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劇場版 魔法少女まどかマギカ叛逆の物語
初めに言っておくと、全然感想まとまってないです。ダラダラ書いてます。映画はTV版や前作映画から話しを続ければこうなるなーという印象。普通に考えて、この結末だとファンを減らすんじゃないの?と思うんだけど、敢えてそれをやったのは野心的だと思います。ただ個人的にはもっとその先が見たかったかな。
映画の構成は起承転結に、綺麗に4つのパートから成り立っています。
1.コレジャナイまどマギ
何事もなかったかのように5人でナイトメアという敵と戦うパート。ノリ的にはプリキュアとか戦隊もののパロディ。変身シーンがすげぇかったるくて2人目の時点で早送りにしてくれないかなって思ったくらい。変身シーンてそれ用のセンスっつーかフォーマットが必要なんだなと再認識。
このパートは観客を「ポカーン」とさせるのが狙い。作中のほむらのように違和感を持たせる部分でもあり、この世界が一種のユートピア(実際はディストピア)であるという場面。
2.犯人はこの中にいる!
何者かが彼女達を閉じ込めている。犯人探しパート。
ほむらが真っ先に杏子に相談しに行っているなど、この映画のほむらはまどか命に違いはないのだけど、他の魔法少女に対してもコミュニケートしていて、比較的視野が広い。これは後々彼女の行動にも表れる。
マミさんとのバトルは本作の見所。まあ、ガン=カタなわけですが。マミさんどころかさやかにすら欠点指摘されてて吹いた。便利すぎて読まれると逆に自分の首締めるよね、あの能力。
3.犯人は私でした。
実はほむらが見ていた願望の世界でした、というのは最初から分かっていたというか、そもそも全部知っているのあんただけだろ。さやかは意外でしたが、死んだはずの彼女が登場する理由付けは上手い。早い話しまどかの使いっ走りですね。良く言えば天使なんでしょうけど。単純に言って、さやかのポジションにほむらが収まればそれで落ち着くっちゃ落ち着くのだけど、まどかの本音を知ってしまった以上ほむらとしてはお迎えを待つわけにはいかない。
ほむらが魔女化するのを直前で保持。キュウベェ的にはこれがどうなるか実験しつつ、まどか(円環の理システム)を解明する手がかりを掴む。ほむらはそれが嫌なので永遠に魔女になり続けることを選ぶが、さやか達他の魔法少女の介入もありまどか降臨。ほむらが成仏すれば、これからはずっとまどかと一緒だね、めでたしめでたしEND。って思った人もいるようですが、いや、それだと全然叛逆してませんから。
ここのアクションシーンは正直微妙。新技や大技があるわけでもなく、ただひらすらごちゃごちゃしてたなーというイメージ。この映画はアクションに関して(2時間という長丁場に比して)あまり見所がない。さやかがスタンド出してたのには友人と爆笑でした。その後、ほむらに引っ込められてさらに爆笑した。
4.私は新世界の悪魔になる!
叛逆パート。ほむらがすげぇ悪い顔しだして顔芸祭り。
ぶっちゃけていうと、1~3までは茶番。事前情報やほむらの性格、動機、映画タイトルの「叛逆」から想定すればこうなることは察しが付く。だから個人的には物語中盤でこれを持ってきて、後半でそれ以降の話しをじっくりやって欲しかったというのが正直なところ。
冷静に判断すれば彼女のやったことは非常に合理的で、この状況で打てる手の中ではベストだと思う。
まどかが作った円環の理システムはインキュベーターによって解明される可能性があるため、ほむらが浄化されようとされまいといずれキュウベェの魔の手がまどかに伸びる。まどかが彼らに支配あるいはコントロールされるのはほむらには絶対に飲めない話し。
まどかをこのまま神にしておくのも、彼女の心情を訊いてしまった彼女には飲めない。なので、まどかを人間に引き戻しつつ、さやかも合せて人間に戻して、マミ、杏子とも生活できる環境を作り上げたことで概ね角が立たない形に落ち着いている。あの世界の魔獣とかの処理がどうなっているのかは分からないけど、全体的に言えば誰も損はしていない。上記1.のような世界を実際に作り上げてしまったわけだ。ただ結局このシステムを維持するにはほむらが管理者とならなければならないので(キュウベェを監視したり、まどかを継続して引き戻したり)、まあ要するにほむら一人が損な役目をひっかぶってる。
まどかの存在にほむらが並んだ、という見方は出来るんですが、結局のところ、これってほむら的に幸せなことなんですかね?という最初の疑問に戻る。まどマギはみんながハッピーになる結末にはならない。誰かが損な役目を引き受けざるを得ない。これは等価交換というか、報酬に対する代償、因果をねじ曲げたことの代償でこのルールが本作の前提にある。自分勝手なことやったんだからその責任は取れよ、とでも言うか。そうすると、ほむらの原初的な願いはまどかと一緒にいたい(彼女を守り助けたい)ということなのだと思うけど、このような世界、このような存在となってしまったほむらとまどかは最早普通の学生生活も、人間関係も送れないのだけど、それって本当にほむら的に飲める話しなのかな~?というのが映画見終わっての私の疑問。テレビのまどかの決断も相当なレベルの飛躍だけど、ほむらもベクトルが違うだけでまどかとどっこいの飛躍をしていて、この二人は同じところに居られないような気がする。なんだろ、仕事しなきゃ家族を養えないんだよ!と言う旦那と、家族が一緒じゃなきゃ家族と言えないわよ!と言う奥さんみたいな。
多くの人はヤンデレ化したほむらに気持ち悪さを感じたり、綺麗とは言い難い終わり方に嫌悪なり気味悪さ、後味の悪さを感じるかもしれません。この映画の賛否が分かれるところというか、パっと見スッキリしない点でもある。個人的には改変された世界にほむらの居場所があるのか、そこが気になった点ですね。だから上述したように、ここから話しを進めてどう展開されていくのか見たかったんですよね。
一緒に映画を見た友人が「テレビ版でループを終わらせたのに、またループさせた」と言っていましたが、まさにそう。ある意味これはこれでずっとまどかと一緒にいられるし、ある種対等に彼女とシーソーゲームを続けられるのではありますが。そう考えれば、ほむらは明確な居場所を手に入れたと言えます。
テレビ(映画の前編・後編)はほむらが少女から大人へと一歩を踏み出す話しだとすると、この映画は大人になった話しって感じかな。悪魔化した後の雰囲気や、ルージュをさしているようなシーンがありましたが、ああいうのは大人の記号としてしばしば使われるイメージがあります。まあ、大人になるのはいいんだけど、変な方向にこじらせたというか。この物語何が凄いって、ほむらとまどかが全くコミュニケート出来てないところ。お互いに思い込みとか(特にほむらが)一方的な情念で動いていて、互いにやるべきこと(やりたいこと)を一方的に押しつけた形になっている。
最早ほむらは共依存と言えるから、まどかの意思を尊重しているように見えて自分の支配下に置こうとしていると見て差し支えない。支配という言葉が印象悪いなら、ほむらと常に繋がっていたい願望。繋がり方自体の手段は問わない。繋がっているのが目的であり手段だから。まどかと居続けられるループ状態を作るのが目的になっちゃっているように思いますね。
映画の構成は起承転結に、綺麗に4つのパートから成り立っています。
1.コレジャナイまどマギ
何事もなかったかのように5人でナイトメアという敵と戦うパート。ノリ的にはプリキュアとか戦隊もののパロディ。変身シーンがすげぇかったるくて2人目の時点で早送りにしてくれないかなって思ったくらい。変身シーンてそれ用のセンスっつーかフォーマットが必要なんだなと再認識。
このパートは観客を「ポカーン」とさせるのが狙い。作中のほむらのように違和感を持たせる部分でもあり、この世界が一種のユートピア(実際はディストピア)であるという場面。
2.犯人はこの中にいる!
何者かが彼女達を閉じ込めている。犯人探しパート。
ほむらが真っ先に杏子に相談しに行っているなど、この映画のほむらはまどか命に違いはないのだけど、他の魔法少女に対してもコミュニケートしていて、比較的視野が広い。これは後々彼女の行動にも表れる。
マミさんとのバトルは本作の見所。まあ、ガン=カタなわけですが。マミさんどころかさやかにすら欠点指摘されてて吹いた。便利すぎて読まれると逆に自分の首締めるよね、あの能力。
3.犯人は私でした。
実はほむらが見ていた願望の世界でした、というのは最初から分かっていたというか、そもそも全部知っているのあんただけだろ。さやかは意外でしたが、死んだはずの彼女が登場する理由付けは上手い。早い話しまどかの使いっ走りですね。良く言えば天使なんでしょうけど。単純に言って、さやかのポジションにほむらが収まればそれで落ち着くっちゃ落ち着くのだけど、まどかの本音を知ってしまった以上ほむらとしてはお迎えを待つわけにはいかない。
ほむらが魔女化するのを直前で保持。キュウベェ的にはこれがどうなるか実験しつつ、まどか(円環の理システム)を解明する手がかりを掴む。ほむらはそれが嫌なので永遠に魔女になり続けることを選ぶが、さやか達他の魔法少女の介入もありまどか降臨。ほむらが成仏すれば、これからはずっとまどかと一緒だね、めでたしめでたしEND。って思った人もいるようですが、いや、それだと全然叛逆してませんから。
ここのアクションシーンは正直微妙。新技や大技があるわけでもなく、ただひらすらごちゃごちゃしてたなーというイメージ。この映画はアクションに関して(2時間という長丁場に比して)あまり見所がない。さやかがスタンド出してたのには友人と爆笑でした。その後、ほむらに引っ込められてさらに爆笑した。
4.私は新世界の悪魔になる!
叛逆パート。ほむらがすげぇ悪い顔しだして顔芸祭り。
ぶっちゃけていうと、1~3までは茶番。事前情報やほむらの性格、動機、映画タイトルの「叛逆」から想定すればこうなることは察しが付く。だから個人的には物語中盤でこれを持ってきて、後半でそれ以降の話しをじっくりやって欲しかったというのが正直なところ。
冷静に判断すれば彼女のやったことは非常に合理的で、この状況で打てる手の中ではベストだと思う。
まどかが作った円環の理システムはインキュベーターによって解明される可能性があるため、ほむらが浄化されようとされまいといずれキュウベェの魔の手がまどかに伸びる。まどかが彼らに支配あるいはコントロールされるのはほむらには絶対に飲めない話し。
まどかをこのまま神にしておくのも、彼女の心情を訊いてしまった彼女には飲めない。なので、まどかを人間に引き戻しつつ、さやかも合せて人間に戻して、マミ、杏子とも生活できる環境を作り上げたことで概ね角が立たない形に落ち着いている。あの世界の魔獣とかの処理がどうなっているのかは分からないけど、全体的に言えば誰も損はしていない。上記1.のような世界を実際に作り上げてしまったわけだ。ただ結局このシステムを維持するにはほむらが管理者とならなければならないので(キュウベェを監視したり、まどかを継続して引き戻したり)、まあ要するにほむら一人が損な役目をひっかぶってる。
まどかの存在にほむらが並んだ、という見方は出来るんですが、結局のところ、これってほむら的に幸せなことなんですかね?という最初の疑問に戻る。まどマギはみんながハッピーになる結末にはならない。誰かが損な役目を引き受けざるを得ない。これは等価交換というか、報酬に対する代償、因果をねじ曲げたことの代償でこのルールが本作の前提にある。自分勝手なことやったんだからその責任は取れよ、とでも言うか。そうすると、ほむらの原初的な願いはまどかと一緒にいたい(彼女を守り助けたい)ということなのだと思うけど、このような世界、このような存在となってしまったほむらとまどかは最早普通の学生生活も、人間関係も送れないのだけど、それって本当にほむら的に飲める話しなのかな~?というのが映画見終わっての私の疑問。テレビのまどかの決断も相当なレベルの飛躍だけど、ほむらもベクトルが違うだけでまどかとどっこいの飛躍をしていて、この二人は同じところに居られないような気がする。なんだろ、仕事しなきゃ家族を養えないんだよ!と言う旦那と、家族が一緒じゃなきゃ家族と言えないわよ!と言う奥さんみたいな。
多くの人はヤンデレ化したほむらに気持ち悪さを感じたり、綺麗とは言い難い終わり方に嫌悪なり気味悪さ、後味の悪さを感じるかもしれません。この映画の賛否が分かれるところというか、パっと見スッキリしない点でもある。個人的には改変された世界にほむらの居場所があるのか、そこが気になった点ですね。だから上述したように、ここから話しを進めてどう展開されていくのか見たかったんですよね。
一緒に映画を見た友人が「テレビ版でループを終わらせたのに、またループさせた」と言っていましたが、まさにそう。ある意味これはこれでずっとまどかと一緒にいられるし、ある種対等に彼女とシーソーゲームを続けられるのではありますが。そう考えれば、ほむらは明確な居場所を手に入れたと言えます。
テレビ(映画の前編・後編)はほむらが少女から大人へと一歩を踏み出す話しだとすると、この映画は大人になった話しって感じかな。悪魔化した後の雰囲気や、ルージュをさしているようなシーンがありましたが、ああいうのは大人の記号としてしばしば使われるイメージがあります。まあ、大人になるのはいいんだけど、変な方向にこじらせたというか。この物語何が凄いって、ほむらとまどかが全くコミュニケート出来てないところ。お互いに思い込みとか(特にほむらが)一方的な情念で動いていて、互いにやるべきこと(やりたいこと)を一方的に押しつけた形になっている。
最早ほむらは共依存と言えるから、まどかの意思を尊重しているように見えて自分の支配下に置こうとしていると見て差し支えない。支配という言葉が印象悪いなら、ほむらと常に繋がっていたい願望。繋がり方自体の手段は問わない。繋がっているのが目的であり手段だから。まどかと居続けられるループ状態を作るのが目的になっちゃっているように思いますね。
神霊狩-GHOST HOUND-
幼少期に誘拐された経験を持つ主人公をはじめとしたPTSDの少年3人が不可思議な出来事に遭遇する物語。
物語の骨子的には同時期に放送された電脳コイルと非常に近しい(これもまた本作が指摘するシンクロニシティなのかもしれない)。正直、電脳コイルについてはうろ覚えなんだけど、あれもPTSDの傾向(可能性)があった少女の回復の物語だったと記憶しています。本作も基本的にその路線。本作は人の意識、記憶を脳科学や心理学的アプローチで説明しつつ神霊(オカルト要素)を抱き合わせた物語だとすれば、電脳コイルはSFガジェットを使って同様にアプローチしつつこれまたオカルト要素を抱き合わせた物語だと言えます。電脳コイルではメガネを通して物語の謎に迫っていきますが、本作では神霊(幽体離脱)を通して謎に迫っていきます。
物語の視点はあくまでも子どもですが、世界の説明はそれぞれ神霊だったりSFだったり心理学や脳科学が使われている。本作の方がかなりマニアックな作りですね。余談ですが、音響に力が入っていてDVD版でも5.1ch収録。ホームシアター組んでるとビビる。
全体を通しての印象としては「勉強になった」の一言に尽きます。私は趣味で心理学関連の本をよく読むんですが、付随的に脳に関する文章もよく目を通します。本作で登場する用語は概ね訊いたことがありますが、それでも知らない名詞が登場しましたし、また、私にとってはあくまで個々の知識にすぎなかった概念が本作の世界観を説明する形で繋がりを持って構築されているのは新鮮な体験でした。私達が存在しているこの世界は多様な解釈が可能な世界なのだと改めて思いますね。
例えば、本作では人の意識や記憶は脳ではなくどこか別の世界にあるとする説が登場します。これは実際にそういう説があります。ユングの集合的無意識も広義にはこれに近いと思いますが、そうした説が登場するほどに生物というのは不可思議な生き物であるという話しですね。これを単に科学的に割り切ってしまうのは少し勿体ないし、オカルト的な話しで済ますのもやはり勿体ない。多様な解釈が可能であるということは、それだけ人間に想像力があるということであり、その想像力故に思い込みや願望、逃避的な理由付けを行って人生を狂わせてしまう人がいるわけです。過去に囚われてしまうのもその一つの現われだと思います。それをどのように咀嚼し人生を面白く解釈していくか、というところが腕の見せ所だと思ってます。私は学者じゃないんで世界がどうなっているかには大して興味はない。生が与えられたならそれを満喫するだけです。
下記に抜粋した次回予告など見ると過剰に期待する方もいるかもしれませんが、物語そのものは比較的単純です。終盤の展開もどちらかといえばショボイ。結局のところ神霊とは何か、人の意識や記憶とはどこにあるのか、水天町には人の脳を改変してしまう何かがあったのかといったことは判明しません。上述したようにそれらはあくまで物語の背景であり、主人公をはじめとしたPTSDやアイデンティティに苦しむ少年少女達の物語です。結局のところ人は何かに理由を付けなければ(求めなければ)生きるのが辛いと感じる生き物なのかもしれません。ある種の過去との決別、統合、自分の感情を受け入れるといった人としてごく当たり前の、そして現実を歩んでいくために必要な強さを身につけていくための成長、通過儀礼が本作の主題であろうと考えます。世界がどう出来ていようと、人は生きねばならない。
以下は各回のサブタイトルと次回予告。単にこれをメモ的に残しておくために、感想をとってつけました。
あと、本作のスタッフ的にも内容的にも「serial experiments lain」はほとんどセットでしょうね。どちらか先に見て気に入ったら、残りの方も…となること請け合い。
1話 Lucid Dream ―明晰夢―
訓練すれば人は自由に夢の中で行動できるのだという。
しかし、フランシス・クリックは夢の解釈について、大脳新皮質に記録された無意味な記憶を消去するためのもので意味などない、と断じている。
クリックにとって人の意識は脳内に起こっている40Hzの共鳴現象でしかない。
夢、夢のかたち、夢の世界、幽世。
2話 E.M.D.R. -Eye Movement Desensitization and Reprocessing- ―眼球運動による脱感作と再処理―
トラウマにとらわれた人を救う方法を人は様々に模索している。
トラウマの元となる記憶を想起させながら、眼球を運動させるこの方法は大脳辺縁系の情報処理を再活性させるのだと言われている。
けれど、それだけなのだろうか。
眼球が運動しているときにその人は何かを見ているのではないか。
施術者の、指の向こう側に。
3話 Phobia Exposure ―恐怖症曝露―
他者から見たら、なんでもないことでも人は強い恐怖の対象とするときがある。
意識による制御がきかない脳のこうした作用はどんな意図でデザインされたのだろうか。
生存本能とはもはや無関係なものに対してまで恐怖し続ける宿痾を背負う必要がどこにあるというのだろう。
4話 Altered States of Consciousness ―変成意識―
ライトオブパッセージ。
人は痛みを伴わずして成長することがないのだとすれば過去のどの瞬間が、通過儀礼であったのか知るために記憶の漆黒の中から棘の痛みの感覚を手繰り寄せなくてはならない。
しかしそれもまた、死に至るまでに必要なイニシエーションなのだろう。
人としての。
5話 O.B.E. -Out of Body Experience- ―体外離脱体験―
1966年、ウェストバージニア州ポイントプレザントで、蛾のような怪物モスマンの集中目撃事件が起こった。
調査を行ったジョン・A・キールは、ラジオから謎の声が自分に話しかけてくるといった異常体験をしたのち、モスマンやUFO、妖精といった存在は、我々が知覚し得ない領域の超越的な地球生命体ではないかと結論づけている。
6話 Brain Homunculus ―脳の中のホムンクルス―
カナダの脳神経学者ワイルダー・ペンフィールドは大脳新皮質を電極で刺激することで、まるで体外離脱をしているかのような感覚を引き出すことに成功した。
脳の機能の局在性について著しい発見をしたペンフィールドは、しかし、心は脳の中にあるわけではないとするデカルト的二元論に最後まで固執し続けたのだった。
7話 L.T.P. -Long Term Potentiation- ―シナプス回路を変化させ、それを維持する能力 "人間の脳に於ける長期記憶の正体"―
1923年。フランスのソジー夫人は、パリの地下に大勢の子供たちが秘密結社によって幽閉されていると訴えたがしかし、警察、ソジーの夫など無数の人々が替え玉と入れ替わっていることに気づく。
以来、妄想性人物誤認症候群のことをソジーの錯覚、もしくはその報告者の名からカプグラシンドロームと呼ばれることとなった。
8話 Revolution of Limbic System ―脳の扁桃体を中心とする記憶・情動を司る大脳辺緑系-その革命―
恐怖に代表される人の情動を司る扁桃体と、脳における情報のインターフェイスである海馬。
隣接したこの二つが記憶というものの神経回路メカニズム、すなわちリンビックシステムと呼ばれる。
リンビックは大脳の辺縁部位を示すが、語源であるギリシャ語の「リンボ」は辺境、この世とあの世、現世と幽世との境界を指す言葉なのだった。
9話 Existential Ghosts ―実存主義的なる神霊―
2003年、ハートフォードシャー大学の心理学者リチャード・ワイズマン教授らはロンドンの古いホールに観客を集め、現代音楽の演奏途中で長さ7メートルのパイプから発生させた超低周波音を聞かせた。
その結果、22%の観客が異様な感覚を体験したという。
幽霊は、こうした低周波音が引き起こす感覚異常ではないかとワイズマンは推察している。
10話 Affordance/T.F.T. -Thought Field Therapy- ―アフォーダンス[環境が生物に提供するもの]/思考場療法―
例えばその土地には川が流れ、肥沃な土地が広がっているとすれば、その土地は人に対して住みよい土地であることをアフォードしている。
アフォーダンスという概念はその環境がもっているアプリオリな性質の中から知覚者が恣意的に発見し、獲得する構図を表すが、ならば今の世界は人にいかなるアフォードをしているのだろうか?
