば疑問かもしれません。
実際的な話をすれば、犯罪者=全員死刑であればシンプルですが現実にはそんなことはできないしすべきでもない。刑罰を課す考え方として、大きく2つある。一つは応報刑、もう一つは教育刑。前者はやった事実に対して一律に罰を与える。後者は社会復帰を前提にした更生するための期間として罰を与える。例えば少年法の前提にあるのは、子どもは環境の影響によって変わる可能性があるので、彼らが犯罪を犯すのは社会の責任でもあり、また更生させることができると考えるから。犯罪者を社会復帰させるため、というのが教育刑。この2つが実際の司法にどの程度の按分で考慮されているのかは知りませんが、教育刑の立場をとれば、精神異常者を牢獄に入れても何の改善もしない。入院させて適切な治療を受けさせるのが筋と考えられる。異常犯罪者全員が死刑になるほどの犯罪犯すわけじゃないからね。
本作のように極端なケースを用いれば確かに歪みや疑問はクローズアップされるけど、実際のケースは軽いものから重いものまであって(実数で言えば軽犯罪の方が多い)、その全てに一律的に応報刑を適用することが社会にとって利益となるか?というと話は変わってくる。極論を用いるのは論点整理や思考実験には向くかもしれないけど、実用的であるかは別。
さらに言えば罪を犯した人に「犯罪者はゴミ、死ね」っていう国と、「はーつっかえ。でもワンチャンやるから今度はしくじるなよ」という国とどっちが良い国かってことでもあるね。厳正に完璧に人を裁けるなら前者でも良いと思うけど、痴漢冤罪に見る日本司法のクソさを考えれば前者寄りにするのは諸刃の剣。厳罰化するということは司法に生殺与奪権を握らせることであり、ではその司法が適切に運用されているかはこれまた別の話。
余談が過ぎたけど、本当に完全完璧な狂人がいて、その人が犯罪を犯した場合罪に問えるのか?というと議論の余地はある。しかし多くの人が疑問に思うのは「本当に異常なの?」ということ。
タイトル忘れちゃったんですが、実際に精神鑑定した人の本の中で「異常な殺人とは?」という疑問がありました。殺人自体が異常なのに、異常な殺人を線引きできるのかと(補足すると著者は異常者など存在しないと言っているわけではない。自己の認識すらできているか怪しい人も存在する)。異常を判断するのは鑑定人と裁判官。この人達にその判断力あるの?って。同じような事件で同じような症状なのに片や実刑、片や措置入院。この差は何なのか。個人的にはガチャだと思ってます。精神異常認定ガチャ。運良く引ければ異常って診断してもらえる。結局人が人を裁くってそういうことだと思いますね。
死刑を廃止する理由の一つに冤罪があげられるのも、人が人を裁く以上冤罪の可能性がなくならないのなら『疑わしきは被告人の利益に』という原則が適用されるべきではないのか、ということでもありますね。ちなみにアメリカでは死刑囚は裁判手続きや施設設備など色々面倒で金がかかるので死刑にするより生かしておいた方がコストがかからないって理由もあるようです。昔「命なんて安いものだ」と言ったアニメの主人公がいますが、どうやら現実は普通の囚人の方が死刑囚より安いようです。
ま、事実があったとしてもそこに人が関与すればそれは解釈になるってことっすね。
私自身は39条廃止しようが、死刑廃止しようがどっちでもいいと思ってます。そういうルールでやるっていうのならそれはそれで。結局は人が決めて運用してるだけですからね。決め方の問題。それで不都合があったらまた直せばいいんじゃないですか。正常と異常、常識と非常識なんて人が決めてるんですから。
この世界の片隅に


監督・脚本 片渕須直
原作 こうの史代
すずさんを見たときに、「この人、持ってる人」だなって思いました。
すずさんは天然の入ったのんびりした娘さんで、絵を描くのが好きな普通の女の子。物語は彼女の少女時代からダイジェストで始まっていきます。歳をとっているはずなのに全然変わらない。いつでもおっとりしていて、朗らか。そんな田舎娘も嫁ぐ日がやってくる。でもやっぱり天然さん。
この作品の前半の見所は、当時の生活がゆっくりと味わえる点にあります。70年前の日本人ってこういう暮らしをしていたんだ、と。本当に自然体ですずさんは色んな家事をこなしていきます。今の人から見れば原始的で不便で手間がかかるんだけど、その当時の人々の創意工夫と手際の良さ(すずさんちょっと不器用だけど)に感心することしきり。本当に戦争が起きているのかと見ている方が疑うくらい穏やかに日常が過ぎていく。
物語の主な舞台(すずさんが嫁いだ先)は呉。すずさんの実家がある広島から東にちょっと行ったところ。
太平洋戦争、広島とくれば誰もが原爆を想像しますよね。話がちょっと前後しますが、私はこの作品の原作を読んでなかったし、事前情報ゼロで見ました。ただ、同じ原作者の漫画である『夕凪の街 桜の国』は読んでいたので、またこのパターンかなと思ったわけです。裕福とは言えなくとも幸せな日常が原爆によって壊されるってパターン。でもその日は予想したよりも早く訪れる。それでもこのシーン自体は戦争を扱った作品であればよくあるものだと思います。むしろお約束と言っても構わない。
ところが自分でもビックリしたんだけど、すげー凹んだんですよ。マジで。なんで俺こんなに凹んでるの?ってくらいに。
すずさんの日常が、大切なものが、大好きな絵が奪われる。さっきまであんなに楽しそうに、幸せそうに笑っていたのに。そのギャップが今まで見たどの戦争映画よりキツイ。それはこの作品の主人公すずの造形、描き方が素晴らしいから。この人の日常をずっと見ていたい、この人の笑顔を、みんなから呆れられて笑われている姿を、この人が話す言葉をずっと聞いていたいと思わせる魅力がある。それが途切れてしまうその瞬間が本当に辛い。
身も心も傷つきながらもそれでも日々を生きていかなければならない残酷さ、しかしそれに慣れていくたくましさ(鈍感さ)。堰を切ったようにすずさんが叫ぶシーンはいたたまれない気持ちになるのと同時にちょっとだけ安心するんです。ああ、すずさんのような人でもこんな気持ちを抱えるんだと。彼女はいつまでもウブな童女なんかじゃないのだと気づかせてくれる。
そしていつものすずさんに戻ったときに、私は「この人は持ってる人」なんだなって思いました。紆余曲折を経ながら自分の戦いを、自分の在るべき姿を誰に伝えるでもなく静かに染みいるように決心するシーン。傷ついても失っても、自分の生き方を、感性をその中に大切に力強く持ち続けられる人。天然で、おっとりしていて、朗らかで、自然体で笑うことができる。自分も、その周囲に居る人達も笑顔にして幸せにできそうな人。
私はそういう人に心当たりがあります。小学校の同級生で同じように天然っぽい人がいて、同窓会で会ったときも変わらなかったんだけど、きっとその人も色んな経験をして、それでも変わらずに今も居続けているんじゃないかと思ってます。
傍目には周囲が心配してしまうほど頼りなげに見えるんだけど、実はとても強いメンタルを備えている。その強さが人を傷つけない。すずさんを見たときに、創作物のキャラクターとしてではなく、実体を持った人間として感じられました。だからめっちゃ凹んだんですけどね。ズルイんです、この作品。視聴者の心をへし折っておいて、真っ先に主人公が立ち直るんだもん。そんなことされたらこっちだって奮い立たないとカッコ悪いじゃないですか。
旦那さんは良い奥さんを選んだと思いますよ。もしかしたらこの夫婦は夫婦になり損なったのかもしれないけど、でも、時間をかけて夫婦になったときに、とても温かい、笑顔の絶えない家族になるんじゃないかと思います。っていうか、すずさんいるんだから幸せになりやがれコンチクショー!!
チャッピー
監督:ニール・ブロムカンプ
脚本:ニール・ブロムカンプ、テリー・タッチェル
![CHAPPIE/チャッピー アンレイテッド・バージョン [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/61XQq2gNYAL._SL160_.jpg)
そういうことじゃないんじゃね?
