- ・ドキドキ!プリキュア総括感想
- ・最終回「あなたに届け!マイスイートハート!」
- ・第48話「ドキドキ全開!プリキュアVSキングジコチュー!」
- ・第47話「キュアハートの決意!まもりたい約束!」
- ・第46話「エースとレジーナ!誕生の真実!」
- ・第45話「宿命の対決!エースvsレジーナ!」
- ・第44話「ジコチューの罠!マナのいないクリスマス!」
- ・第43話「たいせつな人へ!亜久里の授業参観!」
- ・第42話「みんなで祝おう!はじめての誕生日!」
- ・第41話「ありすの夢!花がつないだともだち」
- ・第40話「とどけたい思い!まこぴー新曲発表!」
- ・第39話「会いに来たよ!レジーナふたたび!」
- ・映画「マナ結婚!!?未来につなぐ希望のドレス」
- ・第38話「ベールのたくらみ!アイちゃんジコチューになる!?」
- ・第37話「なおせ好きキライ!ニンジンVS亜久里」
- ・第36話「ラケルはりきる!初恋パワー全開!」
- ・第35話「いやいやアイちゃん!歯みがき大作戦!」
- ・第34話「ママはチョーたいへん!ふきげんアイちゃん!」
- ・第33話「ありすパパ登場!四葉家おとまり会!」
- ・第32話「マナ倒れる!嵐の文化祭」
- ・第31話「大貝町大ピンチ!誕生!ラブリーパッド」
- ・第30話「最後の試練!伝説のプリキュア!」
- ・第29話「マナのために!シャルル大変身!」
- ・第28話「胸がドキドキ!亜久里の夏休み!」
- ・第27話「バレちゃった!?キュアエースの弱点!」
- ・第26話「ホントの気持ちは?六花またまた悩む!」
- ・第25話「華麗な変身!ニューヒロイン登場!?」
- ・第24話「衝撃!まこぴーアイドル引退宣言!」
- ・第23話「愛を取り戻せ!プリキュア5つの誓い!」
- ・第22話「ピンチに登場!新たな戦士キュアエース!」
ドキドキ!プリキュア総括感想
この感想を読んできた人には説明不要ですが、私はプリキュアシリーズをシリース(直線)的に解釈しています。作品単体はもちろんのこと、作品を跨いだ継承・発展があると捉え作品毎の位置づけや内在論理の変遷を整理しながら感想を書いています。私がこれまでのシリーズをどう見てきたかはコラム「プリキュアシリーズの勧善懲悪から救済まで」を参照下さい。
ちょっと話しが変わりますがプリキュアは作品毎に作風や方向性が大きく変わります。自律的な人間関係が特徴であるドキドキと幼稚的な関係性からスタートしたスマイルは対照的です。ケンカから始まったスイート、コミカルでありつつもコンプレックスを抱えるハートキャッチなどテーマや人間関係、キャラクターデザインも含めて毎回特色が異なります。
見た目には大きな変化があってもシリーズを跨ぐ大きなテーマを持ち、人間関係を軸にした成長と苦悩を様々な視点で書き続けているのが興味深く面白いっていうのが私の感想の根幹です。こんな見方しながら感想書いている人は希なので、ピンとこない人もいるでしょうし最近見始めたばかりの人は敷居が高く感じるかもしれませんが、プリキュアという作品の奥深さ、楽しみ方の幅を知っていただければ幸いです。
では、これまでのシリーズから本作はどのような一歩を踏み出したのか?ということから見ていきましょう。
①ドキドキのプリキュアってなんだろう?
真っ先に思い浮かぶのがマナの姿です。大貝第一中学生徒会長を自負している彼女は、同じようにキュアハートであることを自然に受け入れています。「私はみなぎる愛キュアハートだから!」は象徴的なセリフです。
1話の人助けから始まり、立ち止まることなく進み続けたあげくラスボス浄化後もプリキュアのまま活動している姿に度肝を抜かれつつも納得した人は多いはずです。本作のプリキュアとは、世界を変えていくほどのパワーを持ったスーパーヒロイン。マナの行動理念は「プリキュアだから~すべき」ではなく「私は~したい」。マナはプリキュアの力を自分のしたいことのために使っています。「マナであること」と「プリキュアであること」はほぼイコール。彼女の人助けは最終決戦においても健在です。
マナ以外も同じです。六花やありすにしてもプリキュアになる最大の理由はマナと一緒にいたい、マナの助けになりたいからですし真琴もアン王女のためです。レジーナは変身こそしませんがやっていることは限りなくマナ達と同じです。要するに変身してもしなくても、彼女達がやることは変わりません。
これまでプリキュアが世界に求められたのは、それが異常事態だったからです。世界が大ピンチ。だからプリキュアになって戦う。それを解決してしまえばプリキュアになる必要は無いし(戦う相手がいない)、今までどおりの日常生活に戻ります。だから世界の平和を守っても世界が以前と変わるわけでも、街の人々の意識が変わるわけでもありませんでした。元に戻るだけだからです。フレッシュやハートキャッチのような多少の例外はあっても日常への回帰は守られています。むしろその日常回帰、日常を大事にすることこそがプリキュアらしさでした。シリーズが進むにつれて日常と非日常の境界が曖昧になってきたことは確かですが「私」と「プリキュア」にはやはり見えない壁がありました。
しかし本作ではその壁が完全に取り払われています。「私はプリキュア」。女の子がプリキュアであることを続けられる、世界を変えてしまう。最終回で見たとおり、プリキュアとしての活動は世界に変化を与えています。完全に日常の延長であり、日常の中にプリキュアが取り込まれています。
誰かをを守りたい、その優しい気持ちがあれば女の子は誰だってプリキュアになれる。そのプリキュアとは、逃げも隠れもしない天下無敵のパワフルガールズ。
というのがドキドキのプリキュア像です。ざっくり言えばプリキュアのアイドル化(公式化)ですね。これはハピネスに引き継がれる要素だろうと思います。変身ヒロインものは卒業するのが通例で、プリキュアシリーズはそれをぼかしてきたのですが、ここで明確になったのは大きな変化だと思います。
②プリキュアが戦っているもの
次いで、プリキュアと敵の関係について。
梅Pプリキュアと同じく本作でも人間に内在する諸問題が軸になっています。ここでもドキドキらしさが出ています。
本作の愛とジコチューが単純な善悪ではないことは作中でも明言されています。浮き沈みのある気持ちを不断の努力によってバランスさせる。その要となるのが人間関係で、健全な関係によって健全な愛が、健全な愛によって健全な関係が構築されていく様子を描いています。26話トピックでも詳述しているのでここでは割愛します。最終回でマナが言ったように、ジコチューが独りではジコチューになりえないように、愛もまた独りでは愛足りえないことは重要な提示です。
そして本作の画期的な……というかある意味ギャグにまで昇華されているのがラスボスがラスボスになっていない点です。マナはあっさりとラスボスを論破して浄化します。それは最初に出てきたカニジコチューに対するスタンスとほとんど変わりません。この物語におけるジコチューとは、心の持ち方さえしっかりしていれば立ち向かって行けるものです。この態度が上述したスーパーヒロインぶりを目立たせると同時に、本作における成長の在り方、心の在り方、人から助けられつつも自ら人を助けていくことを選び取る女の子の強さを示しています。
これは決してマナが完璧超人であること、ジコチューの浄化が簡単にできることを意味するものではありません。本編中でもマナは小さな失敗をいくつもやっていますし、一度大きく傷つきました。特に映画ではそれが顕著に出ています。
物語の様々な場面で心に魔が差してしまう(ジコチューになる)ことが描かれ、同時にそこから元に戻る姿も描かれています。本作は心の浮き沈みが単なる繰り返しなのではなく、そうした心の変化、時に初めて知る気持ちを通して人は成長していけることをメッセージに込めています。祖母から愛を継承したマナ、憧れを成長の糧にした六花、自分の力を包容力へと昇華させたありす、誰かのためにから誰かと共にへと変わった真琴、二つの愛を知った亜久里とレジーナ。本作の愛とは他者と共に成長していく意思のことです。それは人から人へ渡していく(感化する)ことができるものです。
繰り返しますが本作は心の健全化、関係性の健全化が肝であり、一時の「気の迷い」「魔が差してしまう」ことは悪ではなく常に人が戦っていかなければならない邪念です。この意味でジコチューやラスボスを浄化する(和解するのではなく消してしまう、抑え込んでしまう)のは正しい処置だと言えます。邪念を抱く人が悪いのではなく、邪念を消したり抑えたりすることができるはずだというスタンス。その邪念が愛から生まれることがあったとしても、その愛に罪はない。そこで傷つく人を助け、愛を失った心にドキドキを取り戻すのが本作の戦う意味です。本作は人を更生させていません。そこにも「人は間違っている」と「人は間違いを犯す」ことの違いがあります。
敵が外部からやってくるのだとすればそれを排除すればプリキュアに変身する必要はなくなる。けど、敵が常に自分の中から湧き出てしまうのだとすればずっと戦い続けなければならない。プリキュアが日常の延長、日常に内包されてしまう構図は戦いの意味を含めて論理的に繋がっています。
また、愛とジコチューの両義性、人間関係の健全化を示す大きな道標となった亜久里・レジーナの家庭問題が具体的な事例として扱われたことは特筆に値します。とても分かりやすく、それ故に難しい問題でもありました。彼女達の関係や姿をとおして多くを学びました。女児向けアニメだからこそ子ども達が抱える不安、大好きという気持ちを大切にしているのだと強く感じます。プリキュアの良さですね。
③まとめ
この他、幸せの王子をモチーフとした二重構造などについては48話トピックを参照してもらうとして、そろそろ纏めに入ります。
ドキドキ単独で見た場合、その内在論理やストーリーは一貫しています。それはマナの一貫性にも表れています。各話感想の中でよく頭が良い、賢いという言葉を多用しましたがマナ達は自分で考え、自分で答えを出しながら進んできた子達でした。敵と友達になりたい、お父さんと話し合いで決着をつけたい。これ、本来ならおかしな話しなんです。だって本作のプリキュアはトランプ王国直轄の戦士で、そのプリキュアが王国の利害無視して独断で動いているんですから。しかし誰もマナ達にああしろ、こうしろとは言いません。全てマナ達が自分で決めてやってきた。この自主性と決断力が痛快でした。
振り返れば、涙涙の最終回だったスマイル、悲しみや辛さを受け入れたスイート、父親と死別したハートキャッチなど悲劇的で悲壮感も漂う最終決戦が恒例化していた中で本作は「マナがいれば大丈夫」と視聴者の誰もが安心と期待が持てるラストでした。毎年シリーズを総括しながらプリキュアは成長してきたと書いてきましたが、それが実ったシリーズだったと言えるかもしれません。プリキュア10年の歴史と経験を愛の力に換えて真っ直ぐにぶつける。勧善懲悪でも救済でもない、女の子がその力と元気を思う存分に発揮する物語。
柴Pが作り出す新しいプリキュア。その気風と気位が今後どんな物語を紡いでいくのか。見終えた満足感と共に新時代への期待を抱くドキドキでいっぱいの作品でした。
最終回「あなたに届け!マイスイートハート!」
①決戦!プロトジコチュー
キングジコチューを飲み込んだベールは、しかし、逆に乗っ取られてしまいます。イーラ達に助けを求めても「無理だ、もう遅いよ」とあっさり見捨てられる始末。ベール終了。前回あんだけ見栄切っておいて番組開始30秒ともたないとか流石だわ。
出てきたのは漆黒の身体と6本腕の悪魔超人。1万年前に現われた闇。キュアエンプレス達ですら消すことができなかった存在。プロトジコチュー。今回も世界を闇で飲み込もうとします。
マナを筆頭に立ち向かう少女達。マナの毅然とした表情を見た母は娘に託します。
ドキドキ!プリキュア最後の戦いの幕が切って落とされます。
サイコキネシスを使ってのビル投げ。6本の腕からもビーム。距離を置いていては勝機はない。ロゼッタを先頭に突撃。ビルをソードが切り裂き、ビームをグレイブで相殺、肉薄したダイヤとエースで挟み撃ち、正面からハートが。しかし範囲攻撃によって弾かれてしまいます。ぽっと出ですがラスボスである以上は相応に力はあります。
傷ついた仲間に声をかけるエース。大丈夫とまだまだ戦意を失わないハート達の傍らでレジーナは「もう無理~」とへばります。「折れるの早っ」とダイヤがすぐにつっこむと、冗談マナが一緒なんだから最後まで諦めないといつもの調子で答えます。最後の最後でもこのノリと安定感がドキドキらしい。
最強必殺技を使用。ノーダメージ。反撃の特大ビームがプリキュアを襲います。ここまでテンプレ。ラスボスは強いアピールしとかないとね。
街が文字どおり消滅していく激戦の最中でも二階堂君は逃げずにマナ達の戦いを見守ると言って座り込みます。この物語的に一般人の扱いが手厚かったわけではありませんでしたが、こうやってプリキュア以外の人々が何を考え、自分で決断していくのかを描いているのはマナが他者を信じることの意味を補償する点で意義があります。マナは絶対に絶望しない。みんなを信じている。みんなも絶望しない。守ってもらうばかりの弱者でもない。自覚と責任を持ってこの戦いの趨勢を見届ける。それは幸せの王子の愛を忘れ、自分の生活だけを追い求めた人々の悲劇の物語とは違う物語を紡ごうとする本作の決意の表れです。
倒れたプリキュアに必死に声をかける妖精達。前回もそうでしたがドキドキは妖精と一緒に戦っている感じが強いプリキュアです。特にダビィと真琴、ラケルと六花はパートナー性が高いですね。映画同様アイちゃんの言語力が上がっています。
「お前達の家族も仲間もすぐに消し去ってやる。世界は…いや、この宇宙はすべて私のものだ!」
「もう、何言っちゃってるかな」
「世界を独り占めしたら確かに我儘勝手し放題。けどね、たった一人の世界だったらあなたは横入りも信号無視もできなくなるんだよ?」
「何!?」
「そうジコチューっていうのは結局、誰かに迷惑をかけて振る舞うこと。誰もいない世界ではあなたはジコチューでいられなくなる」
なぜならば、お前がジコチュー化しようとする心もまた、愛から生まれたもの! いわば愛の一部。それを忘れて、何がジコチューの、宇宙の支配だ! そう、共に生き続ける人類を抹殺しての理想郷など! 愚の骨っ頂!みたいなノリです。
この返し方は予想外というか、ここまで分かりやすく、かつマナの性格を表わした答えができるんだと感心しました。行列に並ぶラスボス、電車で横になってるラスボス、信号無視するラスボス、一人ポツーンとするラスボスを描く本作は凄い。凄い分かりやすい。闇だとか、ジコチューの権化だとか言葉を飾っても、なんてことはない我儘言うにも他人が必要なんだという切り返し。ジコチューとは誰かに甘えること、誰かに我儘をきいて貰うこと。そしてマナのこの言葉から伝わってくるのは、そうしたジコチューをも受け入れる気持ちです。間違うことがあってもいい、我儘を言うことがあってもいい、その時はみんながその声を聞くなり注意すればいい。だけど孤独であってはならない。
女子中学生に説教されて切れたジコチューはハートに「貴様こそジコチューだ!」と八つ当たり。うん、マナもジコチューだろうね。それもとびっきりの。だからこそ折れない。
マナからプシュケーを抜き出そうとジャネジーを注ぎ込みます。プシュケーが黒く染まり抜き取られてしまいます。勝ち誇るジコチュー。ハートは地に落ちます。
②幸せの王子
ところがどっこい、あっという間に黒く染まったプシュケーがピンクに。もう一度ジャネジーを注入して黒く染めようとしますがやっぱりだめ。終いには羽が生えて元気に跳ね回るとハートの元へ飛んでいきます。
「みんな心配かけちゃったね」
自分を心配する仲間達に事もなく答えるハート。この子どんだけマイペースなの。葛藤とかそういうのまるでねぇ。最後の最後まで相田マナはマナです。心を強く持つとかじゃなくて、本当にこれが彼女の自然体なのだと思います。先ほど論破した時点でジコチュー理論でマナを堕とすことは不可能。黒く染まってもまたピンクに塗り替えればいい。負けても何度でも挑めばいい。これが心の問題である限り本人が諦めないと言い張ればいい。マナは失敗を、敗北を恐れない。この最終決戦が絶望や悲惨さに陥らないのも彼女のそうした粘り強さ、希望、愛の勝利を信じて疑わない意思、彼女なりのビジョンがあるからなのでしょう。レジーナもキングジコチューも要するにマナに根負けしたんです。マナは絶対に譲らない。それはとても揺るぎない愛でありジコチューでありマナという人の在り様なのだと思う。
無駄な努力とダイヤさんに言われてしまいます。段々このラスボスが哀れに思えてきました。たとえ肉体が滅びようとも私達の魂、想いの力は不滅だとエースも言葉を継ぎます。この人が言うと説得力がある。
みんなの力と三種の神器の力を借りてキュアハートはパワーアップ。自分で力を貸してとお願いしてパワーアップするあたりがドキドキ理論です。「超能力は適当でデタラメ、望み、確信すれば運命は応える」というのは惑星のさみだれ(漫画)のセリフですが、マナはどんな状況でも屈することなく柔軟に戦える子です。ラブリーフォースアローが使えるんだからフォースリフレクションだって使えるし、全部合体させることだってできるでしょ、とか思っているかもしれません。もはや仲間達も彼女の思考と確信に驚かない。
「キュアハート パルテノンモード!」
どんな名前を付けるのかと思っていたらパルテノンってまた色々含蓄がありそうな命名。一般論でいうと「処女神の宮殿」とかでアテナを祭る宮殿。神話では戦争もやっていたバリバリの女神だったらしいので勇猛果敢な男勝り。それでいて美の女神アフロディテ達と美を争ったこともあるそうなので、ボーイッシュで凛とした魅力を持った女神という評価もあるようです。マナに相応しい名かもしれません。この物語的にはまさに最後を飾る純白のマントを羽織った幸せの王子です。ある意味で、愛を振りまいてきた彼女に、今までの分の愛が集まったようなもの(金箔と宝石に彩られた王子の像)。
羽にマントと色々盛っていますが私好みの素敵デザイン。やっぱマントいいわー。特に外套のように身体の前まで包むようなタイプが良い。ジコチューのパンチを片手で受止めます。背後の街にクレーターが発生。ここからずっとマナのターン。
そのまま片手で軽く投げ飛ばすと、拳と拳のぶつかり合い。圧し負けたジコチューはそれでも6本の腕を使って打撃の雨を浴びせます。それを全てかわしたあげく分身回避。絶対そこまでやる必要ない。分身(残像)に目を取られたジコチューの懐に飛び込むと、優雅な動作で蹴り上げます。
圧倒的な強さに驚くジコチュー。地上でジョナサンが想いの力が人を強くする。誰かを守りたいという想いの力を持つ女の子は誰でもプリキュアになれる。その力は宇宙を生み出したビッグバンにも匹敵すると解説。どんだけ女の子強いんだよ。人を愛する心があれば女の子はプリキュアになれる。女の子達の勇気と愛が世界を変える。女の子達への力強いメッセージ。
成層圏まで上がったハートとジコチューは再びぶつかります。ビームをかかと落としで切り裂く姿はまさにプリキュア。パンチとキックでビームをぶち抜く伝統は10年近くの時を経ても変わりません。
成層圏まで上がったと思ったらまた落ちてと忙しい。ジコチューは1万年前の出来事を思い出します。キュアハートの姿にキュアエンプレスの姿を重ねます。時代は繰り返すのか。1万年前ダメだったけど、今度もダメそうです。
「あなたに届け! マイスイートハート!」
キュアハートパルテノンモードの必殺技。その光を浴びながらジコチューは、時代は繰り返す、人間に我儘で自分勝手な心がある限り何度でも蘇るとお約束なセリフを吐きます。もうこいつ現世では勝てないって諦めてる。
「分かるよ、あたしの中にも我儘な心はあるもの」
あっさりと肯定するマナ。予想外の言葉にジコチューは戸惑います。
「誰かを妬んだり、何もかも嫌になって投げ出したくなったりすることもある。けれどそうやって悩むから、苦しむから、人は強くなれるんだと思う」
「ラッ…」
思わず口を突いて出そうになる言葉をジコチューは抑え込みます。
「それにたとえあたしが愛を見失ったとしても、あたしには仲間がいる!」
「支えてくれる仲間がいるから、あたしは絶対に何度でも立ち向かってみせる!」
「ラ~ブ! ラ~ブ! ラ~~ブ!」
ラスボスを浄化。これすげーな。普通のジコチュー浄化するのと全く変わりない。力においても、スケールにもおいてもマナはジコチューを圧倒しています。ジコチューは敵じゃない。倒しきることもできない。それでいい。その戦いこそが人に彩りと強さ、深みを与えてくれる。たとえ見失ったとしてもきっと優しい人達が手を差し伸べてくれる。悲劇の物語を愛の物語へ。たとえ繰り返されようとそこで生きる人々の強き意思を称えるのがプリキュアの物語。いつか復活してもそこにはプリキュアがいる。
プロトジコチューが消滅すると大量のプシュケーが戻り、街やトランプ王国が復元されます。
③王女の遺言
一件落着。
「でも…」。王女さまが戻らないことを真琴は深く悲しみます。これをちゃんと持ってくる本作は真摯です。この戦い唯一の犠牲。この物語は悲劇から始まっています。
アン王女の姿が空に映し出されます。王女の遺言。父と婚約者であったジョナサンに自分が戻れないことを伝えます。彼女から生まれた二つの命は多くの愛を知って成長した。実質的には母となる王女に、レジーナと亜久里は応えます。父への愛、みんなの笑顔を願う愛は二人に継承されます。
次いで、王女はジョナサンに自分が幸せだったことを伝えます。「僕もだよ、アン」。短い言葉ながら彼の気持ちを知る王女は愛おしそうに見つめ返します。
最後に王女は真琴に言葉をかけます。苦しく悲しい思いをさせてしまったことを詫びながら、彼女の貢献に感謝の礼を述べます。
「そんな言葉はいいのです! 私はずっと王女さまの…王女さまのお傍にいたかった!」
グッと来ます。この1年の物語は真琴の物語だったと言っても過言ではありません。大好きな人のために戦ってきた彼女の、悲しみや苦しさがこの言葉に込められています。
「あなたに涙は似合いません。笑って。そしていつまでもこの世界にあなたの歌声を届けて下さい」
「無理です…王女さまのいない世界で…もう私は笑う事なんて…できない…」
崩れ落ちる真琴をマナ達は囲み一緒に泣きます。真琴の王女への気持ちと愛を知るマナ達が慰めたり励ましたりせずに一緒に泣いてしまうところに、女の子らしさや人の持つ共感性を改めて感じます。悲しいことを悲しいと、苦しいことを苦しいと素直に認め表わすこと、それを分かち合ってくれる人がいることはとても素晴らしいことです。愛があるから人は悲しみ、共に泣く。
「悲しまないで、ソード」
「王女さま…」
「アンと呼んで、と言ったでしょ」
自分の命の絆はアイちゃんに引き継がれている。いつもあなたのことを見守っている。アン王女の命は失われましたが、彼女の全てが失われたわけではない。本当にありがとう。感謝の言葉を残してアン王女は去ります。願わくば、私も感謝しながらこの世と別れたい。そんな生き方をしたいものです。
目を覚ましたアイちゃんは真琴の元に飛んできます。国王に寄り添う亜久里とレジーナ。一人寂しそうな佇まいのジョナサンがちょっと切ない。この人はずっと胡散臭いポジションだったので同情しにくいんですが、恋人を失ったことに変わりはない。
チュー。
サングラスをかけたネズミ。マーモが掴みあげます。ベール。どうやら無事だったようで、力を吸われたせいなのか、浄化された影響か人の姿に戻れなかった様子。また1万年眠りについて力を蓄えるさ、と諦めたわけじゃないようです。それを聞いて呆れるイーラ。彼らはキングジコチューの眷属的なポジションでしょうか。操られていたとかでもなく存在自体がジコチュー。
イーラは六花を見つめながら「あいつらがいたんじゃな…」とこぼします。六花を見つめる彼の表情には暖かみがあり、また名残惜しそう。三人は何処かへと消えます。
この終わり方は今までにない終わり方で印象深い。プリキュアとジコチューの戦いは終わらない。けどそれはずっとわかり合えないわけではないし、かといって完全に融和するわけでもない。ある種の折り合いを付けた終わり方。彼らもいずれはプロトジコチューのように浄化されるのかもしれないし、また違う彼らが生まれるのかもしれませんがそこに明確な線を引かず、繰り返しながらも少しずつ変化していく心が描かれたことが印象に残ります。
④今日もプリキュアがいる一日
新しい季節、新しい生活。三年生に進級。
ありすは麗奈と一緒に登校。最終回にして初めての制服姿。ほんとに学校行ってたんだ、私服制の学校じゃなかったんだと全視聴者は驚いたと思います。
生徒会長には純君が。大きなリボンの子に注意します。「校則?なにそれ?」。レジーナです。マナの姿を見つけるとすぐに飛びつきます。ちょっと待て、レジーナって亜久里と同い年ではないのか。飛び級なのか留学的なものなのか。いずれにしても学校でも正妻戦争とか胸が熱くなるな。宿題が分からないから教えて欲しいとマナを独占。それを見た六花は呆れたような、しょうがないというような表情が浮かんでいます。学校でもレジーナを含めた新しい友達の輪を作っていくのでしょう。
ぶたのしっぽではシャルルがお手伝い。溶け込んでいます。店の外では国王がお爺ちゃんと将棋を指しています。って出オチ過ぎるわ!! 王さまを引退したそうです。シャルルがお茶を淹れます。
六花は受験勉強。桃まんを頬張る姿が超ラブリー。勉強一筋かと思いきや百人一首も続けているようです。ラケル目ざとい。もしかして、六花の人には見せられない本とかも知っているんでしょうか。ちくしょー!俺も妖精になりてーー!!
亜久里もクラスメイトに溶け込むようになりました。スイーツ好きが高じてかカップケーキの出来も上々。エルちゃん以外にも友達が出来そうです。それを見つめる祖母の瞳が温かい。
さらにここから度肝を抜く展開。トランプ王国とはキングジコチューが空けた時空の穴で繋がっているので人間界と国交が始まっています。執務室に座るジョナサン。現在はトランプ共和国の初代大統領。たぶんこの形になるまで相当国は揺れたと思います。事件の責任を取って国王は退位、王政をやめて共和制に。事情があったとはいえ国民を捨てた国王がそのまま在位することは出来なかったのでしょう。しかしこれはこれで面白く、また現実的な折り合いの付け方なのかもしれません。元に戻らなくても、違う形で安定させることはできる。
時代は変わっていく、と外に出るジョナサン。空には四葉マーク入りの飛行船が飛んでいます。……。ですよねー。
人間界とトランプ共和国が混じり合って新しい国が生まれる。
以前真琴が説明した王国式全自動クリーナーを視察したありすは気に入るとその場で即決即断で100万個発注します。次期四葉財閥当主は伊達じゃない。販路拡大…いや独占。これ絶対トランプ共和国と太いパイプ持ってるわー。癒着してるわー。怖いわー、マジ怖いわー。
早速契約。隣にあるいつものリムジンに翼が生えています。あ、やっぱりこれ変形するんだ。
真琴は歌姫として世界中で大ブレイク。今となっては日本の新人歌手どころではすまない。舞台の裏で真琴は振り返ります。こっちの人達はどうして一緒に歌おうとするのか。歌は静かに耳を傾けるものだと思っていた彼女にとっては不思議なことでした。でも、マナに出会ってその意味が分かったと答えます。
「一緒に何かをするってとても素敵なことなのね」
堅く握り合わされる手。
「歌って! 思いっきりみんなの心に届くように」
ステージが最高潮に達したところでトラブル発生。「もしもしキュアハートです」と電話を受けるマナ。
総理大臣からの依頼。超大型の人工衛星が軌道を外れて大貝町に落下するかもしれない。クローバータワーにはすでにレジーナ達が待機。結局みんなから頼りにされるとこぼす六花。でもこれが幸せの王子。
「みんな、行くよ!」
プリキュアは今日も街の平和のために。
「響け! 愛の鼓動! ドキドキプリキュア!」
○トピック
シリーズ10年目。ドキドキ!プリキュア完結。マナも一般人も誰も絶望しない。この世界の人々は本当に強い。
友達とのお別れに涙を流し絶望しかけたスマイル、悲しみや苦しみを穏やかに受け入れたスイート、人知れず世界を守ったハートキャッチとは大きく異なる本作らしい締めくくり。徹頭徹尾ブレることなく走り続けるマナと、そんな彼女をこれまた全力でサポートし続ける友人達の物語。きっとマナじゃなきゃこんな戦い方も、こんな終わり方もできない。それを実感させる一年でした。
笑いあり涙あり。人の心にもまた裏表、波があってその舵を取りながら様々な出来事を乗り越えてマナ達は世界に平和を、そしてこれからも世界のために活躍し続ける姿を視聴者に見せます。次期シリーズは世界中にプリキュアがいて活躍している、という設定らしいのでこのテンションのまま新しいプリキュアに入れる親切な引き継ぎです。
プリキュアの力は悪を滅ぼすためのものではなく、人の強さの表れ。であるならラスボスがいなくなった世界でもプリキュアは存在し続けられる。プリキュアの戦いがキッカケになって人間界とトランプ共和国の国交が始まったり、世界にプリキュアの名と声を響かせるラストは大きな飛躍です。プリキュアが世界の架け橋となる。それはとりもなおさず、女の子達が世界を変えていくことを意味します。今までのシリーズは日常に帰る(元に戻る)ことが第一義的な目的でしたが、本作はそれを飛び越えて世界を変え、世界をまたにかけて活躍し始めます。その留まることを知らぬ情熱と勢いがプリキュアに新しい風を吹き込むのだと確信します。次の物語もきっとやってくれる。
毎年言っていることですが、プリキュアはずっとその伝統と意志を継承しながらシリーズ毎のアプローチで紡いできた物語です。何度も作り手は変わっていますが、プリキュアらしさは変わることなく続いてきたことに私は感銘と敬意を抱きます。1話の感想でも述べたように担当するプロデューサーによっても大きく話しの傾向が変わるんですが、柴Pに替わっても本シリーズの意志は変わることなくより一層深められたと思います。同じ事を繰り返さず、新しいことにチャレンジしながらプリキュアの意味と価値を高めていく。シリーズを重ねる度に味わいが増していく長編シリーズだと思っています。
そんな風に世界に名を轟かすまでになったプリキュアですが、原点は人の心にあります。この感想はそこを中心に書いてきました。
人の心を否定せずに、その苦しみや悲しみに向き合っていく。するとそこには、変わっていくもの、得るもの、失うもの、戦わなければならないもの、わかり合えるもの、折り合いをつけられるものが見えてきます。完全に正しいこと、間違っていること、あるいは正しい人と間違っている人がいて争うなら話しは単純です。でも現実の多くはそうではありません。親しい友達に新しい友達ができる、たったそれだけのことで苦しい想いをしたり、父と友達の間に挟まれることも、答えが出せないような難しい選択を迫られることもある。そんな出来事に直面したとき私達はどのように振る舞うことができるだろうか。そんな時マナ達はどうしてきたのか。
この1年間、彼女達の姿をとおして様々なことを考え、勉強し学びました。それを続けられたのもこの物語から真剣さや真摯さを感じ取ったからです。女児向けアニメならではのシンプルで力強く迷いのないメッセージと、繊細でしなやかな心の移り変わりに胸を打ち、興味を覚え、それがキッカケになって心にひっかかったものを追求してみたい、それを通じて自分の気持ちを整理したいと感想にしてきました。
度々感想でも書いてきたように、私は他人に興味がない人間です。人の心に直に触れることも触れられることも好みません。でもそんな私にも愛がある。他人を愛せないけど人間を愛せる。私はどうしようもなく自己愛的で、ジコチューな人間です。それでも私なりのやり方がある(はずだと確信している)。本作、本シリーズはそれを研鑽していくための優れたテキストです。私にとってプリキュアはそれ自体が楽しい体験で、学びの機会を与えてくれる先生です。この恩は私の生涯でも忘れることのないものです。
楽しく学ぶ。そんな素晴らしい時間を与えてくれた本作に、改めてお礼申し上げたい。
こちらこそありがとうございました。
また留年します。
第48話「ドキドキ全開!プリキュアVSキングジコチュー!」
①大貝第一中学生徒会長の矜持
キングジコチューのダイナミックパンチ。レジーナの叫びに一瞬だけ動きが止まります。その隙を突いて脱出するプリキュア。ハートは国王にまだ愛がある証拠だと確信します。キングジコチューは自分の拳を見ながら戸惑っています。ラブリーパッドを通して国王の本体を発見。これ完全にデビルガンダムとレインのあれですね。今週Gガン的なノリで30分ニヤニヤとヒヤヒヤでした。
レジーナは父の姿に見入ります。
そうと分かればやることは決まっています。助けに行く、とハート。それを聞いて驚く4人。中に入る気かと正気を疑います。ここまでテンプレ。止めても無駄だと分かっているのでみんなむしろリラックス。本当にそんなことができるのか。エースが尋ねます。
「できる!」
「あたしを、誰だと思ってるの。大貝第一中学生徒会長相田マナよ!」
大声で叫びます。なお、現時点でもテレビ中継されている模様。自分でバラしましたよ?! この子。
最終決戦、最終回の手前。でも出だしからドキドキ節。
衝撃の事実に当然学校では戸惑いの声があがります。学園祭の時に見たハートの顔にマナの顔を重ね合わせた二階堂君は合点がいきます。窓際に立つと大声でマナに向かって応援します。それにつられて学校の生徒達も応援。
四葉邸ではセバスチャンが最早隠し通せないと困り顔。すると主人が隠す必要はないと答えます。プリキュアが居る空を見上げながら父は大声で応援。セバスチャンも。
街中からプリキュアを応援する声があがります。まさにヒーローの最終決戦。この世界の人々は絶望なんてしない。
そんな活況を見せる人々の声にジョナサンは呆気にとられます。生きてました。空飛べないんで陸路で頑張ってたんでしょう。全く活躍する姿が描かれなかったのは省かれたのか、そもそも戦ってすらないのか。アイちゃんも応援。
「これは…幸せを望むみんなの声。友達を、家族を、この世界の全てを愛するみんなの声!」
「愛を見失った悲しい王様、このキュアハートがあなたのドキドキ取り戻してみせる!」
戦闘再開。レジーナはハートにパパを助けてとお願いします。合点承知、と快諾。前回はレジーナとエースが父親への愛を正しく(健全に)取り戻すのが目的でしたが、今回は父親側の健全化が焦点になっています。
ジコチュー軍団が周囲を取り囲みます。ベールが現われます。自分はキングジコチュー様の忠実な僕。わー超説得力ない。マーモとイーラも。
ソードハリケーンとハートダイナマイトで大量浄化。ミラージュとレジーナのコンボ。最終決戦ならではの大盤振る舞い。でもロゼッタは単品バリアで十分。「やっ!マジ!?」お前らノルマか何か課せられてるの?
捕まったレジーナを救出。自分を心配するソードとエースを見たレジーナに笑みが溢れます。レジーナの父親を心配する気持ちや自分がマナ以外の人にも受け入れられていると実感する描写が丁寧。
ダイヤモンドシャワーとイーラの激突。先に進ませて!と言うダイヤに、イーラはキングジコチューの中に入ったらタダでは済まないと阻みます。彼は六花の身を案じています。しかしダイヤの意思は変わりません。おそらく彼女も彼の意図を察している。
「マナは私の大切な友達だから!」
「困ったときには手を差し伸べる。それが友達。あなたなら分かってくれるはずよ」
そう言い残してダイヤは進みます。置いて行かれたイーラは頭を抱えます。明確に和解したとかではないんですが、事実上この二人は対話が成立しています。ドキドキが徹底しているのは対話による解決です。少年漫画の番長対決みたいに拳を交えて理解し合うのではなく、最初から対話のみで戦っています。それはこの物語が人の愛を信じているからでしょう。人の暴力が誤解や迷い、葛藤、行き場を失った感情から生まれているのなら暴力を使わずとも解決可能だ、というスタンス。元々この物語は愛を失ったことから始まっています。
②怪獣大決戦&ミクロの決死圏
キングジコチューの眼前まで来たものの、侵入するには口から入るしかありません。どうしたものか。ロゼッタが引き受けます。
ようやく2回目のロゼッタバルーン。何が起こるか分からない仕様は伊達じゃない。特大風船から現われたのは……巨大ランス。このアニメバカアニメだった。カプセル怪獣のノリかよ!
ランスが巨大化した!?とビックリする妖精達。当の本人もロゼッタの腰で驚いています。本体とは別のようです。
キングジコチューはやる気満々。「こい!」。もう何だろう、この絵面。ここだけ切り取って女児向けアニメの最終決戦と言われても誰も信じ…あーでも、ジュエルペットサンシャインとかあったしなぁ。対話型のバトルなので緊張感を出すのが難しいことは分かってましたが、だからってこの発想はなかったわー。
巨大ランスがキングジコチューに突撃。街の被害がやばそうですが、きっと四葉さんがなんとかしてくれる。手が短いのでパンチが届きません。ならばビーム。額の宝石から…でない。今度はキングさんのターン。おおーっと、かみつき攻撃だー。「耳は、耳はダメー」。こんな酷い茶番に付き合ってくれるキングジコチューさんの器でけぇ。
そんな実況解説付きのどうしようもないバトルが進行しますが、チャンスはチャンス。外のでっかい器はロゼッタが引き受けて、残りメンバーは口の中へ。アイちゃんも一緒について行きます。一応この子も娘です。
後方からジコチューが追いかけてきます。ダイヤが単独で足止め。最終決戦恒例のあれです。正妻力を発揮。
内部の開けたところに出ると、陸戦型のジコチューが待ち受けます。当然ここはキュアソードが担当。
キュアソード先生の次回作にご期待下さい。
奥に行くと巨大なプシュケー型のオブジェ。キングジコチューの心臓。中央に国王が埋まっています。人型の物体が無数に出現。ジコチュー細胞。ばい菌を排除すると攻撃をしかけてきます。内部侵入もののお約束です。
回避運動をとりながらレジーナが反撃。やっぱ槍かっこいいわ。しかし警戒した細胞達は合体して巨大化。ここはジコチュー達にとってホーム。通常よりも能力が向上。
ダイヤの防壁が突破されます。
「ラケル!」
「おうともさ!」
「見せてあげましょう! 私達の底力!」
このノリは映画のあれ。
「プリキュア! ダイヤモンドブリザード!」
自分も巻き込んで氷漬け。マナに願いを託します。
1話冒頭を思い起こすキュアソードの動き。単身戦い続けます。あの時と違って今の彼女は強くなっている。手刀からホーリーソード、スパークルソードと繋げていきます。しかし消耗も激しい。最後に残ったゴリラジコチュー。ダビィと共に命を燃やします。
外では怪獣大決戦が継続。劣勢。このままではパッドも持ちません。ちなみに耳がかじられた痕が残っていて芸が細かい。ロゼッタとランスは最後の力を使ってリフレクションを発射。それを囮にして上空から頭突き。巨大ランスは消滅。
③みなぎる愛!
キングジコチューが頭突きで倒れた隙を突いて、ハート達は心臓部へ肉薄。すでに国王の魂は無いと言う細胞に向かってハートシュート。久しぶりの使用。王さまの愛の鼓動が聞こえた!と譲らないハート。
「国王は王女を病から助けるために魂を、プシュケーを闇に捧げたんだ」
二度と目を覚ますことはない。ハートシュートを握りつぶすと同時に一斉射撃でプリキュアを追い詰めます。ところがそれがキッカケとなって、自分の家族に手を出すなと国王が目覚めます。
予想外の事態ですが、しかし細胞は笑います。
「貴様が娘の命を救いたいと我儘を言わなければトランプ王国の国民達は平和に暮らせていた」
「王でありながらどこまでも家族にこだわる貴様はこの世で一番ジコチューな人間! 全ては自分が蒔いた種ではないか!」
痛いところを突いてきます。
「違うよ」
「親が子どもを助けたいって思うのは当たり前じゃない。そんなのジコチューでもなんでもないよ」
「家族ってね、すごいんだよ。どんなに落ち込んでる時も励まし合ってキュンキュンできる。だからね、あたしはレジーナと亜久里ちゃん、アイちゃんをもう一度お父さんと会わせてあげたい。そのためならこの命が燃え尽きるまであたしは絶対に諦めない」
「何故ならあたしは……あたしはみなぎる愛キュアハートだから!」
マナさん全くブレません。国王の自業自得、我儘がトランプ王国を滅ぼしたことについてここで問う気が一切ない。彼女は裁判官でも審問官でもない。親子を結びつけたい。ただそれだけ。いつもの人助け。今やるべきは国王を救出してレジーナ達と再会させること。国王の苦しみは愛に根ざしている。それこそが愛ある証拠で、再びこの家族は愛を取り戻せるはずだと信じている。娘への愛それ自体は尊いものだと彼女は思っている。
プリキュアに世界を救う義務はありません。世界なんて知ったことじゃねぇ。この物語は世界を救わない。救うのは人の心。人を救ったついでに世界も救う。プリキュアの伝統的なロジック。私達は世界を救うために生きてるわけじゃない。幸せになるために生きている。その願いが時に過ちや苦悩を生み出すことがあっても、それでも私達のこの願いは正しい。それを信じて突き進む。それがプリキュアの意志です。このロジックは常にそのシリーズ毎に突き詰められ最終決戦で提示されます。
ハートの力で細胞達を一掃するも、大型が粘ります。
「家族の愛だと? ハハ…笑わせるな。娘一人の命を救うために国をめちゃくちゃにされたトランプ王国の民が赦すと思うか?」
ハートを喰らおうとする牙。一閃。キュアソードがハートを抱きかかえて登場。これまでの汚名を注ぐかのような大活躍。今のはアルティマソードだったと脳内補完しておきます。
「愛に罪はない!」
「悪いのは人を愛する心を利用したあなた達よ!」
ソードの一存が王国民の総意ということにはならないでしょうが、人の弱みにつけ込んで利用してきた奴らの尻馬に乗る必要もありません。仮に国王が国民を選んだ(娘を捨てた)としても、ジコチュー達は「お前はジコチューだ」と糾弾するでしょう。ジコチュー達にかかればどれを選んでも不正解(ジコチュー)です。彼らは行為の是非、社会道徳、正義を問うているわけではない。人の心に闇を見つけては言いがかりを付けるのが目的です。
ジコチュー細胞の主張は要するに、人の愛が罪や暴力を生み出す。愛など信じるからお前達は滅びる。特にジコチューな心をとりあげて愛は否定されるべきものだと主張しています。単純に言えば愛なんて下らない。これには童話「幸せの王子」のような悲劇も含まれるでしょう。裏切られることもある。人間の愛に対する告発を行っています。
これに対しプリキュアは、愛とは人間の根本原理でそれ自体に罪はないと言います。ジコチューも愛も人間の性。心。ジコチュー組は心の一つの側面に勝手にジコチューなどというレッテルを貼り付けて「ほら見ろ!これが人の醜さだ、悪だ!」と叫んでいる。しかし実際にはプシュケーはピンクと黒と2つあるように見えてもそれらは別個のものではないし、個別に名前が付いていたわけでもなく中立です。ここにおいてプリキュアはもはや愛とジコチューとを分けません。人の心に善悪を名付けない。ジコチューの言葉尻に乗らず罪はないと一刀両断するのは潔い。人が成すべきはその生(心)を燃やすこと。生きる責任と強さを持つ。それを証明するように彼女達はこの1年戦ってきました。愛を投げ出すわけにはいきません。それが人としての誇りを生むのだから。
国王のもとに向かうレジーナとエースとアイちゃん。どうしよう、ここでレジーナとエースが手を繋いでラブラブ天驚拳とか、王さまが飛びだしてきてやっぱりラブラブ天驚拳とか、もうその期待と不安しかない。
自分に差し伸べられた手。エースに娘の姿を見ます。彼が愛し求めた人の姿。その手を掴み取ります。エースはアン王女の魂の片割れ。父の愛を知りつつも国を守ることを優先させた心。その心と父とが再び手を取り合うことは、ある意味レジーナの再会よりも大きな意味を持つでしょう。ここのシーンが国王とアン王女の再会になっているのはそのためです。愛故に離散した家族がその愛故に再び形を取り戻していきます。
④みなぎる野心
断末魔。国王が愛を取り戻すと同時にキングジコチューは消滅します。
主人が消えたのを見てマーモとイーラは目が点になります。この人達はキングジコチューと連動しているわけではないのか。
巨大なクッションに座りながら空を見上げるありす。相変わらず四葉財閥は用意がいいですね。
不思議がるセバスチャンに、ジョナサンはプリキュアがキングジコチューのハートに火を付けたんですよ、と上手いこと纏めます。この人口ばっかだな。
「成し遂げたのですね…生まれながらに背負っていたあなたの使命を…。見事です。亜久里」
事の成り行きを知った祖母は誇らしげに言葉を贈ります。
街にぽっかりと空いたクレーター。これ自動復元されないんでしょうか。
目を覚ましたマナ達は親に取り囲まれています。変身は解除されています。よくやった、見ていたと親達は言葉をかけます。
レジーナがマナに飛びつきます。約束を守ってくれてありがとう。大好き。感激したマナは彼女を抱きしめようとしますが、生徒達が駆け寄ってきます。会長の無事を知って喜ぶ生徒達。六花達もその姿を見て思わず顔が綻びます。ありそうで無かったパターン。一般人に知れ渡っていたフレッシュやハートキャッチでもみんなに迎えられることはなかったので、これは珍しい。
それはそれとして、ジョナサンは国王を真琴と亜久里に支えさせるのを黙認ってどうなの。あんたホント仕事しないな。
このままスイート式に最終回まるまるエピローグかと思いきやそれは問屋が卸さない。
「バカめ、闇は永遠に消え去ることはない」
ベール。キングジコチューの欠片に1万年ぶりに復活したのにずいぶんみすぼらしい姿になったと皮肉を言います。
「あなたの意志はこの私が受け継ぎます」
「これで俺はナンバーワン」
「人間界もトランプ王国もすべての世界は、この、俺のものだ!」
⑤最終回予告
マントはヒーローの証。幸せの王子ここに見参。
○トピック
シリアスとギャグの波状攻撃。そしてやっぱり次回予告の全部持っていった感。ドキドキ節全開の48話。最終回のサブタイトルもそうですが、変身の名乗りや必殺技の口上がここぞ!という時に使われるのはグッときます。
愛とジコチュー、父と子の愛、他者を信じるマナの愛、それらと巨大怪獣が大バトルを繰り広げる神がかった展開。本作の芯が最初からずっと貫かれていたのだと確信する見事な決戦です。人の愛とは人の原理そのもの。愛とかジコチューというような実体があるわけじゃない。ピンクと黒のプシュケーは同じ人の同じ心です。黒い方が悪いというのなら、レジーナは悪い子なのか。そうじゃない。あくまで心の側面でしかない。ジコチュー組はその側面をやり玉にあげ、自分勝手な我儘だと糾弾し愛を非難してきました。しかしそれは勝手なカテゴライズでしかないこと、自分達の都合の良いように利用しているだけだとプリキュアは喝破します。愛が大きくなればジコチューも大きくなる、その逆も然り。ピンクと黒は表と裏なだけ。人のそうした心を認め、信じることがプリキュアの使命なのだとマナは断言します。快刀、乱麻を断つ。
マナを見て感心するのは、彼女の行動原理がシンプルかつ有言実行なことです。彼女は愛を信じている。それは他者の愛を信じることにも繋がっています。また、人を助けたい気持ちや優しさに価値や意味を見出しているということもであります。人の価値観(物事の捉え方)は、その人の思考や行動に大きく影響を与えます。行動そのものと言ってもいい。マナの価値観は彼女の行動基準そのもので、とても筋が通っていて、それを実現できるだけの粘り強さと力があります。
マナが自分の考えを行動に移す場合で、特に面白いのが国王関連です。国王を助けることについて、彼の事情を知った人は「娘を助けたいと思うのは心情的に理解できるけど、だからって国王の身分で国民を危険にさらす選択をしたことは好ましくない(国王は悪い選択をした)」と考えるんじゃないでしょうか。でも、これは部外者が国王を助けてはいけない理由にはならない。国民は国王を非難するかもしれませんが、マナの立場から見れば彼を糾弾したり、自業自得だからと放置する理由にはならない。友達と父親を再会させたいし彼自身が困っている。それで助ける理由には十分。彼女のシンプルさ、人助けするのに深い理由や細かい条件を付けない態度は潔い。マナにとっての人助けの基準、どこまでを考えて行動するかをよく示している事例です。
これはドキドキが提起する愛についても同様で、国王の例は身分的責任の観点が入り込みやすいけど、これが自分の子どもを助けるか他人の子どもを助けかの選択になれば一層難しい問題になります。これで自分の子どもを助けたとしても非難することは難しいでしょう。でもこの物語はそうした優劣、価値観は扱わずにその選択をした背景には愛がある、愛それ自体には罪は無いと強く主張しています。それは、この物語が人の心には善い心と悪い心があるのではないか?という単純な見せ方から発展させて、二律背反する愛の選択を迫るに至ることで心の性質を浮き彫りしたことと大きく関係しています。
だから本作はもう一度問うのです。愛に罪が無いのだとしたら(その選択もまた正しいのだとしたら)、困っている人を助けることはいけないことなのか?
マナなら「そんなわけない。私は助けるよ。だってそれが当然だもの」と答えるでしょう。彼女の行動基準はとてもシンプルで筋が通っている。私がここで感心するのは、マナが思考停止に陥らないこと、あれこれ難しいことを考えて足を止めてしまったり、やらない理由をあげつらったりしないこと、自分がやりたいことをやるためにあらゆる手段と情熱を持って望むその姿にあります。
私も上述したように国王の選択に不義を感じる方の人間です。だからきっと私だったら助けない。さらに言えば友達の家族問題にも首を突っ込まない。他人だから。そうやって理由をあれこれ付けて(その背景には無関心や遠慮や不快感があったとしても)やらない自分を正当化します。人は自分がやることについてはそれほど理由なんてつけない。好きだから、やりたいからで済ませられる。けど、やらない場合は文句を言われないように身を守ろうとする。…っていうのは少し卑屈な言い方なので、別な言い方をすれば、私は、人はやったことで評価されるものだと思っています。自分を評価するときもそうです。やらなかったことをいくら積み上げても点数は上がらない。無回答みたいなものだから。何をやったのか、どうやったのか、その時自分は何を考え、何を決断し、何を叶え、それを見た人になんと思われたのか。そこにその人の評価があると思っている。評価が高ければ素晴らしい人間かと言えばそういうことではありません。これは自分に誇りを持てるか、価値があると思えるかということです。マナは自分を大貝第一中学生徒会長だと自信を持って言い張ります。その姿には誇りと自負、矜持がある。自分でこれまでやってきた実績とこれからもやれるという自信が漲っています。この彼女の姿、自分がやりたいことをやりとげてきた人の持つオーラに私は感心します。私がやりたいことはマナのやりたいこととは違います。でも、自分がやりたいと思ったことに対しては、彼女のようにやり抜いていきたいと思える。
マナの自信と存在感。最終局面においてさえ、不安など微塵も感じさせない頼れる主人公を描いたプリキュアの実績と自負を感じる部分でもあります。プリキュアのこの真っ直ぐさは清々しい。そこに惹かれます。
さて、最終回も間近となったので物語を整理していきましょう。ざっくり分けると下記のようになります。
1.悲劇から始まる(作中の時系列上では0話的な位置)
2.マナ達の愛を積み上げる(1~44話)
3.悲劇の根源が判明(45~46話)
4.愛とジコチューの統合(47話~)
1.悲劇から始まる(作中の時系列上では0話的な位置)
最終決戦で持ち上がった「父から受け取った愛」「世界中の人々の笑顔を守る愛」この二つの選択は、「自分の幸せ」と「他人の幸せ」に言い替えることが出来ます。これは番組当初から六花がマナに言い続けてきた「幸せの王子」問題の延長です。この物語ではその懸念が的中している事例があります。それがトランプ王国の崩壊とアン王女の(実質的な)死です。ドキドキプリキュアには二人の幸せの王子がいて、作中の時系列的に一人はすでに悲劇を迎えたところから物語がスタートしています。プシュケー(心臓)を二つに裂いて物語の舞台から降りるアン王女と、彼女に付き従う真琴は幸せの王子とツバメに見立てることができます。二つの愛を両立することができなかったアン王女はその愛ゆえに身を滅ぼしてしまった人物です。真琴もマナ達と出会わなければいずれ人間界で姿を消していったことでしょう。
本作が童話「幸せの王子」をモチーフにしていたことは最初から明示されていましたが、プリキュア流に幸せの王子を解釈して物語のコアに組み込んでいたことが分かります。さらにこの悲劇から始まる物語は、単に一つの王国が滅びるだけには留まらず人間界にまで波及していく。要するにこれはまだ序の口で、悲劇の連鎖、アン王女の忘れ形見となった亜久里とレジーナを再び過酷な運命へといざなう始まりだったわけです。
このように本作は童話同様の悲劇から始まっています。ですが、もう一人の王子であるマナを創造することによって、悲劇に終わった幸せの王子の物語を幸せの王子によって包括し再生させます。それが本作の骨子です。
2.マナ達の愛を積み上げる(1~44話)
では、マナにどうしてそんなことが可能だったのか?ということになりますが、これについて本作は具体的に積み上げています。
マナは「自分の幸せ」と「他人の幸せ」を両立させてきました。生徒会の仕事を六花に手伝って貰ったり、プリキュアや私生活についてもありすや真琴、亜久里を巻き込みながらやりくりしています。ここでのポイントはマナだけがそのネットワークを持ってるわけでなくて、時には六花やありすを中心にして度々描いてきたことです。
そもそも事あるごとにマナを心配する六花にしたって、彼女から見ればマナは他人です。六花は他人であるマナのために頑張ってきた。友達は他人ではない? ではいつ友達を作るのか。どうやって作るのか。他人が友達になる。だからこの物語は友達を作ることから始めました。それもすでに親友がいる中で、新しく友達を作っていくことにチャレンジしました。話しが脇道に逸れますが、スマイルは(話しを単純化すれば)幼稚園に入った子が初めて友達を作って卒園するまでの話しでした。最終回で友達とお別れを決意すると同時に新しい友達を作っていきたいと願う彼女達の意志はそのまま本作に継承されています。すでに友達がいても新しい出会いや可能性に目を向けていくことがプリキュアの(子ども視点に立ったときの)新しいチャレンジでした。
友達が新しい友達と親しくなることに不安や焼き餅を焼いてしまう友達、そんな友達を優しく励まし支えようとする友達、友達の姿から学んでいく友達。本作は自分と他者を結びつけていく中で幸せや成長があること、時に苦しい想いをしながらも変身していく人の姿を描いてきました。マナにとって六花やありすがツバメであるなら、六花やありすにとってマナはツバメでした。その相互的な関係性を描写してきたことは本作の大きな特徴です。ややもするとマナのスーパーウーマンぶりに目が行きがちですが、六花やありす、真琴達の主体的な視点、決してマナの腰巾着やオマケにならない存在感と矜持はこの物語を立体的にしています。こうした複雑で幾重にも絡み合った関係が人間の生き方である以上、「自分の幸せ」と「他人の幸せ」は切り離せません。この感想で繰り返し取り上げてきた自立と依存がそうであるように、両者は互恵的なものでどちらも人間にとって必要なものです。
3.悲劇の根源が判明(45~46話)
…というのは個人レベルの話しでは成立しても、アン王女が迫られた国家レベルでの話しでは勿論そう単純に話しは進みません。だからここが焦点になります。「父から受け取った愛」と「世界中の人々の笑顔を守る愛」のために苦しみ、ジコチューに陥ってしまうことがある。それは決して愛が無いからではなく、愛があるからこそ人の苦しみがあるのだという本作のメッセージなのです。普段ジコチューになる人々が良心の呵責に苛むのも、それが愛と反してしまうからです。
ここでさらにアン王女の答えの出せない選択、答えを出したとしても悲劇へと転がり込んでしまう国王の事情から見えてくるのは愛への絶望です。愛するが故にその愛に行き詰まる、愛で解決することができないという諦め。ハートが冒頭で言ったように彼らは愛を「見失った」のです。話しを幸せの王子に戻せば、結局あの物語も幸せの王子や街の人々を最後まで信じることができなかった、それを信じるよりも裏切られてしまう事の方を信じた結末だったと言えます。読者もあの結末にどこか納得する気持ちがあるはずです。現実は容赦無い。
4.愛とジコチューの統合(47話~)
マナがアン王女の立場だったらなんとかできたのか、それは分かりません。この物語最大の問題提起は愛が人を傷つけてしまうこと、人の在り様すらも変えてしまうこと、時に愛の前に絶望してしまうことでした。もはや愛かジコチューかという二元論は意味を持ちません。愛とジコチューが表裏一体のもので、善悪の問題ではないことは亜久里とレジーナの生い立ちを考えれば分かりやすいでしょう。上述したようにレジーナは悪い子ではありません。心はその時々で色(感情)が変わるものです。または見る角度によっても変わる。
ジコチューが指摘したように、愛のために間違った選択、あるいは非難を浴びる行動をとってしまうことはあります。しかしだからといって愛がなければ、私達が感じる「正しい」「優しい」「素晴らしい」ことだってできません。だからこそプリキュアは愛を見失ってはいけない、その辛さや苦しさを受止めながらそれでも愛を信じるべきだと答えます。
父の愛を優先させたレジーナ、人々の笑顔を優先させた亜久里を融和(レジーナは父親以外との愛を、亜久里は父親への愛を承認)させたのもそれぞれの愛が正しく、また同時に両方必要だからでもありました。その仲介役となったのがマナで、彼女の心の強さ、愛を信じる確信は最終決戦の最中であっても発揮されます。その彼女の愛は、他者(の愛)を信じることでもあったのです。
マナはレジーナに深く関わってきた反面、他の人々にはさほどタッチしていません。この点でマナは万能ではなく、自分のお気に入りの子にだけ目をかけたと言っても差し支えありません。限られたリソースの中でどうするのか、全ての人は救えない。これはヒーローものの大きな課題です。ハートキャッチはそれ故に個々の人々に深く関わることができなかったし、スイートは絆の醸成に時間がかかったため他者への関わり合いは限定的でした。でも、ここでその考えを逆転させます。そもそも全ての人を救う必要がない。マナができなかった分は他の人達がなんとかする。何故なら他の人々にも愛があるから。学園祭で見せたマナのスタンスがそれです。六花達に限らずマナは周囲に恩恵を与える役割を担っていました。私はこの顛末を見てもご都合とは思いません。事実世の中はなかなか上手いこと回るものです。現実は悲観するほど愛がないわけではない。
というのが、これまでのお話しの流れです。レジーナや亜久里の個別的な問題はすでにこれまでの感想で述べているので省略します。
話しが長く横にも逸れてしまいましたが、話しを纏めると、本作は幸せの王子を二重化させることで悲劇に終わった物語を再生させています。これは失敗と成功、善と悪、愛とジコチューのような二元論的な対比ではなく、心や行動の二面性を意味しています。幸せの王子のもう一つの可能性です。また、それらは苦楽を繰り返す人の在り様を映します。悲劇から始まった物語は亜久里とレジーナに過酷な運命を背負わせますが、二人の物語までもが悲劇になるとは限らない。しかし、いつどこで同じ悲劇が繰り返されるとも限らない。
私がプリキュアから受け取る最大のメッセージは人間の肯定です。この物語は人が抱く様々な想いを否定しない。誰もが陥る暗い気持ちや弱さを切り捨てない。その弱さと醜さから人の強さと尊さを見つけ出す。愛もジコチューも元を辿ればば同じ。「父から受け取った愛」も「世界中の人々の笑顔を守る愛」もどちらも必要。自立も依存もそう。微妙なバランスの上に成り立っている。そのどちらかだけを求めようとすれば人の心は均衡を失い歪んだり醜く変わってしまう。だからこそ常に弛まぬ努力と思考、決断によってそのバランスを保ち続けなければならない。矛盾を内包する人間の強い生き様を見せるこの物語が大好きです。
キングジコチューとの戦いは愛を持つが故に苦しむ人々の救済と承認でした。愛があるからこそ人は悩み、苦しみ、そして幸せがある。では、愛を完全否定する闇に愛は届くのか、何をなしうるか。次回、堂々の最終回。ベールさんなら絶対やらかしてくれるって私信じてる!