11話 Syntax Error ―論理的統辞論に於ける過ち/プログラム・バグ―
メメント・モリ。
そう他者に言われるまでもなく人は己の死を意識せず生きていくことなどできない。
己の死後についての考えはともかくも近しい人の死をいたむ気持ちはいかなる死生観、いかなる宗教観を持つ人にとっても等しく同じに違いない。
メメント・モリ。
それはこの世界に生きる人間が持つ数少ないコンセンサスの一つなのだろう。
12話 Homeostasis Synchronization ―恒常性維持機能同調効果―
シャーマニズムの本質がミルチャ・エリアーデが説く様に脱魂エクスタシー型にあるのか、ヨアン・エムルイズが重視する憑依ポゼッション型にあるのか。
本質的に不価値な事柄について理性的な理解をするには、その儀礼や象徴から推し量るより術はない。
しかしシャーマンのシステムは現在の社会でもその呼び名を変えただけで生き続けている
13話 For the Snark was a Boojum, you see. ―そう、そのスナークはブージャムだった―
独自のキリスト教倫理学を提唱したイマヌエル・スウェーデンボリは霊魂の存在を物理的に探求するべく脳生理学、解剖学を学んでたが、幻視を体験、死後の世界を自在に行き来するようになったことでその研究をやめてしまう。
後に純粋理性批判を著すイマヌエル・カントにもスウェーデンボリの思想は高く評価されることとなる。
14話 Emergence Matrix ―創発基盤―
鎮魂。
逝った人のことを思うこの言葉にはもう一つの意味がある。
生きているものの魂は不安定で体につなぎとめておかねば乖離してしまうという。
明治時代初期、本田親徳は鎮魂と神を人間の肉体におろす帰神を軸として古代の神道を体現化し出口王仁三郎らに影響を与えたのだった。
15話 Toward an Abandoned City ―廃市へ―
ヤマトの国は言霊の咲きわう国だという。
言葉そのものに霊的な力が伴うとするその考えは日本固有のものではなく、古代ギリシャよりロゴスの概念には言葉を神の秩序、神そのものとも同一視されてきた。
よごとであれまがごとであれその言葉を口にしたものの真理は言葉の意味が刻まれ発言者自信とその環境の未来に深く影響を与える。
16話 Hopeful Monster ―希望的な怪物―
スティーブン・ホーキングは宇宙は何故今のように安定しているかについて、それは人間が存在しているからだという解釈に否を唱えていない。
ブラックホールを命名したジョン・ウィーラーも不確定性原理による量子確率論を現実の宇宙に合致させるためにはその宇宙の内部に観察ものすなわち人間が存在していることを条件に定義付けている。
17話 Implicate Order ―内在秩序―
コペンハーゲン解釈に疑念を抱いたデビット・ボームは断片の中に全体が内包されるとする考えを提唱し、その概念の説明としてレーザーによるホログラフィーが立体に見える構造を例に挙げた。
部分と全体とが見えざる秩序によって結ばれるというボームの哲学的量子論は、脳もまた、ホログラム的構造を有することを見通していた。
18話 Holographic Paradigm ―水辺の量子重力理論―
2008年、マッセイ大学のブライアン・ウィットウォース博士は宇宙の物理現象は全て情報として還元できるとした上で、我々が現実と捉えるこの世界は実は他者がコンピューター内に作った仮想世界であるとの説を発表した。
手垢のついたSFのようだと評される一方で一部の人々からは共感を得る、というこの情報もまた宇宙の中に統合されている。
19話 Negentropy ―可塑性時間―
世界は常に乱雑さを増していくとする熱力学法則と自己組織化を繰り返す生命現象とを折りあわせるべくエルビン・シュレイディンガーはネガティブエントロピーの概念を提唱する。
時間の不可逆性と相反するこの未知のエネルギーはイリヤ・プリコジンが散逸構造論を表すまで可能性として存在し続けた。
20話 Shaman's District ―シャーマンの領域―
万能細胞開発競争の渦中、ES細胞捏造事件が起こり一時研究は停滞していた。
しかし2007年、京都大学山中伸弥教授らのグループは体細胞に山中因子と命名された遺伝子を導入することで人口多能性幹細胞、IPS細胞の開発に成功したが、同時期MIPのラドルフ・ヤニッシュ教授らのグループもほぼ同じ実験に成功していた。
21話 Stochastic Resonance ―確率共鳴―
微弱な信号を伝える時に、ランダムなノイズを加えることによってある確率の下、その信号伝達反応が増大するという確率共鳴現象は人の脳における神経伝達回路や動物の感覚細胞に認められる機能であるが、もともとは地球の氷河期周期を説明するために提案されたものだ。
現在の電子回路・・・
「匡幸! やばかとー!」
「太郎! 」
「ボクがあんこの名前、呼ぶ!」
「早く…うちんこつ…」
22話 Passage ―道程/暗黙知の次元―
物語の骨子的には同時期に放送された電脳コイルと非常に近しい(これもまた本作が指摘するシンクロニシティなのかもしれない)。正直、電脳コイルについてはうろ覚えなんだけど、あれもPTSDの傾向(可能性)があった少女の回復の物語だったと記憶しています。本作も基本的にその路線。本作は人の意識、記憶を脳科学や心理学的アプローチで説明しつつ神霊(オカルト要素)を抱き合わせた物語だとすれば、電脳コイルはSFガジェットを使って同様にアプローチしつつこれまたオカルト要素を抱き合わせた物語だと言えます。電脳コイルではメガネを通して物語の謎に迫っていきますが、本作では神霊(幽体離脱)を通して謎に迫っていきます。
物語の視点はあくまでも子どもですが、世界の説明はそれぞれ神霊だったりSFだったり心理学や脳科学が使われている。本作の方がかなりマニアックな作りですね。余談ですが、音響に力が入っていてDVD版でも5.1ch収録。ホームシアター組んでるとビビる。
全体を通しての印象としては「勉強になった」の一言に尽きます。私は趣味で心理学関連の本をよく読むんですが、付随的に脳に関する文章もよく目を通します。本作で登場する用語は概ね訊いたことがありますが、それでも知らない名詞が登場しましたし、また、私にとってはあくまで個々の知識にすぎなかった概念が本作の世界観を説明する形で繋がりを持って構築されているのは新鮮な体験でした。私達が存在しているこの世界は多様な解釈が可能な世界なのだと改めて思いますね。
例えば、本作では人の意識や記憶は脳ではなくどこか別の世界にあるとする説が登場します。これは実際にそういう説があります。ユングの集合的無意識も広義にはこれに近いと思いますが、そうした説が登場するほどに生物というのは不可思議な生き物であるという話しですね。これを単に科学的に割り切ってしまうのは少し勿体ないし、オカルト的な話しで済ますのもやはり勿体ない。多様な解釈が可能であるということは、それだけ人間に想像力があるということであり、その想像力故に思い込みや願望、逃避的な理由付けを行って人生を狂わせてしまう人がいるわけです。過去に囚われてしまうのもその一つの現われだと思います。それをどのように咀嚼し人生を面白く解釈していくか、というところが腕の見せ所だと思ってます。私は学者じゃないんで世界がどうなっているかには大して興味はない。生が与えられたならそれを満喫するだけです。
下記に抜粋した次回予告など見ると過剰に期待する方もいるかもしれませんが、物語そのものは比較的単純です。終盤の展開もどちらかといえばショボイ。結局のところ神霊とは何か、人の意識や記憶とはどこにあるのか、水天町には人の脳を改変してしまう何かがあったのかといったことは判明しません。上述したようにそれらはあくまで物語の背景であり、主人公をはじめとしたPTSDやアイデンティティに苦しむ少年少女達の物語です。結局のところ人は何かに理由を付けなければ(求めなければ)生きるのが辛いと感じる生き物なのかもしれません。ある種の過去との決別、統合、自分の感情を受け入れるといった人としてごく当たり前の、そして現実を歩んでいくために必要な強さを身につけていくための成長、通過儀礼が本作の主題であろうと考えます。世界がどう出来ていようと、人は生きねばならない。
以下は各回のサブタイトルと次回予告。単にこれをメモ的に残しておくために、感想をとってつけました。
あと、本作のスタッフ的にも内容的にも「serial experiments lain」はほとんどセットでしょうね。どちらか先に見て気に入ったら、残りの方も…となること請け合い。
1話 Lucid Dream ―明晰夢―
訓練すれば人は自由に夢の中で行動できるのだという。
しかし、フランシス・クリックは夢の解釈について、大脳新皮質に記録された無意味な記憶を消去するためのもので意味などない、と断じている。
クリックにとって人の意識は脳内に起こっている40Hzの共鳴現象でしかない。
夢、夢のかたち、夢の世界、幽世。
2話 E.M.D.R. -Eye Movement Desensitization and Reprocessing- ―眼球運動による脱感作と再処理―
トラウマにとらわれた人を救う方法を人は様々に模索している。
トラウマの元となる記憶を想起させながら、眼球を運動させるこの方法は大脳辺縁系の情報処理を再活性させるのだと言われている。
けれど、それだけなのだろうか。
眼球が運動しているときにその人は何かを見ているのではないか。
施術者の、指の向こう側に。
3話 Phobia Exposure ―恐怖症曝露―
他者から見たら、なんでもないことでも人は強い恐怖の対象とするときがある。
意識による制御がきかない脳のこうした作用はどんな意図でデザインされたのだろうか。
生存本能とはもはや無関係なものに対してまで恐怖し続ける宿痾を背負う必要がどこにあるというのだろう。
4話 Altered States of Consciousness ―変成意識―
ライトオブパッセージ。
人は痛みを伴わずして成長することがないのだとすれば過去のどの瞬間が、通過儀礼であったのか知るために記憶の漆黒の中から棘の痛みの感覚を手繰り寄せなくてはならない。
しかしそれもまた、死に至るまでに必要なイニシエーションなのだろう。
人としての。
5話 O.B.E. -Out of Body Experience- ―体外離脱体験―
1966年、ウェストバージニア州ポイントプレザントで、蛾のような怪物モスマンの集中目撃事件が起こった。
調査を行ったジョン・A・キールは、ラジオから謎の声が自分に話しかけてくるといった異常体験をしたのち、モスマンやUFO、妖精といった存在は、我々が知覚し得ない領域の超越的な地球生命体ではないかと結論づけている。
6話 Brain Homunculus ―脳の中のホムンクルス―
カナダの脳神経学者ワイルダー・ペンフィールドは大脳新皮質を電極で刺激することで、まるで体外離脱をしているかのような感覚を引き出すことに成功した。
脳の機能の局在性について著しい発見をしたペンフィールドは、しかし、心は脳の中にあるわけではないとするデカルト的二元論に最後まで固執し続けたのだった。
7話 L.T.P. -Long Term Potentiation- ―シナプス回路を変化させ、それを維持する能力 "人間の脳に於ける長期記憶の正体"―
1923年。フランスのソジー夫人は、パリの地下に大勢の子供たちが秘密結社によって幽閉されていると訴えたがしかし、警察、ソジーの夫など無数の人々が替え玉と入れ替わっていることに気づく。
以来、妄想性人物誤認症候群のことをソジーの錯覚、もしくはその報告者の名からカプグラシンドロームと呼ばれることとなった。
8話 Revolution of Limbic System ―脳の扁桃体を中心とする記憶・情動を司る大脳辺緑系-その革命―
恐怖に代表される人の情動を司る扁桃体と、脳における情報のインターフェイスである海馬。
隣接したこの二つが記憶というものの神経回路メカニズム、すなわちリンビックシステムと呼ばれる。
リンビックは大脳の辺縁部位を示すが、語源であるギリシャ語の「リンボ」は辺境、この世とあの世、現世と幽世との境界を指す言葉なのだった。
9話 Existential Ghosts ―実存主義的なる神霊―
2003年、ハートフォードシャー大学の心理学者リチャード・ワイズマン教授らはロンドンの古いホールに観客を集め、現代音楽の演奏途中で長さ7メートルのパイプから発生させた超低周波音を聞かせた。
その結果、22%の観客が異様な感覚を体験したという。
幽霊は、こうした低周波音が引き起こす感覚異常ではないかとワイズマンは推察している。
10話 Affordance/T.F.T. -Thought Field Therapy- ―アフォーダンス[環境が生物に提供するもの]/思考場療法―
例えばその土地には川が流れ、肥沃な土地が広がっているとすれば、その土地は人に対して住みよい土地であることをアフォードしている。
アフォーダンスという概念はその環境がもっているアプリオリな性質の中から知覚者が恣意的に発見し、獲得する構図を表すが、ならば今の世界は人にいかなるアフォードをしているのだろうか?