終盤から違和感を覚えていたんだけど、ラストシーンで確信した。
順を追って話すと、自律型警官ロボットが実用化されはじめた世界が舞台。そのロボットの開発に携わったデオンは趣味でコツコツと人工知能の開発を進めいよいよ実用レベルまでこぎ着ける。そこで彼は廃棄予定だった破損したロボットのパーツを会社から持ち出して人工知能をインストールする。そうして生まれたのがチャッピー。
すったもんだあって、チャッピーはギャング達と一緒に育てることになる。ところが破損したパーツを使っていたため彼の寿命は5日間しかない。チャッピーは考えた末、自分の意識をデータ化してそれを別のボディに移し替える方法を思いつく。
実行直前に襲撃を受け、デオンは瀕死の重体、母親役だったヨーランディは死亡してしまう。辛くも脱出したチャッピー達は装置を使ってまずデオンの意識をデータ化し、ロボットに移し替えることに成功。続いてチャッピーも成功。最後に、生前データ化していたヨーランディの意識をロボットにインストールしてエンディング。
一番引っかかったというか、絶対にミスリードだと思うんだけど、意識データを移し替えるシーン。これ、デオンは死にかけていて、ほぼ死ぬのと同時にインストールが完了しているためにまるで連続した意識として描かれています。意識が朦朧として気付いたらロボットのボディになってたみたいな。この状態にすぐに馴染むデオンはそれはそれでおかしいと思うんだけど、それは置くとして、続くチャッピーもやはり機能停止寸前だった状態から移し替えているのでこれも連続しているように見える。
問題はヨーランディで、うろ覚えだけど彼女のセーブデータは死ぬ前日だったか、とにかく日常的に過ごしているときに取ったデータで、これをインストールしたら彼女パニックにならないか? え、なんで私ロボットになってるの?みたいな。それ以前に彼女は私達が知っているヨーランディだと言えるのかと。ここが本作のポイントだと思う。
具体的に例をあげれば、私のコピーを作ったとする。このコピーは肉体的にも記憶的にも文字どおり完璧なコピー。オリジナルをA、コピーをBとする。そのとき、私の意識が共有されてAとB好きにスイッチングできるとか、デュアルブートできるわけじゃなく、それぞれに意識(自分の目で見ている主観的な意識)を持っているはずだ。
例えば、Aを殺して、Bを残した場合、世間一般的には私が存在していることになるし何の問題も無い(個人的には死にたくはねー)んだけど、この場合、殺人になるのだろうか? それとも自分の分身が一つ減ったと捉えるべきか? いずれにせよ言えることはAの意識を持った私は存在しない。
人間の意識って連続性を保っているかどうかが重要だと思うのよ。朝起きるときに昨夜の自分と今の自分が違う人間だと思う人はまずいないと思うんだけど、そういう連続性があるからこそ自我って保てるんだと思う。いや、実際どうなのかわからないんだけど。だから今の私のセーブデータを取って、死にそうになったときとか大失敗したときに、よしここからやり直すぞ!とロードしても、それはもう別人だ。主観的には別の意識。ってことは完全な意識のデータ化を行えても、個の永続性・連続性は保てない。毎回死ぬ直前にセーブ・ロードしていけば見かけ上はそれっぽくはなるけど、全く同じ考え方をする他人が増えているにすぎない。そういう気持ち悪さっていうか、違和感を覚えるラスト。
使い古されたネタではあるんだけど、結局手を変え品を変え、人は生きたいと願い、同時に自我とは何かと問い続ける生き物なんだなってことなんでしょうけど。
脚本:ニール・ブロムカンプ、テリー・タッチェル
![CHAPPIE/チャッピー アンレイテッド・バージョン [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/61XQq2gNYAL._SL160_.jpg)
そういうことじゃないんじゃね?
終盤から違和感を覚えていたんだけど、ラストシーンで確信した。
順を追って話すと、自律型警官ロボットが実用化されはじめた世界が舞台。そのロボットの開発に携わったデオンは趣味でコツコツと人工知能の開発を進めいよいよ実用レベルまでこぎ着ける。そこで彼は廃棄予定だった破損したロボットのパーツを会社から持ち出して人工知能をインストールする。そうして生まれたのがチャッピー。
すったもんだあって、チャッピーはギャング達と一緒に育てることになる。ところが破損したパーツを使っていたため彼の寿命は5日間しかない。チャッピーは考えた末、自分の意識をデータ化してそれを別のボディに移し替える方法を思いつく。
実行直前に襲撃を受け、デオンは瀕死の重体、母親役だったヨーランディは死亡してしまう。辛くも脱出したチャッピー達は装置を使ってまずデオンの意識をデータ化し、ロボットに移し替えることに成功。続いてチャッピーも成功。最後に、生前データ化していたヨーランディの意識をロボットにインストールしてエンディング。
一番引っかかったというか、絶対にミスリードだと思うんだけど、意識データを移し替えるシーン。これ、デオンは死にかけていて、ほぼ死ぬのと同時にインストールが完了しているためにまるで連続した意識として描かれています。意識が朦朧として気付いたらロボットのボディになってたみたいな。この状態にすぐに馴染むデオンはそれはそれでおかしいと思うんだけど、それは置くとして、続くチャッピーもやはり機能停止寸前だった状態から移し替えているのでこれも連続しているように見える。
問題はヨーランディで、うろ覚えだけど彼女のセーブデータは死ぬ前日だったか、とにかく日常的に過ごしているときに取ったデータで、これをインストールしたら彼女パニックにならないか? え、なんで私ロボットになってるの?みたいな。それ以前に彼女は私達が知っているヨーランディだと言えるのかと。ここが本作のポイントだと思う。
具体的に例をあげれば、私のコピーを作ったとする。このコピーは肉体的にも記憶的にも文字どおり完璧なコピー。オリジナルをA、コピーをBとする。そのとき、私の意識が共有されてAとB好きにスイッチングできるとか、デュアルブートできるわけじゃなく、それぞれに意識(自分の目で見ている主観的な意識)を持っているはずだ。
例えば、Aを殺して、Bを残した場合、世間一般的には私が存在していることになるし何の問題も無い(個人的には死にたくはねー)んだけど、この場合、殺人になるのだろうか? それとも自分の分身が一つ減ったと捉えるべきか? いずれにせよ言えることはAの意識を持った私は存在しない。
人間の意識って連続性を保っているかどうかが重要だと思うのよ。朝起きるときに昨夜の自分と今の自分が違う人間だと思う人はまずいないと思うんだけど、そういう連続性があるからこそ自我って保てるんだと思う。いや、実際どうなのかわからないんだけど。だから今の私のセーブデータを取って、死にそうになったときとか大失敗したときに、よしここからやり直すぞ!とロードしても、それはもう別人だ。主観的には別の意識。ってことは完全な意識のデータ化を行えても、個の永続性・連続性は保てない。毎回死ぬ直前にセーブ・ロードしていけば見かけ上はそれっぽくはなるけど、全く同じ考え方をする他人が増えているにすぎない。そういう気持ち悪さっていうか、違和感を覚えるラスト。
使い古されたネタではあるんだけど、結局手を変え品を変え、人は生きたいと願い、同時に自我とは何かと問い続ける生き物なんだなってことなんでしょうけど。
セッション
監督・脚本:デミアン・チャゼル
是非映画館で観て欲しい作品。これはもう観賞というより体験する映画。レンタルの場合は大画面テレビとホームシアター必須。電気消して観て下さい。
ストーリー的には大した話しじゃない。音大に通う主人公がスパルタ教授のもとで血のにじむ努力を重ねながらドラムスの主奏者を目指す。
スパルタ教授ことフレッチャーは『フルメタル・ジャケット』のハートマン軍曹のような人で雰囲気や言葉遣いはまさにあんな感じ。彼の教室は超精鋭チームでメンバーの入れ替えが激しい。ちょっとでも音が外れれば叱責が飛び教室から放り出されてしまう。ドラムスの座は一人だけ。主人公は3人の候補生の一人。熾烈な競争は見ているだけで胃が痛くなる。それもそのはず、彼の目的は一人の天才を生み出すことで、そのためなら他のいかなる犠牲(主に生徒)を厭わない。こんな人の下では廃人か狂人になるのがオチで実際に生徒を潰している。
とにかく観ていて息が詰まる。ドラムを400拍子で叩く音がずっと続いているんじゃないかと錯覚するくらい映像と音楽によって観客を終始飲み込み続ける。緊張の糸が全く緩まない。レギュラー争いが激化してくると主人公は恋人と別れて音楽を選び自分を追い込んでいく。元々彼はプライドが高く少々陰気で、親戚から音大故に低く見られがちなことにコンプレックスを抱いていた。だからある程度のなりふり構わぬ姿も納得できる面がある。しかし中盤でのある出来事と、そこでの彼の行動はカルト宗教さながらの狂気を発していて常軌を逸している。彼をここまでさせるのは自身の功名心もさることながら過剰な競争による面も大きい。フレッチャーの強権と存在感が生徒達を支配し、ひいては映画のムードをも操っている。
それが打ち破られるのがラスト10分の演奏。実はすったもんだあって主人公はフレッチャーの罠にかかってしまうのだが、それを彼は自分の演奏によって覆してしまう。彼の迫真の演奏に今度はフレッチャーが飲まれ支配されると、彼の演奏を指揮し最高の音楽へと導いていく。
正直、言葉で説明しづらくて、映画館で見てこいとしか言えません。映画館独特の暗闇と巨大スクリーン、そして四方から叩きつけられる音。観客は映画に没入し、まるで作中の客席にいるかのような感覚を味わえる。ストーリーやアクションで緊張を保ち続ける映画は何本も見てきたけど、演技と音楽によって2時間弱を完璧に持たせている本作は個人的に類例がない。冒頭に書いたようにこれはもう体験で、アトラクション料金払って体験してきたと言って差し支えない。鮮烈な映画体験でした。