第47話「キュアハートの決意!まもりたい約束!」
①侵略者
街に現われる巨人。人々は困惑の目でそれを見つめます。テレビ局の人は生物と言っていますが、生物であるかすらも疑問符が付きそうな異様さ。
早速ベールはご機嫌取り。人間界攻略を指示されると障害となるプリキュアを倒していいですね?とわざわざレジーナに確認を取ります。相変わらずいやらしい性格。そっけなく答えるレジーナに、素直じゃないとイーラは言います。目ざとい。プシュケーが萎れててみっともないと言い残して去ります。終始視線を変えないままレジーナは胸に手を置きます。堅い表情。胸の内を表に出すわけにはいきません。後のマナの指摘によって判明するように、レジーナの中には決して消える事のない残り火が燻り続けています。彼女は王女の父を想う愛を継承した子ですが、さりとてその愛はそれだけに留まるものではありません。
大量のジコチュー軍団を伴って人間界侵攻が始まります。避難を呼びかけるリポーターが見たのは巨人だけではありません。
「さあ、みんな行こう!」
決戦の火ぶたが切られます。
開幕エースショットで空にいるジコチューを浄化。スパークルソードで対地攻撃。進軍しながら雑魚の足を止めます。テレビではプリキュアの姿も映し出されています。海外にいる六花の父、ありすの両親も画面に見入ります。お母さんはじめまして。次回作のハピネスチャージでは世界各地にプリキュアがいて、日々その活躍がテレビ放送されているような設定らしいので、ある種の引き継ぎっちゃ引き継ぎですね。あっちの世界じゃこれが日常茶飯なのかもしれません。
プリキュアを知っている大貝中学の生徒達は一体何者なのかと疑問を浮かべます。来週どうなるんでしょうか。
雑魚の相手だけでも面倒なのに幹部登場。ベールが話している最中にも関わらずソードは容赦なく攻撃を仕掛けます。ここは自分が引き受ける。「お前一人でこの俺を止められるのか?」と見くびられます。正直、ソードでは不安が残ります。「いいえ!」「や~!まじ…」。盾が飛んできてビルに磔。最終決戦でもネタを仕込んでくるこの人達はプロです。「一人ではありません」。ロゼッタが駆けつけます。これなら大丈夫そう。キュアソードは囮よ!そんな視聴者の声が聞こえてきそうです。マーモが情けないと呆れます。そんなんで倒せるの? 倒す必要はない。自ら滅びていくとベールは意味ありげに答えます。
攻撃の隙を突かれるダイヤ。しかしジコチューはどこからか飛んできた攻撃で消滅します。「プリキュアを倒すのはこの俺だ」。ツンデレですかね。
イーラを見たダイヤは前にもこんなことあったと相好を崩して話しかけます。憶えてないとすげない答えが返ってくると「そ、残念」とこちらも素っ気なく答えます。因縁というには深くはないが、かといって全くの他人ってわけでもない面白い関係です。お互いに引く気は無し。イーラが飛びかかって先制。お前だけはここで俺が倒す! 彼なりにケジメを付けたいのでしょう。どうせ倒されるなら自分の手で。ダイヤはあなたに私は倒せないと彼の挑戦を受けて立ちます。「それはどういう意味だ?」
「知らないのなら教えてあげる。ダイヤモンドは、傷つかないのよ」
挑発的なセリフとは裏腹に、にこやかな表情を浮かべます。そしてこのBGM。まさか本編でも使われるとは。「決意のプリキュア」映画ではキュアソードが名乗りをあげるシーンで使われています。ちなみに映画サントラにのみ収録。
苦戦するロゼッタ。みんなで頑張ればきっと道が開ける、そんな気がすると立ち上がる彼女にマーモはそれだけかと吐き捨てます。
「それだけで十分です! それが私達のカッチカチの絆なんです!」
そんな気がする。僅かな可能性。しかしゼロだと思い込んでいた人にとっては光明。マナが照らしありす達がそれを増幅する。
「その上! 今日の私は、ガッチガチです!」
メイン盾のマジ本気。
「どうしたキュアソード、そんなんじゃこの俺は切れんぞ?」
「断ち切るのは弱さ! 切り開くは未来! 心を貫く勇気の刃! それが私。王女から貰った名前キュアソードよ!」
「なまくらが!」
カッコイイ掛け合いです。そんな気の利いた言い回しができることに驚きを覚えるのは私だけではあるまい。きっと何かの台本に似たようなのがあったのでしょう。最終回近くでも信用されないソードは、だからこそソードです。
仲間が戦っている間もハートとエースはキングジコチューへと一直線。レジーナ。避けては通れない道。
どうしていつも自分の前に現われるのか、自分はもうあなたの顔なんて見たくない。そうつぶやく彼女に、ハートは約束だからだと答えます。
落ち着いたら一緒にお父さんに会いに行こうと約束した。今がその時。
「キングジコチューさ~ん! あたしの話しを聞いてくださ~い!」
ラスボスを前にしてこんな呼びかけが出来るのはシリーズでもマナだけ!
やかましい!とつれない返事。手で払いのけられます。地面に落下すると今度は踏みつけられます。それを見たレジーナは案の定とばかりにあなたの声なんてパパには届かないと言います。レジーナが父を必要としているように、父もレジーナを必要としているし愛してもくれるだろう。けど、レジーナの声や想いを受け入れてくれるわけじゃない。依然としてキングジコチューは絶対的、権威的で絶大な力を持っている。それは親に服従するしかない子どもの立場を物語ってもいます。彼女の心で燻り続けている火は諦めによって窒息しかけている。
「あたし、諦めないよ!」
このシチュエーションは例のあれ。キングジコチューの足を持ち上げて踏ん張るハートとエース。めっちゃ大変そう。めっちゃ腕震えてます。
「少しは…人の話を聞きなさい!」
たまらずエースも言います。まあ、君も人の話し聞いた方がいい側なんですけどね。
「あたし達は…みんなの笑顔を守りたいだけなんです!」
そんなちっぽけな力で何が出来る?
「守ってみせます!」
「この世界もトランプ王国も!」
「レジーナも! あなたの笑顔も!」
「守って、みせる!」
キングジコチューの足を押し返します。最終決戦のど頭からラスボス救済を説くマナはシリーズ10年の歴史が生んだ主人公。敵側にいる女の子と友達になりたい。その友達のパパとも仲良くなりたい。ごく当たり前のことをごく当たり前に。
②愛の種
驚異的な力を発揮するプリキュア。しかしジコチュー側にも切り札はある。トランプ王国がどうやって滅んだのか。ベールの言葉に息をのむソード。ジコチューの襲撃に恐怖した人々は逃げ惑い醜い争いを始めた。我先に逃げようとしたり弱い人々を放って逃げた人達はそのままジコチューに。ジコチューの自己増殖。世界を潰す必要はない。ちょっと不安と恐怖を与えれば勝手に滅びる。
それを否定するハート。純粋に、素朴に彼女はみんなの愛を信じます。
街で逃げる人々の心の中に小さな闇が芽生えていきます。助けを求める声。純君が子どもを背負いながらケガをして動けない人がいるから手を貸して欲しいと呼びかけます。その声を聞いた二階堂君達が駆けつけます。その様子を見た一般人も一瞬躊躇いながらも手を貸すために向き直っていきます。芽生えていた闇が消えます。
病院でもマナの家族、六花の母、セバスチャン、麗奈が。学校では生徒達が。エルちゃんが。ハルナや環が。秋さんが。応援団長さんが。カルタクイーンに春が。街中で人々の愛が目覚めていきます。
震災を経験した私が言うのもなんですが、こういう助け合いは一種の群集心理です。例えばいじめを抑止する方法はいくつかありますが、その一つに教室内で起こる不正に「否!」と唱えたり積極的に関わろうとしない人が多ければ顕著化しない傾向があります。ある種の臨界点というか、ある派閥が一定割合を超えるとそれがテコになって人々は流されるとでも言えば分かりやすいでしょうか。雪崩現象、ドミノ倒しが始まる。だからいじめにしても、混乱状態にしても、冷静さを失った人々が多ければそちらに傾いていきます。逆に少数であってもそれに持ちこたえられる人がいれば、それが呼び水になって「自分もやらなきゃな」って思って立ち止まる可能性が増えます。純君の呼びかけに足を止めた人達なんかはそうですね。根っからの善人、根っからの悪人なんていう人はそう滅多にいません。大抵の人はいい加減で流されやすく、周囲の雰囲気に飲まれる人々です。それは善し悪しではなく人間のごく当たり前な心理傾向です。状況や小さなキッカケによっては正反対の行動を取ることもあります。幸せの王子たるマナがその一助になっていることはこの物語のとても重要な点です。生徒会長もプリキュアも小さなキッカケに過ぎない。小さなキッカケが人の心にジコチューを生むように、愛もまた芽生えていく。その人間の両義性の提示こそプリキュアの真摯さだと思っています。この物語の幸せの王子は絶望なんてしない。
くだらん!と一蹴するキングジコチュー。巨大ビームで愛をぶちこわすつもりです。ロゼッタがガード。一人では防ぎきれないので5人がかりで防御しますがそれでも足りません。直撃は避けられたものの背後にあったクローバータワーが崩壊。
いやー、それにしてもこのアニメ、特撮怪獣映画みたいなノリだな。
③一人の人間として
折れたタワーを不安そうに見つめる仲間にハートはまだ愛の鼓動は消えてないと鼓舞。気持ちを立て直します。力の差を誇示するキングジコチュー相手に怖くないと毅然と答えるソード達。
なぜならキングジコチューはレジーナのお父さんだから。神でもなければ化け物でも恐怖の権化でもない。一人の人間。その意味でキングジコチューが人の形をしていること、巨人であることは子どもから見た父親(大人)の権威や絶対性、力の象徴と言えるでしょうか。アルコール中毒で威張り散らしているような父親だとでも思えばいい。大きく見せかけてはいるが、所詮は一介の人間に過ぎない。当事者である子どもから見れば絶大な存在だけど、傍から見れば何デカイこと言ってるんだこの酔っぱらいと言い返せる。ラスボスを一人の人間として扱っていることは特筆に値します。これまでのシリーズはそこに辿りつくのに最終回間際まで費やしましたが、本作はマナがレジーナと約束したときから始まっています。
仲間の口からそれを聞いたエースはハッとします。
「そうだからこそ絶対にわかり合える、はずなんです!」
キングジコチューの代わりにレジーナが応え槍の矛先を向けてきます。ポーズかっこいい。ハートに攻撃を集中。ここぞとばかりに他の幹部も出張ってきて個別に戦闘再開。
幾度もの攻撃の末倒れるハートにレジーナはこんな痛い目にあってもまだ話しができるのかと問い、次第に苛立ちを露わにします。
「どうしてやり返してこないのよ!?」
友達だから戦わない。友達との約束は守らなきゃ、そう答えるハート。
彼女のすぐ横に槍を突き刺しながら、そんな約束に意味なんてない!とレジーナは叫びます。暗い廃墟の中に佇む彼女の姿はどこか寂しげで切ない。この演出すげーな、まるで映画。ってやっぱりお前か。40話で演出やってたから最終決戦に間に合わないかと思ってたんですが、やってくれました。
「あたし達はもう友達なんかじゃ…」
この後のハートの言葉でようやく気づいたのですが、この時レジーナは自分はマナを裏切ったのだと思っていたのでしょう。パパかマナかの二者択一で、自分はパパを選んだ。だからもうマナとは友達ではない、友達になれないのだと。それならばいっそマナも自分を攻撃してくれた方が諦めがつくし言い訳もつく。今のレジーナはカッコがつかない。雪山地下で似たようなことがありましたが、勿論マナはブレない。
「友達だよ」
怯えたように身をすくませるレジーナ。
「ねぇ、レジーナ。もう苦しまないで」
「あ…あたしは苦しんでなんて…」
「レジーナ、泣いてたよね。あれは嬉し涙なんかじゃない。行き場を無くして溢れた哀しい涙に見えたよ」
私もまだまだ未熟だ。なるほどあの涙をマナはそう解釈したのか。父の愛を知った嬉しさと、もはや進むことも引くこともできなくなって父の側へと行くしかなかった彼女の気持ちを知った彼女はだからこそそんなレジーナの心に愛を、愛おしさを感じるのでしょう。
「な、なんで? なんでよ!? なんなのよ!? あんたなんかあたしの家族でも何でもないくせに! 他人のくせに!」
もっともです。余所の家族の問題に首を遠慮なく突っ込む彼女は大きなお節介です。もっとも、彼女はすでにトランプ王国の問題に対して「友達を助けるのに理由なんて必要?」と回答済みです。
レジーナを抱きしめるとマナは全力で彼女を肯定します。
「好きだから。あたしレジーナが好きだから。それだけじゃダメかな?」
「レジーナが好きだから、レジーナが愛するパパも好きになれる。好きになりたい、わかり合いたい。だからもう一度話そう? レジーナ。あたしとあなたとあなたのパパで」
六花がレジーナに語りかけた言葉をマナは正確に引き継ぎます。好きという気持ちが人を変えていける。その意思を感じます。友達が苦しんでいて、親と上手くいってないならそれを助けてあげたいと思うのがマナです。余所の家族だからと、及び腰になって逃げるのは愛が無いと思うかもしれません。
人助けをするのは偽善だ、自己満足だ、情けは人の為ならずだ、それが得だからだなどと言う人もいるでしょうが私はそうは思いません。それは現代人が損得(利益)の価値観の影響を強く受けているからそこに結びつけがちになっているだけです。もう少し昔だったら信仰とかに結びつけていたかもしれません(損得勘定よりも大儀や名誉を重んじた時代もありました)。いずれにせよ人間はそこまで打算的でもないし、もちろん善人でもありません。人が人を助けたいと思うのも、助けて嬉しいと思うのもそれがそういうものだからです。なぜそうなったのかを遡っていけばミラーニューロンだとかの話しになるのかもしれませんが、人が人を好きになって、好きな人の笑顔を見たいと思うのは人の自然な気持ちです。そこにジコチューだとか愛は関係ない。その気持ちからどのような行動を取っていくか、そこに分岐点がある。この物語は人を好きになる気持ちも愛と呼ぶでしょう。それは人が他者を必要とし自己と他者を結びつけ融和させる原点だからです。私はこれを人の変容性の原点だと捉えて、そこからジコチューと愛に分かれると考えます。
だまれー!
パパがお怒りです。娘を惑わすなー!とビーム発射態勢。レジーナが懸念したように彼女がいなくなれば彼は孤独に陥る。
この攻撃にはもはや耐えられない。レジーナもろとも飲み込むビームをドラゴングレイブが相殺します。本来の輝きを取り戻す槍。
「何故だ!? レジーナ、なぜ私に逆らう!?」
それを見たキングジコチューは自分が拒まれたように映ったのでしょう、懇願ともつかない言葉を投げかけ狼狽します。
苦悶の声をあげる父を見上げながら、レジーナは静かに答えます。
「パパ。ううん、違う。そうじゃないよ。愛は最初からあたしの中にあったんだよ、パパ」
「だってあたしパパのこと大好きだもん。でも…でもね…やっぱりマナも好き! パパと同じくらい! どっちかなんて選べないくらいマナが好きなの!」
見事だ。ちゃんとこの物語はここへとたどり着けた。共依存、機能不全家族の中にいる子どもは自分の意思に従うよりも親や周囲の意思に圧し潰されてしまうことが多い。それは周囲が強権的であったからでもあるし、常に自分の意思が拒まれ尊重されなかったからでもあります。だから自分の価値を低く感じてしまい自己肯定感が損なわれる。レジーナと近い境遇にいたせつな(フレッシュ)が最終回付近で父であったメビウスにハッキリと自分の意思を主張したように、自分の気持ちを相手にぶつけること、自分もまた一人の人間なのだと示すことは自立と自尊の感情を持つ上でとても大切なことです。あなたの気持ちは尊重される、あなたは愛される価値がある、あなたは人を愛することができる、この物語はそうレジーナに語りかけてきました。彼女は初めてここでマナかパパかではなく、両方好き!と自分の気持ち素直に認めました。こんなごく当たり前のことを当たり前にできない人達がいること、愛が呪いへと変わってしまう現実があることをもっと真摯に受け止めるべきなのかもしれません。苦しみを暴力へと変える人を悪と断じることがジコチューでないと言える保証はない。
幹部達はそれって究極のジコチューだろ、と呆れます。しかしイーラは彼女のプシュケーがピチピチのプルプルに戻っていることに気づきます。愛を求めるのではなく、愛を示すこと、さらには与えることがこの物語における正しいプシュケーの姿だと思われます。
それっていけないことなのかと不安そうに尋ねるレジーナ。この気持ちはジコチューなのか?
そんなことない。ロゼッタが答えます。膝と太ももに目が行く私のこの気持ちも決してジコチューではないと信じたい。
「私もマナちゃんが大好きですし、六花ちゃん、真琴さん、亜久里ちゃん、レジーナさん、みんなみんな大好きですもの」
さん付けとちゃん付けの基準がよく分かりません。
「私も前は王女さましか見えてなかったけど、今はここにいるみんなが大切に思える」
キングジコチューは自分だけを見ていれば良いと娘に呼びかけます。好きという気持ちが人を閉じ込めもするし、解き放ちもする。この矛盾に向き合う本作は情熱的なほど真摯だ。
「そう思う気持ちも分かるわ」
「私もその気持ちに覚えがあるから。でも、好きな誰かを独り占めするよりも、好きな人が好きな人を、自分も好きになって、そうやって人の輪が広がっていく方が…なんか、いいじゃない」
照れ笑いするダイヤさんが超可愛い。この一年彼女達がどのように歩んできたかを実感する言葉です。好きな人にこだわりすぎるあまりに見失ってしまうもの、味わってしまう気持ち。楽しいこと、嬉しいこと、感動すること、辛いこと、苦しいこと、恥ずかしいこと、悲しいことを経験しながら人は好きなものを見つけていく。好きになれたなら人は変わることができる。そう考えるとなかなか人生は面白いものだと思うね。
キングジコチューはプリキュア達の言葉を拒みます。
「もうおやめ下さい」
「人と人との繋がりそれが愛! 愛の戦士たるわたくしの使命はあなたを倒すことではなく、愛することだったと…ようやく気づきました。そして、今ならそれができます。なぜなら…あなたはわたくしにとってもお父さまだから!」
畳みかけてきたな。「確かに私はあなた達が嫌いでした。でも、それは間違いでした。克服すべき敵ではなく、愛すべき友なのです!」とニンジンに語ったエースもまたその本分を示してきました。エースは言わば正しい人です。しかしその正しさが正しい行いを導き出すとは限らない。解決のためにあらゆる可能性を考え、実現していく力は正しさではなく、想像力(柔軟性)に負うところが大きい。
エースにアン王女の面影を見たキングジコチューの中にも一筋の光が灯ります。
「お父さま!」「パパ!」
自分の中で目覚める何かに戸惑うキングジコチューにハートは言います。それが…
「愛だよ」
しかしそれでも愛を認めず拒んだキングジコチューは娘達もろともハートに拳を振り下ろします。怯むことなく視線を外さぬまま彼女はそれを受けます。
④次回予告
大貝第一中学生徒会長の自負見せていただきましょう。
○トピック
大好きなものをいっぱい見つけましょう。そうすればあなたはいっぱい変わることができる。ドキドキ!プリキュアのド直球提示。
いやー、脳汁ドバドバ出そう。まさにこの最終決戦がこの一年の集大成、これまで積み重ねてきたことを集約してぶつけてきたと実感する展開。
抽象的な提示に頼ることなく、具体的な親子関係が鍵になっているので問題点が分かりやすいのがこの決戦の特徴です。しかしそれでいて厄介なところは、単純に何か一つを解消すれば全部解決するわけではないことです。例えば国王を乗っ取った闇を倒せばいいかというとそうじゃない。父と友達の狭間で苦悩するレジーナの気持ち、エースと父の関係、エースとレジーナの関係(この子達は姉妹です)、アン王女を失った国王の気持ち、今回登場しなかったジョナサンなど色んな人達の関係や気持ちが解消されなければこの戦いが終わったことになりません。この一年の彼女達の努力と葛藤、この物語が常に提示し続けてきたメッセージを重ね合わせながら一つ一つ結びつけています。エースとレジーナは直接互いに嫌っているわけではなく、父親に対するスタンスの違いが原因なのでそれが解消されればふたりの関係は進むはずです。最終決戦の割りにバトルが控え目ですが、主軸となる物語の骨太さによって緊張感とカタルシスを出しているのは巧い。っていうか凄い。
最終決戦恒例の世界終焉が今作では起きない。人々が洗脳されなければ消える事もなくジコチューに陥らないのも本作らしい提示です。童話「幸せの王子」に対する本作なりの答え。愛の種が芽吹くことを信じるとともに、愛とジコチューが人の心に内在する問題であるならプリキュアのみならず一人一人の人間の内にもその希望を見出すことは必然的な流れです。
マナ達はマナ達で頭が良い上に実行力も伴っているので負ける気がしない。10年目のプリキュアの貫禄と実力を感じます。普通だったらこのまま最終回を迎えてもいいくらいなんですが、はてさてドキドキはここからさらに何を持ってくるのか、生徒会長殿の手腕に期待です。
本編感想で触れたようにレジーナが自分の気持ちに正直になれたシーンは、この物語が約半年かけてやってきたことを物語る素晴らしいシーンでした。ごく単純に、無理矢理一言でレジーナの辛さを表すなら、それは自分の気持ちの否定でした。どちらも大好きなのにどちらかを選び、選ばなかった方は否定しなければならない。それは彼女自身の否定とも繋がっていました。それに対してマナはずっと最初から何一つ否定することなくレジーナを肯定してきました。レジーナを追いかける彼女がなんか怖い人なんじゃないかってくらいやってきたのも、彼女の愛が強く断ち切れないものであることを示しています。その安定した愛情の上でレジーナは自分の気持ちを認めることができたのだと思います。「他人のくせに!」それはとても重く、拒絶と同時に逃げ口上にもなりうる人と人を分け隔てる壁です。しかし他人だからこそ通い合ったときに自分が愛された、愛したことがわかる喜びがある。人は他人を愛せる。他人から愛される。それを今一度再確認させるやり取りでした。
敵と友達になってはいけないの? その単純な問いかけから始まったレジーナとの出会いは親子愛、相反する心の葛藤を経て、救済(癒し)の力を持つ愛へと昇華されています。他者に対する信頼と自己に対する信頼は密接に繋がっています。人を好きになることは、自分を好きになることでもある。自分の気持ちを肯定することで自己肯定感は増します。これまで好きになる気持ちがレジーナを苦しめていましたが、これからはそれが彼女の強さになっていくはずです。マナがあんなに強いのも、人を好きになることに躊躇いがなくて、素直になれて、それを尊いと思えるからなのだと思います(六花やありすのような理解者がいることも大きいでしょう)。健全な愛が健全な関係を、健全な関係が健全な愛を育む。壊れた家族、壊れた自尊心が愛によって回復していく。亜久里も愛を暴力ではなく結びつきへと変えていきます。彼女もまた壊れた家族を取り戻し始めます。
人の心を閉じ込めることもできれば解放することもできる愛。誰もがそれを秘めている。それに翻弄されながらも気高く真摯に生きようとする人々の姿に心打たれます。これを堂々をやってみせるプリキュアは素晴らしい。
第46話「エースとレジーナ!誕生の真実!」
①トランプ王国家の記憶
エースから真実を告げられたハート達はさらに困惑。当の本人であるレジーナは自分を惑わす虚言だとして取り合いません。エースを見るとムカムカする理由について、自分自身を見ているからだと答えるエース。クラウンを取り出して知識を与えます。
王冠に触れた途端感電したように動かなくなります。傍目には怖い現象です。ハートは自分達にも見せて欲しいと頼みます。手を繋いで知識を共有させます。ついでにアイちゃんも。全員で感電。ただしジョナサンは留守番。物語的にこの人もう必要なさそう。
感電したまま放置されるのはちょっと絵面的にカッコ悪いので、次元転送的な感じで過去の世界にやってくるマナ達。変身は解けています。年明けの変身は必要です。最後の戦いへの区切りにもなります。
国王が生まれたばかりの赤ん坊を抱えて部屋から出てきます。アン王女出生まで遡るようです。アンの命と引き替えに母親は亡くなります。いきなり重い話しですが、母親が健在だと後々父親と面倒事になりますし、父親にとってアンはまさに残された最後の家族になりますからこの前提は大変重要です。また、レジーナと亜久里がそれぞれ片親であるのも偶然ではなく意図された配置でしょう。
夜明け。太陽の光を浴びながら、国王は娘に希望と願いを託します。
国王の深い愛に包まれてすくすくと育つアン王女。なかなかヤンチャな娘だったらく剣術にも秀でていたようです。そんなわけで、その後は知ってのとおりジョナサンとの出会いもあり順風満帆。ジョナサンに対して国王はどんな心象だったんでしょうか。
突然アン王女は謎の病に倒れます。どうやらキングジコチューの闇(以下「闇」と呼称)が原因のようですが、物語的にこの闇を抽象的な人の心の闇とするのか、具体的な個体として扱うのかと言えばおそらく前者だと思いますので、基本的には亜久里の説明のとおり謎の病に倒れたと解釈していいでしょう。要するに誰かの仕業でこの親子が崩壊したというんじゃなしに、偶然に起こりうる悲劇的な性質のものだということです。
トランプ王国の医学ではアンの病を治すことは出来ない。神に向かって妻だけでなく娘まで奪おうというのか!?と悲観に暮れる国王。一つだけ方法があると臣下が進言。ゴールデンクラウンの知識を使えば治せるのではないか。ところがこの神器はかつてプリキュアが倒した闇が封じられている。とても分かりやすい。娘と世界どちらを取りますか?という問いかけです。
地下へと降りる国王。封じられた王冠の前に立ちます。娘と民。良心の仮借。王冠に手を伸ばすと脳裏に妻の最後の言葉が思い返されます。「この子を人々に夢や希望を与える太陽の如く光り輝く子に…」。闇と手を握って助かってもアンは喜ばない。躊躇する国王。仮にアンが助かっても大きな業を背負う事になる。進退窮まります。
苦悩の末、国王は立ち上がります。
「そうだ…アンが死んでしまえばもはや世界は終わったも同じ…」
プシュケーに闇が広がっていきます。「行列に横入りできたらいいのに」から始まったジコチューの問いは娘の命と世界の命運とを天秤にかけるまでに。
「アンさえ助かれば世界などどうなっても構わない!」
国王の顔からは苦悩の色は完全に消えています。己の欲望に忠実な、そしてもはやなりふり構わず理性を失った狂人のごとく国王は剣を振り下ろし王冠を手に入れます。ここの描写は女児向けアニメってことを忘れているんじゃないかというくらい不気味。これは彼の行動が間違っているというより、人が強く何かを求めそれを手に入れるためにはどんな犠牲をも厭わないという行動に出たときの身勝手さ、暴力性が忠実に現われていると見ていい。ちょっと設定や舞台をかえてやれば彼の行動は美談と言わないまでも肯定的な話しとして受け取られることもあるでしょう。逆に国王が国の安定のためなら家族がどうなったっていいと言ったらそれはそれでジコチューでしょう。つまり、ここで重要なのは彼の選択そのものではなくどちらかを選ばなければならないときに、人はどのようにその決断を下すか、その在り様です。国王は自覚的ではあるものの自暴自棄というか投げやりな選択を行っています。0か1か、こっちを選んだらあっちは知ったことじゃない。全肯定と全否定を両極端に行うことは思考停止と何ら変わりません。ジコチューとはそうした思考停止、自分勝手さ、ただひたすらに何かを求める、人の心の在り様です。視野が狭く可能性を模索するよりも潰していく傾向が強い(「これしかない!」的な)。
国王が去った後、地下神殿は闇に飲み込まれていきます。
「うわ、私のスパークルソード効かなすぎ!?」みたいな表情を浮かべる真琴。ついでに女子力も低すぎます。もとい。自分の故郷の真実を知って涙を溢す真琴。大切な家族と世界を天秤にかけろと言われたら誰だって迷うとマナは言葉をかけます。一言でいうとそういうことです。六花とありすも頷きます。答えの出せない難しい問題。ちなみに私はこういう選択が難しい問題に対して、回答保留という選択肢を取るのが一番好きじゃありません。決断しない、判断しない、というのは責任を取りたくないってことなので私はそれを好みません。だったら自分なりの答えを出してそこで責任をとっていく、例えそれで人と争ったり、傷つけたり傷つけられたりすることがあっても決断と選択をしていく方を選びます。それでダメだったら腹を括るしかない。とはいえ回答保留にした方が上手く行くときもあるし、慎重に考えるという点ではこの態度が必要になる場合もあります。要するに何も考えないのが一番マズイのです。何も考えてないクセに責任転嫁してくるような人が一番面倒臭くて使えません。
得た知識によって王女の命は取り留めます。無事目を覚ました娘に国王は喜びます。
「聞こえたぞ。闇の鼓動…自分勝手な邪な願い。最愛の娘を救うために禁忌を犯し世界を破滅へと導く…これぞまさに究極のジコチュー。貴様こそ私の器に相応しい」
闇が国王に取り憑きます。ダイナミック退出。国王は窓ガラスを破って海に落下。アン王女はベッドを飛び起きると父を追いかけますが間に合いません。っていうか、今さっき起きたばかりなのに動けるとか本当に頑丈だな。
水の中から巨大な物体が現われます。キングジコチューの誕生。
②アン王女の矛盾する想い
娘を助けたい、そのためには世界がどうなったっていいという父親の願いから生まれた巨大で強大な暴力。それがキングジコチュー。悪魔との取引の如く、娘さんが助かったんだから世界を滅ぼしましょうね。世界が滅びるついでに娘さんも死ぬかもしれませんけど。というお約束どおりな結果に。別なことに例えるなら、娘の命を救うために巨額の借金をしたら、その取り立てで家族崩壊したみたいな感じでしょうか。禁忌を犯せばそのツケは必ず回ってくる。映画のマシューがそうだったように、愛が大切な人達をも傷つけてしまうことは珍しいことではありません。
キングジコチューの目覚めと同時に配下のベール達が出現。後ろの方に見知らぬシルエット。雰囲気を出すために出したんでしょうか。幹部の名前は七つの大罪にちなんで付けられているので、7人居るってことかな。人間の欲を象徴。
その後は周知のとおり、ジコチュー軍団の前にキュアソードを残してプリキュア部隊は全滅。それでもシルエットになっていた幹部2名は倒したと好意的に解釈しておきましょう。王女が倒した可能性大ですが。
何故?と父親に問いかけるアン王女。しかしキングジコチューは愛などあるから苦しむと否定します。これは国王の意思ってより闇の意思ってところかな。自分の命を救ってくれたのはお父様の愛です、と示しても意に介さない。暴力衝動が収まる気配はありません。王女はドラゴングレイブの力を使ってキングジコチューを石化させます。
逃亡をはかるもキュアソードを逃がした王女はベールに追いつかれてしまいます。ベールはキングジコチューに何故トドメを刺さなかったかと尋ねます。呼び捨てにしているあたりこのときから彼の野心はあったのでしょう。神器の力を使えば倒すこともできた。そうしなかった理由を答えられない王女。
「父親だから消せなかったんだな」
「自分勝手な奴め! 国民を守るべき王族が国民を犠牲にして肉親を守るとは…さすが親子」
「そろいもそろって最悪で最高のジコチューだ!」
王女と国王の罪を告発。これが犠牲になった国民からの非難であればぐうの音もでなかったでしょう。王女のプシュケーに闇が広がっていきます。容赦しません。この物語はどんな人にも大切なものがあってそれを守りたい気持ちがあること、それ故に生まれる自分勝手さがあることを指摘しています。王女もまた例外ではありません。
このままでは自分もジコチューになると危惧した王女は自分のプシュケーを取り出します。半分が黒く染まったプシュケー。それを彼女は引きちぎります。
黒いプシュケー。「父から受け取った愛」
元のプシュケー。「世界中の人々の笑顔を守る愛」
「ジコチューと愛は表裏一体。そのどちらを選べばいいのか…わたくしには答えを出せません。わたくしはその結論を、世界の行く末を、この二つのプシュケーから生まれし者の戦いに託します。こんな形であなた達に過酷な運命を背負わせてしまった不甲斐ないわたくしを赦して下さい」
どストレートに投げてきました。王女が黒いプシュケーを見ながら語るシーンでちょっと泣きが入りました。この物語は最初からずっと人の願いや気持ちがジコチューと愛を生み出してしまうことを描いてきました。王女の言うとおり、ジコチューと愛は表裏一体で根っこは同じです。時にジコチューに染まることもあれば、愛へと変わることもある。そしてここで示されたのは、ジコチューそのものにも愛が含まれていること、人は両立しない愛を同時に抱くことです。どちらが正しいのかその問いに答えることはできない。なら、その二つで雌雄を決してしまおうと王女は切り分けました。毎年言っていることですが、現在のプリキュアは勧善懲悪の戦いをしません。全ては人の心が生み出す葛藤、善悪、愛憎が引き金になっています。抽象的に言えば人間にとっての善とは何か?であるし、個人レベル言えば自分が取る選択に正当な言い訳をすることができるか?この苦しみに何故耐えていかなければならないのか?ということです。そして王女はそれに耐えられず放棄しました。端的に言えば、王女は自分の心を文字どおり壊してしまったのです。答えが棚上げされ次の世代に託されたとも言えます。国王である親が生んだ業を娘が背負い、その業がまたその次の世代へと引き継がれる。ある意味でハートキャッチのダークプリキュアとムーンライトの再現です。
王女が残したプシュケーの一つはキングジコチューのもとに流れ着いてレジーナに、もう一つは亜久里として生まれ変わった。王女の身体は卵となって人間界に。つまりアイちゃんに。この三者の関係性は多くの人が予想したとおりだったと思います。が、もちろん話しはそこで終わりません。
マナ達が戻ってきます。肩を落とした彼女達の姿を見たジョナサンは真実を知ったことを悟ります。マナ達は困惑しながらもレジーナがクリスタルを欲しがった理由やパパとの想い出がなかった理由について辻褄が合うと納得。ゴールデンクラウンを使えたことがレジーナがアン王女の分身である証拠と言葉を継ぐジョナサン。いや、それはあまり重要じゃない。
もう王女は蘇らないのか?と疑問を口にするランス。光と影が一つになれば王女になるのではないか。ダビィはそれを否定します。それだけの強い思いで決断された、と真琴は涙を溢しながら言います。はい。これはとても重要なことです。単純に言えば、亜久里とレジーナは王女の忘れ形見です。アイちゃんはまだ赤ちゃんなので属性的には中立です。元の王女に戻ったところで答えが出るわけでもこの問題が解決するわけでもありません。また、ありす回や亜久里の誕生日回でも言われたように、生まれ出た命はそれ自体が尊く価値を持つ。命がある限り愛がある。なら亜久里とレジーナがまた一つに戻るなんてことはあり得ません。彼女達はたとえそれがどんなに過酷で最初から業を背負おうともその生を生きなければならないし、生きていい。命に罪はない。さすがプリキュア、ロジカルに攻めてきます。
マナは真実を教えてくれた亜久里にお礼を言います。このときマナと亜久里は本当の友達になれるその一歩を踏み出したのかもしれません。本作の親友とは隠し事をせず(部分的に)運命を共にするほどの関係です。亜久里の秘密を知ることは彼女の決意と意思を知ることでもあります。マナはまたもや他者の運命を背負うでしょう。それに続く彼女の言葉は予想できます。
「分かったからには、なおさらあなた達を戦わせるわけにはいきません!」
亜久里とレジーナは言わば双子。この二人が戦うこと自体おかしい。しかしそれをこの二人だけで終わらすことは難しい。自分の運命(立場)にあまりにがんじがらめになっているからです。ここでマナという第三者が介入することでその膠着状態を抜け出せるかもしれない。
「解決の方法はきっとある! みんなでそれを探そうよ!」
「レジーナ、あなたも力を貸して!」
王冠を取り落としたレジーナは泣いています。真実の重さ、過酷さに泣いている?
「マナ…あたし嬉しいの」
正直私は頭を抱えました。そうだよ、そうなるよね。どんだけこの物語正直なの。
「パパは世界を滅ぼしても娘のあたしを救おうとしてくれた…」
彼女は父親を愛している王女のプシュケーであり、彼女自身もまた父親の愛を求める幼い子ども。碧い瞳へと戻ります。衣装も元の色に。もはや彼女を縛るものはありません。彼女は父親の愛を知ったのだから。
「あなた達そんなに大きな愛を貰ったことある? 地球とか宇宙とかそんなものより大きな愛を貰ったこと、ある? あたしだけよ、あるの」
「そんなあたしがパパを捨てるわけない! あたしは最後までパパのために戦う!」
世界を滅ぼそうとするキングジコチューは間違っている。しかしその父親を愛するレジーナは間違っていない。
③相対する二つの愛
復活するキングジコチュー。レジーナは喜んでパパのもとへ向かいます。
それを見た亜久里はキングジコチューとレジーナを倒すしかないと言います。
「わたくしには王族として生まれた者の責任があります。レジーナを倒し、キングジコチューを倒さない限りトランプ王国の復活はありません」
亜久里は世界中の人々の笑顔を守る愛のプシュケーから生まれているのでそう思うのは必然です。しかしそれ故に彼女の言動は公正さや正しさを求める傾向が強く、悪く言えば個々人の都合や問題を斟酌しません。それは厳しさや非情さを見せることもあります。ここにアン王女が抱えた苦悩と葛藤が再現されます。父親との愛に従う心と、世界の秩序を願う心との戦い。
本当にそれでいいのかと問う真琴。今の亜久里ちゃんは苦しそう。
ボケッとしていたら射撃されます。キングジコチューの肩に乗ったレジーナが神器で長距離射撃。肩に乗ってるのかっこいいなー。
キングジコチューも我が王国に必要なのは自分とレジーナだけだと言います。こういうところは元の国王の意思が反映されているらしい。愛などいらねーと言っている割りにはレジーナを求める闇の矛盾が見て取れます。
「パパとレジーナ二人だけの世界を作り上げるんだ」
レジーナは喜んで引き受けます。グレイブで空間を砕くと視界の先には人間界が。神器すげー。キングジコチューとレジーナは人間界へ。
残されたマナは立ち上がると、彼女達を止めると言います。答えは出ていないが自分達の想いを全力でぶつけるしかない! マナの無鉄砲さに呆れながらも肯定する六花とありす。これまでもマナの勇気と決断と粘り強さが幾度もピンチから救ってきました。それを知る真琴も明るい顔で頷きます。
海を突き進むキングジコチュー。ノリ的には巨神兵。肩に乗ったレジーナがイケメンすぎます。
クローバータワーに転送。今年最初の、そして最後の変身。
「レジーナ! キングジコチュー! このキュアハートがあなたのドキドキ取り戻してみせる!」
④次回予告
ラスボス相手にこの緊張感の無さ。それでこそ相田マナさんです。
ハピネスチャージの番組告知開始。アイカツと玩具会社が同じわりに競合させてきました。プリティーリズムやジュエルペット系は違うメーカーなので囲い込み戦略で潰す気でしょうか。プリキュアの戦い以上に過酷で無情な戦いが見られそうです。
しかしそれにしても変身シーンでマント出すはやめて下さい。格好良すぎて物凄く期待しちゃうじゃないですか。
○トピック
最終決戦の幕開け。シリーズ史上かつてないほどの緊張感。見ているみんなも一緒に考えよう。女児向けアニメのど直球問題提起。
「一杯のお茶のためには世界が滅びたっていい」
このセリフはドストエフスキー「地下室の手記」で主人公が自分の都合のためなら世界など知ったことではないと主張したものです。これだけなら一笑に付されて終わりでしょう。しかしこれが「カラマーゾフの兄弟」のように子ども達の無垢な魂の犠牲によって世界に救済がもたらされる(世界の調和が保たれる)というのならそんなものはまっぴらごめんだ、という主張になればたとえ我が子の問題でなくとも襟を正して真剣に考えなければならなくなります。
この違いは何か。それは命がかかっているからです。必要経費…もとい、尊い犠牲と言葉を変えたところで純粋な魂、純粋な命を踏みにじる権利を誰が持っているのかと思うし、公共性や社会秩序の概念を持ってきてもやはり完全には払拭しきれません。それは命、ひいては人の存在価値や意味を問うものだからです。古代だったら生け贄が正当性をもったかもしれませんが、現代においてはそれは通用しません。誰も自分が犠牲になりたいなんて思わない。仮に犠牲があったとしてもそれはその人がババを引いたのだと思い、誰もその犠牲を尊いものだと考えない。個人主義が強まるほど一個の魂と多数の魂の天秤は釣り合っていく。現代はその天秤がちょうど釣り合う(どちらとも決めかねる)時代なのだと思います。
話しを戻して、この最終決戦で示された2つの陣営は親子愛を主軸とした個人的な願望と、社会秩序を主軸とした陣営に分かれています。これを見てすぐに善悪の判断を付けられる人はそういないでしょう。幸せでありたいと願う親と子の気持ちを踏みつぶして成される平和や調和が正しいものかと言い換えてもやっぱり悩みます。ドキドキが提示しているのはまさにそれです。亜久里とレジーナの命を賭けた心の叫び。
これまでのシリーズ最終決戦は敵側の論理や都合が判明していくのに合せてプリキュアが融和政策を提示していくものでした。ハートキャッチのデューンを赦したり、スイートのノイズと友達になったり、あるいはスマイルのように絶望を乗り越えることでハッピーエンドを作ってきた。早い話し問題提起と同時に30分で決着が付いたのです。ところが本作は最終決戦に入るまさにその最初にこの戦いが相反する価値観、しかもそれが一人の人間の中においてもせめぎ合う問題であることをこれ以上無いほどにストレートに投げかけています。人の心の表と裏。いくつもあり、矛盾もする愛。この戦いは遠い国の、誰かの戦いではない。一人一人あなた自身が抱える問題。だからあなた達もまた考えて欲しい。マイケル・サンデルの「これからの正義の話をしよう」の女児向け版。最近の女児はレベルが高いな。
アイちゃんの子育て、亜久里の祖母との思い出、レジーナの父親を欲する気持ち、これらを終盤に集中させることで敵となる相手が同じ人間であること、同じ辛さを抱えていること、その相手を救う手立てがあるのではないかと視聴者に見せてきた訳ですが、このタイミングでこれ持ってきた本作は極めてロジカルでえげつない。最早子どもでも分かるほどにシンプルな構図になっている。それでいてこの提起は人の幸せとは何か、愛は本当に人を幸せにするのか、実は孤独と暴力を生み出すものなんじゃないか、様々な疑問と葛藤に枝分かれしていきます。
愛とジコチューは決して単純に割り切れない。それを割り切ろうとすればそれ自体がジコチューになる。そして多くの愛やジコチューとは人間関係に端を発します。我が子を取るか、国民を取るか。父を取るか、世界平和を取るか。どちらか片方だけを正しいと思うようには人の心は出来ていない。自立と依存がそうであるように両方必要。二つの魂を愛(マナ)が繋ぐ。そういう構図。
そういうわけでドキドキのロジックがかなり明確になってきたことで、これまで感想で述べてきた共依存・機能不全家族の問題については本流ではなく支流くらいのランクに落ちましたが、それでもこのテーマが消滅したわけではありません。父の愛を知ったことでレジーナの満たされない想いは一応解消されそうです。しかしそのために一層父親との関係が強まって彼女の世界は強固に閉じてしまっています。子どもの親を愛する気持ちを踏みにじることはできませんが、さりとてこのまま彼女を放置するわけにもいきません。彼女が安心して暮らせる家族を持つことが出来るのか、これもまた大きな課題です。
はてさて、この難しい問題にプリキュアはなんと答えるのか。亜久里もレジーナももしかしたらどちらもジコチューなのかもしれません。これを包括するものがあるのだとすればそれこそが愛なのかもしれない。幸せの王子は人の心に何を見出すのでしょうか。
ま~た今年も最終回までの一ヶ月間頭を痛めそうです。冗談抜きで感想書くのに一日がかりになりますが、だからこそ面白いしそれをやる覚悟も準備も出来ている。クリスマス商戦が終わったプリキュアに最早枷は無い。全力投球してくるならこっちも全力で打ち返す。一年の締めくくり、物語の総決算、この時期のプリキュア視聴はエキサイティングでスリリングな体験です。
第45話「宿命の対決!エースvsレジーナ!」
①最後の神器
久々に登場したジョナサンに疑いの目を向ける一同(主に真琴と六花)。偽物が出たと訊いても「大変だったね」で済まされてしまいます。こちとらパッドを取りに行ったり、イヤイヤ期乗り越えたり、プリキュアが増えたりと大変だったことを抗議するように言う妖精。
それを軽くスルーして、ジョナサンは亜久里に挨拶。やってることがまんま偽物と同じ。ある意味真似しやすい人です。ところで、もうチューリップハット被ってないし、最終回も近いのでノッポさん改め、ジョナサンの本名呼びに切替えます。
亜久里のことをアンから訊いてるとジョナサン。氷付けの王女を見下ろしながら…って床に転がっている縄が生々しいな。担いできたんでしょうか。彼も時間を無駄にしていたわけではありません。ラビーズ。最後の神器、エターナルゴールデンクラウン。
ジョナサンはマナ達と別れたあと隠れ家に移動。すると王女は愛の切り札となる少女が目覚めようとしている、アイちゃんは旅立たねばならない、キングジコチューが完全復活する前に神器を探して欲しいと頼みます。時系列的にはほんとに別れてすぐです。今までさらりと流されていましたが、やはりエースが持っているパレットに付いている宝石は例のクリスタルで間違いない。あのクリスタルは王女の記憶と呼べるものなので、エースが王女関連なのは大方の予想通り。もしかしたら亜久里がプリキュア関連の知識を得たのはアイちゃんと合流後なのかもしれません。記憶がインストールされるというか。まあ、この辺の辻褄合わせはどうでもいいんですけど。
どっかの砂漠の、どっかの遺跡を訪れたジョナサンはそこで神器を見つけます。どう見てもパッドの入手難易度がおかしい。ジョナサンごときが入手できるのに、エース含めたプリキュア総出でやっととか偏りすぎ。
さっそく神器を実体化。カタログスペック的にはこの世の全ての知識が詰まっているそうです。概ね王女関連の情報引き出し口になってますが。資格がある人だけ知識を与えるとジョナサンが説明します。
さっそくマナがかぶります。何もおきないし、知識も得られません。なるほど、王冠と槍の入手難易度が低いのはセキュリティが厳しいからで、逆にパッドの難易度が高いのは誰でも使えるからそれでバランスを取っているのか。プリキュアが使っていたアイテムなのにプリキュアが使えないとかどうしようもないアイテムだな。
丁重に扱え、と亜久里が取り上げます。はい資格者発見。王冠から(主に王女関連の)知識が流れ込んできます。一気に情報が流れこんだせいか亜久里は気を失ってしまいます。
目を覚ますと祖母が居ます。自分の部屋。壁には夏祭りの写真が飾られています。身体を起こした亜久里は沈んだ声でどうしたらいいのかと祖母に尋ねます。自分が何者でどんな運命を課せられているのか知った。悲しく重い運命。その重さに潰されてしまいそうだと亜久里は素直に泣きます。ここはとても良いシーン。この前の祖母とのエピソードが効いています。彼女は祖母に甘えたいのだ。自分の苦しさを受け止めて欲しい。彼女を抱き寄せた祖母は人は運命に背くことはできない、受け身で押しつぶされるか、立ち向かって未来を切り開くか、それはあなた次第だと語りかけます。何を成すべきか分かっているのでしょ? 祖母は孫を信じます。
「ありがとうお婆さま。もう迷いません」
②直接対決
夜。ソリティアを訪れる真琴。警戒したジョナサンがカードを投げつけてきます。この辺のやり取りを見るとこのふたりが実力者のように見えますが、この作品でも1、2を争う使えない人達だということは全視聴者が知っています。
すぐに亜久里がやってきます。っていうか、王女にそこに置きっぱなしなのかよ。ふたりを呼んだ理由を説明するため、亜久里は傍らにあった王女の氷を砕きます。驚くふたり。しかし氷の中には誰もいません。そうこれはジコチュー達の目を欺き時間を稼ぐための囮。隠された王国の真実。
衝撃を受けた真琴は持っていたカップを落としてしまいます。ジョナサンも信じられない…と動揺を隠せません。亜久里の話しが本当ならすべての辻褄が合う。王女のために尽くしてくれてありがとう、と礼を述べる亜久里。自分はレジーナと決着を付けるためにトランプ王国へ行く。ふたりにはその立会人になって欲しいと頼みます。何故マナに話さないのかと真琴は口を挟みます。「きっと…」「それはできません!」。マナならきっと戦わずに済む方法を考える。自分とレジーナどちらが倒れてもマナが受け入れないことは分かっています。しかしこれは自分達に課せられた運命、避けて通れない。おそらくこれはトランプ王国の事情で、マナ達は関係ない。責任を果たさなければならないという思いもあるでしょう。無理にとは言わない。納得できなければ帰ってもいいと選択させます。ジョナサンは行くと答えます。迷う真琴はスペードのエースに視線を落とします。
ぶたのしっぽ。新年を迎えるための準備のためマナ達は真琴達を待ちます。ですが待てども来ません。アイちゃんも居ないとシャルル達が慌てて伝えます。さらにエルちゃんもやってきます。息を切らせて亜久里がいないか訊きます。
昨日亜久里から絵を渡されたと話します。大切なお友達の絵。でも突然どうして? 自分の気持ちを伝えたかっただけ、と言い残して踏み台を持って去っていく亜久里。カッコイイんだけどシュールな子です。しかしそれにしてもエルちゃんのカボチャパンツ&黒ニーソの破壊力は凄まじいな。
亜久里の態度に今生の別れを連想したエルちゃんは彼女を捜そうと家を訪ねても居なかったと言います。アイちゃんも不明。これは何か起きている。
トランプ王国。デザートをおかわり。器でけー。不機嫌そうなレジーナ。私の気持ちも知らないで…。前回のことを思い出します。マナに対する嫌悪感はほとんど消えています。自分のことを分かって欲しい。ベールはもうすぐキングジコチュー様も復活するしそうなれば…と暢気そうな声でしゃべります。うるさい!と一喝。誰も自分を分かってくれない。
大きな振動。亜久里、真琴、ジョナサン、アイちゃんが出現。パッドを使えば本拠地まであっという間。ある意味シリーズでも斬新。普通は敵本拠地に行けないんですが。
決着を付けに来た。
そんな話しを受ける理由はありません。しかし王冠を見ると動きが止まります。亜久里は神器を賭けて一騎打ちを申し込みます。なお、パッドは賭の対象になっていない模様。彼女を睨みつけるとレジーナは笑って、その挑戦を受けます。ソファを蹴って槍を取り出します。動きカッコイイ。変身。
ソードとジョナサンはイーラ達を牽制。戦いが始まります。ベールは飴を取り出すとお手並み拝見、と高みの見物。いつものアレですね。この人も懲りないなー。
単純な火力では神器を持つレジーナが上回りますが、戦闘技術ではエースが上。ドラゴングレイブの名のとおり竜を模した攻撃を仕掛けるレジーナ。このまま時間がかかるとエースは不利です。
戦闘によって建物がどんどん壊れていくので巻き込まれないよう待避。戦いから目を逸らそうとするソードに制止の声。ジョナサンが壁を登りながら格好良さそうなことを言います。が、どう見ても戦力的にはお荷物。ソードに手伝ってもらいます。さらにはおんぶされて移動。どんだけ使えないんだ。
ソリティアを訪れるマナ達。砕かれた氷。スペードのカードを見つけます。パッドが出現。
戦闘は継続。ドラゴングレイブを回避しながら体勢を整えるとエースはラブキッスルージュで相殺。クリスマス商戦もあるのでここは魅せておきたいところ。私の友人の娘さんも熱望している商品です。なお、玩具コーナーでは女児の目線の高さにセット版を置いて、単品は上の棚に置くという狡猾でえげつない売り方がされているそうです。
時間制限を知っているイーラ達は勝利を確信。ところがエースはレジーナの前に高速移動すると神器を手に入れたことで時間制限がなくなったことを教えます。構図がカッコイイ。最終決戦なので無制限勝負。ずるい!と抗議するレジーナを無視してミラーフラッシュで不意打ち、エースショットを撃ち込みます。よくよく考えたらエースは神器を2つ使えるんだから有利だな。
レジーナもバカにするな!と反撃。ぶつかる力と力。
衝撃で周囲一体が破壊。エースもレジーナも傷つき倒れます。その惨状を前にしてソードは本当にここまでやらなければいけないのかと疑問を口にします。
「どうすればいいの?」
とりあえず、ジョナサンから降りたらいいんじゃないですかね? なにそれご褒美?
漁夫の利を画策するベール。
「ふたりが弱ったところで全ての神器を奪い取れば俺様がナンバーワンだ」
それ前にも訊いた気がする。
レジーナもろともジコチューに襲わせます。イーラとマーモは文句を言うも助ける気はありません。駆けつけようとするソードもジコチューに足止めされてしまいます。ジョナサンは言うまでもない。
「わたしは…わたしは亜久里ちゃんもレジーナも…どっちも失いたくない!」
「誰か…助けて……マナー!」
③夜空の星が輝く陰で悪の笑いがこだまする。星から星に泣く人の涙背負って宇宙の始末。キュアハート お呼びとあらば即、参上!
天から落ちる閃光がジコチューを蹴散らします。
舞い降りる三人の…生脚! ほっそりしたダイヤ、ちょっと肉付きのいいハート、バランス型で内股がナイスなロゼッタ。これだから日曜朝の女児向けアニメはやめられない!