11話 Syntax Error ―論理的統辞論に於ける過ち/プログラム・バグ―
メメント・モリ。
そう他者に言われるまでもなく人は己の死を意識せず生きていくことなどできない。
己の死後についての考えはともかくも近しい人の死をいたむ気持ちはいかなる死生観、いかなる宗教観を持つ人にとっても等しく同じに違いない。
メメント・モリ。
それはこの世界に生きる人間が持つ数少ないコンセンサスの一つなのだろう。
12話 Homeostasis Synchronization ―恒常性維持機能同調効果―
シャーマニズムの本質がミルチャ・エリアーデが説く様に脱魂エクスタシー型にあるのか、ヨアン・エムルイズが重視する憑依ポゼッション型にあるのか。
本質的に不価値な事柄について理性的な理解をするには、その儀礼や象徴から推し量るより術はない。
しかしシャーマンのシステムは現在の社会でもその呼び名を変えただけで生き続けている
13話 For the Snark was a Boojum, you see. ―そう、そのスナークはブージャムだった―
独自のキリスト教倫理学を提唱したイマヌエル・スウェーデンボリは霊魂の存在を物理的に探求するべく脳生理学、解剖学を学んでたが、幻視を体験、死後の世界を自在に行き来するようになったことでその研究をやめてしまう。
後に純粋理性批判を著すイマヌエル・カントにもスウェーデンボリの思想は高く評価されることとなる。
14話 Emergence Matrix ―創発基盤―
鎮魂。
逝った人のことを思うこの言葉にはもう一つの意味がある。
生きているものの魂は不安定で体につなぎとめておかねば乖離してしまうという。
明治時代初期、本田親徳は鎮魂と神を人間の肉体におろす帰神を軸として古代の神道を体現化し出口王仁三郎らに影響を与えたのだった。
15話 Toward an Abandoned City ―廃市へ―
ヤマトの国は言霊の咲きわう国だという。
言葉そのものに霊的な力が伴うとするその考えは日本固有のものではなく、古代ギリシャよりロゴスの概念には言葉を神の秩序、神そのものとも同一視されてきた。
よごとであれまがごとであれその言葉を口にしたものの真理は言葉の意味が刻まれ発言者自信とその環境の未来に深く影響を与える。
16話 Hopeful Monster ―希望的な怪物―
スティーブン・ホーキングは宇宙は何故今のように安定しているかについて、それは人間が存在しているからだという解釈に否を唱えていない。
ブラックホールを命名したジョン・ウィーラーも不確定性原理による量子確率論を現実の宇宙に合致させるためにはその宇宙の内部に観察ものすなわち人間が存在していることを条件に定義付けている。
17話 Implicate Order ―内在秩序―
コペンハーゲン解釈に疑念を抱いたデビット・ボームは断片の中に全体が内包されるとする考えを提唱し、その概念の説明としてレーザーによるホログラフィーが立体に見える構造を例に挙げた。
部分と全体とが見えざる秩序によって結ばれるというボームの哲学的量子論は、脳もまた、ホログラム的構造を有することを見通していた。
18話 Holographic Paradigm ―水辺の量子重力理論―
2008年、マッセイ大学のブライアン・ウィットウォース博士は宇宙の物理現象は全て情報として還元できるとした上で、我々が現実と捉えるこの世界は実は他者がコンピューター内に作った仮想世界であるとの説を発表した。
手垢のついたSFのようだと評される一方で一部の人々からは共感を得る、というこの情報もまた宇宙の中に統合されている。
19話 Negentropy ―可塑性時間―
世界は常に乱雑さを増していくとする熱力学法則と自己組織化を繰り返す生命現象とを折りあわせるべくエルビン・シュレイディンガーはネガティブエントロピーの概念を提唱する。
時間の不可逆性と相反するこの未知のエネルギーはイリヤ・プリコジンが散逸構造論を表すまで可能性として存在し続けた。
20話 Shaman's District ―シャーマンの領域―
万能細胞開発競争の渦中、ES細胞捏造事件が起こり一時研究は停滞していた。
しかし2007年、京都大学山中伸弥教授らのグループは体細胞に山中因子と命名された遺伝子を導入することで人口多能性幹細胞、IPS細胞の開発に成功したが、同時期MIPのラドルフ・ヤニッシュ教授らのグループもほぼ同じ実験に成功していた。
21話 Stochastic Resonance ―確率共鳴―
微弱な信号を伝える時に、ランダムなノイズを加えることによってある確率の下、その信号伝達反応が増大するという確率共鳴現象は人の脳における神経伝達回路や動物の感覚細胞に認められる機能であるが、もともとは地球の氷河期周期を説明するために提案されたものだ。
現在の電子回路・・・
「匡幸! やばかとー!」
「太郎! 」
「ボクがあんこの名前、呼ぶ!」
「早く…うちんこつ…」
22話 Passage ―道程/暗黙知の次元―
レ・ミゼラブル 少女コゼット
全52話 監督:桜井弘明 シリーズ構成:金春智子
ヴィクトル・ユゴー原作のアニメ。世界名作劇場として家なき子レミから10年ぶりに製作された。
原作を読んだ上で見たので基本的に比較論になります。結論を先に言えば原作を読んだ人が物語から学んだことを原作に投影したような感じ。原作レ・ミゼラブルに似て非なるもの。登場人物や大まかなストーリーは原作に忠実に作ってあるのだけど、物語としては全くの別物。アニメオリジナルの小話や、原作で死んだ人がアニメでは生きているという点を差し引いても全く違う物語だと言える。
好き嫌いで言えば原作の方が圧倒的に好きなんだけど、アニメ版がダメということではない。原作を忠実にアニメにするとお茶の間エンターテイメントとしてシリアス過ぎるし、現代のニーズを取り入れてリファインするのも手法として有りだと思う。アニメ単品で見ると中盤のテンポが遅いことと、タイトルにコゼットの名があるものの結局誰の物語なのか曖昧になっている点はもったいないと思うが(視点と焦点が絞り切れていない。かといって群像劇というほどの広がりや構成力があるわけでもない)原作でもあった革命をモチーフに社会の変革、人の変化を描いていたと思う。
では、原作とどのように違うのかを簡単に書きましょう。その違いが私にとって原作とアニメとの違いであり、感動するポイントの違いでもあります。
原作の物語はジャン・ヴァルジャンという元徒刑囚の物語として構成されています。彼は家族を養うためにパンを盗んだため捕まり、脱走を図ったことで19年も監獄に入れられてしまいます。長い年月が彼から人間性を奪ってしまいますが、ミリエル司教との出会いによって改心(と同時に回心)します。ここまではアニメと共通しています。コゼットとの関わり方が大きな違いです。コゼットと出会い一緒に暮す中で彼はコゼットに愛と幸福を感じるようになります。コゼットへの愛、平穏で至福な感覚があまりに強いため彼はコゼットを独占しようとすら考え、その度に彼は葛藤します。自分の勝手な都合でコゼットを閉じ込めて良いのか?と。だから彼は警察に捕まる可能性があっても修道院から出てコゼットに外の世界を見せます。コゼットがマリウスに恋したことを知った時の彼の葛藤は凄まじいもので、自分からコゼットを奪おうとするマリウスに憎悪すら抱くんですね。ここの件はアニメでは完全にカットされてただの物わかりの良いお父さんになっています。これによってアニメのジャンは普通の良い人になってしまっているのです。原作の持つ強い精神性、ジャンへの憧憬と尊敬、彼を聖人たらしめる理由は、彼の理想、彼の精神があまりに公正で高潔な点にあります。上述した憎悪を克服し命がけでマリウスを助け、結婚後はコゼットから身を引く。その後生きる糧を失った彼は衰弱死します。それほど彼はコゼットを愛して、そのことを幸福だと思っていたんですね。
私の主観ではありますが原作のレ・ミゼラブルは、革命という時代を背景にしてジャン・ヴァルジャンに人間の理想、気高さ、時に悪に染まり、時に善となり、時に苦悩しながらも愛することの尊さを込めた物語だったと思っています。革命を通じて人間性の復権が書かれている。彼の姿をとおして読み手一人一人の心にジャン・ヴァルジャンという良心が刻まれるのです。
アニメでは「人は変わる」をテーマに(というか教訓として)話を纏めています。その例としてティナルディエの家族の変化やジャベールの変化が顕著でしょう。みんながジャンに救われる話になっている。人が助けられ変わっていくことで、社会も少しずつ変わって豊かになっていくものとして描かれています。物語のifとしてこういう結末の変化はあり得るとしても、結果してそれによって物語の方向性、メッセージ性も大きく変わっています。原作と似て非なるものだと思うのはそのためです。
あるいは別な見方をするなら、原作のレ・ミゼラブルはジャン・ヴァルジャンという大嘘をついていると言えます。ジャン以外の人物、時代背景はとてもリアルで過酷です。悪党はとことん悪党ですし、貧民は救われません。マドレーヌを失ったモントルイユ・シュル・メールは過疎化していく。革命も局地的な抵抗運動で終わってしまいます。ジャンだけが聖人としてこんな人間いねーよ、というくらい突出している。そのため彼を個人としてではなく理想として見ることが出来る物語になっている。それに対してアニメでは小さな嘘をいくつもついていると言えます。一人一人の変化は確かにあり得そうなんだけど、こんなにお利口さんなら誰も最初から苦労しないよ、と。厳密にはどちらもリアリティに欠けているのですが、原作の方が心に残るのはジャンの幾多の苦悩が人間の持つ普遍的な葛藤として共感を生むからです。アニメは小綺麗過ぎる(じゃなきゃお茶の間で放送出来ないんだけどね)。無難で万人向けなのはアニメなんだけど、原作の持つ強烈な意思性までもが削られてしまっている。
というようなことを書くと原作ファンの小言っぽいのですが、原作アニメ共にレ・ミゼラブルは起伏の富んだ物語でエンターテイメントとしても楽しめる作品です。ジャンの逃走劇、ジャンとコゼットの暮らし、目まぐるしい場面転換と革命に燃える青年達、コゼットとマリウスの純愛、ジャン無双(この人反則的に頑強かつ器用)、といった感じで様々な人間模様と当時のフランスが書かれています。アニメではテンポが遅いと書きましたが、原作では本筋と離れた小話(修道院の話とか地下水道とか)が延々と数十ページ続いたりするので活字が苦手な人にはアニメの方が楽しめると思います。2,500ページある原作と52話あるアニメとどっちを選んでも時間はかかるんですが。
関連:レ・ミゼラブル(ユゴー)
ヴィクトル・ユゴー原作のアニメ。世界名作劇場として家なき子レミから10年ぶりに製作された。
原作を読んだ上で見たので基本的に比較論になります。結論を先に言えば原作を読んだ人が物語から学んだことを原作に投影したような感じ。原作レ・ミゼラブルに似て非なるもの。登場人物や大まかなストーリーは原作に忠実に作ってあるのだけど、物語としては全くの別物。アニメオリジナルの小話や、原作で死んだ人がアニメでは生きているという点を差し引いても全く違う物語だと言える。
好き嫌いで言えば原作の方が圧倒的に好きなんだけど、アニメ版がダメということではない。原作を忠実にアニメにするとお茶の間エンターテイメントとしてシリアス過ぎるし、現代のニーズを取り入れてリファインするのも手法として有りだと思う。アニメ単品で見ると中盤のテンポが遅いことと、タイトルにコゼットの名があるものの結局誰の物語なのか曖昧になっている点はもったいないと思うが(視点と焦点が絞り切れていない。かといって群像劇というほどの広がりや構成力があるわけでもない)原作でもあった革命をモチーフに社会の変革、人の変化を描いていたと思う。
では、原作とどのように違うのかを簡単に書きましょう。その違いが私にとって原作とアニメとの違いであり、感動するポイントの違いでもあります。
原作の物語はジャン・ヴァルジャンという元徒刑囚の物語として構成されています。彼は家族を養うためにパンを盗んだため捕まり、脱走を図ったことで19年も監獄に入れられてしまいます。長い年月が彼から人間性を奪ってしまいますが、ミリエル司教との出会いによって改心(と同時に回心)します。ここまではアニメと共通しています。コゼットとの関わり方が大きな違いです。コゼットと出会い一緒に暮す中で彼はコゼットに愛と幸福を感じるようになります。コゼットへの愛、平穏で至福な感覚があまりに強いため彼はコゼットを独占しようとすら考え、その度に彼は葛藤します。自分の勝手な都合でコゼットを閉じ込めて良いのか?と。だから彼は警察に捕まる可能性があっても修道院から出てコゼットに外の世界を見せます。コゼットがマリウスに恋したことを知った時の彼の葛藤は凄まじいもので、自分からコゼットを奪おうとするマリウスに憎悪すら抱くんですね。ここの件はアニメでは完全にカットされてただの物わかりの良いお父さんになっています。これによってアニメのジャンは普通の良い人になってしまっているのです。原作の持つ強い精神性、ジャンへの憧憬と尊敬、彼を聖人たらしめる理由は、彼の理想、彼の精神があまりに公正で高潔な点にあります。上述した憎悪を克服し命がけでマリウスを助け、結婚後はコゼットから身を引く。その後生きる糧を失った彼は衰弱死します。それほど彼はコゼットを愛して、そのことを幸福だと思っていたんですね。
私の主観ではありますが原作のレ・ミゼラブルは、革命という時代を背景にしてジャン・ヴァルジャンに人間の理想、気高さ、時に悪に染まり、時に善となり、時に苦悩しながらも愛することの尊さを込めた物語だったと思っています。革命を通じて人間性の復権が書かれている。彼の姿をとおして読み手一人一人の心にジャン・ヴァルジャンという良心が刻まれるのです。
アニメでは「人は変わる」をテーマに(というか教訓として)話を纏めています。その例としてティナルディエの家族の変化やジャベールの変化が顕著でしょう。みんながジャンに救われる話になっている。人が助けられ変わっていくことで、社会も少しずつ変わって豊かになっていくものとして描かれています。物語のifとしてこういう結末の変化はあり得るとしても、結果してそれによって物語の方向性、メッセージ性も大きく変わっています。原作と似て非なるものだと思うのはそのためです。
あるいは別な見方をするなら、原作のレ・ミゼラブルはジャン・ヴァルジャンという大嘘をついていると言えます。ジャン以外の人物、時代背景はとてもリアルで過酷です。悪党はとことん悪党ですし、貧民は救われません。マドレーヌを失ったモントルイユ・シュル・メールは過疎化していく。革命も局地的な抵抗運動で終わってしまいます。ジャンだけが聖人としてこんな人間いねーよ、というくらい突出している。そのため彼を個人としてではなく理想として見ることが出来る物語になっている。それに対してアニメでは小さな嘘をいくつもついていると言えます。一人一人の変化は確かにあり得そうなんだけど、こんなにお利口さんなら誰も最初から苦労しないよ、と。厳密にはどちらもリアリティに欠けているのですが、原作の方が心に残るのはジャンの幾多の苦悩が人間の持つ普遍的な葛藤として共感を生むからです。アニメは小綺麗過ぎる(じゃなきゃお茶の間で放送出来ないんだけどね)。無難で万人向けなのはアニメなんだけど、原作の持つ強烈な意思性までもが削られてしまっている。
というようなことを書くと原作ファンの小言っぽいのですが、原作アニメ共にレ・ミゼラブルは起伏の富んだ物語でエンターテイメントとしても楽しめる作品です。ジャンの逃走劇、ジャンとコゼットの暮らし、目まぐるしい場面転換と革命に燃える青年達、コゼットとマリウスの純愛、ジャン無双(この人反則的に頑強かつ器用)、といった感じで様々な人間模様と当時のフランスが書かれています。アニメではテンポが遅いと書きましたが、原作では本筋と離れた小話(修道院の話とか地下水道とか)が延々と数十ページ続いたりするので活字が苦手な人にはアニメの方が楽しめると思います。2,500ページある原作と52話あるアニメとどっちを選んでも時間はかかるんですが。
関連:レ・ミゼラブル(ユゴー)
ジュエルペットてぃんくる
「女の子は誰でも素敵な魔法使い」。この言葉に恥じぬ見事な物語。
面白いのは同時期に放送されていたハートキャッチプリキュアと骨子的な部分は非常に似通っていること。これは現代の諸問題、その解答がそれだけ共通しているということなのだろう。本作もプリキュアも、愛情や友情を孤独や憎悪と絡めながら子ども視点で強く明るいメッセージを届けている。利己より利他、自分のためより人のため、それで勝って終わる時代は過ぎてしまっている。本当に友情や愛情があるんだったら相手をも救ってみせろよ、その疑問に答えるように物語はより深化している。なぜ人は孤独になり憎悪を抱くのか、どうやったらそうした人々は希望を抱けるのか。彼らこそ最も愛情や友情を欲している人々なのではないのか。そうした世相、現実をよく捉えた上で作られている。
この物語の魔法は自己の延長として存在する。特殊で便利なものではない。例えばおジャ魔女の魔法は魔法でした。特殊な力で、その力を使えば現実を変えることができるものだった。空を飛ぶことも、料理を作ることも、子育ても全てが魔法で出来る。しかし主人公達はそれを敢えてせず自分の力で解決していくことを選んだことによって魔法を否定した物語だった。
本作では日常生活の手段の代替として使用することはない。人間界で魔法使いが存在し続けられないことを考慮すれば、実質的にこの物語の魔法は現実を変える特殊で便利な力として位置づけられていない。魔法はその使用者の心の現れとして表現されている。魔法はその人の心の強さ、持ち方であり、人との関係性を形作るもの。その意味で本当に人を魔法にかけることが出来る。「女の子は誰でも素敵な魔法使い」のキャッチフレーズは的を射ている。魔法少女というフォーマットを使いながら現代のニーズに柔軟に対応して作られている。心の輝きを宝石として、心に宿る力を魔法として表現している。
現代は物質に溢れ、文明的な豊かさと自由を獲得している。しかし同時に人々の結びつきの希薄化は免れない。これはどうしようもないことであるし、文明が進む限り不可逆的である。村社会コミュニティは解体され都市化していく。しかしそれは決して人々が孤独を愛し、絆と決別したことを意味しない。人は社会的な動物に他ならない。だからこそふれ合いだとか人と人との繋がりだとか求められる。じゃあだからといって、自ら地域のコミュニティに参加したり会社の飲み会に出まくるなんてことはしない。社会構造の変化とともに人々の意識も変化している。自由と連帯は、孤独と絆の裏返しでもある。それをどのようにマッチングさせるかはその時代、文化によって異なるだろう。
ジュエルペットもプリキュアもそうした時代の中にあって、子ども向け作品として現代を映している。勿論それは現実の全てを映しているわけではないし、全ての人々を救う処方箋でもない。所詮はフィクションでありお伽噺である。しかしその中にその時代のニーズや倫理が含まれていることもまた見逃せないことだと思う。物語は現在と人を知る手がかりになる。
以下、各話感想。
1話
ジュエルペットのルビーは魔法があまり上手くない。ジュエルペットは人間を幸せにするのが目的。
桜あかり6年生。中学生アイドルで生徒会長モニカの妹。姉の知名度に隠れている。そのふたりがパートナーを組んで変身する。魔法学校に入学。
2話
母と姉は仲良し。その姿にあかりは疎外感を覚える。
魔法学校(ジュエルランド)へ行っている間は現実世界の時間は遅延する。
2年生ミリア。自意識過剰。口悪い。美少女シンガーを目指す。
5年生レオン。国王になって人間と友好的な世界を作るのが夢。
4年の沙羅は紹介程度。
生徒達の最終目標や夢はジュエルスターグランプの優勝。優勝すると3つの願いが叶えられる。当面はジュエルストーンの収集。これが12個になればグランプリに出場できるし進級する。収集方法は魔法の上達などによってもらえる。
あかりも憧れるが、彼女は引っ込み事案で家族と距離があるコンプレックス持ち。そんな自分の夢(コンプレックス解消)を恥ずかしがってしまい具現化した気持ちが離れてしまう。ルビーの応援もあってあかりはコンプレックスを受け入れる。100点連発。リレーの選手。クラスの人気者。勉強足得る。お姉ちゃんみたいに生徒会長、小遣い欲しい。漫画家になる。ミュージカルのスター。ゆうま君と結ばれたい。子どもっぽくむちゃくちゃではあるが、夢を持つことはそれだけ前向きにもなれるということ。