是非映画館で観て欲しい作品。これはもう観賞というより体験する映画。レンタルの場合は大画面テレビとホームシアター必須。電気消して観て下さい。
ストーリー的には大した話しじゃない。音大に通う主人公がスパルタ教授のもとで血のにじむ努力を重ねながらドラムスの主奏者を目指す。
スパルタ教授ことフレッチャーは『フルメタル・ジャケット』のハートマン軍曹のような人で雰囲気や言葉遣いはまさにあんな感じ。彼の教室は超精鋭チームでメンバーの入れ替えが激しい。ちょっとでも音が外れれば叱責が飛び教室から放り出されてしまう。ドラムスの座は一人だけ。主人公は3人の候補生の一人。熾烈な競争は見ているだけで胃が痛くなる。それもそのはず、彼の目的は一人の天才を生み出すことで、そのためなら他のいかなる犠牲(主に生徒)を厭わない。こんな人の下では廃人か狂人になるのがオチで実際に生徒を潰している。
とにかく観ていて息が詰まる。ドラムを400拍子で叩く音がずっと続いているんじゃないかと錯覚するくらい映像と音楽によって観客を終始飲み込み続ける。緊張の糸が全く緩まない。レギュラー争いが激化してくると主人公は恋人と別れて音楽を選び自分を追い込んでいく。元々彼はプライドが高く少々陰気で、親戚から音大故に低く見られがちなことにコンプレックスを抱いていた。だからある程度のなりふり構わぬ姿も納得できる面がある。しかし中盤でのある出来事と、そこでの彼の行動はカルト宗教さながらの狂気を発していて常軌を逸している。彼をここまでさせるのは自身の功名心もさることながら過剰な競争による面も大きい。フレッチャーの強権と存在感が生徒達を支配し、ひいては映画のムードをも操っている。
それが打ち破られるのがラスト10分の演奏。実はすったもんだあって主人公はフレッチャーの罠にかかってしまうのだが、それを彼は自分の演奏によって覆してしまう。彼の迫真の演奏に今度はフレッチャーが飲まれ支配されると、彼の演奏を指揮し最高の音楽へと導いていく。
正直、言葉で説明しづらくて、映画館で見てこいとしか言えません。映画館独特の暗闇と巨大スクリーン、そして四方から叩きつけられる音。観客は映画に没入し、まるで作中の客席にいるかのような感覚を味わえる。ストーリーやアクションで緊張を保ち続ける映画は何本も見てきたけど、演技と音楽によって2時間弱を完璧に持たせている本作は個人的に類例がない。冒頭に書いたようにこれはもう体験で、アトラクション料金払って体験してきたと言って差し支えない。鮮烈な映画体験でした。
桐島、部活やめるってよ

監督:吉田大八
脚本:喜安浩平、吉田大八
同名小説の映画。
本作を見た人の多くが思い浮かべるであろうワードは「スクールカースト」だろうと思う。私も最近知った言葉だけど、要するに学内での勝ち組・負け組、リア充・非リア充、その序列のこと。運動部に所属していて明るい奴に比べるとオタク系の奴って肩身狭いじゃないですか、ソレ。
メインとなる登場人物は、映画部部長の前田と野球部所属の菊池宏樹。このふたりの対照的な立ち位置が物語の中核。
さて、当然オタク系で冴えないメガネの前田がこのスクールカーストの底辺と見られがちなんだけど(そういう感想も多い)、私は全然そんな風に見えませんでした。彼は自分の好きな映画、撮りたい映画に熱中していて、それを理解してくれる部員と一緒に活動している。また、彼は自分が将来映画監督になれるなんて思っていない。部活は自分が好きな映画との接点を感じさせてくれるものだと自覚しています。度々映画の撮影が妨害されてもちゃんと自分の意見を主張できる。そんな彼なら大学に行っても似たようなサークルに入って、同好の友を見つけて楽しくやれるでしょう。高校生活を振り返ったときにいい想い出がたくさん出てくるんじゃないかな。つまり、充実してるんですよ、彼。間違いなくリア充です。
本作の特徴はタイトルになっているのにもかかわらず桐島本人が登場しないこと。
バレー部のキャプテンで、美人な彼女がいて、クラスの人気者。そんな彼がある日突然部活を辞めて学校にも出てこなくなる。その理由は誰にも分からない。物語は彼の失踪を知った関係者の右往左往する様子が群像劇として描かれる。桐島ネットワークの中心がなくなったことで様々な関係に変化が起きるのが本作の一つの見所なんだけど、やはり注目はもう一人のメインである菊池宏樹。
彼は第二の桐島とも言える人物で、野球部所属の幽霊部員。でも運動神経抜群のため試合があれば誘われるほど。人気者で彼女もいる。桐島と友人の彼もまた桐島ネットワークの主要なポストにいる。
みんなが桐島桐島言っている中で、前田はマイペース。桐島ネットワークに接続していない彼は自由で、独自のポジションを持っている。それに対して菊池は急に手持ち無沙汰になる。桐島の部活が終わるまで暇つぶしに友人とバスケするのが日課だったが桐島が部を辞めてしまったことでその理由がなくなってしまう。幽霊部員で、彼女にお熱というわけでもない。ダラダラと毎日学校に来ているだけ。ラストの前田と菊池の会話に彼らのスタンス、ポジションの違いが明確に現われる。前田が納得して自分の好きなことに熱中しているのに対して、菊池には何も無い。彼は空っぽ。その事実を目の前にした彼は動揺して半泣きになる。
もしかしたら桐島もそれに気付いて辞めたのかも知れないし、周囲を驚かせるためにわざとやったのかもしれないし、全然別な理由かもしれない。いずれにせよ桐島が失踪したことで突きつけられた現実は、自分で居場所を作れる(守れる)人の強さ・充実であり、知らずの内に依存していた人達の脆さです。
この作品はスクールカーストの逆転劇(オタクがリア充に一矢報いる)ではない。勝ち負けとか、序列とか関係ない。自分が好きなことを納得してやれる。もうそれだけで人生は楽しい。万能で優秀で人気者であっても熱中できるものがなければ寂寥感や空虚感しか残らない。学校は閉鎖的な空間なので序列や勝ち負けで捉えられがちだけど、人生のスパンで見たときに自分なりの価値を見つけて、邁進して、それを守れるだけの力を持つことの方が重要です。その過程での勝ち負けなど些細なものでしかない。どーせ戦い続けるしかないんだから。
「戦おう、ここが俺たちの世界だ。俺たちはこの世界で生きていかなければならないのだから」
メメント
監督:クリストファー・ノーラン
脚本:ジョナサン・ノーラン
記憶の不確かさを利用した逆転的発想。
クリストファー・ノーラン監督らしいガッチリしたシナリオの映画。
普通の物語が1~10に進んでいくとしたら、この映画は10~1に逆戻りしていく。それだけならよくある手法だけど、これにプラスして主人公が記憶を10分しか維持できない設定が加わっているのがミソ。主人公も視聴者も今何が起きているのか、何故こんな状況になっているのかが常に分からない状態になっていて、最初から最後まで緊張感を持って見られる。これだけでも十分に一本の映画として正解。
最終的には何故主人公がある男を殺したのか、その理由と動機が分かるんだけど、まずもって登場人物が頭が良い。そしてウソを吐く。これが面白い。
この映画を初見で、(DVDで見る場合)一回も巻き戻しせず完全に頭の中で整理しながら視聴しきるのはかなり難しい。上述したように登場人物が巧妙なウソを吐く上に、時系列が逆戻りしていくのでパズル合わせがややこしくなっていく。ウソに思えたことが実は本当で、本当のことがウソに思えてしまう。みんな真実とウソを混ぜるのでタチが悪い。まあ、そうなってしまうのは主人公が持っている情報が先入観になって視聴者が踊らされるからなんだけど。実はそれが主人公にとっては好都合だったりする。
DVDでは本編とは別に時系列順に再生できるモードが入っているので、本編を一回見て頭の中で整理してから答え合わせのように見ると楽しめます。特にそれぞれの登場人物がどんな思惑で行動に出たのかを見ていくと面白い。
「オオカミと香料」というラノベで、「ウソを吐く人がいたらウソの内容ではなく、ウソを吐いた理由の方が重要だ」みたいな会話があるんですが、まさにそれですね。人がウソを吐く場合は必ずといっていいほど、何かを誘導させたい理由がある。
何故主人公が一番目立つところに、一見すると事件となんの関係もないフレーズを入れたのか。
人間は自分が見たいものしか見ない。それを逆手にとった作品。
脚本:ジョナサン・ノーラン
記憶の不確かさを利用した逆転的発想。
クリストファー・ノーラン監督らしいガッチリしたシナリオの映画。
普通の物語が1~10に進んでいくとしたら、この映画は10~1に逆戻りしていく。それだけならよくある手法だけど、これにプラスして主人公が記憶を10分しか維持できない設定が加わっているのがミソ。主人公も視聴者も今何が起きているのか、何故こんな状況になっているのかが常に分からない状態になっていて、最初から最後まで緊張感を持って見られる。これだけでも十分に一本の映画として正解。
最終的には何故主人公がある男を殺したのか、その理由と動機が分かるんだけど、まずもって登場人物が頭が良い。そしてウソを吐く。これが面白い。
この映画を初見で、(DVDで見る場合)一回も巻き戻しせず完全に頭の中で整理しながら視聴しきるのはかなり難しい。上述したように登場人物が巧妙なウソを吐く上に、時系列が逆戻りしていくのでパズル合わせがややこしくなっていく。ウソに思えたことが実は本当で、本当のことがウソに思えてしまう。みんな真実とウソを混ぜるのでタチが悪い。まあ、そうなってしまうのは主人公が持っている情報が先入観になって視聴者が踊らされるからなんだけど。実はそれが主人公にとっては好都合だったりする。
DVDでは本編とは別に時系列順に再生できるモードが入っているので、本編を一回見て頭の中で整理してから答え合わせのように見ると楽しめます。特にそれぞれの登場人物がどんな思惑で行動に出たのかを見ていくと面白い。