助けられたソードはダイヤとロゼッタに抱きつきます。先の助けを求めたことは、この1年での彼女の心境の変化を物語っています。プリキュアになったばかりのマナに大切な人を守れるの?と覚悟の甘さを暗に訴えた彼女が、今真実を知り自分だけではこの問題を解決することができないことを悟ります。そして自分が知る限りでこれを解決し得る可能性を持った人に助けを求めたことは、彼女の弱さでもありますが、彼女がこの問題を真剣に考え第三の答えを模索したいという気持ちの表れでもあります。プリキュアは人に頼ることを否定しません。むしろ推奨します。何故なら人と人との繋がりが創造力を生み出すからです。真琴は素晴らしい友達と出会うことができた。
ハートはエースの手を取ります。クリスマス商戦に向けての最後のダメ押し。曼荼羅ビームでジコチューを一掃。
「や、まじ!」
ほんとお前ら大好きだな。
ラブキッスルージュをレジーナに向けるエース。ハートが間に入ります。退く気はありません。運命だと話すエース。戸惑いながらもハートはエースから視線を外しません。
エースは折れると、真実を打ち明けます。
「わたくしと彼女は決して相容れることのできない関係。元はひとつの命。アン王女から生まれた光と影なのです」
④次回予告
だいたい王女のせい。
○トピック
ジョナサンからラスボス臭が消えるともうただの使えない人にしかならないことがわかる回。
どこに物語が行き着くのか全く分からないのは毎年恒例。この1年を締めくくる最後の幕が上がります。
なんかもうお家騒動的な臭いがプンプンしてきましたが、国王も登場するようで、この物語が親子(父子)の問題に収斂して行きそうな予感。大方の予想通りレジーナと亜久里の源流は同じ。はてさて至極個人的な話しに落ち込みそうなこの物語にマナは如何にして巻き込まれるのか、否、マナワールドに巻き込むのか。親と子。敵と味方。友達。愛を求める人々の哀しく暴力的なまでの渇望に終止符は打たれるのか。
人が人を求めるその願いにこの物語はどう応えるのだろう。
第44話「ジコチューの罠!マナのいないクリスマス!」
①分岐路を見据えて
キングジコチューの復活は近いとベールは言います。お久しぶりです。焼きそばパンは買えたのでしょうか。
復活を承知していたレジーナは作戦を進めていました。仰いでいた扇子を使って作戦の要旨をベールに説明。要がない扇子はバラバラ。マナさえいなくなればプリキュアもバラバラ。
なんだかんだ言ってもレジーナはマナを中心に考えている。分断作戦はシリーズでもお馴染みですが、今作では初めてかな。ベールがハートと一対一になるよう誘い込んだことはありましたが、あれは心理的な分断ではありませんでした。レジーナ自身バラバラになることを恐れているからこその思いつきなのかもしれません。彼女がマナ達へ仕掛けてくるのは、名目上は父親の復活を手助けするためでしょうが、同時にマナ達への興味・反発もあるとみられます。誕生日を祝って貰った亜久里に文句を言ったように、彼女の内面は深く傷つき、他者を求めていることが見え隠れしています。
ぶたのしっぽ。気分はクリスマス。飾り付けに余念がないマナ。クリスマスが好きで子どもの頃はサンタになりたかったらしい。貰う方じゃねーのかよ。幸せの王子は昔から王子。今年はみんなでパレードを観に行く予定でマナのテンションが上がります。
見知らぬ人達が訪ねてきます。変装したイーラとマーモ。イーラ頑張り過ぎだろ。マーモさんはケバ過ぎ。生徒会長スピーチコンテストにマナを誘います。キング・オブ・生徒会長を決めるコンテスト。それを訊いたマナは居ても立ってもいられないとばかりに話しに食いつきます。
歴代の総理大臣も参加していたと訳のわからない箔の付けよう。しかしマナは俄然やる気を出します。ところが開催日は24日。さらにパレードの時間ともブッキング。マナはガッカリするとコンテストを諦めかけます。残念がるマナに六花は出た方が良いと背中を押します。今週の六花さんは正妻モード。亜久里達も六花の言葉に賛成。自分達とはいつでも遊べるんだから頑張っておいでよと応援。このコンテストがマナにとって良いチャンスになると考えての気遣い。六花自身百人一首の大会に出場しているのでそこら辺は分かっているのでしょう。六花とマナの関係は当初に比べて立体的になっています。マナにはマナの領分があるように、六花にも六花の領分があって、そうした経験が六花に自立と余裕を持たせているのだと思います。人それぞれにその人の「好き」があっていい。番組開始以来、六花のテーマは自分の気持ち(特に「好き」)を肯定していくことです。
コンテストに出るとなれば準備も必要、生徒会の仕事も六花が引き受けます。マナは六花を抱きしめると恩に着ると感謝。六花さん大勝利!! これを見せつけられる周囲は「適わないな」って思うよね。ずっと昔から見てても動じないありすは本当に凄いと思う。よくあるパターンだとこれはこれで安定した関係だからこの関係を維持したいというのがありますが、彼女達にその不安はない。彼女達に感じる安定感は現状を維持することにあるのではなく、どのような変化にも各自対応できる順応性と信頼にある。
六花は自室で生徒会の資料を広げます。ところで部屋にランドルト環が貼ってある女子中学生ってどうなんだろうな。甲斐甲斐しく働く正妻にラケルが本当にそれでいいのかと尋ねます。本当はクリスマスを一緒に過ごしたいのではないのか。「そりゃあね」「でもこの先高校に行ったり、社会人になったりお互い夢もあるし。いつまでもずっと一緒にいられるわけじゃないからね」。彼女は自覚しています。
また一歩踏み込んできたな。このアニメは女児向けアニメってことを忘れてるんじゃないかと思うくらい先に進むことを躊躇わない。六花の声には現実味と覚悟があります。彼女はマナ達との関係がずっと続けられるとは思っていない。だから今からその予行練習も兼ねてわざと距離を置いて慣れようとしている。本作らしい自立と認識の高さです。本作の登場人物達は頭が良い。
「離ればなれになってもお互い頑張らないと」
彼女がそう自覚している理由には各自に目標があることも関係しています。マナの夢は総理大臣、六花は医者、ありすは父の事業を継ぐ。必ずしもその目標通りになるとは限らないにしても進む道が違うことは明らか。今までのシリーズはこの部分をはぐらかして今一緒に居ることが大事だと言ってきましたが、ドキドキは目を背けない。
生徒会室。書類の引き継ぎ。六花はみんなと待ち合せ前に終わらせると意気込みます。そんな親友の態度にマナは面食らうと「六花~。クリスマス私がいなくて寂しくないのか~い?」と尋ねます。「全然」。書類に視線を向けたまま答える六花。「それちょっと寂しい」「私はね、マナにキングオブ生徒会長になって欲しいの。そのためなら離ればなれでも頑張っちゃう!」。なんという正妻感。日曜朝からニヤニヤが止まらない。
このシーンはふたりの関係性をおさらいする意味でも良いシーンです。普段は六花からのアプローチが多いので見えにくいですが、マナは六花が大好きです。会長に推薦されたときに即座に六花を頼ったのも、プリキュアになったときに一番最初に打ち明けようとしたのも、それだけマナが六花のことを信頼し一緒に居たいと考えているからです。たぶん六花は自分が思っているよりもマナが自分を好きだと気づいていないかもしれません。彼女達の関係性は高いレベルで対等ですが、元々の出会いから言って六花はマナを自分の人生を変えてくれた人だと思っているので、場合によっては自分がマナの足を引っ張るかもしれないと危惧することもあります。六花がマナ離れを起こし始めたのは皮肉な話しですが、この関係性に六花の方が自覚的だったとすれば必然です。六花にとってマナは憧れの人で常に一歩先を行く子。彼女との別れ、彼女が目標へと進んでいくことは時間の問題です。それに気づかない六花じゃない。六花自身が自分の趣味や目標を自覚したことも大きいでしょう。
お互いに頑張る!とふたりは笑います。
②愛を受け取る六花
マナはイーラ達と共にコンテスト会場へ。
生徒会室では六花、十条君、それに真琴がお手伝い。……真琴が手伝っても仕事が進まないと思った人は素直に手をあげなさい。書類に目を通している真琴の頭の上に「?」が浮かんでいるように見えるのは気のせいじゃない。
生徒会長も菱川さんもいつも頑張っていて尊敬すると十条君は言います。冬休みに女の子ふたりに囲まれて、メガネ六花さんと一緒に仕事できるとかボーナスゲーム過ぎる。1時間1万円払ってでも参加したい。
マナ大丈夫かな…と早速マナのことを考え始める六花。真琴にそう指摘され、ラケルにも「愛ケル~」と言われて頬を赤らめます。私はそろそろ鼻血が出そうです。
会場に到着。体育館に入って見えるのは雑然と散らかったゴミと申し訳程度に飾られた「生徒会長スピーチコンテスト」の幕。様子がおかしい。ライトアップ。レジーナが現われます。クリスマスプレゼントを受け取って。檻が落ちてきてマナは閉じ込められます。
よくよく書類を見ると急ぎのものが何個も見つかり十条君はどうしましょう?と六花に相談。相変わらず優柔不断だな。絶対この生徒会マナと六花で持ってただろ。コピーしてくると教室を出ます。メガネを外して大きなため息をはく六花。眼鏡っ娘キャラがメガネを付け外しするの良いよね。このままじゃパレードに間に合わないと頭を抱えます。どれから手を付ければいいのか。なに気にマナの力量が分かる。おそらく優先順位の付け方なんかはマナが上手いのでしょう。あるいはマナが真っ先に何かに手を付けてしまうので六花達はそれ以外をフォローすれば結果して仕事が回る。
書類に目を通した真琴が「これ」と六花に渡します。そこにはマナが書いたメモが貼られています。この事態を想定していたのか六花を励ます言葉が書かれています。よく見るとお弁当が置いてあったり、他の書類にもメモが貼られています。六花を励ますだけでなく頼るメモも。マナが六花を気遣いつつも頼っていることが見て取れます。それはマナの六花に対する信頼であり期待です。「愛してるよ~」
「まったく」
先ほどとは違うため息をはく六花。なんだかマナが傍にいるみたいと真琴が揶揄します。
「ほんと、いつもどおりマナに振り回されてるって感じ」
「でも、なんか」「六花嬉しそうケル」
「(マナ、私も愛してるよ)」
口には出さず、六花は自分の心に染みこませるように言葉を紡ぎます。直接かけられる言葉だけが愛や気持ちを伝えられる手段じゃない。そこにいなくても、そこにいること以上に相手の心遣いを感じることがある。マナの思いやり、信頼、愛を六花は受け取ります。
閉じ込められたマナは変身して脱出を試みますが、檻はビクともしません。私だったら床を抜くかな。
ヨーロピアンパーク。パレードが行われる会場を六花達は訪れます。マナの応援が奏功したのか無事仕事は終わったようです。マナがいないのが残念ですが、いっぱい写真を撮って後で見せようと六花はマナの努力に報いようとします。
ツリーの前で記念写真。ゲームセンターでモグラ叩き(スマイルにもあったアレ)。クレーンゲーム。カエルのぬいぐるみを逃してしまいます。マナなら絶対取ってくれるのに、と思わず口をついて出てしまいます。「六花なら出来る」マナの言葉を思い浮かべると六花は再びチャレンジ。見事成功。
「やった~! 取れたよマナ!」
動きが止まった六花にありすが声をかけます。六花は真顔に戻るとありすの方に向き直ります。ここの動きが凄くリアル。プリキュアのこうした芝居はレベルが高い。ラケルがやっぱり寂しい?と心配。六花は寂しくないと答えてありすに笑顔を向けます。ありすでもこの時の六花の心の動きを読むのは難しいだろうと思います。今、六花は本当の意味でのマナ離れ、より正確に言えばマナの内在化を行い始めています。最初に失敗したときにつぶやいたように、六花はややもするとマナに頼ったり、マナと比較する傾向があります。でもすぐにマナの励ましの声を思い浮かべたように、マナの存在、マナが自分に向ける信頼そのものが彼女の力になってもう一度挑戦させる気を起こさせています。(精神科医の)コフート的に言うと、六花にとってのマナは理想化自己対象です。憧れや理想の人。自分を律して高めてくれたり鼓舞してくれたりする人。通常はマナと一緒にいることによってそれが促されますが、今六花はマナがやるはずだったその役割を自分の中に取り込んで自分で行えるようになりつつあります。これを変容性内在化と言います。専門用語を使っていますが、これは日常的に誰もが行っていることです。「あの人だったらこうする」「お天道様に顔向けできない」。フロイトでいうところの超自我が強化されていると言ってもいいでしょう。一見すると六花はマナへの依存を深めているように見えますが、自立が高まっている証拠です。
上手くぬいぐるみを取れて喜んだときに発した言葉は、マナを求めるためのものでなく、マナに感謝するために発せられたものでした。たぶん、彼女自身自分の変化に気づいてないか、戸惑っているかもしれません。彼女の無表情はそれを表しています。これをほんの僅かな時間と芝居で表現するプリキュアは、やっぱりすげーと思う。ここが他アニメとプリキュアの決定的な差で、この心理描写の細やかさ、丁寧さ、分かりやすさ、機微の描き方でこれに並ぶものは無いと思う。
③愛を口にするレジーナ
その様子を見たレジーナは強がりを言っているだけだと受け取ります。物売りをしている暇そうな店員をジコチュー化。
「めいり苦しみます!」
相変わらずプリキュアの敵はフリーダムだな。ペンキをぶちまけたようにテーマパークが汚されてしまいます。
プリキュアを前にして、レジーナは壊れた扇子と呼びます。わざわざプリキュアのイラストが描かれた扇子を使って説明。芸が細かい。イーラの口真似でコンテストが偽物だったと気づきます。それを知ったダイヤはマナの夢を利用するなんて許せない!と怒りを表します。その反応にレジーナは思惑通りとイタズラっ子のように笑います。マナとバラバラにした理由のひとつには、六花達への嫉妬や腹いせがある。
今度は爆竹攻撃。反撃に転じるソード。ベールにソードハリケーンを放つも避けられます。やっぱり効かない。
ダイヤはレジーナにマナがどんなに頑張ってコンテストの準備をしていたかを説きます。お互いに一進一退。神器を持っていてこれでは、むしろ圧されている。実際、他の幹部やジコチュー達も手こずっています。マナがいなくても強い。
脱出を試み続けるハート。しかし体力の限界。「お困りのようだね、マイスイートハート」。本作で一番胡散臭い人がいよいよ動き出しました。
予想外の抵抗にレジーナは当惑。ダイヤは離れていても離れはしないと言います。意味を理解しかねるレジーナ。
聞き返されたダイヤは一瞬きょとんとした表情を浮かべると、目をつむりながら話し始めます。マナの行為を想像しながら自分達とマナの繋がりを言葉に換えていきます。たとえ傍にいなくても、マナはいつでも私達を想ってくれている。そして自分達もマナのことを想ってる。温かく思いやりのある声で語ります。大切なことなのでレジーナに知って貰いたいのでしょう。ドキドキチームの精神的要はマナで間違いありません。しかしそれは彼女が常に居なければならないことを意味しない。各自が自立して困難に立ち向かえる。そのキッカケやビジョンを与えているのがマナという人物の在り方です。プリキュアをチームとして描けば自ずとリーダーが必要になる。明確にリーダーを置くか、置かないかはシリーズによって異なります。試行錯誤も繰り返されてきました。そうした中で本作はリーダーはいるけどリーダーに依存しないチームを提示しています。それはまさに彼女達の日常の関係性と同じです。彼女達は深い愛情と信頼で自立し依存している。
「だから私達は、離れていても離れはしない!」
「心はいつも」「繋がっているから!」
前回の感想で触れましたが、プリキュアは離別している関係に対して「心は繋がっている」と説明してきました。これはある意味で便利な言い訳です。この言葉にどうやって説得力を持たせるか、本作はマナと六花の関係を用いています。言葉で表すのはとても簡単で単純ですが、その実態がどれほど複雑で難しいか、六花でさえようやくそのことに気づいたほどです。「心は繋がっている」は近年の常套句(テーマのひとつ)になっていますが、本作がこれを終盤に持ってきたのも頷けます。具体的にどういうもので、どれほど深い繋がりがあるのか示すには長い時間と実績を積む必要がありました。
それはレジーナも同じだ、いつだってあなたの心の中にマナはいると呼びかけるダイヤ。この子は本当に変わった。そう指摘されてレジーナはすぐにそれを否定することができません。イーラとマーモもダイヤの指摘に頷きます。いつもマナマナ言っている。
マナも同じ。
「レジーナはどうしているか、辛い思いをしてないか、寂しい思いをしてないか…『もう一度レジーナと話しがしたい』マナはいつもそう言ってるわ」
NS1のフーちゃんの言葉を思い出してちょっとウルっときた(フーちゃんのあの口調は反則)。以前の六花だったらマナのそうした態度にやきもきしたかもしれません。でも今の彼女は違う。自分がマナを好きなことを肯定した先で、彼女はマナやレジーナ達の「好き」も肯定できるようになっています。六花のテーマは自分の気持ちを肯定すること。それが他者の気持ちを肯定することへと昇華されています。私の見立てに間違いは無かった。彼女は好きなものが増えれば増えるほど成長していく。それは素晴らしい資質です。
胸がチリチリするレジーナ。自分が好きなのはパパだけなのにどうして? レジーナの心と連動しているジコチューは倒れます。
「あなたに私達は倒せない!」
「だって、私達マナと紡いだ愛で繋がっているもの」
以前レジーナに自分の方がマナと付き合いが長いと言っていた少女の面影が全く無いほどに、六花はレジーナを受け入れています。私はマナが好き。レジーナもマナが好き。同じ人を好きになった私達もまた理解し合える、一緒にいられる。父との排他的な愛に苦しむレジーナと対照的な愛の提示。人を好きになるのに理由はない。そして好きになることに罪はない。父親とマナを同時に好きになることは正しいことなのだ。この物語はハッキリとそれを示そうとしています。
最後の抵抗とばかりにジコチューを仕向けるも、ダイヤは意に介することなく投げ飛ばします。
相手の目を見つめながらダイヤは単刀直入に言います。
「あなたもマナのことが好きなんでしょ!?」
このシーンだけ見た人は修羅場かと勘違いするかもしれません。
違う、と視線を逸らすレジーナにダイヤは正直に認めろと追い打ちをかけます。
「そうよ! 好きよ!」
「あたしだってマナが好き! 悪い!?」
「それほんと?」
「えっ?」
本人に訊かれてました。マーモとイーラが恥ずいなこれは…と茶々を入れます。顔を真っ赤にするレジーナ。やべぇ、超可愛い。視聴者の子ども達がレジーナをどう見ているか分かりませんが、彼女が意地張ってただけの女の子と理解すれば十分です。ハートの無事を喜ぶ一同。
ハートは確認するように先ほどの言葉は本当かと尋ねます。嘘に決まってるでしょ!とソッポ向くレジーナに駆け寄ると腕を掴んでまた問いただします。ほんとジゴロだなこの子。「ねぇねぇねぇ」と揺さぶります。耐えるレジーナが猛烈に可愛い。りつマナ回だと思っていたらレジマナ回だったでござる。
手を振り払ってうざい!と叫ぶもジコチューは倒れたまま起き上がりません。もはや彼女の気持ちは明白。それでも無理矢理魔力を注ぎ込んで奮い立たせます。クリスマス商戦に向けてのアイテムを出して浄化。
逃げ帰るレジーナの背にハートは今でも友達だと語りかけます。その気持ちは絶対に変わらない。好きって言ってくれて嬉しかった。
レジーナの心が揺れます。元の碧い瞳に。
「つらい…」
思いがけない言葉にハートはハッとします。
「マナのことは好き。でも…パパのことも好きだから…」
「あなたにはみんながいるけど…パパには、あたししかいないもの」
彼女の瞳が元に戻っていることもあって、この言葉は偽りない彼女の本音です。幼い少女の父親を求める気持ち、父親を独りにしたくない気持ち。逆説的にではありますが、この姿を見ると両親の離婚が如何に子どもの心を傷つけるものであるかが伝わってきます。父親か母親かを選べというほど残酷な言葉は無いでしょう。親は唯一無二の不可分な存在。レジーナは決して洗脳を受けているから父親を愛しているのではありません。父親だから愛している。これをハッキリと示し、マナに突きつけるこのアニメの容赦のなさっぷりに私はキュンキュンです。
キングジコチューの声。私の可愛い娘…。まだ言うか、この腐れ親が。レジーナの瞳が紅く染まり姿を消します。
変身を解いてもまだ呆然と立つマナ達。亜久里が話しの向きを変えてよく場所が分かったと尋ねます。元々パレードに行く予定はあったので知ってても不思議ではないような気もしますが。お兄さんのおかげだと言うマナ。
「ひさしぶりだね」
黒いマントを着たジョー岡田。お前黒幕だろ。
④次回予告
最後の神器が見せる真実とは如何に。でもそんなことよりエルちゃんキターー!
○トピック
百合が嫌いな男子なんていません!! ドキッ!女の子だけの大告白大会。もうプリキュアがキングオブ百合アニメでいいよ、って視聴者が思った回。
次回レジーナとエースの真実に近づいていくようなので、個人回は今回で終わりと考えていいかな。これまで述べてきたように、最終個人回の目的は各自が愛を抱き、それを伝え、レジーナが愛されていることを示すことにありました。これは真琴、ありす、亜久里それぞれの境遇や性格を踏まえた上で表現されています。六花も上述したように自分の気持ちを肯定していくことがそのキーとなっています。視聴者が冗談半分に正妻と言ってたら作中でも「奥さん」と言われちゃうほどマナとラブラブな六花ですが、彼女が最終個人回を締めくくりレジーナに伝える最後のキーワードを持っていたのは面白く、また必然性もあります。人を好きになることの素晴らしさと苦さを知っている六花ならでは。
マナについていく格好でプリキュアになった六花が、その後マナと関わらない百人一首に興味を持ったり、将来の夢と自分の感情を深く結びつけていったことはある意味マナ離れの予行練習だったと言えます。自分のやりたいこと、自分にできることがあるならマナにもそれがある。進路の違いで一緒にいられなくなることの他に、精神的な分離がそう遠いことではないと彼女が気づくのは自然な流れです。この最終個人回で再びマナとの関係がクローズアップされて、分離と融合が成される点に本作の洞察とメッセージがあります。
六花は最初マナと敢えて距離を取ることで離れる辛さを和らげようとしました。将来一緒に居られなくなることが分かっているのだから今の内に慣れようとしたのでしょう。マナの成功のために敢えて身をひく。これって実は3話で彼女がしようとしたことと同じです。でもそれはこの物語的に間違った選択です。勿論ずっと一緒にいることはできない。だけどそれがイコール別離ではないし、一緒にいるかいないかの単純な話しでもない。六花とマナが育んだ絆がどのように人の心に作用し、人を変えていくものなのかこのエピソードは語っています。
六花なりの気遣いに対して、マナもまた彼女なりの気遣いを六花に贈ります。自分と同じように相手もまた自分を想っていてくれることを知ったことで六花はマナを身近に感じます。六花がやらなければならなかったのはマナと離れられるようになることではなく、お互いの気持ちが通じ合っていることを知ることでした。この物語の「心は繋がっている」はとても強い信頼感、一度や二度どころか何度でも繰り返される愛情のやり取りを基点としています。六花とマナがこの見本になっているのは、彼女達が10年近くお互いに成長し支え合ってきたからで、まさにそれこそが愛だからです。女の子同士で愛してるとか言い合うと百合っぽいんですが、文字どおり本当に愛なんです。本作における愛とは自己と他者を包括し共に成長していく関係、お婆ちゃんの言葉を借りれば、困った人がいれば手を差し伸べ、共に未来に進もうとする気持ちです。「共に未来に進もうとする」というのがポイントで愛は人を縛って留めるのではなく、その人の可能性を広げ発揮していくことが含意されています。
この愛の絆、継続性はここ最近の流れを補足する点でも意味があって、これまで真琴達が伝えてきた愛情や気遣いが時間、場所を問わず継続していることを補強します。また、親子愛においても同様です。絆について本作は親子愛、友情を同列・同時的に示すことでその多様性を提示しています。
自分が愛されているのだと知り、自分もまた相手を愛しているのだと自覚することで人の絆はより強まり互いに自立していけるようになります。相手に寄っかかっているだけでは依存ですが、相手の期待に応えたい、自分で出来るようになりたい、自分も人々の役に立ちたい、自分のことだけでなく他者にも向けて心を開くとき人は自立し愛を持つと言えるのだと思います。六花がマナの言葉を思い出してクレーンゲームに挑むのもその一つの流れです。憧れの人、大好きな人が、自分の人格形成に大きく影響を与えて糧となっていく。映画でお婆ちゃんが持っていた願いや意思をマナが引き継いだように「誰が言ったから」「誰のようになりたい」が自然と自分の声、自分の姿へとなっていく。ここに人間の共感性、模倣性、つまり愛情と呼ばれる結びつきがあります。
例年であれば心の繋がりは親子関係をとおして表現されるのですが、本作は親子関係を担保にできません。レジーナ親子が愛を失っていること、亜久里と祖母の関係にしても1年だけなので親子関係はモデルにしにくい。そこで質的にも量的にも十分に満たし視聴者が最も馴染みのあるマナと六花をモデルにしたのは彼女達の関係性を昇華する点でも見事なチョイスでした。
六花は26話で見たように憧れや尊敬の気持ちと自分の自発性を結びつけましたが、今回はマナへの憧れ、マナとの絆が彼女に大きな自信と愛を持たせています。六花の物語はこの1年とても初々しく優しく鮮やかに描かれてきたと思います。
長くなりましたが今回のエピソードを纏めると、気遣いや愛情をとおして自立心が高まること、その愛情が人の心を変えていくこと(愛情が人を豊かにしていく)、そして当初はマナの取り合いをしていた六花がレジーナの気持ちを認め後押しするまでになった過程を丁寧に描写しています。人を好きになることは素晴らしいことで、マナと六花の関係を通じて多くの可能性と示唆を提示しています。愛があればこそ、自立できて互いの尊さをより深く感じられるようになります。六花はマナが近くにいなくても、彼女の信頼に応えられる自分でありたいと思うはずです。「私もマナと一緒なら飛べる! どこまでも高く!」その願いが時と場所を選ばず実現していく。
ふたりの関係を大切にしながら正しい方向へと導いてきたスタッフに敬意と感謝を述べたい。これほど絶妙な自立と依存は滅多にお目にかかれません。何度でも言いますが自立も依存も絶対に必要なもので、そこに人の矛盾、苦悩と喜びがあって、ここから何を取り出すかで作り手の洞察と力量、意志が見えてきます。
レジーナ視点で言えば、今回は自分の気持ちを口にしています。それを聞いたマナは「嬉しかった」と答えています。これはとても大事なことです。その言葉がレジーナの心を大きく揺さぶったのは正しい。自分が孤独ではないこと、愛される価値があること、そして自分の気持ちが尊重されること、レジーナの全てを全力で肯定しています。しかしそれがレジーナにとって父との関係を想起させるもので、彼女の苦悩が決して単純なものでないことを再び浮き彫りにしています。この流れは見事と言うほか無い。本当にこの物語はレジーナを救おうとしている。子どもの絶望と渇望、苦しみ、親との関係にここまで踏み込むとか、どんだけこのアニメ本気なんだよ。武者震いが止まらねぇ。
第43話「たいせつな人へ!亜久里の授業参観!」
①老婆と少女
開幕戦闘。ジコチューをいつも通り処理。ブラッドリングもないし通常技で倒せます。元の姿に戻った亜久里は帰り支度。なんかもう部活みたいな体ですね。「亜久里」。その声に亜久里は表情をこわばらせます。祖母がこちらを呆然と眺めています。動揺する亜久里を見ながらしかし祖母の瞳には決意の色が生まれます。
家で亜久里の帰りを待っていると、帰宅したことを告げる声が聞こえてきます。すぐに彼女に声をかけるも拒むように部屋に閉じこもってしまいます。明日の授業参観は一緒に行こうと話題を一旦変えてもダメ。亜久里はどんな顔で会えばいいのかわからないのでしょう。床に突っ伏して迂闊だったと悔います。
時間が経ち、夕食は食べられるかと祖母が訪ねます。この切り出し方はとても大人だ。断られると、今度は単刀直入に気にしているのかと尋ねます。無言の肯定。祖母は打ち明けます。
自分達が出会ったときのことを憶えているか。ハッキリとは憶えていない。亜久里の答えに首肯する祖母。理由は分かっています。「なぜならあなたはその時、まだ生まれたばかりの赤ん坊だったのですから」。なんとなくそんな気はしてた。
自分も知らなかった事実に亜久里は息をのみます。1年前、野点をしていたときに空から何かが竹藪に落ちた。そこに行ってみると赤ん坊が。すぐに抱きかかえると、ついでにジコチューも出現。赤ん坊が発した光を浴びて消滅してしまいます。すると今度は赤ん坊が小学生くらいの姿に急成長。「キュアエース」。謎の声(王女の声)が言います。伝説の光の戦士。どうか見守ってあげて下さい。
という無茶振りにもかかわらず不思議な声に従って見守ってきたと平然と話す祖母。この人のキャパシティすげぇ。亜久里と一緒にいた人達がマナ達であるとも察します。こんな出会いをしているのだからきっと何かが起るのだろうと予期していたのでしょう。むしろ何事も無かったらそれはそれで拍子抜け。年金生活でどうやって中学・高校と進学させるか悩みどころです。
返事が無いことを訝って襖を開けるともぬけの殻。
亜久里は靴も履かず駆け出します。雨が降り出します。
ソリティアから出てくるマナ達。話題は勿論亜久里のこと。六花は茉莉さんに正直に話すべきだと言います。マナは亜久里の意思を尊重して情報開示に消極的。ありすは亜久里の意思を確認した方が良いと折り合いをつけます。明日確認しようと向き直ると視線の先に亜久里が。靴下は真っ黒に汚れています。
顔を上気させて佇む亜久里に傘を差し出して何事かと尋ねると、堰を切ったように泣き出します。六花の肩を掴むと時間を巻き戻す装置とか作れませんか?と訊きます。四葉財閥の力で! アイちゃんの魔法なら! なりふり構わない亜久里をマナがさとします。秘密を知られたこと、自分も知らない事実を告げられて彼女は混乱しています。
マナの家。事情を説明。いきなり10歳に成長したと訊いて「へ~」と地味なリアクションを浮かべるマナ達に亜久里は拍子抜け。本人的にはショッキングなことを言ったつもりだと困惑します。プリキュアになるときにいつも想いの力で成長していると六花がみんなの気持ちを代弁します。亜久里的にはこれ結構ヤバくね!?って感じでもマナ達的には今更。過去の記憶がないって点ではレジーナと同様ですね。
話しを訊いたありすはかぐや姫のようだと言います。最近映画(「かぐや姫の物語」)もやっていますが、かぐや姫はどうも罪人だったらしく要するに島流しにされたようです。具体的にどんな罪かは原作でも触れられていないようです。ベタな解釈では性的なタブーがありますが、結婚適齢期になって帰って行くのであながち間違いではないような気もします。話しが逸れましたが、ドキドキは幸せの王子がモチーフとして使われてもいるので何らかの意味合いがあるかもしれません。穢れと再生(贖罪)は普遍的なテーマでもあります。
質問タイム。以前亜久里はジコチューに負けたと言っていたがそれはいつなのか。実は亜久里も記憶が曖昧で、祖母と会う前らしい。ジコチューに敗れたことは憶えているがどういう状況だったのかは憶えていない。以前その話しをしたときに深く説明しなかったのは祖母との関係がバレてしまうので言えなかったと謝ります。あ、本当に設定に整合つけるんだ、珍しい。てっきりとりあえずそういうことにしておいて、シナリオを進めながら決めていくのかと思ってました(長期連載漫画にありがちな後付け設定。場合によっては無かったことにするみたいな)。前に書きましたが、この手の設定を私はほとんど気にしません。重要なのは物語の文脈や登場人物がそこで何を感じ何を成していくかなので。この感想がやたら心理描写の説明と物語全体の流れに文章リソースを割いているのはそれが理由です。基本的にプリキュアはミクロの話しからマクロへと拡大されていく物語。物語が進んでいく過程で世界が形作られていく。だから年末年始に世界が滅びるわけです。滅びる理由はその作品テーマに由来します。世界が救われる理由も同じ。ここにこの物語のダイナミズム、昇華と飛躍があります。
ところで、亜久里がそうならアイちゃんも何らかの形で彼女の過去と大きく関わっているはずですが今回は触れられていません。王女・亜久里・アイちゃんは何らかの繋がりがある。そこにレジーナも入りそうですが、さて。
自分でも自分の記憶がおかしいこと、何故ジコチューと戦っていたのか、最近見る夢についても疑問を浮かべます。自分自身の記憶を疑い始める亜久里。こうなってくると彼女のアイデンティティーの問題にも影響してきます。自分は一体何者なのか。ある意味で養子として引き取られた子どもに共通する疑問なのかもしれませんが。さて、ここで問題になるのは、彼女と祖母の関係性の再構築です。自分の親が実は血を分けた親でないと知ったとき、あるいは重大な秘密などが露呈したときにそれまであった人間関係が崩れてしまうような感覚に襲われるものです。人間は面倒臭い生き物で、解釈や意味付けなくして関係性を維持することはできません。亜久里はそれが崩れて無くなったと感じています。これ以上祖母と一緒にいることはできない。迷惑をかけてしまう。あの人は私を”わざわざ”育ててくれた人なのだと。人の関係性とは解釈です。相手と距離を感じてしまえばそれまで親しい仲であったものが、余所余所しく義理や借りへと変わっていく。それは自分の価値が代価や負債へと変わっていくことと同じです。自分はここに居てはいけない余所の子なのだと。違う言い方をすれば、亜久里は心の底からべったりと祖母に甘えられないことを物語っています。これは子どもにとって悲劇です。
ちょうど祖母から電話がかかってきます。話しをし終わったマナが今日は泊まっていけと亜久里に言います。祖母の許可は取り付けています。その方が明日の授業参観に抵抗なく行けるでしょうから都合も良い。ついでにみんなもお泊まり。パジャマパーティ。戸惑う亜久里をお菓子で釣ります。
トランプ、枕投げ、就寝。いやいやいやいや、お風呂はどうした? そこ大事なとこですよ!? みんなで並んで寝ます。亜久里はマナと一緒の布団。六花と真琴。ありすは単独。流石四葉、布団を共有するなんてめめっちいことはしません。たぶん朝起きたら六花はマナの隣に居ます。
なかなか寝付けない亜久里にマナが話しかけます。茉莉さんは少しも迷惑だと思ってない。どうしてそう言えるのか。電話で色々頼まれたと答えるマナ。彼女は祖母の気遣いを愛だと捉えている。真琴が頷きます。六花とありすも話しに加わります。茉莉さんと離ればなれになりたいのかと訪ねられた亜久里は「一緒に居たいです」と涙を溢します。
②祖母と孫
授業参観。亜久里を送り出します。
教室には保護者が姿を現して、独特のざわついた雰囲気が教室を包みます。今回セリフはないもののエルちゃんは亜久里の隣の席に座っています。お婆ちゃんが来てるぞ、と級友の声。振り返ると祖母が立っています。
授業のお題は一番大切な人の絵。
レジーナは卒業生が残した絵を見て笑います。マナとの想い出がフラッシュバック。振り払うように絵を消そうと画策。
亜久里の絵が出来上がります。同時に悲鳴。ジコチューが学内に出現。絵を消していきます。みんなと合流して変身。
廊下で戦闘。閉鎖空間でマシンガンを撃ってきます。ダイヤさんの慌てた声(あわわわわ)が面白い。閉鎖空間を逆に利用してバリアで反射。動きが止まったところでソードハリケーン。外に押し出します。
一気にケリをつけたいところですがレジーナが先ほどみんな描いた絵を持っています。それが何かわざわざ説明するエース。それ言ったら余計にぶち壊そうとするよね。案の定レジーナは絵をばらまくとジコチューに消せと指示。エースがそれを拾い集めますが、肝心の自分の絵が消されてしまいます。
泣き崩れるエース。そこに颯爽と祖母登場。くしゃくしゃになった絵を拾い上げると大切な孫が自分のために描いた絵、込められた想いは色褪せることはないと毅然と言い、エースの涙を拭いて感謝の言葉を伝えます。亜久里は祖母の胸に寄りかかります。負債を愛によってぶち壊す。そもそも負債など無い。愛着感情は人の関係を依存的に、馴れ合い的にさせます。だからこそ親しい間柄では我儘や一方的な要求も受け入れられ、甘えたり、甘えさせたりすることができます。このように受け入れられ好意に甘えられることは自分の価値を無根拠に信じることができる最も重要な手段です。
こういった自信や自尊心がキッチリ育たないと、自分の価値を何らかの形で保証しようとするか、そもそも自分には価値がないと思い込むようになる可能性が増します。また逆に、自立心が強ければ強いほど、他者との境界線がハッキリしていればしているほど、他者との関係は取引になりがちです。人間関係を貸し借り、損得の尺度で見てしまう。私は他者への愛着感情が薄いので実際そういう感じ方、見方をする傾向が強い。私は人の愛情を感じまたそれを尊いとも思いますが、それを肌に触れるほどの距離で見たり触ったりすることができません。矛盾するようですが、この矛盾こそが私に活力と創造力、好奇心を与えています。人の面白いところは、歪さを創造力に昇華することができることです。
愛を取り戻すエース。ジコチューを浄化します。
家出したことを詫びる亜久里。祖母は絵に免じて草むしりで許してあげると仲直り。晩ご飯は金平ごぼう。手を繋いで帰ります。
③次回予告
マナ回なのか六花回なのか。両方とってりつマナ回で。
○トピック
小学生どころか1歳だったでござる。
少し専門的な話しになりますが、人間の脳の発達速度は極端に出来ていて、身体能力が十数年かけて発達するのとは対照的に、生後5年経つころにはほぼ完成します。正確に言えば成人したときの脳の大きさと大差なくなり、その後も脳内の神経細胞ネットワークは継続的に構築されていきます。部分によっては30歳を過ぎて熟成するそうです。特に3歳までの親との愛着関係(スキンシップ、信頼関係)はその後の人格形成に大きな影響を与えます。人を信頼できるかできないか、ストレスに対してどれだけ強くなれるか、生理的な反応などこの時期に幼児が経験することはその後の人生の土台となります。このように言うと赤ん坊は甘やかして育てる方が良いと思われそうですが(事実そうなんですが)、過剰もやはり欠乏と同じようによくありません。2歳あたりから第一次反抗期(イヤイヤ期)が始まるのですが、親と適切な距離感、ストレスに自分で対処することを覚えていくので、この時期に過保護すぎるのも子どもから自立心や忍耐力を奪う結果になりかねません。
いずれにせよ、生後数年と短い期間ではあるものの、その期間は脳の発達に大きく影響する期間で、その後十数年を費やしても矯正することが出来ないほどの基礎的資質(性格傾向、ストレス耐性、対人傾向)が作られることが近年の研究によって判明しています。虐待やネグレクトを受けた児童を治療する際に、その子がどの時期にどのような生育環境にあったかを知ることで、どのような愛着パターンが身についているのか、ストレスに対応できる適応力を持っているかを推測し治療プログラムに反映させている医療機関もあります。日本でそれをやっているかは知りません(この分野で日本は遅れている)。
何が言いたいかというと、最初の出だしで人の運命とまでは言わないでも、性格や適応力、知的発達も含めて大きく形作られてしまうということです。これは親になる人、ならない人問わず知って欲しい事実です。しかし決してそこで運命が決まってしまうわけではありません。ハンディキャップを抱えたとしても、適切な対応ができればそれを十分に埋めることだって出来ます。環境だけでなくその人が生まれ持った性質によっても変わります。けど、例えその人の生まれ持った性質が素晴らしいものであっても、そこに愛情を注がないと十分に育つことができないと理解してもらって差し支えありません。そして愛するかどうかは周囲の人々、親、大人、友人達に責任があります。
話しをプリキュアに戻すと、フレッシュ以降プリキュアは親子問題に言及してきました。現実の世相を反映してか、片親や単身赴任といった事象が作中で扱われることも希ではなくなりました。親と離ればなれな子どもに対して、本シリーズは「離れていても繋がっている」と慰めてきました。これは正直に言えば苦肉の言い訳で、そう言うしかなかったのが実情だと思います。長じればそのような信頼関係があることは理解できますが、子どもの身でそれを理解するのはなかなか難しいでしょう。昔は祖父母、叔父叔母など親戚が近くにいたので実の親が必ずしも近くにいなくても面倒を見てくれる大人に事欠きませんでしたが現代でそれは期待できない状況です。周囲の大人の数が減れば減るほど相対的に親への依存度、重要度は上がってくるので、親子の愛情問題はよりシビアで難しい課題になります。プリキュアもこの問題に対して後手に回っていました。
しかしここにきてドキドキは攻めの姿勢を見せています。親がいなくても愛がある、血が繋がってなくても愛がある、人は愛を取り戻せると言っています。このアプローチの違いが本作の特徴を色濃くしています。孤児や養子、愛着障害を抱いている子どもに向き合うのも当然です。親子関係はそもそもの最初から悲劇が起りうる。しかしそこに存在する愛の形を肯定すること、あるいは是正することによって、子どもの価値、愛の価値を示そうとしています。親も一緒に見る子ども向けアニメとしてはまさに王道…を通り越してやりすぎな気もしますが、今まで以上にプリキュアは子どもの可能性、親との関係性、想い(愛)の力を大切にしています。親子関係について言及するならまず最初からやってみよう。その意思表示と受け取ります。
調べればすぐ分かることですが、共依存や機能不全家族は絶望的なほど救いがない。上述したように最初のスタート地点から子ども達は大きく重い業を背負わされます。愛されなかった子ども達が人に愛され、また人を愛するようになっていけるかはようやく専門家の間でも注目されるようになってきた問題で、その治療方法も暗中模索です(例えばうつ病やパニック障害、パーソナリティ障害、離人症、注意欠陥多動性障害など、結果論的に診断されてきた症状の背景に幼少時の虐待やトラウマなどの辛い体験、不適切な生育環境が潜んでいることに着目されはじめたのは比較的最近の話しです)。
これにプリキュアがどう挑むかは非常に興味深いことです。10年前はクラスメイトと友達になっただけの物語が、今では時代の最先端にいる。シリーズを重ねながらより困難な問題へと向き合っていく姿勢に敬意を抱きます。
……ってなことを製作スタッフが勉強して物語に取り入れているかはわかりません。たぶんしてないと思うのですが(失礼だな)、素人の私が見ても本作は子どもの視点や心理をよく見抜いて描写していると思います。これはシリーズ全てに共通する見解です。七面倒臭い理屈を並べなくても、この物語は子どもが健やかに育つことをその骨子として作られていることは分かります。それをただひたすらに真摯にやってきたのだと思います。それに理屈を伴わせるとすげー勉強になるっていうのがこの感想のスタンス。物語はある程度の強度と視座(思考力と問題意識)を持って見るとさらに味わい深くなります。
第42話「みんなで祝おう!はじめての誕生日!」
①親がいない子ども達
襲撃を受けるトランプ王国。何故こんなことをするのか問う王女に「それはお前が一番よく知っている」と問い返すキングジコチュー。この人達知り合いっぽい。7話の回想シーンで王女の表情が少し陰っていたのが気になりましたが、何らかの事情を知っている可能性が高まってきました。永遠の愛など存在しない。キングジコチューは王女に執着があるようです。実は許嫁で、王女がノッポさんといい仲になったんで…とかのドロドロ展開だったらどうしよう。
夢から覚める亜久里。この子と王女には何か繋がりがある。
星座占い。ラッキーアイテムがクマのぬいぐるみと知ってありすはランスに頼みます。が、プイとそっぽを向かれます。何をしているのか問う亜久里に、視線はそのままで星占いと答える六花。先ほどからずっと英単語を覚えています。マナは8月4日しし座。真琴は11月4日さそり座。ありすはふたご座、六花はおとめ座。まるで興味がない六花さん。運命が365パターンしかないわけないだろ、とごもっともな意見。血液型性格トークに絶対入らない人です。私も同意見ですが、私があの手の話しに乗っからないのは単純に話しがつまらないからです。あの手の話しは大抵型に当てはめて終わる。性格について話すのなら、~の傾向を持つ人は~しやすい、考えやすい。関連してこうしやすいというように前後の文脈や、自分は相手とどう接するか、解釈するかといった方向に持っていかないと性格を読む意味がない。占いに普段とは異なる選択肢を与える側面があるなら間違いではないと思いますが、場当たり的で経験として蓄積されにくい気がする。
話していて六花はトランプ王国にも星占いがあるのかと尋ねます。あるそうです。例によって王女は好きだったようです。好奇心溢れてんなー。
そんな感じで星座の話しで盛り上がっているところにマナの母が帰宅。マナは亜久里に何座か尋ねます。途端に表情を曇らせるマナの母。「わかりません」。星座が分からないのかと受け取った真琴が誕生日を聞きます。「ですから知らないのです」。バースデーケーキを食べたことがないが、誰かの誕生日にお呼ばれしてケーキを食べることが希望だと答えます。いや、そこまで訊いてないしそこ重要なとこじゃねーだろ、と思うところですが亜久里はそのままの勢いで帰ってしまいます。本人的には気にした風はありません。
呆然と玄関を見つめるマナ達。母が手招きします。
亜久里は養子だったと話す母。本人も知っている。血の繋がりは無いけど、本当の祖母と孫のように暮らしている。だから普通に接してあげて、とマナに話します。いいね、私のセンサーがビンビン反応しています。
知らなかったとはいえ亜久里に悪いことをしたと反省。戸籍上の問題があるので誕生日そのものはあるでしょうが、自分の生まれについて知らないことに変わりありません。何故そんな大事なことを言わなかったのだろう。疑問に思う妖精に「大事なことだから言えないこともある」と真琴が答えます。
「実はね、私も両親がいないの」
事故で両親を亡くした真琴は孤児として引き取られていたようです。寂しくなかった、王女さまの愛に包まれていた。なるほど真琴の忠誠心はこの頃から端を発しているらしい。憧れや自分を見守ってくれていた人として愛着、憧憬、思慕があったのだと思われます。プリキュアになって王女に近づけたのは彼女にとってまさに夢が叶ったことで、それなのに王女と王国を守れなかったのは非常に苦しいことだったでしょう。話しの都合上真琴の家族を登場させる必要性はないのですが、このように意味付けて整理されると話しの筋と人物の心情が引き締まります。亜久里にしても元々出自が怪しいところがあったし。もちろん、私が注目するのはそんな小手先の設定ではありません。わざわざ養子や孤児の話しを持ってきたということは、このアニメやるきだ。レジーナもそうですが、親子関係や愛情についてこの物語は踏み込む用意がある。
真琴の話しを訊いてウルウルする一同。余計な気を遣わせたくなかったと答える真琴。どんなに親しい友達でも言えないことがあるとありすも相づちを打ちます。面倒臭いしね。イチイチ自分語りされても相手も困るし。マナが力みながら俯きます。ああ、いつものアレですか。
「だったらお祝いだー!」
ですよねー。
誕生日がわからないならいつお祝いしてもいい。本人にバレ無いように明日決行。即決即断。
②愛される子ども、愛されない子ども
王女の部屋でレジーナはボケーっとしています。死んだ魚の目と評するイーラ。前回前々回の出来事を思い返してため息を溢します。「マジでだるいわ」「風邪か?」。違うと答えるレジーナにバカは風邪を引かないと減らず口を叩くも、レジーナは興味なさ気。普段だったらお仕置きしてきそうなものですが。
マーモがプリンを持って部屋に入ってきます。それには強く反応。プリンを食べたマーモにお仕置き。いつもの調子が出始めたのか、槍を担いで人間界へ。イーラも引っ張っていきます。たぶん、レジーナは段々億劫になってきているのでしょう。マナ達と会うことは彼女に何かを呼び起こしてかき乱す。
膝を付くマーモ。なんかつぶやいてますがたぶん「やまじ」って言ってます。イーラもそうですが、ジコチュー組は「やまじ」ブームなのか。
またあの夢。泣いているということはあの出来事は辛い出来事なのかもしれません。そうであるなら王女が氷漬けになって出てこないのもある種の引き延ばし、触れたくない事実がそこにあるからなのかもしれません。しかしそれにしてもプリキュアは王女が一枚噛んでいることが多いなー。
物音に気づいたのか祖母が部屋を訪ねます。
暖めたミルクを淹れた祖母は心配事があるのかと尋ねます。毎晩同じ夢を見て眠れない。そう話す彼女に祖母は自分もあなたが大人になった夢を見ると答えます。それを訊いた亜久里は真っ先にエースのことを思い浮かべます。白いドレスを着て、お化粧して、きっとウエディングドレスだと話す祖母。亜久里は祖母の膝にすがりつくと、自分は結婚しないずっと一緒にいると子どものようにダダをこねます。いずれ旅立つときが来ると静かに言う祖母。なんでプリキュアのお婆ちゃんはこんなに大人なんですかね。
一緒に寝たいと話す亜久里を祖母は受け入れます。レジーナとは対照的。もっとも素の性格では亜久里の方がジコチュー的なのが面白いところなんですが。亜久里は祖母に秘密を持っています。それはもしかしたら彼女に罪悪感を抱かせるかもしれません。自分の全てを受け入れてくれる人への裏切りなのではないかと。次回どうなるやら。
亜久里がスーパーに立ち寄ると真琴とダビィを発見。ケーキの材料を揃える真琴。「こんにちわ」「ギク」。真琴は自分は剣崎真琴ではないと分けのわからないことを言ってその場を立ち去ります。流石真琴、頭悪いわー。
今度は花屋の前でマナと六花を目撃。バラを買おうにも予算が足りない。話しかけると、これまた避けられます。
家に帰るとありすとセバスチャンに出会います。エンカウント率高ぇ。「ギク」。ありすが慌てる姿は珍しい。言葉に詰まったありすはセバスチャンに無茶振り。車内でパンケーキを食べようとしたところ、蜂蜜が切れていて、円家に立ち寄り借りていた。蜂蜜ないハチミツない、ミツないミツない、ないミツ。内密! これを即興で考えた頭の回転に感心したいのはやまやまだけど、それはねーよ。誤魔化して帰って行きます。
みんなおかしい、と不思議がる亜久里。買ってきた食材を取り出します。あの一件以来ニンジンはOKになったようです。
祖母が夕食は外食にしようと話します。買い物をしてきたばかりなのに。用事ができた、6時にぶたのしっぽ邸と告げられます。何か怪しい。
そう思った亜久里は時間より早く来て中の様子をうかがいます。風呂敷をほっかむりしていますが、どう見ても不審者で補導されかねません。小学生のセンスじゃねーな。
ぶたのしっぽ邸では亜久里の誕生会の準備が着々と進められています。人の手が足りなかったのかシャルル達も人の姿になって飾り付けを手伝います。
何故?と訝る亜久里に喜んで貰いたかったからだと祖母が話しかけます。さあ、中に入ろうと促します。ただし知らない振りをしなければならない。目配せする祖母に亜久里は笑顔で頷きます。
誕生会を始めます。メンバーはいつもの。エルちゃんが居ないのが惜しいですが、次回再登場するでしょうか。ロウソクを吹き消して、初めてのバースデーケーキを味わいます。
ぶたのしっぽに来た一般のお客さんが今回のターゲット。
ジコチューが襲撃。上手い具合にマナの家族が石化。レジーナはマナが読んでくれた眠れる森の美女を引いて、自分の犯行を説明。ケーキを食べ損なった魔女。誕生日を祝って貰ったことがない子どもがふたり。ひとりは今日初めて祝ってもらい、もう一人はそれをぶち壊すとかせつねーな。
祖母を亜久里に任せて変身。
祖母を外に連れ出すと、亜久里はマナ達と一緒に化け物を食い止めると言います。孫の言葉に従いつつも、別れ際彼女を抱き留めます。変身。
ジコチューを蹴り倒して場外へ。決めポーズで登場キュアエース。人の家の壁をぶち抜くわ、カウンターに堂々と立つわ、この人が愛を語ることに疑問を抱くのですが、指摘したら蹴り倒されそうなので誰もそう言わないのだろうと思います。
床に落ちたバースデーケーキを見たレジーナは苛立つと槍で突き立てます。エースに斬りかかります。
「みんなと一緒にバースデーケーキなんか食べたりして、自分がいつも主役のつもりなんでしょう?」
本音が漏れます。この子が言うと洒落になりません。機能不全家族、子どもが親のために働かなくてはならない家族では子どもは主役になれません。その役を親が取ってしまうか、与えないからです。言うまでもなく彼女達は祝福されません。されたとしても必ずといっていいほど条件が付くでしょう。~できたから、良い子だから。レジーナから見れば亜久里は甘やかされて、チヤホヤされていると映るでしょう。
ところで話しが変わるのですが、よく「辛い経験をした人は人の痛みが分かる」と言われますが、それは誤認とまではいかなくても甘い認識だと思います。辛い経験をした人が、人に辛くあたることは往々にして見られることです。何故か。彼らは同情や思いやりがないのか。そうではない。まず基本的に人は自分が体験したことを正当化する癖があります。例えば、今では無くなりましたが私が会社に入社したころ、新入社員が朝一番に来て机拭きをするのは当たり前だと思われていました。部活などでも見られるように「下の奴が雑事を行う」ことに多くの人は同意か黙認しています。躾けにしてもそうです。体罰を行っても道徳や倫理を育てることに貢献しないとする研究結果もあって専門家でも体罰に否定的な人はいます。しかし現実には私自身も含め、場合によっては痛みを与えて教えるのは必要だと思っている人は多い。これらの担保は「自分がそうされた(した)」からです。やらされた、やった、それを経て今の自分がいる、問題なかったのだから別にいいだろ、俺もやったんだからお前もやれよ。辛いことを経験すればするほどその人は残酷になれると言われても私は不思議に思いません。自分の痛みが強ければ強いほど、人は他者の痛みに鈍感になり、またそんな自分を正当化する傾向がある。勿論全ての人がそうだとは言いませんが、そうした葛藤、合理化、誘惑を人は抱きやすい。身も蓋もなく言えば、人は他者の痛みを本当に分かることなど出来ない。それを知っている人は、下手な慰めや励ましなどせずただその人を受け入れるのかもしれません。
レジーナの跳び蹴り。いい蹴りです。マナが割って入ります。「マナ!」。レジーナの声はやはりマナに対してどこか肯定的だ。ひとつの命が生まれてくるのは奇跡なんだ、あなたも私も亜久里ちゃんも。それをお祝いしたいと思うのは当然のことだとハートは言います。前回の流れを引き継いでいます。前回ありすは命そのものを肯定しています。マナはその命の誕生を祝福しようとしている。それは命は等価で、祝福されるべきもので、愛されるものであるという意思です。愛されなかった子は罪や穢れを抱いていることが多い。そうした子ども達を救うロジックはひとつしかない。「あなたに罪はない」「あなたが愛されなかったのは事実であるが、あなたに愛される価値がなかったのではない」ことを信じて貰うことです。自尊心とは命そのものの肯定です。その自尊心から愛が生まれるのだと私は思っています。
胸がジリジリするレジーナ。連動してジコチューも弱体化。大嫌い!と叫ぶと同時に放たれたハートへの攻撃をエースが庇います。反撃開始。イーラはダイヤが足止め。「や~まじ~」。どんだけ身内ネタなんだ。最高額のアイテムで浄化。
祖母がおまわりさんを連れてやってきます。しかし何もありません。プリキュアがやってきて退治したと亜久里が答えます。誕生会の続きを始めます。
③次回予告
まさかの2連続。
○トピック
情報が開示されてきました。アイちゃんの疑似親子関係を経て、血の繋がらない家族、孤児を持ってくる本作はどこまで踏み込むのか。
前回の感想でも触れたように、最終個人回の目的、方向性はほぼ定まっています。また、それに合せてその先も見えてきました。
ここ最近の個人回は終盤に相応しい成長が描かれています。マナの感受性や洞察、真琴の一生懸命さ、ありすの包容力。ドキドキは彼女達が持っている何気ない気持ちや性質が愛として昇華しうることを見せることで多様で多層的な人の愛を映し出しています。真琴だからこそ、ありすだからこその愛し方、伝え方を見せています。それぞれの長所が活きつつ、愛の形が明確になっていく。それは私達一人一人に愛があり、形は違えど人を愛し、人を豊かにしていける力があることを伝えています。
元々マナ達は高い自立性、コミュニケーション力を供えていて、友情から生まれた自信と経験、意思、決断力を持っています。ややもすると高スペックぶりが目立ちますが、私が感じる彼女達の強さは地頭の良さ、認知、変化・柔軟性です(現実把握と対処力がある)。要は、生徒会長だとか、お金持ちだとかアイドルだとかはさほど重要ではなく、安定した、そして変化にも耐えうる関係性と自己肯定感こそが彼女達の才能を引き上げているのだと私は見ています。自信、自尊心を持つことはある意味で人を愛すること以上に重要です。自信を持つことでより重く苦しい現実にも耐えていけるし、己の決定と責任を背負っていけます。5つの誓い、アイちゃんの子育て、この物語は一年かけて彼女達にその自覚を持たせ成長させています。
フレッシュ以降、プリキュアは他者を認め、友達を作り、自立してきました。それは大雑把に言えば「他者を受け入れる」ことでした。ここでさらに「他者に与える」ことへと進んでいるように見えます。自立の先にあるのは、愛を与えること、贈り物をすること(スマイルの最終回で書きましたが、私は人に優しくすることは「贈り物」だと思っています)。それは親が子を育てるような愛情に近いのかもしれません。見返りを求めずさりとて一方的でもない。勿論、全てを受け入れ全てを愛するのは難しいし現実的でもない。ですが、他者との健全で愛情深い信頼関係が人の幸福にとって重要なものであることは確かで、マナが示す幸せの王子のように愛の種を蒔くことが必要なのも事実です。
健全な関係が健全な愛を、健全な愛が健全な関係を、人の愛は贈り物によって大きくなっていく。女児向けアニメの面目躍如ですね。愛を個人の才能や資格に求めることなく、創造していけることが証明できるなら、それは人の豊かさを示すものになるでしょう。
レジーナの存在はその試金石です。レジーナが登場した時からこの子は物語の中心にいると感じていましたが、今はさらに強く感じます。初登場時のレジーナと今のレジーナは同じではありません。22話で一旦ジコチュー側に戻った彼女はリセットされたわけではなく、むしろマナ達との想い出(の影響)が残った状態で登場しています。それは言うなれば、中途半端な形で愛を引き裂かれた子どもと見ることができるでしょう。彼女は愛情や人との結びつきが極端で偏っています。再登場後のレジーナがマナを気にかけていることは明らかですが、見方によってはマナを試しているとも取れます。自分を構って欲しい、あるいはどうせ自分を捨てるんだろうと諦めている子どものような、そうした不信感、苛立ちをも連想させます。
一度も愛されたことが無い、あるいは途切れた(裏切られた、見捨てられた、自分の気持ちが蔑ろにされた)経験は人の心を蝕む辛い原体験となり多くの禍根と問題を残します。子どもが愛されるのは当然のことです。それが踏みにじられることに多くの人は怒りや哀しみを抱きます。ドストエフスキーは小説の中で虐待された子どもの例を用いながら子どもの魂が救済のための代価として支払われることに納得がいかないと無神論者に言わせています(「カラマーゾフの兄弟」叛逆の項)。子どもの命とはつまり純粋な命、魂を象徴するものです。子どもの命、子どもへの愛は、命そのもの、愛そのものへと辿るアプローチです。プリキュアは例年終盤戦のテーマがロジカルなのですが、本作はそれに加えて現実的な手法で答えようとしています。いやーもう、テンション上がります。人間の奥深くに踏み込んでいく物語を見ると血が騒ぎます。
そこに命がある限りそこには愛がある。それを証明するのがプリキュアの戦いです。人が持つ、人の誇りと力を全力で肯定し証明する。友達との関係から人間賛歌へと拡大していくこのダイナミズムこそプリキュアの醍醐味であり、終盤戦の見所です。
第41話「ありすの夢!花がつないだともだち」
①お花屋さん
庭の花に水をやるありす。実は園芸部らしい。本当に学校行ってたんだ。幼い頃の夢はお花屋さん。今の夢は?と亜久里に尋ねられると一瞬躊躇った後に「お父さまのお仕事を継ぐことになっていますので、その夢は叶えられなくなりました」といつもの微笑みを浮かべます。彼女は自分の将来について積極的に肯定しているとは言い難いようです。
ありすの言葉にマナは一計を案じます。
思い思いの品を公園に広げる人々。今日はフリーマーケット。そこに出店するありすのお花屋さん。一日だけでもありすの夢を叶えようというマナの粋な計らい。ありすも素敵だと喜びます。ありすは常識破り(主に経済的な限界突破)なところがありますが、発想的な面ではやはりマナのこうした柔軟さは彼女にとって大きな刺激と尊敬を与えていると思われます。
コスモス、ゼラニウム、シクラメン、店に並んでいる花を見た亜久里はもっと華やかな花を揃えた方がいいんじゃないか?と物足りなさを感じます。確かに並んでいる花はどれも地味。しかしありすは季節の花の良さを説きます。
頭の悪そうな高笑い。六花の表情が視聴者の心中を語っています。初対面の亜久里がどなた?と尋ねます。六花が禁句とばかりに反応。六花のこういうリアクションと頭の回転の速さは好きです。よくぞ訊いてくれましたと言わんばかりに五星麗奈は名乗ります。ありすが出店すると知って対抗心を燃やしてきたようです。温室で育てた花を使ってありすに挑みます。
麗奈の超☆高級花セレブ。季節感の無い花が並んでいます。オーナーの性格が出てるな。
ありすは麗奈さんと一緒にお花屋さんができて嬉しいと喜びます。しかし麗奈はフンっ、と鼻を鳴らしてしかめっ面。ありすは素直に喜んでいるのだと思いますが、どこか嫌味に聞こえてしまうのはこちらにやましさや素直さが足りないからでしょうね。麗奈も同じだろうと思います。13話を思い出していただくと分かりやすいのですが、基本的なスペックで麗奈は決して低くありません。単純にありすがほぼ全ての面で上回っているだけです。ところがありすはそれを鼻にかけたり、自慢したりしないはずです。いつもの微笑みと余裕で自然に佇む。そういう子。プライドが高い麗奈からすればそれはとても悔しいことですし、見方によっては自分が歯牙にもかけられていないとも映るでしょう。いっそありすからまた私が勝ちましたねと言われた方がせいせいするでしょう。麗奈から見ればありすの態度は嫌味、あるいは自分への無関心に見えてしまうのも無理なからぬところです。麗奈は自己愛的で他者の賞賛を欲しいと思っています。それは自分を理解して欲しい、自分を受け入れてくれる友人が欲しいという願望にも繋がっています。こういう子は得てして分かりやすい愛情表現を他者に求めます。ありすのような自然に相手を受け入れたり、察したりするような控え目で大人な愛情表現を理解していない可能性が高い、というか理解していないでしょう。ありすが超然とした態度をとればとるほど麗奈は気後れしてなんとか彼女の注意や歓心を買おうとこんな不毛な戦いを続けていると考えられます。人間って面倒臭いね。
午前10時を過ぎて、人通りも多くなってきました。恋人のプレゼントにと花を買い求める男性。ゼラニウムを勧めます。最初のお客さんに期待を膨らませるマナ達。そこに麗奈が割って入ります。超高級なバラを市価の30分の1で売るという金にものを言わせた商売とすらいえない自爆テロを決行。完全に嫌がらせです。案の定男性客はそっちに取られてしまいます。高価な花を激安で売るなんてズルいと不満を言う六花達。肩に手を置いて並んでいるの可愛いね。こういう時にマナが平然としているのはらしい感じ。直接的な嫌がらせでなければ人を煙たがったりはしません。ありすは流石麗奈さん、いつ見ても本当に綺麗な花だと褒めます。麗奈の花に対する情熱は本物で、これはありすも一目置いています。ありすの評価に拍子抜けしつつももっと褒めて、と要求。わかりやすいなーこの子。
お昼を過ぎます。客が寄りつきません。隣の花屋はバーゲンセールのように客が押し寄せています。実際バーゲンなわけですが。
あっちはあっち、こっちはこっちとばかりにマナは頑張ろうと気持ちを上げます。彼女は現実主義的な傾向が強いので現状の中で最善手を考えるタイプというのが私の見立てです。奇跡(分の悪い賭け)に頼ったり、人を支配(操作)してどうにかしようとはしません。
花屋の前をくたびれたサラリーマンがとおります。ありすの声に気づいて足を止めます。興味なさげな態度を取りますが、ありすの可憐さに気づくと花に目をやります。ちょろい。コスモスを購入。初めての買い手にマナ達は喜びます。ありすの接客態度は麗奈と対照的で、押しつけがましいところはありません。お客さんが寄ってきたら助言をする。これはありすの普段の態度にも言えることです。逆に言えば彼女が自分から何かを得ようとするのは珍しい。
お花屋さんは花と一緒に愛も届けているのかも、と真琴が言います。今週のお題。マナはレジーナにそんな花を贈りたいと言います。
花なんて要らない。レジーナ登場。自分より美しいものは許せない。ブレないな、この子も。姿を消します。
フリーマーケットのせいで公園は人だかり。せっかく持ってきたラジコンで遊べず不満を抱く少年。花なんて枯れてしまえばいい。つけ込まれます。
②愛の芽
突然花が枯れ出します。先ほどのサラリーマンの心の花が枯れないか心配です。
ジコチューの仕業かと疑いますが気配が感じられません。枯れた花を見つめていたありすは、若葉が残っていることに気づきます。隣の店から泣き声が聞こえてきます。がっくりと膝を付いてうな垂れる麗奈。彼女の花に対する愛情は本物。ありすはすぐに駆け寄ると植木鉢に視線を走らせ探します。若葉を発見。まだ再生の可能性があると麗奈に話しかけます。このシーンで私が真っ先に連想したのは人間の再生です。全体としては枯れて、醜く歪んでしまってもその人の中に愛情の芽、小さくとも何かしらの可能性が残っていればその芽を育てられる。これは理想論や綺麗事ではなく事実です。虐待やネグレクト、過剰で歪な愛情によって人が幼少期から大きなハンディキャップや不健全な価値観を持ってしまうことは事実であり、今後その認識は一般により浸透していくでしょう(子どもがトラウマを抱える。育て方が悪いと大きな人格障害にまで至ると認識されるようになったのは実は最近のことで、四半世紀過ぎていません)。では、そこからどのような再生がありうるか、どうすればその歪みや遅れを正せるのか。関連する本を読みながら私自身ようやく希望が見えてきました。この感想でよく心理学的な知識をひけらかしますが、これはプリキュアを見ているとそういうことをもっと知りたくなって、本を読んで、感想にフィードバックしてまた本を読んで……を繰り返すためです。私にとって感想を書くことは、勉強すること、好奇心を満たし自分の思考や知識を纏めていくことと同義です。ただし感想そのものは散文です。
応急処置をすればまだ間に合う。根を水で綺麗に洗って、枯れていない根だけを残して株の負担を減らす、新しい土に植え替えて水をあげる。あとは再生するのを信じて待つ。水を愛に読み替えるとわりと本当に人間に対する処置と同じになります。麗奈はなんで?とありすに疑問を抱きます。いつも意地悪しているのに。自覚があるようです。この応急処置の仕方は麗奈さんが教えてくれたことだとありすは答えます。初めて出会ったそのときから麗奈の花への愛を知っていると微笑みます。
五星ローズガーデン。ありすが話しかけます。花は自分を美しく飾ってくれる。だから大切に育てていると麗奈。ある意味潔くてカッコイイな。ありすは持っていたガザニアを出しだして見せます。元気がありません。それを見た麗奈はこのままでは枯れてしまうとありすに応急処置の仕方を教えます。ところでなんでガザニア? 正直その名前初めて聞いたんですけど、と疑問に思ったので花言葉を調べると「あなたを誇りに思う、身近の愛、潔白、きらびやか」「笑顔で答える」とのことで、なるほどありすらしい。
その出会いから麗奈さんは自分の大切な友達だとありすは言います。
その言葉に麗奈は、自分の気持ちを認めます。友達が欲しい。ありすに背を向けて泣きます。派手さを好む麗奈には分かりづらかったでしょうが、ありすは昔から麗奈を友達として認め接しています。それは彼女が話したように、麗奈の言葉をずっと憶え、花へ愛情を注ぐ彼女を尊敬していたことでも証明されています。この、愛情表現が人によって違うことは意識されにくい事実です。表現方法もさることながら、それを愛情だと感じる感受性、認識も大きな壁です。自閉症の人が往々にしてみせるロッキング(身体を揺らしたり壁に身体を打ち付けたりする)は普通の人からみれば異常で不気味な行動ですが、自閉症の人が感覚過敏でそのノイズを打ち消そうとするために行う対処法だと知れば受け取り方は大分異なるでしょう。人がやることには全て意味があるとは言いませんが(人は非合理的で思いつきや衝動も多い生き物なので)、その行為が何らかのシグナル、反応や要求(その背後に何かの問題が隠れている)であることは常に頭の片隅に残しておきたいことです。っていうか、この感想さっきから感想じゃなくて解説になってるな。
「涙はね、嬉しいときにも出るんだよ」
③この飛行機、ひとり乗りなんだ
さて、こんなクドイ感想は終わり。綺麗なAパートも終わり。ここからが四葉財閥の出番です。
セバスチャンが枯れた現象の原因を突き止めます。四葉の人工衛星が成層圏上に佇むジコチューを発見。高々度からのジャネジー攻撃。レジーナの仕業です。気配を感じなかったのもこのせい。止めないといけませんが方法が無い。ところで先ほどからやたらこの子達は肩に手を置いてますね。いいぞ、もっとやれ。
「ひとつだけ手があります!」
知ってた。
麗奈さんの花も必ず元に戻してくると別れを告げます。
地下格納庫から飛行機が登場。パイロットはありす。飛行機の操縦もできるのかと初めて知る六花。きっとハッピーロボの操縦も難なくこなせると思うよ。
マナも一緒に行きたいところですが、この飛行機は一人乗り。単独で戦場へ向かいます。これはありすの友情と愛の戦いです。離陸。残された麗奈は空高く舞い上がる一筋の雲を見つめます。
一言だけ言いたい。色々おかしい(と友人にメールしたら、友人も同じタイミングで「いろいろ酷い」と打っていた)。
④そこに命がある限り
成層圏に達します。目標も発見。オートパイロットオン。キャノピーが飛んで脱出、ってお前どうやって帰る気だよ。変身。
ジコチューに飛び降ります。レジーナは来たのは黄色かと落胆。割とメタな発言のような気もします。人間は花を見ると元気になる。何故だと思うか。知らないと答えるレジーナにロゼッタは「そこに命があるからです!」と決然と言います。先ほど応急処置を施した若葉を見せます。
「花は枯れ果て、残ったのは小さな葉っぱだけです。でも…それでも、必死に生きようとしています。その姿は花と同じくらい美しいと思いませんか?」
たぶん、必死に生きているという意味ではレジーナも一緒だ。枯れたり、栄養剤を入れられたり、当て枝をされたりしながら人も生きている。
「レジーナさんの中には美しいものを素直に美しいと感じる心があるはずです」
「私はそう信じています!」
王女を見たときにレジーナは綺麗な人だと言っていたし、歌や花を枯らせようとするのもそれらが人間に何らかの影響を与えると知っているからです。前回彼女は人の心は強いことを認めています。彼女の感受性は我々と異なるものではありません。
「受け取って下さい! この愛を!」
瞳の色が青に戻りかけます。頭を振ってわき出る感情を抑え込むとそのまま戦闘突入。
植木鉢を守りながら戦うのは不利。攻撃を受けてロゼッタは地上目がけて落下。心中でロゼッタは麗奈に詫びます。コスモスの花言葉は乙女の純真、真心。
「(そこに命がある限り、諦めては、いけません)」
プリキュアが始まった当初、それは戦う少女の生命力や友情の力を証明するものとして発せられていました。しかし今はそれだけではありません。戦う相手のために発せられる言葉へと変わっています。自分の命を燃やすのは当然として、相手の命にもその火を灯したい。
ロゼッタの背中に羽が生えます。ハート達が駆けつけます。麗奈が飛行機を使って輸送したようです。どうやら麗奈に事情を説明したらしく麗奈はロゼッタがありすであることを知っています。友のためなら世界の果てまでも飛べる。切替え速ぇ。金持ちは中学生で飛行機の操縦免許を取る決まりでもあるのでしょうか。それはそれとして、麗奈さんはきっと「何十年も経って、あなたがダイアモンドプリンセスからダイアモンドクイーンになったころ、きっと私、アメリカ大統領夫人になっている」みたいなこと言いそう。ちなみに私はこのセリフが大好きです。誇りと敬意が同時に表された名言だと思います。
麗奈にお礼を言うありす。麗奈は自分の過ちと気持ちを素直に認めます。意地悪していたのは友達になりたかったから。ありすは最初から受け入れてくれていた。麗奈は泣きながらハート達に友達を託します。矜持を持つ人はかっこいい。
レジーナはマナを呼びます。話しを聞いてくれる? 喜んで傍によると攻撃をしかけてきます。バリアでガード。
戦闘再開。ロゼッタを庇うダイヤが超イケメン。もしかしたらりつありには無限の可能性が…!