ジュエルストーンを一つ得る。分かりやすい視覚化。魔法と言っているが実際には精神的な成長が軸になっている。系統としてはおジャ魔女のように魔法によって成長を促す展開だろうか。
3話
魔法物理主席の沙羅と同じ学年の生意気少年ニコラが本格的に顔見せ。
話しのメインは幼いジュエルペットのラブラ。魔法が使えず泣くと周囲の物が壊れる。あかりはラブラを助けるために魔法を使う。お互いに未熟ではあるが大きな可能性を持つ。パートナーを組んで魔法力アップ。
4話
ミリア回。家が広くお金持ち。部屋にはフィギュアやヒーローもののポスター等が貼られている。
あかりが通う本来の学校ではあかりは相変わらずの様子。憧れのゆうま君は女子に人気。
何かと先輩風をふかすミリアだが彼女の積極性をあかりは羨ましがる。調子にのったミリアは魔法を暴走させてしまうが素直に謝れない。背伸びしたがり盛り。自分の不始末で好きなレオンに迷惑をかけてしまいようやく過失を受け入れる。ストーン1個追加で3個。
主人公らしくあかりは素直で優しく慈愛的。未熟故に弱者の気持ちを理解する。物語的にはやはり魔法の成長よりも心の成長の方に重きがある。この手のタイプは最終的に魔法を卒業することで成長の締め括りとするが、さて。
5話
新任教師サルファー登場。
沙羅の話し。典型的な学者肌。妙な魔法ばかり作るのでみんなから怖がられている。が、好奇心が強いあかりは面白がる。あかりの明るさに触発されながら沙羅は魔法には心も必要であると気づく。
6話
珍しく現実世界の描写。親父さんは通販オタクらしい。魔法学校の校長もこの口。じいさんになっても若い女の子が好きな校長先生は男の見本。通販オタクというより通販セールスウーマンが好きなだけのような気がする。
7話
モニカ親衛隊なるものまであるらしい。ようやくゆうま君と話す機会に恵まれるが恥ずかしがって声をかけられない。彼女の引っ込み事案や自信のなさは自己評価が低いことに根ざしている。常に姉と対比され、これといった特技もないのではそれも仕方ない。その彼女をルビーは正面から真剣に評価する。それを知ったあかりはちょっとだけ勇気を出す。
引っ込み事案を治す薬を求める過程で勇気と意思を見せる、という王道パターン。魔法はあくまで弱さを克服するための動機付け。
8話
ちょっとずつ勇気を人前でも出せるようになる様子が描かれる。魔法学校での経験は僅かではあるが現実世界にフィードバックされている。
ジュディーとの不思議な出会い。人のためにこそその能力を十二分に発揮するあかりは主人公の見本。誰かのために頑張ることをとおして人が強くなっていくことが描かれている。そして誰かの応援や支えがあって力を発揮できることも。
9話
魔法試験。試験にパスするとストーンが1個もらえる。試験の出し方や内容はおジャ魔女を彷彿とさせる。つまり"魔法"試験ではなく"人間"試験。仲間と一緒に協力することがメインで、魔法の強さや使い方は問われない。これは特に沙羅に重要。彼女は魔力が高いものの人間関係に疎いので必然的に限界がある。
沙羅は百合キャラで確定。あかりを巡っての三角関係。俺得である。全くどうでもいいが、ペチコートが熱い。スカートからチラっとのぞく白レース最高。
10話
肝試し回。例によって誰かの仕業だったり勘違いだったり。沙羅がなぜあんな着ぐるみを持っているのかが最大の謎。サルファーさんマジ可哀想。でも6話のときにあかりに抱きつかれたので存分に苦しめ。
11話
ミリアは父と5年会っていないらしい。あかりの親父さんは釣り好きでミリタリー(模型)マニア。船舶の設計技師。役職は部長。変身魔法を通じて普段目にしない父の姿を知る。
12話
珍しく人間界を筋としたエピソードが続く。将来の夢。色々候補はあるが漫画家も有りらしい。ハートキャッチプリキュアでも漫画家を目指すキャラが居たけど最近の傾向としては漫画家も憧れの対象なのだろうか。ネットで検索すると特に女の子にそういう傾向があるらしい。しかも上位。なるほど女児向けアニメにそうしたニーズを取り入れるのは理にかなっている。
ミリアはアニメオタク。是非私とお友達になって欲しい。
校長から漫画家セットを借りてコンテストに応募すべくあかりは恋愛ものを構想。普通はこういう発想と展開だと思うのだが、女の子同士で抱き合うプリキュアは改めてすげーと思う。
魔法で自分の漫画の世界を疑似体験。楽しみながら想像することと自分の気持ちを見つめることの差。魔法少女ものにおける魔法は願いを叶えるためのものではなく、現実を見せるためのもの。自分が納得し他者も納得するものを作ることは険しく遠い道のり。
自分が持っているものを使って作った漫画が認められ学級新聞に連載されることに。ちょっとずつあかりはクラスでも存在感を持ち始める。
13話
あかりの言うことなら何でも聞く沙羅はガチ。
レオン回。この手の魔法世界にいる伝説の生き物とか魔女は大抵とても良い人。頼んでもいないのに試練を出してくれて、病とかそういうのを治してくれる。子ども向けの魔法世界は子ども達に優しく、えげつない。友情と勇気に免じて星ゲット。通算3つ。この調子なら最終回までに12個いきそう。
14話
ミリア回。ミリアの母は世界的にも有名な歌手。そのため普段会えないミリアは寂しい思いをしている。特に言及は無いが母子家庭のようだ。
親子の絆を確認する話し。母の歌手デビューを阻止すべく魔法を使って過去に戻るが、結局は手伝いをしてしまう。魔法を扱う物語の長所でもあり欠点でもあるのが、その非日常性を拒否できない点である。そのためどうしても視聴者との体験的な乖離が生じる。現実的ではない面がどうしても入り込んでしまう。もっとも、開き直ってしまう手もあって、ミリア(とあかり)が行ったことによって親子の繋がりを強めているのは綺麗なオチの付け方。
15話
お菓子作り対決。どういう訳かスイーツ作り対決がジュエルスターグランプリの演目にあるらしい。魔法と関係ないように思えるが、そこは女児のニーズを満たすためだろう。
田舎まで来て自慢話しをしてくれる暇なライバル登場。ジュエルペット同士が対決。校長仕事しろ。
ライバルのミスによって辛くも勝利。技術よりも愛情を。
16話
前回に引き続き人間側のライバル登場。名前が長すぎて覚えられない。でも三姉妹なので見分けは簡単。やっぱり高いところが好き。長女はグランプリ出場決定者。レオンとは人間界でも知り合い。お約束どおり性格が悪い。女の子向けではライバルは性格が悪いことが多いのだが、これも好み的なものなのだろう。優しさとか心の素直さが重視される。
素直なあかりは三姉妹にも普通に接するが、色恋沙汰も入って一方的にライバル視される。あるある。
ドレス対決。審査委員はレオン。突然話しを振られても「ウェディングドレス」とお題を出せるこの男はしたたか者。でも一番楽しみにしているのは沙羅さん。流石です。
勝てる気がしないライバルならぬ、負ける気がしないライバル。
17話
あかりの誕生日。だが両親が不在。
ひょんなことでゆうま君と会話できることに。彼の両親は亡くなっている。憧れ(好意)が強すぎて自分から距離を取っていたが話してみると案外会話が弾む。彼女が好意を持った理由は縄跳びで挫けそうになっているとき彼がロングシュートの練習で決めたこと。彼に勇気を貰ったと伝える。
ラブラとはぐれてしまいバスケの試合を見に行くのとブッキングしてしまうが、彼女はラブラを選ぶ。浮かれていた自分を反省。ものすごく出来た子です。ラブラからプレゼントを貰うことで絆が深まる。妖精との友情も大事な要素。無事試合にも間に合う。ゆうまはプレゼント代わりに3Pシュートを贈る。最初は家族から見放されてヤケクソ気味だったが、みんなからプレゼントを貰ったことで貯金は家族のために使うと思い直す。繰り返すがよく出来た子です。
もちろん、家族が見放すわけがなくサプライズパーティに。
この手の魔法少女でぬいぐるみのような妖精が登場するのは言うまでもなく女児にとって親和性が高いからだろう。ぬいぐるみは遊び相手になるし、いわゆるイマジナリーコンパニオン(イマジナリーフレンド)の仮託先となりやすい(架空の友達のこと。独りで会話したりぬいぐるみ相手に会話するのがそれ)。これは幼児期の発達過程としては正常なもので自己の意思を投影しながら自意識を発達させていく。ごっこ遊びも模倣をしながら疑似体験する意味合いがある。
魔法の秘密を知る共有者として妖精があり、視聴者にとってのぬいぐるみがその役目になるのだろう。妖精との友情は遊びや空想をする上でのよい材料になると思われる。
18話
試験2回目。今回はあかり・ミリア・沙羅はバラバラ。あかりはニコラと組んで魔女にありがとうと言って貰う課題が出される。この課題はありきたりだが、あかりの性格を踏まえると必然性がある。彼女の真骨頂は子どもらしい素直さと好奇心。今回のエピソードはどれだけ相手を思い遣れるかが試されている。常に自省と謙虚さを失わないあかりの好意は説得力が高い。そして大事なのはそうした親切が些細なことでも構わないことである。
女児向け作品において、可愛くて(ここ重要)優しい女の子は最強なのだ。
試験クリアで星ゲット。通算4個。言うまでもないが、魔法はもう全く関係無い。
19話
前回の試験であかりは3年生、ミリアは4年生(6個)、沙羅は星9個。
ニコラ回。天才ピアニストらしい。ひょんなことでパートナーのチターナとケンカしてしまう。彼の母は息子を見栄のためだけに使う。彼が天才ピアニストであるのは間違いないが彼をそのまま褒めてくれる人はいない。チターナはそんな彼の心の隙間を埋めてくれる貴重な存在。
20話
漫画の効果もあってかクラスメイトからも祭りに誘われる。
本編ではたぶん初登場のジュエリーナ様。魔法学校でもお祭り。1回だけ10倍効果の魔法が使える。各自好きなように使うが有意義とは言い難い。やっぱりというか人助けのために魔法を使うあかりはあかりらしい。
ご褒美として星ゲット。
とても大事なことだが、このアニメはあかりの太ももがエロい。
21話
魔法実験の失敗でミリアと沙羅の中身が入れ替わる。実は沙羅さんあれで結構ノリが良いことが判明。ふたりの仲がちょっとだけ近くなったかも。
22話
待ちに待った海水浴!ビバッ水着!と思ったらあっという間に普段着に戻る。プリキュアよりはマシだが納得がいかない。これが限界なんです…というスタッフの声なのかもしれない。
三姉妹再び。相変わらず名前が長くて何を言っているのか分からない。例によって墓穴を掘ってくれる。これでどうやって星をゲットできるのか分からないが学校によって基準が違うのかもしれない。この手の実力を傘に着るタイプのライバルは成長が止まっているのと同じなので常に熱意と成長思考がある主人公には勝てない。子ども向けで重要なのは可能性。諦めない者にこそチャンスは訪れる。
星ゲット。通算6個これで4年生。沙羅は6年生に。
23話
新学期。席替えでゆうま君とはちょっと離れたが同じ図書委員でそれなりに気軽に話せるような間柄になっている。
物語の中盤。この世界には人の憎悪から生み出された禁断の魔法が存在するらしい。現在は一冊の本に封じられ行方不明になっている。
アルマが本格的に登場。パートナーは彼が生み出したジュエルペット、ダイアナ。実力は三姉妹とは比べものにならない。あかりの力によってなんとか退ける。
24話
前回の貢献によりあかりはみんなから褒められる。大きな魔力を秘めていることが示唆されているがこれは勿論彼女の成長を示唆している。アルマのもう一人のジュエルペット、オパール登場。アルマは魔力が高すぎて寿命を削るらしい。どうやら彼はゆうまの事を知っているらしいが…。
実は女の子でしたオチ。よくよく考えれば、女の子は女の子のジュエルペットと組む(19話で前振りされている)のでちゃんと見ていれば気づく。
25話
ゆうまをキッカケにしてアルマと距離が縮まる。彼女と彼は双子の兄弟。ジュエリーナのせいで母が眠らされ、自分とゆうまは引き離されたと思っているアルマは禁断書を見つけて母とゆうまと一緒に暮らすことを目的にしている。あかりは自分を助けてくれたアルマを止めようとするが彼女の決意は固い。
アルマとゆうまの母は元々ジュエルランドの魔法使い。ジュエリーナの忠告を無視して人間界を訪れ、そこで男と恋に落ちる。人間界にはジュエルランドにはない苦しみや悲しみが溢れているため魔法使いは最終的に泡になってしまうため行き来は禁じられている。しかし人間界に居続けたいと願う彼女は禁断書を使って自分の魔法を捨てようと封印を解く。が、封印を解いてしまったがためにジュエルランド中が混乱に陥る。再び禁断書を封じるため彼女は魔法力を使い果たし眠りにつく。ゆうまは魔法力を持たないがアルマは2人分の魔法力を持っていたためアルマはジュエルランドに。
26話
禁断書を巡っての攻防。戦いの最中にオパールは負傷しジュエルチャームに戻ってしまう。アルマは鍵を得るに留まる。
あかりはアルマの母が使っていた微笑みの呪文を使って後始末。星2つゲット。通算8個。
27話
OP歌詞が変わる(おそらく2番)。
あかりの行動が大分明るく積極的になっている。その変化に家族もビックリ。
アルマの話しは一旦区切り。学園祭。出し物は漫画展。そのリーダーにあかりが選ばれそうになるのが、結局は別の子がやることに。メンバーと打合せをするが喧々諤々話しが纏まらない。諦めかけるメンバーに対してあかりは自分が纏めると主張する。上手く纏め上げメンバーからの評判も上々。自然とリーダー役となって話しを膨らませていく。
この回はいわば中盤の纏め。あかりは魔法学校の経験を糧に自己表現、人間関係を構築していく。
28話
ミリア回。順調に成長と進級を重ねるあかりに対してオーディションに落ち続けるミリアは気後れ。落ち込んでいるミリアのためにみんなはコンサートを催す。…のだが人が集まらない。苦肉の策としてサクラを使ったことがバレで一層ミリアは傷つく。夢を諦めかけたためパートナー達は病に倒れる(ジュエルペットはパートナーが夢を諦めると弱るらしい)。
身の丈にあったことをやっていくべき、というのが作中でたびたび言われているとおり、ことの本質はミリアがオーディションに受かることやチヤホヤされることではない。今の彼女では落選するし、多くの人達を引き寄せる魅力や実力に欠けている。それでも諦めてはいけないし、自分を支えてくれる人に八つ当たりしてもいけない。
星を得てミリアも8個。5年生になる。
29話
ヘタレ教師のサルファーと頼りになりそうに見えて特に活躍していないレオンとの対決。応援席の差が酷い。沙羅は中立と言っているが単にあかりに近い方にいるだけだと思う。
30話
お母さんの誕生日。母と姉の距離と母と自分の距離の差に悩む。劣等生ゆえの疑心暗鬼。人間の面倒臭いところは何かと比較してしまうことで、これのせいで本来は満たされているのに不足を感じることがある。もっとも、優等生だと親が安心してしまうため逆に目をかけてもらえないこともある。優越感よる充足と愛情による充足は違うものなのだ。ニコラが分かりやすい例。天才で凄いことと、愛されることは別問題。愛情を勝ち取るために競争ゲームを続けることは必ずしも正しいとは限らない。
31話
あかりに「あ~ん」してもらえて沙羅大喜び。「(このシチュエーション)美味しい」
沙羅は学者肌だけあって友達付き合いが薄いが、だからといってこの手の人達が全く友人を必要としていないわけではない。実際沙羅はパートナーのサフィーにだいぶ依存している。友人が少ない代りに特定の人に対する執着が大きいのだ。最初に会ったときに自分のことを分かってくれた、と言っているように自分を理解してくれる他者を必要としている。その反作用として真の孤独や繋がりを証明するものの消失には敏感でもある。前回の経験からあかりは沙羅の寂しさを感じ取る。
人との繋がりの再生と価値が"枯れた花を蘇らせる"ことに仮託されている。沙羅は星を得る。
近年は両親が共働きも珍しくないのでこうした寂しさ、繋がり、癒しに対するニーズが多いのかもしれない。子ども向けとしてはこれらに対するフォローは必要であろう。時代によって人の生き方、求めるものは変わる。
32話
ジュエルペット運動会。あかりは変身すると胸の膨らみが顕著になるので毎回変身して欲しい。
ルビーの優勝で星ゲット。9個。
33話
姉妹の絆を回復する話し。これまで一緒に遊んだり買い物したり会話しているシーンがないことからも分かるようにこの姉妹には距離がある。姉は姉で影で努力しているが案外身内の努力は見えない。この物語の人間界での様子は全てあかりの視点で描かれている。姉との距離、親との距離、ゆうまとの距離、それらは彼女の心象がベース。相手を知り、その関係性や印象が変わることであかりから見る世界の様子はどんどん変わっている。
まさかの大告白。「個性」「自分らしさ」という言葉には甘い響きがある。あたかも固定された何かがあるように聞えるが、実際にはそんなものはない。環境や相手によって人の立ち居振る舞いは変わるし、嗜好も思考も変わる。切り分けていけば個性と呼べるようなものは「~しやすい」程度の性質しか残らない。そのくせ「個性」は現状維持を肯定し誰かが自分を認めてくれそうな願望を抱かせる。自己肯定と現状維持は違うのだ。これを取り違えると怠惰に陥る。あかりは自分の未熟さを受け入れながら自分の目指すべき道を見出し始める。自分のために何かをしたい、他者のために何かをしたい、他者に何かを伝えたい、そのために自分の足で進むことを彼女は意志する。その意志に魔法は応える。つまりこの物語の魔法は人の意志の可能性を先取りしたものなのだ。あなたが望む限り、道は開ける。
自らの輝きによって星を得る。10個。
34話
校長マジ歪みねぇ。
35話
レオンがようやくあかり達がいないと活躍できないことを理解する話し。
レオンは12個でグランプリ出場。あかりはリーチ。ミリア10個。後半ペースをあげてきた。
36話
アルマ再び。
魔法世界、禁断書、アルマ、あかり、ゆうまが複雑に絡む。ゆうまから見れば生き別れの双子の兄弟とはいえ、初見のアルマとあかりとでは後者を選ぶのは頷ける。が、それはアルマの疎外感を強める結果に。彼女が禁断書のリスクを度外視しているのは彼女が世界から裏切られたと思っているから。彼女を孤独にした世界を彼女は恨んでいる。これはある種の復讐も兼ねている。
「俺の心に魔法をかけた」ゆうま君かっこいい。
37話
アルマに真実が告げられる。しかし彼女はそれを拒む。至極真っ当な反応。ここまで来て自分がやってきた事が間違っていたと認めてしまえば彼女は全ての拠り所を失う。彼女は孤独で誰も頼ることが出来ず、母親を助けることだけを支えにしてきたからだ。あかりもゆうまも彼女を止めようとしている。それがまた彼女を孤独にする。つまるところこの問題も孤独、寂しさ、愛情の欠乏である。
38話
完全に最終回のノリ。
禁断書の封印を解いたものの、その力はアルマを襲う。もともと禁断書は魔法世界に来た心の弱い人達のネガティブな意思から生まれたものなので、これは因果応報と言っていい。アルマはこの世界を恨んだ結果、その身を憎しみ(と孤独)の炎で焦がしている。
心の強さと弱さ。善意と悪意。本来これは折り合いを付けながら共存していくべきものである。ということで、色んな困難や苦しみ、寂しさを乗り越えて成長してきたあかり達は禁断書の封印に成功。
封印するためにジュエルストーンを失ったが、これは元々人の心を具現化したものなのですぐに復活する。ですよねー。
魔法は身分や出生に左右されない。技術の差でもない。心の強さが魔法の強さ。この設定は現代人の意識を反映している。現代は人の内面に価値を見出すようになった。これは高度経済成長を終え物質的な豊かさが打ち止めになり、しかもそれがそれほど心の豊かさに繋がらなかったこと、経済成長が見込まれずインフレ率が横ばいである意味非常に安定した社会になったことが大きく関係している。総中流社会が定着してしまうと物質的なステータスは意味を失う。近年の作品で「個性」や「キャラ」が取り上げられるのはそうした背景があるからだと思う。
この作品で魔法が与えられたものではなく、パートナーと絆を結んで行使するのもそうしたところに由来しているのだろう。魔法は特殊なものではなく自己の延長として表現されている。
39話
あかりとゆうまのホワイトクリスマス的なデート回。