「オオカミと香料」というラノベで、「ウソを吐く人がいたらウソの内容ではなく、ウソを吐いた理由の方が重要だ」みたいな会話があるんですが、まさにそれですね。人がウソを吐く場合は必ずといっていいほど、何かを誘導させたい理由がある。
何故主人公が一番目立つところに、一見すると事件となんの関係もないフレーズを入れたのか。
人間は自分が見たいものしか見ない。それを逆手にとった作品。
![]() | メメント [DVD] (2002/05/22) ガイ・ピアース、キャリー=アン・モス 他 |
ウォルト・ディズニーの約束
![ウォルト・ディズニーの約束 MovieNEX [ブルーレイ+DVD+デジタルコピー(クラウド対応)+MovieNEXワールド] [Blu-ray]](https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/51q8I3gtTpL._SL160_.jpg)
監督 ジョン・リー・ハンコック
脚本 ケリー・マーセル、スー・スミス
パメラ・トラバース原作の「メアリー・ポピンズ」をウォルト・ディズニーが映画化するまでの悪戦苦闘と作家の苦悩を描いた映画。メアリー・ポピンズを全く知らずに見たが、この映画は文句なしに面白い。
ディズニーのオファーを20年近く断り続けてきたもののお金が底をつきかけ、最終決定権は自分にあることを担保にパメラは映画脚本の監修に加わる…という出だしから始まる。パメラが何故頑なにメアリーの世界観を守ろうとするのかが過去の回想を経るにしたがって解き明かされていくミステリー風作劇。この物語が提示するのは、物語が作家にとって自分の一部であり切り売りするだけの商品ではないこと、創作を通じて自らの心を癒そうとする人間の脆さと救済です。
序盤の頑固おばさんぶりが半端ない。アメリカ(人)を嫌っていて何でもかんでも難癖つけるわ、脚本の打合せでは必ず録音することを条件にするわ、出だしの一行目から「この番地の呼び方が気に入らない」とディズニースタッフの頭を抱えさせる。物語が進むにつれて彼女が人間味を持った人物に見えていくのはベタな作りだけど、丁寧な流れで、運転手とのささやかな友情エピソードがニクイ演出となって彼女の好感度を上げている。
彼女の回想から明らかになってくるのは、父親は陽気でユーモアを持った優しい人であったこと。銀行員だったが上手く仕事に馴染めていなかったこと。映画冒頭での田舎への引っ越しは、どうやら都市銀行をクビ(左遷?)になった結果であることが読み取れる。父親は次第に酒が手放せなくなり、転落事故が原因で亡くなってしまう。
この過去のエピソードと現実が同期しながらちりばめられた伏線が回収されていくのも綺麗。終盤のウォルトとの対話シーンもまた美しい。パメラがメアリーを手放したくないのは、それが彼女にとっての聖域、潜在意識であり願望だから。自分の大切な想い出、大切な願いが託された物語が何も知らない人達の勝手な解釈や都合でねじ曲げられてしまうのはどうしても許せない。彼女の過去は現在でも色褪せることなく生きている。それをウォルトは見抜く。同じ作家として、創作者としての共感と向き合い方を伝えるこのシーンによって二人の人柄と葛藤がコインの表裏だということが分かる。
また本作のエンディングロールは画竜点睛の見本というべき見事な仕上げ。打合せで録音された彼女の肉声が流れるのだ。本当に番地のみならず事細かに注文を付けていることが分かる。映画同様気むずかしそうなおばさんの声。だが、父親の写し身であるバンクス氏について語る彼女の声には父親への憧憬と優しさが滲み出ている。勿論実際に彼女がどのような心情で言ったかはわからない。しかしこの映画を見た観客は彼女の言葉に父親への愛情を読み取るだろう。この一言に説得力を持たせるために構築したんじゃないかと思えるほどの見事な構成。エンディングロールにこんな使い方があったのかと驚嘆しました。
人はみな誰でも子どもを経験している。しかし子どもの頃に考えていたこと、感じていたことを忘れてしまう人は意外に多い(記憶力というんじゃなしに、感受性として子どもの頃の感覚を失ってしまう)。でもやっぱり誰もが子どもの頃に得たものを大人になっても棄てられずに持っているのだと思う。それは宝であることもあるし負債でもあることもあるし、玉石混合だろう。幸いにして私のそれは宝だ。だから私はそれを大事にしまい込むんじゃなしに、ガンガン自分のために使う。そうするとそれはより洗練されていく。過去から現在まで自分の人生を肯定し得ることは、とても幸福なことだ。それは不断の努力と創造力によって成し得るものだと私は思っている。
ラッシュ/プライドと友情
監督:ロン・ハワード
脚本:ピーター・モーガン
良いドラマだった。
1976年のF1グランプリをモチーフにした映画。前年チャンピオンにしてポイント首位のニキ・ラウダと王座を狙うジェームズ・ハントの頂上決戦。たぶん40代以上で車が好きな人は知ってるんじゃないかと思う。グランプリ最終レースが日本だったのでテレビで見た人も多いんじゃないかな。物語はそこから6年ほど遡って描かれていく。
この映画を見るにあたって幸いだったのは、私に全く知識が無かったこと。どちらのファンでもないし、フェラーリもマクラーレンも名前しか知らない。そのおかげで手に汗握るレースをガッツリ楽しむことが出来た。
漫画的とも言えるくらいラウダとハントのキャラが対照的なのがまず面白い。
ハントはまさにプレイボーイという感じで酒を飲むか車に乗っているか女に乗っているかのいずれかしかない。物語序盤でチームと一緒にF1を目指す姿は弱小野球部が甲子園を目指すような面白さもある。周囲へのウケがいい遊び人。しかしレース前に緊張すると吐いてしまう内面の弱さが見える。「フライト」の主人公ウィトカーに似ている。
対するラウダはレーサーというよりはビジネスマンや弁護士に向くような人物で、自前で資金を調達してF1チームに乗り込むやり手。自分が好きなことは徹底的にやるタイプで「ソーシャルネットワーク」のマークに印象が近い。人受けは良くないし、チームとも軋轢がある。しかしF1の腕にかけてはピカイチ。事故で瀕死の重傷を負ったにもかかわらず僅か42日後にはレースに戻る超人。
このふたりが追いつけ追い越せとデッドヒートを繰り広げるレース展開は王道的だが、だからこそ白熱する。さらにこの作品を味わい深くしているのは主人公を置かず、ふたりの視点と私生活を見せながら話しを進めている点。ふたりの人生がF1を接点にして繋がっている。だからF1に対するふたりの共通点と同時に決定的な違いも見えてくる。ハントは一種の博打打ちのような性格で失敗やリスクを恐れない。おそらく彼は不安や恐怖と折り合いをつけるのではなく、それを克服して自分が勝つことを証明しなければ納得がいかないのだろう。感情の起伏が激しいのも頷ける。しかしラウダは違う。F1が危険度の高いレースということを知りつつそのリスクを最小限にしようとする。折り合いを付けようとするわけだ。中盤の目玉となるレース、最終レースでも彼の判断の根拠が明確に描かれている。
自他共に認めるライバルであるふたりの友情が垣間見える終盤がこれまた王道的で熱い。映画から受ける印象だと同志という感じがする。F1ドライバー同士だからこその挫折と栄光、ライバルだからこその対抗心と共感。ふたりの姿を並行的に描くことで物語に深みが与えられている。ラウダが語る短いエピローグも彼らの人生観、性格から考えれば納得する終わり方。
レースシーンそのものはそれほど尺が長いわけではないし知っている人には結果が分かっている物語ですが、ドラマメインで2時間ダレることなく見せ切る構成と余韻は見事。レースを知らない人ほど楽しめ、知っている人でもふたりのドラマを知ればあのレースの面白さが深まるんじゃないかと思う。
ちなみに映画だけだとふたりの接点が少ないように見えますが、ウィキペディアなどを見ると結構仲良かったようで、同居したこともあったとか。
引退から2年経った1982年にF1に復帰する際、マクラーレンのメインスポンサーであるマールボロの重役から「契約金はいくら欲しいんだ」と聞かれ、それまでの現役ドライバーよりも遙かに高額の金額を口にした。それに対して重役は「まだ誰よりも走る自信があるのか?」と質問するとラウダは「私のドライバーとしての価値はせいぜい1ドル程度だろう。この金額は、ニキ・ラウダというブランドに対して支払われる対価だと考えて欲しい」と答え、これにマールボロ側も了承したが、ラウダは1984年に3度目となるワールドチャンピオンを獲得するなど、1ドルの価値の高さを見せつけている。(ウィキペディアより)
外国人のこういうセンスって好きだわ。
脚本:ピーター・モーガン
良いドラマだった。
1976年のF1グランプリをモチーフにした映画。前年チャンピオンにしてポイント首位のニキ・ラウダと王座を狙うジェームズ・ハントの頂上決戦。たぶん40代以上で車が好きな人は知ってるんじゃないかと思う。グランプリ最終レースが日本だったのでテレビで見た人も多いんじゃないかな。物語はそこから6年ほど遡って描かれていく。
この映画を見るにあたって幸いだったのは、私に全く知識が無かったこと。どちらのファンでもないし、フェラーリもマクラーレンも名前しか知らない。そのおかげで手に汗握るレースをガッツリ楽しむことが出来た。
漫画的とも言えるくらいラウダとハントのキャラが対照的なのがまず面白い。
ハントはまさにプレイボーイという感じで酒を飲むか車に乗っているか女に乗っているかのいずれかしかない。物語序盤でチームと一緒にF1を目指す姿は弱小野球部が甲子園を目指すような面白さもある。周囲へのウケがいい遊び人。しかしレース前に緊張すると吐いてしまう内面の弱さが見える。「フライト」の主人公ウィトカーに似ている。