などとどうでもいいことを考えていたら、エースがルージュを構えてレジーナに接近戦を仕掛けます。おい。それそういう武器じゃねーだろ。武闘派のエースさんはブレない。でも返り討ち。ジコチューも弾岩爆花散(このネタ30代にしか通じねー)を使ってプリキュアに範囲攻撃。
追撃で繰り出される特大の種をバリアでガード。エースがそれ以上力を使い続けると生命エネルギーまで失われてしまうと危惧します。なにそれ。そんなあぶねーことできるの? オーラブレードみたいにひょろひょろになったりするんでしょうか(ダイの大冒険ネタ好きだな)。
守るだけで何も出来ないと皮肉るレジーナ。あぐらかいているの可愛い。
「花はそこにあるだけで、人々を笑顔にします」
「マナちゃんや麗奈さん達は、私にとって花と同じ。ならば私に出来ることは、全力で、その花を守り抜くことです!」
彼女は六花のように守るために攻撃するタイプではなく、守るために守る人です。サポートしたり居心地のいい場所を作ったり常に他者との関係や距離を調整して快適な場を作っている。それは当初から全くブレずに続いてます。それが彼女の愛情表現で、伝え方なのだと思います。前回の真琴の歌、今回のありすとそれぞれの愛情表現、伝え方、愛の継続のさせ方をハッキリと示しているのには大きな意味があります。
「そして、レジーナさんも守るべき花の一つなのです!」
人それぞれに、それぞれの愛し方、意思があり、誇りがある。決してこの世界は誰か一人の愛だけで成り立っているわけではないし、愛が一つだけと限らない。パイの取り合いをしなくても、その愛は自分達で生み出していけるのだとこの物語は示しつつあります。愛は創造である。
レジーナにコスモスの花言葉を贈るロゼッタ。
「その心は愛に溢れています」
特大サイズのバリア。その力を受けて、コスモスの芽は急速に成長して花を咲かせます。レジーナの黒いプシュケーに光の芽が生まれます。この描写上手いな~。ジコチューの種は割れて無くなります。最大火力で浄化。
街に花が戻ります。サラリーマンが一番喜んでいそう。
お互いに花を交換しあうありすと麗奈。赤いバラの花言葉は「情熱」「愛情」だそうでこれも分かりやすい。
ありすは新しい夢を持つことが出来たと言います。漠然と人々の笑顔を守りたいと考えていたけど、大いなる愛の力が必要。か弱くてもそこにいるだけで人々を笑顔にする花のような存在を愛の力で守り抜く。そのために四葉財閥をさらに大きく育てていく。次期当主の決意にセバスチャンは感激して涙を流します。愛の力なのか金の力なのかは分かりませんが、これで四葉財閥は安泰。
いつか愛の力でレジーナを。物語は佳境へ。
⑤次回予告
そう思っていた時期が私にもありました。
○トピック
毎週、本編を見るとああ最終決戦近いんだな~と思わされるのに、次回予告が全くそんな気配を見せないのはどういうことだ。
一発キャラかと思っていた麗奈の再登場と仲直り、将来に対しての能動的な捉え方、レジーナの愛の芽吹きと色んな要素が1話に詰まった美しい回。
前回今回とやっていることのポイントは、個々人が信頼と愛情を持ちそれをレジーナに伝えることです。これはとても重要なことです。マナ達の友情関係がとても高い自立と依存のバランスによって成り立っていることはこれまで触れてきましたが、そうした安定した関係性は安定した愛情や信頼によって形成されます。マナ以外のメンバーにも能動的で安定した愛情があることは、愛情が一過性だったりムラがあるようなものではなく、安定していてまたそれが多くの人が持つ力であることを示す点でも意味があります。
人の肯定感、自尊心とは深い愛情と質の高い人間関係によって育まれます。その信頼感は他者に接するときの前提になります。身も蓋もなく言えば、人を愛するには人から愛された経験がないとできない。しかもその愛し方は人それぞれで必ずしも同じとは限りません。積極的な愛情、受動的な愛情、歌、花、言葉、行為。多様な形を取る。こうした愛情表現を通してレジーナは自分が人に受け入れられている、父だけが愛を持ち、父とだけの愛が全てではないことに少しずつ触れています。
これは麗奈のようにすでに愛されているのにそれに気づいていない、という場合もあり得ます。しかし愛情を持っていても相手に伝わらなければ自己満足です。ありすはその意味で積極性に欠け、麗奈に適切に伝えることが出来ていませんでした。誤解の無いように言いますが、麗奈とありすどちらが悪いかを問題にしているのではありません。人の想いとは複雑で駆け引きになってしまいがちで、取り違えも多くあります。ありすが自分の言葉や行為で気持ちを伝えることで意思の強さと責任が生まれ、その愛情が本当に伝わるのかが確かめられます。そうすることでありす自身さらに前進していけるようになるでしょう。そしてそれは麗奈の人生にも多くの恩恵を与えていくでしょう。ありすが父の会社を継ぐことに積極的になったのは、彼女が自ら伝え、与えることの意味と責任を知ったからです。
人の愛情は人から愛されることで育つ。愛情表現をより洗練した形にする。一人一人がその意識と行動力を持つ。多様な愛情表現、それを示す感受性を肯定する。人は愛によって互いに進んでいく。これらを示すことがおそらくこの最終個人回の目的です。
マナだけに愛を貰ってもそれは意味が無いのです。マナかパパかという引っ張り合いにしかならない。そうではなく、他者一般、より広く、多様な愛情で世界が満たされていて、自分もまたその温もりを感じているのだと知ってこそ本当の意味で生きることの勇気と希望、人への信頼が獲得されるのだと私は思っています。勿論これは最終ステップであって、最初は特定の人との深く緊密な愛情関係が望ましい。とっかえひっかえでは人の愛着感情は育たない。なんかもうこの感想、発達心理学とか子育てについての話しになっちゃってますが、ある種レジーナの育て直しがメインなのでそれを軸に据えた話しをしています。子を育てるには、その親がちゃんと育っていないと難しい。これ、実は現代の大きな課題です。マナ達の自立と関係性がこのような形で発揮されようとは予想だにしていませんでしたが、興味深いテーマに挑んだと思います。これだからプリキュアは面白い。
第40話「とどけたい思い!まこぴー新曲発表!」
①信じる、ということの根拠と効用
神器を手にしたレジーナに、ベールはジコチューではないのではないか?と疑問を抱きます。キュアエースに不可解な点があるように、レジーナにも謎がある。レジーナに焼きそばパン買ってきてと命令されて思考は中断。「やっぱジコチューだわ~」。この人は最後まで三枚目ポジションでしょうね。
OPは通常営業。
想定外の事態に亜久里は危機感を強めます。レジーナを倒して神器を取り戻す。彼女はレジーナに対して個人的な関係がないのでシビアです。レジーナとは戦わないとマナは異を唱えます。口にこそ出しませんが六花達も同じでしょう。悪い心を植え付けられているだけだとレジーナを弁護。
エースショットでも浄化できなかった、キングジコチューの娘、愛無き者と心を通わせられない。そう答える亜久里をマナは制します。「そこだよ」
「レジーナはパパが好きだって言ってた。心の底からパパのことを信じてた。それってレジーナにも愛があるってことじゃない?」
いいね、実にいい。ストレートに持ってくるのはプリキュアらしい。マナが前回やったこと、今でもやろうとしていることは愛の強制に近い。レジーナと寄りを戻したい。それ自体はいい。だがそれがレジーナの心をどんなにかき乱したり、より危険な環境に置きかねないことを彼女は理解していない。その意味でマナは自己中心的です。元々彼女はこうだと決めたら深く考えずに突っ走る傾向があるので、これは彼女の性格傾向そのままだと言えます。しかしマナの長所は出たとこ勝負になったとしても、その場で状況判断が的確に行える点です。今後レジーナに関しての情報が開示されればそれに合せて彼女は行動していくだろうと思います。前置きが長くなりましたが、マナがそうした柔軟性を持つのは粘り強く、根本的な部分で人を信頼しているからです。学園祭のときもそうでしたが彼女は人それぞれに強さと力、判断力を持っていると考えている。レジーナに対しても人を愛することができると思っている。この信頼感は彼女のコミュニケーション、他者との関わり方全般に影響を与えています。
愛とジコチューは地続きで、断絶しているわけではありません。しかし後者はややもすると他者をコントロールや支配することで自分の希望を叶えたり不安を消そうとすることがあるのに対して、前者は人を信頼して託すことができます。簡単に言えば手助けするのが愛、利用するのがジコチュー。マナはレジーナと友達になりたい、彼女を笑顔にしたいと考えているでしょう。亜久里は自分の都合に沿わない状況を見るとそれを(力を使ってでも)矯正しようとする傾向があるので、私からすると亜久里の方がジコチュー的な素養が強いと感じます。愛は行為や結果によって証明されるものではありますが、それを成すには他者への信頼、自己の限界、境界を理解していることが大きな要因になります。信頼の無い愛はコントロール(支配)でしかありません。
愛があれば想いは伝わる。そう信じていると語るマナ。彼女に気圧されてか、亜久里はこの件については保留にすると話しを打ち切ります。
車の中で、ダビィは亜久里は槍を奪われたことに責任を感じていたようだと真琴に話しかけます。亜久里の心情を察する真琴。前は気ばかり焦っていたと自分を振り返ります。対照的にブレないマナに信頼感や納得感を抱きます。今では真琴もマナに全幅の信頼を寄せています。彼女の意思の強さ、実行力は真琴にとって羨ましくあり自分に欠けたものだと感じているかもしれません。番組開始からこれまで一番変化があったのは真琴です。しかしそれは彼女の柔軟性、許容力、理解力の高さを示すものでもあります。王女にしか関心を持たず、人の気持ちを理解するのに疎かった彼女は今では亜久里と自分を冷静に見つめ、レジーナを許容し、マナを認めるに至っています。レジーナを信じてみたい。では、信じるとはどういうことか、なにをすればそれを表現し、伝えることができるのか。これが今週の(おそらく今週から始まる個人回の)お題です。
ヨツバミュージック。はいはい、四葉、四葉。
真琴が事務所に行くとハルナが紙袋いっぱいになった手紙をよこします。ファンレター。ぶっきらぼうに話すハルナ。彼女宛だと勘違いした真琴が凄いと答えるとあんたのだ、と押しつけられます。久々の登場のハルナさん。以前真琴の人気に嫉妬したアイドルです。おそらく人気は今でも真琴の方が上なのでしょうが、変に根に持ったりはしていないようです。真琴の無自覚ぶりに若干イラっと来ているかもしれませんけど。次回もそうですが、初期の頃に出てきた人が再登場して絡んでくるのはいいですね。彼女達もあれからちょっと変わったということなのでしょう。
返事を書く暇がないと話す真琴に、自分はちゃんと書いているとプロ意識を見せるハルナ。いや絶対量が、と思わないでもないですが、ハルナからすればプロ意識では決して真琴に負けていないという自負はあるのでしょう。しかしそれ以上つっかからず「あんたには歌があるでしょう?」と水を向けます。それはアイドルとしてのチャンスや舞台を勝ち取る真琴への賞賛、彼女自身の敗北宣言であるかもしれません。この子は人気は出ないかもしれないけど、人に好かれる(信頼される)人になるような気がします。まあ、引け目を敵愾心や嫉妬に換えて糧にするのも一つの成長方法なので変に丸くなるのもそれはそれでこの業界では良いことと言えないかもしれませんが。余談になりますが自己愛性パーソナリティの傾向が強い人がビジネス面で成功することが少なくないのは、彼らの持つ動機が彼ら自身を向上させるからです。
真琴は目を輝かせるとハルナにお礼を言って部屋を出て行きます。ちなみにダビィが後ろで話しているのはその新曲関連でしょうか。
真琴が住んでいるマンション。実は本編初登場。いやーてっきり住む場所なくて事務所に寝泊まりしているのかと思ってました。真琴を気遣ったダビィがココアを出します。短いシーンですが彼女達の生活が垣間見えます。
トランプ王国。神器を手に入れたレジーナを褒めるキングジコチュー。一気に人間界を攻め滅ぼせと命令。レジーナはまず人間達の心を弱らせると言います。例えば歌を使って。
②君を信じる。ために歌う。
学校。居眠りする真琴。「おはよう」「おはようございます」「よく眠れたか」「おかげさまで」「そりゃ何よりだな」「どうも」「ところでな」「はい!」「放課後居残りな」「はい…」。会話のテンポいいなぁ。放課後も居眠り。
様子をうかがっていたマナはどうしたのかと心配。早速六花が調査。「その道のプロに訊くのよ」「その道?」「どの道?」「どうやら真琴さんはお仕事でお悩みのようです」「あー、この道か」。相変わらずプライバシーというものが存在しない四葉財閥。ちなみにマナ達が居るのは四葉図書館。もうこの街の名前大貝町じゃなくて四葉町でいいんじゃね? 他のプリキュアと縄張り被るかもしれないけど。
新曲を作っているのだけど、このように煮詰まっているとありすが案内。「煮詰まるというか、煮崩れているね」「使い方違うわよ」。会話のテンポいいなぁ。
悩んでいる真琴に話しかけます。
レジーナのために歌を作ろうとしているようです。彼女なりの伝え方。マナはみんなで考えようと話しに乗ります。レジーナに対してみんな無関係ではありません。影に隠れて聞き耳を立てる亜久里。どうやら話しに入るタイミングを逸したようです。冒頭のやり取りからいっても入りにくいわな。ダビィが声をかけます。そのまま連行。ナイスアシスト。
何だかんだ言って亜久里も真琴の歌を訊いていることが判明。前に酷評したりと真琴個人に厳しかったことがあるので、ちょっと言いにくい部分ではあります。真琴は素直に喜んでサインあげると言います。それを訊いたマナも欲しがります。どうやら今までサインもらい損ねていたようです。そんなやり取りを亜久里とありすは目配せしながら笑います。ありすの対人スキルと安定感は異常。
彼女達の協力の甲斐(一部騒音有り)もあって、新曲完成。
事務所の社長に聴いて貰います。発表会の日取りも決まります。
ステージ衣装を着る真琴。スタッフロールに出てはいませんが、この衣装は幼年誌で募集したものだそうです。ハートキャッチのときにもそんな話しがありましたね。自分の歌が本当に届くか心配する真琴をダビィが支えます。
マナの寝坊のせいで駆け足の六花と亜久里。ありすが車で現われます。きっとこの街の信号はピンクのリムジンをスルーするように出来ている。
「こころをこめて」。真琴の新曲を楽しみに待つファン。この曲はすでに出ている真琴のキャラソンに収録されているようです。客入りは上々。社長はイベントが成功すれば事務所が大きくなると野心をくすぐられます。そこにレジーナが現われます。
キュアソード単独変身。
CD買ってよ~とジコチューがCD投げてきます。「初回特典つけるから~!」これ大丈夫なんでしょうか。大人の事情的に。容赦なくCDかち割って優勢に戦闘を進めます。レジーナが拍手。常に傍らに槍があるのがカッコイイな。マナが居ないと知ると、暇つぶし代わりに攻撃をしかけます。
槍から光波を飛ばしてきます。斬撃、連弾と使い方自在。ソードが躱すことに専念して意識が向いている隙を突いて投擲。続いてタイツのコウモリ模様を手裏剣にして蹴り出します。壁に磔になるソード。レジーナの戦い方面白い。地面に突き立った槍に着地。なにそれカッコイイ。
あなたと戦いたくないと叫ぶソード。しかしレジーナにとってプリキュアは邪魔。ジコチューが動くのと同時にエースの捕縛技発動。仲間が駆けつけます。ところがイーラとマーモも参戦。戦力は五分五分。
ハートはこのステージがレジーナのためのものであると訴えかけます。しかし「そんなの知らない」ととりつく島もない。戦闘再開。レジーナも槍を構えて戦闘に加わります。ここの動きすげぇかっこいい。槍は見栄えします。ソードは伝えたい相手であるレジーナがすぐ傍にいることに気づきます。この状態でもやれることはある。
「握手券つけるから~」。もうCD売らなくていいんじゃね?
会場に音楽が流れます。捕まっていたソードは変身を解き、ステージ衣装に。ダビィがセッティング。インカムを真琴に付けさせます。真琴は歌い始めます。超展開。スイート映画のメフィストを思い出します。真琴が歌で愛を表現しようとした背景には、彼女が王女に歌で伝えようとしていた以前の経験があります。あれは真琴にとって絶望的な戦いでした。自分の歌が本当に届いているのか分からないまま一縷の望みをかけて自分の存在を示し続ける孤独な戦いでした。24話でそれが確かめられたとき、彼女は疑心暗鬼から解放されるとともに、自分が無力でないこと、困難であっても可能性があること、信頼と自信を得たのだと思います。これは何も歌だけでなく、様々なもの、様々な人にも当てはまります。友達に向けて、恋人に向けて、子どもに向けて、親に向けて、あらゆる方法で人は自分の存在を主張し認められたいと思っている。中にはその方法が間違っていることもあるし、中には通じない相手もいます。だから人はそこで傷ついたり、諦めたり、従わせようともがき苦しむ。傷つき諦めようとしたのがスイートだったし、従わせようとするのが本作。近年のプリキュアは、この孤独を埋めようとする戦いを舞台にしています。皮肉にもこの戦いを通じて人は信頼や愛を芽生えさせていきます。本作の愛は自己愛を基礎に置いた相互形成による愛です。私とあなたが通じ合えた(なんらかの影響を与え、受けたことが双方で分かる)ときに人は愛を感じる。その体験が無い人は、愛は異なった形態で存在すると思っているかもしれません(共依存に多い)。
真琴の歌を訊いたレジーナは違和感を抱きます。内から響く鼓動。真琴の戒めが解けます。真琴はレジーナに向かって歩き出します。ちなみに明らかに作画のトーンが変わっています。このアニメ、良くも悪くも作画リソースの使い方がフリーダム。
ジコチューも力が弱まっている様子。
「胸が…チリチリする…」
私は真琴の肩胛骨にドキドキします。
胸打つ鼓動。はい、ここで真琴を360度回転。これきっと描く側からすると大変なカットなんだろうなぁ。こんな演出をやる人はプリキュアでは限られています。またお前か。真琴の歌にえも言われぬ感覚を覚えたレジーナは、それを消そうと部下達に命じます。真っ直ぐに歩き続ける真琴をハート達が護衛。ここのシーンのアクションすげぇ。手前でダイヤが戦い、引き継ぐようにロゼッタが奥でマーモと交戦。動きが中国拳法っぽい。プリキュアはときどき謎拳法を戦闘に取り入れるのが特徴。しかも何故か黄色がやることが多い。ハートとエースがジコチューをフルボッコ。プリキュア流のバックダンス。
突出された槍を真琴は素手で掴み取ります。歌いながら変身。最終回かというくらい気合い入ってます。EDでは恒例のインカム装着ソードが本編でお披露目。突出された槍の代わりにソードは手を差し伸べてレジーナに温もりを伝えます。氷が溶けるようにレジーナの表情が和らいきます。しかし突然手を振り払うと短い悲鳴を上げてソードの頬を打ち付けます。ここの描写もゾクゾクくるところです。感情が高まると、色々なことが想起されます。それは矛盾するような感情だったり、不安だったり、否定だったり、苛立ちや怒りであることもあります。正直に言うとレジーナが今何を想ったのか私には分かりません(レジーナ自身分からないはずです)。しかしこうした感情のぶり返し、混乱、錯綜、反発はあり得るだろうと思います。カウンセラーの治療中に患者が取り乱すことがあるように。それはそれだけその人の内面に響いたということの現れでもあります。だから治療中に患者が一時的な退行現象を起こすこともあります。
飛び退いたレジーナは槍を構えて発射態勢。
③親を信じる。ために売る。
攻撃を予期したエースは逃げろと指示しますが、ハートは逃げないと言います。レジーナを信じているから。頷くソード。ダイヤ、ロゼッタも続きます。これはレジーナが攻撃をしないという意味でなく、レジーナを受け止めるという意思表示ですね。愛をもって殴るのなら、相手の拳もまた受け止めよう。こぶしパンチ理論使いやすいなぁ。
4人の胸から光りが伸びてレジーナの攻撃は消滅。新しいラビーズが生まれます。ここにいたって新商品とパワーアップ。
「きゅぴらぱ、きゅぴらぱ、ぷっぷー」
単品定価8,715円で打ち切りだと思った? ざ~んねん、追加課金しないと全部の機能使えませ~ん!という商業主義的鬼畜ぶりを発揮。アイカツやジュエルペットといった競合作品と戦い抜くためにも親の財布を常に引きつけておかなければなりません。「アイカツ買ったからプリキュアはまた今度」とは言わせない。だったら、これをこっち側に持ってくれば良い。
パッドがハープ型の玩具に早変わり。多機能性を褒めるべきか、コンセプトのブレっぷりを指摘するべきか悩んでしまいます。もはや鏡であった原型も、パッドという名前も全く関係ない。進化っていうか、明らかに別物。
プリキュアも羽が生えます。位置づけ的にはハートキャッチオーケストラとかプリンセスフォームかな。一人だけ航空機の羽が生えている、というようなことはありません。ロゼッタはバレエのポーズっぽくて可憐。
パッドの真の力(課金後)。ハートは意を決すると必殺技を撃ち込みます。
「プリキュア! ロイヤルラブリーストレートフラッシュ!」
あ、ここでロイヤル使っちゃうんだ。てっきり最終回かと思ってた。レジーナは回避。ジコチュー的にはオーバーキル。
真琴はマナに謝ります。歌がレジーナに届かなかった。
「いいえ」
レジーナの心は震えていた。自分にはそう見えた。真琴にインカムを手渡しながら、亜久里はレジーナには確かに愛する心があるのかもしれないと自分の考えを改めます。人を愛するには相手に愛があることを知って(信じて)いなければならない、と言えば卑屈で皮肉が過ぎるでしょうか。人は知らないことに対して過剰なほど警戒することがあるわりに無知で無思慮です。しかしそれを学び改めることができるのも確かです。
自分達の想いは伝わるのか。それはレジーナを幸せにするのか。物語は佳境へ。
④次回予告
そう思っていた時期が私にもありました。
○トピック
レジーナが再稼働した矢先に真琴の新曲発表という先週の次回予告だったので、どうなるかと思っていたら真面目に来ました。と思っていたら次回予告で宇宙に行っていた。相変わらずこのアニメは次回予告で本編の余韻を吹き飛ばしてくれます。
トランプ王国を滅ぼされた真琴が、敵首領の娘であるレジーナに全力で想いを伝えようとするお話し。これは番組開始からこれまでずっと変化していった真琴の気持ちを示す点でも、レジーナを真琴達もまたマナ同様に気遣っていることを示す点でも必然性と決意があるエピソードです。
レジーナはジコチューというよりもその犠牲者、毒になる親(スーザン・フォワードの著書名から引いてますが、毒親という語が一般化しているようです)のもとで育った子どもをモデルにしていると言えます。この問題はレジーナ個人にとどまらず、孤独で歪な愛情で育った人を信じることができるだろうか?という提起でもあり、そうした人々の回復や健全化は可能であるか?という話しでもあります。
今のマナ達はアイちゃんにやっていたことをレジーナに対してもやっています。要はイヤイヤしているレジーナをそれでも受け入れ友達になろうとしている。赤ちゃんのイヤイヤなら大抵の人は受容し面倒を見て愛することができるでしょう。健全な成長に必要だと知識的に知っている人もいます。ところがある程度成長した少年少女、まして大人がそんなことをしていれば話しは変わります。アイツは何を言っても訊かない、信頼できない、そもそもアイツには愛情や信頼なんて無いのだ、となって距離を置くなり見捨てるでしょう。亜久里が見せた反応はまさにそうです。これが愛情に欠乏した人々をさらに孤立させ、信頼感を育てることなく人に利用され続けるという悪循環を生み出す構造にもなっています(人間関係やその認識が歪な人は他人を利用するか利用されるかという極端な形になることがあって、自立と依存を自分で調整することが困難であることがあります)。
こうしたジコチューの有り様は、しかし周囲にも責任があります。赤ちゃんはワガママですが、では彼らがジコチューに育つかと言えば、それは親や周囲が適切な愛情を注げるかどうかというのが大きく影響する。ジコチューになるべくしてなるわけではないし、完全に環境でどうなるものでもありません(人間の性質は資質か環境かというのはとりあえず半々と見積もっておいて問題無い。要するに分からない)。レジーナ自身の責任はレジーナのものですが、彼女にどう向き合い、接し、愛するのか倒そうとするのかにはマナ達に責任がある。亜久里の主張のように敵だから、話しを訊かないから倒してもいいというのは勝手な都合です。それって要するに邪魔な奴は蹴散らしていいし、使える奴だけと仲良くすればいいっていう発想じゃないの?ってなる。この誘惑がとても魅力的で強力なものであることは言うまでもないでしょう。
だからこそこの物語は、マナは、レジーナを信じなければなりません。一度は彼女と友達になって心を通わせたし、今でも友達と思っているのだからその責任は果たさなければならない。人を信頼するということは相手をコントロールしたり、責任を押しつけることではありません。むしろ逆で、相手と境界を設け別個の人間であると理解することです。だから厳密に言えば相手を信じることと、相手がこちらの意図に従うかは別のことです。勿論、相手を信頼するというのは、相手がこちらの話しを訊いてそれを考慮してくれるだろう、相手が変わってくれるだろうという意図が少なからずあるので厳密に相手と自分の境界や責任、感情を切り離すことはできません。しかし、信頼の基礎にあるべきは相手の自由裁量を認め、人間としての価値を認めることであり相手の感情を尊ぶことです。本当に相手を信じられるかは行動によってしか証明できません。愛と同じです。理屈ではない。行為。マナ達は今その試練を受けていることになります。これまで彼女達は様々な問題に取り組んできたわけですが、その経験が他者への信頼感や責任を培っています。適切な自立と依存、愛、信頼があってこそ人は健全な関係と自己を育てうる。っていうか、これほど高レベルな精神性をもってしてようやく共依存と向き合えるってどんだけ難易度高いんだよ。
ドキドキもまた近年のプリキュアテーマである孤独な魂の救済を引き継いでいます。言ってしまえば人の魂は不完全だし不健康に染まりやすい。互いの努力で健全にすることもできるけど、逆に悪化させてしまうこともあるし、悪に見えることもある。そうやって人を敵か味方か、あっちかそっちかに分けたりもする。「確かに私はあなた達が嫌いでした。でも、それは間違いでした」「克服すべき敵ではなく、愛すべき友なのです!」を言えるようにひたすら走り続ける本シリーズは熱い。
第39話「会いに来たよ!レジーナふたたび!」
①本物でも偽物でも大差がない岡田
レジーナのためにたこ焼きを作るベール。ところがレジーナはタコが嫌いだそうです。タコ抜きで作り直せと指示。この辺は好き嫌いを克服した亜久里(アイちゃん)と対照的です。部屋がものすごいカラフルですが王女の部屋を改装した模様。
悪趣味だとか愚痴たれる三幹部に無能と返すレジーナ。仕事がまるで進んでいません。三種の神器を手に入れたプリキュアは手強い。なら他の神器を手に入れたらどうだ? 実は槍の方は王宮にあります。ところが幹部達では引き抜けない。この手のものは適正者じゃないと使えないパターンですね。説明を訊いたレジーナはやっぱりお前らは無能だと罵ります。
ベールは賭に出ます。
映画宣伝仕様OPその4。
ソリティア。シャドウボクシングを始めるマナ。六花が呆れながら尋ねます。なんだか強くなった気がするとマナ。真琴が腕試しにと対戦相手になって何故かストリートファイトを始めます。なんだこのノリ。っていうかお前らこの前まで赤ちゃんのお世話とか歯医者とかニンジン栽培やってただけだろ。マジカルラブリーバッドも使いこなせるようになって実力も付いてきた、雌雄を決するときかもしれないとありすと亜久里が話しに加わります。ノリ的にはラブリーパッドを手に入れた直後くらいの勢い。結構苦戦することも多かったような。パッド自体は強力ですが。
組み手が終わり、マナも真琴もやる気十分。トランプ王国とレジーナを取り戻しに行ける! それにしてもマナのあのミニスカートで格闘するのはいかがなものかと。六花さん的には大喜びかもしれませんが。
問題は行く方法がないこと。
すると、ノッポさんが現われます。相変わらず胡散臭い人です。
久々の岡田にマナ、真琴、六花が詰め寄ります。ありすは亜久里を紹介。そういえば会うのは初めてです。いつものノリで自己紹介するノッポさん。偽物の割りに演技が上手い。風の噂で知っていたと言います。いやいや、限られた関係者しか知らないだろ。
亜久里の口から王女のことが出ると、ノッポさんは自分が来たのは王女の件についてだと言います。彼が「王女」と呼んだ件については全く気づかなかったので、ここの仕掛けはなかなかですね。マナ達の反応も見ようによっては彼に違和感を持ったように見えます。
氷漬けになった王女を元に戻すことは出来なかったものの、その手がかりはミラクルドラゴングレイブにあると話すノッポさん。あらゆるものを貫く光の槍。これを使えば封印も解ける。お約束的で説得力はあります。じゃあ今度はその槍がどこにあるかという話しに。トランプ王国の王宮の地下にあると答えるノッポさん。そうするとやっぱりあっちに行く手段がない。
「心配ない。僕が空間移動で連れていくよ」
そんなこと出来たの?ともっともな疑問を浮かべるマナ。言葉に詰まったノッポさんは特訓したと言い出します。それは仕方無いな。特訓すれば空間移動くらいできるようになるわー。これ、仮に本物のノッポさんがそう言い出しても私は納得します。よくあるじゃん、最終決戦近いし。
この辺はすんなり受け入れてトランプ王国へ行こうとすぐに話しが決まります。彼女達的にはこれに乗じてさっさと行ってしまおうという算段なのでしょう。ランスの腹の虫が鳴ります。腹が減っては戦はできぬ。「あ、それならちょうどいいものが」。ところでいつまで真琴の肩掴んでるんですかね、この人。
たこ焼き。何故たこ焼き。何となく作りすぎたと照れ笑い。敵が作ったものですが警戒せずに食べます。真琴はやや気後れしていますが、たこ焼きが初めてなのかもしれません。
美味しいと舌鼓。「ふくよかな小麦粉(以下略)」。意外にも亜久里からも高評価。しかし。「このたこ焼き…タコが入ってない」。最近流行の偽装表示でしょうか。コスト削減にもほどがあります。怒り心頭のランス。入れ忘れたよ、ハハと誤魔化すノッポさん。割と本物でもそんなこといいそうなのが厄介なところ。
②罠には罠で
ということでやってきましたトランプ王国。亜久里は不思議と風の心地に懐かしさを覚えます。
ノッポさんが王宮を差し示します。王宮の背後にはキングジコチュー。正面から行けば丸見え。そこで地下水道を使います。複雑に入り組んでいて危険だと真琴が警告を発します。するとアイちゃんがパッドを操作して地図を出します。槍の位置も表示。三種の神器同士呼び合っている。ここまで便利ならパッドでもアイちゃんの力でも空間移動とかできないんですかね? ノッポさんをあやしむ妖精達。とにかく進みます。
途中ランスが流されたり、ノッポさんが隠し扉を開けたりして目的地に。
広間。光の槍が地面に刺さっています。
計画通り…!な笑みを溢すノッポさん。早く抜けと独白。ところがマナ達はこちらに鋭い視線を向けます。
「いい加減正体を現したらどうなの? ベールさん!」
バレてました。
最初に気づいたのは王女を呼び捨てにしたこと。本物はアンと呼びます。そもそも空間移動ができるのが怪しすぎる、エプロンが黒い、マフラーがまんまとツッコミを入れられます。そこはお約束っていうか、つっこまなところだと思うのですが容赦しません。後半は子ども向けに分かりやすいところですが、最初の証拠は彼女達の観察力を物語っています。
犯人はあなただ!的なノリで偽物を看破する一同。ベールは苦虫を噛みつぶしたような顔を浮かべながら膝をついて正体を表します。いやー、てっきり「岡田になりすましたベールになりすました岡田」という線も捨てきれなかったんですけどねー。っていうかこの時点ですら本物が登場しないって、あとどのタイミングで登場するんだっていう。いっそあいつがキングジコチューってことでもいいんですが、それくらい胡散臭いか、最後の最後に役があるのかってくらいのポジションなんで。
嘘だと知っていてここまで来た理由。
「それは勿論、キングジコチューと、話しをつけるためよ!」
流石マナ。この物語はよく分かっている。
「トランプ王国から手を引いて、ジコチューに変えた人達を元に戻すこと。それと、これ以上レジーナに酷いことしないって誓うこと!」
マナ達から見て、キングジコチューを倒すことは必ずしも唯一の解決策ではありません。トランプ王国復興とレジーナの安全確保が保証されればいい。まだ真偽のほどは分かりませんが、キングジコチューがレジーナの親ならばそれを倒すことは極めて困難です。現状出来うること、着地点としてこの目標を立てているマナ達は非常に現実的です。
キングジコチュー様がそんな話しを聞き入れるはずがないと言うベール。しかしこちらにはラブリーパッドがあり今まさに槍も手に入るところ。対抗手段は整った。「どれもこれもあなたがここまで私達を案内して下さったおかげですわ」。流石黄色あくどい。トドメ刺した。「本当にありがとうございました」。俺がベールだったらマジ泣きするレベル。
タコジコチュー召喚。プシュケーどっから持ってきたんだ。変身。
③神器が選んだ使い手
「タコ殴りにしてやる!」。ジコチューの攻撃を躱してハート達は槍の元へ。ジコチューはエースが単独で引き受けます。片手で投げ飛ばします。今回のエースは初期並に強い。
ジコチューがビームで反撃。エースが躱すとハート達のところに着弾。余計なことをするなとジコチューを殴るベール。とにかく槍を引き抜いて貰わないと話しが進まない。それにしてもベールは引き抜くのにセキュリティ解除が必要で、一度抜いてしまえば使えると思っているようですが、ああいうのって有資格者しか使えないんじゃないの?
ジコチューの攻撃に晒されても傷一つ付かない槍。ハートが抜こうとしますがビクともしません、4人がかりでもダメ。プリキュアだから抜けるということではないようです。王女が使えてプリキュアが使えない。エースに試して貰いたいところ。
ベールが不思議がっているうちに、エースがジコチューをタコ殴り。今回エースの仕事ぶりが面白い。
「ほんっとに無能ね、あなたって」
レジーナの声に反応するハート。エースをにらみつけるレジーナ。以前エースから受けた屈辱を忘れてないと苦々しく言います。そんな彼女の気持ちは無視してハートが飛びつきます。地面に落下。飛びつかれたときの反応が可愛い。細かいところの仕草などは以前と変わりません。
レジーナと再会したハートは彼女に言葉をかけます。元気だったか、ご飯は食べていたか、心配していた。レジーナはため息をつくと迷惑だとハートの手を払って立ち上がります。
「あたし、目が覚めたのよ。この世であたしを本当に思っていてくれているのはパパしかいない。あたしにはパパ一人だけなのよ」
嬉々としながら話します。恐るべき共依存の力。もはや洗脳とは言いません。子どもの親への愛情と執着、そして孤独。それをキングジコチューは巧妙に利用しています。現実的な話しをするとここまで従順になる子は少ないでしょうが、このような極端な依存、判断力の低下、自立性の後退は機能不全家族によく見られる現象です。余談ですが機能不全家族は貧富や社会的地位に関係しませんし、外部からそうだと気づかれにくかったりします。理想的な家族だと思われている家族がそうだったりもします。
そんなことない、とレジーナの言葉を打ち消すようにダイヤとロゼッタが援護。ハートもここにいるみんなもレジーナを思いやっていると言います。もう一度ゆっくり話そう、そうすればまたわかり合えると伝えます。至近距離でビーム発射。しかしハートは片手で受けて無傷。
「なんで平気なの?」
「強くなったんだよあたし達。あなたに話しを訊いてもらうために」
子育てすげー。今のハートには、以前のようなレジーナの態度に困惑しただ叫ぶだけの弱々しさはありません。レジーナの声を訊き、自分の気持ちを伝え、時間をかけてでももう一度彼女とやり直そうとする意思が感じられます。決してハートはキングジコチューに操られているとか、悪い奴だとか言っていません。あくまで自分達とレジーナの関係において話しをしています。これはとても冷静でフェアな態度です。しかし後のシーンで分かりますが、レジーナにとってはそれだけの問題では済みません。
レジーナの攻撃を躱したハートは彼女の背後に回ります。やっとあなたの隣に立つことができた!と喜ぶハート。レジーナの拳を受け止めなら、腰に手を回して抱き留める格好に。
「あたし達と一緒に行こうレジーナ。そしてもう一度愛を取り戻そう」
なにこのジゴロ。ところがそれで終わらないところがプリキュアの怖いところ。彼女はまた同じ間違いを繰り返そうとしている。レジーナの片手を引いて「私の方に来て」と言っている限りレジーナの心の痛みは和らぐことはない。だってもう片方の手をキングジコチューが引いているのだから。
このままレジーナがプリキュアに懐柔されてしまうと自分の首が危ないと心配するベール。ところが、言っているその隣でジコチューがエースに浄化されかかっています。淡々と仕事するエースが素敵。
「うるさい! そうやってまたあたしを苦しめるつもりなんでしょ?」
「あたしはパパと一緒にいるときが一番幸せなの。パパの腕に抱かれていると何も考えずにいられるから……だから、あたし達の邪魔を、しないでよ!」
本来レジーナが感じている痛みや辛さは生きる上で必要なものです。それは私とあなた、人との距離、自分が受け入れられているという安心感などを構築するために必要なもので、その経験をとおして人はより自立的に、より依存的に、その両方を育てていきます。ところがその経験を奪ってしまう、育てないまま過ごしてしまう環境というのが存在します。
レジーナのジャネジーによってジコチューが強化されます。純粋で未熟な願いがジャネジーを高める。ジコチューとは一言で言えば未熟さです。得たい、したい、別れがたい。得られないものを得ようとし、できないことをしようとし、別れなければならない者と別れようとしない(映画版を参照されたし)。またその手続きを不当で未熟な手法によってなそうとする。もしかしたらちゃんと手続きを踏めば望む結果を得ることができるかもしれないのに、そうすることをやめてしまう、現実に対する諦めや思考停止が背景にあります。
プリキュアが戦わなければならないのはこうした思考であり、成さなければならないのはこれを乗り越えた先のビジョンを示すことです。
無分別に攻撃を始めるジコチュー。レジーナはハートの声を拒みます。
ジコチューを倒すことを優先。
「集合! ハートダイナマイト!」
いつ登場するのかと思ったらここで。ダイナマイトというくらいだから爆発するのかと思えば、メロメロにするだけ。てっきりハートが相手に抱きついて自爆するのかと思ってたんですが。いつもどおりストレートフラッシュで仕留めます。
余波を受けてレジーナが地面に着地。エースがどんなに憎まれようと拒まれようとキュアハートはあなたを思い続ける。それが彼女の愛だと伝えます。本来の、普通の在り方ならそれは正しいことだったでしょう。能力の多寡、条件に関わることなく自分の価値を普遍的に認めてくれる愛情があると、人は一種の無根拠な信頼感と楽観を持つことが出来ます。逆に条件や気分次第で受け入れられたり拒まれたりするとこの世は不安定で頼りなく、常に結果や他者との結びつきを担保としなければならないような不安感を抱くことがあります。レジーナの場合は元々環境が安定していないこと、本来彼女が悩み決断していかなければならないことをキングジコチューが肩代わりして彼女から判断力を奪い依存を強めたことなどが蓄積され彼女の考えや感じ方がいびつな方向に進んでいます。
「そんなの知らない。パパには私しかいない。私がいなくなったらパパは独りぼっちになっちゃう」
レジーナの傍らに立つ槍が彼女の声に反応して輝きます。
「だから、パパは、私が絶対に守ってみせる!」
素晴らしい。これほどの戦慄とゾクゾク感は22話以来だ。この物語はよく分かっている。歪んでしまった愛情、歪んでしまった家族。こうした人達にとって親しい人との関係は自己と不可分となる。レジーナの言葉は自分の不安の裏返し(投影)であるかもしれません。しかし自分の親を独りにしたくないと考えることは幼い子でも、いえ、幼いからこそ切実で現実の問題になり得ます。自分がいなければ親が傷ついてしまう。親を守るために子どもが必死になる。子どもが親の親になってしまう。本来あるべき親の責任までが子どもに圧しかかる。虐待する親を子どもが庇うことがあるのはそのためです。この物語はレジーナの立場で、レジーナの気持ちを正面からぶつけています。マジぱねぇ。34話で六花が自分のせいで母が親失格だと責任を感じたことに罪悪感を抱いたことと基本的には同じ事です。相手の気持ちをくみ取りそれを自分の責任だと錯覚してしまう(本来そのような責任を持つ必要は全くありませんが、他者との境界が曖昧なためそう思い込む)。プリキュアがどの層をターゲットにしているのかが見て取……やり過ぎだよ! ほんと、これどこまでやるの? これをやり抜くのだとしたら私は泣いて喜びます。槍抜く→やりぬく。なるほど(絶対関係ない)。
光の槍を引き抜くレジーナ。黄金の輝きが黒く染まります。
プリキュアは邪魔。これもまた彼女にとってもっともな帰結です。槍を構えて先端からビームを撃ち出します。もう槍とか関係ねー。ディバインバスターですか。槍が外国語でしゃべりだしたらどうしょう。
バリアでガード。5人がかりで防御を固めますが圧されています。三種の神器は伊達じゃない。っていうか、闇を打ち払うためにプリキュアが使っていた武器が闇に染まってどうするんだよ。なるほどだからメランは大事に保管していたのか。染まらないように。王女とレジーナを使用者に選ぶとか槍のストライクゾーンどうなっているんだ。
あなたに気持ちを届けるまで諦めない!と叫ぶハートの声に反応したのか、パッドが自動起動。アイちゃんが操作してプリキュアを元の世界に転送します。今後パッドを使えば空間移動出来そう。
キングジコチューを守護するレジーナと神器。物語は佳境へ。
④次回予告
そう思っていた時期が私にもありました。
○トピック
ガッツポーズ! それが私の気持ち。ゾクゾクします。
レジーナどんだけ業背負ってんだよ。ってくらいに彼女が出てくると一気に話しが進みます。端的に言って、レジーナは機能不全家族の元に居ます。アルコール依存や虐待、いき過ぎた過保護あるいは放任な親が子育てする家庭では共依存的な性格形成がなされます。共依存と訊くと互いに依存しあっているように聞こえますが、現在ではその人が対人関係に対して依存的であるという意味でも使われています。要は共依存とは適度な自己愛、信頼、自立、依存が育たず偏った人間関係が身についてしまった状態だと思えば話しが早いでしょうか。レジーナの独白は幼い子どもが抱きうる苦悩であり真剣な気持ちです。何度も述べているようにレジーナ自身の心性はニュートラルで純粋無垢です。彼女があのような動機と態度に出るのは環境による影響が非常に大きい。どのような親であれ子どもにとって親から引きはがされることは怖く不安なことですし、親が悪く言われることを嫌います。プリキュアがやろうとしたことはレジーナを親から引き剥がそうとすることで、彼女がこれに強く反発するのは当然ことです。機能不全の環境下で生き抜くためにはああ考え戦うしかありません。22話と比べてより一層レジーナは父親との結びつきが強まっています。これをガチで持ってくるプリキュアがやべぇ。でも、そこにシビれます。
最早この戦いは自分勝手な自己中をどうにかするとか、トランプ王国復興だとかは些末な問題です。ジコチューという人の未熟さ、身勝手さが招く業、世代を越えて受け継がれる(歪んだ)愛を議題に乗せています。共依存は世代継承される傾向があります(実際には機能不全家族で育ったとしてもその人が必ずしも虐待などの機能不全を起こすわけではありません。が、それなりの割合で継承される)。映画が世代を超えて受け継がれる愛をテーマにしていましたが、それと見事に対をなす対比です。プリキュアがレジーナに対して愛情や友情を唱えれば唱えるほど彼女は親との結びつきを強めようと躍起になるでしょう。これどうする気だよ。
何故共依存が継承されてしまうのか、親から酷い目に遭わされたのに何故自分も同じことを繰り返してしまうのか、あるいはダメ人間をパートナーにしてしまうのか、というのが不思議で私自身感覚的に実感出来ません。しかし彼らの立場に立って想像するなり関連した本を読むと僅かながらもその断片が見えてきます。彼らには根本的な信頼感や安心感が欠けているため自尊心や自信に欠け常に漠然とした不安を抱えています。それは言いしれぬ不満の源泉となります(これが怒りや支配へと繋がる)。同時に不安定で依存的な人間関係に適応した処世術と考え方が染みついているので、その環境を無意識に繰り返してしまうのだろうと考えられます。人は自分が慣れ親しんだ環境ややり方を変えたくありません。変えること自体がリスクや不安を伴いますし、まるで自分が間違っていたかのように感じたりする(特に人に指摘されて直すのは抵抗を感じる)。それに加え、一般論で言うところの正しい愛情、人との接し方が分からないのだろうと思います。私は集団に溶け込んだり距離を詰めていくことに強い抵抗があります。そこから察するに、深く染みこんだ処世術や対人対応力はその人の行動と感情を強く制限すると考えられます。
また、暴力をとおして人との愛着、結びつきを感じていることもあるし、無責任なパートナーを「赦す」ことで自分の存在感、全能感、自信を感じるということもあります。愛情は無償で得られるものではなく、何かの代価、あるいはものすごく気分的なものと意識されていることが多いようです。見方を変えれば人間の適応力は恐ろしいくらい柔軟であらゆることを正当化(恒常化)させる力があります。一度染みついたものを完全に払拭することはおそらく不可能です。
このように人間というのはとても面倒臭い生き物です。断っておくと私は共依存の人達を見せしめにしようだとか批判する意図はありません。私の興味は常に「人とはどんな生き物か」にあります。ひいては自分はどんな存在か、そしてその生を楽しむことに転化する。人間の善し悪しなんてどうでもいい。重要なのは、人にはその生を素晴らしいものにすることができる力があるということを証明することです。その力を自分が持っているのか、みんな持っているのか、条件があるのかそれは知らない。それを証明するのが人それぞれに課された使命だと思っている。単純に言えば、人間として生まれたんだから、人間として頑張ってみようぜって話しですね。救われる人には何かしら理由があるのかもしれない。それを知りたいっていう好奇心。この感想はそのためのメモですし、プリキュアはその優れたテキストです。
この物語がどこまで突っ走るのか、ほんとに楽しみ。
映画「マナ結婚!!?未来につなぐ希望のドレス」
①前説
ミラクルブーケライトについてマナ達がレクチャー。この辺の流れはスマイルの映画と同じ。毎回恒例なので映画が始まる前に親御さんが「プリキュアが言ったら振るんだよ」と教えることも少なくないです。今回の映画は細かい説明を省いてその分を本編に当てています。
②みんなの将来は?
マナを呼ぶ声。部屋に行くと母がウエディングドレスを持っています。整理していたら出てきたらしい。母親が使ったものですが、元々はお婆ちゃんの品だそうです。割とハイカラなお婆ちゃんです。江戸っ子っぽい人ですし、サッパリした印象がありますね。ドレスを母から受けとるとマナはこれを着たいと言います。すると親父さんが相手がいるのか!?と慌てます。
あくまで仮定の話し。それを訊いて一安心する父。忙しない人です。母はドレスは流行廃れがあるし、所々痛んでいるし、一生に一回しか着られないと娘に待ったをかけます。マナは代々受け継いでいくことにロマンを感じているようです。今回の映画はざっくり言って過去や想い出にどんな価値があるのか、前に進むためにはそれらは捨てられていくのか?というエピソードですので開始早々マナがスタンスを説明しているのは分かりやすい。勿論この後に試練が与えられるわけですが。
OP。マナの結婚式。列席者の中には亜久里もいて格好からして高校生くらいでしょうか。制服姿がとても可愛い。マナの年齢は20をちょっと過ぎたあたりでしょうか。マナはメンバーの中では一番早いか一番遅いかって気がします。終盤で再び結婚式のシーンが出ますが、そっちは列席者の六花達の髪型や雰囲気が落ち着いて大人っぽくなっていることからも、OPの結婚式は今のマナが想像する結婚式、終盤のは現実にあったとしたら、という感じの違いでしょうか。
さて、気になるお相手は、イーラ。ジコチューが結婚式に乱入。変身してバトル、という夢オチ。
学校でマナはドレスの話しを六花と真琴にします。50年前の物とは思えない一品と気に入っています。六花は意外そうにマナの話しを訊きます。総理大臣が夢だから恋や結婚に興味があるとは思っていなかったようです。内心焦っているかもしれません。それはそれ、これはこれ。ウエディングドレスは乙女の憧れだと答えるマナ。
二階堂君と百田がやってきてもらい手が居たらな、と突っかかります。失礼な物言いに六花が顔をしかめます。これがありすだったら笑顔でクシャポイされます。しかし実際に反応が速かったのは真琴。箒を構えて二階堂君を威嚇します。「そこになおりなさい!」時代劇にハマっているんでしょうか。
マナが止めます。マナ本人は気にしていませんが、周囲の気が収まりません。六花は男の子は好きな女の子の気を引きたくて意地悪する、と反撃。精神攻撃は基本。分かりやすく反応する二階堂君。ブラフに弱ぇ。真琴もそれに乗っかって好きなら好きと言えと詰め寄ります。もうこうなると実際に気が有るか無いか別にしてこの場に居たくねぇ。そこにさらにマナが乗っかって自分の気持ちはハッキリと伝えろと言い出します。お前は何を訊いていたんだ。
二階堂君の手を握っておまじないを教えます。近い超近い。きっと六花が鬼の形相で二階堂君を見ていると思いますが、二階堂君はそれどころではありません。で、誰が好きなの? 何故この状況でそこまで鈍感になれる。っていうか話しの流れで何故分からない。二階堂君は逃げるようにその場を立ち去っていきます。百田君は完全に舎弟ですね。昔大きな世話にでもなったのでしょうか。
マナの鈍感ぶりに呆れる真琴。六花も昔からああいう人なのだと諦めたような声で言います。これはこれで六花さん的には安泰。
ありすのお茶会でもその話題で持ちきり。ドレスがどうのといっても恋愛関係はからっきし。ありすと二階堂君は面識があるようで同じ小学校だったようです。すでに個人情報取得済みでした。前門の六花、後門のありす。鉄壁過ぎて見た瞬間諦めるレベル。そこからどんな小学生だったかトーク。今と変わらないと話す六花。犬を拾った話しに及びます。名前はマロ。ありありと目に浮かべるマナ。しかしマロはもういないようです。真琴がマロのことを訊いたときの六花とありすのちょっと沈んだ表情をしています。
話しを変えて将来の話し。マナは六花に結婚はどうなのかと訊きます。来ましたガールズトーク。医者になる夢で手一杯、恋愛や結婚なんて考えられないとキッパリ。この子、才女で可愛いのだから学校でも人気があると思うのですが、マナにべったりなのと恋に興味ないのとで多くの男子生徒が撃沈してそう。しかしこれはこれで視聴者的には六花の地位が安定。流石六花さん!
「実は」お見合いの話しを何度か打診されていると告白するありす。ああ、君ならそうだろうね。一斉にみんな驚きます。ランスも知らなかったようです。相手は色々。下は5歳から上は65歳。それを訊いて安心したのかどっかと椅子に座る六花。どう見ても政略結婚。65歳の奴は警察呼ばれるレベル。見合いは全て断っている。人としてまだ未熟だし今はみんなと過ごす方が幸せだと話します。いやいや、君すでに現時点でも人として一人前以上だよ、それで未熟だってなら人類の半数以上は未熟以前のレベルになっちゃうよ。
ありすの話しを訊いて、落ち着きを取り戻すマナ達。この年齢で結婚は具体的な将来像というより遊びや想像の域でしょうから、そこに現実味のある話しが飛び込んできて一瞬焦ったという感じですね。それでもマナは最初に結婚するのは誰か気になるようです。六花はマナだろうと言います。ありすは真琴をプッシュ。芸能界で気になる人は? 話しは尽きません。
③想い出の国の王
古い映画館が取り壊されます。街の人達は昔を懐かしみ惜しみます。
その夜、半壊した映画館に人影。どうやらその人影は人間に恨みを持っているようです。ケースからクラリネットを取り出すと演奏を始めます。映写機がガタガタを震え上空へと飛んでいきます。
ゴミの山でまだ使えると口々につぶやく品々。捨てられた、忘れられた者達の怨嗟の声。基本的な路線は、フレッシュ、スマイルの映画と類似しています。言い換えればフレッシュの問題提起は近年のプリキュアテーマの核心を見事に抜き出していたと言えます。人が生きていく中で得るもの、捨てるもの、出会うもの、別れるもの。そこに私達は何を見るのか。
車で移動していた真琴達はガラクタが空を飛んでいく異常事態を目撃。
マナのウエディングドレスも不思議な音色に誘われて動き出します。シャルルがマナを起こしてなんとか食い止めるも、物置にあったガラクタが飛びだしていきます。六花の家でもピアノが豪快に窓を割って出ていきます。今回の事件はジコチューと関係無いんですが、終わった後自動修復されたんでしょうか。人によってはガラクタが処分できてラッキーと思っているかもしれません。
空を見上げると、ガラクタで作られた巨大なクジラが浮いています。今回はCGの場面が多くクジラは勿論、クラリネットを演奏するときの指使い、終盤のバトルなど今までの映画以上に多くのシーンで使われています。
想い出の国の王、マシューと名乗るマントの男。マシュー…マロ。白くてモフモフ。マシュマロなにしてるんですか。と開始10分くらいでボスの正体が分かります。現時点でマロの名前がマシュマロから取ったという話しはされていませんが、チラシか何かで読んだような気がします(主題歌2番の歌詞にもマシュマロの単語が出てくるのでそれかな)。マントを脱ぐとより分かりやすくなりますが、マシューは首輪をしていてチラっとハート型の装飾品が見えます。
マシューはマナに呼びかけます。しかしマナは見覚えがありません。彼女の反応にマシューは失望を覚えます。いや、あんた姿形全く別物になっとりますがな。マシューのマナへの想いは相当なもので、この騒動の動機も全てマナへの想いからです。
家族が心配して外に出てきます。トラップ発動、キャトルミューティレーション。対象は想い出の世界に引きずり込まれる。
怪奇光線がマナにも迫ってきますが、こちらも召喚魔法、セバスチャン。ピンクのリムジンが階段を乗り上げて飛びだしてきます。ついでに怪奇光線を出すカメラを破壊。颯爽と登場。ありすがケガはないかと声をかけます。どっちかっていうと、その車に乗っていた君らの方が心配なのですが。
真琴とも合流。変身。劇場の子どもらのテンションが一気に上がります。やっぱプリキュアは変身してこそのヒロイン。
マシューは廃品をリサイクルして怪人を作り出します。パープルバギー。シルバークロック。マネキンカーマイン。
戦闘開始。あっさり勝てます。ダイヤが氷属性を活かしてバギーをスリップさせるのは上手い。ところがクラリネットの音色で怪人は再生。ホーリーソードで一掃するもまた再生。キリがない。映画でハート以外の必殺技が全て使われるのは面白いですね。
こういう時はヒーラーを叩く。マシュー目がけてフォースアロー。防御。マシューは反撃にイレブンファングをお見舞い。めっちゃ犬です。直撃を受けたプリキュアは変身解除して一気に窮地に陥ります。
それでも諦めないマナは傷つきながらも立ち上がろうとします。そこにセバスチャンが駆けつけ脱出を試みますがリムジンがファングで破壊されます。RPGの直撃にも耐えそうなリムジンが一撃で!?