40話
捜し物を見つけにラルドが人間界にやってくる。
姉と一緒に登校して、ゆうま君と学校でお話し。クラスの子達と一緒に仲良くお遊び。あかりの生活はこの1年で大分変化している。
41話
魔法試験に行ったらキノコ族の内戦に巻き込まれる。
仲違いを解決して星ゲット。ついにあかりと沙羅はグランプリ出場が決まる。
42話
いよいよグランプリ開催。アルマ関連の話しは物語の締めになるようだ。
ミリアは出場に間に合わな……いわけがない。間際で星を得る。お約束。悔しさ、寂しさ、挫折感をはね除けて友達を見送る彼女にワガママだった頃の未熟さはない。立派な淑女である。心の成長はそのまま星の数となる。彼女の性格からこのエピソードを作ったのは正しい。
43話
決勝戦は8名で行うため、予選トーナメント開始。2回勝てば決勝戦。
初戦はあかりと三姉妹の次女。お題はスイーツ作り。料理対決と言えば先に試食した方が負ける法則。後出しジャンケン最強。
スイーツ作りにあかりはゆうま君への恋心を表現する。創作は自己表現であるから、引っ込み事案なあかりがそうした経験をして、肯定的に自分の想いを表出することが出来るようになったことは大きい。こうした成長物語では成長の糧や結果が勝利の鍵となる。
ミリアの脇ヘソコンボが熱い。しかしスパッツが頂けない。健康的な太ももがそこにあれば良い。
レオンとニコラの同郷対決。正直野郎同士の戦いなんてどうでもいい。男の子の戦い方や勝ち方のパターン。
44話
予選2回戦。三姉妹に紹介されるととたんに弱く感じる罠。
筋肉自慢のガンホがあかりの対戦相手。変身すると全身を鎧で包むので誰か分からない。競技内容は魔法で針の穴に糸を通す。全く相手にならず終了。あっさりとレギュラーメンバーは決勝戦へ出場決定。
優勝候補者が秒殺される。謎の対戦相手…と思っているのは作中の人達だけで視聴者にはモロバレなアルマさん。ダイアナなんてそのまんま。これは一波乱ありそう。
決勝戦は2本勝負で合計点を競う。ミリアと三姉妹の三女対決。最初のお題は水のドレス。ミリアの発想負け。2つ目は夜のドレス。対戦者に圧倒され自分を見失いそうになるがパートナー達の応援で我に返る。母の言葉を参考にして、彼女は自分が今ここにいるのはみんなのおかげだと自分自身も会場のみんなも作品として見立てる。自分を応援してくれるみんなに感謝を返す彼女は視野を広げて魅力と豊かさを引き出している。
45話
グランプリは一先ずお休み。バレンタイン回。まさかの大告白その2。お前もか。似たもの同士。
この話しにてあかりの課題はほぼ解決されている。引っ込み事案で家族とも距離があった彼女は、漫画を通じてクラスでも評価され家族の愛情を感じ好きな人と結ばれる。万全な状態でグランプリに挑む。
46話
沙羅VSサガン。眼鏡っ娘対決。
ニコラ「なかなかの眼鏡っ娘美少女ですね」。駄目だこいつ早くなんとかしないと。
クイズ対決。だんだん魔法と関係なくなる。沙羅に羞恥プレイを強要。これスタッフの趣味だろ。しかしグッジョブと言わざるをえない。一時停止必至である。
あかりVS三姉妹長女。
お題は追いかけっこ。したたかな相手に大苦戦するも長女の懐柔に成功。女の子は力で勝たない。優しさで勝つ。
47話
グランプリもいよいよ準決勝ベスト4。全員同じ学校出身だったりする。田舎の学校などと揶揄されていたが12年前の優勝者を輩出していることからもかなり凄い学校である。
アルマは禁断書の一部を我が物とすることに成功。しかしその代償として人格的に歪みが生じてきている。憎悪にまみれた者はその性質を変化させていく。禁断書は人の憎悪や弱さから作られたものなのでアルマはそれと一体化しつつあると見て良い。禁断書の魔法は人を傷つけたり奪う力がある。一線を越えた者が使えるようになるのは逆説的であるが自然な流れ。
アルマとレオンが熾烈な戦いをする裏であかりと沙羅はイチャつく。沙羅さん大喜び。レオン敗退。
48話
あかりVSミリア。親友にして良きライバル同士の対決。
お題は魔法で動かすことも触ることもできないボールを所定の位置に入れること。発想勝負。まずはあかりの先取。かなり強引だがミリアもリカバー。ラストは真っ向勝負。お互いを認め合いお互いに成長し合うことを讃え合う。現代のスポ根。あかりが決める。
沙羅とアルマの勝負が始まる。
49話
沙羅は初めから勝負を捨てて、あかりのためにアルマの魔法分析に徹する。切り札の物質変換魔法を使って一時的にアルマを無力化するが如何せん絶対値が違う。
「孤独を埋めるために一人で何かをやり続けていた」という点で沙羅とアルマは共通している。そして沙羅はあかり達とふれ合うことで友情を知る。一昔前ならこれで勝って最終回になるところだが、そうは行かないのが現代の面倒臭さ。もちろんそれだけ物語が蓄積され深みを増しているということである。生の実感、自分のためから他者のため、孤独から連帯の意識や動機付けは自己を活かすが他者を救えない。勝つことは出来ても他者の孤独を癒すことは出来ないのだ。孤独と連帯、利己と利他という二元論で戦う限り勝者と敗者を生み出すだけに過ぎない。アルマの孤独を強めるだけである。疎外された者は行き場のない憎悪を強めていく。
あかりに抱擁してもらって沙羅さんマジ感動。このために頑張りました。
50話
決勝戦。もはやアルマは復讐鬼と化す。アルマは世界に混乱を、あかりはアルマに笑顔を願う。
最後のお題は鍵で扉を開けること。あかりはアルマの心の扉を開けようと鍵を求める。分かりやすい。が、アルマの憎悪の根は深い。人間界で魔法を使っていたアルマは幼少より周囲から忌避される。その保護者、癒し手として母が居たがその彼女も眠りについてしまう。その後アルマは魔法学校へ行くが癒し手は不在のまま。彼女にとって世界は悲しみと憎悪に満ちた監獄である。
ここでアルマの分離化が行われている。禁断書の力はアルマを利用し彼女の生命力を奪っていく。もはやアルマの意思とは無関係に力が暴走。構図として悲しみ・憎しみが人間を圧し潰していく、という感じ。アルマを助けるためにダイアナが犠牲になる。おそらく彼女はイマジナリーコンパニオンである。ダイアナはアルマが作りだしたジュエルペット。イマジナリーコンパニオンは幼少期に比較的見られる想像上の友達を作る遊びで、想像性が高い子が作り出しやすい。長じると消えるが希に継続することもある。作品的にはアルマが孤独を埋めるために自分を慰めてくれる存在として作りだしたと解釈する方が自然であろう。
ダイアナを失ったことがキッカケとなって本格的に禁断書暴走。アルマは衰弱し力を失う。ゆうまに弱々しく謝る。これらを総合すると、アルマから幻想(ダイアナ)と憎悪(禁断書魔力)が分離されたと見て良い。アルマは今再び孤独で脆い幼子となる。
この問題の本質は、不条理である。現実は厳しく重く不都合で、さらに自分の意思ではどうにも出来ない。現実を変える力を持たず保護者を奪われた子どもの苦しみと悲しみは如何にして癒されるか?
51話
作中で何度も強調されているが、禁断書の力は人間界のものである。人間界の苦しみ、悲しみが魔法となっている。魔法界の人々にそれを解決する手段はない。つまり、もうこの話しは魔法とかファンタジーとかじゃなく、現実の我々の世界はこんだけの苦しみが在る世界で、私達はこれだけ苦しみを抱えている。それを何とか出来るのは結局自分達しかいないんだ、という話し。
喜びや楽しみを分かち合うように、あかりはアルマの悲しみ苦しみを分かち合おうとする。他者のために泣く。未熟な自分を勇気付けながら自分のため人のために頑張り続けてきたあかりの集大成。面白い、この構図はハートキャッチプリキュアと同じ。引っ込み事案で力が無くても、それでも努力し続ける、自分を励まし続ける、人を励まし続ける、人を信じ続けることで孤独は癒され自己を成長させることが出来る。勿論アルマとあかりは環境が全く異なる。が、人の温もりを知るあかりがアルマにその温もりを伝えていく。
今度はあかりが囚われの身となる。つまり今度はアルマがあかりを救う番。アルマが人を信じ、人のために行動することで彼女の孤独と悲しみは癒される。本当の救済には自己の意思が不可欠。あかりもオパールもダイアナもみんな復活。
憎しみは優しさで、涙は笑顔で、孤独は温もりで、悲しみは喜びで克服しうる。現実の不条理の前では人の心は脆く傷つきやすい。しかしそれに立ち向かい不条理を前にしてもなお歩いて行ける力が人々にはある。
アルマとゆうまの母も目覚め、あかりは晴れてジュエルスターとなる。人に笑顔を、人の心に温かさを与えられる人を星と称するのは正しい。
52話
最終回用のOP。大合唱。録音スタジオの雰囲気が出ている。きたない、この演出はずるい。熱い。
アルマと母は魔力を失う。晴れてゆうまと一緒に人間界で暮らせるようになる。
自分との別れを拒むあかりをルビーは叱る。それぞれの道、将来へと人は歩んでいく。その過程での別れは苦しいものであるが人はそれを意思によって素晴らしい体験へと変えることが出来る。
この物語最後のお題。ジュエルスターに与えられた3つの願い。
ルビーに会えますように!
魔法学校で出会ったみんながいつまでも笑顔でいつまでも友達でいられますように!
誰でもみんなたった一つの宝石輝くジュエル、だから世界中のみんなみんな素敵な魔法使いになれ!
EDも最終回仕様。お約束と分かっていてもエピローグが美しい。ラストのアルマがめちゃ可愛い。黒髪ロングは至高。異論は認めない。
面白いのは同時期に放送されていたハートキャッチプリキュアと骨子的な部分は非常に似通っていること。これは現代の諸問題、その解答がそれだけ共通しているということなのだろう。本作もプリキュアも、愛情や友情を孤独や憎悪と絡めながら子ども視点で強く明るいメッセージを届けている。利己より利他、自分のためより人のため、それで勝って終わる時代は過ぎてしまっている。本当に友情や愛情があるんだったら相手をも救ってみせろよ、その疑問に答えるように物語はより深化している。なぜ人は孤独になり憎悪を抱くのか、どうやったらそうした人々は希望を抱けるのか。彼らこそ最も愛情や友情を欲している人々なのではないのか。そうした世相、現実をよく捉えた上で作られている。
この物語の魔法は自己の延長として存在する。特殊で便利なものではない。例えばおジャ魔女の魔法は魔法でした。特殊な力で、その力を使えば現実を変えることができるものだった。空を飛ぶことも、料理を作ることも、子育ても全てが魔法で出来る。しかし主人公達はそれを敢えてせず自分の力で解決していくことを選んだことによって魔法を否定した物語だった。
本作では日常生活の手段の代替として使用することはない。人間界で魔法使いが存在し続けられないことを考慮すれば、実質的にこの物語の魔法は現実を変える特殊で便利な力として位置づけられていない。魔法はその使用者の心の現れとして表現されている。魔法はその人の心の強さ、持ち方であり、人との関係性を形作るもの。その意味で本当に人を魔法にかけることが出来る。「女の子は誰でも素敵な魔法使い」のキャッチフレーズは的を射ている。魔法少女というフォーマットを使いながら現代のニーズに柔軟に対応して作られている。心の輝きを宝石として、心に宿る力を魔法として表現している。
現代は物質に溢れ、文明的な豊かさと自由を獲得している。しかし同時に人々の結びつきの希薄化は免れない。これはどうしようもないことであるし、文明が進む限り不可逆的である。村社会コミュニティは解体され都市化していく。しかしそれは決して人々が孤独を愛し、絆と決別したことを意味しない。人は社会的な動物に他ならない。だからこそふれ合いだとか人と人との繋がりだとか求められる。じゃあだからといって、自ら地域のコミュニティに参加したり会社の飲み会に出まくるなんてことはしない。社会構造の変化とともに人々の意識も変化している。自由と連帯は、孤独と絆の裏返しでもある。それをどのようにマッチングさせるかはその時代、文化によって異なるだろう。
ジュエルペットもプリキュアもそうした時代の中にあって、子ども向け作品として現代を映している。勿論それは現実の全てを映しているわけではないし、全ての人々を救う処方箋でもない。所詮はフィクションでありお伽噺である。しかしその中にその時代のニーズや倫理が含まれていることもまた見逃せないことだと思う。物語は現在と人を知る手がかりになる。
以下、各話感想。
1話
ジュエルペットのルビーは魔法があまり上手くない。ジュエルペットは人間を幸せにするのが目的。
桜あかり6年生。中学生アイドルで生徒会長モニカの妹。姉の知名度に隠れている。そのふたりがパートナーを組んで変身する。魔法学校に入学。
2話
母と姉は仲良し。その姿にあかりは疎外感を覚える。
魔法学校(ジュエルランド)へ行っている間は現実世界の時間は遅延する。
2年生ミリア。自意識過剰。口悪い。美少女シンガーを目指す。
5年生レオン。国王になって人間と友好的な世界を作るのが夢。
4年の沙羅は紹介程度。
生徒達の最終目標や夢はジュエルスターグランプの優勝。優勝すると3つの願いが叶えられる。当面はジュエルストーンの収集。これが12個になればグランプリに出場できるし進級する。収集方法は魔法の上達などによってもらえる。
あかりも憧れるが、彼女は引っ込み事案で家族と距離があるコンプレックス持ち。そんな自分の夢(コンプレックス解消)を恥ずかしがってしまい具現化した気持ちが離れてしまう。ルビーの応援もあってあかりはコンプレックスを受け入れる。100点連発。リレーの選手。クラスの人気者。勉強足得る。お姉ちゃんみたいに生徒会長、小遣い欲しい。漫画家になる。ミュージカルのスター。ゆうま君と結ばれたい。子どもっぽくむちゃくちゃではあるが、夢を持つことはそれだけ前向きにもなれるということ。
ジュエルストーンを一つ得る。分かりやすい視覚化。魔法と言っているが実際には精神的な成長が軸になっている。系統としてはおジャ魔女のように魔法によって成長を促す展開だろうか。
3話
魔法物理主席の沙羅と同じ学年の生意気少年ニコラが本格的に顔見せ。
話しのメインは幼いジュエルペットのラブラ。魔法が使えず泣くと周囲の物が壊れる。あかりはラブラを助けるために魔法を使う。お互いに未熟ではあるが大きな可能性を持つ。パートナーを組んで魔法力アップ。
4話
ミリア回。家が広くお金持ち。部屋にはフィギュアやヒーローもののポスター等が貼られている。
あかりが通う本来の学校ではあかりは相変わらずの様子。憧れのゆうま君は女子に人気。
何かと先輩風をふかすミリアだが彼女の積極性をあかりは羨ましがる。調子にのったミリアは魔法を暴走させてしまうが素直に謝れない。背伸びしたがり盛り。自分の不始末で好きなレオンに迷惑をかけてしまいようやく過失を受け入れる。ストーン1個追加で3個。
主人公らしくあかりは素直で優しく慈愛的。未熟故に弱者の気持ちを理解する。物語的にはやはり魔法の成長よりも心の成長の方に重きがある。この手のタイプは最終的に魔法を卒業することで成長の締め括りとするが、さて。
5話
新任教師サルファー登場。
沙羅の話し。典型的な学者肌。妙な魔法ばかり作るのでみんなから怖がられている。が、好奇心が強いあかりは面白がる。あかりの明るさに触発されながら沙羅は魔法には心も必要であると気づく。
6話
珍しく現実世界の描写。親父さんは通販オタクらしい。魔法学校の校長もこの口。じいさんになっても若い女の子が好きな校長先生は男の見本。通販オタクというより通販セールスウーマンが好きなだけのような気がする。
7話
モニカ親衛隊なるものまであるらしい。ようやくゆうま君と話す機会に恵まれるが恥ずかしがって声をかけられない。彼女の引っ込み事案や自信のなさは自己評価が低いことに根ざしている。常に姉と対比され、これといった特技もないのではそれも仕方ない。その彼女をルビーは正面から真剣に評価する。それを知ったあかりはちょっとだけ勇気を出す。
引っ込み事案を治す薬を求める過程で勇気と意思を見せる、という王道パターン。魔法はあくまで弱さを克服するための動機付け。
8話
ちょっとずつ勇気を人前でも出せるようになる様子が描かれる。魔法学校での経験は僅かではあるが現実世界にフィードバックされている。
ジュディーとの不思議な出会い。人のためにこそその能力を十二分に発揮するあかりは主人公の見本。誰かのために頑張ることをとおして人が強くなっていくことが描かれている。そして誰かの応援や支えがあって力を発揮できることも。
9話
魔法試験。試験にパスするとストーンが1個もらえる。試験の出し方や内容はおジャ魔女を彷彿とさせる。つまり"魔法"試験ではなく"人間"試験。仲間と一緒に協力することがメインで、魔法の強さや使い方は問われない。これは特に沙羅に重要。彼女は魔力が高いものの人間関係に疎いので必然的に限界がある。
沙羅は百合キャラで確定。あかりを巡っての三角関係。俺得である。全くどうでもいいが、ペチコートが熱い。スカートからチラっとのぞく白レース最高。
10話
肝試し回。例によって誰かの仕業だったり勘違いだったり。沙羅がなぜあんな着ぐるみを持っているのかが最大の謎。サルファーさんマジ可哀想。でも6話のときにあかりに抱きつかれたので存分に苦しめ。
11話
ミリアは父と5年会っていないらしい。あかりの親父さんは釣り好きでミリタリー(模型)マニア。船舶の設計技師。役職は部長。変身魔法を通じて普段目にしない父の姿を知る。
12話
珍しく人間界を筋としたエピソードが続く。将来の夢。色々候補はあるが漫画家も有りらしい。ハートキャッチプリキュアでも漫画家を目指すキャラが居たけど最近の傾向としては漫画家も憧れの対象なのだろうか。ネットで検索すると特に女の子にそういう傾向があるらしい。しかも上位。なるほど女児向けアニメにそうしたニーズを取り入れるのは理にかなっている。
ミリアはアニメオタク。是非私とお友達になって欲しい。
校長から漫画家セットを借りてコンテストに応募すべくあかりは恋愛ものを構想。普通はこういう発想と展開だと思うのだが、女の子同士で抱き合うプリキュアは改めてすげーと思う。
魔法で自分の漫画の世界を疑似体験。楽しみながら想像することと自分の気持ちを見つめることの差。魔法少女ものにおける魔法は願いを叶えるためのものではなく、現実を見せるためのもの。自分が納得し他者も納得するものを作ることは険しく遠い道のり。
自分が持っているものを使って作った漫画が認められ学級新聞に連載されることに。ちょっとずつあかりはクラスでも存在感を持ち始める。
13話
あかりの言うことなら何でも聞く沙羅はガチ。
レオン回。この手の魔法世界にいる伝説の生き物とか魔女は大抵とても良い人。頼んでもいないのに試練を出してくれて、病とかそういうのを治してくれる。子ども向けの魔法世界は子ども達に優しく、えげつない。友情と勇気に免じて星ゲット。通算3つ。この調子なら最終回までに12個いきそう。
14話
ミリア回。ミリアの母は世界的にも有名な歌手。そのため普段会えないミリアは寂しい思いをしている。特に言及は無いが母子家庭のようだ。
親子の絆を確認する話し。母の歌手デビューを阻止すべく魔法を使って過去に戻るが、結局は手伝いをしてしまう。魔法を扱う物語の長所でもあり欠点でもあるのが、その非日常性を拒否できない点である。そのためどうしても視聴者との体験的な乖離が生じる。現実的ではない面がどうしても入り込んでしまう。もっとも、開き直ってしまう手もあって、ミリア(とあかり)が行ったことによって親子の繋がりを強めているのは綺麗なオチの付け方。
15話
お菓子作り対決。どういう訳かスイーツ作り対決がジュエルスターグランプリの演目にあるらしい。魔法と関係ないように思えるが、そこは女児のニーズを満たすためだろう。
田舎まで来て自慢話しをしてくれる暇なライバル登場。ジュエルペット同士が対決。校長仕事しろ。
ライバルのミスによって辛くも勝利。技術よりも愛情を。
16話
前回に引き続き人間側のライバル登場。名前が長すぎて覚えられない。でも三姉妹なので見分けは簡単。やっぱり高いところが好き。長女はグランプリ出場決定者。レオンとは人間界でも知り合い。お約束どおり性格が悪い。女の子向けではライバルは性格が悪いことが多いのだが、これも好み的なものなのだろう。優しさとか心の素直さが重視される。
素直なあかりは三姉妹にも普通に接するが、色恋沙汰も入って一方的にライバル視される。あるある。
ドレス対決。審査委員はレオン。突然話しを振られても「ウェディングドレス」とお題を出せるこの男はしたたか者。でも一番楽しみにしているのは沙羅さん。流石です。