対するラウダはレーサーというよりはビジネスマンや弁護士に向くような人物で、自前で資金を調達してF1チームに乗り込むやり手。自分が好きなことは徹底的にやるタイプで「ソーシャルネットワーク」のマークに印象が近い。人受けは良くないし、チームとも軋轢がある。しかしF1の腕にかけてはピカイチ。事故で瀕死の重傷を負ったにもかかわらず僅か42日後にはレースに戻る超人。
このふたりが追いつけ追い越せとデッドヒートを繰り広げるレース展開は王道的だが、だからこそ白熱する。さらにこの作品を味わい深くしているのは主人公を置かず、ふたりの視点と私生活を見せながら話しを進めている点。ふたりの人生がF1を接点にして繋がっている。だからF1に対するふたりの共通点と同時に決定的な違いも見えてくる。ハントは一種の博打打ちのような性格で失敗やリスクを恐れない。おそらく彼は不安や恐怖と折り合いをつけるのではなく、それを克服して自分が勝つことを証明しなければ納得がいかないのだろう。感情の起伏が激しいのも頷ける。しかしラウダは違う。F1が危険度の高いレースということを知りつつそのリスクを最小限にしようとする。折り合いを付けようとするわけだ。中盤の目玉となるレース、最終レースでも彼の判断の根拠が明確に描かれている。
自他共に認めるライバルであるふたりの友情が垣間見える終盤がこれまた王道的で熱い。映画から受ける印象だと同志という感じがする。F1ドライバー同士だからこその挫折と栄光、ライバルだからこその対抗心と共感。ふたりの姿を並行的に描くことで物語に深みが与えられている。ラウダが語る短いエピローグも彼らの人生観、性格から考えれば納得する終わり方。
レースシーンそのものはそれほど尺が長いわけではないし知っている人には結果が分かっている物語ですが、ドラマメインで2時間ダレることなく見せ切る構成と余韻は見事。レースを知らない人ほど楽しめ、知っている人でもふたりのドラマを知ればあのレースの面白さが深まるんじゃないかと思う。
ちなみに映画だけだとふたりの接点が少ないように見えますが、ウィキペディアなどを見ると結構仲良かったようで、同居したこともあったとか。
引退から2年経った1982年にF1に復帰する際、マクラーレンのメインスポンサーであるマールボロの重役から「契約金はいくら欲しいんだ」と聞かれ、それまでの現役ドライバーよりも遙かに高額の金額を口にした。それに対して重役は「まだ誰よりも走る自信があるのか?」と質問するとラウダは「私のドライバーとしての価値はせいぜい1ドル程度だろう。この金額は、ニキ・ラウダというブランドに対して支払われる対価だと考えて欲しい」と答え、これにマールボロ側も了承したが、ラウダは1984年に3度目となるワールドチャンピオンを獲得するなど、1ドルの価値の高さを見せつけている。(ウィキペディアより)
外国人のこういうセンスって好きだわ。
フライト
監督: ロバート・ゼメキス
脚本:ジョン・ゲイティンズ
アルコール依存症者への励ましと、その勇気を称えた映画。
神業的な操縦技術によって飛行機トラブルから多く命を救った主人公ウィトカー。しかし本当の災難はここから始まる。ウィトカーは重度のアルコール依存症で当日も泥酔、それを誤魔化すために薬物を使用する有様。事故調査委員会がこれを問題にすればヒーローから一転して監獄行き。それを防ぐためパイロット組合は凄腕の弁護士を雇い隠蔽に奔走する。
冒頭で述べたようにこの映画は航空機パニックものでなければ法廷ものでもない。アルコール依存症に苦しむ人々への励ましと応援、その勇気を称えた映画です。
この作品のポイントは嘘、欺瞞にあります。ウィトカーは確かに事故当日も泥酔していましたが、事故時の対応は冷静そのもので彼でなければあの事故をあそこまで食い止めることはできなかった。これは作中でも指摘されていて、彼がアルコールならびに薬物を使用していたことと、事故は全く関係がない。勿論、アルコールや薬物を使っていれば法的に問われるのは間違いなく、関係者が恐れたのはそれでした。仕事をするために違法行為に手を染める、日常を円滑に進めるために嘘をつく。つまり、この物語が暴き出そうとしているのは、日常の中で無理矢理バランスを取るために行われる行為、アルコールや薬物などの負の行為とそれに依存してしまう人の現実です。
この物語にはもう一人アルコール依存症と薬物中毒を抱えた女性が登場します。ウィトカーと出会った女性はなんとか依存症から抜けだそうとアルコホーリクス・アノニマスに自ら参加するなど積極的に酒を断とうとします。アルコホーリクス・アノニマスというのはアルコール依存症者同士によるグループセラピーで、自分が依存症であることをみんなの前で認め、自分の弱さを認めながら断酒を誓い合っていく治療プログラムです。あまり日本では知られていないと思いますが、ギャンブル依存症でも同じ治療が使われています。尺的に短いシーンですが、これを見たときに私はこの映画がアルコール依存症についてスポットを当てているのだと確信しました。自立していこうとする彼女と反対に、ウィトカーが彼女に依存し、駆け落ちしようとまで言い出すのは典型的なアルコール依存者の態度です。依存症の背景には不安や恐れ、あるいは正の活動を補填するための代償(補償)が隠れています。正の活動というのは仕事など精力的な活動のことで、例えば凄く仕事が出来る人が酒や女にめっぽうだらしない、なんてのがそのパターン。言うなれば帳尻合せとでもいうか、そうやってバランスを取る人はいます。ウィトカーはまさにそのタイプ。彼が中盤でさらに依存症が悪化するのは不安を紛らわせようと酒に手を出してしまうからです。彼は常に酒が逃避手段だったのでこのような逆境や苦しい状態に陥るほど負のスパイラルに落ちてしまう。次第に負債の方が大きくなってしまうわけです。ウィトカーと女性が最初はいい感じで互いを癒していたのに、結局破局を迎えてしまうのは依存症の根深さを語っています。
この負のスパイラルを起こしてしまうところに依存症の問題があって、これをすぐに止めるなんてことはできません。自転車操業が止まってしまったら破産するしかないのと同じ。それにこれが公にバレなければ今まで同様の日常が続けられるのだからいいんじゃない?と身勝手な葛藤も湧き出るでしょう。しかもこの主人公が凄まじいのは、公聴会の当日にも深酒して薬物で誤魔化してしまうところです。映画冒頭で描かれた搭乗前のビシっとした姿と全く同じシークエンスで公聴会に臨むシーンは完全に意図されています。ウィトカーの生活はメチャクチャなんだけど、彼なりの方法で均衡が取れていてある意味で制御できている。まだまだ自転車操業を続けられる。
物語終盤の公聴会はレ・ミゼラブルのジャン・ヴァルジャンと同じ構図ですね。最終的にこの問題が突きつけるのは、その人の良心、自分の負債をこれ以上を増やしていくのか、何かにすがっていなければ自分を保てない、嘘をつくことでしか生きられない人生への問いかけです。死人に口なし、死んだ同僚に罪をかぶせて自分はのうのうと暮らし続けるのか。人生の分岐路に立たされるこのシーンは冒頭の墜落シーンよりもずっと迫真を持って描かれています。ウィトカーが公聴会で「神よ、お力を」とつぶやくのも印象的。正直泣きました。人が人生を賭ける瞬間、自分の心に向き合い責任を負おうとするシーンはグッとくるものがあります。
この映画では癌で余命幾ばくもない人物、信仰篤い人物が登場するんですがそれらは現実を受け止めること、神の前に立つことで一人の人間として自答していくことを暗に示しているのだと思います。彼は全てを失ってしまうのだけど、同時に負債もまた精算されていきます。彼が監獄で語るセリフ、ラストの息子との会話はこれから彼が得るであろう多くのものを示唆しています。
まあ、ぶっちゃけて言うと、依存症が良心や意思によって克服できるなら苦労しなくて、例えばギャンブル依存症であれば借金が返せなくなって破産状態になるか、アルコールや薬物なら檻の中に入ることで中断されるのが関の山です。ウィトカーも刑務所に入ることで酒から強制的に引き離されています。もちろん自分の意思や周囲の助けによってそれを成し遂げる人もいて、そうした人達へのエール、賛歌だと私は思いました。依存症は必ずしも弱さから出ているものではなく日常のバランスを取るために行われることもあって、だからこそそのシーソーゲームから脱しにくい。
酒等に頼ることが間違っているのではありません。酒も、薬物でさえも使い方を誤らなければ人間を助け人生に彩りを与えるものでしょう。しかしそこから抜け出せなくなると自分の人生が自分のものでなくなり多くの不幸を招きます。自分だけじゃない。家族も友達も傷つけ失ってしまいかねない問題で、アメリカではなおさら身近な問題なのではないかと思います。これを航空機パニック・法廷サスペンスを織り交ぜながら提示する本作はエンターテイメント的でありながら見応えがありました。
脚本:ジョン・ゲイティンズ
アルコール依存症者への励ましと、その勇気を称えた映画。
神業的な操縦技術によって飛行機トラブルから多く命を救った主人公ウィトカー。しかし本当の災難はここから始まる。ウィトカーは重度のアルコール依存症で当日も泥酔、それを誤魔化すために薬物を使用する有様。事故調査委員会がこれを問題にすればヒーローから一転して監獄行き。それを防ぐためパイロット組合は凄腕の弁護士を雇い隠蔽に奔走する。
冒頭で述べたようにこの映画は航空機パニックものでなければ法廷ものでもない。アルコール依存症に苦しむ人々への励ましと応援、その勇気を称えた映画です。
この作品のポイントは嘘、欺瞞にあります。ウィトカーは確かに事故当日も泥酔していましたが、事故時の対応は冷静そのもので彼でなければあの事故をあそこまで食い止めることはできなかった。これは作中でも指摘されていて、彼がアルコールならびに薬物を使用していたことと、事故は全く関係がない。勿論、アルコールや薬物を使っていれば法的に問われるのは間違いなく、関係者が恐れたのはそれでした。仕事をするために違法行為に手を染める、日常を円滑に進めるために嘘をつく。つまり、この物語が暴き出そうとしているのは、日常の中で無理矢理バランスを取るために行われる行為、アルコールや薬物などの負の行為とそれに依存してしまう人の現実です。