セバスチャンも想い出の世界へ。マナ達はまた帰ってくると決意を込めた瞳を向けながら想い出の世界へと引き込まれます。
マシューは他の人々を想い出の世界に入れるためにその場を離れます。戦闘跡から這い上がるシャルル達。万事休す。そこに見慣れぬ妖精が現われます。
④想い出の心地よさ
かけられる言葉。朦朧としながらマナは夢を見ていたと、先ほどのことを話します。相手はずいぶんと具体的な夢だと相づちを打ちます。覚醒したマナは目の前に居る人物の顔を見て驚きます。他界したはずの祖母が座っています。マナが寝ぼけていると思った祖母は夕飯の支度をすると部屋を出て行きます。鏡に映る自分の姿に驚くマナ。机の上には小学4年生と自筆のノートが置かれています。マナは漢字で「相田愛」と書きます。マナは困惑しながらも、母なら憶えているはずだと買い物から帰ってきた母に尋ねようと玄関へ。そこにはマロが一緒にいます。それを見たマナはさきほどまで頭にあった疑問は消えてしまい、思わぬ再会に感激。
マシューはマナが見る想い出を見つめながら、満足そうな笑みを浮かべます。
見知らぬ妖精はシャルル達にマシューのことを教えます。人間達に忘れられたガラクタ達の復讐。未来を奪うと訊いたシャルルは憤慨します。まだまだ未来があるのにそれを奪うなんて。そうだね、子どもや若い人はそうだ。では、年寄りはどうなのだろう。未来がほとんど残されていない人達はどうなんだろう。痴呆症になるのは現実を受け止めたくないからだ、という説があったります。願わくば死ぬその時まで私は現実を「然り」と言いたいものです。
妖精は奪還作戦を提案します。しかし何故こんなに詳しいのか。妖精はベベルと名乗ります。マシューとは知り合いらしい。声で気づく人は多いと思いますが、私は口調で確信しました。ヒントとしては、事前に知っておかなければなりませんが、お婆ちゃんの名前は板東いすず。鈴とベルをかけているようです。
翌日、マナは六花に相談しょうと家を訪ねます。ところが姿を現したのは見知らぬ外国人。ご近所さん設定らしくマナに親しげな声をかけます。混乱したマナは撤退。表札を見ると「じょん・すみす」と書かれています。学校に行っても六花とありすの名は無く、二階堂君達に訊いても手がかり無し。変声期を過ぎていないためか少年声なのは細かい演出。どうやらこの世界は六花とありすが居ない世界のようです。マシューによって改竄されているのでしょう。この手のパターンだと、この世界に次第に染まっていって記憶も薄れていくというのがベターでしょうか。六花やありすはかなりその傾向が強かったようです。マナが家に戻るとマロとお婆ちゃんが迎えます。早く現実に戻らなければなりませんが、さりとて、懐かしい人々との温もりを捨てるのも惜しい。
マシューは超満足。それにしてもマシューさんめっちゃ美声です。終始イイ声なので、真面目なシーンでこの声訊くと何故か笑いそうになります。
この「想い出に逃避する(閉じ込める)」を扱った作品だと、クレヨンしんちゃんの映画「大人帝国の逆襲」が思い出されます。辛い現実から楽しかった想い出(過去)に逃避する。個人差があるのかもしれませんが、私は過去をそれほど良かったとも悪かったとも思っていません。大抵、想い出補正が働いて都合の良い部分だけが協調された記憶になるでしょうが(いじめなどの辛い記憶も自分は被害者だったと都合の良いように補正される)、それを含めても過去に未練はありません。同窓会の時に当時の先生から「やり直したいことはあるか?」と訊かれましたが「無い」と即答しました。いじめられた記憶も、学校でおもらしした記憶も、それは私がやってきたことです。生きていれば辛いことも楽しいこともあるものです。人はそうやって死ぬ生き物。勿論、そう思えるのは私が心身ともに健康だからというのもあるでしょう。30代前半なら体力はまだまだだし、精神的にも仕事力的にも申し分ない。だから私は今の内にそれを使いこなし、養う。10年、20年後はその時また考えればいい。って思うのは、多分に私の根っこには厭世観や諦念、楽観があるからだと思います。どうにもならないことをクヨクヨと考えたりはしない。考えるならどうにかなることを考える。
クローバータワーに明かり。
クジラに潜入するためシャルル達は待ち伏せ。ダビィはムササビスーツ(ウイングスーツ)を着用。妖精のままでは速度が出ないので、一気に乗り込む算段。シャルル達を胸元に入れて発進。
マシューは罠だったこときに気づき、怪人を向かわせます。潜入に成功したダビィ達は奥へ進行。途中で現われたマネキン(怖ぇ)をダビィが軽やかに倒します。この人万能だなぁ。
フィルムが保管されている部屋に辿りつくと、早速マナ達のフィルムを捜索。マナのだけが見つかりません。これをお探しかな?と怪人達が現われます。
囚われの身に。マシューはマナ達が見ている想い出を映し出します。この幸せそうな顔を見ろ、とマシューはうっとりしたように言います。マロと戯れるマナの笑顔。彼は自分が居ない現実を認めたくないのでしょう。マナにとって彼は一つの出会い、一匹の犬でしかありませんが、彼にとってマナは全てです。この非対称性が彼・彼女の認識に大きな隔たりを生んでいる。彼はマナに自分を忘れないで欲しい、自分をずっと見続けて欲しいと思っている。彼が言う幸せそうな顔とは、彼自身のことを含んでもいるでしょう。トイマジンとは別な意味での正当な復讐方法と言えるかもしれません。ずっと、永遠に愛されたいと願うことは当たり前のことです。しかしそれはやっぱりジコチューでもあります。人を縛り続ける愛は愛足り得るか。
頑なまでに現実を拒否するマシューに、ベベルは言い返します。時間が止まってしまったお前には分からないかもしれないが、あの子達には未来がある。それを奪う権利なんて無い。ダビィが変身を解いて妖精の姿に。捕縛が解けてベベルはマシューに飛びかかります。シャルル達はその隙に想い出の中へ。
お前の野望もこれまでだとベベル。「マナ…」「へ?」一瞬垣間見えるマシューの想い。人間だけが未来へ行くのを認めたくない。
シャルルが想い出の中へ入ると、先ほど見ていた景色と一変して雨模様。お婆ちゃんが入院したことを父から知ったマナは急いで病院へ向かいます。マロは留守番。しかし縄が切れかけています。
病院につくと案外お婆ちゃんは平気そうです。しかし最近よく転んだりケガをするとマナは心配します。少なくともここから4年以内には亡くなるので予兆はあったということでしょう。マナは自分がお嫁に行くまで長生きしてと懇願します。「モチのロンさ」。マナが以前言ったセリフはお婆ちゃん譲りでしたか。
帰り道、シャルルに会ったマナは彼女を抱きしめます。どうやら記憶はちゃんとあるようです。シャルルは現実へ帰ろうと促します。マナは一瞬躊躇って、お婆ちゃんやマロへお別れをしたいと言います。彼女なりにけじめは付けたいのでしょう。
家に着くとパトカーが止まっています。父に尋ねると、マロが車にはねられたと伝えられます。玄関を空けるとマロの亡骸が置いてあります。このシーンは地味に直球勝負に出たと思います。言葉だけで終わらせてもいいシーンですが、キチンと死を見せることでマナのショック、現実の重さを伝えています。これは後の別なシーンでも同じ事が言えます。
2度マロを失うマナ。この出来事はかつてあった出来事とおそらく違う筋書きだろうとは思いますが(でなければマナが事前に思い出す)、マナがこれによって躓いてしまうのはマシューの思惑通り。彼女に慰めの言葉をかけながら彼女を自分の虜にします。愛は人を縛る。人から未来を奪う愛を、本作はジコチューと呼ぶでしょう。ジコチューは悪ではありません。人の迷い、罪、憎しみ、哀しみが混ざった愛のことです。
END
拍手するマシュー。彼の愛は歪んでいる。しかしこうした愛は現実のあちこちで見られるものです。
ベベルはマナを信じます。どんだけ孫を信用してるんですか、この人。生前彼女は孫に伝えるべきものを伝えたのでしょう。
マシューは怪人達に六花達を始末するように指示します。
⑤あなたが居ない過去、あなたが居る今
六花のピアノ演奏会。両親が自分のために時間を割いてくれる貴重な時間。好きなものを食べさせると約束する父に、六花は「オムライス!」と答えます。本人も意図していなかったようなリアクション。ぶたのしっぽの記憶でしょう。
リムジンの中でありすは独りでぬいぐるみ遊び。父がやってきて社交界デビューの日だと伝えます。「そんなもの」は置いていけと言います。「はい、お父様」素直に従うありす。これは結構くるものがあるな。車で留守番するクマのぬいぐるみはどこか寂しそう。いくらでも選択肢があるマナや六花達に比べてありすはがんじがらめ。それでも現在のありすが溌剌としているのはマナ達との出会いの賜でしょう。それに比べてマナや六花と出会っていないありすはどこか人形的で弱々しい。本編33話は映画のこぼれ話というかスピンオフになるそうですが、ややもすると鳥かごの鳥になってしまいかねないありすの心の自由が担保されるエピソードを映画よりも前にやったのは正しい事だったと思います。六花にとっても、ありすにとってもマナとの出会いは人生を変えるものでした。
満ち足りているはずなのに何かが足りない。六花とありすがすれ違います。互いに立ち止まって声をかけあいます。
「あなたは誰?」
そこにラケルとランスが落ちてきます。六花とありすにぶつかって、彼女達は元の中学生の姿に。妖精との再会も束の間、自分達が置かれている状況に気づきます。先ほどまで親だったものはマネキンに。怖ぇよ。この世界に他者は存在しない。全てが自己愛で作られた幻。
バギーとクロックが現われます。マナが居ない世界なんてなんの意味もない。そう言い切る彼女達は強くもあり脆くもあり一途。偽りの過去よりも現実を。それは多分、喪失よりも獲得するものの方が多かったからでしょう。変身。このふたりがコンビ組んで戦うのは本編でも無かったので新鮮です。
王女からプリキュアを拝命される真琴。トランプ王国が平和だった頃、王女に近づけたあの日。ダビィが落ちてきます。世界の景色が変わりマネキンだけが居る世界に。王国は存在しません。真琴は幻だと分かっていてもかつての記憶にすがってしまうことを自覚しています。ここは丁寧な描写ですね。六花ありすと真琴の大きな違いです。いくらマナ達と出会ったとはいえ、真琴にとっては喪失の方が大きい。ダビィが意気地無し!と叱咤して、マナ達と誓ったあの日を思い起こさせます。こうして本編とリンクすることで彼女達の歴史と実績が感じられて感慨深い。冷静になる真琴。カーマインが現われます。変身。BGMがカッコイイ。今回の映画は映画オリジナルの曲が多く、また出来が良いので熱い。
「愛をなくした悲しいカラクリ人形さん、このキュアソードが愛の剣であなたの野望を断ち切ってみせる!」
バギー達は先の戦闘経験を踏まえ手強くなっています。スパイクタイヤで氷もなんのその。バギーとクロックは合体して巨大化。ロゼッタのバリアも破られてしまいます。PVなどで先行的に出ている映像は多少修正されてほぼ本編で使用されています。てっきりロゼッタ無双かと期待したのですが。いや、まあ、無双するんですけどね。
いつもマナに助けられた。今度は自分達がマナを助ける。後の先を取る。ロゼッタが敵の攻撃を防ぎ、ダイヤが新技ダイヤモンドブリザードで敵を氷漬けに。ロゼッタも2枚のバリアを出してダブルクラッシュ。流石黄色ゴリ押し。敵を撃退したものの、こちらも体力が尽きて相打ちに。
動きを読むカーマインにソードは苦戦。カーマインもまた巨大化して窮地に陥ります。「きゅぴらっぱ~」。すっかり忘れていたアイちゃんとエース。どうやって来たのかと尋ねると、愛は次元を越えるとか言われます。初期のノリですね。戦闘力も初期のノリ。優雅に攻撃を躱してエースショットを撃ち込みます。女児のエース人気ってどうなんだろうと思っていましたが、彼女が登場した途端子どもらが顕著に反応したので人気(興味)が高いようです。ソードも上位技アルティマソードでカーマインを撃破。ソードは白兵戦が似合う。
倒したと思ったカーマインが自爆してエースとソードは戦闘不能に。流石ソード、仕留めきれない。
相打ちとはいえ、これで六花達がマナを助けに行くことはできないのでよくやったと怪人達に労いの言葉をかけるマシュー。これでマナは完全に自分の思いのまま。ベベルは何も言わず、しかし信頼は失わずにマナの想い出を見つめます。
学校から帰ってきたマナをお婆ちゃんとマロが迎えます。しかしマナは返事もせず心ここに在らず状態。その様子にお婆ちゃんは何かを感じ取ります。いつものことですが、プリキュアのお婆ちゃんは作中最高位の大人ポジションです。
部屋でシャルルはマナに帰ろうと言います。しかしマナはマロが死んだ世界に帰りたくないと答えます。レジーナの時もそうですが、マナは喪失の苦しみがかなり堪えるようです。マナは現実を直視するタイプですがこればっかりは復帰に時間がかかる様子。まあ、普通誰でもそうなのですけど。はからずもマロを死なせた遠因があるマナにとって、この世界に居続けることはある種の贖罪になるのかもしれません。
ところで、私は現実は辛くて悲しいことばかりだという言葉に同意しません。辛くて悲しいことは否定しませんが、その辛くて悲しいことをずっと経験してきたんでしょ? なら、私はそのことを誇りにしていいと思います。惨めに逃げてきたのならいざしらず、乗り越えてきた、耐えてきたと思えるならそれは誇っていい。10年前が辛いなら、10年後もきっと辛いさ。でも、それが生ってもんです。いざとなれば死ねばいい。って割り切ることで私はダメージを最小限に抑える(過大な精神負担を逸らして、対処するための余裕を作り出す)。そして好奇心を武器に楽しむ。今までの楽しかったことと辛かったことを足し引きすれば十分おつりが来る。おつりがくるようにしてきたつもりです。現実を生き抜く処方箋は人それぞれですが、確実に言えることはその処方箋は自筆でなければならない。捨てるにしても、拾うにしても、そこに自分の意思があってこそ人は誇りを持てる。
シャルルは何故お婆ちゃんやマロの分まで生きようと思わないのだ、自分に甘えているだけだとマナを責めます。よくある説得の常套句ですが、甘えて何が悪い?と言われると返す言葉が無いんですよね。悪くはない。単に先に進まないだけで。
お婆ちゃんが部屋に入ってきます。シャルルに気づいています。マナは自分の葛藤を話します。本来なら断片的な情報でお婆ちゃんにはなんのことか分からないはずですが、おそらくこの世界はマナの記憶から創られた想像の世界なので、問題なく伝わります。マナという名前は愛と書く。名の由来を話し始めるお婆ちゃん。
「困った人がいれば手を差し伸べ、共に未来に進もうとする気持ち。それが愛さ」
これまで本作がやってきた愛の形を表す見事な言葉です。愛とは人の優しさ、自己と他者を包括する概念。だから立ち止まってはいけない。閉じ込めてもいけない。自由でありながら、繋がりと連環を持ったもの。
お婆ちゃんに促され、マナは六花達の声を聞き取ります。みんなのところへ行けとお婆ちゃんは言います。離れたくないと躊躇うマナに、ずっと一緒だ、愛は受け継がれるものだと教えます。マナにおまじないをしてみせます。おそらく生前もこれに似たやり取りなり、お婆ちゃん像が作られる出来事があったと思われます。その記憶、印象が再構築・再解釈されていると見る方が自然です。過去の辛い出来事はあなたの糧に、幸せな時間はあなたの愛になっていくのだ、というのがこの映画のメッセージです。過去を忘れることもあるでしょうし、糧にならないこともあるかもしれません。しかし記憶に限ることなく、人とはその人格や行動原理において過去の蓄積と資質によって変っていくものです。未来に進むとは過去を捨てることではなく、その経験を経て変わっていくことです。人は誰かの一部に、何かの変化のキッカケになる。
マナは中学生の姿に戻ります。また会える?「モチのロンさ」。
変身。敵と戦うことだけが変身の目的ではありません。新しい自分になるための再生も含む。ここからフィルムが解放されて現実へと戻るシーンはBGMも格好良くて出色の出来です。音楽担当の高木さんは良い仕事をしています。
⑥愛憎の果てに
プリキュア達は元の世界に戻ります。マシューは本性を現します。
巨大な犬の姿になるマシュー。プリキュア達の言葉から過去が否定されたかのように受け取ったようです。ハートは目の前にいる彼がマロだと思い至ります。マシュマロとの初めての出会いの記憶。
マシューは執拗にハートを狙います。むき出しになった犬歯が眼前に迫る。イレブンファング。回避。ロゼッタのバリア便利だなぁ。しかし本命はハート。マシューはハートに喰らいかかります。ハートはそれを受け入れます。
肩に食い込む牙。ハートはよろめいてマシューから距離を離します。マシューも彼女の無防備さに驚き動きが止まります。口からしたたる鮮血。傷口を押さえるも指先に伝わった血がこぼれ落ちます。作り手に覚悟があったのだろうと思います。プリキュアはこれまで流血シーンはありませんでした。そもそも製作担当にもよりますが、直接的に(特に顔を)殴られるシーンを禁じていたくらいで、プリキュアが血を流すことなどありえませんでした。先の死についてもそうですが、これはマナが背負わなければならない責任であり現実なのだと思われます。フレッシュやスマイルのように言葉でわかり合えたならそれでも良いでしょうが、それが出来ない場合、本当にあなたは彼らのために痛みを引き受ける覚悟があるのか。理屈や言葉に頼らず、行動や痛みとして引き受けられるかをマナに問わせたのだと思います。そしてそれは同時に、
マナはマロに詫びます。楽しい想い出を一杯もらった、ありがとうとマロを抱きしめるマナ。人の姿に戻ったマロは自分がやったことを後悔します。そう、そしてそれは同時に愛が人を傷つけてしまうこと、自分が一番大好きだった人を傷つけてしまうことを浮き彫りにします。どうしてジコチューではいけないのか。人を傷つけるからか、我儘だからか。それもあるし、多くはそうです。しかし、愛がジコチューに変わったときに、自分の大切なモノを自分で壊してしまうことで深く傷つくことがある。その意味でジコチューは破壊と自滅を生むのです。愛している人と共に居たいという願いが全く逆の結果を生む。
マナはみんなを想い出の世界から解き放てばみんな許してくれるとマロに手を引くよう促します。しかし黒幕がそれを拒みます。クラリネット。 そのクラリネットってやっぱドとレとミの音が出ないんですかね。
マシューと呼ばれたマロはマシュマロだと毅然と言い返します。カッコイイんだけど、なんか間抜けに聞こえるのが絶妙。
クラリネットは過去ならず未来まで奪おうと次元を越えます。クジラが消失してプリキュア達は落下。エースの変身も解けてしまいます。
ラスボスは未来に飛んで、こちらは打つ手無し。しかしハートは傷つきながらも未来へ行くと頑として言います。こんな時は亜久里えもん。伝説のミラクルブーケライトを使えば可能。もう伝説って付ければなんでも有りのような気がしてきました。そのライトはアイちゃんが配布。亜久里が映画を見ている観客に応援を促します。色々次元越えすぎだろ。ラストバトルはあっさりなので、実質ここだけでしかライトは使いません。ライトの力でHP満タン。エースも再変身。未来へ行きます。
⑦最終決戦
プリキュアが気づくと、結婚式場にいます。
教会から人々が出てきます。上述のとおり、六花達はこちらの方が大人っぽい。マシューはマナの将来の姿を見て嬉しそうに微笑みます。ちなみにこの結婚式はやはり女児の興味を惹くようで、場面転換としては効果があったように思います。ブーケを投げたところで止まってしまいます。
クジラに足が生えたタコみたいなのが飛んできます。
最終決戦スタート。ここからはほぼCGによる戦闘。これは大胆な試み。フレッシュの映画やオールスターズで部分的に使っていましたが、本作では尺が長いのと、CGの出来が良いのとで臨場感があります。ソードの射撃シーンが個人的にお気に入り。個々人の攻撃ではクジラの装甲を破ることは出来ません。叩き落とされてしまいます。
ハートはクラリネット本体を叩くと言います。探知はマロが引き受けます。突撃。エースはハートの判断は正しい、彼女を信じようとハートを支持します。ダイヤ達は呆れながらも援護してハートをクジラに近づけていきます。アクションが熱い。エースとソードで装甲を打ち破ります。必殺技を使うより物理で殴った方が威力があるのがプリキュア。
内部に侵入したハートはマロと共にクラリネットが居る部屋へ辿りつきます。ここまでのシークエンスも立体感と迫力があります。CGの採用は実験的でありながらも成功していると思います。そしてやっぱりBGMが熱い。
ハートはあなたのドキドキ取り戻してみせる!といつもの口上をあげます。このあと3分くらいで許さない!と言って倒すんですけどね。
ダイヤ達が駆けつけ、そのまま最強必殺技を打ち込みます。ノーダメージ。クラリネットは歯車を飛ばして攻撃。狭い部屋なのでこれはちょっと厄介。マロがハートをかばって倒れます。3度目の別れ。元々マロは死者なので別れざるを得ません。おそらくマロは史実でも事故などの不慮の死でマナと別れているので、ここで死に際を引き取ってもらえるのは彼にとって本望だろうと思います。マロはプシュケーに変わります。なるほど、そう来たか。これは予想してなかった。黒いプシュケーを使ったビーストモードがあったのだから、それとは逆に白いプシュケーを使うのはよくよく考えればあり得た発想です。
「キュアハート・エンゲージモード!」
ウエディングドレスに身を包みます。この場合のエンゲージは当然「約束」でしょう。約束は信頼と行動を互いに課す契約。人を縛りつつも互いを高めるものとしてのニュアンスがあります。
クラリネットを倒す気満々のハート。クラリネットも譲る気はなく第二第三の私が生まれる的に不死身だと豪語。矢を放って倒します。クラリネットは本編でいうところのベール達みたいなポジションで、マロのジコチューを利用した悪役。ジコチュー側の救済がありうるかは本編に委ねられる。スイートを除けば近年のプリキュア映画はボスを倒さないのと、この後の終わり方も余韻が短く一気に畳まれるので、ちょっと物足りないと感じるところではありますね。
マナが生まれた時の想い出。名付け親はお婆ちゃん。完全に自分で名付ける気満々じゃないですか、この人。即決。
空から流れ星のように幾筋もの光が落ちていきます。想い出から解放された人々の魂。ベベルはマロのプシュケーを連れて帰ります。これは一種の鎮魂、供養と別れの儀式なのでしょうね。マナがまたマロと会えるかと尋ねると「モチのロンさ」。ベベルの言葉がじょじょにお婆ちゃんになっていくのが綺麗です。
想い出は去り、新しい朝が訪れます。
⑧ED
前振り無しでEDになだれ込みます。TV版の長さよりも多少時間があるのでその分はエンゲージモードになってダンス。
春映画はNS3。ラストステージ。
○トピック
70分間見入る映画でした。プリキュアの映画は何回も見るんですが、見慣れてくると大概「あのシーンまで待機」状態になってテキトーにダレたり、子ども達のダレ時が読めたりするんですが、今回の映画はそれが無くて、一連でずっと見たいと思うドラマチックな仕上がり。
昨年のスマイル映画と同じように過去エピソードを扱っていて、なおかつ主人公に復讐をするというところまで同じですが、やはりその年の本編テーマに軸足が置かれています。
本映画の大きなテーマとして「生と死」があります。フレッシュでは「捨てられた玩具」、スマイルでは「忘れられた絵本」をモチーフにしていましたが、本作ではよりストレートに「死者」を扱っています。大切な人との別れ。その人との記憶が薄れ想い出の一つに過ぎなくなっていく。誰しもが経験することです。それが文字通り過去のものになっていくのか、そうではない何かになっていくのか。マナとお婆ちゃんのやり取りはそれを扱っています。本編で幾度も描かれたように、何気ない行為、意図しない行為から人が学び、憧れ、真似をしながら自分のスタイルへと変えていく。人の姿や意思というのは姿形を変えて伝播していくものです。これは近視眼的に「心で繋がっている(相手との一体感や同一感)」というのでなく、もうその人の一部となっていくということです。元は誰が言いだした物なのか分からなくなるくらいにその人にとってそれが当たり前のことになる。そうなったときに本当の意味でそれがその人の血肉になったと言うのではないかと思います。
私は天の邪鬼なので敢えて言いますが、過去を忘れたって良いと思います。というか、表層的な意味での記憶にあまり意味を感じていないと言うべきか。重要なのは学ぶことです。極端な話し、今現在のことをキチンと学び教訓や糧として身につけていけばわざわざ過去を振り返るまでもないし、囚われることもなくなると思っています。今起きている現実を真っ直ぐに見据えて、自分と関連付けて捉えて行けばいい。そこでの体験の多くを忘れてしまっても、学んだことを実践していけさえすれば良い(記憶に残すことと、実践することは全く別物)。フレッシュの映画の時にも書きましたが、人は忘れていくし、捨てていくし、取っ替え引っ替えしながら生きていく。玩具が友達になり、友達が恋人になり、恋人が伴侶になり、伴侶が子どもになり、そうやって死んでいく。私はそれを悲しいこと、寂しいことだとは思いません。それは人に許された素晴らしい特権です。出会いや別れを愛と呼んで、死をも超越しようとする人の生命力、創造力だと思っています。詭弁を弄してでも死を直視したくないだけだ、と言い換えることも出来るでしょうが。どちらにしたってやることは同じです。私達は様々なもの、人から多くのものを学び、そして多くの人に教え、何かを残していく。
大切なのは全てを背負って(記憶して)生きることじゃない。時に何かを捨て、時に何かを拾いながら自分の生を進めていく決断と意思です。マナのお婆ちゃんは孫が過去に囚われてしまうことを望まないでしょう。例え自分との記憶が薄れてもマナに進んで欲しいと思うはずです。それは決して薄情で悲しいことではありません。人が生きていくために必要なことで、ひとときであっても自分がその人の想い出や成長の糧になるのであれば、それは人の在りようとして正しいことだと私は考えます。マナが何かを為し得たなら、それに関わる多くの人に恩恵を与えていくでしょう。未来を目指すということは、いま在る人々のために愛を伝えていくということです。
想い出を大切にするとか、忘れないというようなことにこだわらずに(自身の人格と離れた抽象的な願い、意志である)愛をマナに託して成長を見守るお婆ちゃんは非常に大人で、理性的であり同時に情熱的です。無論こうした「学び」「継承」は深い関係性、信頼で繋がっていた方が効果が高いのも事実です。日常で接している時間が長いほど、あるいは印象が鮮烈で強いほど人の記憶にも残る。
しかし、その結びつきが強いからこそ生まれてしまう弊害もあります。それがマシューです。
マナとお婆ちゃんの愛の継承が本作が意図するところの愛の形であるとしたら、マシューがやったことはジコチューと見なせます。何度も述べているようにジコチューとは単純に悪いものではありません。それどころか本質的な意味では愛と同じところから発しています。お婆ちゃんは「共に未来に進もうとする気持ち」を愛だと言っていますが、マシューだって「共に」居たいわけです。そのために閉じ込めようとするところが間違っている。マシューは死者ですが、例えばキングジコチューもレジーナを手元に閉じ込め思いのままに操っている点で同じです。マシューが提示するジコチューは決して特殊なものではありません。友達でも恋人でも親子でも、様々な関係に見られる人の心の現れ方なのです。
愛する者を傷つけそれによって自身もまた傷ついてしまうマシューの姿は、ここまでで引用してきたフレッシュやスマイルのエピソードよりもさらに踏み込んだものになっています。過去の人が復讐者となって襲いかかってくるとか、忘れた側の罪という問題にとどまらず復讐者自身もまた傷つき、出口を失う。ここにジコチューの自己矛盾、自己崩壊の芽があります。実際に共依存関連の本を読んでも自滅的な関係性が見られます。
このジコチューを救いたいと思うのがマナです。何故救いたいか。それは彼らと友達になりたいから(友達だから)です。マロは愛犬ですしレジーナは友達です。だから彼女は彼らと共に未来に進める道筋を見つけようと努力し、時に痛みを引き受けます。この映画で見せた彼女の覚悟は、別な形で本編でも見られると期待しています。全ての人が最初から愛を持っていてスムーズに共有できたら苦労はしません。でも実際にはその逆で、前提も目標も全然違う。それを繋ぎ、共により良い関係を作るために彼女達は努力してきました。六花、ありす、真琴も同じです。わざわざそんな手間をかけて他者と繋がろうとするのはそれが自分にとっても他者にとっても利益になるからだ、なんて野暮ったいことではなくきっともっと単純に「あなたが好きだから」「あなたとそうしたいから」なのだと思います。それはマナ達に限らず、みんなそうした素朴で単純な気持ちを持っているはずです。その気持ちを正しく、強く、しっかりと持ち続けることがプリキュアの意志であり力です。
プリキュアの映画は、その年のプリキュアのテーマが色濃く出ることが多く、また本編の先行きを見る上でもとても参考になるものですが、ドキドキについても同じことが言えそうです。プリキュアもまた製作者が代りながらも受け継がれていくものがあるのだと改めて実感します。
第38話「ベールのたくらみ!アイちゃんジコチューになる!?」
①アイちゃんの夜遊び
アイちゃんは順調に成長。イヤイヤ期も脱したようです。アイちゃんの笑顔にマナ達は元気が湧いてきます。私は女子中学生を見ていると元気が湧いてきます。
映画宣伝仕様OPその3。主に過去編。私は女子しょ(以下略
ソードはマント姿がカッコイイので、この格好で戦うシーンとかあれば私は泣いて喜びます。それはそれとしてネタバレが容赦ねぇ。
アジト。ベールはアイちゃんをジコチューに育てる作戦を思いつき、育児本を読み漁ります。アイちゃんをこちら側に引き込めばパワーアップ源として安定します。しかしどうやってアイちゃんを引き込むか。ベールは服を脱ぐとタイツ姿になります。
……。
変な格好で変な動きをするベールから身体を離すイーラとマーモ。危ない人にしか見えません。「指人形で行く」。楽しそうで何よりです。
夜。ベールが声色を変えてアイちゃんに呼びかけます。無駄にうめぇ。指人形作戦は功を奏してアイちゃんの気を引くことに成功。ベール達の格好どう見てもキャッツアイを意識してるだろ。今回はネタの仕込みが色々酷い。マナの家にまで来てアイちゃんだけ誘い出すって本末転倒のような気もしますが。
そんなわけで、アイちゃんは朝になってもお寝坊。朝食も食べたがりません。またイヤイヤ期が再発したのかと疑うマナ。お世話をシャルルに任せて学校に。
学校から帰るとシャルルが力尽きています。昼寝もしないしよりパワフルになって妖精達では手が付けられなくなりつつあります。アイちゃんの急変に疑いを持つシャルルですが、マナ達は赤ちゃんだし日々変わるのでは?と様子見。
シャルルは寝ずの番を試みますが、睡魔の誘惑には勝てません。
アイちゃんの我儘が悪化。その晩もシャルルは寝てしまいます。
アジトでお菓子やジュースを食べ飲み放題。玩具で遊び放題。じょじょにアイちゃんが黒く染まっていきます。野心を再び燃え上がらせるベール。アイちゃんを味方に付けて人間界のジャネジーを独占できればキングジコチューを越えられる。皮算用で高笑い。ああ、この人、絶対出世出来ない人だわ。なんか、こう、スケール小せぇ。メロンソーダで舌が緑色になってるし。ボウリングのピンが飛んできます。ほら、どう見てもお笑い担当だよ、この人。
超能力を使ってベールをピンに見立ててボウリング。これは酷い。アイちゃんのドヤ顔がクセになる。日頃の鬱憤が溜っているイーラとマーモは歓声を上げます。が、次のターゲットは彼ら。アイちゃんの悪逆非道が夜を徹して行われます。このままジコチュー殲滅できるんじゃないかな。毒には毒で。アイちゃんのジコチュー度はさらに進行。
②愛の結晶
シャルルからアイちゃんが朝帰りしていると訊くマナ達。
下駄箱を開けると封筒が落ちます。それを見た六花はラブレチャー!?と焦ります。おやおや、六花さん何をそんなに動揺しているのかな。封筒には「果たし状」とあります。「た」を後から付け足したような位置。ジコチュウの印付。やたら細かいところでネタに走っています。しかしそれにしても残念。修羅場が見られるかと期待したのに。
ジコチューにアイちゃんが拉致され呼び出されます。
廃工場。亜久里も含めて集まる5人。イーラ達が待ち受けます。ボロボロの格好で。せめて替えの衣装くらい用意しとけよ。ベールがアイちゃんを見せます。ギャングみたいな格好。アイちゃんのジコチューを高めさせてパワー補充。何故か衣装まで直ります。
アイちゃん争奪戦が始まります。なお、アイちゃんがこんな状態なので亜久里はお留守番。
アイちゃんの支援を受けてイーラとマーモは強化されているため歯が立ちません。プリキュアがボコボコにされているのをアイちゃんに見せるのはマズイので目隠しで対処。
勝ち誇るイーラ達に、ハートは愛は無くなったりしない。愛は信じることだから自分がアイちゃんを信じていれば無限に溢れてくる。そうだね、愛は言葉ではない。覚悟と行動。だからそれを彼女は示さなければならない。映画でその一端が見られます。
爆発。悲鳴。プリキュアの悲鳴にようやくアイちゃんが気づき始めます。亜久里がアイちゃんに呼びかけます。しかしアイちゃんは混乱し泣き出してしまいます。それがジコチューをより強くします。貯水塔が落下。ダイヤ達が支え、ハートが単身ベールを追います。鳴き声で壊れた煙突がアイちゃんの上に落下。
煙突の中で二人っきり。ハートはアイちゃんの異変に気づいてあげられなかったことを謝ります。ハートを拒むアイちゃん。抱きしめながらハートは語りかけます。これまでのことを。数々の回想の中に混ざっているノッポさんと氷漬けの王女の構図がひでぇ。ハートは話しながらアイちゃんに感謝と優しさを伝えます。ある意味でアイちゃんの子育てはレジーナのリベンジマッチと言えます。アイちゃんをジコチューから取り戻すことが出来たことで、ようやくマナ達はレジーナと再び相対する権利を得ました。物語は終盤。下積みは終わり。あとは走り抜けるのみ。
「マ、ナ」
完全復活。きゅぷらっぱ~で煙突を粉砕。ジコチューは弱体化。逃げ出そうとするイーラとマーモに電撃をお見舞いして、リングの力を解放。亜久里も変身。最大火力で撃ち合います。今度はアイちゃんの支援を受けたエースが圧倒。
リングを回収したベールはムキムキマッチョになります。スーパーベール。お前出る番組間違えてる。タイツ姿も相当だけど、まさかこんな隠し球があったとは。最強必殺技を打ち込みます。ハートのラブリーパッド単独技使う日が来るんでしょうか。「あたたたたっ」。だからお前番組違うって。火力で押し切り。
「やまじ…」
中の人のアドリブなのか台本なのかわかんねーけど、どんだけ今回ベール回なんだよ。お父さんに人気ありそうだなぁ、このキャラ。リングは消滅してしまいます。ジコチュー組は撤退。
ぐっすり眠るアイちゃん。アイちゃんの力があればキングジコチューに勝てるかもしれない。プリキュア側の切り札足り得ます。キングジコチューと相対する時が来たのかもしれないと話す亜久里。「そしたら…」。レジーナと再会の予感。
③ジコチューの結晶
トランプ王国。呼び出されるベール達。電撃が落ちます。
「レジーナ!」
「レジーナ様、でしょ?」
④次回予告
久しぶりに出てきたと思ったらすげぇ悪い顔してるぞこの人。三種の神器は誰の手に。
グルトのCMが気合い入りすぎ。
○トピック
ベールの人気に嫉妬。
ということで役者と舞台が揃います。プリキュアが育てた愛の結晶たるアイちゃん。キングジコチューの元にはレジーナ。双方の陣営にキーとなる人物。映画も公開で終盤に向けて物語が開示されていきます。
第37話「なおせ好きキライ!ニンジンVS亜久里」
①苦手な食べ物
外でランチ。アイちゃんのメニューはニンジンのおかゆ。成長に合せて食べ物も変えていきます。
しかしそれだけではただの育児アニメ。ラブリーパッドを取り出してミックスジュールを作ります。「ラブリーパッドってそんなことまで出来てしまうのですか」あざとい、さすが黄色あざとい。金が絡むとこんな白々しいセリフも言えちゃう四葉家令嬢に私は商売の心意気を感じ取ります。
さっそくアイちゃんに一口。ところが「ペっ」とはき出してしまいます。この辺割とリアル。もう一回試してみますが、今度は口に入れてももらえません。
そんなことでは立派なレディになれませんわよ、といつもの亜久里節。
「なんでしたら私のニンジンも召し上がります?」
とスプーンに2つ欠片を乗せて差し出します。
「……」
「アイちゃんにカレーはまだ早いわよ」
六花がマジレス。
もちろん冗談だと、冗談になってない表情で答える亜久里。「もしかして、亜久里ちゃん…」
ニンジンが苦手なこと発覚。それはそれとして、亜久里の冬服は肩のところから上だけを見ると、エプロンしているようで可愛い。
映画宣伝仕様OPその2。いよいよ新規映像が入ってきました。結婚式、二階堂君のフラグと着々とイベントが進行していきそうですが、それは六花が卸さないって私信じてる。映画でもセバスチャンはセバスチャン。ウェディングドレスからチラリと見える太ももの破壊力。
恥ずかしそうに俯く亜久里。ダビィが好き嫌いがあるなんて意外、とみんなの気持ちを代弁します。スイーツが好きでニンジンが嫌い。まるっきりお子様だと妖精達に言われてしまいます。小学四年生ですから、と素直に認めます。なかなか歳相応で可愛い。まったく小学生は最高だぜってどっかのバスケコーチが言ってました。
ニンジンの何が嫌なのかと六花が尋ねます。「全部ですわ!」。全否定です。ちなみに私はトマトが苦手です。理由は全部です。チーズも固形タイプはダメですね。臭いがきつい。でもピザは好き。あとこれはよく不思議がられますが、子どもの頃シュークリームが苦手でした。見た目がグロテスクなのと、皮のパサパサ感、ふっくらとしている様に見えて簡単に凹むガッカリ感などイマイチなイメージが強くて、まともに食べられるようになったのは社会人になってからです。
亜久里の態度がアイちゃんに伝わってしまい、アイちゃんが本格的にニンジンを拒否するようになってしまいます。その様子に狼狽える亜久里。
「母親がお手本を見せないでどうするの。虫歯を治すとき、亜久里ちゃんが私に言った言葉よ」
真琴の反撃。自分が言った言葉がそのまま返ってきてはぐうの音も出ません。
「わたくし、ニンジン嫌いを卒業します!」
妖精達がスプーンにニンジンを盛って亜久里に特攻。それらを次々とかわして、逆にマナの口に突っ込みます。やっぱり無理だと先ほどの宣言から1分で挫折。真琴と良い勝負です。
「これは、食育が必要ね!」
最近六花さんは自分の立ち位置と出るタイミング覚えてきたな。
場所を四葉邸に移して、六花がニンジンの栄養について講義を始めます。眼鏡はいいとして、その白衣はどっから持ってきたのでしょうか。いえ、素敵なので全く問題ないというか、むしろ常時その衣装でいいんですけど。セバスチャンがパソコンを操作していますが、資料関係はこの人が集めたんでしょうね。セバスチャンなら一晩どころか小一時間で全部やってくれそう。
中学生とは思えない博識ぶりを発揮する六花ですが、妖精達は毛繕いをしたり居眠りしたりと退屈ぎみ。当事者である亜久里がメモを取るのは当然として、真琴まで取っているのがらしいと言えばらしいですが、筆が進んでいないので理解していない可能性があります。ありすはこのシチュエーション自体を楽しんでいると思う。内心では「六花ちゃんスイッチが入ってますわ~」とか思っているかもしれません。なんだかんで、マナ・六花・ありすはそれぞれ変人です。
「ちょっと待った~(裏声)」
そんな堅い話じゃだめだとニンジンの着ぐるみが乱入。真打ち登場。誰だよ、この衣装用意した人。
「やあ、亜久里ちゃん元気ニンジン?」
「何者です!?」
どこから突っ込んでいいんですかね。
「僕はニンジンの妖精ニンジン」「マナでしょ」。六花さんの冷めた眼差しに俺の中の何かが目覚めそう。
頭を振り回しながらニンジンの素晴らしさを伝えに来たと言います。どう見てもふなっしーです。本当にお疲れ様でした。ニンジンを両手に持って迫ってきます。素で怖ぇよ。脱兎の如く亜久里は逃げ出します。きっとありすはこの様子をばっちり録画してライブラリーに保管していると思います。
ぶたのしっぽで亜久里はスイーツをやけ食い。絶対反省する気無いだろ。ところで、食べた分ちゃんと支払っているんだろうか、この子。
好き嫌いがあったとしても普通なら問題ないところですが、事は世界の命運がかかっています。亜久里ちゃん一人の問題じゃないと真琴が念押し。よほど虫歯の件を根に持っているのでしょう。
ふと店に農家の写真が飾られていることに気づきます。これを利用しない手はありません。
アジト。マーモは大量の野菜炒めを作ってベールに出します。自分を売ってリングを外して貰う算段。ところが電撃を浴びます。
「俺、ニンジン嫌いなんだ」
シリアスな声でいうことじゃねーよ。
②農業体験
みんなでニンジン農家へ。亜久里の祖母も同伴。祖母は金平ゴボウを作っても器用にニンジンだけ残すとこぼします。金平ゴボウ自体あまり子ども受けしない食べ物だしね。
到着。すでに他の客達がニンジンを引っこ抜いています。
早速農園主が現われます。なんていうか、無駄に暑苦しそう。角野秋さん。収穫の秋からもじったんですかね。
生でニンジンをかじりながら爽やかに挨拶。一緒に居たらテンションの違いに疲れそうな相手です。亜久里はニンジンを生かじりする相手に尻込み。亜久里のことは訊いていたのか、秋さんは亜久里に話しかけながら農園を案内します。
まずは畑仕事。ニンジンを育てることから始めるらしい。士気が上がらない亜久里と打って変わってマナは凄い勢いで畑を耕していきます。それを見た秋さんは燃え上がっていきます。やっぱり面倒臭い人でした。ところで君の親戚に漫画描くのが好きな中学生いない?
凝り性なのか、やるからにはと亜久里も勢いづいて耕し始めます。
続いて、肥料蒔き。動物の糞から作った堆肥だそうです。それを訊いて困惑する一同。背景が酷いな、おい。
秋さんは尺なんて使うな!と自分の手で堆肥を蒔いていきます。割とドン引きなマナ達。あれです、エンガチョ的な。しかし一度やり始めたら決心が固いのか亜久里も秋さんと同じように素手で蒔いていきます。「いったー!」「その意気だ!」「感動の肥料蒔きだー!」肥料蒔くのにイチイチ感動してらんねーよ。農作業を進めていく子ども達を見ながら祖母もマナの祖父も感心しながら見守ります。こういう熱血指導的な人って親御さんとかに受けそうだよね。
ジョセフィーナやマリアンナも喜んでいると言う秋さん。誰それ? ニンジンに名前を付けているそうです。全部女性名なんでしょうか。名前のストックどんだけあるんだよ。この人的に出荷は嫁いでいくとかそういう認識なんだろうか。
ニンジンの葉に虫が付いています。祖母が虫が食べたくなるほど美味しい野菜ね、と言います。ちなみにこれよく耳にする話しですが、本当かよ、と思ってテキトーにネットで検索すると、虫が食べるものは中途半端に(過剰に)化学肥料を使っている野菜。マジで良い野菜は虫が付かない。とかほんとなんだかどうだか分からない話しが出てきます。個人的にはギョウ虫とかついてない野菜なら農薬かぶってようが化学肥料だろうが良いような気がしますが。ちなみにスーパーで売っている出来合のサラダ、あれ、日持ちさせるために保存料に漬けてあって、その保存料を洗い落とすために水で何回も流すそうなので栄養価も抜けているそうです。でも、たぶん問題ありません。だいたいプラシーボでなんとかなります(知ったらプラシーボにならねーだろ)。
3分クッキングの要領で、成長した野菜はこちら。ということで収穫。
初めての畑仕事の感想を訊かれて疲れたと話す亜久里。疲れた分だけニンジンが美味しくなるとニンジンを差し出す秋さん。マナが受け取ると生でかじって食べます。美味しい。栄養のあるものを美味しく食べて貰いたくて農家をやっていると話す秋さん。差し出されたニンジンを受け取る亜久里。マナの祖父も料理人としての心構えを話します。ニンジン1つ取ってみても様々な人の努力や想いがあるのだ、というのが今回のお話しの核です。
アイちゃんにニンジンを見せますが拒否られます。まだニンジン嫌いは直っていません。
亜久里がニンジン嫌いと知ってほくそ笑むイーラ。おあつらえ向きに亜久里と同じようにニンジンが嫌いな子どもを発見。ジコチュー化。
③愛されたものを、愛すること
お菓子の家ジコチューが現われます。
「クッキーの壁にマカロンの屋根、舌だけではなく目も楽しませるその心遣い、ジコチューとは思えぬほどブラボーな仕事ぶりですわぁ」
ダメだこいつ、早くなんとかしないと。
畑を荒らすジコチュー。エカテリーナとレイチェルが無残に散っていきます。外国人の女性にこだわりでもあるんでしょうか。ニンジンを構えてジコチューに立ち向かいます。そのニンジン名前なんていうのか知りませんが、折れたらまた叫ぶんでしょうか。秋さんが注意を引いている隙に変身。
間一髪プリキュアが助けに入ります。秋さんは立ったまま気絶。絵柄が車田チックなのは気のせいか。
ニンジンを拾い上げたエースは、秋さんの勇気と情熱を引き継ぎます。ニンジンってラブキッスルージュと形状似てるよね。いや、だから使えるかと言えば使えませんけど。
ジコチューの甘い息に誘われたアイちゃんはジコチューの中に入ってしまいます。エースも追いかけて中へ。ガチャン。中に閉じ込められてしまうと、ニンジンのお化けが出現。アイちゃんとエースは震えます。ジコチューはパワーアップ。意外と合理的な方法です。エースが中に入っていなければ完璧でした。
パワーアップしたジコチュー相手にソードがハリケーンを放ちます。このタイミングはマズイ。2回目の使用にしてもう無力化してしまうのか。効かないな流石ソード効かない。なんて言っている場合ではありません。このままネタ路線を突っ切るのか本気で冷や汗をかきました。
結果は敵の攻撃を相殺。妥当なところでしょうか。ダイヤ・ロゼッタ・ハートが肉薄してエース達の無事を確かめます。生死に関わるわけではありませんが、中はお化け屋敷状態。これニンジンである必要ないよね。アイちゃんが泣き続けるため、ジコチューのパワーは天井知らず。
エースは覚悟を決めます。自らの過ちを認めてニンジンを取り出します。ドキドキは間違っていることは間違っていると認めるイメージがあります。近年のプリキュアは敵に対しての認識に誤りがある(真実を知らない)のが通例になっていて、物語終盤で真相に気づいてそこでどう手を打つかという話しになっています。つまり、これは自分達が信じていた正義が崩れる瞬間があるということです。そのとき人は大きく傷つき、先行きの見えない絶望へと陥ります。なお、マナはキングジコチューをレジーナの父だと思っているのでおそらく倒す気はありません。その意味で彼女の認識は非常にニュートラルです。下手な思い込みがない分柔軟と言えるかもしれません。
「確かに私はあなた達が嫌いでした。でも! それは間違いでした」
ニンジンには育てる人、料理をする人、たくさんの限りない愛情が詰まっている。ニンジンは愛の結晶。
「克服すべき敵ではなく、愛すべき友なのです!」
これを人に対しても言えるようになるためにプリキュアシリーズは研鑽と克服を続けてきました。もっとも、ニンジンを愛せても人を愛せない(許せない)という人は多いでしょうが。おそらく人間がこの世で一番許せないと思える存在は人間です。
エースはニンジンを食べます。光が生じるとお化けだったニンジン達は浄化されて可愛い姿に。アイちゃんも笑顔で一緒に飛び回ります。ニンジンを食べたエースに愛のエナジーが宿ります。ポパイかよ。今思うとああいう番組って露骨な宣伝ではあるものの、子どもの食べ物に対するイメージ戦略としては悪くない気がする。
内側からエースショット。アイちゃんと共に脱出。あとは浄化するだけ。
金平ゴボウ。みんなが見守る中、亜久里はニンジンを口に入れます。
「美味しい!」
その姿に祖母は涙を浮かべます。野菜も獲れたてが鮮度や甘みがあって美味しいのかな。カツオなんかはスーパーに並んでいるものは臭みが強くてイマイチなんですが、獲れたては美味しいですし。アイちゃんもニンジンシープをおいしがります。一件落着。
トランプ王国。
人知れぬ闇の中で、レジーナは目を覚まします。
④次回予告
直接家に忍び込んでおいてプリキュア本人は狙わない幹部さんはマジ正道。六花の焦り具合が素敵です。それでこそ六花!
○トピック
歯磨き同様の親懐柔回。子どもに媚びを売るのは二流、親にも媚びを売ってこそ一流、そんな作り手の情熱を感じます。
レジーナの本格稼働は次々回くらいになりそうですね。役者と舞台が整いつつあります。
簡単におさらいすると、レジーナは当初ニュートラルな存在として登場しています。彼女は我儘ですが純真無垢でジコチューではあるものの同時にマナ達と愛情(友情)を育むことができます。しかし彼女は親と友達の間で板挟みになり、結果として親のもとに強制連行されています。ここから言えることは、他者との関係性が人の心性に大きな影響を与えること、また幼年期であれば親との関係を抜きにこれを語ることはできないということです。プリキュアはこれまで友情によって仲間を増やしたり救済してきましたが、それが必ずしも特効薬になるとは限りません。この点ではハートキャッチ映画のオリヴィエとサラマンダーの関係のように、プリキュアが人の家庭の親子関係を直接的にどうこうするのは難しい。
アイちゃんはレジーナよりもさらに純化した立ち位置で、赤ん坊です。レジーナよりもさらに精神構造が幼いので簡単に白にも黒にも染まる。極端な話し、アイちゃんを今の内にさらって親になりすますこともできるでしょう。アイちゃんとレジーナは周囲環境に対する依存度が非常に高い。これまで、そして今回示唆されたように、人は愛の結晶(男女が愛し合って生まれるという意味でなく、愛の蓄積によって形作られる)なのであるからプリキュアは良き友人として、良き母として自覚と誠実さを持った人格を養成する必要があります。良き友人、良き母とは一朝一夕になるわけではなく彼・彼女自身もまた愛の蓄積によってその器が作られていく。要するに愛の連鎖と循環を生み出さないことにはジコチューに立ち向かえないという話になります。そもそも本作におけるジコチューの認識は、人はみなジコチューでありそこから愛を醸成させていくというものです。人を愛するということは、その人のジコチューもまた認め、愛さなければならない。そのための子育てだと思われます。
ニンジン嫌いを直すことが人を愛することに、ひいては世界を救うことに繋がっていくという超理論。子ども向けアニメの面目躍如です。
…というところまで書いて思い出したのですが、9話でも似たようなことは書いてましたね。実は私、自分の感想を忘れることが多いのですが、対象が論理的一貫性を持っていれば必然的な帰結としてまた同じように連想できるので、ドキドキは初期からアイちゃん、レジーナ、親の問題を準備していたと思われます。
------------------9話トピック再掲------------------------
被保護者である赤ん坊=自己中的存在、と見るならなかなか面白い構図ではありますね。ドキドキはジコチューを悪として提示しているわけではありません。ジコチューを発生させる人々は善良で、ちょっとした心の隙を突かれているだけです。ハートが口上で述べているように「(正気を)取り戻す」ことが出来るものとして扱われている。確かにジコチューに振り回されるわけだけど、そのジコチューはその人に内在されている一感情なだけで、サッカー部と野球部の人達みたいに折り合いを付けることも可能です。赤ん坊に振り回されるからといって赤ん坊を嫌うとか、不必要だという話しにはなりません。ジコチューの主張は相手に対する要求や願望なので、純化すれば赤ん坊の泣き声や無軌道な好奇心に見立てることもできるでしょう。そこには他者に対する働きかけがある。この要求に対してどのように処置するかというのはプリキュアシリーズ恒例の人間関係をどのように構築していくか、人の内面をどのように捉え、肯定するかという話しに還元できそうです。
つまり、赤ん坊もジコチューも世話が焼ける。前者を愛していきながら、後者もまた愛することができるのか。今はまだ軽くて浅いジコチューですが、物語が進めば一筋縄ではいかなくなるかもしれません。それにどう向き合うか。プリキュアは人を肯定する物語です。
第36話「ラケルはりきる!初恋パワー全開!」
①ラケルのドキドキ
シャルルとラケルが人間の姿になって早速生徒会の手伝いを始めます。恒例化しているらしい。
シャルルの身なりは中学生で通りますが、ラケルは相変わらず小学生なのでご遠慮。姉?に水を空けられたラケルは羨ましがります。後述するラケルの恋心の一因には「自分が認められている欲求」が満たされているかどうかも関係しているように思われます。誰しも自分が特別だ、受け入れられていると感じると悪い気はしません。
生徒会室に八嶋さんが助けを求めて飛び込んできます。慌てて隠れるラケル。六花も手で隠れるよう合図を出します。
ポンポンが居なくなったそうです。
ポンポンというのは尻尾が二つあるように見えるウサギのこと。飼育小屋から姿を消したようです。泣き出す八嶋さんを見かねてマナ達は引き受けます。六花の後ろに隠れていたラケルはこれはチャンス!とばかりにやる気を出します。
映画宣伝仕様OP。事前に出ていた映像が主体。映画でも黄色の無双ぶりを堪能できそうです(敵に「四枚羽」って呼ばれそう)。
みんなで校内を探し回ります。妖精だって分かっているのについつい目が行っちゃう。逆に考えるんだ、人間の女子中学生じゃないし普段全裸なんだから問題無いと考えるんだ。
なかなか見つからず八嶋さんはまた沈みます。するとラケルが見つけたとポンポンを抱えてやってきます。再会を果たして八嶋さんも一安心。お手柄なラケルを六花が褒めます。私のヒーロー、とラケルに感謝する八嶋さん。それまで(六花やシャルルと比較して)お荷物だったラケルにとっては思いがけない言葉です。
その夜、ラケルは悶々とします。八嶋さんの笑顔を思い出してドキドキ。自分は病気なのか、早く寝ようと布団に潜り込みます。枕元で騒がしいラケルに六花は静かにしなさい、と注意します。しかしそれにしても六花の寝顔見ながら寝れるとか天国だろ、この環境。
翌日、ラケルは六花に相談します。ドキドキが止まらない。顔も赤い。熱があるのかと額を触るとヤケドするほどに熱い。ため息ばかりこぼす。風邪かとありすが言います。しかし妖精が風邪を引くとは訊いたことがないと話す真琴と亜久里。六花は症状をさらに尋ねます。胸がキュンとして、苦しい。不整脈でしょうか。頻脈の場合心臓の筋肉を焼く必要があるかもしれません(その逆はペースメーカーを入れる)。
ダビィが恋煩いだと断言。それを訊いて唖然とする一同。一斉にラケルに視線が集まります。四者四様といった感じで、ありすは相変わらずありす顔で面白い。真琴は驚いている、六花はさらに困惑気味といった感じでしょうか。「八嶋さん」の名を聞いただけで間抜けヅラを浮かべるラケル。こりゃダメだ。これは間違いなさそう、とありすは柔和な表情を浮かべて言います。私はいつもこの表情を見る度に彼女の底知れ無さを感じます。きっとクシャポイするときもこんな顔を浮かべているに違いありません。それにしても地味っ娘な八嶋さんにときめくとかラケルなかなかやりおるな。
由々しき問題だと亜久里が言います。きわどいアングル。プリキュアにしては珍しく攻めてきます。く、小学生だと分かっていて目が行っちゃう。これは(社会的に)マズイ。落ち着け、これはただの絵だ。
ダビィも早い内に手を打った方がいいと同意。それを訊いたシャルルとランスは二人を別れさせるのかとダビィの無情な発言にショックを受けます。六花は付き合ってるとかそういうんじゃないと話しが変な方向に行きすぎているのをたしなめようとしますが、当人達は聞く耳を持ちません。
ダビィが言葉を続けようとすると、シャルルがお腹パンチで抗議。恋愛禁止反対!とラケルの味方に付きます。ダビィはこうするしかないと折れる気はないようです。二人をネコみたいに首を掴んで大人げないと真琴がたしなめます。どっちの味方だとシャルルに言われた真琴はものすごく苦悩し始めます。真琴がそんな状態に陥ったのでこれまたダビィがシャルルに抗議し始めます。妖精同士のどつき合いおもしれーな。
六花が落ち着け、大体八嶋さんは…と言いかけてラケルがまた浮かれてしまいます。六花はすでに知っていたようなので、この恋愛騒動がどこにも転ばないことは分かっているのでしょう。彼女が困惑する一因には「いや、それどうにもならないんだけどなぁ」という気持ちがあったと思われます。
ということで、真相を知らないラケルは飼育小屋を訪れて八嶋さんに手伝いを申し出ます。笑顔で迎える彼女にラケルはときめきます。優しいお姉さんに付いていく少年、というベタなシチュエーション。
六花はラケルを心配します。真面目で思い詰めるタイプだから本当に恋してるなら心配だと言います。実らないこと前提なので落ち込んだ後に立ち直れるか不安。真面目で思い詰めるという点では六花も同じでしょうが。恋愛経験者だけに一日の長があります。相手は同性ですが。
みんなが心配する中、マナは大丈夫だと言います。何故ならラケルがほんとに大好きなのは六花だから。ありすも同意。そんな二人の会話を六花は照れるでもなく聞き流します。ある特定の人に執着をもつことによって起きる心の葛藤や高まりは良くも悪くも甘くも苦くもあります。例えマナが言うように六花が本命だとしても、それでも自分が選ばれなかったことの痛みは感じずにはいられません。そもそも滑り止め、代替品だから気楽にOKなんて気持ちでは我を忘れて没頭するなんてことはできません。ありすは色々悟ってそうなので別としても、マナはその辺を実感的に理解しているかは怪しいところがあります。この辺は六花の方が実感的に知っているのでしょう。
小屋の掃除は終了。お礼を言おうとした八嶋さんの眼前でラケルは手を払います。ハチが飛んでいたのを警戒したようです。また助けられた、ヒーローだと言われてラケルはドキドキします。ダビィの言葉を思い浮かべます。恋煩い。
仕事も終わり八嶋さんは帰り支度を始めます。「まだ、帰りたくない」。別れを惜しむラケル。思わず八嶋さんの手を掴んで引き留めてしまいます。どんなに慣れ親しんだ相手であっても長時間一緒にいると「早く帰りたい。とっと別れたい」と思う私は恋以前に対人関係に大きな欠陥があります。それを前提に対人関係、距離、生活を組み込むので日常生活には全く支障は無いのだけど。自己が他者に没入していく感覚は、私にとっておぞましく脅威的であり不安と苛立ちを想起させます。自分で言うのもなんですが、こんな性格なのにこういう感想を書く私は変人だと思います。他人には興味ないけど人間には興味を持つ典型なのかもしれない。
怖々と身震いしているラケルに八嶋さんは微笑むと優しい声で「なあに?」と尋ねます。この子、子どもの扱いが上手い。30分でいいから一緒に遊びたいと勇気を振り絞って言うラケル。八嶋さんはその願いを快く引き受けます。「じゃあ、私のお気に入りスポットに案内するね」
私服に着替えた八嶋さんと手を繋いで歩きます。ラケルは自分が恋しているのだと自覚します。本作の特徴として、自分が初めて経験する胸のドキドキ、ズキズキに対して自覚する描写が入ります。六花の嫉妬然り、レジーナの人を思いやる気持ち然り。今回のラケルの初恋にしても結局実らないのですが、そうした心に起きる大きな変化、躍動、痛みがなんであるかを知ること、経験することを通して人は成長していくのだというのが本作のスタンスなのだと思います。その甘さ、苦さ、高まり、沈みは人の心を豊かに、鮮やかにしていく。これを音楽に喩えたのがスイートで、花に喩えたのがハートキャッチでした。変化の無い心は止まった音楽であり、いつも同じ色を浮かべる花は趣がない。
②食らえ! この愛!
カップルで賑わう公園。そこのベンチに腰掛けるイーラ達。暇そうです。ベールなんて寝転んでいます。これはこれで親子に見える。イーラは俺がいなくなればカップルだな、とその場を離れていきます。それを訊いたマーモは気分を害したのか席を立ってプリキュアを見つけに行きます。残ったベールは赤ん坊とジャネジーの関係に思いを巡らせます。割と本当にこの三人は親子なのかもしれません。
池のアヒルボードで遊覧。なんだかデートみたいだとマセたことを考えるラケル。そんなことはつゆ知らず八嶋さんは俯いていたラケルを気持ち悪いのかと心配します。八嶋さんはこの池が好き、水が透き通っていて綺麗と話しますが、たぶん、おそらく、絶対話しを訊いてないラケル。綺麗だなぁ、と八嶋さんを恋心フィルターで見つめます。
この池がこんなに綺麗なのはボランティアの協力によるものらしい。それを訊いたラケルは僕もお手伝いしたいと言います。八嶋さん的にはボランティアとか奉仕活動に積極的な人に対して好意的なのかもしれません。言うなればこれは一種の勧誘。八嶋さん実はやり手かもしれません。
ラケル君はいつもどんなのことしているの?と質問。「仲間と一緒に悪い奴と戦っている」。ごっこ遊び認定されてしまいました。普通はそう捉えられます。真剣に戦いごっこするものね、と完全に子ども扱い。ラケル的にはいささか不満です。気を取り直して一緒にボートを漕ぎます。
家では何をしているのか? 「百人一首」。六花の影響ではあるだろうけど渋いな。一句詠みます。どうやら恋の歌らしい。百人一首って詳しく知らないけど、ランダムに選んでも恋歌当たりそう。たまたま詠んだ歌が恋の歌だったのだからこれはもう間違いなく恋していると浮かれるラケル。いやー、それただの思い込みだと思うな。人は自分の主張や願望を補強するように情報を選び取ったり解釈する傾向があるよね。もちろんこうした取捨選択、思い込みが自覚化、明文化を促す効用もあるのだけど。
テンパってるラケルはめっちゃボートを早く漕ぎながら普段どんな音楽を聴いているのかと尋ねます。やっぱ、ラケルはマセてるな。背伸びしているのがすげー傍目に分かるから、逆に弟扱いされるパターン。
今さっき振られたばかりっぽい女子学生が涙目になりながらボートで楽しんでいる人達に八つ当たり。「いいんじゃない。池、無くしちゃえば」。ほんと単純だよな、この人達。
ジコチューを感知。六花はラケルを心配します。
「おまるシャワー」
水を浴びた一般人が「なんか嫌ー!」と地味に精神的ダメージ。他の人々からも「おまるから変な水が!」「猛烈にヤダぞ!」と大不評。池が濁っていきます。普段こんなセコイことやってますが、最終回付近になると世界が終焉を迎えそうになります。
汚された池を見て悲しむ八嶋さん。ラケルの正義感が高まります。飛びだしたラケルに戦いごっこじゃないと制止の声。それは分かっている。
みんなが到着するとラケルは異常に高いテンションで呼びかけます。「愛のパワーでしょうか」。当事者以外はどうでもいいよねっていうこの空気。変身。
ジコチューの元に降りるプリキュア。八嶋さんが文化祭のときに助けてくれた人達だと気づきます。やはり何かしら一般人の目撃はストーリーに直接的に関係するのかもしれません。
「愛を無くした悲しいアヒルさん(以下略)」
「いやいや、これアヒルじゃなくておまるだし」
ハイパーおまるシャワーを浴びせてきます。色が毒々しい。実際毒のようです。池がさらに汚染されていきます。ラケルがダイヤを引っ張ってジコチューに挑みかかろうとします。あぶねぇ。戸惑っていたダイヤもラケルの侠気を理解するとダイヤモンドシャワーを浴びせます。
ソードが追撃。
「おまると見せかけて…アヒルの羽毛シャワー!」
もうどっちでもいいよ。
ロゼッタがソードを助けます。あり真……これも有りだな。
そうしている間も順調に池は汚染されていきます。元の願望に忠実。
ラケルの脳内では八嶋さんがガックリと膝を落としてうなだれているイメージ映像が流れます。実際にどうなのかは分かりません。
「ダイヤモンドスワーク…」
「おいコラ、おまるー!」
まさかのバンクキャンセル。ひゅーん。ラブリーパッドが落ちます。ちょ、おまっ、新商品。これを見たバンダイの担当者が膝落としそうだよ。
体当たりしようとラケルはものすごい勢いでダイヤを引っ張っていきます。体当たりするのは構いませんが、それに巻き込まれるダイヤはたまったもんじゃありません。「いやいや、ラケル、落ち着いて~」
跳躍。
「あぁ…」
呆然と見守る4人。
ジコチューめがけてラケルとお尻を突出した格好になったダイヤが飛び込みます。これは、
お尻パンチ!!