勝てる気がしないライバルならぬ、負ける気がしないライバル。
17話
あかりの誕生日。だが両親が不在。
ひょんなことでゆうま君と会話できることに。彼の両親は亡くなっている。憧れ(好意)が強すぎて自分から距離を取っていたが話してみると案外会話が弾む。彼女が好意を持った理由は縄跳びで挫けそうになっているとき彼がロングシュートの練習で決めたこと。彼に勇気を貰ったと伝える。
ラブラとはぐれてしまいバスケの試合を見に行くのとブッキングしてしまうが、彼女はラブラを選ぶ。浮かれていた自分を反省。ものすごく出来た子です。ラブラからプレゼントを貰うことで絆が深まる。妖精との友情も大事な要素。無事試合にも間に合う。ゆうまはプレゼント代わりに3Pシュートを贈る。最初は家族から見放されてヤケクソ気味だったが、みんなからプレゼントを貰ったことで貯金は家族のために使うと思い直す。繰り返すがよく出来た子です。
もちろん、家族が見放すわけがなくサプライズパーティに。
この手の魔法少女でぬいぐるみのような妖精が登場するのは言うまでもなく女児にとって親和性が高いからだろう。ぬいぐるみは遊び相手になるし、いわゆるイマジナリーコンパニオン(イマジナリーフレンド)の仮託先となりやすい(架空の友達のこと。独りで会話したりぬいぐるみ相手に会話するのがそれ)。これは幼児期の発達過程としては正常なもので自己の意思を投影しながら自意識を発達させていく。ごっこ遊びも模倣をしながら疑似体験する意味合いがある。
魔法の秘密を知る共有者として妖精があり、視聴者にとってのぬいぐるみがその役目になるのだろう。妖精との友情は遊びや空想をする上でのよい材料になると思われる。
18話
試験2回目。今回はあかり・ミリア・沙羅はバラバラ。あかりはニコラと組んで魔女にありがとうと言って貰う課題が出される。この課題はありきたりだが、あかりの性格を踏まえると必然性がある。彼女の真骨頂は子どもらしい素直さと好奇心。今回のエピソードはどれだけ相手を思い遣れるかが試されている。常に自省と謙虚さを失わないあかりの好意は説得力が高い。そして大事なのはそうした親切が些細なことでも構わないことである。
女児向け作品において、可愛くて(ここ重要)優しい女の子は最強なのだ。
試験クリアで星ゲット。通算4個。言うまでもないが、魔法はもう全く関係無い。
19話
前回の試験であかりは3年生、ミリアは4年生(6個)、沙羅は星9個。
ニコラ回。天才ピアニストらしい。ひょんなことでパートナーのチターナとケンカしてしまう。彼の母は息子を見栄のためだけに使う。彼が天才ピアニストであるのは間違いないが彼をそのまま褒めてくれる人はいない。チターナはそんな彼の心の隙間を埋めてくれる貴重な存在。
20話
漫画の効果もあってかクラスメイトからも祭りに誘われる。
本編ではたぶん初登場のジュエリーナ様。魔法学校でもお祭り。1回だけ10倍効果の魔法が使える。各自好きなように使うが有意義とは言い難い。やっぱりというか人助けのために魔法を使うあかりはあかりらしい。
ご褒美として星ゲット。
とても大事なことだが、このアニメはあかりの太ももがエロい。
21話
魔法実験の失敗でミリアと沙羅の中身が入れ替わる。実は沙羅さんあれで結構ノリが良いことが判明。ふたりの仲がちょっとだけ近くなったかも。
22話
待ちに待った海水浴!ビバッ水着!と思ったらあっという間に普段着に戻る。プリキュアよりはマシだが納得がいかない。これが限界なんです…というスタッフの声なのかもしれない。
三姉妹再び。相変わらず名前が長くて何を言っているのか分からない。例によって墓穴を掘ってくれる。これでどうやって星をゲットできるのか分からないが学校によって基準が違うのかもしれない。この手の実力を傘に着るタイプのライバルは成長が止まっているのと同じなので常に熱意と成長思考がある主人公には勝てない。子ども向けで重要なのは可能性。諦めない者にこそチャンスは訪れる。
星ゲット。通算6個これで4年生。沙羅は6年生に。
23話
新学期。席替えでゆうま君とはちょっと離れたが同じ図書委員でそれなりに気軽に話せるような間柄になっている。
物語の中盤。この世界には人の憎悪から生み出された禁断の魔法が存在するらしい。現在は一冊の本に封じられ行方不明になっている。
アルマが本格的に登場。パートナーは彼が生み出したジュエルペット、ダイアナ。実力は三姉妹とは比べものにならない。あかりの力によってなんとか退ける。
24話
前回の貢献によりあかりはみんなから褒められる。大きな魔力を秘めていることが示唆されているがこれは勿論彼女の成長を示唆している。アルマのもう一人のジュエルペット、オパール登場。アルマは魔力が高すぎて寿命を削るらしい。どうやら彼はゆうまの事を知っているらしいが…。
実は女の子でしたオチ。よくよく考えれば、女の子は女の子のジュエルペットと組む(19話で前振りされている)のでちゃんと見ていれば気づく。
25話
ゆうまをキッカケにしてアルマと距離が縮まる。彼女と彼は双子の兄弟。ジュエリーナのせいで母が眠らされ、自分とゆうまは引き離されたと思っているアルマは禁断書を見つけて母とゆうまと一緒に暮らすことを目的にしている。あかりは自分を助けてくれたアルマを止めようとするが彼女の決意は固い。
アルマとゆうまの母は元々ジュエルランドの魔法使い。ジュエリーナの忠告を無視して人間界を訪れ、そこで男と恋に落ちる。人間界にはジュエルランドにはない苦しみや悲しみが溢れているため魔法使いは最終的に泡になってしまうため行き来は禁じられている。しかし人間界に居続けたいと願う彼女は禁断書を使って自分の魔法を捨てようと封印を解く。が、封印を解いてしまったがためにジュエルランド中が混乱に陥る。再び禁断書を封じるため彼女は魔法力を使い果たし眠りにつく。ゆうまは魔法力を持たないがアルマは2人分の魔法力を持っていたためアルマはジュエルランドに。
26話
禁断書を巡っての攻防。戦いの最中にオパールは負傷しジュエルチャームに戻ってしまう。アルマは鍵を得るに留まる。
あかりはアルマの母が使っていた微笑みの呪文を使って後始末。星2つゲット。通算8個。
27話
OP歌詞が変わる(おそらく2番)。
あかりの行動が大分明るく積極的になっている。その変化に家族もビックリ。
アルマの話しは一旦区切り。学園祭。出し物は漫画展。そのリーダーにあかりが選ばれそうになるのが、結局は別の子がやることに。メンバーと打合せをするが喧々諤々話しが纏まらない。諦めかけるメンバーに対してあかりは自分が纏めると主張する。上手く纏め上げメンバーからの評判も上々。自然とリーダー役となって話しを膨らませていく。
この回はいわば中盤の纏め。あかりは魔法学校の経験を糧に自己表現、人間関係を構築していく。
28話
ミリア回。順調に成長と進級を重ねるあかりに対してオーディションに落ち続けるミリアは気後れ。落ち込んでいるミリアのためにみんなはコンサートを催す。…のだが人が集まらない。苦肉の策としてサクラを使ったことがバレで一層ミリアは傷つく。夢を諦めかけたためパートナー達は病に倒れる(ジュエルペットはパートナーが夢を諦めると弱るらしい)。
身の丈にあったことをやっていくべき、というのが作中でたびたび言われているとおり、ことの本質はミリアがオーディションに受かることやチヤホヤされることではない。今の彼女では落選するし、多くの人達を引き寄せる魅力や実力に欠けている。それでも諦めてはいけないし、自分を支えてくれる人に八つ当たりしてもいけない。
星を得てミリアも8個。5年生になる。
29話
ヘタレ教師のサルファーと頼りになりそうに見えて特に活躍していないレオンとの対決。応援席の差が酷い。沙羅は中立と言っているが単にあかりに近い方にいるだけだと思う。
30話
お母さんの誕生日。母と姉の距離と母と自分の距離の差に悩む。劣等生ゆえの疑心暗鬼。人間の面倒臭いところは何かと比較してしまうことで、これのせいで本来は満たされているのに不足を感じることがある。もっとも、優等生だと親が安心してしまうため逆に目をかけてもらえないこともある。優越感よる充足と愛情による充足は違うものなのだ。ニコラが分かりやすい例。天才で凄いことと、愛されることは別問題。愛情を勝ち取るために競争ゲームを続けることは必ずしも正しいとは限らない。
31話
あかりに「あ~ん」してもらえて沙羅大喜び。「(このシチュエーション)美味しい」
沙羅は学者肌だけあって友達付き合いが薄いが、だからといってこの手の人達が全く友人を必要としていないわけではない。実際沙羅はパートナーのサフィーにだいぶ依存している。友人が少ない代りに特定の人に対する執着が大きいのだ。最初に会ったときに自分のことを分かってくれた、と言っているように自分を理解してくれる他者を必要としている。その反作用として真の孤独や繋がりを証明するものの消失には敏感でもある。前回の経験からあかりは沙羅の寂しさを感じ取る。
人との繋がりの再生と価値が"枯れた花を蘇らせる"ことに仮託されている。沙羅は星を得る。
近年は両親が共働きも珍しくないのでこうした寂しさ、繋がり、癒しに対するニーズが多いのかもしれない。子ども向けとしてはこれらに対するフォローは必要であろう。時代によって人の生き方、求めるものは変わる。
32話
ジュエルペット運動会。あかりは変身すると胸の膨らみが顕著になるので毎回変身して欲しい。
ルビーの優勝で星ゲット。9個。
33話
姉妹の絆を回復する話し。これまで一緒に遊んだり買い物したり会話しているシーンがないことからも分かるようにこの姉妹には距離がある。姉は姉で影で努力しているが案外身内の努力は見えない。この物語の人間界での様子は全てあかりの視点で描かれている。姉との距離、親との距離、ゆうまとの距離、それらは彼女の心象がベース。相手を知り、その関係性や印象が変わることであかりから見る世界の様子はどんどん変わっている。
まさかの大告白。「個性」「自分らしさ」という言葉には甘い響きがある。あたかも固定された何かがあるように聞えるが、実際にはそんなものはない。環境や相手によって人の立ち居振る舞いは変わるし、嗜好も思考も変わる。切り分けていけば個性と呼べるようなものは「~しやすい」程度の性質しか残らない。そのくせ「個性」は現状維持を肯定し誰かが自分を認めてくれそうな願望を抱かせる。自己肯定と現状維持は違うのだ。これを取り違えると怠惰に陥る。あかりは自分の未熟さを受け入れながら自分の目指すべき道を見出し始める。自分のために何かをしたい、他者のために何かをしたい、他者に何かを伝えたい、そのために自分の足で進むことを彼女は意志する。その意志に魔法は応える。つまりこの物語の魔法は人の意志の可能性を先取りしたものなのだ。あなたが望む限り、道は開ける。
自らの輝きによって星を得る。10個。
34話
校長マジ歪みねぇ。
35話
レオンがようやくあかり達がいないと活躍できないことを理解する話し。
レオンは12個でグランプリ出場。あかりはリーチ。ミリア10個。後半ペースをあげてきた。
36話
アルマ再び。
魔法世界、禁断書、アルマ、あかり、ゆうまが複雑に絡む。ゆうまから見れば生き別れの双子の兄弟とはいえ、初見のアルマとあかりとでは後者を選ぶのは頷ける。が、それはアルマの疎外感を強める結果に。彼女が禁断書のリスクを度外視しているのは彼女が世界から裏切られたと思っているから。彼女を孤独にした世界を彼女は恨んでいる。これはある種の復讐も兼ねている。
「俺の心に魔法をかけた」ゆうま君かっこいい。
37話
アルマに真実が告げられる。しかし彼女はそれを拒む。至極真っ当な反応。ここまで来て自分がやってきた事が間違っていたと認めてしまえば彼女は全ての拠り所を失う。彼女は孤独で誰も頼ることが出来ず、母親を助けることだけを支えにしてきたからだ。あかりもゆうまも彼女を止めようとしている。それがまた彼女を孤独にする。つまるところこの問題も孤独、寂しさ、愛情の欠乏である。
38話
完全に最終回のノリ。
禁断書の封印を解いたものの、その力はアルマを襲う。もともと禁断書は魔法世界に来た心の弱い人達のネガティブな意思から生まれたものなので、これは因果応報と言っていい。アルマはこの世界を恨んだ結果、その身を憎しみ(と孤独)の炎で焦がしている。
心の強さと弱さ。善意と悪意。本来これは折り合いを付けながら共存していくべきものである。ということで、色んな困難や苦しみ、寂しさを乗り越えて成長してきたあかり達は禁断書の封印に成功。
封印するためにジュエルストーンを失ったが、これは元々人の心を具現化したものなのですぐに復活する。ですよねー。
魔法は身分や出生に左右されない。技術の差でもない。心の強さが魔法の強さ。この設定は現代人の意識を反映している。現代は人の内面に価値を見出すようになった。これは高度経済成長を終え物質的な豊かさが打ち止めになり、しかもそれがそれほど心の豊かさに繋がらなかったこと、経済成長が見込まれずインフレ率が横ばいである意味非常に安定した社会になったことが大きく関係している。総中流社会が定着してしまうと物質的なステータスは意味を失う。近年の作品で「個性」や「キャラ」が取り上げられるのはそうした背景があるからだと思う。
この作品で魔法が与えられたものではなく、パートナーと絆を結んで行使するのもそうしたところに由来しているのだろう。魔法は特殊なものではなく自己の延長として表現されている。
39話
あかりとゆうまのホワイトクリスマス的なデート回。
40話
捜し物を見つけにラルドが人間界にやってくる。
姉と一緒に登校して、ゆうま君と学校でお話し。クラスの子達と一緒に仲良くお遊び。あかりの生活はこの1年で大分変化している。
41話
魔法試験に行ったらキノコ族の内戦に巻き込まれる。
仲違いを解決して星ゲット。ついにあかりと沙羅はグランプリ出場が決まる。
42話
いよいよグランプリ開催。アルマ関連の話しは物語の締めになるようだ。
ミリアは出場に間に合わな……いわけがない。間際で星を得る。お約束。悔しさ、寂しさ、挫折感をはね除けて友達を見送る彼女にワガママだった頃の未熟さはない。立派な淑女である。心の成長はそのまま星の数となる。彼女の性格からこのエピソードを作ったのは正しい。
43話
決勝戦は8名で行うため、予選トーナメント開始。2回勝てば決勝戦。
初戦はあかりと三姉妹の次女。お題はスイーツ作り。料理対決と言えば先に試食した方が負ける法則。後出しジャンケン最強。
スイーツ作りにあかりはゆうま君への恋心を表現する。創作は自己表現であるから、引っ込み事案なあかりがそうした経験をして、肯定的に自分の想いを表出することが出来るようになったことは大きい。こうした成長物語では成長の糧や結果が勝利の鍵となる。
ミリアの脇ヘソコンボが熱い。しかしスパッツが頂けない。健康的な太ももがそこにあれば良い。
レオンとニコラの同郷対決。正直野郎同士の戦いなんてどうでもいい。男の子の戦い方や勝ち方のパターン。
44話
予選2回戦。三姉妹に紹介されるととたんに弱く感じる罠。
筋肉自慢のガンホがあかりの対戦相手。変身すると全身を鎧で包むので誰か分からない。競技内容は魔法で針の穴に糸を通す。全く相手にならず終了。あっさりとレギュラーメンバーは決勝戦へ出場決定。
優勝候補者が秒殺される。謎の対戦相手…と思っているのは作中の人達だけで視聴者にはモロバレなアルマさん。ダイアナなんてそのまんま。これは一波乱ありそう。
決勝戦は2本勝負で合計点を競う。ミリアと三姉妹の三女対決。最初のお題は水のドレス。ミリアの発想負け。2つ目は夜のドレス。対戦者に圧倒され自分を見失いそうになるがパートナー達の応援で我に返る。母の言葉を参考にして、彼女は自分が今ここにいるのはみんなのおかげだと自分自身も会場のみんなも作品として見立てる。自分を応援してくれるみんなに感謝を返す彼女は視野を広げて魅力と豊かさを引き出している。
45話
グランプリは一先ずお休み。バレンタイン回。まさかの大告白その2。お前もか。似たもの同士。
この話しにてあかりの課題はほぼ解決されている。引っ込み事案で家族とも距離があった彼女は、漫画を通じてクラスでも評価され家族の愛情を感じ好きな人と結ばれる。万全な状態でグランプリに挑む。
46話
沙羅VSサガン。眼鏡っ娘対決。
ニコラ「なかなかの眼鏡っ娘美少女ですね」。駄目だこいつ早くなんとかしないと。
クイズ対決。だんだん魔法と関係なくなる。沙羅に羞恥プレイを強要。これスタッフの趣味だろ。しかしグッジョブと言わざるをえない。一時停止必至である。
あかりVS三姉妹長女。
お題は追いかけっこ。したたかな相手に大苦戦するも長女の懐柔に成功。女の子は力で勝たない。優しさで勝つ。
47話
グランプリもいよいよ準決勝ベスト4。全員同じ学校出身だったりする。田舎の学校などと揶揄されていたが12年前の優勝者を輩出していることからもかなり凄い学校である。
アルマは禁断書の一部を我が物とすることに成功。しかしその代償として人格的に歪みが生じてきている。憎悪にまみれた者はその性質を変化させていく。禁断書は人の憎悪や弱さから作られたものなのでアルマはそれと一体化しつつあると見て良い。禁断書の魔法は人を傷つけたり奪う力がある。一線を越えた者が使えるようになるのは逆説的であるが自然な流れ。
アルマとレオンが熾烈な戦いをする裏であかりと沙羅はイチャつく。沙羅さん大喜び。レオン敗退。
48話
あかりVSミリア。親友にして良きライバル同士の対決。
お題は魔法で動かすことも触ることもできないボールを所定の位置に入れること。発想勝負。まずはあかりの先取。かなり強引だがミリアもリカバー。ラストは真っ向勝負。お互いを認め合いお互いに成長し合うことを讃え合う。現代のスポ根。あかりが決める。
沙羅とアルマの勝負が始まる。
49話
沙羅は初めから勝負を捨てて、あかりのためにアルマの魔法分析に徹する。切り札の物質変換魔法を使って一時的にアルマを無力化するが如何せん絶対値が違う。
「孤独を埋めるために一人で何かをやり続けていた」という点で沙羅とアルマは共通している。そして沙羅はあかり達とふれ合うことで友情を知る。一昔前ならこれで勝って最終回になるところだが、そうは行かないのが現代の面倒臭さ。もちろんそれだけ物語が蓄積され深みを増しているということである。生の実感、自分のためから他者のため、孤独から連帯の意識や動機付けは自己を活かすが他者を救えない。勝つことは出来ても他者の孤独を癒すことは出来ないのだ。孤独と連帯、利己と利他という二元論で戦う限り勝者と敗者を生み出すだけに過ぎない。アルマの孤独を強めるだけである。疎外された者は行き場のない憎悪を強めていく。
あかりに抱擁してもらって沙羅さんマジ感動。このために頑張りました。
50話
決勝戦。もはやアルマは復讐鬼と化す。アルマは世界に混乱を、あかりはアルマに笑顔を願う。
最後のお題は鍵で扉を開けること。あかりはアルマの心の扉を開けようと鍵を求める。分かりやすい。が、アルマの憎悪の根は深い。人間界で魔法を使っていたアルマは幼少より周囲から忌避される。その保護者、癒し手として母が居たがその彼女も眠りについてしまう。その後アルマは魔法学校へ行くが癒し手は不在のまま。彼女にとって世界は悲しみと憎悪に満ちた監獄である。
ここでアルマの分離化が行われている。禁断書の力はアルマを利用し彼女の生命力を奪っていく。もはやアルマの意思とは無関係に力が暴走。構図として悲しみ・憎しみが人間を圧し潰していく、という感じ。アルマを助けるためにダイアナが犠牲になる。おそらく彼女はイマジナリーコンパニオンである。ダイアナはアルマが作りだしたジュエルペット。イマジナリーコンパニオンは幼少期に比較的見られる想像上の友達を作る遊びで、想像性が高い子が作り出しやすい。長じると消えるが希に継続することもある。作品的にはアルマが孤独を埋めるために自分を慰めてくれる存在として作りだしたと解釈する方が自然であろう。
ダイアナを失ったことがキッカケとなって本格的に禁断書暴走。アルマは衰弱し力を失う。ゆうまに弱々しく謝る。これらを総合すると、アルマから幻想(ダイアナ)と憎悪(禁断書魔力)が分離されたと見て良い。アルマは今再び孤独で脆い幼子となる。
この問題の本質は、不条理である。現実は厳しく重く不都合で、さらに自分の意思ではどうにも出来ない。現実を変える力を持たず保護者を奪われた子どもの苦しみと悲しみは如何にして癒されるか?