この物語にはもう一人アルコール依存症と薬物中毒を抱えた女性が登場します。ウィトカーと出会った女性はなんとか依存症から抜けだそうとアルコホーリクス・アノニマスに自ら参加するなど積極的に酒を断とうとします。アルコホーリクス・アノニマスというのはアルコール依存症者同士によるグループセラピーで、自分が依存症であることをみんなの前で認め、自分の弱さを認めながら断酒を誓い合っていく治療プログラムです。あまり日本では知られていないと思いますが、ギャンブル依存症でも同じ治療が使われています。尺的に短いシーンですが、これを見たときに私はこの映画がアルコール依存症についてスポットを当てているのだと確信しました。自立していこうとする彼女と反対に、ウィトカーが彼女に依存し、駆け落ちしようとまで言い出すのは典型的なアルコール依存者の態度です。依存症の背景には不安や恐れ、あるいは正の活動を補填するための代償(補償)が隠れています。正の活動というのは仕事など精力的な活動のことで、例えば凄く仕事が出来る人が酒や女にめっぽうだらしない、なんてのがそのパターン。言うなれば帳尻合せとでもいうか、そうやってバランスを取る人はいます。ウィトカーはまさにそのタイプ。彼が中盤でさらに依存症が悪化するのは不安を紛らわせようと酒に手を出してしまうからです。彼は常に酒が逃避手段だったのでこのような逆境や苦しい状態に陥るほど負のスパイラルに落ちてしまう。次第に負債の方が大きくなってしまうわけです。ウィトカーと女性が最初はいい感じで互いを癒していたのに、結局破局を迎えてしまうのは依存症の根深さを語っています。
この負のスパイラルを起こしてしまうところに依存症の問題があって、これをすぐに止めるなんてことはできません。自転車操業が止まってしまったら破産するしかないのと同じ。それにこれが公にバレなければ今まで同様の日常が続けられるのだからいいんじゃない?と身勝手な葛藤も湧き出るでしょう。しかもこの主人公が凄まじいのは、公聴会の当日にも深酒して薬物で誤魔化してしまうところです。映画冒頭で描かれた搭乗前のビシっとした姿と全く同じシークエンスで公聴会に臨むシーンは完全に意図されています。ウィトカーの生活はメチャクチャなんだけど、彼なりの方法で均衡が取れていてある意味で制御できている。まだまだ自転車操業を続けられる。
物語終盤の公聴会はレ・ミゼラブルのジャン・ヴァルジャンと同じ構図ですね。最終的にこの問題が突きつけるのは、その人の良心、自分の負債をこれ以上を増やしていくのか、何かにすがっていなければ自分を保てない、嘘をつくことでしか生きられない人生への問いかけです。死人に口なし、死んだ同僚に罪をかぶせて自分はのうのうと暮らし続けるのか。人生の分岐路に立たされるこのシーンは冒頭の墜落シーンよりもずっと迫真を持って描かれています。ウィトカーが公聴会で「神よ、お力を」とつぶやくのも印象的。正直泣きました。人が人生を賭ける瞬間、自分の心に向き合い責任を負おうとするシーンはグッとくるものがあります。
この映画では癌で余命幾ばくもない人物、信仰篤い人物が登場するんですがそれらは現実を受け止めること、神の前に立つことで一人の人間として自答していくことを暗に示しているのだと思います。彼は全てを失ってしまうのだけど、同時に負債もまた精算されていきます。彼が監獄で語るセリフ、ラストの息子との会話はこれから彼が得るであろう多くのものを示唆しています。
まあ、ぶっちゃけて言うと、依存症が良心や意思によって克服できるなら苦労しなくて、例えばギャンブル依存症であれば借金が返せなくなって破産状態になるか、アルコールや薬物なら檻の中に入ることで中断されるのが関の山です。ウィトカーも刑務所に入ることで酒から強制的に引き離されています。もちろん自分の意思や周囲の助けによってそれを成し遂げる人もいて、そうした人達へのエール、賛歌だと私は思いました。依存症は必ずしも弱さから出ているものではなく日常のバランスを取るために行われることもあって、だからこそそのシーソーゲームから脱しにくい。
酒等に頼ることが間違っているのではありません。酒も、薬物でさえも使い方を誤らなければ人間を助け人生に彩りを与えるものでしょう。しかしそこから抜け出せなくなると自分の人生が自分のものでなくなり多くの不幸を招きます。自分だけじゃない。家族も友達も傷つけ失ってしまいかねない問題で、アメリカではなおさら身近な問題なのではないかと思います。これを航空機パニック・法廷サスペンスを織り交ぜながら提示する本作はエンターテイメント的でありながら見応えがありました。
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メアリー&マックス
監督・脚本:アダム・エリオット
クレイアニメーション(粘土で作った人形を動かして映像化したもの)。雰囲気的にはNHKとかでやっている人形劇のソレに近い。が、内容は大人向け。
地味で額に痣があっていじめられっ子なメアリーとアスペルガー症候群のマックスの文通による交流を描く物語。下ネタやブラックなネタが随所に見られ、キャラクターの造詣もちょっと不気味だが暖かみを感じる人間ドラマに仕上がっている。
マックスの描写は非常にリアルで、自閉症(アスペルガーは高機能自閉症にあたる)の人の自伝や関連書籍の記述とかなり符合する。この物語は監督であるエリオットの文通体験を元にしているらしい。
やがて成長し大学では学業を認められ、結婚、と順風満帆な道を歩むメアリーは次第に自惚れるようになり自分はどんな心の病も治せると思うようになる。マックスとの交流を題材に本を書き、自分はマックスの病気を治せると親切心から彼へ献本する。が、これがマックスの怒りを買う。彼は自身の症状を病気だとは思っていない。欠点もまた自分の個性であり受け入れて背負っていくものであると彼は知っているからだ。メアリーのこの行為は彼にとって裏切り行為でありここでふたりの友情は一旦切れてしまう。
その結果メアリーもまた傷つき酒に溺れるようになってしまう。夫のダミアンはメアリーから離れ男のもとに逃げる(ちなみにエリオットも同性愛者らしい)。独り残されたメアリーは自殺まで図る。しかしマックスは彼女を許す。それは人が完璧ではないから。自分も彼女もみんなも、と彼は云う。
アニメという言葉から想像されるコミカルさや明るさはこの物語には無い。実写でやっても良いんじゃないかと思うほど現実的な心理描写と関係を描いている。アスペルガーを題材としている点では自閉症を扱った「レインマン」にも通じている。ただパニック症状などをリアルにやると多分普通の人は引く。彼らの言動は奇異に見えるからだ。そこはクレイアニメーションによって印象が和らぎ受け入れやすくなっている。
この物語のキモは人と人との交流、絆である。メアリーがコンプレックスを抱え自惚れ身を崩したように、マックスもまた日常で苦労している。ここに健常者や病人(障害者)という区別は無い。彼らは悩み、傷つきながらも自分と世の中に折り合いを付けながら暮している。完璧ではない者達がお互いに支え学びながら各々の人生を過ごしている。クライマックスは賛否が分かれるかもしれないが私は評価している。友情や絆は離れていても成立するし、またお互いの道が直接交わることがなくともお互いを支え合えるからだ。相手を尊重し相手に学んで自分の人生を彩れるならこれを幸福と言わずなんと言うのか。メアリーとマックスが歩んだ道、そこで交わされた言葉と心の交流に人間の面白さと美しさがある。
クレイアニメーション(粘土で作った人形を動かして映像化したもの)。雰囲気的にはNHKとかでやっている人形劇のソレに近い。が、内容は大人向け。
地味で額に痣があっていじめられっ子なメアリーとアスペルガー症候群のマックスの文通による交流を描く物語。下ネタやブラックなネタが随所に見られ、キャラクターの造詣もちょっと不気味だが暖かみを感じる人間ドラマに仕上がっている。
マックスの描写は非常にリアルで、自閉症(アスペルガーは高機能自閉症にあたる)の人の自伝や関連書籍の記述とかなり符合する。この物語は監督であるエリオットの文通体験を元にしているらしい。
やがて成長し大学では学業を認められ、結婚、と順風満帆な道を歩むメアリーは次第に自惚れるようになり自分はどんな心の病も治せると思うようになる。マックスとの交流を題材に本を書き、自分はマックスの病気を治せると親切心から彼へ献本する。が、これがマックスの怒りを買う。彼は自身の症状を病気だとは思っていない。欠点もまた自分の個性であり受け入れて背負っていくものであると彼は知っているからだ。メアリーのこの行為は彼にとって裏切り行為でありここでふたりの友情は一旦切れてしまう。
その結果メアリーもまた傷つき酒に溺れるようになってしまう。夫のダミアンはメアリーから離れ男のもとに逃げる(ちなみにエリオットも同性愛者らしい)。独り残されたメアリーは自殺まで図る。しかしマックスは彼女を許す。それは人が完璧ではないから。自分も彼女もみんなも、と彼は云う。
アニメという言葉から想像されるコミカルさや明るさはこの物語には無い。実写でやっても良いんじゃないかと思うほど現実的な心理描写と関係を描いている。アスペルガーを題材としている点では自閉症を扱った「レインマン」にも通じている。ただパニック症状などをリアルにやると多分普通の人は引く。彼らの言動は奇異に見えるからだ。そこはクレイアニメーションによって印象が和らぎ受け入れやすくなっている。