ゴーン
色んな意味で酷いアニメを見た。
お尻から突っ込んだと言っても、背中からぶつかるような格好のダイヤは思わず痛がります。覚悟を決めていたラケル的にはしてやったりでしょうが。
しかし効果は抜群だ! ものすごい勢いでジコチューがぶっとびます。恐るべしお尻パンチ。ハートキャッチ内で規制された理由が分かります(単にBPOに苦情が入っただけです)。
ダイヤをキャッチするハート達。ダイヤは渋い顔を浮かべています。ソードはほんと、ネタキャラだよね。
「あぁ、では、浄化しましょうか」
このとってつけた感。間が持たないからさっさと進めましょう的な。
頬を腫らしながらラケルは池が元に戻ったと八嶋さんに報告に行きます。ラケル君が守ってくれたのよね、と言うとうん!と素直に頷くラケル。八嶋さんは笑いを浮かべながら傍らに立った少年にラケルを紹介します。ボーイフレンドの原田君。照れるでもなく隠す気もなくボーイフレンドと言い切るあたり肝が据わっています。ラケル終了のお知らせ。へっ、お前が頬腫らしている間に八嶋さんはその男とよろしくやってたんだよ、お子ちゃまにはわからんだろうがな(なにそのスレた言い方)。
案の定こうなったか…といった表情を浮かべる六花。ラケルを連れて帰ろうとします。連れ回してごめん、と六花に謝る八嶋さん。「楽しかったよね?」と声をかける六花。ラケルが失恋したことを周囲に知らせないための気遣いだと分かります。涙を浮かべながら「うん」と答えるラケル。八嶋さんはそんな彼の気持ちに気づかずボーイフレンドと手を繋いで帰ります。ダメ押し。
ソリティアに帰って冷水で顔を冷やします。
骨折り損のくたびれもうけ。痛いのは顔じゃなくて心だとシャルルが代弁。殊勝にもラケルは池は守った、と男のメンツを守ります。そういう気概は大事です。でないとマジで惨めになるから。
今日の働きは本当に素晴らしかったとダビィが感涙。マナ、ありす、真琴、亜久里も口々にラケルを褒め称えます。六花も抱きかかえながら、私がついていると励まします。すると新たなドキドキが生まれます。
「やっぱり六花が一番ケル!」
顔はもういいから、少し、頭冷やそうか。
マナが言ったとおりの展開。マナは笑い出します。何だかんだ言ってこの子の見立ては正しい。ラケルにはまだまだ六花が必要。六花が彼を癒してくれること、彼が六花を必要としていることを一番熟知している人物なのかもしれない。六花は苦笑いを浮かべます。案ずるより産むが易し。
③次回予告
白衣眼鏡六花さんの破壊力。そして刻は動き出す。
○トピック
「いくら六花さんが天使だからって調子に乗るんじゃねーぞ」とあくまで六花派を貫く層と、隠れ八嶋さん派が枕を濡らす層とに視聴者の反応が分かれる回。もちろん私は「キュアダイヤモンドのお尻パンチ怖い」派です。
プリキュアの主人公達が直接的に恋愛をしなくなって久しいのですが、これは勿論本シリーズが百合推奨アニメだからです(そんなわけない。恋愛をまだ子どもに見せたくないという親御さんからの要請もあるし、ストーリー的に絡ませずらそう(恋愛やりだすと本筋から離れる)なのでプリキュアではやらなくなったと思われる)。
友情、親子愛などこれまで愛を語ってきたわけですが、愛と言えば誰もが真っ先に思い浮かべるのが男女愛、恋愛。これを抜きに愛を語るわけにはいかない。とはいえ、上述したようにプリキュアは百合推奨アニメなので(まだ言うか)恋愛劇をやるわけにはいきません。主要テーマでないものに尺をかけても意味が無い。そういったわけで、ちょっとおマセで、お調子者の気があるラケルにお鉢が回ったってところ。今回の締めでみんなから褒められているように、誰かのためだからこそ湧き出る力があるというのはシリーズの伝統でもあり、本作にとっても有力なメッセージになります。泣いても泣き言を言わないのも良いところでしょう。形は違いますが、マナがレジーナを助けるために奮闘したり、レジーナが自らマグマの中に飛び込もうとしたのもこうした自己の危険よりも他者を優先しようという気持ちの表れです。ただ、これを単に肯定しただけでは自己犠牲や盲滅法な蛮勇にしかならないので、これはもう少し昇華されていくでしょう。今回で言えばダイヤが割り食ってるのは暗にそういうことでもあります。その一方で、六花とラケルの関係性が非常に良好で安定しているのも事実で、双方に労りと癒しを持っているのは面白い関係だと思います。姉と弟ともちょっと違う。個人的には二人の関係にこそ愛を感じます。
感想で何度も述べているように、愛は相互性および自他共に飛躍しないと成立しないので片思いはそれほど重要なことでありません(心を彩るという点では意味が大きいですが)。逆に言えば、相思相愛であってもそこに閉塞感や依存、盲目的幻想がある場合は愛とは言えないので、恋愛自体が本作に必須というわけではないと言えます。ちなみに私が恋愛と愛を直接的に関連付けないのは、実際にそういうことを述べた精神科医がいたこともありますが、私自身の感覚として恋愛感情による愛は陶酔や幻想に近いと考えるので、理性や継続力をより重視するためです(ドキドキしていることが愛なのではなく、あくまでドキドキはキッカケの1つで、良好な関係を作り続けることが愛だと考える)。っていうか、恋愛感情があるかどうかも怪しい私の場合、そうしないと愛が存在しなくなってしまうので、そういうことにしておきたいって事情もありますが。
さて、これまで5つの誓い、幸せの王子問題、マナからみんなへの敷延化、子育て、恋愛…と愛を辿ってきたわけですが、いよいよレジーナ再登場の予感。思ったより速い。彼女が出てくれば物語は待った無しになるので映画と合せて楽しみです。
第35話「いやいやアイちゃん!歯みがき大作戦!」
①ちゃんと子育てしないと世界が滅ぶ
久々登場のアン王女。至急伝えたいことがあるそうです。アイちゃんについて。その名を訊くとマナはすぐに自己紹介して王女に話しかけます。六花もジョナサンがタマゴを河原で拾ったと補足します。ノッポさんは最近登場していないので軽くおさらい。
アイちゃんには使命が2つある。一つはプリキュアに力を与える。もう一つは闇の力を抑え込むシールドとしての役目。ジコチュー達は人間なら誰もが持っている我儘で自分勝手な心を膨れあがらせて仲間を増やしていく。アイちゃんは光の力でジェネジーを抑え込んでいたのだそうです。この妖精トランプ王国に居れば良かったのにね。居たのかもしれないけど。
最近その力が弱まった理由はイヤイヤ期に入ったため。前回に引続き親向けな説明がされます。母もそう言っていたと六花は頷きます。今後、アイちゃんが健全に育つか我儘な子に育つかはあなた達の育て方次第だと王女は言います。さりげなく子育てと世界存亡の責任がなすり付けられました。クリスタルの件といい、絶対この王女ジコチューだよ。たまたま拾った人にそんな命運が委ねられるとか酔狂ですな。ノッポさんは育児放棄してたしパートナーの亜久里もやる気ないし、トランプ王国民も地球人もジコチュー度高ぇ。前者は案の定滅びましたが。日頃の行いが大事だと分かる事例です。そんなわけでジコチューというのが、個人だけの問題ではなく人に伝染するということがクローズアップされたわけですね。個人として完璧であっても、全く人と関わらないのであればそれは未必の故意的な、結局ジコチューになるのだということになります。
アイちゃんがジコチューな子に育つと不思議な力はなくなってシールドもなくなるそうです。この世界の命運は育児にかかっている、という子ども番組的見解。ジコチューとは倒すものではなく、健全な精神を育むことで最小化させるもの。
だんだん王女の話し声が遠くなっていきます。通信終了。もっと話しをしたかった真琴は少し寂しそう。
ランスの悲鳴。アイちゃんのおしゃぶりになっています。痛かったと言うランスの話しを訊いた六花はアイちゃんの口を開きます。ビンゴ。歯が生えています。
アジトでケーキをどか食いするマーモ。食べても食べてもお腹が減ると主張します。それグーラのジャネジーから作ったんじゃね?とイーラが推測。嫌な副作用だなぁ。イーラもそのうちオカマ言葉になったりするんでしょうか。
食後の運動に出ます。
②歯磨きと歯医者
マナはアイちゃんに歯磨きの仕方を実践して見せます。ところがアイちゃんにその気はありません。ちゃんと歯磨きしないと虫歯になっちゃうよ、と六花も声をかけます。前回に引続き夫婦っぷりを発揮。その隣で亜久里はお菓子をモグモグと食べています。絵面的にどうなんだろうな、歯磨きしている側がなんか罰ゲームっぽく感じないか? 子どもから見たときの大人って好き勝手にやれるってイメージあります。大人になれば宿題しなくて済むから大人になりたい的な。ところでお茶代わりにエースティが置いてありますが、真琴は仕事で余ったお茶とか貰ってきているんでしょうか。
「虫歯って何?」
全員が一斉に真琴の方を見ます。
口の中のミュータンス菌が歯を溶かす病気だと六花が説明。博識です。虫歯菌って最初から口の中に存在してなくて、食べ物や食器を通じて感染するものだと訊いたことがありますが、するとトランプ王国にはミュータンス菌が無いのか、完全に感染しない対策がとられているのかもしれません。手を振ればクリーナーが飛んでくる世界なので割とその辺もハイテクなのかも。
歯が溶けると訊いて戦慄する真琴。まあ、怖い表現だよね。甘い物ばかり食べていると虫歯になりやすい。さきほどからバクバク食べている亜久里に話しを振ると「毎日歯を磨いている」と模範解答が返ってきます。
歯を磨く、と訊いて真琴は自分がやっていたCMを思い出します。「歯磨きって、虫歯を予防するためにしていたの?」。お前は何のためにしていたんだと思っていたんだ。虫歯は別にしても歯垢や汚れ落としとか衛生上の理由からトランプ王国でもやっていると解釈しておきます。実際、病原菌に対しての知識があるのとないのとでは認識が大きくズレたりしますね。新大陸発見後、原住民が死んだ大半の理由は病原菌によるものです。この調子だとトランプ王国には歯医者が無さそうですが、真琴は今後大丈夫なんでしょうか。
歯を磨いていれば虫歯にならないと訊いて一安心。お茶を飲んだ瞬間、あの痛みが走ります。真琴終了のお知らせ。
「歯が痛い!」
地球人じゃないばかりに、こんな損な役を一身に負うのが彼女の役目です。マナは賢い、六花は頭が良い、ありすは聡いと表せる中で、真琴については凡人、酷いとポンコツと表せてしまう所以です。せめてスパークルソードが効いてくれさえすれば。
虫歯だと六花のお墨付きが出ます。妖精からもボロクソに言われます。ただ歯を磨けばいいってもんじゃない。磨き残しがあってもダメ。六花が厳重に注意します。ああ、メガネかけた六花さんに説教されたい!
そういうわけで歯医者へ。
マナ達も付き添います。一応アイちゃんも看て貰うようです。それにしても亜久里は自分のパートナー放置です。この番組は「ママは小学四年生」じゃない!とかなんとかポリシーを持っているのかもしれません。
太鼓デコルを使って機嫌をとります。音が出ますが日常茶飯なのか看護婦さんも笑顔でスルー。肝心の真琴も虫歯を治療できると知って一安心。しかし「虫歯の本当に恐ろしいところはこれからよ!」。メガネ六花は心のオアシス。
隣の診察台でキュィーン。独特の音と光景を見た真琴はマナに何をやっているのか尋ねます。歯を削っている。ペンチは何に使うのか。治せないときや親知らずは抜くこともある。椅子を倒されてライトアップ。眼前に迫ってくる治療器具。真琴は脱走します。
ベンチに座る真琴を歯医者に誘うも頑として受け付けません。キュィーンっていう音を訊くと足がすくむと言います。親知らず抜くときとかガチでへし折るって言葉のまんまだったりするし、割と力尽く系な治療だよね。
真琴が不安になっているのが伝染したのかアイちゃんが泣き出します。そんな真琴を情けないと評する亜久里。我儘な赤ちゃんそのもの。王女に託された自分達は母親同然、その母親が手本を示さなくてどうすると尤もな説教をします。でも育児放棄している人に言われたくない。
歯医者が怖いのを克服するのは難しいので、アイちゃんに手本を見せよう作戦で懐柔するマナ達。自覚と責任を持て。
「私は虫歯を治してみせる!」
ちょろい。
みんなが背を向けて歯医者に戻ろうとしても真琴は動きません。
「でもやっぱり怖い」
歯医者の先生は暇だとつぶやきます。もっと患者が増えれば商売繁盛なのに。不謹慎だと自省。不幸な人も居ればそれで幸福になる人もいる。前に水道水にフッ素を入れないのは歯医者の陰謀だ的な話しを訊いたことがありますが、あれはあれで副作用が無いわけではないし、効果対費用が本当にいいのか疑問視されているようですね。個人的には2年に一回の車検を廃止して欲しいのですが。このように無駄なこと、金がかかることをやることで社会は回るわけですな。スクラップ&ビルド。そうこう言っているうちに病院が廃墟になりました。これで土建屋も儲かります。世の中上手く出来ています。
現場に駆けつけて変身。
「響け! 愛の鼓動! ドキドキ……」
一人足りません。真琴が気に隠れています。ジコチューのドリルに戦々恐々。これは酷い。もっとも、戦力的にはあまり低下しないのですが。強いて言えば最強必殺技が撃てない。
「奥歯ガタガタ言わしてやんよ」
誰が上手いこと言えと。
戦闘開始。簡単に圧倒。倒れたジコチューがジタバタしたせいか、振動が虫歯に響いて真琴が痛がります。不安を感じ取ったアイちゃんが泣き出してジコチューがパワーアップ。ちょっと真琴さん、変身しないならどっか行ってて下さいよ。
例によって4人は大ピンチ。エースさんのスカートがヒラヒラしてもあまり嬉しくない件。
責任を感じる真琴。エースが叱責を飛ばします。トランプ王国再興が虫歯に負けるのか。両足で大地を踏みしめて立ち上がりなさい!と檄を飛ばします。その姿にアン王女の姿を重ね合わせる真琴。ようやく作中でも似てる指摘がされました。
真琴的には大地を踏みしめてというより歯を食いしばって立ち上がります。変身。
ドリルを素手で掴みます。名乗りながらジコチューを投げ飛ばします。泣いているアイちゃんに虫歯に負けない、一緒に頑張ろうと呼びかけると彼女も笑います。
「目には目を、歯には歯を!」
ほんとこいつら自由だよなー。
「ソードハリケーン!」
文字通り投げやりな技です。ラブリーパッド技は殺傷力がありません。浄化。
ソードは亜久里にお礼を言います。亜久里も王女を見たときに既視感を抱いたと言います。
無事治療が終わり真琴はアイちゃんに一緒に歯磨きしようと自信を持って言えるようになります。新しいラビーズが生まれます。パジャマと歯磨きセット。自分で歯磨き。仕上げはお母さん。
③次回予告
お前六花派じゃねーのかよ。
○トピック
真琴のせいでトランプ王国に虫歯が広まるのでした。
プリキュアの親懐柔回。この番組は安心して子どもに見せられますよアピールすることでひいては売上を伸ばそうとする戦略。
アイちゃんの役目とか王女とエースの関連性についていよいよ言及され始めましたが、それはどうでもよく、子育てを通じて愛を獲得していくお話し。愛は他者との相互関係によって生ずるので、マナ達がアイちゃんに範を示していくことで自覚と責任を持たせています。人は他者のために自己を飛躍させることができるという示唆。自己を越える何かのために働くことによって、自己が拡張される(不安や恐怖、願望といった自分の都合が抑え込まれることで新しい道が選択しやすくなる)。この自己を越える何かが抽象的な物で恒常性・一貫性を持つ場合、その状態を信仰と言っても良いです。良くも悪くも人は信仰がなければ現実を越えることができません。神でなくても人は各々何かを信じているものです。信仰を超軽い、気楽な感覚で言えば楽観性ですね。悪く言えば強迫性。前者が強ければ人は世界を越えられる(その人が信じている世界になる)と考えられるし、後者が強ければ人が(その人が信じている)世界に押し込まれます。蛇足ですが。
赤ちゃんであるアイちゃんに「一緒に」と再三言っているのも、愛は与えるのみでなく相互であるという認識が強く出ています。
第34話「ママはチョーたいへん!ふきげんアイちゃん!」
①母と子
開幕戦闘。さくっとジコチューを浄化。
アイちゃんがむずがって泣き出します。分りやすく見せるためか胸のハートが黒ずんでいます。ジェネジーが増大したイーラ達は俄然やる気を出しますがベールに呼び戻されてしまいます。
ダビィがアイちゃんを診断。問題ないそうです。相変わらずダビィさんは有能。ミルクを飲みたいわけでもない。機嫌が悪い理由が判別できません。泣くとジャネジーが高まる理由も不明。
マナはこのままでは可哀想、いつもの笑顔にしなければと言います。そういうわけで笑わせようとしたり玩具で気を引こうとしたり、子守歌を歌ったりと試みますが全部ダメ。これは少し時間がかかりそうです。
ぶたのしっぽを六花の母が訪れます。店内にぐったりした様子でマナ達が座っています。苦労の甲斐無くアイちゃんの機嫌は直らず泣き疲れて寝ていると話すマナ。いつもと違う反応に戸惑う一同。
六花は母にどうやったら赤ちゃんは泣き止むのか尋ねます。確たる方法は無いと答える母。その答えが意外だったのか六花は聞き返します。子育て経験者のマナ母も話しに加わります。赤ちゃんにもぐずる時期もある。どうやら今回は子育て要素が強く出たエピソードのようです。
真琴は小児科医なら赤ちゃんのこと何でも分るのでは?と素朴な疑問をぶつけます。赤ちゃんは泣くことで何かを訴えている、シグナルを発していると話す六花母。要するにそのシグナルをしっかり認知して適切に解釈しろ、ということですね。話しついでに六花母は昔話を始めます。六花は夜泣きが酷かったらしく一晩中世話したあげく子育ての自信を失って泣いたと話します。母親失格という言葉にこれまた反応する六花。みんなに赤ちゃんの頃のことを知られて六花は赤面します。
一方マナはあまり手はかからなかったそうです。それを訊いて一安心のマナ。ところがここからが本番。歩けるようになるとヤンチャだったようで手が付けられなかったそうです。マナは泣かなかったけど自分の方が泣かされたと母は話します。それはそれで武勇伝だらけと納得するありす。ちゃっかり個人情報ゲット。もちろん自分の情報は開示しない。
みんなが笑う中、六花だけは真剣な表情で思い詰めています。
家事の手伝いをするマナ。母はマナのおかげで自分はお母さんになれたと言います。子どもを育てながら親も学んでいく。そうして赤ちゃんと一緒に頑張って親子になっていくと話します。いわゆる共育とかいわれるものでしょうか。今回のエピソードはどちらかと言えば親向けな内容です。親も見る番組なのでこの手のエピソードは珍しいことではありません。それを訊いて「へー」と感嘆するマナ。この辺はリアルに実感がない部分だろうと思います。子どもの頃、大人ってのは大人だと思うものです。そういうことが出来るんだろうと思う。どうやってそう出来るようになったかの過程にまでは想像が及ばないし、過程があったのだとも思わないものです。だから実際に大人になってみると全く大人じゃないことが分ります。自分も周囲も単に身体がデカイだけの子どもだということが分かる。経験していないことは知らないし、大してモノを知っているわけでもない。大人=完成ではないし、大人になることが終わりでもない。むしろ経験を積んで大人になっていかなければならない、ということに気づけるかどうかはその人の成長性や人格に影響を及ぼします。
母は赤ちゃんの前では笑顔でいること、とアドバイスをします。
自分が赤ちゃんの頃のアルバムを見る六花。泣いてたりムッとしている場面ばかりだと気づきます。カメラを怖がっていたと話す母。お父さん泣かせだな。突然六花は謝ります。母親失格じゃない。自分に責任や罪があるように思ったのでしょう。この反応は実に幼児的です。中学生の反応ではない。こうしたところにプリキュアがどの層をターゲットにしているのかが見て取れます。長じればそうした反応は理性や見栄などに隠れてしまいます。幼児にとって親は絶大な存在です。神と言って差し支えない。時に自分よりも優先すべき対象ですらあります。だから親を自分が苦しめていると感じると罪悪感すら抱く。そんな娘を母は抱きしめます。素朴な共感と責任感を抱く我が子を愛おしくなったのでしょう。子どもじゃないと話す六花に、いくつになってもママにとっては子どもだと言います。大切な我が子。泣き止まない六花を旦那におしつけて気分転換に外に出たけど、またすぐに戻った。心配だった。六花を抱っこしながら上手く出来ないかもしれないけどそばに居ようとそのとき思ったと述懐する母。六花は母の温もりを感じます。
親ではない私が言うのもなんですが、私は親子というのは経験によって形作られると思ってます。よくドラマなんかで生き別れた(ほとんど記憶もない)親や子が相手を求める話しがありますが、あれは私には全く理解できません。もはや他人でしかないと思うのは私がそういう環境にいないからか、薄情なだけかはわかりませんが、人の絆は経験的関係性によって作られるというのが私の持論です。自分の生き別れた親を捜すというのはどちらかというとルーツ探し、自分の人生を再解釈しようとする試みだと思うのですが、実際どうなのかはここでは棚上げします。なので私の考えからすると、どんなに狂っていても親子関係があったなら親子です。例え共依存であろうと偽の家族であろうと。その結びつきが苦しいものであるか、心地よいものであるかは別として。その原体験、基盤の上に人は様々なものを積み上げていく。経験した過去を変えることは出来ませんが、その過去をどのように解釈するかには余地があります。この余地を白に染めるか、黒に染めるかで人は大きく変わる。
六花はアイちゃんの傍に居たいと言います。
アイちゃんの世話にマナは悪戦苦闘。六花が代りを務めると言います。流石正妻。もうこれ完全に夫婦じゃないですか。
ベールに何故止めたのか訊くイーラとマーモ。勝手な行動をするなと答えが返ってきます。ベールに弱みを握られているため背反服従状態。ご機嫌を取ります。ベールはアイちゃんとジャネジーの関係を探るためにイーラに指示を出します。
②敵も味方も赤ちゃんに振り回されるの巻
公園のベンチで六花はアイちゃんを膝に抱っこ。アイちゃんの機嫌はあまりよくないようです。六花も寝不足で覇気がありません。ありす達が様子を見に来ます。機嫌を戻してもらうために今日も色々試してみますが効果薄。
亜久里はこんなときにジコチューが現われたら…とネガティブな発想。マナが頬を引っ張ります。昨日母に言われたように、暗い顔をしていたらアイちゃんが不安になると助言。へこたれずにチャレンジ。
学生が赤点テストを見て落ち込んでいます。バイクでかっ飛ばして暴走してぇと独り言。「暴走しちゃえんばいいじゃん」毎回思うのですが誘惑の仕方がテキトーすぎる。
公園にジコチューがやってきます。イーラはちゃっかりヘルメットをかぶっています。いや、お前空飛べるだろ。自分の安全は確保するというジコチューぶりが発揮されています。
変身。亜久里も続こうとしますがアイちゃんがぐずって変身できません。割と深刻な問題です。笑い転げたイーラを見て機嫌が直ります。実は今までスムーズに変身出来ていたのはたまたま機嫌が良かったからとかそういう話しか。5分制限あったりとエースは付帯事項が多いなぁ。無事変身完了。
バイクジコチューが大きな音を立てるとアイちゃんの機嫌はまた悪くなって泣き出します。するとジャネジーが増大。ジコチューが突進してきます。それにしても中の人声真似うめぇ。
パワーアップしたジコチューはソードの攻撃を軽やかに回避。プリキュアを圧倒。イーラはアイちゃんに嫌がらせしてさらにジャネジーを高めます。ダイヤが単独飛びだしてアイちゃんの救出に向かいます。残りのメンバーは足止め。
プリキュアの力も及ばずジリジリとアイちゃんに近づいていくジコチュー。アイちゃんは怖がります。ダイヤは怖がらせてごめんと泣きます。しかしすぐにダイヤは信じて欲しい、自分達がついていると励ますとその言葉に安心したのかアイちゃんは笑顔を取り戻します。ジャネジーは減少。さっそくイーラは逃げの準備に入ります。こういうところの手際だけは良くなっている気がする。
ダイヤの新技披露。これまでと同様足止め技。特筆すべきはダイヤの仕草が色っぽいこと。
「ダイヤモンドスワークル!」
聞き慣れない単語だったので調べたら、とあるコーヒー店が使っている造語らしい。渦と輪の合成語だそうです。
ラブリーパッドの技は一様に地味(手を回すとかスクロールさせるだけ)なので技の効果と操作方法にギャップがあります。ところで、本当に今更なんですが、ダイヤって肩が左右で違うんですね(ほんとに今頃気づいた)。いや、なんか脇が見えないなーと思ってよくよく見たら違ってたっていう。
いつもどおり浄化。
「俺が泣きたいぜ!」
お前らほんと自由だよな。
ひとまず何とかなったものの、不安が解消されたわけではありません。アイちゃんが泣くとジャネジーが増大するだけでなくプリキュア側は弱体化するようです。これは一体なんなのか。視聴者的にはインフィニティさんと同種なのかと思うところですが、いずれにせよ赤ちゃんに振り回されるのはなかなかに厄介です。赤ちゃんこそが最強にして純粋なジコチューだと言えばそのとおりなのですが。
真琴が持っていた鏡ラビーズが光ります。召喚。王女が映ります。お久しぶりです。
③次回予告
メガネ六花さん再び! 良かった。あれが理由でもうメガネ姿は見られないんじゃないかと不安でした。真琴はアイドルっていう設定以外まるでいいところねーな。
○トピック
そろそろ年末なので主力商品売り込み月間。女児が興味を持ちそうなネタをがっつり詰め込むプリキュアは売る気満々です。
子育てエピソードは前回同様、親子関係にクローズアップしたものと思われます。これはプリキュア側が実証しなければならない「愛」についての根拠や在り方を構築する意味で物語の流れ的に順当なところですが、やはりレジーナ関連への布石も兼ねていると考えられます。「子」を語るのであれば、当然「親」も語らなければならない。子どもがどう感じるのか、その時親はどう感じているのか、そうした感情のやり取りが関係性となっていく。これが上手く行くと互いに健全な精神を持ち己を高めていくというのがドキドキの見解です。マナ→みんなへの伝播がここ最近クローズアップされましたが、ここで親→子への伝播があることを描くことで幸せの王子論が拡張されています。見方によっては赤ちゃんのために心を砕く親は幸せの王子と言えます。こうした論理の拡張、一般化はプリキュアでは伝統的手法です。このように論理や意味を深掘りしていきながら最終決戦でさらに飛躍させるのがプリキュアの醍醐味。
親も子と一緒に成長していくというのは当たり前のことなんですが、フィクションや子ども番組的には必ずしもそうではありません。大人は完成された存在(変化が無い)として、子どもは反対に未熟ではあるが可能性がある存在として対比されることが多い。バトル系の作品で子どもが大人を倒すのも、敵の強大さを演出する意味もありますが、言ってしまえば善い大人、悪い大人がいて、それは変わらないという前提があります。逆に中途半端にラスボスが改心してしまうとお前の今までの人生は子どもに説教されたくらいで変わるのか、となってしまうので悪い大人は悪いままの方が説得力があったりする。
今作のジコチュー組が改心するかはなんとも言えないところですが、仮にそうなるとした場合どのような理由で、どのように変わるのかというのは物語の論理性、根幹に関わる部分でもあります。今回のお話しは人は関係性によっても大きく左右されるという提示でもあります。また、これまでの愛は追認でしたが、マナ達が疑似親になることで積極的に愛情や労力を割かねばならない経験をしています。与えられた愛、今まで自然に行っていた愛の他に、意識的に新しい愛を成していくのも物語上必要なことですね。
余談になりますが、ハートキャッチは「私はあなたと関係ないけど応援(承認)はします」って話しでした。人を大きく変えることは直接的にできない。相手に自信を少し与えたり、不安を少し取り除くといったことだけです。ハートキャッチは人を承認することを骨子としたと言えます(それが無限の愛にまで拡張されたわけです)。それを継いだスイートは相手と深くコミットすることで人を直接的に変えうることをやりました。ノイズと主張と拳をぶつけ合いながら友達になるのは端的にそれを示しています。ただこれのデメリットは絆を生み出すのに時間がかかることです。スマイルはその時間をかけて作られた絆が人の弱み(依存)になってしまうことを防ぎました。その流れでドキドキを見ると、幸せの王子のように必ずしも深く関係はしないけど人に感銘や影響を与える部分、マナ・六花・ありす、真琴・王女、親子関係のように深く結びついたところでの人の変化を同時的にやっています。この一般的(パブリック)な関係性と、特別(プライベート)な関係性がどこに行き着くかは最終回のお楽しみ。
毎年言っているけど、プリキュアは毎年集大成。
第33話「ありすパパ登場!四葉家おとまり会!」
①お父様の帰国
今日はありすの家でお泊まり会。マナが告白タイム!と言い出します。好きな人もなにも、お前ら全員男っ気ねーだろ、むしろ亜久里以外マナ狙いじゃねーか、という全視聴者のツッコミが入ることは確定的に明らか。六花さんはどうやって本音を隠すか今必死に考えているかもしれません。ちなみにランスがアイちゃんに食われています。
ありすに話しが振られますが、ちょうど物音が空から聞こえてきます。
「お父様ですわ」
ヘリポートに駆けつけるありす。案の定父親が帰宅しています。ガッシリした体の偉丈夫な感じ。娘を見て大きくなったね、と悠然とした態度でありすのもとへ行きます。3ヶ月ぶりの再会のようです。親父さんはマナと六花に挨拶。ありすは真琴と亜久里を紹介。親父さんは早速ユニットデビューさせたいとか言い出します。娘に似て、というか娘が似たのでしょうけど商魂たくましい。彼なりのジョークらしく豪快に笑い出します。気さくな四葉財閥当主です。
今日戻ってきたのは急用らしい。
「明日の大統領との晩餐会、私の代わりに頼めるかな?」
「おやすいご用ですわ」
……ん? なんか俺今ものすごい会話を訊いたような。忙しい親父さんはこの後スイスに行くそうです。私は思うんですが、どんなに富や名誉があったとしてもこんな忙しい生活はしたくないな。活動することが生き甲斐な人は仕事をやり続ける方が活き活きとするのでしょう。仕事は人生の暇つぶしくらいが私の場合ちょうど良い。暇つぶしでもやりたくねーけど。
豪快なお父様でしたわね、と感想を話す亜久里。ランスが四葉財閥の社長と補足。勿論社長の意味は知りません。いつもお父さんの仕事の手伝いをして大変じゃないかと真琴が気遣います。まず認識が間違っている。手伝いってレベルじゃねぇ。大統領との晩餐会って実務レベルだろ。ありすの役職上から何番目なんだよ。事実上すでに継いでいるんじゃないのか。大変だけど楽しい、夢のためと答えるありす。
「世界中の人を笑顔にするのが私の夢なのです」
あれだろ、防犯カメラの映像見せながら「ほら、笑いなさい」とか命じるんだろ。メビウス様もびっくりな統制国家の出来上がり。
自分がそんな考えを持ったのはマナちゃんのおかげだと言います。これは初耳らしくマナにも心当たりがありません。
ということで話題は告白タイムからありすの過去話しへ。つまりこれはありすのノロケ話し。マナとの馴初めトーク。流石ありす策士です。
②出会いと別れと巣立ち
当時のありすは6歳。身体が弱く庭だけで遊んでいたそうです。
蝶々を追いかけていると躓いてしまい、そこに駆けつけ助けてくれたのがマナ。いやいや、ここ人ん家だから。マナの登場に驚くありすですが、マナは蝶々を自分の指先に止めます。「蝶々好き?」。これありすから見たら相当ぶっとんだ不思議ちゃんです。これ以降もマナの行動は常人離れしていますがそれがありすの印象に強く刻まれたのだと思われます。彼女にとってマナ(達)は外界との接点、新しいこと、勇気や力の象徴として受け止められたと考えられます。もう少し違う視点で言うのなら、親の庇護からの解放(マナ達はその出口)と言えます。
門の外からマナを呼ぶ声。網を持った六花が呼びます。どうやら虫取りに来て中に入ってきたようです。ちなみに敷地は高い塀で囲まれています。どうやって入ったんだ。
蝶々はマナの手を離れて飛んでいきます。これで良かったんだ、と言うマナ。この辺はメタな構図ですね。檻に閉じ込めてしまうか、自由にさせるか。
マナは蝶々がいっぱい居るところを知っているから一緒に行かないか?と誘います。躊躇うありす。しかし結局は話しに乗ります。マナは視線を六花に送ります。これは最初から計画されたことでした。
門を出ようとしたありすを見つけたメイドが止めようとします。それを遮るセバスチャン。責任は私がとる、とありすを見逃します。かっこいい。っていうか、セバスチャン様って呼ばれてるのかよ。執事長とかじゃないのか。まあ、この人の場合役職とか関係無さそうですけど。
感動的なBGMが流れる中、蝶々と花が咲き乱れる広場を三人は駆け回ります。また躓いて転ぶありす。しかしその表情は嬉しくてしかたないという様子で笑います。横に寝っ転がりながらマナはあなたのことを知っていたと打ち明けます。六花も門の外から時々見ていたと続けます。身体が弱くて家から出られないと話すありす。それを訊いたマナ達は心配します。しかしありすは構わない、こんなに楽しい思いをしたのは初めてだと咳き込みながら言います。もっと色んな所へ行きたいと願い出ます。ここで自己紹介。
「それが私達の出会いでした」
「それから、私はよく家を抜け出してマナちゃんと六花ちゃんと遊ぶようになったのです」
この当時は六花もかなりアクティブ。カエル好きはこの頃から片鱗があったのかもしれません。
河原、遊び場、駄菓子屋、木登り、様々なことを学ぶありす。木陰からセバスチャンが見守ります。
秘密基地に案内。でも雨漏り。三人で完成させようと約束します。
雨の中で遊んでいたのが祟ったのかありすは熱を出してしまいます。セバスチャンが看病しているところに父親がやってきます。主人に謝罪。何故こんなことになったのか、と疑問を口にする父にありすは打ち明けます。隣に立つセバスチャンは無念がります。
門の外から様子をうかがうマナ達。最近ありすの姿が見えません。セバスチャンがもう一緒に遊ぶことは出来ないと告げます。静養のために外国へ引っ越しすることになったと話します。今日出立。
出発の時間が迫っています。マナ達の似顔絵を前に涙を溢すありす。おそらくありすにとって日本で唯一の友人です。ありすを呼ぶ声。庭の木にマナと六花の姿。お前らは忍者か。
父親の意向に沿うしかない。これが普通です。四葉家は色々融通が利くので問題はなくなるのですが、一般家庭では親の都合に子どもは従うしかありません。逆に言えばその家庭がどんなに異常でも子どもにとってはそれが当たり前の世界になります。大人になるに従って自分の環境が異常だったと気づくのですが、気づいた頃にはもう手遅れ。その異常な世界で生きる術を身につけた人は正常な世界で生きる術をもたず苦しむ、というのが共依存などに見られる厄介な問題です。ありすの家と、キングジコチューの家は共通性がありつつも、親が子どもの気持ちをくみ取るか否か(子どもに寄り添って考えられる大人がいるか)の違いと言えます。子どもは親の付属品ではありませんが、それを真の意味で理解している人はあまり多くないだろうと推測します。親が子どものためを思って「良い環境」を与えてもそれをどのように受け取るかは子どもにしか分らないことです。先ほど述べたことと反するかもしれませんが、子どもは親のみによって育つわけではありません。周囲の人々、友達、環境によって変わっていくし、本人の性質もある。だから親が子どもの全てを決められないし、そんな責任も権限も影響力もありません。他者(家族、友人含む)は自己と完全に結びつかない。人はその意味で孤独(自由)です。だから「信じる」という言葉があるのだと私は思っています。
お父様に逆らえない。マナはどうしたいの?とありす自身の意思を問います。どう考えても幼稚園児の会話ではありませんが、この物語が自立と依存の関係性をベースに置く以上この問いは必然です。
部屋をノックする音。父親が来ています。マナは部屋の鍵をかけます。ありすは「あたし……ここに、居たいです」「あたし、マナちゃんと六花ちゃんと一緒に居たいです!」。ハッキリと自分の気持ちを言葉にします。
部屋の外では埒が開かないと見て取った父が使用人達を使って部屋に強行突入する合図を送ります。セバスチャンが立ちはだかります。マナ達を手引きしたのは彼だったかと親父さんは気づきます。ならばその使命を貫いてみせろ!と親父さんは使用人達に指示を送ります。親父さん的にはセバスチャンが造反したとしても問題はないようです。っていうか、こういうときに自律判断できるから使っているという感じがします。正しいか間違っているかは力量で決める、という趣旨なのかもしれません。
「セバスチャン様お許しを!」
使用人達が迫ってきます。
「執事拳法! 三式! 燕尾舞!」
謎の技を出すと使用人達を纏めて吹っ飛ばします。なにもんだよお前。いや、なんか分ってたっていうか、もうこの人に突っ込むのは野暮だって知ってたけどさ。
セバスチャンの動きを見事と褒めつつも無数に使用人達を送り込む親父さん。もう趣旨が変わっているような気もします。
セバスチャンが足止めしている間、六花はもらったタブレットを使って屋敷の構造を頭にたたき込みます。逃走ルートを調べ中。「よし、大体分ったわ」。六花ちゃんパネェ。逃走劇が始まります。
部屋に突入するともぬけの殻。親父さんの視線から推測すると抜け道を使ったことを察したかもしれません。
セバスチャンは使用人達に囲まれていますが、戦力的には問題なさそうです。周囲の使用人達の方がきつそう。
抜け道についてはありすも知らなかったようす。「この家、こういう仕掛けがたくさんあるみたい」。なんで金持ちは自分の家を忍者屋敷に改造したがるんですかね。
使用人に発見されます。仕掛けを把握している六花がスイッチを押すと巨大な球が落ちてきて転がってきます。なんでそんなものが家の中に。っていうか誰が何の目的で設置したんだよ。六花が壁を叩くと隠し扉に。もうなんなのこの家。っていうかあの短時間で家の構造を把握した六花がやべぇ。
壁に入ったと思ったら、階段から出てくる三人。何がしたいんだこの家。熊のオブジェを押すと床が抜けます。六花ちゃん容赦ありません。アレか、この家の設計者はホームアローンに感化されたのか。六花の巧みな誘導と使用人達の無能さにより三人は庭へ出ます。しかし親父さんが噴水から現われます。うわー、この人ノリノリだよ。娘と追いかけっこ楽しー!とか思ってそう。
全力で走っているのに娘になかなか追いつけません。娘の成長を実感します。
もう少しで門。しかし目の前の道から使用人達が出現します。だからこの仕掛けは一体なんなんだ。泥棒対策と使用人達を訓練するためのトレーニングとかでしょうか。そりゃ突然鉄球とか落ちてきたらビックリするわ。それに臨機応変に対応できたらセバスチャンみたいになれるのかもしれません。ちなみにメイドさんがぬいぐるみを持っているのはありすの気を引くためでしょうか。
逃走劇は終わり。親父さんが「驚いたよ」と声をかけます。いつの間にかずいぶん元気になった。ありすはマナちゃん達と出会ってたくさん元気をもらったと自分の言葉で答えます。
本当かどうか私は確かめようが無いのですが、子どもが風邪を引く(熱を出す)と子どもは成長しているという説があります(どっかの医者がそんなことを言っていた)。成長すると風邪を引くというか。だから風邪を引き終わった子どもは前にくらべて何かしら発達しているのだそうです。本当かどうかは知りません。子どもが全力を出して疲れて風邪を引くから結果して成長しているようにも見えるし、元々子どもの成長速度から言えば風邪の有無に関わらずそうだと言えるのかもしれません。この説の要旨は、子どもが風邪をひいたり熱を出すのは弱いからではなく強くなろうとしているサインなのだ、ということだろうと思います。私も子どもの頃病弱で喘息&アトピー、点滴打つところ無くて足に打ったってくらいでしたが今では健康そのものです。元々子どもは大人に比べて免疫作用が働きやすい傾向にあって、それがアトピーなどを誘発しているそうです。実際長じてみるとアトピーはなくなりました。喘息もほぼ見られません。全ての子どもがそうだというわけではないでしょうが、人間というのは案外タフに出来ているというのが私の実感です。もちろん、ダメな場合もありますが。
親父さんはマナと六花に視線を送った後、娘に好きかと尋ねます。ありすはふたりの手を握ると「ハイ」「マナちゃんと六花ちゃんと一緒に居たいです」と父に向き合い伝えます。
先ほどのシーンでは部屋の内と外に分かれていましたら、ここで意思表示をするのは丁寧な流れです。自立しているというのは他者を頼らないこと、全部独りで出来るようになることではありません。そんなことを言い出したら結婚している人、組織に勤めている人、そもそも人間社会に暮らす以上自立した人間など存在しなくなります。そうではなく、自立しているとは自分の意思を持つこと伝えられること、自分の判断によって自分の人生を歩む覚悟を決める(責任を負う)ことです。だから一人暮らしをしているから自立しているということでもありません。自立心があって他者と協力することは依存にはなりません。自立の延長の依存になる。ドキドキの物語はこの点を意識的に描写しています。自分の判断によって動き、他者の協力を仰ぐ。他者と居るために自分もまた成長していかなければならない、自分の成長が他者の成長に貢献する、各々動機が違う、関係性や付き合いの長さも違う。そうした違いや緊張が自立と依存の関係性を浮き彫りにしています。
普通に暮らしているだけでも人生のスピードは速い。次から次へと色々なことがあるし、色んな人と出会う。そこで漫然と構えているとただ受け身の「~が~と言っていたからそうした」ということになりかねない。そうしたときにふと自分は何かを選び取ってきたのだろうか?と疑問に思ってしまうことがあります。26話の六花がそうですね。だからある程度定期的に、あるいはここぞというときにしっかりと自分の人生が今どういうときなのか、この選択がどういう意味を持つのかと考えることは心の健全性、自立、孤独を埋めることに役立つと考えます。っていうか、私はそうやっている。
セバスチャンが少しやつれた姿で親父さんに話しかけます。お嬢様は変わった。今こそ輝いている。
娘が初めて逆らったことを親父さんは嬉しいと話します。マナと六花に娘を託します。
何故こんなにもありすのために?ともっともな疑問を持つ親父さん。友達のために力になりたいって思うのが普通じゃないですか、とあっけらかんに話すマナ。「それに…」。隣でマナに信頼の視線を送る六花はその答えを知っているのでしょう。
回想が終わりかけた頃、父親がヘリで出発します。ついでにジコチュー。
③久々の黄子力
ヘリのパイロットがジコチュー化。マーモがリングの腹いせに暴れています。この人、よくこの家に来るよね。変身。
マーモはダイヤ達が引き受けて、ロゼッタは親父さんの救出。
ヘリに飛び乗ると、すでに親父さんは意識を失っています。ドアを蹴破って脱出。ヘリは墜落して爆発します。てっきりヘリ操縦するのかと思いました。
親父さんとヘリのパイロットをセバスチャンに預けます。立ち去ろうとすると、親父さんが目を覚まして声をかけます。前回に引続きプリキュアの姿が一般人に明確に認知されているのは後々に何か関係しそうな気配。ありすはキュアロゼッタだと答えてその場を立ち去ります。
ジコチューに苦戦するハートとダイヤ。マーモも一筋縄ではいきません。ビーム。バリア。ロゼッタが駆けつけます。メイン盾来た!
助かった、と笑顔でロゼッタを迎えるハートをロゼッタは笑い返します。
ロゼッタが単身突入。無数のミサイルがジコチューからはき出されると、両手のバリアを使っていなして回避、ならびに反転させて誘爆を引き起こします。片方のバリアを足場にして肉薄。前回の次回予告からタダならぬ気配を感じていましたが、黄色優遇回です。映画を間近に控えつつも作画リソースを贅沢に使用。地味にですが、敷地のライトが灯っているため立体的な機動がさらに引き立ちます。ライトの演出と言えば、この人、ということで4話でもロゼッタ回をやった田中氏の仕業です。
ジコチューのパンチで残ったバリアが粉々に砕けます。ラブハートアローを支給されても従来技を現役で使っているロゼッタの汎用性は高い。デカいバリアは小回りが効かないので小型を敢えて使うあたりにありすの戦闘センスの高さが伺えます。しかもこの黄色、盾役に見えて格闘が得意というおまけつき。そのまま肉弾戦に入ります。捕まってゼロ距離射撃。リフレクション使用。すでに傍観者になっているハート。ロゼッタはマナの言葉を思い返します。
「それに…誰かの喜ぶ顔を見るとこっちまで嬉しくなるから」
その犠牲者(?)が彼女。ただ友達と居たいと思っていたありすにとって、マナはずっと先を行っていた子です。マナはずっとありすの笑顔を見るために冒険や危険を冒してきました。
「私もマナちゃんのようになりたい!」
憧れ。それはとても素晴らしいものです。その感情が正しく、強く人に動機を与えれば人は今よりもさらに高みへと行くことが出来る。あなたの姿が誰かを高みへと引き上げ、その誰かがまた誰かを高みへと引き上げていく。あなたとは違う方法であなたと同じことをする。
バリアが真っ二つに割れます。ロゼッタは割れたバリアを掴むとジコチューに斬りかかります。えー、そのバリア割れたら消えるとかじゃないのー!? 流石黄色、流石東堂いづみ。好き放題。プリキュアのバリア役はアタッカーでもあります。
先ほどはバリアを足場にしましたが、今度は空中を蹴って跳躍。バリアを投げつけて体勢を崩したジコチューを掴んで投げ飛ばします。本来バリアが破られるのはピンチのはずですが、それをチャンスに変えるのはマナから学んだことなのだと思います。ちなみにここで流れている戦闘BGMは個人的にロゼッタのテーマ曲というイメージがあります。4話の印象が強い。変身BGMはダイヤのテーマ曲。
前回ジコチューのパワーは10倍だ!と言っていた人がいましたが、ロゼッタは20倍くらい強くなってそうです。
「プリキュアもお仕事も、誰かの喜ぶ顔が見たいから。世界中を笑顔で愛でいっぱいにしたいから、だから」
「さあ、あなたも私と愛を育んで下さいな」
逆さまになりながらロゼッタは言います。印象的なシーンです。たぶん逆さまに言わせたのはクラブをハートに見せるためだろうと思います。それはそうと、私はロゼッタの太ももも好きです。あの内股加減とか特に。
「ロゼッタバルーン!」
新技披露。風船が割れると蝶のような形をしたものがジコチューを取り囲んで捕縛します。
「ロゼッタバルーンは何が出るのか毎回のお楽しみですわ」
流石黄色あざとい。パッドによる新技は従来技とは別系統になるので使い道が差別化できます。といっても、足止め専用な感じはしますが。締めはハート。
母親はパリのオペラ座に居るようです。有名なオペラ歌手だそうです。
親父さんはありすに伝言を頼みます。
「笑顔を守るのもいいが、あまり危険な真似はしないように、とね」
どなたに?と尋ねる娘に
「もちろん、キュアロゼッタ君にだ」
ウィンク。この娘にしてこの親あり。
きっと娘のプリキュア姿を喜んでいるに違いありません。「セバスチャン」「は、こちらがキュアロゼッタの写真、動画です」「うむ。流石だな」「いえ。なお、こちらに秘蔵の…」「む、セバスチャン」「はい」「これは秘密だぞ」「かしこまりました」とかそんな会話してそう。
お泊まり会はまだ終わっていません。マナ達との想い出が詰まった部屋に戻ります。
④次回予告
そろそろアイちゃんの謎が解けていくのでしょうか。
○トピック
私 「ありすの体術はセバスチャンに教わったもの?」
友人「いや、あれは執事の技だろ。主人なんだから王の技だろ」
そんな回。
ありすにとってマナと六花ならマナの方が印象強いと思いますが、この出会い方を見るとふたりとも彼女にとって重要な存在であることが見て取れます。ありすがふたりと等距離に接するのはそのためかもしれません。
今回のエピソードはこれまでの話しを色々補強・補足しています。
まず一つ目はマナの影響力について。これは前回の一般生徒達でも語られましたが今回はそれをより具体的な動機として提示しています。六花とありすはマナに憧れています。彼女達にとってマナは恩人であり頼れる友人であり新しいことを体験させてくれる入り口でもあります。本作ではその憧れが嫉妬や依存(頼りすぎ)にならない形で示しています。六花とありすは自分に出来ることでマナと同じことをやろうとしています。彼女達なりの葛藤やキッカケ、動機の強さ、方法論が描かれることで自立心が確保されています。耳にタコが出来るくらい自立という言葉を使っていますが、これはジコチューに対する対抗手段になりうるからです。適度に自立している人は適度に依存しています。それは他者との関わりの中で自分は生きているということを浮き彫りにします。本作の愛の定義は自己と他者の包括・成長性なのでこれは重要な要素です。幸せの王子は犠牲のシンボルではなく、人に希望(夢)を与えるシンボルなのだというのが本作のメッセージ。
もう一つは親と子の問題です。これはおいおいキングジコチューとレジーナの対比になると思われますが、キングジコチューとレジーナの関係は言うまでもなく歪です。極端に放任されているかと思えば過干渉を行い、父親としての権威や安心感を与えるのではなく、自分は弱い存在だからお前に居て欲しいと責任の押しつけを行って不安を与えています。また理解者となるような大人も周囲に居ません。ありすの場合は父親が当初過保護的でしたが、娘の声を訊き裁量権を与えています。いずれにしても子どもは親の檻の中にいなければ生きていけないのですが、親の都合で全て決してしまうことは子どもに無力感を与え依存的環境を作り出します。現在のありす父は娘に仕事を与えるなどパートナーとしても認めているので、プリキュア側はこうした自立性、自己判断、子どものやっていることに強く干渉しないということで線引きを行っていると見ていいでしょう。平たく言えば、プリキュアの親子関係は信頼関係であると言えます。キングジコチューは寄生と呼べる共依存です。
ありすの父が海外に連れ出そうとしたのは紛れもなく「娘のため」だったでしょう。しかし本作では否定されています。というか「~のため」という理由付けは愛ではないと言っているに等しい。誰かのためというのは結局はその人の判断であって、当事者が本当に望んでいるか、喜んでいるかは知り得ません。つまり「~のため」で行われる行為はジコチューなのです。自分の願望でしかない(キングジコチューがレジーナの痛みを和らげるために魔力を与えるのはまさにこれ)。では、本作は何を愛としているかというと、自分が成長し相手も成長するとき、だと思われます。私もあなたもドキドキするとき、と言い換えてもいい。今は当事者だけ、あるいは時間を置いて相互にという形で提示されていますが、これが同時的に起こりうるかは今後物語が進めばハッキリするでしょう。
第32話「マナ倒れる!嵐の文化祭」
①倒れる王子
着々と文化祭の準備が進みます。当然マナは先頭に立って陣頭指揮をとります。六花が肩を叩くとマナはそのまま倒れます。顔を赤くしてダウン。幸先不安なスタート。
38.1度。原因は過労。部屋で横になりながらみんなを前にマナは笑います。ちなみにこのような失敗や追い詰められたとき、どうにも出来ないときにふと笑ってしまう(笑うしかない)ということがあるんですが、これ欧米では通じないそうです。日本だけの特殊文化というわけではなく、東アジアか、インドだかタイでもこういう笑いの文化はあります。通じない人から見ると不可解で無意味で、不謹慎に見えるそうです。
前回の大変な戦い以降も文化祭で東奔西走していたと振り返る六花。ついつい、と言うマナにそれで倒れたら世話ないともっともな答えを返す真琴。ごめんなさい、と謝るしかありません。休めと言われても休もうとしないマナに六花は有無を言わせない態度で「休みなさい」と釘を刺します。六花マジおかん。
見舞いの帰り。六花はいつものように「幸せの王子」と言います。それを訊いた亜久里は誰が?と尋ねます。童話の主人公、マナにそっくり。そう訊いた亜久里は図書館に行って本を借りてきます。どうやら物語を知らなかったようです。
部屋で読み進めていきます。なるほど、ちゃんとやるのね。幸せの王子は物語初期から提示されていたキーワード。童話の王子とマナの類似性、マナの物語が童話の二の轍を踏まないためには何が必要なのか、何が違うのかを明示する必要があります。これを具体的な対比で視聴者に提示するのは丁寧ですね。
結末を知った亜久里は大きな衝撃を受けます。
アジト。ベールはブラッドリングなるものを取り出します。早い話し幹部用パワーアップアイテム。それを付けたイーラとマーモは効果を実感します。ベールは今日から自分がナンバー2だから指示に従えと命令します。勿論そんな話しに従うわけもなくふたりはさっそく得た力を使おうとします。パチン。ベールの指パッチンと共にふたりは電撃を浴びます。反抗は不可。しかもこのアイテムは呪われているので外せません。リングがリーヴァとグーラのジャネジーから作られたと訊かされたイーラ達はベールが何をしたか察します。次第にその野心をさらけ出していくベール。イーラやマーモのジコチューはせいぜい自分の好きにやりたい(チヤホヤされたい)といった程度のジコチューですが、ベールは権力欲や出世欲、支配欲が強いのでチャンスをものにした彼がこうして頭角を現していくのは必然的ではあります。幹部内で序列が出来上がっていくのはスイートのファルセット達の関係が想起されますが、あちらはラスボスがつけ込んでいくのに対して、ドキドキでは自身の欲望によって変わっていくのが作品の軸の違いを表していますね。
②亜久里の義憤
文化祭当日。校内には出店が並び、各種催しが行われています。学校でお祭り、というランスのセリフは分りやすい説明。マナは家で留守番。シャルルが見張っています。
早速六花達のもとにお婆さんが来客用のスリッパを尋ねます。すかさずスリッパを渡すマナ。お前は予知能力者か。マナが来ていることに驚く一同。シャルルが止められなかったと謝ります。一晩寝たから大丈夫と気楽に話すマナにそんなわけないでしょ、と六花は叱ります。しかしまた尋ね人が現われマナが応対し始めます。彼女は壊れるまで動き続けるのではないかと思います。動いていないとダメっていうか、止まると死ぬ(死んでようやく止まる)って方に近い。こういう自分から忙しい状況を作り出す人をしばしば見かけますが、私はこの手のタイプは刺激に鈍感なのだろうと読んでいます。鈍感だからより多くの刺激を求め動き続ける、あるいはせわしなく活動することによって動機や満足感を充足していくタイプなのだろうと。逆にあまり積極的でない人は刺激を受けやすいか、活動することによって生じる困難や不安を避けたがるタイプ、と読んでいます。私は後者の刺激を受けやすいタイプですが、回避性の傾向は無い(好奇心が強い)ので仕事で言うと、なんでもそれなりにこなす(ただし本職の七掛け程度)便利屋的なポジションにつくことが多いです。本当は職人的にやりたいんだけど、ついつい他のことにも気が回って手を出しちゃう。ただこれによって好奇心を満たすことにはなる。何が言いたいかというと、刺激の強弱にしてもなんにしても、その人の適性と適応の問題なのでよほどの問題がなければほっとけばいいというのが私の見解です。大抵ちょうど良いところに落ち着く。それができなければその人の器がその程度ってだけ。
自分を省みないマナを見た亜久里は幸せの王子の物語を思い出すと、マナの首根っこを掴んで強制連行していきます。
保健室に連れて行くと、無理矢理寝かせます。幸せの王子の結末を話す亜久里。最後には鉛の心臓だけになる。しかも真っ二つになっちゃうおまけ付き。
亜久里はみんなは幸せの王子に頼りすぎ、ここは自分に任せてくれと啖呵を切ると部屋を出て行きます。彼女は責任感が強いのでマナを頼るみんなは不甲斐ないと考えるのでしょう。もっと辛辣に言うのなら、使えない奴らがマナに寄生している。こうした自立心の無い連中が許せないというのは責任感が強い人、自立心が強い人にその傾向が強い。
生徒会長不在。ということはナンバー2の副会長が責任者。十条君は何事もなく終わりますように、と心の中でつぶやきます。そうは問屋が卸さない。さっそく問題発生。パンフレットの在庫が切れた、迷子が頻発、トイレが渋滞、同時多発的に起きるトラブルに生徒達は思考停止。
「やっぱり会長が居てくれないと」
「マナは来ません!」
亜久里が答えます。実行委員ならその程度のトラブル自分で解決しろ、と突きつけられた副会長達は内心で「ギクッ」。
「物事を成し遂げようとするには相応の苦労と努力が必要なのです。自分が努力せずに問題が解決してそこに価値などありますか? いえ、ありません!」
完 全 論 破 。
想像以上の不甲斐なさだと独りごちる亜久里。この学校の構造的問題が明らかになってきました。ビシバシいく、と指導モードに入ります。彼女は面白い立ち位置のキャラだと思います。ズケズケと入ってきて弱さを指摘していく。つまり告発者です。多少乱暴に言えば、いわゆる超自我的な監視システムだと言えます。人の免疫システムで例えれば亜久里は抗体みたいなものですね。怠惰や弱さを改善しようとつついてくる。単純に強迫性パーソナリティと言ってもいい。義務感が強い。彼女の存在と指摘によって物語は立体的かつ問題点がクローズアップされています。そしてここが一番面白いのですが、亜久里自身もまた問題(脆弱性)があることです。この物語には完璧な人間など存在しないのです。全ての人間が強さと弱さを抱えている。
六花は膝をついてがっくりとうな垂れている集団を見つけます。「通りすがりの小学生に」「怒られまして」「何も言い返せませんでした」。
マナ達のクラスの出し物はカフェ。給仕を務める真琴にファンが押し寄せます。制服エプロンはご褒美ってもんです。六花メガネエプロン仕様はまだか!
ある意味予想できた展開ではあります。他の客もそんな感じで見ています。とはいえこれはこれで放置もできないので、クラスの女子生徒が男子生徒になんとかしろと話しを振ります。煮え切らない態度の生徒達に「しっかりしないさい!」と叱咤の声。毅然と対応してみせなさい!と毅然と叱りつける亜久里。この子に店長とか新兵教育させたら似合いそうだな。小学生に頭が上がらない中学生。これはこれで特殊なプレイとして人気を博すかもしれません。
36.5度。平熱に戻るマナ。起き上がろうとするマナを軽くあしらうありす。このお目付役は適任です。亜久里が不満顔で保健室にやってきます。マナが尋ねると学校のみなさんを鍛えていたと話します。小学生のセリフじゃねぇ。この学校の人は童話の人々と同じ。王子の愛に頼ってばかりだと憤りをあらわにします。いいぞ、うちの部署に来て使えない先輩どもに言ってくれ!