51話
作中で何度も強調されているが、禁断書の力は人間界のものである。人間界の苦しみ、悲しみが魔法となっている。魔法界の人々にそれを解決する手段はない。つまり、もうこの話しは魔法とかファンタジーとかじゃなく、現実の我々の世界はこんだけの苦しみが在る世界で、私達はこれだけ苦しみを抱えている。それを何とか出来るのは結局自分達しかいないんだ、という話し。
喜びや楽しみを分かち合うように、あかりはアルマの悲しみ苦しみを分かち合おうとする。他者のために泣く。未熟な自分を勇気付けながら自分のため人のために頑張り続けてきたあかりの集大成。面白い、この構図はハートキャッチプリキュアと同じ。引っ込み事案で力が無くても、それでも努力し続ける、自分を励まし続ける、人を励まし続ける、人を信じ続けることで孤独は癒され自己を成長させることが出来る。勿論アルマとあかりは環境が全く異なる。が、人の温もりを知るあかりがアルマにその温もりを伝えていく。
今度はあかりが囚われの身となる。つまり今度はアルマがあかりを救う番。アルマが人を信じ、人のために行動することで彼女の孤独と悲しみは癒される。本当の救済には自己の意思が不可欠。あかりもオパールもダイアナもみんな復活。
憎しみは優しさで、涙は笑顔で、孤独は温もりで、悲しみは喜びで克服しうる。現実の不条理の前では人の心は脆く傷つきやすい。しかしそれに立ち向かい不条理を前にしてもなお歩いて行ける力が人々にはある。
アルマとゆうまの母も目覚め、あかりは晴れてジュエルスターとなる。人に笑顔を、人の心に温かさを与えられる人を星と称するのは正しい。
52話
最終回用のOP。大合唱。録音スタジオの雰囲気が出ている。きたない、この演出はずるい。熱い。
アルマと母は魔力を失う。晴れてゆうまと一緒に人間界で暮らせるようになる。
自分との別れを拒むあかりをルビーは叱る。それぞれの道、将来へと人は歩んでいく。その過程での別れは苦しいものであるが人はそれを意思によって素晴らしい体験へと変えることが出来る。
この物語最後のお題。ジュエルスターに与えられた3つの願い。
ルビーに会えますように!
魔法学校で出会ったみんながいつまでも笑顔でいつまでも友達でいられますように!
誰でもみんなたった一つの宝石輝くジュエル、だから世界中のみんなみんな素敵な魔法使いになれ!
EDも最終回仕様。お約束と分かっていてもエピローグが美しい。ラストのアルマがめちゃ可愛い。黒髪ロングは至高。異論は認めない。
プリンセスチュチュ
バレエをモチーフとして作られたアニメ。そう聞くと少女向けに見えるが、中身はかなりマニアックな作りになっている。曲とストーリーを同期させた演出が多数見られる。元ネタを知らなくても問題ないが、知っているとより楽しめる趣向。本作で描かれているバレエシーンは本来のそれを忠実に再現しているものと思われる。尤も私にはその辺の知識やセンスが無いのでシュールに写ってしょうがないのだけど。バレエもエンターテイメントなんだろうけど、浄化とか言いながら相手を爆散させるくらいのケレン味の方が個人的には合っている。とはいえ、最終回のあひるが踊るシーンに感動を覚えたのはまさしく本作のバレエがすり込まれた結果。バレエに対して全く興味関心がない私を感心させた一事をもっても本作のバレエ演出は高いものであると思う。地味でシュールだけどね。
本作のストーリー上の特徴はその入り子構造にある。いわゆる作中劇の手法がとられている。物語の中で物語が語られることによって、箱庭の世界が提示され、ひいては本作そのものが視聴者から距離をおいて印象づけられる。この物語は白鳥の湖を模して作られている。それは単に白鳥の湖のストーリーを下敷きにしているというだけに留まらない。元々白鳥の湖は悲劇で終わる筋書きなのだそうだ。しかし後世の作家によってハッピーエンドの結末が書かれ、現在ではハッピーと悲劇2通りの演目が行われている。それが本作の物語の骨子になっている。悲劇を好むドロッセルマイヤーは「王子と大カラス」の物語にアヒルを付け加え悲劇をより一層際立たせようとする。しかし物語の筋書きに踊らされることを拒んだあひる達は自らの手で物語をハッピーエンドに変える。
これは二つの意味を持つと考えられる。一つは、書き手の構想、思惑を超えて作中の人物達が一人歩きしていくという、実際にあり得る現象。命を吹き込まれた登場人物達はそれぞれの意思によって物語を語る。いくら作り手の都合であっても、無理に登場人物を動かせば物語は破綻してしまいかねない。書いているうちに物語の結末が変わったというのは、割とあるんじゃないかと思う。ちなみに私は感想を書いていて当初の構想と全く違う結論に至ることがしばしばある。もう一つの意味は、物語が語られた瞬間その物語は書き手の手を離れること。原典の白鳥の湖は悲劇で終わるが、後世の人々がその物語を書き換えそれが親しまれている(んだよね?)。原作者がそれを見て邪道だとか異端だと言っても最早後の祭り。一つの物語から分岐して様々な物語が作られてきたように、物語が変質してしまうことも、バリエーションとして複数存在することもある。それは見方を変えれば物語が「原作」のくびきから放たれ人々の心の中に溶け込んでいくことでもある。時代や国、文化を超えて物語が語り継がれていくことは物語そのものが原作者の意図を超えて生きることであると言えるだろう。また、それを可能とするには物語は終わらなければならない。延々と続く物語は登場人物と読者を束縛しつづける。物語が終わることでその物語は読者に委ねられ、また同時に登場人物達はまだ見ぬ未来に向かって進み出す。
「けれどもこれは別の物語、いつかまた、別のときにはなすことにしよう」(はてしない物語)
物語は終わってこそ完成し永遠の命を得るものであると思う。物語は読者の血となり肉となって新たな物語を紡ぐ。
以下は各話メモ書き。後半内容が薄くなっているのは、連続して見ていたので集中力が切れたことと、実際特に書くことがないためです。全体的には「愛を得ようとする」物語で、比較的作風は暗い。あひるがアヒルになるときに服が脱げる。当然のことだがパンツも脱げる。パンチラは一切ないが、脱ぎ立てパンツはしょっちゅう映る。この点でも上級者向き。
1話
「むかしむかし、一人の男が死にました」
この第一声でハートキャッチされる。制作側の本気度(作りたいものを作る)が伝わってくる。監督は佐藤順一ということもあってか、作風や作画はおジャ魔女どれみと似通っている。
王子さまに憧れるアヒルが謎の爺さんから力を与えられて人間として暮らすようになる…という粗筋なのだが、一筋縄ではいかない。メタ的な台詞や演出が随所に見られる。猫などの動物が人間と同じように暮らしている(大多数の住人は人間なので、動物と人間の共生というより戯画的な演出と捉えられる)。爺さまの「どんな物語を見せてくれるのか」などの発言。爺さまが登場するシーンで歯車が動いている演出が入るのもデウス・エクス・マキナ(機械仕掛けの神)を連想させる。物語の中で物語が語られる入り子構造になっている。
主人公「あひる」がプリンセスチュチュに変身して王子(みゅうと)を助けるシーンは、正直、かなり上級者向けだと思う。シュールすぎる。
また、みゅうとと同級生で同室のふぁきゅあは、ボーイズラブ的な雰囲気全開。花瓶にさしてある花の花びらが落ちているシーンは一昔前のベッドシーンのニュアンス。上級者向けっていうか腐女子向け。一体この作品はどこへ向かうのか。色んな意味で興味が尽きない。
あひる:主人公。アヒル。ドジでおっちょこちょい。
みゅうと:王子さま。感情に乏しい。
ふぁきあ:常に人を見下した態度をとる。何かとみゅうとに関わる。
るう:いわゆるライバル。
2話
男(謎の爺さん)の名はドロッセルマイヤー。彼が最後に書いた物語は王子様が悪い大ガラスと戦う物語。しかし物語の途中でドロッセルマイヤーは死んでしまう。すると物語は勝手に動き出し、王子は自分の心臓を抜き出して大ガラスを封じる。心臓は細かく砕け散って街に降り注ぎ、不思議なことが起こるようになる。あひるが持っている石もその一つ。要するにその砕けた石を集めて元の心臓に戻すというのが変身ヒロインものとしての目的。
今回のゲストはアリクイ。壮絶な出オチである。上級者向きなんてレベルじゃねぇ。
シュールな絵面とは裏腹にバレエをモチーフにした物語としては王道。憧れていたるうに心を傷つけられたアリクイが嫉妬と復讐に燃える。彼女の「悔しい」思いは心臓の欠片の一つによって増幅されたもの。ゲストを浄化していくタイプの物語だとここで分かる。
3話
王子とカラスの物語は作中でも物語として登場している。ドロッセルマイヤーも死んだこととして扱われている。「物語の中の物語の中の物語」的に重層的な構造が強調されている。
みゅうとは心を持たない人形。ふぁきあは心が無いままでいることを望み、恋人のるうの真意は不明。ふぁきあとるうからはある種の共犯的雰囲気を感じる。
チュチュに変身する前にドロッセルマイヤーが茶々を入れる。この物語は純粋な「あひる」視点の物語ではなく、ドロッセルマイヤーを経た物語として視聴者に示されている。プリンセスチュチュもまた物語の一つ。美貌と賢さと強さを授けられたが王子様とは結ばれない運命を持つ。告白したとたん光の粒となって消える悲劇のヒロイン。
4話
るうもまたみゅうとが心を持つことを望まない。空っぽの人形を求めるのは独占欲からか? みゅうとを狙ってふぁきあとるうの三角関係。上級者向けだな、おい。
今回のゲストは失恋で死んだ少女の幽霊。もう何でもあり。毎回クラシックの曲が違うのはおそらく曲とストーリーのモチーフをかけているのだと思われる。今回使われている曲は「ジゼル」。サブタイトルにもなっている。
5話
みゅうとに感情が表れ始める。ただし、チュチュが集めたのは現時点で悲しさや寂しさなどの感情。人恋しさを見せるみゅうとにふぁきあは苛立つ。ふぁきあは記憶喪失のみゅうとに名前をつけ、自分の思うままにしようとする。彼はみゅうとが王子であることを知っている。
今回のゲストはランプ(の精)。人や物を照らすために作られたランプは今必要とされていない。そのことを悲しむ。この物語は全体的に暗い。心の弱い部分や脆い部分に焦点をあてると自然そうなる。人に何かを与えようとする者は自分が必要されることを望んでいる。人の心は他者に依存する。他者を支配しようとするとき、その者は他者に支配される。
6話
心があるから喜び、心があるから悲しむ。果たして心はあるべきか。あひるはあるべきだと考え、ふぁきあは不要と考える。人形にはそれを考える心がない。夢を見続けることと、夢から覚めること、どちらが幸せか。心を巡る押し付け合い。
心を取り戻す過程でみゅうとは不安を募らせチュチュを恐れるようになる。分かりやすい提示。あひるは善意で王子の心を完成させようとするが、それは一時的にであれ彼に苦痛を与えることになる。「人のため」「あなたのため」その思いには「私のため」「私が見たいあなたのため」の自己欺瞞が潜む。
7話
みゅうとを苦しめていると気づいたあひるは迷い、心を取り戻しつつあるみゅうとは己の心を欲する。
ライバルキャラ、プリンセスクレール登場。白鳥と黒鳥の対比。ベタな展開にドロッセルマイヤーさんも大満足。この物語を見る視点としては、一つはあひると王子の物語、それを見ているドロッセルマイヤーの物語、このふたつがどのように収束するか、といったところか。
8話
みゅうとは誘い受け。この人を巡って周囲が勝手に動いていく。あひる、ふぁきあ、るうの三つ巴の争いが激化。BGMのクラシック曲が自己主張しすぎ。多分これも曲とストーリーに関連性があるのだろう。
心を取り戻すごとにみゅうとはチュチュへの関心を強める。しかしそれはあひるにとってみゅうととの距離が遠ざかっていくことでもある。人の心はすれ違うばかり。
ちなみにこのあたりにくるとゲストの心を浄化する意味がかなり薄くなっている。話しは完全に王子を中心に回っていて、その時の都合で「~の感情」を回収している。
9話
みゅうとの自律化が進行したことで、ふぁきあは自分と彼とが違う人間であることに気づいていく。るうもまたみゅうとに自分が必要とされなくなることに不安を抱いていく。みゅうとが一個人として自律していくことは、同時にふぁきあ、るうの自律化を伴なっている。ということで「私は人間をやめるぞ!チュチュー!」ばりにるうはあひる達と袂を分かつ。
10話
ふぁきあの内面と動機に焦点があたる。おっさんとチュチュのバレエシーンがシュール。絶対上級者向けだよ。これ。
あひるがみゅうとの心を取り戻すことに迷ったように、ふぁきあも自分のしていることの意味を考え始める。「あなたのため」という体の良い言い訳の裏に隠された自己満足、逃避、願望を告発しているわけだ。みゅうとの心が完全なものとなれば、王子とカラス、騎士、チュチュの役者は揃い物語は最初に戻る。果たしてそれは終わらぬ円舞なのか、それとも…。
11話
愛する心のない王子。死を恐れる騎士。覚悟のない悪役。愛を告げられないプリンセス。
欠けつつも、欠けているが故に均衡していた関係が崩れ始める。いちいち茶々を入れるドロッセルマイヤーがうざい。えらいメタ的にツッコミを入れてくる。クレールは王子から心を抜き出し連れ去ってしまう。
12話
人形にすることでしか自分を見てもらえない。しかし人形の眼差しに光は宿らない。そこに虚しさを覚えつつも彼女は突っ走るしかない。ここでさらにメタな展開に。クレールはドロッセルマイヤーに話しかける。最高の物語をみせてあげよう。
狂言回し的な存在だったエデルは自らを人形だと語る。誰かに命令されたことを実行する人形。それは物語の登場人物、舞台の上に立つ役者は課せられた役目を全うするために踊り続ける。
なんだかんだいって、あひるとふぁいきあの好感度があがる。あひるがアヒルであることを知り、自分の恥ずかしい格好を見せたことに悶絶するふぁいきあ。いわゆるデレ期である。
第一次最終決戦の開幕。クレールは王子の愛の心を得たいなら愛を語ってみろとチュチュに挑む。告白したとたん光の粒となって消える運命のヒロインに未来は?