この物語のキモは人と人との交流、絆である。メアリーがコンプレックスを抱え自惚れ身を崩したように、マックスもまた日常で苦労している。ここに健常者や病人(障害者)という区別は無い。彼らは悩み、傷つきながらも自分と世の中に折り合いを付けながら暮している。完璧ではない者達がお互いに支え学びながら各々の人生を過ごしている。クライマックスは賛否が分かれるかもしれないが私は評価している。友情や絆は離れていても成立するし、またお互いの道が直接交わることがなくともお互いを支え合えるからだ。相手を尊重し相手に学んで自分の人生を彩れるならこれを幸福と言わずなんと言うのか。メアリーとマックスが歩んだ道、そこで交わされた言葉と心の交流に人間の面白さと美しさがある。
ブラック・スワン
監督:ダーレン・アロノフスキー
脚本:マーク・ヘイマン/アンドレス・ハインツ/ジョン・マクラフリン
バレエ「白鳥の湖」の主役に抜擢された女性の重圧と葛藤、精神的な追い詰められ様を「ちょっとこの監督やりすぎなんじゃないの?」という位やった物語。そのおかげで終盤のバレエシーンは狂気と美の高度な融合が見られる。圧巻。
第一印象は「痛い」。主人公のニナが精神的に参ってきて妄想や情緒不安定に陥っていくシーンもさることながら、自傷行為やしきりに指先から血が出る演出が多いので肉体的に痛い。精神的に追い詰めて人間の真性に迫るのは平気なんだが、血とか見るのが苦手なので辛い。広義には人間ドラマだが、ホラーに分類されていても不思議ではない。
ニナを取り巻く環境は窮屈で、熾烈な主役争いが繰り広げられるバレエの世界、家では母親の過剰な期待と過保護によって束縛されている。全体的にこの作品は重圧、抑圧が基調にある。例えば「白鳥の湖」は白鳥と黒鳥を演じ分けねばならない。ニナは白鳥の演技は完璧だが黒鳥の演技は不十分でコーチからは「不感症の白鳥」「もっと感情を表わせ」と言われる。彼女は過度の重圧からノイローゼの兆候が見られ始める。
演出的な小道具として鏡や母親の部屋に飾られた無数の似顔絵が登場している時点でこの作品は自己の内面を追求する気満々なのが見て取れる。物語が進むと頻繁に自傷行為や妄想、自慰行為が増えるのも抑圧に対する反応だろうと思う。自傷行為というのは多分に自己愛的なアプローチである。不安や恐れから身を守るために行われる。彼女の場合自傷行為をしている記憶がないので割と深刻なレベルだったりする。自慰行為についても同様であり、性に対する願望や抑圧を想起させる。彼女の行動は次第に刹那的、衝動的になり不安と快楽を短いサイクルで繰り返すようになる。境界性パーソナリティ障害や解離性障害の傾向があるように見える。ちなみに彼女の部屋はピンクの壁紙にぬいぐるみがいっぱいと少女チックな仕様で、その意味では少女期をまだ脱していない未発達な精神(と内面的な保守性)を暗示している。ぬいぐるみを捨てたり、親から独立しようとするのも重圧からの解放を企図している。
主役の座を狙うライバルであるリリーはちょうどニナを正反対にしたような性格で大胆かつ自由奔放な裏に抜け目のない打算があり度々彼女を惑わす(ただしニナの妄想もかなり混ざっている)。リリーはニナにとって宿敵であるが羨望を覚える対象でもある。終盤にリリーを殺す妄想は彼女の精神をよく示している。抑圧された自己、あるいはバラバラになった自己(自身と鏡に映る自分、リリーへの投影など)を統合していくことでニナは一流のバレリーナとしての才能を発揮していく。これは少女から女へと変貌していくことの暗喩とも言える。少女が血を流すシーンは破瓜(あるいは月経)を暗喩するものとして古典的。
とまあ、そんな感じで映像的には病的な演出に満ちている。「17歳のカルテ」主演のウィノナ・ライダーも出演していて、なんか、もう、そういう映画。
ここまでこじらせると大変だからテキトーに悩んで、テキトーに発散して、テキトーに大人になっていくのが無難とも思うんだけど、多分それでは突出した才能や発想、演技性は生まれないんだろうなぁという気もする。抑圧や不安、葛藤、矛盾からの解放を求める過程で人は自分の本質に迫り、磨き、時に研ぎ澄まされた才能を示す。
脚本:マーク・ヘイマン/アンドレス・ハインツ/ジョン・マクラフリン
バレエ「白鳥の湖」の主役に抜擢された女性の重圧と葛藤、精神的な追い詰められ様を「ちょっとこの監督やりすぎなんじゃないの?」という位やった物語。そのおかげで終盤のバレエシーンは狂気と美の高度な融合が見られる。圧巻。
第一印象は「痛い」。主人公のニナが精神的に参ってきて妄想や情緒不安定に陥っていくシーンもさることながら、自傷行為やしきりに指先から血が出る演出が多いので肉体的に痛い。精神的に追い詰めて人間の真性に迫るのは平気なんだが、血とか見るのが苦手なので辛い。広義には人間ドラマだが、ホラーに分類されていても不思議ではない。
ニナを取り巻く環境は窮屈で、熾烈な主役争いが繰り広げられるバレエの世界、家では母親の過剰な期待と過保護によって束縛されている。全体的にこの作品は重圧、抑圧が基調にある。例えば「白鳥の湖」は白鳥と黒鳥を演じ分けねばならない。ニナは白鳥の演技は完璧だが黒鳥の演技は不十分でコーチからは「不感症の白鳥」「もっと感情を表わせ」と言われる。彼女は過度の重圧からノイローゼの兆候が見られ始める。
演出的な小道具として鏡や母親の部屋に飾られた無数の似顔絵が登場している時点でこの作品は自己の内面を追求する気満々なのが見て取れる。物語が進むと頻繁に自傷行為や妄想、自慰行為が増えるのも抑圧に対する反応だろうと思う。自傷行為というのは多分に自己愛的なアプローチである。不安や恐れから身を守るために行われる。彼女の場合自傷行為をしている記憶がないので割と深刻なレベルだったりする。自慰行為についても同様であり、性に対する願望や抑圧を想起させる。彼女の行動は次第に刹那的、衝動的になり不安と快楽を短いサイクルで繰り返すようになる。境界性パーソナリティ障害や解離性障害の傾向があるように見える。ちなみに彼女の部屋はピンクの壁紙にぬいぐるみがいっぱいと少女チックな仕様で、その意味では少女期をまだ脱していない未発達な精神(と内面的な保守性)を暗示している。ぬいぐるみを捨てたり、親から独立しようとするのも重圧からの解放を企図している。
主役の座を狙うライバルであるリリーはちょうどニナを正反対にしたような性格で大胆かつ自由奔放な裏に抜け目のない打算があり度々彼女を惑わす(ただしニナの妄想もかなり混ざっている)。リリーはニナにとって宿敵であるが羨望を覚える対象でもある。終盤にリリーを殺す妄想は彼女の精神をよく示している。抑圧された自己、あるいはバラバラになった自己(自身と鏡に映る自分、リリーへの投影など)を統合していくことでニナは一流のバレリーナとしての才能を発揮していく。これは少女から女へと変貌していくことの暗喩とも言える。少女が血を流すシーンは破瓜(あるいは月経)を暗喩するものとして古典的。
とまあ、そんな感じで映像的には病的な演出に満ちている。「17歳のカルテ」主演のウィノナ・ライダーも出演していて、なんか、もう、そういう映画。
ここまでこじらせると大変だからテキトーに悩んで、テキトーに発散して、テキトーに大人になっていくのが無難とも思うんだけど、多分それでは突出した才能や発想、演技性は生まれないんだろうなぁという気もする。抑圧や不安、葛藤、矛盾からの解放を求める過程で人は自分の本質に迫り、磨き、時に研ぎ澄まされた才能を示す。
ソーシャル・ネットワーク
監督:デヴィッド・フィンチャー 脚本:アーロン・ソーキン
実話を元にした映画。「Facebook」の設立と成長、創設者マークの成功と孤独を描く。
派手な事件や奇跡的な逆転が起こるわけではないが話しの構成が上手いので最後までダレることなく楽しめた。この物語は2件の訴訟を軸に話しが展開されている。一つは著作権問題、もう一つはマークと共同でサイトを立ち上げたエドゥアルドからのもの。この2件訴訟の背景と「Facebook」創設の経緯がストーリー進行と共に明かされていくという筋書き。
冒頭の会話でマークの性格がよく分かるようになっている。マークは相手の女性の気持ちを無視して自分のペースで話しを続ける。彼は優秀なのかもしれないが会話のキャッチボールが出来ない。そのため女性は嫌気がさしてマークを振る。その腹いせにマークは自身のブログで散々女性の誹謗中傷を書いたあげく、学生寮のサーバーをハッキングして写真を集め女性の顔ランキング的なイタズラサイトを一晩で作り上げてしまう。はっきりいって友達いないだろ、っていうかただ頭いいだけのクズ、というのが彼への第一印象。映画を通して見ても彼は独創的なアイデアや技術、才能を持っているが相手の気持ちになって考えたり、話す能力に著しく欠けている。典型的といえるくらいの変わり者(スキゾタイパル的な性格気質)。
その印象を裏付けるようにマークは「Facebook」の成功と反比例して孤立化が進んでいく。彼は技術者タイプであるが、「Facebook」に対して自己評価を重ねている印象を受ける。例えばある程度「Facebook」が広がったのを見計らって出資者のエドゥアルドから利益を出そうと提案されたときに、マークは広告を入れるなんてクールじゃない、「Facebook」はクールだから学生にウケていると反対する。これは創作者としての美意識もあるだろうが、自分のアイデアが実際に人に評価されたことで彼の自尊心が刺激されているであろうことが推測できる。どこか卑屈なところがある彼にとって「Facebook」の評価が自己正当性を大きく担保することは想像に難くない。ナップスターで一躍名を馳せたショーン・パーカーがこのアイデアは何百万ドルどころか何億ドルもの価値を持っている、利益を上げるのはまだ先だとマークを支持したときに彼が喜んだのも金銭的価値ではなく創作的価値を認められたからだ。結局ビジネスパートナーであったエドゥアルドはショーンにその椅子を奪われ、自身も上手く結果を出せなかったことでマークと袂を分かつことになる。