気にしてないと言うマナに怒りの矛先が向かいます。甘やかしているのがいけない。このままではみんなが面倒なことを人任せにする心の持ち主になってジコチューにされてしまうと懸念します。これは一理あります。幸せの王子問題は決してマナだけの問題ではなく、周囲の人々の心性も問題になっています。依存はする人とされる人が両方居て成立する関係です。ならばする人がいなくなれば依存関係は成立しません。マナが壊れてしまう、という指摘と同時に周囲の人々が木偶人形になり果てるという指摘をするのは論理的に正しい提示です。
「一人一人が強くならなければいけないのです!」
力説する亜久里。割と典型的な強迫性パーソナリティです。この手のタイプはそこそこの強度なら几帳面で道徳的で自立的で良い人なのですが、強すぎると周囲にもそれを強いるので話しは分るけどテンションについていけねー状態になります。
呆気にとられるありす。マナは「う~ん」と含みがあります。
亜久里ちゃんの言うとおりみんなが強くなれたらそれが一番かもしれない、と同意しつつもマナは「でもね、あたしだって何でも出来るわけじゃない。みんなそれぞれ出来ることと出来ないことがあると思うの。そんな時、誰かを手伝ったり助けてもらった時に胸がドキドキするというか、キュンキュンするというか、そういう気持ちもすごく大事な気がするの」。そう彼女は答えます。
感謝(それ以上の意味が含まれていますが暫定的にこの語を使います)。この提示は非常に面白い。なるほどそう切り返してくるのか。何度でも言いますがマナは聡明な子です。彼女はどんなときにも思考することを忘れません。厳しい状況の中でも最善を考え、努力する意思を保ち続ける。自分の感情や想いを言葉にして伝える能力を持っている。これは当たり前の能力ではありません。自分の心を言語に置き換えて、かつそれを他者に適切な形で表現する能力は比較的高度な能力です。私の見立てではこれが出来る人は好意的に見ても全体の半数を越えることはない。マナをよく知る人は彼女の行為、言葉に強く勇気付けられるでしょう。マナは人の弱さを弱さだと、悪だと、忌避すべきものだと切り捨てません。その弱さを自分も持つが故に、他者の存在価値、他者に対する感謝の念を自身の強さに転換することで他者に還元する子です。弱さを糾弾するのではなく補おうとする。つまり「これからはみんなから受け取ったその優しい気持ちを色んな人に分けていきたい!」ことを実践しています。なるほど、こうして自立と依存以外にもスマイルとドキドキは連続した物語になるのか。見事だ。
「それに学校のみんなだって、人に頼ってばかりじゃないと思うよ、きっと」
③他者の内在化
校内でクラスの宣伝をする二階堂君。やる気が見られません。その後ろで他の生徒達が鬼ごっこをしています。キャンプファイヤーのために組み上がったやぐらの上に登った少年が体勢を崩して落下。やぐらもバラバラに崩れてしまいます。
崩れたやぐらを前にして冷や汗を流す少年達。八嶋さんがケガは無いかと心配して声をかけます。幸いケガはありませんがやぐらの方は完全に瓦解。副会長は諦めモード。事態をマナに説明した女子生徒達もさっそくマナに頼るばかりで思考停止。不甲斐ない人々を見て亜久里はダメダメだと言います。
二階堂君は「手伝え百田」と出し抜けに言います。駆けだした彼の姿に百田は頷くとついて行きます。
丸太を動かしながら二階堂君はマナの言葉を引き合いに出して周囲を活気づけます。早速六花は副会長に手伝って、と言うと瓦礫を動かし始めます。事の発端になった少年達、ソフト部、サッカー部、野球部も率先して動きます。ここで京田さんをはじめとする部活組が動くのは説得力が高まります。彼女達はマナに世話になった人々で、彼女達がマナの意思を継ぐのは分りやすい。
マナが校庭に姿を現す頃には、生徒達が一致団結してやぐらの再建に取りかかり元の姿を取り戻しつつあります。副会長もやぐら完成までスケジュールを遅らせると決断して伝えています。彼らの姿にマナは満面の笑みを浮かべます。亜久里は驚きのあまり口が開きます。対比的に言えば、亜久里は人は怠惰で弱く自分が範を示し指導しなければならない、つまり人を信じていないとすれば、マナは人の善意、自発性を信じていると言えるでしょうか。二人の表情の違いは信じるものの違いです。また、亜久里は自分が指導することで自分の主張、義憤、正義を証明させようとする(人を操作することによって自己のわだかまりを転換的に解消する)のに対して、マナは必ずしも自分が先頭に立って活躍しなくてもいいことを認めていると捉えることが出来ます。マナは名誉を欲していません。彼女は生徒会長でなくても人の手伝いをするだろうし、人に認められなくても手伝うでしょう。自己顕示欲が無い。
先ほど亜久里の叱責を受けた女子生徒が声をかけてきます。自分達なりに解決案を考えたと伝えます。「ありがとね」。これもとてもバランスの取れたシーンです。マナがやっていることは今回結果的には効果を上げていますが、亜久里が指摘する構造的問題が払拭されるわけではありません。亜久里がやったこともまた正当なものです。指摘されて事態を正確に飲み込めるようになることは多々あります。自覚していないことを自覚させることは意義あることです。亜久里が感謝されるのは当然のことです。しかし、当の亜久里にとって重要なのはまさにその感謝されたことでしょう。彼女からすれば生徒達は不甲斐なく使えない人達です。その彼らが本来やるべき仕事をやるのは亜久里からすればごく当たり前のことです。感謝されるとは思っていなかったでしょう。自分の行為が「間違っていることを正す(弱さを排除する)」と捉えていた彼女にとって、自分の行為が感謝と繋がった意味は大きい。彼女の行為が決して一義的なもの、自分の想像の範囲内だけのものでないこと、すなわち人が他者を内在化していくことを知る大きな転換になります。これと似たことはすでにエルちゃんの件でもありましたが、今回の件はそれがより顕著な事例として表現されています。
人を自分の思い通りにコントロールしようなどと思うのは傲慢です。時に人は自分の想像を超えることをやってのける。もちろん想像以上に堕落することもある。いずれにしても人を「教化」しようなどというのは、世界征服しようと考えることとそれほど大きな違いがあるとは思えません。
カフェでは大声で話す迷惑な客をクラスの生徒が諭す光景が見られます。ジコチューを膨らませる男子生徒。今週のカモ。黒いプシュケー。リングの力を得てより強力なジコチューが誕生します。窓を破って校庭に。
暴れ回るジコチューを前にして、やぐらを守るように二階堂君達は抵抗の意思を見せます。今回ドキドキでは珍しくこの後プリキュアの戦いを見たり、生徒達の反応が描かれていますがこれも彼らの内発性、怪物と戦っている人達がいるということを示すためだと思われます。
5人で変身。名乗りは勿論5人で行います。
ロゼッタが生徒達を守るようにガード。ダイヤとソードがキック。ダイヤさんの素足とソードの太ももの組合わせとか俺得すぎる。プリキュアが現われて驚く生徒達。ハートは自己紹介。みんなに助太刀すると言います。この辺はフレッシュ的なプリキュアの提示ですね。
イーラの姿を認めたダイヤはもうこんなバカなことはやめたらどうだと言葉をかけます。俺に命令するな!と聞く耳を持たないイーラ。簡単に寝返るほど話しは単純ではありません。ジコチューが力を増して襲いかかってきます。当社比スピード5倍、パワー10倍、態度は100倍だそうです。インフレがマッハ。正味な話し、こんな小競り合いを延々と繰り返しても不毛な戦いにしかなりません。強い敵を倒すために修行して強くなる、のイタチごっこ。なのでプリキュアでは、この不毛な競争から脱するロジックを構築する必要があります。
ジコチューは自分のカップにプリキュアを入れると猛烈なスピードで回転し始めます。さながら絶叫マシーン。ハートやばそう。終わってカップから降りたプリキュアは全員ノックアウト。特にハートは一歩間違えば美少女ヒロイン的に致命的なイメージダウンの恐れがあります。これではラブリーパットも使えない。
するとエースが単独で時間を稼ぐと言います。乗り物酔いには強い方だそうです。そういう問題なのか。猛スピードで疾駆します。あ、やっぱこの人性能高ぇ。
エースは述懐します。正しかったのはマナ。童話の人々は幸せの王子を鉛の心臓にしてしまったけど、この学校のみんなは違った。
「マナからもらった愛を、自分の心に芽生えさせている」
生徒達はみんなエースを応援します。
「お互いに愛を与え合うことで感じるドキドキ、キュンキュン、その胸の暖かさを知っている」
「そして、それは……私の心の中にも!」
ケレン味のあるポーズ。エースはこのドキドキを守る決意を固めます。
「エースミラーフラッシュ!」
パッドを使った新しい個人技。これ5人分あるようです。ちなみにパッドは手を触れずに操作できるのが売りのようで、作中でもそれが実演されています。ジコチューの動きを止めます。
ハートが復活。時間なので浄化します。
後夜祭。キャンプファイヤー。オクラホマミキ…おい、そこのメガネ!!
マナは亜久里にお礼を言います。自分を心配してみんなに働きかけてくれたとマナは解釈したようです。それはそれで正しいのですが、亜久里的には義憤も強かったでしょう。
「もしかしたら童話の幸せの王子が与えた愛は街の人々に届いていたかもしれません。今日のようにみなさんが王子に愛を返してくれる世の中になれば、あなたが犠牲になることも、人々がジコチューに屈することもないのかもしれません」
ちなみに今、全国の多くの視聴が現実の前に屈し、犠牲になりました。
「そういう風になればいいね」
きっとそうなる、とは言わないマナに私は誠実さを感じます。
「踊ろう」
亜久里に手を差し出すマナ。
「そんな未来を作るためにわたくしはあなたと愛のために戦いますわ」
亜久里はマナの手をとります。
④次回予告
「長い夜になりそうですわ」。ドキドキがキュンキュンです。登場するだけでサブタイトルになる親父ってどんだけだよ。
○トピック
六花がメガネとエプロン姿で給仕してくれるんじゃなかったのか! 熱で動けないマナに六花が好き放題やるんじゃなかったのか! と全国から失望の声が殺到する回。一方その頃、私はひたすらに狙撃の練習を積むのでした。
終盤に向けての大事なロジック回。シリーズの文脈的にも意味のある見事な継承と発展です。
幸せの王子問題はマナだけの問題ではなく、マナを頼ってしまう周囲の人々にも関係する問題です。この問題を部外者である亜久里が表沙汰にして暴露するのは合理的です。マナ達が通う学校では生徒会長がいれば大丈夫、というローカル意識が定着してしまっているのでこれを「おかしいだろ」と強く言えるのは部外者で、かつマナ自身とも多少距離があり遠慮容赦しない亜久里が適任です。
結論からざっくり言ってしまうと、この物語においてマナのやり方も亜久里のやり方も否定されません。何故なら二人とも正しいやり方と正しい意思を持っているからです。この物語がより重視し、マナが幸せの王子のように犠牲にならず、周囲の人々もまた自ら責任を持って行動できるために見出したのが「感謝」する心を持つこと、というのは子ども番組としてとても分りやすく、人間心理としても真っ当な指摘です。複雑な理屈や大仰な思想を使うことなくこれを持ってきたのは見事です。
つまりこれは他者の内在化なのです(内在化がどういうものかは26話を参照されたし)。マナが範を示し、周囲がその影響を受けながら自立的に行動していける可能性があることは11話の京田さんの話しでも行っていましたが今回これを学校全体に広げています。亜久里の行為もまた彼らに自覚と責任を与える役割を持っています。前作スマイルが人から受け取った優しさを自覚しそれを与えていこうと踏み出したことを踏まえて、今作はそれをプリキュアだけでなく、一般人にも拡張し適用しています。マナの縦横無尽でスーパーウーマンな活躍は、一般人に対してただの便利屋、都合の良い人というだけでない印象を与えるに至っています。主人公達に留まらず一般人への敷延(拡張)はプリキュアの伝統的ロジックでもあり、人の可能性を信じる物語において必須のロジックです。極限られた人にしか出来ないことをその根拠とすることはそれ自体脆弱で選民思想的な可能性でしかありません。そうではなく誰もが持ちうるところにその根拠を置く方が意味があると考えます。そのため飛躍性は低いし、大きな変革性は望めません。それでいい。そもそも人間はそんな生き物ですから。重要なのは、人はその中に可能性があること、何かのキッカケでそれが開花し得るということです。その一つのキッカケが「感謝」なのだ、という提示です。
マナが言うように人には得手不得手、強弱があり、全ての人がリーダーになる資質を持つわけではありません。しかし十数人集めればその中に一人くらいはリーダーシップをとる人が出てくるでしょう。その人の音頭に後押しされて動く人もいるわけで、キッカケやインセンティブ、動機付けが出来れば人は自立的に、組織的に機能するというのは現実的な見せ方だと思います。一種の連鎖反応と言えますが、これが悪い方に転がると頼りっきりになったり、自分で頑張らずに英雄を求めようとする心理に繋がります。これに対する根本的解決方法はありません。人間はそういう生き物だからです。どっちにも転がりうるという話しです。今回のエピソードが示したのは、マナの行為が無駄ではないこと、彼女が犠牲になるとは限らないこと、周囲の人々が自立していける余地があることです。すげー端的に言えば、幸せの王子のあの結末は片手落ちだ、そうならない可能性、王子が残したことは糧となって人々に何かを与えた可能性だってあるでしょ、という本作なりの解釈と提示です。
マナが次々と人の世話を焼いて背負っていくというのは、裏返せば彼女が人々を信じていない、任せられないという懸念があったんですが(彼女が全てを背負ってしまうと結果として全ての人を記号化してしまうことになります)、今回のエピソードでそれが払拭されているのは個人的には思わぬ収穫でした。彼女は人を信じているし、人に任せられる。人々を幼い者、未熟者と見ず、人々の中に起こるであろう気持ちの大切さに触れている。
マナがハイスペックであることは間違いないことですが、だからといって彼女が完全無欠ということでないし、他者を必要としないということでもありません。彼女は他者を最初から内在化している。3話の六花の回想で発せられた「そりゃ、六花が必要だからだよ」「六花と一緒なら今まで出来なかったようなすごいこともできる気がするんだよね」というセリフを私は印象深く受け取りました。マナは一人で何でも出来るとは考えていない。むしろ他者が居てこそ自分が活きる、可能性を広げられると思っている。レジーナの時にも彼女は友達に相談したり力を貸して欲しいと自ら願い出ています。前回の復活劇でもすぐに立ち直れたのは彼女が他者を内在化しているが故に、自分の諦めが自分だけでなく他者にも関係していることを知っているからだと考えられます。だからこそ彼女は「一人じゃない」と仲間に手伝って欲しいと願い出ているのです。彼女は他者の大きさを知っています。例えば彼女は六花に頭が上がらないでしょう。六花がマナを必要としているようにマナも六花を必要とし感謝しているはずです。その自分の気持ちが他の人々にもあるはずだと彼女は信じているんですね。とても素敵なことだと思います。自分の気持ちを大切にし、私がそうなのだから、きっとみんなもそうなのだ、みんなもその気持ちに正直になれると信じられるマナの態度に熱いものを感じます。彼女の内面の奥深さ、素朴さが垣間見えています。
亜久里は私達視聴者と同じ目線だと言えます。敗北したマナ達に強くなれと言うのも、プリキュアとはこういうものだと言うのも、学校の生徒達に不甲斐ないと言うのも外から見れば誰もが思うことです。しかしそれは一面的な認識です。マナ達がどんな人間であるかを知り、自分もまた彼女達と共有していくことで変わっていく(当然亜久里もマナ達に変化を与えられます)ことでより多様な人の姿を知るに至るわけですね。亜久里は自分が知らない強さ、気高さが人の中にあることに気づいたわけです。弱者、愚者の中にも種があり、それは愛によって芽吹くという認識ですね。自分が変わるということは決して自己の敗北や過ちを意味することではありません。自己が拡張していくということなのです。
マナ、六花、ありす、真琴が何度も経験した自立と依存の関係性、人が他者に影響を与え感化していくことが一般人に、そして亜久里にも伝わったことで、この物語における愛の連鎖が証明されています。それを「感謝」に表す本作の洞察は素晴らしい。
こうした話しを見るといよいよ終盤にさしかかってきたのだと意識させられます。そろそろ映画公開も見えてきましたし、楽しみが増えてきました。
第31話「大貝町大ピンチ!誕生!ラブリーパッド」
①リーヴァ・グーラ最後の作戦
久々の登場のベール。飴をなめながら悠々とリーヴァ達にプレッシャーを与えます。ビッグマウスにプリキュア打倒をかかげたものの戦績は全敗。キングジコチュー様もそろそろ痺れを切らすかもしれません。リーヴァとグーラには秘策があるようです。
黒い玉が人の中に入り込むとその人は倒れて眠り込んでしまいます。プシュケーが浸食されていきます。
「もしも~し」「ドアじゃないし」「もしもし」「電話じゃないし」。出だしから夫婦漫才やってますが、前回ゲットした鏡はウンともスンとも言いません。三種の神器の力を使えばキングジコチューを浄化できるはずだと亜久里は言います。ところが使い方が分らない。説明書も無いようです。鏡なのに何も映さない。不良品かもしれません。何しろ製造年は1万年以上前。
では調べてみようと、ありすが謎スイッチを押すと部屋に巨大なモニターが現われます。なんで金持ちは自分の家改造するの好きなんですかね。スキャンしてみますが解析不能。じゃあ耐火実験や水圧実験をやってみようとありすは言い出します。ネタのように見えてマジでやる気です。そもそもそんな実験やってどうするんだという気もしますが。盾にでも使おうと言うのか。
六花が止めます。りつありも有りだな(何の話しをしている)。アイちゃんを呼びます。きゅぴらっぱ~。特に何も起こりません。落胆する六花。いやいやそれどうなんだ。確かに視聴者的には不思議アイテム関連だから気にはなる話しだけど。そのきゅぴらっぱ~って何を送り込んでるんでしょうか。とりあえず魔力を注いでいるのか、こうなってくれというような目的があって出すビームなのか。
キングジコチューに対抗できる力を得たのにそれが使えないなんて…と落胆の色を隠さない亜久里。言うまでもなくプリキュアロジック的には間違っています。対抗どころか退行している。だいたい人から得た力でどうにかしようなんてムシが良すぎます。彼女達に大義名分はありません。彼女達の動機はジコチュー(個人的な願い)に根ざしている。であるなら、彼女達が使う力もそこから出たものでなければなりません。これは責任の問題でもあります。
マナの腹の虫が鳴ります。
ぶたのしっぽに行くと六花の母が迎えます。オムライスが食べたくなったそうです。
出入り口のところで亜久里が突っ立っています。気分が沈んで食欲が湧きません。自分達には力が足りないのかとつぶやきます。この子の考え方は非常に危うい。彼女は一度敗北しているので大きな力を求めるのは自然なことですが、その願望が強いために力の有り無しが自分が立っている足下の確からしさに直結している。彼女は力があれば勢いに乗るが、それが不確かだと感じれば途端に不安に陥っている。言うなれば条件付きの自己肯定を行っています。日常的な話しに置き換えれば、仕事(勉強、スポーツ、その他秀でたこと)が上手く行っている自分が当たり前で、それが失われると自分が否定されるような、自分に価値が無いような気になってしまうようなパターンと同じようなものです。しかも亜久里は小学生でありながら変身後は大人(マナ達より年かさ)になるので、実物としての亜久里と力の象徴としてのエースに乖離があります。背伸びしている。5分制限もその意味で借り物、分不相応、背伸び、つまり地に足がついていないことを連想させます。腹が減っては戦はできぬ、とマナが言います。後に分ることでもありますが、マナは非常に強固な土台の上に立っています。レジーナのときに大きく凹みましたが、それを経験する前からマナは安定した自己肯定感が確立していたと思います。小学校の頃と今とでは大分イメージが違います。彼女が出来る人なのは、出来るように努力を積み重ねてきた証拠です。おそらく彼女は自分が大好きなはずです。弱い自分を嫌うくらいなら強くなろうと考える子。そして常に彼女の傍には六花とありすが居ました。
いつの間にか亜久里の祖母が店に来ています。お茶会の連絡にと手紙をマナの母に渡します。自分も食事に混ざりたいと申し出ます。マナの父と祖父が競うように厨房へ引っ込みます。なんだかんだと、家族が寄り集まって食事することに。
テレビのニュースでは大貝町の人々が原因不明の昏睡に陥る事件を伝えています。黒い玉が降り注ぎます。むずがるアイちゃん。テレビでもリポーターとカメラマンが倒れてしまいます。不思議がるマナ達の前で母達も伏していきます。セバスチャンが黒い物体がみなさんに…と残して眠り込んでしまいます。この人も相当タフだなぁ。
その黒い玉がマナに入る込もうとしますがラビーズの加護によって防御。つまりプリキュア以外はこれを逃れる術がないという話し。テレビにリーヴァが映ります。
車で移動。街中の人々は倒れています。ちなみに運転しているのはダビィ。この妖精ほんと便利だな。
リーヴァが準備したのは世界を滅ぼすときに使う最後の手段。ジコチュー植物。その実は大量のジコチューの種を生んで人のプシュケー寄生する。最初は眠っているだけだが、最終的にはジコチューへと変わる。ジコチューとなった人々がその世界を滅ぼすというサイクルらしい。戦力を現地調達して征服するってのは効率的な戦略です。さらにジャネジーが一気に増えてキングジコチュー復活の鍵にもなる一石二鳥な作戦。毎年のパターンで言うとラスボスの本格稼働と世界滅亡はセットです。
②私のジコチューが街を救う
現地到着。さっそく変身。出だしのバンクが変わっています。キュアエースは温存。これは今作の特徴であり重要な部分でもありますが、ドキドキは頭が良い。現実に対する認識や対応を受け止める傾向が強い。
リーヴァとグーラが合体。地面を砕く勢いで殴りかかってきます。リムジンがどっかに飛んでいきます。戦闘が終われば自動修復されるので問題なし。たぶん頑丈に出来ているでしょうからそのままでも問題ないかもしれません。
スパークルソードとダイヤモンドシャワーを浴びてもびくともしません。今更ソードが効くとも思えませんが。むしろスパークルソードが効かないまでがソードの見せ場的な感慨すらあります。フォースアローを立て続けにたたき込みます。ダメ。
プリキュアのピンチを見て取った亜久里がエースに変身して参戦。リヴァグラとの必殺技合戦になりますが押し負けます。
変身後3分でプリキュアは全員満身創痍、パッドも敵の手に渡るというスピーディな展開。リーヴァは神器であることを知っているようです。さっそく割ります。前回あれだけ苦労して手に入れたのに脆いモノです。1万年も過ぎれば耐久性に劣化も生じるのでしょう。1万年も時間があったのに三種の神器に代る兵器開発を怠ったツケと言えるかもしれません。割れた鏡を絶望的な瞳で見つめる5人。
ハートは残骸をかき集めます。壊れてもメランの想いが込められた宝物だと言います。エースが飛びだして、単身リヴァグラに挑みます。「プリキュア5つの誓い、1つプリキュアたるものいつも前を向いて歩き続けること!」。パッドが無くとも負けないと気概を見せますが制限時間が来て変身が解けてしまいます。これは空元気というものですね。
墜落した亜久里をソードとダイヤがキャッチ。リヴァグラの追撃をロゼッタがガード。バリアにヒビが入ります。それを見た亜久里達は不安な表情を浮かべます。ドキドキでも苦しい戦いはこれまでに何回か経験していますが、今回は生命の危機と言えるレベルで窮地に陥っています。このままバリヤが貫通すればロゼッタ達はまだしも亜久里はかなり危険です。
わざと攻撃の手を緩めるリヴァグラ。お約束の「世界が滅びるのを見ていろ」展開。
失意のどん底に陥るロゼッタ達。鏡は割れるわ、技は効かないわ、エースは変身解除するわ、手の打ちようがありません。前回は再チャレンジできる条件でしたが今回は時間に余裕もない。ここで打開策がなければ終了です。
「ソードごめん」
「シャルルごめん」
突然ハートが謝り出します。
「あたしトランプ王国を失ったみんなの気持ちを分ったつもりでいた。でも本当には分ってなかった。自分の身近な人たちが大切な街がこんなことになって初めて分った」
「胸がこんなに痛むんだね…すごく悲しくて! 悔しい!」
ハートは大泣きします。それはそれとしてダイヤが座り込んでいるシーンがすごくコケティッシュでした。私はすごく嬉しい。
まさに「もっと泣け、もっと叫べ」状態。世界の終焉を前にして泣くだけの無力な存在。
もの凄い勢いで絶望とこの後の復活劇をやるのでテンションの上がり下がりが激しいのですが、このシーンは非常に重要です。マナは一度レジーナを喪失するという痛くて悲しい出来事を体験しています。しかしそれは彼女自身が喪失する、生死に関わることではありません。トランプ王国の惨状も現地を見ていますが対岸の火事、自分がこれから助ける場所的な意識だったでしょう。今回彼女が目の辺りにしたのは、自分の世界が本当に滅んでしまうかもしれないという実感、そして本当はそのことに今までだって気づき得たかもしれないのに気づかなかったこと、真琴の苦しみや絶望を言葉でしか受け取っていなかったことを知ったのです。だから真っ先に真琴とシャルルに謝ったんですね。自分は部外者だったのだと認めたのです。彼女は無力さとともに自分の偽善性、甘さを体験しています。誰もがそうですが、自分の無力さ、偽善、欺瞞、甘さを直接受け止めるのは苦しいことです。悔しい!と言うのもそれが自分の無力さ、至らなさ、力が及ばなかったから出た言葉だろうと思います。つまり彼女は今後悔しています。後悔は反省を促すものでもありますが、反面ああすれば自分が傷つかずにすんだのにというニュアンスもあります。彼女の自己肯定感はおもいっきり傷つけられるはずです。
最終決戦前夜かというくらい街の人々はみな倒れ、世界の終焉を感じさせます。クローバータワー、学校、京田さん、純君、エルちゃん、今まで登場したゲストが出るとまさにそれっぽい雰囲気。それはそうとエルちゃんはそんなところに寝ていると風邪を引くので、私が家まで届け……あ、なんだか眠くなってきました。
「フン!」
ハートがまたしても突然自分の顔を突風が出るくらい強く叩きます。
「あ~、泣いた泣いたすっきりした」
「うん、落ち込むのはもうお終い。さあ、反撃だよ」
立ち直るのめっちゃ速くないっすか、今さっきめっちゃ泣いたよね!? 自己肯定感傷ついたよね!?
話しについて行けずに目を丸くする一同。
「ラブリーパッドは割れちゃったし、今のあたし達じゃ全然歯が立たない。だったらあたし達が今よりもーっと強くなろう」
「亜久里ちゃんは世界を守りたいって思いで自分を成長させてエースになった。強い思いで成長できるならあたしたちはもっと強くなれる!」
マナ理論炸裂。
それを訊いたときの四者四様の表情が面白い。六花は困惑から呆れそしていつもの表情に、ありすは驚きから柔和に、真琴も呆然とした表情から瞳に輝きが戻ります。
「今すぐ強くなれるということですか?」
「なれる!絶対に! だって、みんなを助けたいってこの気持ちがジコチュー達に負けるわけないんだから」
マナのこの楽観さがどこから来るのか分らないけど、その理由が無い故にその楽観さと確信に意味と力がある。条件付きの肯定はすがっていることであり依存です。そうではなく自分が自分を信頼して立つという自立。自分に対する信頼、自信、肯定感はたとえどのような状況に陥ろうと人に活力と希望を与えるモノです。本当に打開できるかどうかは別にして。もうダメだとそこで終わらず、じゃあどうやって挑むかと考える力を人に与えるのが本物の自尊心だと思っています。一般的に悟り、啓示と呼ばれるものを私は「根拠のない確信」と呼んでいます。ドストエフスキーの言葉を借りるなら『それはおそらく誰もがめぐりあうにちがいないが、しかし一生にせいぜい一、二度しか訪れないような、そうした瞬間のひとつであった。このような瞬間に人間は自分の運命を決定し、世界観を確立し、きっぱりと自分に対して、『ここに真理があるのだ。そしてそれに到達するためには、この道を進まなければならんのだ』と言明するのである。そう、たしかにこの一瞬は、私の魂の光明であった』(未成年)の感覚が私の根底にはあります。この一種の使命感というか、感覚が私を鍛え続けていると思っています。あ、もうお分かりのとおりプリキュアとは全く関係ない話しになっていますが、こうした根拠のない確信は自己の存在基盤、肯定感に多大な影響を与えます。任意にこの感覚を得る方法があるかは知りません。私はそういう体験をした、と言える瞬間がありました。これは、まあ、分る人にしか分らない感覚の話しですが、そうでなくとも幼少期に親にキチンと愛されていた、良好な人間関係を構築していた人は自己肯定感、安定感があるという話しは訊きます。まっ、全てがそうした原体験に縛られるということでもないでしょうが。
「それに、私は一人じゃない」
瞳を細めて言います。彼女の瞳に映るのは、彼女が困ったときに助けてくれた人達。彼女と共に生きてきた人達。彼女一人では生徒会長をやることすらおぼつかないでしょう。六花が居たから彼女はアクセルを踏み抜く勢いで走ってこられました。六花は彼女のブレーキではありません。燃料です。友達の支え、助けがマナをマナたらしめ彼女の能力を引き出してきました。ここに本作の洞察が見て取れます。みんなと一緒なら出来なかったことも出来る、というのはプリキュアの基本精神ですが、それを支える理論として、他者との関係や協力が個々人の才能を開花させ引き出させるという認識が明確になっています。何かをやり遂げるためにみんなで協力して解決するのは分りやすい事例ですが、むしろドキドキで行っているのは個々人の行動範囲を広げるということです。幸せの王子はそのままでいい。その王子が自滅しないように体制を整えればいい。人のジコチューは尽きない。それは人の願望や願いが尽きないということ。それは同時に人から希望が消えないということ。その希望を現実に換えるために全力を尽くす。これがプリキュアの絶対に諦めない理論です。
マナの無茶ぶりに呆れながらも六花達はついて行きます。
円陣を組みます。
「リーヴァはこれが最後の手だと言っていたわ。つまり彼らも追い詰められているってこと。全力でぶつかっていこう!」
マナもそうだし、このときの六花もそうですが、単に気持ちだけでなく、冷静に状況を読み取っていることは明晰さを示しています。彼女達は思い込みや盲目的、自暴的な勢いで走っているわけではありません。
「キュアハート、まさかあなたから教えられるとは思いませんでした」
「あなたは、いいえ、あなた達はプリキュアの新たなステージに上ったようですね」
ジコチューは人に破壊的な力を与える。しかし同時にそのジコチューが人に創造的な力を与えうる、というのが本作の意図するところだと思われます。
「プリキュア5つの誓い、ひとつ! プリキュアたるものいつも前を向いて歩き続けること!」
「ひとつ! 愛は与えるもの!」
「ひとつ! 愛することは守り合うこと!」
「ひとつ! 自分を信じ決して後悔しない!」
「ひとつ! プリキュアたるもの一流のレディたるべし!」
「ひとつ! みんなで力を合わせれば不可能はない!」
後者の力を得るためには、愛が必要だというのが本作の意思であろうと思われます。愛とは自己と他者を結び包括するものである。
③マジカルラブリーパッド(税込み価格 8,715円)
立ち直ったハート達が再びリヴァグラの前に立ちます。
これ以上セリフを書き起こすのが面倒臭いので端折ると、決意表明した直後パッドの破片が光り出します。いつもの展開です。
鏡が生まれ変わってタブレッド型に。予想通り。タブレッド型なのに液晶画面がえらく小さいのはコスト的な問題でしょうか。ちなみに玩具はカラー液晶のようです。タブレットは一人一個。後期高額商品が各自配布というのは珍しい。つまり娘の数だけ買えってことです。玩具会社のジコチューも半端ねぇ。
力の恩恵を得てエースに再び変身。みんなで名乗ります。
「響け! 愛の鼓動! ドキドキプリキュア!」
5人揃ってがこのタイミングというのは印象的。今までエースが与えてきた試練だったわけですが、今回はみんなにとっての試練、みんなで乗り越えなければならない試練として位置づけられるわけですね。そんなことよりダイヤさんの脚はやっぱり素敵だと思う今日この頃。ブルーレイ1巻(のジャケットイラスト)が楽しみです。新しいラビーズも生まれます。
新バンクのお披露目。ラビーズをセットするとパッドにトランプが出現。そんなことよりハートの脇とダイヤのうなじが素晴らしいです。トランプを広げてハートに渡します。
「プリキュア! ラブリーストレートフラッシュ!」
あ、これ最終回でロイヤルって追加されそう。
リヴァグラ、植物を浄化。街が元に戻ります。
ぶたのしっぽでお食事会。感慨深げにオムライスを見つめている亜久里に祖母が話しかけます。みんなと一緒にご飯を食べる、それが嬉しいと答える亜久里。あの危機的状況から生還した、というのもあるでしょうが、自分が何のために戦うのか、力を欲するのか、日々の生活が自分の糧であることを改めて知るキッカケになっているでしょう。マナも最高に幸せなことだと同意します。
④捲土重来
アジトに逃げ帰るリヴァグラ。「次こそは…」「残念ながら次はありません」
ベールが彼らのジャネジーを吸い取っていきます。プリキュアとの戦いで消耗するのを狙っていたようです。怨嗟の声を残して二人は塵と消えます。
「あとは俺に任せろ」
⑤次回予告
六花の制服エプロン、マナ看病、来週も熱くなりそうです。中学校の文化祭を小学生が仕切るとかどんだけだよ。
○トピック
新商品がどうのこうのと言おうと思ってたらラストにもっていかれたでござるの巻。
今年の幹部も実は一般人でした路線で最終的に戻るのか思っていたんですが、塵になっちゃいました。ナンバーワンを目指すベールらしい策略。いやはや面白くなってきました。
マナのマナらしさが炸裂した回。そしてこれは本作の作風とも言えます。何回も言っていますが、ドキドキの子達は頭が良い。現実認識が高く、自立性も高い。自分から問題を見つけてそれに取り組み解決していけるだけの知性と行動力を持っています。すでにこの時点でヘタな大人より大人としての力を持っている。カリスマ的な主人公が範を示すのはこれまでのシリーズでもありましたが、それが知性を感じるレベルで纏まっているのは特異的です。いわゆるアホの子的な脳天気さ、楽観さ、ひたむきさとは趣きが異なります。
これに関連して、梅Pプリキュア(フレッシュ~スマイル)が救済のプリキュアってのはこれまでも何回も言ってきたことですが、同時に幼年期を卒業する物語でもあったのだという認識が強まっています。梅Pプリキュアは主に欠落を埋める物語でした。愛情や自信を取り戻す物語。スマイルにて自立のスタートラインに立ったとざっくり表現することができます。それを踏まえてドキドキを捉えると、彼女達に愛情の欠落や自信の喪失、絆の脆さはほとんど見られません。初期値が非常に高い。一時的に迷うことがあっても自分達で解決できる上に補強まで出来る。すなわち、マナ達の行動、原理、実行力は子どもの純真さ、爛漫さ、一生懸命さよりも大人の行動や理念、意志の持ち方、対人関係性に近いと言えます。自立と依存のバランスが良いと言える時点で大人レベルの関係性ですね。
だからなんだと言われれば、特に今のところは無いです。ただシリーズを俯瞰して文脈的に繋げてみたときに確実に物語は前進していて、より高次なテーマや問題に向き合えるレベルにあります。レジーナの問題がそうです。親から娘を奪って家に引き取ることが出来ないことを示したことで、せつなやセイレーンよりも課題としているレベルが高いと推定されます(レジーナの精神はせつな達よりも幼いので彼女に自立を促すのは容易ではありません)。
今回のエピソードにしても、自分の無力さに気づいたからといって自分の中に引きこもらずに、無力さを認めた上で立ち上がっています(キャンディの声が必要だったスマイルとはここが大きく違います)。もうここまでくると自立とか依存関係なしにその人の人間性の話しになるんですが、こうしたバイタリティを獲得しているのも、本作のプリキュアが十分な愛情、絆、自尊心(自己肯定感)を獲得しているからだと考えるとシリーズ10年目の厚みを感じるところです。これまでのシリーズの経験が本作に凝縮されて無茶苦茶タフなプリキュアを生み出している。って言っちゃうと飛躍しすぎているように思われるでしょうが、本作の人間関係の良好さ、人格の安定性は作中でも至る所に見られるので別段手抜きしているとか、シリーズ見てないと解釈に困るということはありません。シリーズの文脈で語るのは私のクセってだけです。
レジーナが退場してから今回までを5つの誓い編(試練編)として見るなら、今回がその総まとめになるでしょうか。5つの誓いはエースがあらかじめ決めた復習だったわけですが、ハートが6つ目を出したことで彼女達が誰に与えられるでもなく自主的に、自立的に見つけた誓いなわけで、この点でも彼女達の自発性、能動的な意思が出ています。と同時に5人にとっての共通する想い、試練だったことになります。自立と成長、絆を両立させた展開。言うまでもなく6つ目の誓いも今までやってきたことの追認になります。このようにドキドキは普段やっている中に成長や飛躍の糧があること、今体験していることもまたその日常の中で体験する苦難であるという認識がなされています。逆に言えば普段からしっかりしてないとダメだと言っているわけです。見方によってはとてもシビア。それだけに彼女達の1つ1つの行動が物語の強度に直結していると言えます。
第30話「最後の試練!伝説のプリキュア!」
①三種の神器
例によって四葉家の自家用機で移動。シャルル達はバカンス気分。一際大きいマナの鞄。中身を尋ねても「秘密」と答えが返ってきます。そんなことよりも六花さんは出だしからメガネ仕様。普段付けている赤フレームではありません。これはこれでいいな。
なんでまた飛行機に乗っているかと言えば、前回の引きで話しが出た最後の試練絡み。言い出しっぺの亜久里に尋ねます。
1万年前のプリキュアが手にしたと言われる三種の神器のひとつ、水晶の鏡をゲットせよ。そんなことより、やっぱ六花さんのメガネ姿が可愛い。ランスはお昼寝しています。
遠い昔、この宇宙がまだ闇に支配されていた時代、伝説の戦士プリキュアが現われた。この世界に愛と平和をもたらすために。
あらゆるものを貫く光の槍ミラクルドラゴングレイブ
あらゆる真実を映し出す水晶の鏡マジカルラブリーパッド
あらゆる知識が詰め込まれた黄金の冠エターナルゴールデンクラウン
亜久里が手振り身振りを加えて説明。RPGっぽい設定。この三種の神器を使って闇を打ち払ったそうです。三種の神器と訊くとテレビ・冷蔵庫・洗濯機、あるいは炎の剣・霞の鎧・力の盾が連想されますね。武器として槍が出てくるのは珍しいような気がします。私が知っている強い槍というと、獣の槍とミストルティンの槍くらいです。
聞き覚えがあると言う真琴。トランプ王国の王女が持っていた槍がそうです。ああ、あれ強そうでしたがそうなのね。地球とトランプ王国跨いで神器が分散してるのかよ。っていうか、王女さまプリキュアなの? プリキュアじゃなくても使えるのその神器? 亜久里もその話しを訊いたことがあると答えます。亜久里にこの知識与えた人誰なんだ。アイちゃん?
そんな凄そうな武器を持っていたからキングジコチューを封印できた、という流れらしい。当然これから手に入れようとする鏡にも同様の力がある?と六花が確認するように言うと亜久里が肯定します。次回予告見ると早速割れちゃってるんですけどね。
真琴は身震いします。ここで失敗したらまた振り出しに戻るのではないか。マナが励ますとありす、六花も声をかけます。レジーナも取り戻さなくてはならない。物語的な優先順位で言えばレジーナ>越えられない壁>トランプ王国くらいのレベル。滅んだ王国を元に戻すのはそれほど難しいことではない。ラスボスとの決着がつけば大抵元に戻る。もののついでで構わない。問題はレジーナです。腐れ親父との関係をどのように解決していくか、これは非常に気になる点です。悪い奴を始末して世界が平和になるのなら、人類を全て抹殺すればいいという論理になります。実際スイートのノイズはそれに似たことをしようとしました。重要なのは「すべての不幸は、幸福への踏み石に過ぎない」ことに出来るかどうかにあります。
飛行機が大きく揺れます。ニアミスしたとパイロットのセバスチャンが言います。窓の外を見ると、でっかいドラゴンが飛んでいます。ドラゴンが羽ばたくと飛行機がまた揺られ不時着します。セバスチャン冷静です。人工コミューンのときの焦り具合が嘘のようです。よっぽどあの件は肝が冷えたのでしょう。
②神器の守り手
無人島っぽいところに不時着。飛行機は煙吹いていてダメそうです。
びしょ濡れになりながらも浜辺に辿りつくマナ達。ありすの髪に昆布がひっかかっているのがシュールだな。六花はメガネをなくしてションボリ。「命とメガネどっちが大切なの?」「メガネ…」さすが六花分ってらっしゃる。そう、メガネは大切です。ことにメガネっ娘的には。
そんな彼女達に何者かが声をかけます。メラン。亜久里と知り合いのようです。誰が乗っているのか分らないまま煽るとか、この妖精かなり手荒いな。文明の利器使う奴はゆとり、船こいで来いとかそんな体育会系的な人かもしれません。
1万年前から水晶の鏡を守り続けている妖精だそうです。亀の甲羅を背負っています。亀は万年とかそういうネタなんでしょうか。プリキュアのパートナーなのかとランスは疑問を抱きます。
早速マナが手を握って挨拶。相変わらずの適応力。水晶の鏡が必要だと単刀直入に用件を伝えます。
プリキュアの名にふさわしいだけの力を手に入れてきた、鏡を譲って下さいと亜久里が声を大にして言います。この子は未だに力のことになると焦りが見られます。
「いいだろう」
「そこまで言うのであれば、この私がじきじきにお前達の実力を試してやろうではないか!」
お約束です。最初からほいほいくれてやるほど安くはありません。
ドラゴラム。メランが先ほどのドラゴンの姿に変わります。修行を積むとドラゴンにもなれるのでしょう。
「ありえないわ! 第一…恐竜は火をふきません!」
そういう問題じゃない。
「ステキな怪獣さん! セバスチャン!」
四葉家の令嬢が興味津々。もしかしなくても、珍獣コレクションとかもってそう。来週ありすの家にこれの剥製とかあったらどうしよう。
遁走。ところがボスからは逃げられない。
尻尾で叩いてきます。威嚇行為とはいえ、変身する猶予を与えて欲しいものです。この妖精武闘派です。
最後の試練。「相手にとって不足はないわ」。どっちかってーと、こっちが不足しています。
4人のプリキュアを見たメランは、数を揃えたところでこの私には勝てぬぞ、と余裕の態度。しかし亜久里は本当の力を手に入れた、と自身も変身します。亜久里は「愛」を口にするわりに物理で殴ればいい的な傾向があります。
炎をバリアでガード。跳躍したハートとソードがキック。注意が逸れたところでダイヤが背後から必殺技を使って羽を凍らせます。「どーよ!」尻尾で殴られます。
100万年早い。コッペさまもそうだけど、最近はプリキュアより強い妖精が出現しています。
最大火力で集中砲火。フォースアロー&エースショット。ところがこれもメランが張ったバリアによって弾かれてしまいます。もうこれジコチューより強いだろ。
「最近のプリキュアの実力はそんなものか?」
どんだけ昔のプリキュアはガチムチなんだよ。文字通り万策尽きます。棒立ち。滅びのバーストストリーム。
③無人島キャンプ
髪の毛が焦げてパーマ状態に。遠い目をして沈む夕日を見つめる4人。
「あんなに強い妖精がこの世にいるのね」
世間の厳しさを身にしみて感じます。絵図らが酷い。特に真琴はアイドルの欠片もない。もうあの妖精にキングジコチュー倒してもらえばいいんじゃないかな。1万年も生きてるから殊更生きるのに執着してないんで世界滅んでも別に構わない、地球を守るけど人類を守るとは言ってないとか返されそうですが。
真琴が亜久里にメランのことを尋ねます。プリキュアとして目覚める以前、不思議な力に導かれてこの島に来た。そこでメランと会い「水晶の鏡が欲しいだと? あれを手にすることを許されるのは伝説の戦士プリキュアだけだ」と言われたそうです。亜久里がプリキュアになった経緯とか謎が多い。現時点でも言えることですが亜久里のプリキュア関連の話しは破綻しています。辻褄が合わない部分が多い。人によってこういう謎や伏線、設定がパズルのピースのようにカチリと合うことを期待したり気にしたりすることがあるようですが、私は物語を意味的に解釈するのでこの手の話しは基本どうでもいいと思っています。プリキュアという作品自体設定をそれほど遵守しません。もう少し言えば、私は物語をパッケージ(それ自体完成され揃っているもの)として捉えるのではなくパーツ、つまり物語を解釈・分解しそれを自分の中に組み込む(知識や概念、思想として補完する)ものとして捉えているからです。だから私は面白い物語を見つけたときに、その感想でイチイチ欠陥や矛盾を指摘することはほとんどありません。意味が無いからです。私がこの感想でほぼ肯定的なことしか書かないのも、その肯定的な事柄が私にとって必要なパーツだからです。不要なものは使いません。私にとって素晴らしい物語とは、どれほど素晴らしいパーツだったか、私を育ててくれたかということです。物語を飛躍させるために行われる設定破綻は気にしないスタンス。
自分一人の力では伝説の戦士と呼ばれるステージにはたどり着けない。そこで共に鍛え上げることができる仲間を見つけようと思ったと亜久里は語ります。最初にプリキュアになった時点で来れば良かったと思うのですが、小学生のお小遣いではここまでこれなかったのでしょう(こういうツッコミはします)。亜久里はムーンライトに近いポジションですが、彼女がムーンライトと違うのは自分の非力さを認め受け入れ、その上で仲間を見つけ研鑽しようとした点にあります。亜久里がムーンライトより優れているという話しでなく、シリーズ的にその辺の認知が前進しています(話しが早い、ということ)。独りでプリキュアをやることはプリキュア的に意味が無い。何故他者を必要とするのか、他者との間に何があり、何が変わり得るのかがこの物語の意味です。
シリアスに語っている亜久里ですが、彼女も髪がちぢれています。ここ笑うところです。
「伝説のステージは思った以上に遠かった」
再び挫折を抱く亜久里。挫折→努力→成功とは必ずしも行きません。挫折→努力→挫折→努力→挫折ってこともある。これを繰り返すと何をやっても無駄だとやる気を失ってしまうのですが、こういう時に必要になるのが強い自尊心です。自己愛と言ってもいいですが、自分には価値がある、自分は尊く受け入れられた存在である、失敗や挫折によって自分の価値は損なわれないという楽観さです。これが幼少期の親との関係によって形付けられ以後決定されてしまうのか、それとも経験によって厚くしていけるのかは知りませんが、この感覚があるかどうかはその人の人格や人生に大きな影響を与えると思います。ちなみに私がプリキュアの感想を書くのはこれを補強するため、というのが理由の1つです。要は図々しさ、図太さもまた生き抜く上で重要な要素なのです。
まだ終わりじゃない!とマナが叫びます。縮れた髪を直すと一度や二度負けたぐらいで諦めてどうするのよ!?と亜久里に言います。「ここで引き下がったらたった一度の14歳の夏が無駄になっちゃうでしょうが!」お前は何を言っているんだ。っていうかお前エンジョイしに来ただろ、そのセリフと荷物から察するに。
呆気にとられる亜久里。セバスチャンに呼びかけると、準備万端マナの荷物を差し出します。優秀すぎるなこの執事。
荷物の中身は料理の道具。飯ごうを亜久里に手渡します。早速やり方が分るかと訊きます。この子は敗北が強くした好例です。レジーナを助けられなかった、その痛い経験が彼女に明確なビジョン、目的意識、最後までやり抜く意志を与えています。世界を救うなんてどうでもいい。ただ大好きなあの子と一緒に居たい、そのために彼女は動きます。
亜久里が首を横に振ると、マナは早速六花にお願いして、自分は野菜剥き、ありすとまこぴーは火起こしと話しを進めてしまいます。勝手知ったるなんとやら、すぐに応じる三人。マナの安定はこの三人の安定でもあります。
亜久里は作り方を教えて欲しいと願い出ます。可愛い。
洞窟の奥、メランは鏡を見つめながら述懐します。これまで何人もの戦士達が求めてやってきた。しかし「お前のような強い心の持ち主は未だに現われない」。ということは他の人たち(多分プリキュア)はこの鏡を手に入れなかったようです。でも世界が存続しているということは、別にこの鏡無くても問題なかったようです。それはそれで他の人たちの諦めなさというか、ガッツは賞賛に値するかと。もしくは神器の入手条件に偏りがあって、鏡は難易度Sランクだけど槍はBランクで比較的入手しやすくて強かったとか。「槍で十分。鏡(笑)」的な。いずれにしても他に方法があったんでしょうな。そりゃみんな強い気持ちで取りに来ないわー。
匂いが漂ってきます。
④一緒に居るための対価
お約束のカレー。亜久里も絶賛。妖精がレンゲを器にして食べているのは面白い見せ方です。メランがとっとと立ち去れと言ったはずだと姿を見せます。遊びに来たのかと問うメラン。たぶんそうです。マナは問いに答えずカレーをよそって渡します。それを口にしたメランは黙りこみます。ずっと独りで暮らしてきた、誰かと食べるのは1万年ぶり。改めて誰かと一緒に食べる料理の美味しさを噛みしめます。
「あたしもこのカレーを一緒に食べたい人がいるの」
「あたしレジーナがどうしているのか分らなくて…心配で仕方がないけれどそれを確かめる術もなくて…本当なら今すぐにでもレジーナを取り戻しに行きたい。王女さまを目覚めさせてトランプ王国を取り戻したい!」
「そのためにはもっともっと強くならなきゃいけないんです!」
あたしには関係ないとにべもないメラン。理由はどうでもいいようです。
帰れて言われて、帰りません!と言い返すマナ。亜久里はもう一度チャンスをくれと頼みます。熱意に押されてか、食事のお返しにか、頼みを聞き入れるメラン。
翌朝。洞窟内で戦闘が始まります。戦闘はやはりプリキュアが劣勢。メランが使うバリアをどうにかしない限り有効打を与えられません。リフレクションをぶつけて相殺するとロゼッタが提案。一人じゃ無理。なら4人でやろうとハートが言います。ラブリーフォースアローが使えるんだから、ラブリーフォースリフレクションも使えるんじゃないかな?と言います。何その安直な発想。しかしそれ故に誰も思いつかなかった。個人技が個人でしか使えないという思い込み。確かにアローはハートの技なわけで、それを4人で打ってるんだからその理屈は筋が通る。相変わらずマナの思考は柔軟。あとはその思考を現実化できるかどうか。
エースショットで牽制。ロゼッタの背に手を当てて「プリキュア!ラブリーフォースリフレクション!」
普通のサイズのバリアが出現。構わず撃ち出します。反動で地面が陥没してハート達が吹き飛びます。どんだけ威力あるんだよ。個人的には反動に耐えるロゼッタの太ももと太ももの間の隙間に目が行きます。私の動体視力を甘く見ないで欲しい。
バリアでバリアを相殺というより、盾を徹甲弾で打ち抜くと言う方が正しいような。相殺完了。エースショットの出番ですが時間切れ。反撃されます。もはやエースは時間制限がある分足手まといになりつつあります。
メランの足を押し上げるハート。メランはさっきの威勢はどうした、大切な仲間を救うのではなかったのか、お前達の想いはその程度かと問います。試験官だけあって、ちゃんと訊いてくれます。
ハートの態度に、昔の光景がフラッシュバック。絶対に諦めない、の叫びにメランは一瞬戸惑います。ソードが加勢。羽でたたき落とします。隙を突いて反対側からダイヤをロゼッタが突撃。アクション気合いが入ってます。映画のPVもそうでしたがロゼッタがくるくる回りながらアクションするのはカッコイイ。そしてソードさんは必殺技も格闘戦でも牽制・囮にしかならない。
ハート達の果敢な姿を見つめる亜久里。ここで亜久里が変身解けて戦闘を継続できないのは、時間制限の問題というより動機の問題が大きいでしょう。今のところ分っている限りで、亜久里は個人的な戦う理由がありません。せいぜい地球を守るとか、ジコチューによって自分の生活が脅かされないためとかです。それに対して真琴は故郷を取り戻す、マナ達は友達と一緒にいるためという明確で個人的でそれ故に強い動機を持っています。自ずと力に対する向き合い方も違う。愛が人を強くするのが本作のスタイルなので、自ずとマナ達は強く果敢になっていきます。
「強くなってレジーナに会いに行くんだから!」
オーラを身に纏ったハートを炎が包み込みます。それを耐え抜いたハートが拳を振るも今一歩届かず変身解除。しかし決着はつきます。水晶の鏡は持ち手を選んだようです。「キュアエンプレス…」。女帝かよ。王冠持っている人はハイプリエステス(女教皇)とかでしょうか。キュアハイプリエステスとか名乗られたら勝てる気しねーよ。
意識を失ったマナを見つめるメラン。
マナが目を覚ますとセバスチャンの顔が目に入ります。膝枕。いやいやそこは六花さんのポジションじゃないの!?
また負けてしまったと思ったマナはご飯を食べてもう一回挑もうと言います。勝つまでやめる気ないようです。ありすが水晶の鏡を見せます。
メランが昔話を始めます。かつて邪悪な存在と私達は戦った。仲間が次々と倒れ誰もが諦めたとき、パートナーであったエンプレスが微笑みながら「私絶対に諦めない」と言った。マナと似ていると話します。不屈の闘志を持つマナに鏡を託します。迎えのヘリもちょうどやってきます。
マナは一緒に戦って欲しいと頼みます。それは無理。自分はもう十分に生きた、新しい時代はお前達で切り開いてこそ価値があるものだとメランは答えます。
マナ達が去った後、メランは花束を墓?に供えます。
⑤次回予告
ありすは神器になんてことしようとしてるんですかね。今年はタブレット型玩具でしょうか。
○トピック
メガネは犠牲になったのだ。
高額新商品お披露目のための準備。最近だと修行に関連付けられて登場するのが恒例になってきました。王冠は新商品と絡まないのかな。トランプ王国に槍が、地球に鏡が、レジーナあたりが王冠を持っていたら面白そう。
この物語は好きな人と一緒に居るためにも対価や努力が必要だと言っています。レジーナと一緒に居るためには彼女を救い出せるだけの力がなくてはならない。これは特殊な事情に見えますが、例えばマナが生徒会長になったときに六花も生徒会に入ったこと、プリキュアになったこと、真琴が王女さまを探そうと必死になったこと、エルちゃんが亜久里と仲良くなるために勇気を振り絞ったことにも当てはまります。その人に見合う自分にならなくてはならない、欲しいのならそれに見合う対価を払え。人と人の関係を維持するためには相応の努力、対価が必要です。私は対人関係に疎く人付き合いが悪いんですが、だからこそ感じます。対人関係を維持するためにはコストを払う必要がある。私の場合は人付き合いを面倒臭い(人と一緒に居るためには理由を必要とする。ただ一緒にいるというのが出来ない。純粋な他者との共有は心理的距離を近づけ、境界を曖昧にするので息苦しくなる)と思うから「コスト」という言葉で表現しますが、そうでなくても常に流動する人間関係を維持しようとすれば当然その時々に応じた行動が求められるでしょう。例えば学校を卒業して離ればなれになった相手と連絡を取り合う、仕事をしている中で自分の時間を割いて友人と親交を続けるにもある程度意識的な優先順位が発生するだろうし、逆にそうした意識が無ければ、去る者は日々に疎しということになるでしょう。
ドキドキを自立性が高い、あるいは自立と依存のバランスが非常に良いと言っているのは、人間関係を継続させるための意識付けが作中で度々描かれていることも理由にあります。例えば、前作スマイルの序盤は幼稚的でした。同じ学校の同じクラスになった子達が友達になってその中で遊んでいました。スマイルは幼稚園の入園から卒園までを描いた物語だと単純化して表現できると思っているんですが、前作においてはそのように、幼稚的(環境依存的)な関係から自立的(能動的)な関係へと変化していった物語だったと思います。だからこそ最後に卒業するわけです。友達とも納得して別れられる、新しい友達を作っていきましょう、と。それを踏まえてドキドキに話しを戻すと、学校が違う、同じ学校に通って昔から友達をやっていても必ずしも同じ目的や役割を負っているわけではない、敵と友達になりたい、というように多様な人物像、関係、環境が描かれていて、その人々がどのように繋がっているのか、繋げようとしているのかがこの物語の焦点になっていると感じます。「愛」を巡る定義にしてもそうです。愛とは単純な博愛的自己犠牲的なものではないし、個人的な愛情でもない。自己の成長と他者の成長、その関係性を含めて人の可能性を高めるものとして提示されています。
元々プリキュアシリーズは「ふたりはプリキュア」という作品から始まっているように、一人でやるヒーローではありません。絆の力によって戦うヒーロー。だからこのシリーズは常に絆を奨励することを骨子としてきました。それは今でも変わりません。変わってきたのはそのアプローチの仕方です。シリーズ毎に違うアプローチで多角的に描きつつ、そして深掘りしてきました。なし崩しではなく、自覚的に敵の女の子と友達になりたい。友達と一緒に居続けるために日々の小さな困難、不安、苦悩を乗り越えてきた彼女達は果たして何と対峙するのか。その時この物語は私達に何を提示してくれるのか。楽しみですね。先だって気になるのは新商品のお値段でしょうか。
第29話「マナのために!シャルル大変身!」
①早く人間になりたい
生徒会のお仕事。ハンコつくだけの簡単なお仕事です。たぶん副会長の十条君が有能なので細かいことは終わっているのでしょう(十条君は成績で六花を抜いてトップ取ったことがあります)。六花がやってきてマナにスケジュールを伝えます。書記っていうか秘書っぽい。やることは一杯。アイちゃんのお世話もあります。アイちゃんはパートナーである亜久里が世話すべきだと思うのですが販促の都合ですね。
そんなマナをシャルルは心配します。自分も手伝おうとしますが小さい身体ではホッチキスすら使いこなせません。
ソリティア。マナ達はミーティングという名目のダベり。その間アイちゃんのお世話は妖精が担当のようです。またランスがかじられています。ラケルは疲れて休憩。
シャルルはダビィに変身の仕方を教えて欲しいと頼みます。マナの役に立ちたいと人間の姿を望みます。ラケルとランスもその話しに飛びつきます。ダビィは承諾しつつも注意点として、飛べなくなる、通信不可、その他人間の姿では出来ないことがあると説明します。それでも勢い込んで変身したいと頼むシャルル達。まあ、こういうのはやってみないと分らないものです。変身するのは疲れるから最初は1時間、と念押しします。二つ返事。
まずはお手本。一瞬で変身するダビィ。凄いけどどうやったか分らないと至極もっともな感想を抱くラケル。心から変身したい気持ちがあればいいそうです。人間をイメージ。マナみたいな女の子に、六花と同い年くらいの男の子に、かっこいい男子に、なりたい!
はい、出ました。椅子、長靴、ヤカン。何故こうなった。もっと集中してイメージして、と助言するダビィ。っていうか、人間じゃないものにもなれるって、それはそれで便利な気が。
再チャレンジ。「へ~んしん!」。かけ声とポーズって重要ですよね。今度は人間の姿になります。ランスは幼稚園~小学校低学年程度、ラケルは高学年、シャルルは中学生程度の姿に。どうやら精神力(精神年齢)も関係しているようです。末っ子、長男とか言ってますが、君達は兄弟という設定なのか。
最初にしては上出来と褒めるダビィ。時間制限を繰り返し言いますがすでにシャルル達の姿は消えています。
マナ達のところにお披露目に行く三人。一様にマナ達は驚きます。あれ、これランス役得じゃね?
盛り上がる中、亜久里は冷静な声でどうして人間になったのか尋ねます。ラストシーンにも絡みますが、亜久里は教官(指導者)役のポジションが継続しているので、動機とその結果は確認しておくべき点です。ラケルは前から六花と一緒に勉強したり運動したりしたかったと言います。てめ、何堂々と俺らの夢語ってんだよ。ランスはありすに子守歌を歌いたいそうです。シャルルはマナのお手伝い。そういうわけで、ちびっ子の大人になりたい願望、お姉ちゃん(お兄ちゃん)と同じことしたい願望が今回のお話し。
亜久里はこれも妖精達の成長の証し、と彼女達の想いを支持します。
家でマナの仕事を手伝うシャルル。マナも驚くくらい素早くキッチリ仕事をこなします。実はシャルルは出来る子です。
ラケルは宿題に取りかかります。休み時間に終わらせたと言う六花。ですよねー。そもそもラケルに解けるとは思えません。晩ご飯も朝に仕込み済。流石六花手際がいい。悔しがるラケルに一緒に居てくれるだけで嬉しいと六花は答えます。実際独りで居ることが多い彼女にとっては話し相手がいることはそれだけで十分でしょう。私でよろしければ毎日伺います。
何人寝れるんだというくらい大きな天蓋付ベッドに横になるありす。どっちかってーと、ヤシの木が部屋にあることの方が気になるのですが。ランスが子守歌を歌いながら眠ってしまいます。小さな弟ができたようだと嬉しそうにありすは言います。セバスチャンも頷きます。
②素敵に変身
翌朝。シャルルは今日もお手伝いと張り切ります。対照的にラケルは役に立ってないので落ち込んでいます。一緒に居てくれるだけで嬉しいと言われたラケルは、なら離れないと六花にしがみつきます。あー、なんか無性に射的したくなってきたわー。アマゾンで弾50個入りコルクガンポチりたくなってきたわー(実際射的やったことないので、撃ってみたい衝動はある)。
シャルルは居ても立ってもいられないというくらいお手伝いしたいとはしゃぎます。レジーナがマナと遊びたいと浮かれていた姿ととても似ています。自分が役に立つ、自分が好きな人(なりたい人、憧れている人)に近づけるという感覚は自己愛を満たします。幼児がごっこ遊びや模倣を行うのはそれ自体が新鮮な体験であると同時に、自己の拡張・肥大を錯覚させるからだろうと思います。
嬉しそうにはにかむシャルル。ドキドキの妖精はポーズが可愛かったり愛嬌があるので面白い。
放課後。早速人間の姿に変身するシャルル。小学生にしかなれないラケルは羨ましがります。
書類のホッチキス留めを頼むとあっという間に仕上がります。文化祭で使う備品チェックもテキパキこなします。仕事も完璧。十条君も褒めちぎる仕事力。やべ、シャルルうちの職場にも欲しいな。仕事の要領が良い人と悪い人って分かれるし、しかも大きく改善されないんだよね(要領が悪い人は基本的に悪いまま)。
姉妹みたいに似ていると言われて喜ぶシャルル。
先生がやってきて第二中への配達をマナに頼みます。ところがマナのスケジュールはすでに一杯。相変わらず自分の予定を把握していないというか、常にフル稼働状態。マナの場合、自分でスケジュール管理させるより秘書つけて常に最大稼働させた方が効率が良さそうです。配達はシャルルが引き受けます。
道すがら、階段を登るお婆さんのお手伝い、道路に飛びだしそうになった男の子を助けたりとマナ並の大活躍。「こんなときにマナなら」とシャルルが考えているように、彼女にとってマナは理想化自己対象になっています。これは六花が母親のような医者になりたい願望と基本的には同じです。幼い頃は同じ行動をとろうとするし、長じれば役割や職業として真似をすることになります。12話で登場した純君も同じですね。ドキドキではこのように理想化自己対象、つまり憧れや好きな人に役立ちたい(同化したい)という気持ちを承認することによって健全な自己愛を育てる方針が取られています。
男の子を助けた拍子に書類を手放してしまい時間をロス。変身後1時間を過ぎてしまいますが、やめるわけにはいかないので続けます。この1時間云々はあまり関係ないようです。
③願望があなたを成長させる
体育館。バレーの助っ人をするマナはまだシャルルが帰ってこないことを気に留めます。っていうか、六花はさも当然のようにマナの隣に居ますね。個人秘書ですか。
対戦校の選手がズルしてでも勝ちたいと魔がさします。ジコチュー確定。校舎で掃除していたダビィは敵を感知。ランスも同じく。
生徒達を避難させ終わると同時に真琴、ありすと合流。ありすの移動速ぇ。セバスチャンのドライビングテクニックはどれほどなんだろう。カオルちゃんと競わせたい。
変身しようと思ったらシャルルがいないことに気づきます。初見で私もすっかり忘れていました。妖精兼変身アイテムの弊害。人間の姿のままだと敵を感知できないそうです。そうなの? ダビィは仕事中でも現場に駆けつけていたような気もするんだけど。マナが戦線から抜け、残ったメンバーで相手をします。
弾丸サーブを盾で逸らします。スパークルソードでボールを破壊。エースが颯爽と現われてエースショット。美味しいところを持っていきます。ところが、ジコチューは表の顔と裏の顔がひっくり返ってコンテニュー。今回の敵は表裏同時に仕留めないと再生されてしまう仕様。エースショットとフォースアローの同時攻撃をしたいところですがハート不在。
なんとか仕事を終えるシャルル。校門を出てすぐ膝をつきます。マナが駆けつけて事情を説明。シャルルはようやくダビィのセリフの意味を実感します。自責の念にかられたシャルルは泣きながら謝ります。マナは自分のために尽力してくれたシャルルを励ますと今度は自分が頑張ると言います。変身。
エースのリミットが近づいてきます。ちょうどハートが戦線復帰。着地ポーズかっけぇ。ということで浄化。
改めてシャルルはみんなに謝ります。しかし誰もシャルルを責めません。むしろ彼女の気持ちをくみ取ります。今回のお話しのポイントはここです。1時間云々がそうであるように、通常であればこうした「子どもの背伸び」は限界や未熟さが描かれ、身の丈にあった努力、これからも頑張っていこうね、という形で落ち着くことが多い。何故なら子どもは大人ではないからです。出来ないことは出来ない。焦らずに努力していけばいいという話しになる。ところが今回のエピソードはそうではありません。今回の主役であるシャルルはほとんど完璧に仕事をこなしています。敵を感知できなかった過失については問題にもされません。シャルルは実務能力でも責任においても肯定されています。何故か? それは彼女が人のために自分の殻を破ろうとしたからです。本作は人のため、自分自身の飛躍のためになされる決断や行為を肯定しています(ただし自己犠牲は許されない)。変身とは新しい自分になること。これはマナ、六花、ありす、真琴のようなプリキュアはもちろん純君、レジーナ、エルちゃんにも当てはまります。シャルルの行為は5つの誓いにも合致することなので、すなわち愛として認められます。このようにシャルルが認められることで健やかに自己愛を育て、他者との関係性をより強固なものへ変えていくことを示唆ならびに支持しています。愛によって人は成長する(活躍の場、その力を発揮できる場が拡張される)。それは素晴らしいことで誇れることだというのが本作のスタンスです。物語も後半にさしかかり、明確になってきました。
シャルルが助けた人たちがお礼に学校にやってきます。これはマナ達にもシャルルの活躍を知らせるためでしょう。彼女の成長(努力と飛躍)はマナ達ばかりでなく、こうして様々な広がりを見せていく。
マナはシャルルに自慢の仲間だと言います。頷く3人。妖精もまた成長する。
「シャルルに、お任せ!」
亜久里が頃合いを見計らって声をかけてきます。絶対タイミング読んでるだろ。ジコチュー倒した後どこに行ってたの?