13話
忘れたくても忘れない無いほど毎度印象的なバレエシーン。本作の最終決戦はバレエ対決しかない。暴力を使わずに精神攻撃でチュチュを追い詰めるクレール。ひたすらシュールで地味。
あひるの恋の始まりは小さな憧れ、小さな善意、小さな同情。そして今その想いは深く大きな愛へと変わる。それを表現するために白鳥の湖を踊る。いやー、ほんと、これ上級者向けだと思う。「なんてジャンプ力!?」いやそうじゃなくて。一人で二人で踊っているかのように舞うシーンは素人目に見ても鬼気迫る。ありていに言ってしまうと、あひるが王子に対してどう想うか、その想いをどこまで自分を使って表現できるかという話し。これ自体はバトルものでも、なんでも基本骨子は同じ。
しかし、これもまた予定調和。「与えられた役割を超え、運命に逆らうには痛み苦しみが伴う。誰もそうしたがらんが。身の程知らずにもそれを乗り越えてよおく頑張ったよ、あひるちゃん。だがそれもまた決められた運命だったのかもしれないね。だってお話はまだまだ終わっていないんだからね」。ですよねー。
14話
第2幕。早い話が今までの話しは前振り。
王子と見事結ばれたヒロイン…と言いたいところだけど、あひるはふぁきあにも惹かれ始める。王子はチュチュを、ふぁきあはあひるに惹かれていると見て良い。新たな三角関係の始まり。と同時に王子に起こる恐ろしい変化。クレールは大ガラスの娘。大ガラスの血が王子に混ざり邪な心が芽生えていく。これもまた王子と大カラスの物語の一部なのか。
15話
るうとの再会。策謀によってふぁきあは孤立していく。みゅうとは悪人面がよく似合う。
話しを整理すると、大ガラスの復活のためには王子の心の欠片がすべて揃う必要がある。心の欠片を集めるにはチュチュの力が必要。この点で大ガラスはチュチュに危害を加える気はない。ただしクレールは感情的にはチュチュを敵視もしているし、一個人として自分を認めてくれるあひるに惹かれてもいる。カラスの尖兵となった王子はカラスのための生け贄を探す。
16話
王子がただの女たらしに。ハマり役。
クレールは庇護者を求めているように見える。彼女は物語(王子と大ガラス)とも現実(人間)とも接点を持ちながらそのどちらでもないちゅうぶらな存在。居場所を見つけようと誰かに(そうと自覚せずとも)依存する。
17話
変な人が登場する。いや、変な人しかいないので取り立てて言うべきことでもないのかもしれないが。
18話
久々に心の欠片を回収。相変わらずふぁきあは役に立たない。
19話
みんなを愛する王子。ところが今の王子は誰もから愛されたいと願い結果誰の心も射止められない。それはこの物語の登場人物に共通している。
20話
書いた物語が本当になる、という能力がふぁきあにあることが判明。
21話
ふぁきあはドロッセルマイヤーの子孫。その力を覚醒させる。
22話
最近自分が役に立たないと感じていたあひるが自信を取り戻す。王子の心を集められるのはチュチュだけ。
話しがややこしくなり始める。物語を現実にすることが出来る力。それを阻止する組織。彼らはかつてドロッセルマイヤーの腕を切り落とした一派。そしてこの物語の舞台は城壁に囲まれた閉鎖された空間。その中でのみ物語は動き、その中に住む人々はそのことに疑問を抱かない。役者は舞台の上でのみ役を演じられるのだから。物語に支配された街。物語に支配された人々。
だいたいドロッセルマイヤーのせい。彼は悲劇を望む。
23話
新たな物語は新たな書き手によって、それに相応しい役者によって紡がれる。
その頃、るうは自分が操り人形だったと気づく。彼女は大ガラスの娘ではない。
24話
すっかり忘れていたけど、あひるが持っている石は王子の心。王子の心を完成させれば必然的にあひるはアヒルに戻る。悲恋の結末に変わりはない。
王子の心が揃う時、それは大ガラス復活の時。黒鳥は愛を叫ぶ。第二次最終決戦勃発。
25話
るうの孤独と愛を知る王子は彼女を愛する。
最後の欠片を渡そうとするも、あひるは自分が王子と別れなければならないことに躊躇う。絶望の底でふぁきあとと共に自らの運命を承諾する。終わらない物語を終わらせるためにふたりは己のすべきことを為す。
王子に欠片が戻り完全覚醒。王子と大ガラスの物語がよみがえる。すべてはドロッセルマイヤーの手のひらの上なのか。
26話
王子はるう一人を愛し、あひるはアヒルとしてその魂を燃やす。ふぁきあは新たな書き手としてあひると共に暮らす。物語の登場人物達はドロッセルマイヤーの思惑を超えてそれぞれの物語を紡ぎ出す。ドロッセルマイヤーの「王子と大カラス」の物語は彼の手を離れて「プリンセスチュチュ」へと変わる。
マイトガイン的に言うと「この私もただのゲームの駒だったのか」なドロッセルマイヤーさん。入り子構造の物語の黒幕はだいたいそういう扱いを受ける。
本作のストーリー上の特徴はその入り子構造にある。いわゆる作中劇の手法がとられている。物語の中で物語が語られることによって、箱庭の世界が提示され、ひいては本作そのものが視聴者から距離をおいて印象づけられる。この物語は白鳥の湖を模して作られている。それは単に白鳥の湖のストーリーを下敷きにしているというだけに留まらない。元々白鳥の湖は悲劇で終わる筋書きなのだそうだ。しかし後世の作家によってハッピーエンドの結末が書かれ、現在ではハッピーと悲劇2通りの演目が行われている。それが本作の物語の骨子になっている。悲劇を好むドロッセルマイヤーは「王子と大カラス」の物語にアヒルを付け加え悲劇をより一層際立たせようとする。しかし物語の筋書きに踊らされることを拒んだあひる達は自らの手で物語をハッピーエンドに変える。
これは二つの意味を持つと考えられる。一つは、書き手の構想、思惑を超えて作中の人物達が一人歩きしていくという、実際にあり得る現象。命を吹き込まれた登場人物達はそれぞれの意思によって物語を語る。いくら作り手の都合であっても、無理に登場人物を動かせば物語は破綻してしまいかねない。書いているうちに物語の結末が変わったというのは、割とあるんじゃないかと思う。ちなみに私は感想を書いていて当初の構想と全く違う結論に至ることがしばしばある。もう一つの意味は、物語が語られた瞬間その物語は書き手の手を離れること。原典の白鳥の湖は悲劇で終わるが、後世の人々がその物語を書き換えそれが親しまれている(んだよね?)。原作者がそれを見て邪道だとか異端だと言っても最早後の祭り。一つの物語から分岐して様々な物語が作られてきたように、物語が変質してしまうことも、バリエーションとして複数存在することもある。それは見方を変えれば物語が「原作」のくびきから放たれ人々の心の中に溶け込んでいくことでもある。時代や国、文化を超えて物語が語り継がれていくことは物語そのものが原作者の意図を超えて生きることであると言えるだろう。また、それを可能とするには物語は終わらなければならない。延々と続く物語は登場人物と読者を束縛しつづける。物語が終わることでその物語は読者に委ねられ、また同時に登場人物達はまだ見ぬ未来に向かって進み出す。
「けれどもこれは別の物語、いつかまた、別のときにはなすことにしよう」(はてしない物語)
物語は終わってこそ完成し永遠の命を得るものであると思う。物語は読者の血となり肉となって新たな物語を紡ぐ。
以下は各話メモ書き。後半内容が薄くなっているのは、連続して見ていたので集中力が切れたことと、実際特に書くことがないためです。全体的には「愛を得ようとする」物語で、比較的作風は暗い。あひるがアヒルになるときに服が脱げる。当然のことだがパンツも脱げる。パンチラは一切ないが、脱ぎ立てパンツはしょっちゅう映る。この点でも上級者向き。
1話
「むかしむかし、一人の男が死にました」
この第一声でハートキャッチされる。制作側の本気度(作りたいものを作る)が伝わってくる。監督は佐藤順一ということもあってか、作風や作画はおジャ魔女どれみと似通っている。
王子さまに憧れるアヒルが謎の爺さんから力を与えられて人間として暮らすようになる…という粗筋なのだが、一筋縄ではいかない。メタ的な台詞や演出が随所に見られる。猫などの動物が人間と同じように暮らしている(大多数の住人は人間なので、動物と人間の共生というより戯画的な演出と捉えられる)。爺さまの「どんな物語を見せてくれるのか」などの発言。爺さまが登場するシーンで歯車が動いている演出が入るのもデウス・エクス・マキナ(機械仕掛けの神)を連想させる。物語の中で物語が語られる入り子構造になっている。
主人公「あひる」がプリンセスチュチュに変身して王子(みゅうと)を助けるシーンは、正直、かなり上級者向けだと思う。シュールすぎる。
また、みゅうとと同級生で同室のふぁきゅあは、ボーイズラブ的な雰囲気全開。花瓶にさしてある花の花びらが落ちているシーンは一昔前のベッドシーンのニュアンス。上級者向けっていうか腐女子向け。一体この作品はどこへ向かうのか。色んな意味で興味が尽きない。
あひる:主人公。アヒル。ドジでおっちょこちょい。
みゅうと:王子さま。感情に乏しい。
ふぁきあ:常に人を見下した態度をとる。何かとみゅうとに関わる。
るう:いわゆるライバル。
2話
男(謎の爺さん)の名はドロッセルマイヤー。彼が最後に書いた物語は王子様が悪い大ガラスと戦う物語。しかし物語の途中でドロッセルマイヤーは死んでしまう。すると物語は勝手に動き出し、王子は自分の心臓を抜き出して大ガラスを封じる。心臓は細かく砕け散って街に降り注ぎ、不思議なことが起こるようになる。あひるが持っている石もその一つ。要するにその砕けた石を集めて元の心臓に戻すというのが変身ヒロインものとしての目的。
今回のゲストはアリクイ。壮絶な出オチである。上級者向きなんてレベルじゃねぇ。
シュールな絵面とは裏腹にバレエをモチーフにした物語としては王道。憧れていたるうに心を傷つけられたアリクイが嫉妬と復讐に燃える。彼女の「悔しい」思いは心臓の欠片の一つによって増幅されたもの。ゲストを浄化していくタイプの物語だとここで分かる。
3話
王子とカラスの物語は作中でも物語として登場している。ドロッセルマイヤーも死んだこととして扱われている。「物語の中の物語の中の物語」的に重層的な構造が強調されている。
みゅうとは心を持たない人形。ふぁきあは心が無いままでいることを望み、恋人のるうの真意は不明。ふぁきあとるうからはある種の共犯的雰囲気を感じる。
チュチュに変身する前にドロッセルマイヤーが茶々を入れる。この物語は純粋な「あひる」視点の物語ではなく、ドロッセルマイヤーを経た物語として視聴者に示されている。プリンセスチュチュもまた物語の一つ。美貌と賢さと強さを授けられたが王子様とは結ばれない運命を持つ。告白したとたん光の粒となって消える悲劇のヒロイン。
4話
るうもまたみゅうとが心を持つことを望まない。空っぽの人形を求めるのは独占欲からか? みゅうとを狙ってふぁきあとるうの三角関係。上級者向けだな、おい。
今回のゲストは失恋で死んだ少女の幽霊。もう何でもあり。毎回クラシックの曲が違うのはおそらく曲とストーリーのモチーフをかけているのだと思われる。今回使われている曲は「ジゼル」。サブタイトルにもなっている。
5話
みゅうとに感情が表れ始める。ただし、チュチュが集めたのは現時点で悲しさや寂しさなどの感情。人恋しさを見せるみゅうとにふぁきあは苛立つ。ふぁきあは記憶喪失のみゅうとに名前をつけ、自分の思うままにしようとする。彼はみゅうとが王子であることを知っている。
今回のゲストはランプ(の精)。人や物を照らすために作られたランプは今必要とされていない。そのことを悲しむ。この物語は全体的に暗い。心の弱い部分や脆い部分に焦点をあてると自然そうなる。人に何かを与えようとする者は自分が必要されることを望んでいる。人の心は他者に依存する。他者を支配しようとするとき、その者は他者に支配される。
6話
心があるから喜び、心があるから悲しむ。果たして心はあるべきか。あひるはあるべきだと考え、ふぁきあは不要と考える。人形にはそれを考える心がない。夢を見続けることと、夢から覚めること、どちらが幸せか。心を巡る押し付け合い。
心を取り戻す過程でみゅうとは不安を募らせチュチュを恐れるようになる。分かりやすい提示。あひるは善意で王子の心を完成させようとするが、それは一時的にであれ彼に苦痛を与えることになる。「人のため」「あなたのため」その思いには「私のため」「私が見たいあなたのため」の自己欺瞞が潜む。
7話
みゅうとを苦しめていると気づいたあひるは迷い、心を取り戻しつつあるみゅうとは己の心を欲する。
ライバルキャラ、プリンセスクレール登場。白鳥と黒鳥の対比。ベタな展開にドロッセルマイヤーさんも大満足。この物語を見る視点としては、一つはあひると王子の物語、それを見ているドロッセルマイヤーの物語、このふたつがどのように収束するか、といったところか。
8話
みゅうとは誘い受け。この人を巡って周囲が勝手に動いていく。あひる、ふぁきあ、るうの三つ巴の争いが激化。BGMのクラシック曲が自己主張しすぎ。多分これも曲とストーリーに関連性があるのだろう。
心を取り戻すごとにみゅうとはチュチュへの関心を強める。しかしそれはあひるにとってみゅうととの距離が遠ざかっていくことでもある。人の心はすれ違うばかり。
ちなみにこのあたりにくるとゲストの心を浄化する意味がかなり薄くなっている。話しは完全に王子を中心に回っていて、その時の都合で「~の感情」を回収している。
9話
みゅうとの自律化が進行したことで、ふぁきあは自分と彼とが違う人間であることに気づいていく。るうもまたみゅうとに自分が必要とされなくなることに不安を抱いていく。みゅうとが一個人として自律していくことは、同時にふぁきあ、るうの自律化を伴なっている。ということで「私は人間をやめるぞ!チュチュー!」ばりにるうはあひる達と袂を分かつ。
10話
ふぁきあの内面と動機に焦点があたる。おっさんとチュチュのバレエシーンがシュール。絶対上級者向けだよ。これ。
あひるがみゅうとの心を取り戻すことに迷ったように、ふぁきあも自分のしていることの意味を考え始める。「あなたのため」という体の良い言い訳の裏に隠された自己満足、逃避、願望を告発しているわけだ。みゅうとの心が完全なものとなれば、王子とカラス、騎士、チュチュの役者は揃い物語は最初に戻る。果たしてそれは終わらぬ円舞なのか、それとも…。
11話
愛する心のない王子。死を恐れる騎士。覚悟のない悪役。愛を告げられないプリンセス。
欠けつつも、欠けているが故に均衡していた関係が崩れ始める。いちいち茶々を入れるドロッセルマイヤーがうざい。えらいメタ的にツッコミを入れてくる。クレールは王子から心を抜き出し連れ去ってしまう。
12話
人形にすることでしか自分を見てもらえない。しかし人形の眼差しに光は宿らない。そこに虚しさを覚えつつも彼女は突っ走るしかない。ここでさらにメタな展開に。クレールはドロッセルマイヤーに話しかける。最高の物語をみせてあげよう。
狂言回し的な存在だったエデルは自らを人形だと語る。誰かに命令されたことを実行する人形。それは物語の登場人物、舞台の上に立つ役者は課せられた役目を全うするために踊り続ける。
なんだかんだいって、あひるとふぁいきあの好感度があがる。あひるがアヒルであることを知り、自分の恥ずかしい格好を見せたことに悶絶するふぁいきあ。いわゆるデレ期である。
第一次最終決戦の開幕。クレールは王子の愛の心を得たいなら愛を語ってみろとチュチュに挑む。告白したとたん光の粒となって消える運命のヒロインに未来は?
13話
忘れたくても忘れない無いほど毎度印象的なバレエシーン。本作の最終決戦はバレエ対決しかない。暴力を使わずに精神攻撃でチュチュを追い詰めるクレール。ひたすらシュールで地味。
あひるの恋の始まりは小さな憧れ、小さな善意、小さな同情。そして今その想いは深く大きな愛へと変わる。それを表現するために白鳥の湖を踊る。いやー、ほんと、これ上級者向けだと思う。「なんてジャンプ力!?」いやそうじゃなくて。一人で二人で踊っているかのように舞うシーンは素人目に見ても鬼気迫る。ありていに言ってしまうと、あひるが王子に対してどう想うか、その想いをどこまで自分を使って表現できるかという話し。これ自体はバトルものでも、なんでも基本骨子は同じ。
しかし、これもまた予定調和。「与えられた役割を超え、運命に逆らうには痛み苦しみが伴う。誰もそうしたがらんが。身の程知らずにもそれを乗り越えてよおく頑張ったよ、あひるちゃん。だがそれもまた決められた運命だったのかもしれないね。だってお話はまだまだ終わっていないんだからね」。ですよねー。
14話
第2幕。早い話が今までの話しは前振り。
王子と見事結ばれたヒロイン…と言いたいところだけど、あひるはふぁきあにも惹かれ始める。王子はチュチュを、ふぁきあはあひるに惹かれていると見て良い。新たな三角関係の始まり。と同時に王子に起こる恐ろしい変化。クレールは大ガラスの娘。大ガラスの血が王子に混ざり邪な心が芽生えていく。これもまた王子と大カラスの物語の一部なのか。
15話
るうとの再会。策謀によってふぁきあは孤立していく。みゅうとは悪人面がよく似合う。
話しを整理すると、大ガラスの復活のためには王子の心の欠片がすべて揃う必要がある。心の欠片を集めるにはチュチュの力が必要。この点で大ガラスはチュチュに危害を加える気はない。ただしクレールは感情的にはチュチュを敵視もしているし、一個人として自分を認めてくれるあひるに惹かれてもいる。カラスの尖兵となった王子はカラスのための生け贄を探す。
16話
王子がただの女たらしに。ハマり役。
クレールは庇護者を求めているように見える。彼女は物語(王子と大ガラス)とも現実(人間)とも接点を持ちながらそのどちらでもないちゅうぶらな存在。居場所を見つけようと誰かに(そうと自覚せずとも)依存する。
17話
変な人が登場する。いや、変な人しかいないので取り立てて言うべきことでもないのかもしれないが。
18話
久々に心の欠片を回収。相変わらずふぁきあは役に立たない。
19話
みんなを愛する王子。ところが今の王子は誰もから愛されたいと願い結果誰の心も射止められない。それはこの物語の登場人物に共通している。
20話
書いた物語が本当になる、という能力がふぁきあにあることが判明。
21話
ふぁきあはドロッセルマイヤーの子孫。その力を覚醒させる。
22話
最近自分が役に立たないと感じていたあひるが自信を取り戻す。王子の心を集められるのはチュチュだけ。
話しがややこしくなり始める。物語を現実にすることが出来る力。それを阻止する組織。彼らはかつてドロッセルマイヤーの腕を切り落とした一派。そしてこの物語の舞台は城壁に囲まれた閉鎖された空間。その中でのみ物語は動き、その中に住む人々はそのことに疑問を抱かない。役者は舞台の上でのみ役を演じられるのだから。物語に支配された街。物語に支配された人々。
だいたいドロッセルマイヤーのせい。彼は悲劇を望む。
23話
新たな物語は新たな書き手によって、それに相応しい役者によって紡がれる。
その頃、るうは自分が操り人形だったと気づく。彼女は大ガラスの娘ではない。
24話
すっかり忘れていたけど、あひるが持っている石は王子の心。王子の心を完成させれば必然的にあひるはアヒルに戻る。悲恋の結末に変わりはない。
王子の心が揃う時、それは大ガラス復活の時。黒鳥は愛を叫ぶ。第二次最終決戦勃発。
25話
るうの孤独と愛を知る王子は彼女を愛する。
最後の欠片を渡そうとするも、あひるは自分が王子と別れなければならないことに躊躇う。絶望の底でふぁきあとと共に自らの運命を承諾する。終わらない物語を終わらせるためにふたりは己のすべきことを為す。
王子に欠片が戻り完全覚醒。王子と大ガラスの物語がよみがえる。すべてはドロッセルマイヤーの手のひらの上なのか。
26話
王子はるう一人を愛し、あひるはアヒルとしてその魂を燃やす。ふぁきあは新たな書き手としてあひると共に暮らす。物語の登場人物達はドロッセルマイヤーの思惑を超えてそれぞれの物語を紡ぎ出す。ドロッセルマイヤーの「王子と大カラス」の物語は彼の手を離れて「プリンセスチュチュ」へと変わる。
マイトガイン的に言うと「この私もただのゲームの駒だったのか」なドロッセルマイヤーさん。入り子構造の物語の黒幕はだいたいそういう扱いを受ける。
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