実際の人物がどうであるかは分からないが、映画を見て感じるマークの人物像は金に執着はなく自分のやりたいことに集中できるが、人と感情を共有したり相手の立場になって考えて言葉をかけることが苦手な(というよりも出来ないに等しい)タイプであることが見て取れる。このタイプの人の悲劇はコミュニケーション能力が欠けているのにも関わらず他者とのふれ合いを望んでいる点にある。友達が欲しい、人に認められたい、自分を分かってもらいたいという欲求を満たすことはきわめて難しい。しかも大抵自覚がない。マークは人の話しを聞かない上に、自分のアイデア(創作物)で他者から評価を得ようとする節がある。自己中心的、視野狭窄的と言えるだろうか。いくら彼が立派なものを作ろうと、評価されるのは創作物の方であって彼を一人の人間として認め受け入れるには感情的なやり取りが無ければならない。エドゥアルドは決して金銭的な理由だけでマークと決裂したのではない。マークが彼を頼らず、無視して話しを進めてしまったことも理由として大きい。これでは信頼してパートナーになることはできない。
人と人を繋ぐ「Facebook」の創設者が孤独になるというのは皮肉とも言えるし、成功者の光と影とも言えるが、あるタイプの人間における苦悩をこの映画から感じる。
実話を元にした映画。「Facebook」の設立と成長、創設者マークの成功と孤独を描く。
派手な事件や奇跡的な逆転が起こるわけではないが話しの構成が上手いので最後までダレることなく楽しめた。この物語は2件の訴訟を軸に話しが展開されている。一つは著作権問題、もう一つはマークと共同でサイトを立ち上げたエドゥアルドからのもの。この2件訴訟の背景と「Facebook」創設の経緯がストーリー進行と共に明かされていくという筋書き。
冒頭の会話でマークの性格がよく分かるようになっている。マークは相手の女性の気持ちを無視して自分のペースで話しを続ける。彼は優秀なのかもしれないが会話のキャッチボールが出来ない。そのため女性は嫌気がさしてマークを振る。その腹いせにマークは自身のブログで散々女性の誹謗中傷を書いたあげく、学生寮のサーバーをハッキングして写真を集め女性の顔ランキング的なイタズラサイトを一晩で作り上げてしまう。はっきりいって友達いないだろ、っていうかただ頭いいだけのクズ、というのが彼への第一印象。映画を通して見ても彼は独創的なアイデアや技術、才能を持っているが相手の気持ちになって考えたり、話す能力に著しく欠けている。典型的といえるくらいの変わり者(スキゾタイパル的な性格気質)。
その印象を裏付けるようにマークは「Facebook」の成功と反比例して孤立化が進んでいく。彼は技術者タイプであるが、「Facebook」に対して自己評価を重ねている印象を受ける。例えばある程度「Facebook」が広がったのを見計らって出資者のエドゥアルドから利益を出そうと提案されたときに、マークは広告を入れるなんてクールじゃない、「Facebook」はクールだから学生にウケていると反対する。これは創作者としての美意識もあるだろうが、自分のアイデアが実際に人に評価されたことで彼の自尊心が刺激されているであろうことが推測できる。どこか卑屈なところがある彼にとって「Facebook」の評価が自己正当性を大きく担保することは想像に難くない。ナップスターで一躍名を馳せたショーン・パーカーがこのアイデアは何百万ドルどころか何億ドルもの価値を持っている、利益を上げるのはまだ先だとマークを支持したときに彼が喜んだのも金銭的価値ではなく創作的価値を認められたからだ。結局ビジネスパートナーであったエドゥアルドはショーンにその椅子を奪われ、自身も上手く結果を出せなかったことでマークと袂を分かつことになる。
実際の人物がどうであるかは分からないが、映画を見て感じるマークの人物像は金に執着はなく自分のやりたいことに集中できるが、人と感情を共有したり相手の立場になって考えて言葉をかけることが苦手な(というよりも出来ないに等しい)タイプであることが見て取れる。このタイプの人の悲劇はコミュニケーション能力が欠けているのにも関わらず他者とのふれ合いを望んでいる点にある。友達が欲しい、人に認められたい、自分を分かってもらいたいという欲求を満たすことはきわめて難しい。しかも大抵自覚がない。マークは人の話しを聞かない上に、自分のアイデア(創作物)で他者から評価を得ようとする節がある。自己中心的、視野狭窄的と言えるだろうか。いくら彼が立派なものを作ろうと、評価されるのは創作物の方であって彼を一人の人間として認め受け入れるには感情的なやり取りが無ければならない。エドゥアルドは決して金銭的な理由だけでマークと決裂したのではない。マークが彼を頼らず、無視して話しを進めてしまったことも理由として大きい。これでは信頼してパートナーになることはできない。
人と人を繋ぐ「Facebook」の創設者が孤独になるというのは皮肉とも言えるし、成功者の光と影とも言えるが、あるタイプの人間における苦悩をこの映画から感じる。
リアル・スティール
監督:ショーン・レヴィ 脚本:ジョン・ゲイティンズ
親子の絆を取り戻すロボットボクシング。
ストーリー的には王道中の王道で特筆すべき点は何もないが、その分安心してじっくりと映像に集中できる。見ていてホロリと来た。その訳は主役メカであるアトムの秀逸な造詣と使われ方にある。この映画のストーリーの軸は2つ。元プロボクサーで現在人生転落中のダメ親父が再び表舞台に立つサクセスストーリー。その親父と息子が絆を取り戻していくヒューマンドラマ。その2つの軸を支えるのが捨てられていた旧式ロボットのアトムである。
スタッフコメンタリーで語られているようにアトムのデザインは平凡で特徴がなく、それ故に誰でも自分を投影できるようなデザインになっている。仮面を付けたような顔もその意味を強調している。さらにこのロボットには模倣機能が備わっており、対象の動きを忠実にトレースできる。この設定が非常に上手い。育児放棄された息子はアトムに父親の影を見る。子どもから見れば小型とはいえ金属の肉体を持つロボットは十分に権威的で自分を包んでくれる対象となり得る。またその力は全能感を高める自己の延長としての役割も持つ。高級車やスポーツカーを持つことで自分も立派になったかのように感じるアレと同じ。コフート(精神科医)で言うところの鏡自己対象、理想化自己対象に当たるだろう。息子から見たとき、アトムは自分自身を見るようであり、理想的父親像としても映っている。だからこそ彼は父親の前で必要以上にアトムで戦うことを望み、改造を施していく。そうすることで父親に自分を認めさせ、また父親にこうであって欲しいとアピールしているのである。
父親にとってもアトムは自分を見るような存在である。もはや旧世代の忘れられた対象、スパーリング用の実戦には使えないロボット。しかしそのロボットが勝利を重ねていくことで彼の自信は回復し表舞台へ戻る契機となる。ラストバトルの模倣機能を使って戦う姿はまさに彼がボクサーとしてランカーに挑んだ過去の再体験になっている。一人の人間としての自信回復、父親としての自信回復が同時になされている。
アトムを通じて不器用な親と子が一つの目標に向かって心を合わせていくストーリーはブレが無く安定感と安心感がある。物語を彩るロボットバトルが思いの外リアルで熱い。ポンコツロボットが強い相手に食らいつき勝利を掴むのは単純明快にして面白い。ロボットの魅力を余すところ無く伝える演出とストーリーはロボット(SF)映画としても秀逸。ただの量産メカが使い込まれることで自分だけのマシーンになる。男の子なら興奮する体験だろう。
親子の絆を取り戻すロボットボクシング。
ストーリー的には王道中の王道で特筆すべき点は何もないが、その分安心してじっくりと映像に集中できる。見ていてホロリと来た。その訳は主役メカであるアトムの秀逸な造詣と使われ方にある。この映画のストーリーの軸は2つ。元プロボクサーで現在人生転落中のダメ親父が再び表舞台に立つサクセスストーリー。その親父と息子が絆を取り戻していくヒューマンドラマ。その2つの軸を支えるのが捨てられていた旧式ロボットのアトムである。
スタッフコメンタリーで語られているようにアトムのデザインは平凡で特徴がなく、それ故に誰でも自分を投影できるようなデザインになっている。仮面を付けたような顔もその意味を強調している。さらにこのロボットには模倣機能が備わっており、対象の動きを忠実にトレースできる。この設定が非常に上手い。育児放棄された息子はアトムに父親の影を見る。子どもから見れば小型とはいえ金属の肉体を持つロボットは十分に権威的で自分を包んでくれる対象となり得る。またその力は全能感を高める自己の延長としての役割も持つ。高級車やスポーツカーを持つことで自分も立派になったかのように感じるアレと同じ。コフート(精神科医)で言うところの鏡自己対象、理想化自己対象に当たるだろう。息子から見たとき、アトムは自分自身を見るようであり、理想的父親像としても映っている。だからこそ彼は父親の前で必要以上にアトムで戦うことを望み、改造を施していく。そうすることで父親に自分を認めさせ、また父親にこうであって欲しいとアピールしているのである。
父親にとってもアトムは自分を見るような存在である。もはや旧世代の忘れられた対象、スパーリング用の実戦には使えないロボット。しかしそのロボットが勝利を重ねていくことで彼の自信は回復し表舞台へ戻る契機となる。ラストバトルの模倣機能を使って戦う姿はまさに彼がボクサーとしてランカーに挑んだ過去の再体験になっている。一人の人間としての自信回復、父親としての自信回復が同時になされている。
アトムを通じて不器用な親と子が一つの目標に向かって心を合わせていくストーリーはブレが無く安定感と安心感がある。物語を彩るロボットバトルが思いの外リアルで熱い。ポンコツロボットが強い相手に食らいつき勝利を掴むのは単純明快にして面白い。ロボットの魅力を余すところ無く伝える演出とストーリーはロボット(SF)映画としても秀逸。ただの量産メカが使い込まれることで自分だけのマシーンになる。男の子なら興奮する体験だろう。
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