「時は来ました。あなた達には最後の試練に挑んで頂きますわ」
④次回予告
来週はNS1(関西の甲子園都合により番組スケジュール調整が入りました)。いいところで予告無し。焦らしてきますな。
そろそろ高額新商品お披露目の時期。
○トピック
恒例の妖精フォロー回。妖精もプリキュアと同じステージに立つ(場合によってはプリキュアを先行している)というのはスイートあたりから顕著になっています。
女児的には妖精もコミット対象なので、こうした話しを行うことによって多層的に、繰り返してメッセージを強めているのだと思われます。ハミィやキャンディは自立したポジションを獲得していて、それが対等な関係性、互いに手本となるような影響を与えていたので、自立化傾向が強いドキドキでも妖精の役割は小さくないのかもしれません。
次回は本編がお休みなので感想もお休みです。NS1感想はこちらを参照されたし。
第28話「胸がドキドキ!亜久里の夏休み!」
①森本エル
朝から亜久里を先頭にランニング。六花さんはゾンビのように最後尾をついて行きます。その体勢でついて行けるって逆にすげー。毎朝10キロ走っているようです。弱音を吐く六花に亜久里が甘えたこと言うなと返します。プリキュア強化トレーニング。笑顔で今日は最終日と話すありすはすげー余裕ありそう。
学校に着くと、木陰に隠れた少女の視線に気づきます。森本さん。亜久里と同級生。亜久里達の視線に気づいて恥ずかしそうに身を隠します。これは……百合展開の予感…!
ゴール地点に辿りついた六花はすぐ地面に座り込みます。六花さんの二の腕たまらないっす。みんな息を乱している中でありすだけ深呼吸して平然としているのが流石というかなんというか。お腹空いたと言うマナを自宅で朝食をとろうと誘います。ところが亜久里がメニュー表を見せながらそんな暇はないと言います。トレーニングがギッチリ詰まっています。水泳もあるようです。よし、トランプ王国を救うため君達には頑張ってもらおう。
夏祭りを楽しみにしていたマナは泣き崩れます。さすがにみんなからも不満の声があがります。出来うる限りの努力を…と言いかけて亜久里は倒れます。この子は余裕がない。森本さんが心配して叫びます。
日陰で介抱。森本さんも付き添います。亜久里の友達かと尋ねられた彼女は同じクラスってだけ…とモジモジします。その反応を見たマナと六花は示し合わせてまず名前から尋ねます。森本エル。早速学校での亜久里の様子を訊きます。すると彼女は嬉しそうに亜久里のことを話し出します。
とっても大人っぽくて、相手が上級生でも臆しない、かっこいい。普段からあんな感じらしい。納得するマナ達に、だからお姉さん達とも仲良しだと思うけど同じ歳の自分達には興味がないようだと語ります。人付き合いはそれなりにこなすが孤高な子、という位置づけのようです。早熟すぎるのもそれはそれで面倒なものです。周囲がガキに見えてしまうし、周囲も気取った奴と見る。精神年齢の高い・低いに関わらず理解者が得られるかどうかは重要です。孤独がどうのというより、話しが合う人がいるかどうかで生活のメリハリや彩りが変わります。
亜久里のことを真剣に考えるエルに、マナは仲良くなりたいんだねと率直に言葉をかけます。お姉さんに任せない! 隣で六花が頭を抱えます。
亜久里が目を覚まします。起きると同時に特訓を再開しようとします。六花、真琴、ありすが諭します。エルちゃんと一緒に夏祭りに行こうとマナが提案。花火大会、スーパースペシャルなスイーツもある。スイーツにつられる亜久里。相変わらずちょろい。エルも了承して夏祭り決定。それでも食い下がろうとする亜久里に友達と付き合うことも大切だとマナは言います。不安そうにこちらを見るエルの視線もあり亜久里は承諾します。約束を取り付けるとエルは嬉しそうに帰ります。よっぽど亜久里のことが好きなのでしょう。
なぜですか? 亜久里は自分も友達と遊ぶことを否定しない、しかし今はそれより優先すべきことがあるはずだとマナに問いかけます。その問いに直接答えず、六花は学校で友達を作ろうとしないのはそれが理由かと聞き返します。図星。「昔の私もそうだった」真琴が会話を引き継ぎます。やべ、この子達頭いい。会話のスピードについていけねぇ。つまりマナ達はプリキュア特訓がどうのという話しでなく、亜久里という少女を知り、かつ彼女と友達になりたい子と縁結びしようと考えています。この問答は円亜久里を問う話し。今回のエピソードは亜久里のジコチューが焦点になっています。
今でもトランプ王国のことは忘れていない、でもみんなと付き合うことで多くのことを学んだと真琴は話します。彼女らしい言葉です。正座したまま俯く亜久里。自分が言っていることは正しいはずなのに何故理解されないのか、彼女達は今の事態が分っていないのではないか、自分が間違っているとでも言うのか、と考えているのかもしれません。マナ達が何故友達との付き合いにこだわるのか、今の亜久里にそれを実感するのは難しいでしょう。彼女は力を求めている。孤独と引き替えに。それはそうと六花さんの脇が気になって仕方ありません。
「亜久里ちゃん、友達っていいもんだよ」
不承不承頷きます。
アジト。エースに苛立つリーヴァ。グーラは伸びるアイスを食べます。制限時間は5分。戦闘を引き延ばして解除させればこっちのものとリーヴァは閃きます。前回、エース抜きで負けたじゃん。
②スーパースペシャルなスイーツ
夏祭り。前回の着物に引続き今回は浴衣。髪の長い六花は結い上げています。待ち合せ場所でエルと合流。亜久里の姿が見えません。
出店を見ながら亜久里はスイーツを早く食べたいと目をキラキラさせます。マナ達が亜久里を見つけてやってきます。遅かったとしれっと言う亜久里に六花が文句を言います。むくれる六花さん可愛い。マナは早速亜久里の浴衣を褒めます。エルも同じく褒めますが亜久里に名字で呼ばれて少し哀しそうな表情を浮かべます。察したマナが目配せして名前で呼ぶように仕向けます。サインに気づいた亜久里はエルちゃん、と呼びます。君たち賢いな。
亜久里が早速マナにスイーツの件を尋ねると、マナはまずはお祭りを尋ねようとはぐらかします。スイーツはただの口実です。
エルの提案で金魚すくい。
どうやら亜久里は金魚すくいを見るのが初めてのようです。基本的に今回の亜久里の立ち位置はお祭り初心者&友達の作り方紹介です。黒い出目金を取り逃がしてガッカリするエル。自称金魚すくい荒しのマナが腕前を披露。
はい、ダメでした。
続いてありす。「お嬢ちゃん、できるね」。おっさんもビビるありすの貫禄。去年の青い人ばりに金魚をすくっていきます。ところがランスが頭からずり落ちて全部ポシャってしまいます。水面に浮かぶランスがシュール。アイちゃんのお世話の時といい、ランスはこんな役回り。
亜久里がチャレンジします。六花が水面に対し45度でえぐるようにすくう、と助言します。理論派です。頷いた亜久里は力一杯にポイを振るいます。肉体派です。勿論失敗。隣に居たエルと一緒に水を浴びてしまいます。失敗を笑います。
射的。商品を倒しても下に落ちないとダメ。ぬか喜びに終わるエル。亜久里とエルのリアクションが同じになっているのは彼女達が仲良くなっている証拠ですね。
射撃と言えば真琴。ライフルを横に構えます。いやいやそれ撃ちにくいだろ。自分のトランプを狙います。いやいやお前どんだけ自分好きなんだよ。狙いははずれて隣のモグラ人形にヒット。スパークルソードも牽制なので命中率はあまり期待できませんでした。人形を握りしめながらむくれます。
「ただ狙うだけじゃだめよ、弾道を計算しないとね」
六花がメガネをかけて挑みます。ターゲットはカエルの人形。じっくりと時間をかけて目標を定めます。そんなに見つめられたら私が先に倒れてしまいそうです。肩に乗っているラケルが実は照準役で座標を六花に伝えている、とかだったら面白いんですが。マナがイタズラっ気を起こして六花の肩を叩きます。狙いがそれてモグラ人形に。
亜久里が挑戦。心の中でエースショットと唱えて見事目標を落とします。こういう遊び心はいいですね。子どもが真似しそうです。
みんなでかき氷。エルは先ほどゲットしたブローチを胸につけています。
かき氷を味わうものの物足りなさを感じる亜久里。隣で抹茶かき氷を食べているエルに興味を持ちます。一口分けてもらうと「甘い小豆を(以下略)」。
みんなで食べ合いっこしようとマナ。グッドアイデアですわ、と目を輝かせる亜久里。画面に映っていませんが六花も同様にガッツポーズをとっていると思います。食べ合いっこが始まります。これだよ、これ。ワイはこれが見たかったんや!
最初の一口よりみんなからもらったかき氷の方が美味しいと言う亜久里。それはみんなで食べているから。「あたしの友達もそう言ってたんだ」。レジーナを思い出すマナ。彼女にとって世界を救うことはレジーナを救うことと同義。プリキュアは世界を救わない。救うべきは人の心。ではそれは如何にして? 何故人の心を救うことが世界を救うことに換えられるのか。このロジックは毎年その作品のテーマを主軸に構築されます。
スーパースペシャルに美味しいスイーツというのは……亜久里の問いにマナは笑顔で答えます。
③友達になりたい
少年の心につけ込んでジコチュー召喚。だから誰得なんだよ。
「夏祭りだよ!全員解散~!」「宿題やったか~?」
歯を磨けばいいんですね、分ります(私はこの世代ではないんだけど)。
エルが居ては大っぴらに変身できません。マナは亜久里にアイコンタクト。亜久里がエルと一緒に避難。変身。
階段を登って神社へ避難した亜久里はプリキュアが苦戦しているのを知ります。リーヴァとグーラが亜久里を発見。ジコチューが亜久里を攻撃。地面をえぐられて落ちそうになります。エルが腕を掴みます。プリキュアが応戦。
エルは亜久里を助けようともがきます。友達になりたいと言うエル。「亜久里ちゃんは私を助けてくれた」。予期していなかったのでしょう、その言葉に亜久里は驚きます。
癖毛を男子にからかわれたときに亜久里が助けてくれた。しかも髪を褒めてくれたのが決定的だったらしくエルは亜久里に好意を持ったようです。毅然と助けてくれて自分を認めてくれた人。これは確かにカッコイイ。六花やありすにとってのマナに相当するでしょう。亜久里への憧れ、恩、力になりたいという気持ちがエルを動かしています。
まさかそんなに重く受け止めていたとは知らなかった亜久里はエルの言葉に感銘を受けます。何気ない一言が人を救うことがあるし、人を変えること、人の心に刻まれることがあります。勿論、その逆に人を傷つけることもある。ビリヤードの球のようにそれは複雑に、一度放たれたら最後勝手にぶつかり合っていく。今、亜久里は自分がやったことの結果を身をもって体験します。自分が人を変えうること、人が自分を大切に思ってくれること、それが自分を変えうること、何気ないことから人が愛を持ちうること。この物語の愛は相互形成によって成り立つ。世界を救う孤高の戦士は必要とされない。何故ならそこに愛が無いからだ。エルが亜久里を助ける、それは同時に彼女自身が自分の殻を破り自己が拡張されていくことでもある(六花やありすも同じです)。愛とは自己と他者を包括して成長させる。孤高のヒーローはジコチューと区別が付かない。
無事亜久里を救出。プリキュアは捕縛されて身動きが取れなくなります。
亜久里はエルに自分には秘密があること、その秘密を話すわけにはいかないが自分を信じて欲しいと話します。二つ返事でエルは信じると答えます。この手の非戦闘員は信じることが戦うことに相当します。
目を閉じて待っていて欲しい。エースに変身。
敵の罠にかかってエースも捕縛されてしまいます。あとは時間切れを待つだけ。人間どもからプシュケーを抜きまくってやる、と訊いたエースはエルの姿を思い浮かべます。自分を信じて待ってくれる人のために力を引き出すエース。オーラが出ます。なるほど、エースはこういう形で愛を自覚するのね。ジコチューをぶん殴ります。
「これまで私は自分の思いでいっぱいでした」
「でも私のことを大切に思ってくれる人がすぐそばにいることに気づかされました。そしてそのことが私に愛と力を与えてくれることも」
ハート達は最初にそのことを教えてくれたのはエースだと答えます。お茶目に「してやられましたわ」とエースは笑います。
エースショットでジコチューを仕留めます。
エルのところに戻る亜久里。彼女の無事な姿を見たエルは涙を浮かべて安堵します。
「(胸がキュンキュンする)」
みんなで一緒に花火。この夜、亜久里は大切な友達を得ます。
④次回予告
出番が少なかったシャルル回。ラケル爆発しろ。
○トピック
特訓も大事だけど友達を作るのはもっと大事。プリキュアの基本かつ中核となるお話し。
前回マナ達の輪に本格的に加わったので、そこからどのように亜久里が影響を受け変わっていくかと予想を立てていたら速攻やってくれました。流石プリキュア、論点外さない。
亜久里は敗北の経験とジコチューへの脅威から力を求めています。ところがそれを求めるあまり身の丈を越えるオーバーワークを生んでいるし、周囲との距離も開いてしまう。愛を説く彼女が孤独になっているのは皮肉な話し。何故その力を欲するのか、またその力はどこから沸いて出てくるのかといえば、それは「愛」だというのが本作のスタンスです。
この愛が相互作用によって形成されるというのがポイントで、これはどういうことかと言えば、人間関係における上下・優劣は意味が無いという話になります。っていうか私の持論としてそう思ってます。人が依存関係になるのは依存する人と依存される人のお互いのニーズが合致したときです。ニーズが合致する以上それは共生(互いに寄生している)関係になります。今回のエピソードで言えば、エルちゃんは亜久里に対して一見へりくだって弱い立場のように見えます。事実そうです。しかし彼女が亜久里と友達になりたい、そのために自分の限界を超えて行動に出たときに亜久里と繋がることができました。その時の彼女は亜久里から見て気高く強い姿に見えたでしょう。イーラと六花にしたって、六花の献身にイーラがアクションを返したからこそ彼女らの間に今までとは違う何かが生まれました。それは当事者である彼女達自身にも何かを残しています。相互形成による愛とは、当事者間の関係性であると同時に当事者の人格に何らかの影響を与えていくもの(つまるところ成長を伴うもの)で、そしてその愛は強者、弱者関係無しに生み出すことができるものです。強さが愛を生むのではなく、愛が強さを生む。あなたの愛が人を高める。これがプリキュアのロジック。
だから力だけを追い求めることはプリキュアでは全く意味を持ちません。ジコチューとやっていることが同じになるからです。エルちゃんがその身をもって示したように、彼女の行動が亜久里(の心)を動かし、同時にエル自身の成長を生み出す。愛とは奉仕だけでなく自身の変化も伴うものです。それは時に大きな葛藤を生むこともあるでしょう。親しくない子に声をかけなければいけない、怖い状況の中で踏みとどまって力を振り絞らなくてはならない。愛を実践するには常に自分の殻を打ち破っていく態度が必要になります。それを為し得たときに人は強くなる。面倒臭いことを言えば、これは1回やればいいということでなく死ぬまで続きます。残念なことに死ぬまで続けたところで超人になるわけでもないのですが。その見返りとして、そうですね、きっと退屈しない人生にはなるんじゃないでしょうか。
第27話「バレちゃった!?キュアエースの弱点!」
①割と近場に住んでました
開始早々戦闘。空いている場所に止めて何が悪い!と主張する自転車ジコチュー。ああ、分るわー。暴走するジコチューに手こずっているとエースが叱責してきます。この程度の相手なら問題ないと言ってきます。まるっきり教官だな。エースは時計を見ると時間がかかりすぎだ言って消え去ります。塾か何かあるんでしょうか。
いつものように言いたいこと言われたハート達は困惑。ジコチューが突っ込んできます。「マッハ1000!」。それ余裕で大気圏離脱できるぞ。戸惑うハートにそんなわけない、とダイヤがツッコミを入れます。ソードに射撃位置を指示。タイヤをパンクさせてハートシュートで浄化。とりあえず、パワーアップ後も牽制役が定位置のようです。
撃退に成功して喜ぶプリキュア。その様子を亜久里は影から確認して立ち去ります。用事があったわけではなさそうです。
OP。エースが追加されました。OPでもアイスを持ってるとかどんだけ甘いもの好きなんだ。エースとレジーナがまるでライバルのような構図。OP直後の提供イラストも変更。キャラデザの高橋さんの絵は可愛いというより美人な絵柄ですね。
夕方。マナの母親が世話になっている茶道の先生の家を訪れます。円茉里先生。聞き覚えのある名字です。明日野点(のだて)で使う茶菓子を持ってきました。和菓子まで作れるとか結構器用だなマナの親父さん。
チャイムを鳴らすと知っている声が聞こえます。案の定。「キュアエー…」「円!亜久里です」。亜久里の後ろから品の良さそうなお婆さんがやってきます。茉里先生。亜久里は孫のようです。慌てて亜久里はマナと面識がある理由をでっちあげます。ちょっと顔貸せ、とマナ達を誘う亜久里。
お婆さまの前でキュアエースと呼ぶな。そりゃそうです。本名知っててプリキュア名で呼ぶマナ達は、よほどエースのインパクトが強かったのかもしれません。むしろ亜久里が仮の姿でエースが本体とか思ってたかも。こんな近くに住んでいたなんて灯台もと暗しだと言われた亜久里は逃げも隠れもしないと答えます。この前食い逃げしたようにも見えたんですが、あれは気のせいということで。
とはいえ、家族にはプリキュアであることは秘密。祖母に愛想笑いをしながら亜久里は1つ提案します。
アジト。備品を食べまくるグーラ。リーヴァが止めます。流石に負け続きなので一計を案じます。「こちらも合体技を使ってみましょうか」。リーヴァはグーラにワイルドなところが気に入っていると言います。そう言われたグーラも悪い気がしないと頬を赤らめます。なにこの流れ。「俺もお前のシルクハット嫌いじゃないぜ」。誰得だよ。
②野点
着物着用で集合。やはりというべきか、自然にかつ丁寧に挨拶するありすは本当に普段学校に行っているのかと思うくらい色々知っています。
野点は緊張するけどエースのことを知るいい機会だと小声で真琴に言う六花。もう完全に名前がキュアエース。彼女達が知っているのはエースの場面だけ(それ以外は甘い物食べてるだけ)なのでこの認識は正しいんでしょうけど。
奥詰まったところに案内。亜久里は茶道を教えて差し上げると言います。いや、別にそこまでは…と言おうとしたマナの言葉を遮って
「プリキュア! 5つの誓い!」
「1つ! プリキュアたるもの一流のレディたるべし」
最後の最後にどうでもいいのきたー!? 内容は酷いけど一貫性という意味では元ネタであろうウルトラ五つの誓いの方がまともに感じる件。まあ、タフでなければ生きていけない。優しくなれなければ生きている資格がない。みたいに強さだけでなく気品も備えろ、と。カッコイイ女性を目指すプリキュアらしいと言えばらしい教訓です。
「そうなの?」と異口同音に驚く4人。いや、たぶんテキトーだよ。
お茶をたてる前にお菓子を食べろと亜久里は言います。言葉に従ってお菓子を食べた六花と真琴は美味しいと喜びます。マナが食べようとすると亜久里が物欲しそうな目で見ていることに気づきます。一流どころか三流ですらねぇ。ただの子どもじゃねーか。食べる?と差し出されて目をキラキラさせる亜久里。ちょろいわー。首を横に振ると持てなす自分が食べるわけにはいかないと繕います。いやどう見ても君、池で麩菓子を待つコイみたいな状態だったぞ。そんな亜久里を可愛いと評する六花にみんな頷きます。
茶をたてます。出された茶に手を付けようとしたマナに「その前に挨拶」と一言。「いただきます」と言うマナにありすが見本を見せます。茶を持った六花はやることがあったような、と迷います。こういうこともあろうとかちゃんと勉強してきたと言う真琴。茶碗を傘で回します。お前は芸の勉強をしてきたのか。音吉さんから本借りたのか? この子はネタ枠が板に付いてきました。
妖精も悪戦苦闘。お茶を飲んだアイちゃんは苦いと泣き出します。
もうテンヤワンヤな様子に亜久里がご立腹。気を取り直して、と思った矢先足が痺れて倒れるマナ。平気な顔を浮かべる真琴の足をつつくと同じ状態に。してやったりと笑うマナ。六花さんも足が痺れた~(棒)と言いながらマナに倒れ込んでいいんですよ?
そんな様子を見た亜久里は笑い出します。そもそも野点では茶室のような堅苦しい作法は必要ない。呆気にとられるマナ達。ありすが笑い出します。どうやら最初から気づいていた様子。ようやく一杯食わされたと気づきます。
楽しそうに笑うマナ達にお婆さんが声をかけます。亜久里が茶席に友達を連れてきたのは初めて、これからも仲良くしてやって欲しいと孫の世話を頼みます。恥ずかしがる亜久里。この子は普段同年齢の子達とどう接しているのか分りませんが、気位が高そうなので友達は少ないかもしれません。
場所を移して清流。
着物の裾を上げて川に足をつけた亜久里は気持ちいいですよ?とマナ達を誘います。これは女の子達が川でキャッキャウフフな展開か。個人的にはOPのアレを熱望していたんですが、これはこれでいい。着物の裾から足が見えるのって熱いよね。
「キュアエースじゃない亜久里ちゃんて普通の女の子なんだな」
今週の目的達成。そろそろ新キャラ補正が切れて同化しはじめます。
亜久里は今まで厳しい態度で接してきたことを謝ります。あなた達に強くなって欲しい一心でやってきたと言います。つまり、彼女は力を欲している。
質問タイム。あなた独りで十分キングジコチューとも戦えるのでは?
「私だけでは無理なのです」
アイキャッチも変更。3DSのゲームはOPでメイド服着た六花さんに会えるそうです。
亜久里はこちらの世界で生まれたプリキュアだと話します。マナ達は正確に言えばトランプ王国製になるので系統が違います。今までのシリーズだとプリキュアのソースは一緒だったんですがこれは珍しい。かつてジコチューと戦い一度敗れたと苦虫を噛む思いで言う亜久里。アイちゃんは元からパートナーで一旦タマゴに戻ったそうです。え、なに、じゃあアイちゃんはこっちの世界の不思議妖精扱いなの? 王女との関係性が見られません。ある日戻ってきてくれてあなた達との出会いに導いてくれたと語ります。ノッポさんの所に居た間にそんなことがあったそうです。さりげなくマナが常時お世話しなかった設定が活用されています。ずいぶん立体的な話しの組み方するね。てっきり王女関係の話しに回収されるのかと思ったんですが、トランプ王国ルートと亜久里ルートでプリキュア枠が二分しています。
ラケルが質問。どうして変身すると大きくなるの? 全視聴者が聞きたかったことです。
「想いの力です。ジコチューによって危機に晒されている世界を心から守りたい。私はその想いで自らを成長させたのです」
力に見合う器が欲しいってことですね。自己の理想像としてプリキュアを欲して、それに同化するというのは自己愛的にはもっともな発想です。変身ヒロインは変身願望、つまり大人になりたい願望や変わりたい願望が含意されているのでこの手の設定は常套です。っていうか、益々王女さま関連とは離れたな。亜久里の言葉どおりに受け取れば、亜久里は亜久里でプリキュアやってて、マナ達と合流。しかしマナ達は未熟で戦力として心許ない。そこで特訓開始、と。変身すると大人になる、これがマナ達にも適用されるか否かは割と重要というか、物語の行き先として気になる部分でもありますね。映画の予告でも大人になったマナ達が登場していますが、私の記憶に間違いがなければああいう将来のビジョン、肉体的な変化を伴った絵で登場したのはシリーズでは初めてです。ドキドキがどこまで射程を持つのか。
今こうしている間もキングジコチューは多くの世界を飲み込み復活へと近づいている。それに対抗するため、真のプリキュアのステージに立ったあなた達と戦いたいと申し入れる亜久里。前回で試験はパスしたようです。亜久里もマナ達を同格として認めます。相変わらず本作は登場人物の状況認識が正確です。要するに亜久里側としてもマナ達の力が欲しかったという自己都合によります。
亜久里の言葉に了解するマナ。自分達も強くなった。
「まだまだですわ!」
「あなた方はもっと強くなれます! ならなくてはいけないのです! ジコチューの恐ろしさはこんなものではありません」
祖母はこのことを知らないので内緒にして欲しいと口止めを頼みます。祖母が巻き込まれることを心配してます。亜久里には焦りが見られます。彼女視点で見れば当然の見解なのでしょうけど、彼女自身もまた完成されたプリキュアではなく、せいぜいマナ達より一歩先に行った程度のプリキュアということなのでしょう(マナも挫折しているわけだし)。一度敗北したことによって自分に対する甘さが消えて厳しさが増したと。これ自体は正しいことです。自己愛を正しく育てるには挫折や幻想(自己理想)の破壊を経験するのは鉄則です。何故なら現実と理想は違うからです。常に現実と理想を比較しすりあわせていくことによって無理な自己像を排し、実現可能性がより高い自分を目指せます。これは子どもだけの話ではなく、大人も同様です。割と盲点になる大人が抱きやすい幻想は「自分は老いない」幻想です。歳をとれば治りや物覚え、仕事の出来(経験でカバーできますが)、体力が減退していくのは当たり前のことです。しかし本人がそれを正しく正確に認知するとは限りません。子どもは歳をとればとるほど得るものが多いでしょうが、大人はその逆、失うものが多くなる。自然と自己愛が満たされないことが多くなり、自己が傷つけられていきます。老人は一般的に「お爺さん」「お婆さん」と呼ばれもはや個人名ですら呼ばれなくなる。個人を尊重する現代においてはこうした十把一絡げな扱いは自尊心を傷つける要因になるでしょう。本来老人の孤独、無力感、絶望は大きな問題で、誰もが向き合わなければならない課題です。一般的には無かったこと、見なかったことにされるでしょうが。老いや死に対して自己愛を如何に保つことができるか。これも個人的な課題の一つです。女児向けアニメには全く関係ない話しなんですがね。
亜久里の頼みを聞き入れるマナ達。マナはレジーナのためにももっと頑張らなくてはいけないと意識します。亜久里がレジーナをどう見ているか分りませんが、マナにとっては助けたい人です。マナと真琴の意識(優先順位)がズレていたように、マナと亜久里で少しズレがあるかもしれません。
③時間制限
バーベキュー禁止の場所にバーベキューセットを持ち込む若者達。ということでジコチュー化。リーヴァとグーラの共同作業。可愛い女の子が顔くっつけるのは心がほぐされるけど、むさ苦しいおっさんが同じことすると吐き気をもよおす邪悪になるな。
現場に到着。巨大なジコチューに驚く一同。合体ジコチュー。サイズは2倍、力は5倍、ジコチュー度は10倍。なんだそのウォーズマン理論。ちなみに近年のプリキュアは敵が力を合わせることが珍しくありません。昔は独力思考の敵と共同思考のプリキュア、という分け方が可能でしたが近年ではそれは無意味化しています。これは核心となるテーマが変わっていることも関係しています。
今回はエースも出だしから参戦。5分で終わらせると言います。何その時間制限。現在時刻は8時47分。5分で終わらせれば52分ですからちょうどいい。変身。販促があるのでエースの変身バンクはフル。現在49分。5分のうち変身で2分消費されました。
ずっと手を繋いだままのリーヴァとグーラ。だから誰得なんだよ。
ジコチューは鉄板を熱すると食材ミサイルを撃ち出します。「あと3分」。作中と現実の時間が一致しているわけではないですが、割と差し迫ってきました。エースが必殺技で足止め。黄色のリップ。どうやら色によって技が変化するようです。ジコチューは拘束されますが、鉄板の熱ので断ち切ってしまいます。エースの新キャラ補正が切れてきました。
グーラは匂いにつられて場を離れます。追うエース。時間がありません。胸のハートが光ります。ってそれカラータイマーだったの!?
お婆さんがいるところに乱入。グーラがお菓子を食べます。文句を言うお婆さん。グーラは悪びれずお前も食ってやろうかと言います。ストライクゾーン広いな。エースが肉薄、しかし時間切れで変身解除。
間一髪ハート達が駆けつけます。エースの変身が解けているのに驚く4人。変身していられるのは5分だけだと亜久里が教えます。今まですぐに姿を消していたのはそういった事情らしい。ハートは亜久里ちゃんの大切な人はあたし達が守る!と請け負います。その言葉に亜久里は息を飲みます。マナの本領発揮。彼女は全てを背負う。亜久里もまたマナに回収される。
オーラを身に纏ったハートがジコチューに打撃を打ち込みます。
今までのおさらい開始。
「支え合う心を!」
「大事な想いを!」
「未来の夢を!」
「挫けても立ち上がる強さを!」
それらを心に秘めて女の子は戦います。フォースアローで浄化。
お婆さんも無事。弟子達に不思議な女の子達のおかげと伝えます。
亜久里は小さい身体をさらに小さくして落ち込みます。とっても素敵だと言うマナ。自分のお菓子を差し出します。今日は本当にありがとう、とお礼を言う亜久里にマナも頭を下げてこれからもご指導お願いしますと頼みます。これまで以上に厳しくすると言われて慌てたマナ達を見て亜久里は笑います。そんな彼女を見て笑う4人。
EDも変更。構成的にフレッシュの後期EDに似ているかな。カット割りが凝ってます。
④次回予告
六花さんの二の腕がたまらない。
○トピック
5つの誓いにカラータイマーて、スタッフの趣味バレバレじゃないですかー。
新キャラ補正月間も終わりが見えてきました。プリキュアでお馴染みの同化エピソード。次回もその流れだろうと思われます。
元々ドキドキの特徴として、同じプリキュアだけど真琴だけ明確に立場が違うという視点の相違がありました。これは王女関連、レジーナ関連にも意見や気持ちの違いとして表れていたわけですが、現在ではほぼ一致しつつあります。王女も回収しましたしね。そういうわけでさらにここで違う視点のキャラが登場相成ったという事なのだと思います。本人が語るようにエースは一度ジコチューに敗北している。だからジコチューの恐ろしさ、自分の至らなさを知っている。マナ達に対する厳しさは自分への厳しさの投影ですね。
違う視点の登場人物とチームを組むとどういうことが起こるかというと、問題点の相違が浮き彫りになって物語の主題が強調されます。と同時に自覚化が促進されます。序盤のマナと真琴の関係、レジーナとの関係を振り返ればハッキリするように、何のために、何故戦うのか、何故友達を作ってはいけないのか(友達になれない理由はなんだろう?)、何故レジーナを救えないのかという疑問が作中にも視聴者にも提示されます。
マナはレジーナの話しで挫折しているので、今の彼女では力が及ばないことが明示されています。そこでエースが牽引役になって修行を積む(=愛の在り方を自覚する)。当然そこには亜久里なりの思惑も加わってきます。早い話し亜久里自身にも限界や課題が見えてくる。これがマナ達との関わりの中でどのように変容していくか、というのが当座の見所になるでしょうか。完成された人間などいない、どんな人にもジコチューが潜む。ではそんな人達が集まれば欠点だらけの自分勝手な集団になるのかと言えば、そういうわけでもない。人が人と結びつくとき、そこに違う何かが生まれる。そこに人間の面白さがある。
夏休み月間はどんなエピソードをやるのか楽しみです。ドキドキは箸休めの話しが少ないので、割と本気でバカ話を期待してもいます。
第26話「ホントの気持ちは?六花またまた悩む!」
○今週の出来事
①夢の理由
授業で将来の夢を語るマナ。総理大臣と大きく出ました。では六花はファーストレディになるわけだ。六花の隣の男子生徒は自分の夢を持っていないようです。菱川さんは持ってていいよね、と水を向けます。六花が医者を目指していることは有名らしい。同意しながらも、六花は自分が医者を目指すのはママがそうだからなのかと疑問を抱きます。
今回先に断っておきますが、全体の文章量が膨大になっています。約1万5千字。これは映画の感想に匹敵します。しかも内容的に今回の話しというんじゃなしに、これまでのドキドキの物語をある程度総括した上で、自己愛について長広舌をふるっているので分割して読むとか適度に息抜きしながら読むことをオススメします(トピックが異常に長い)。
おやつは茶屋であんみつ。早速話題は夢について。マナの夢を聞いて納得するありす。資金源は潤沢です。真琴に六花はお医者さん?とまた先手を打たれます。頷くものの積極的な意思を感じません。六花の反応に違ったっけ?と訊くマナ。六花は自問します。自分が医者になりたかったのはママに憧れていただけなのではないか。
「それはつまり本当の気持ちではなかったということですね」
出亜久里。
「私は以前からこのモチモチ白玉と寒天、黒糖のハーモニーに惹かれてここへ通い詰めていたのです。ブラボーですわ~」
食通かよ。気に入らない料理が出てきたら店主を呼べ!とか言い出すかもしれません。
六花は亜久里の言葉の意味を尋ねます。「その答えは自分で探すものじゃなくて?」。にべもない。
食べ終わると、亜久里はちょうど良い機会だから自分の本当の気持ちについてトコトン悩んでみろと言って去っていきます。これってやっぱり勘定は六花持ちなんですかね。流石です。無銭飲食に定評がつくかもしれません。
ラビーズでベビービスケット召喚。ラケル、シャルル、アイちゃんが一緒に食べます。
マナはエースは不思議な存在だと言います。何を考えているか分らないと六花も同意。キュアエースは何に似てるかと言ったら、アレだ、Gガンのシュバルツだ。強い、理不尽、存在自体が謎、突然現われるくせにそこに居るのが当たり前のように存在している奴。そのうち「そんなことはどうでもよくってよ!」とか言い出すかもしれません。エースのおかげでパワーが高まっているのも確か、とマナは不可解ながらも現状を理解します。パワーが高まったかよくわからない人もいますが、概ね強くなっています。
さっきのこと大丈夫?と六花を気遣うマナ。これが言いたくて話しを振ったのかもしれません。六花はウキウキしながら三ヶ月ぶりにパパが帰ってくると言います。ママも早番。久しぶりの家族水入らず。六花は待ちきれないとばかりに家路につきます。ラケルも付いて行きます。妖精の中ではダビィに次いでパートナー関係が強い妖精です。
アジト。イーラはリーヴァとグーラにぞんざいに扱われます。仕事が上手く行かず居場所を取られつつあります。
海で雷に八つ当たり。バチがあたったのか雷に打たれます。
菱川宅。電話を取る六花。一時停止。11話ぶりの眼鏡六花さんです。このときを心待ちにしていた方も多いでしょう。長き戦いに心が折れそうになったこともありますが、今我々は報われ安息の地を手に入れたのです。
電話はママから。どうやら帰られなくなったようです。パパもらしい。結局また独り。残念だと言うラケルにいつものことと返す六花。ラケルは六花に同情的な視線を送ります。そんなラケルの耳をグリグリ。六花は明日デートしようと突然言い出します。イオナズン!(MPが足りない)
自転車で海へ。帽子にワンピース、自転車に乗る可憐な少女。夏って素晴らしい。
足下まで海に浸かりながら水浴び。なんで海に来たのかと尋ねるラケルに、六花は何となくと答えながら浜辺を歩き出します。誰もいない静かな浜辺。「風をいたみ 岩うつ波の おのれのみ 砕けてものを 思ふころかな」百人一首を引きます。思い悩む少女の唄。六花も悩んでいる?と率直に訊くラケル。ダビィと同じくラケルも非常にいいポジションです。この場にマナが居ないことはとても大事なことです。この問題は六花の心の問題で、マナに相談しても意味はありません。後述するように六花は常に誰かを心の中に持つことで進んできた子です。今その矛盾に彼女自身気づいたのです。自分の問題に対して自分で向き合う時間、問いもまた必要になります。こうして六花がマナと居ない時間を相応に過ごしている(独りで居られる、考える時間を自分で持てる)ことは彼女の自立性の高さをある程度裏付けています。
「やっぱりママに憧れてただけだったのかな」
「思えばプリキュアになったのも、生徒会に入ったのもマナと一緒ならって思ったからだし」
「結局、私っていつも誰かに憧れているだけなのかも」
「それじゃ私自身の気持ちは一体どこにあるんだろう?」
「私はどうしたいのかな…」
エースは本当の気持ちではなかった、と言いましたがそんなことはありません。人に憧れる気持ちもまた人の本当の気持ちです。心理学では「理想化自己対象」という言葉があります。他者を理想像として主観的に体験することです。要するに憧れです。これは幼児期でも大人になっても持つ感情ですが、特に幼児期にこのような他者(特に親)に対して憧れを持つことは健全な環境、愛情に満たされた環境であることが多いのでむしろ好ましいと言えます。六花が自覚しているように、彼女が医者になりたいと思ったのは母への憧れであり、母と同一化したい気持ちの現われです。通常自己愛はこのようにして自分の理想像を作り上げ、その幻想を現実と一致させるべく人を動かしていきます。だから六花が医者になろうとすることは自己愛を満たす正しいやり方です。しかし、同時にそれは自分がまるで操り人形ではないかと依存的状態を連想させもします。「自分がない」のではないかという疑問ですね。これも当然の悩みです。思春期の恒例ですね。憧れ(依存)と自立の気持ちは両方とも本当の気持ちです。人は本当の気持ちを1つだけではなく2つも3つも同時に抱く生き物です。だからその気持ちをどのように整理・共存させるかがその人の精神活動にとって大きな意味を持ちます。ちなみに六花と同じように親に憧れて医者を目指したけど親とは違う科の医者になることで憧れと自立を両立させたと述懐していた方がいました。
憧れを持つことは本来素晴らしいことなのです。事実六花は母に、マナに憧れたことで今の地位、力を得たのです。憧れを依存と言い換えることもできるでしょうが、人を好きになることで自分を高めることができる力もまた人の素晴らしい力です。
ラケルは浜辺に倒れている人を見つけます。
③お前の青春ラブコメは絶対間違っている!
近くまで来ると倒れているのがイーラだと気づきます。困惑。イーラは意識を失っており酷いケガをしています。ラケルは警戒します。ほっとけないと迷う六花。逡巡して、助けることにします。
日陰で介抱。イーラが目を覚ましたことに気づいたラケルは逃げようと言います。こういう場合のお約束として、ラケルのセリフは六花の本音の代弁でもあります。傷ついている敵を前にして助けるべきか、放置するべきか。
「あなたが助けてくれたんですか? ありがとうございます。それにしても僕は何を…」
どうも様子が変です。記憶を失っているらしい。
無理に動こうとするイーラを六花は手当します。すると「ありがとう。優しいんですね」と真顔で答えが返ってきます。出し抜けに言われて戸惑い、頬を赤らめる六花。どうもこの子はお世辞とかに弱いようです。イーラの腹の虫が鳴ります。
家で料理。なんという新妻感。眼福眼福。え、お前りつマナ派で、イーラに嫉妬しないのか?って。勿論そうですし、イーラは爆発するべきです。しかしそれはそれ、これはこれ。六花さんの可愛い姿、新しい一面を見られる喜びに全俺が歓喜しています。
イーラが何か手伝いましょうか?と申し訳なさそうに言ってきます。ちなみに現在の彼の頭に生えている羽は萎んでいます。おそらく彼ら幹部は元々人間で、ジコチューをこじらせた人だと思われます。記憶を失ったイーラが本来の彼にどれだけ近いかは分りませんが、優しい少年なのかもしれません。
二人分のオムライスを作って運びます。見栄えは少し悪い。六花はマナのパパみたいにはいかないと照れ笑い。お約束どおり躓いて転びます。オムライスは無事イーラがキャッチ。六花は倒れたイーラを心配します。
「あなたが無事ならそれでいいわ」
「天使のような人だ…」
イーラに覆い被さったまま固まる六花。イオナズン!(MPが足りない)
六花の髪が鼻先に当たってイーラはくしゃみをこぼします。
「ごめん」
「いえ…」
なにこれ!?いつからプリキュアがラノベになったわけ? 記憶喪失で女の子に介抱されて、あれですか、実は凄い素性や才能持ってて無双しちゃうとかそういう設定ですか? こうしちゃいられねぇ!俺も雷にうたれてくる!
一緒に昼食。イーラは痛みでスプーンを落とします。ああもう分ったよ、知ってるよ。そういう流れだよね。
心配するラケルにイーラは優しい声をかけます。照れて固まるラケル。お前もかよ。どんだけフラグ立てる気だよ。ハーレム系主人公ものですか、これ。日曜日の朝に女児向けアニメ見るのが人生唯一の楽しみ的な俺の心はもう複雑骨折だよ。
六花はスプーンをとるとイーラに食べさせます。その様子を面白くなさそうに見るラケル。この子は男の子ですね~。割と六花がノリノリな件。この子は対人関係にちょっと極端なところがありますが、面倒を見るときはキチンと見る子です。甲斐甲斐しく献身的です。
甘やかしすぎ、と憤るラケル。論点はそっちかよ。男のジェラシーはみっともないな。そんなところにシャルルとランスがやってきます。どうせ暇しているだろうと遊びに来たようです。ラケルが墓穴を掘って事が露呈。
新婚さんいらっしゃい。
イオナズン!!(MPが足りない)
目が点、なシャルルとランス。正妻の不倫現場目撃。
③本当の気持ちはどこから?
河川敷。みんなに事情を説明。ケガをしていてほっとけなかったと話す六花に「六花ちゃんらしい」と答えるありす。ありすだったら記憶喪失やケガ関係なしに相手の出方次第で態度を柔軟に変えそうです。そういう意味で、六花がイーラを助けた理由は彼女の本心、本質から出たものと見て良いでしょう。これは大事なことなので後で詳述します。
危険だ、と真琴が警戒します。分っていると煮え切らない態度で答える六花。こういうやり取りがあるのはいいですね。この事態がかなり微妙でリスクを伴っていることは六花自身も仲間も理解している。その上で彼女達はこれをどう受け止めるかが次の話しです。
亜久里が甘い、と言います。何か起きたら責任が取れるのかと問います。彼女の思考、発言は大人のソレです。善し悪しの話しをしているのではなく、受け止められるのか、その器量、対処、責任があるのかと問うている。現状曖昧に判断保留している六花に甘いと言うのはその意味で正しい指摘です。
「手傷を負っているとしても敵は敵。悪は悪」
変身。この人は本当に容赦がない。こういう汚れ役を進んでしてくれる大人がいることは恵まれたことだと思います。変身完了と同時に武器召喚。もはや待った無し。猶予の時間を与えません。
エースとイーラの間に入る六花。エースはいずれ敵に戻るならここで、とやる気です。
「やめて!」
マナ達は立会人のように両者の間に留まっています。雨が降り出します。
「どきなさい!」「いやよ!」
イーラが今までやってきたことを忘れたわけではないでしょ?とエース。
「もちろん憶えているわ。でも、どんな人であってもケガをして苦しんでいるのなら私は助けてあげたい。でなきゃきっと後悔する。私は後悔したくない! 自分の思いを信じるわ!」
一歩も退かない六花。
ラケルも六花側につきます。本当はエースが正しいと思う。でも僕は六花を信じると言います。「納得はできないけど…」と真琴、マナ、ありすも六花につきます。ここでマナとありすが一言もしゃべらないのはとても上手い。この二人が六花を支持するのは目に見えています。ここで比較的第三者的な立場にある真琴が六花を支持するところに、彼女の変化が見て取れます。レジーナのときと同じように、疑いは晴れないし推定有罪にするのがベターでもある。しかしこれはイーラの裁判ではありません。たとえ間違っているように思える六花をそれでも好きでいられるか、六花の判断、もっと言えば六花の人間性を彼女達は肯定しています。この際イーラはどうでもいいことです。彼女達にとっての六花がどういう人であるのか、それが天秤にかけられています。これは条理や規範よりも人を取ったという話しです。しかしこの物語が心の救済を目指す以上これは正しい判断です。ここで言う救済とは勿論、六花の心です。彼女の優しさ、感情、行動を承認する人がいることでさらに六花は自分の本質を貫くことができます。
グーラが割って入ります。エースは撤退。完全に覚悟を見る気まんまんです。
グーラの攻撃。六花はイーラを庇います。倒れた拍子にショックを受けるイーラ。六花は心配しつつも、危ないから下がってて!と啖呵を切ります。カッコイイ。変身。
六花も変身したことに驚くイーラ。「すごい…青くて、フワフワしてキラキラして…」どんな表現だ。記憶がフラッシュバック。ハートの口上でもさらに刺激されます。
グーラが飛びかかってきます。バリアでガード、ハートが同時に打撃。飛んだところにソードが待機。しかし逆に反撃され間一髪逃げます。その間もイーラは混乱が続きます。4人がかりでもグーラに勝てません。倒れたプリキュアの前にイーラが立つ形に。グーラに名前を呼ばれた彼は記憶を取り戻します。グーラが放った光弾が迫ります。それを手で弾きます。
文句を言うグーラに「プリキュアを倒すのはこの僕だ」と言い返します。頭の羽も元通り。
記憶が戻ったことを知ったダイヤは「そう…良かった」と安心した表情を浮かべます。今回見たときにやられた、と思ったのがこのシーンでした。先のイーラを庇う問答はどうでもいい。何故ならあの時のイーラはケガをしていて弱く、保護の対象になっていました。では、元に戻ったとき、どう思うか。どう受け取るか。そこにこそ六花の本質、本当の気持ち、やりたいこと、願いがあります。
ダイヤの態度にイーラの方が戸惑います。彼は自分が記憶を失って、彼女が自分の面倒を見てくれていたことを知っています。 だから「なんで怒んねーんだよ」と言ったのです。自分が元に戻れば彼女は失望や敵意を抱くだろうと思ったからですね。
「だって、嬉しいんだもん。きっとこれが私の素直な気持ちなんだと思う」
私の経験上、「自分の本当の気持ち」と呼ばれるものは考えて出てくるようなものではありません。それは体験をとおして抱く自分の気持ちそのものだからです。プリキュアを見て楽しい、面白い、その理由をもっと突き詰めたい。仕事をしても別に面白いと思わないし出世にも興味はない。適度に金をもらって自分が好きなことをしたい。そういう気持ちは体験をとおして生まれるものです。そしてその気持ちをどのように実現するか、昇華していくかが自己愛を育てることなのです。その時に思考が関与する。
グーラがイーラを飛び越えて直接殴りかかってきます。イーラは突風を作りだしてプリキュアを吹き飛ばします。身内のケンカに見せかけた手助けであることは明白。何食わぬ顔で立ち去るイーラに視線を向けたまま、ダイヤは笑います。すると身体からオーラが出てきます。ここでオーラが発生するのは自己愛的な解釈で言えば正しい。イーラが何を考えあのような行動を取ったかは分りません。捻くれた感謝であるかもしれないし、義理や借りを返しただけかもしれません。しかしいずれにせよイーラが六花に対して反応したことは確かです。そこに意味があります。もしイーラが以前と同じように攻撃してきたらダイヤはへコんだと思います。さっき言った「良かった」ってのは間違いだったかもって思うかもしれません。しかしイーラが彼女に応えたことで彼女は言わば彼に認められたことになります。自分がやったことは無駄じゃなかった、意味があった、小さいけど何かを変えた、報われたと。六花の自己肯定感(自己愛)はイーラのあの返答によって強化されたのです(勿論相手への慈しみも増します)。六花は今後も自分の意思を貫こう、責任を持とう、もしかしたら裏切られることもあるかもしれないけど結果を見届けようと思えるでしょう。人間っていうのは弱い生き物なので自分がやったことがある程度認められないと投げやりになります。そういう意味で、六花は元々イーラに何か下心や見返りを求めていなかったでしょうが、イーラが応えてくれたことで彼女の自己愛は満たされたと言えます。ドキドキの愛の形成は自己愛を基本とした相互形成と見ることができます。人の愛は見返りがあると大きくなるし、ないと萎む(24話の真琴は萎みかけていました)。最初から他者の見返り無しに自分を貫けるならその人は強い人でしょう。しかし、それはそれで単に自分勝手なだけで自分を省みないだけのジコチューかもしれません。良きにしろ悪きにしろ他者の反応を見ながら人は学んでいくのです。
「見せてもらいましたわ、あなたの本当の気持ち」エースさん再登場。
「プリキュア5つの誓い、1つ!」
「プリキュアたるもの自分を信じて決して後悔しない」
責任を持て、自分がやったことを最後まで見届けろ、ということです。ダイヤはエースが自分の真意を問うためにわざと敵対したのだと気づきます。お礼を言います。
グーラとサシで勝負。脚で弾いて蹴り上げるのかっけぇ。踏み台にして橋の支柱に立ちます。
「お行儀の悪い食いしん坊さん! このキュアダイヤモンドがあなたの頭を冷やしてあげる!」
ハート以外では初の2回目。こういうのはそのキャラ主役回でやると引き立ちますね。
エースと連携。そして待ちに待ったダイヤのラブハートアロー召喚バンク。別に何があるってわけでもないのですが、今まで何故かダイヤだけ見せ場がなかったのでこうやって使われるのは小気味良いです。シャワーを吸い込むグーラに呆れながらもダイヤには策があるようです。氷食べ過ぎて頭が痛くなって撤退。ダイヤは属性効果があるので使われ方が面白い。属性もなくて技としても使えないどっかの人とは違います。
ダイヤを褒める一同。出る幕がなかったとソード。今回も、ですよね。
エースはダイヤにお見事と言葉をかけつつも、油断をするなと言います。次遭うときは敵。
イーラは巻かれていた包帯を捨てます。その表情からは彼が何を考えているか伺い知ることはできません。
パパとママが家に帰ってきます。相変わらずの変なお土産。一応夢を叶えてくれるお守りらしい。
ちょうど良かったと答える六花。夢ができたと言います。
「私の夢はお医者さん。ただ、今までとちょっと心構えが違うっていうか」
テーブルの下で得意げな表情を浮かべるラケル。その理由を知っているからでしょうね。
何かあったの?と尋ねる母に六花は笑顔で答えます。
④次回予告
相変わらず真琴の女子力の低さが露見しそうです。
○トピック
六花すぺしゃる。俺の六花フォルダの容量がマッハ。
何が凄いって、憧れに対して疑義を生じさせつつも、その気持ちと自分の気持ちを両方肯定し両立を図ったこと。彼女の医者になりたい夢は変っていません。変ったのは心構え。非常に高度で、健全な自己愛の承認と深掘りです。こういうことができるまでなったのだと改めてプリキュアのキャパの大きさに感心します。
六花は憧れによって伸びる子です。早い話し好きな人に同化したい、一緒になりたいという気持ちが努力や新しいことにチャレンジしていく動機になり成長の糧になっています。母然り、マナ然り。3話の感想で「世界を守るために戦いはしないけど、自分の好きな人のためになら新しい世界に飛び込める子」と書きましたがその印象は変っていません。極端に言えば、彼女は好きな人(好きなもの)が増えれば増えるほど伸びる子です。ただ、上述したようにそれは依存的な状態を生むので、自分の気持ちを主張したり確かめたい欲求や迷いが生じるのは当然です。今回のエピソードもその意味で必然性が高く、また六花の心の迷いにスポットを当てることで自己愛(ジコチュー)の性質を深掘りしています。
自己愛とは多様な形を取ります。他者を理想化して自分もそうなりたいと思うのも、自分の我を通したいと思うのも根っこは同じです。その手段が違うのでバッティングして今回の六花のような迷いや疑問が浮き彫りになることがあります。エピソードの流れ的に六花は複雑な動きをしていて、3話で問題になったのは理想として追いかけたいマナに自分がついていけるかというものだったし、14話のカルタなら自分の好きなものを好きと肯定できるかが焦点になりました。今回のエピソードを踏まえると六花に共通しているのは、理想対象あるいは自分が好きな事に対してハッキリとそうだと言えるかどうか。マナにトコトンついていく、カルタが好き、守りたい人を守るんだと我を貫く。自分の気持ちを自分で肯定する(嫉妬もそうですね)。自信と誇り、責任を持つことが彼女のメインテーマになっています。普段やっていることの追認、と言えばそれまでです。
しかしこのように気持ちの整理、自分がやっていることが自分にとってどのような意味を持つのかを考えることは自立心を養う上で重要なことです。これをキチンと自分の中で整理しておかないと漠然とした不安、自分はマナに劣っているのではないか、医者を目指しているのに遊ぶのは悪い子なのではないか、自分が無いのではないかといった自己卑下に陥るでしょう。
六花のエピソードが、憧れか自分のやりたいことかといった単純な対立や比較を行って答えを出そうとするのではなく、彼女の心の働き、納得をとおして自己愛を健全に伸ばしていく(依存と自立を両方育て融合させる)ことで答えを出したその態度に私は敬意を表したい。人に憧れることは正しく健全なことです。そして自分自身がやりたいことをやろうとすることも心の在り方として当然のことです。自分がやりたいことが他者に承認されているならなおさらです。自分が憧れることと、自分がやりたいことが一致したときに人はさらに大きな動機と自信を持てるでしょう。今回彼女は人助けをする中で自分の在り方、気持ち、自己愛を伸ばしています。このように人は自分の体験をとおして自分の理想像を高め、自己を現実に結びつけていくのです。
というのが六花個人の話しで、全体的な関わりとしてはレジーナ関連にも関わる敵との和解可能性ですね。
今回六花はマナと同じことをやっています。困っている人を助けたい。その相手が誰であろうとその人のためになることをしたい。たとえ反対されたり自分に不利益があったとしても自分が正しいと思うことをしたい。マナに対してそれを六花達が承認するだけでなく、六花に対してマナ達が承認することでこの認識が4人の中で肯定されていること、六花自身が当事者になることでマナの行動が理解しやすくもなるでしょう。彼女達の認識が次第に変わり、マナ以外の子達にも自発的行動として再認識されつつあります。
また、レジーナとイーラは同じようなポジションに見えますが違います。どう違うかと言えば、本人の心性です。レジーナは元々純粋無垢、素直、無邪気な性格として物語に登場しています。レジーナと友達になるのが何故作中で問題になったかと言えば敵首領の娘だったからです。彼女本人の心性が問題になったのではなく、属性(所属集団)が問題になりました。それに対してイーラは実際的にも敵です。しかしそれでも状況によってはプリキュアは敵をも助けることが今回明確になっています。イーラ達のジコチューが上手く解消されれば共存の可能性があるのもポイント。これによって敵との和解が一歩前進しています。この物語が愛(ジコチュー)を巡る物語であるなら、敵を倒すことに意味はありません。
さて、5つの誓い関連も4つ消化され大筋が見えてきたので一旦まとめます。次回以降の動向も情報として必要になりますが、これを踏まえてブラッシュアップしていきます。 (こっから6千字ほど続きますので休憩をオススメします)
①5つの誓い編でやっていること
マナ、真琴、ありす、六花が一連のエピソードで行ったことは「今まで自分がやってきたことが正しい」こと「今まで自分がやってきた中に愛があった」ことの再確認です。23話からこれまでの話しでマナ達が新しく得た知見はありません。今までの行動の再確認・再承認・自覚化を行っています。
何故こんなことをわざわざしたのかは推測になりますが、「愛」の具体的なイメージを掴むためだろうと思われます。本作はジコチューと愛が対比的、連続的(地続き的)なものとして提示されています。ジコチューは毎回敵として登場しているように非常に分りやすいものです。自分勝手に暴れたり、自分の都合だけを考えることです。では、愛のある行動とはどういうことなのか? プリキュアはジコチューを倒していますがこれは愛と言えるか? 言えません。これは暴力でしかありません。プリキュアはジコチューに対して直接的・抜本的解決手段を持ちません。これは本作のみならずシリーズ的に共通していることで、プリキュアの力は敵を排除することはできても、原因の解決や救済には役立ちません。
そのため「愛」を提示するにはプリキュアの力ではなく、マナ達自身の人間性、行動によって証明されなければなりません。マナが言ったように「人を思いやる気持ち」がどんな行動であるか、愛とはどういった状態、人間関係のことをいうのか。これを積み重ねることによって愛の具体的なイメージ、その方法論(ビジョン)が鮮明になります。当然物語はここからさらにステップアップしていくでしょうが、エースがここでこのような誓いと称した再確認を行っているのは言わば中間テストであり、物語後半への地固めと準備と考えられます。
なお、5つの誓いと5つのクリスタルは話し的に連動していると思って差し支えありません。マナがクリスタルを見つけたのは彼女がノッポさんの話しを聞いて彼の想いを背負おうとした時です。誰かを助けようとする、これがマナの本分なのだろうと思われます。同様に真琴は人に何かを伝える、ありすは大切な人を守る、六花は自分の好きを貫くのがそれぞれの主要なテーマ、愛の表現になっていると考えられます。もっと俯瞰して見ればクリスタル以前の各個人回にも関連しているので、ドキドキは各キャラの行動や背景をとおして愛(ジコチュー)の物語を一貫して描いています。
②愛とジコチューについて
本作の敵はジコチューです。では、ジコチューとは何かというと、人間の欲、リビドーです。この欲には向上心や承認欲求、愛したい、愛されたい願望も含まれます。つまり、ジコチューとは人間の当たり前の感情です。プリキュアがその欲を人の誠実な願いとして創造的で互いを結びつける力にできると提示しているのに対して、ジコチュー側は身勝手で暴力的なものとして見せているだけで根っこの部分は同じです。人の欲は愛にもジコチューにもなり得るのが本作のスタンスです。
過去シリーズの敵を振り返ったときに前作スマイルは絶望やルサンチマンを軸に据えました。ウルフルン達は絵本で虐げられた者達でその絶望が復讐心やルサンチマンとなって人を暴力に駆り立てています。スイートは人間関係の軋轢や誤解、齟齬によって愛情が憎悪や悲しみになることを、ハートキャッチは心の葛藤がテーマになっています。このように近年のプリキュアの敵には動機があり、またその動機とは人が生きる中で体験する苦悩、悲劇が元になっています。プリキュアシリーズはこの人間の苦悩に向き合い、人としての誇り、幸せ、希望を持てる道筋を追求してきました。
その意味で本作は人間の根本に焦点を当てたと言えます。ジコチューは自己愛的な願望が強く出た状態です。自己愛というとナルシストや自己中心的なイメージを持たれるかと思いますが、それがほどよく発揮されていれば自分の理想を実現しようと努力する原動力になります。これがさらに強くなってくると自分を実力以上に捉えたり、過剰な賞賛や承認を要求するようになります(前回のマーモがそんな感じ)。さらに酷くなると妄想的になり、自分は○○の生まれ変わりだとか言い出します。自己愛とは自己の理想化です。人が自分を特別だ(自分は事故や病気で死なない、自分なら上手くやれる)と思うのは自己愛の作用ですし、それがあるからこそ人は楽観的で現実に押しつぶされないバイタリティを持てます。自己愛が低すぎれば卑屈になったりノイローゼになったり現実に対する抵抗力が弱くなってしまいます。つまり自己愛は人間にとって必要であり、ほどほどのジコチューはむしろ人を健康にします。
補足すると、なにも自己愛は自分だけを対象にするわけではありません。自分に関係するものに対しても理想化することがあります。要するに自分は素晴らしい人間なのだから、そんな自分がやっている○○も素晴らしい、付き合っている○○さんも素晴らしい(はずだ)と思う。自己愛が強くなると自己がこのように延長されていきます。これもおかしいことではなく、正常な範囲であれば当然誰もが抱く感情です。ただ、自己愛が強すぎると対象を私物化、支配することになりかねません。特に恋人や家族のような近しい関係であればこの傾向がずっと強くなります。親が自分の子どもを贔屓したり、ちょっと上手くできただけで才能があると思うのも自己愛が子どもへの期待感に転嫁されているからです。何度でも言いますが、これは当たり前のことであり、だからこそ相手を大切だと思えるし、適切な期待は自他共に好影響を与える源になります。正常な自己愛、健康的なジコチューであればいいのです。
健康的なジコチュー(結論から言えばそれが「愛」と言える状態)になるためには何が必要かと言うと、今私が思いつく限りでは2つあります。1つは適切な理性を持つこと。もう一つは適切な人間関係を構築すること。つまり自立と依存です。欲望をコントロールするには善悪の判断や理解力、社会適応力が必要になりますから自立できるだけの精神力が必要になります。ただそれだけでは足りません。人は適度に他者に承認されてこそその自立心を健全に維持できます(承認されなければ萎んでしまうか、暴走してしまう)。他者との良い関係が良い緊張感を醸成し向上心を養います。自立は野心を、依存は他者性を育てる。自立と依存はどちらが欠けてもいけませんし、一生必要になるものです。
話しが一旦飛びますが、自己愛性パーソナリティ障害やボーダーラインをどのように治療するかは種々ありますが、コフートという精神科医のやり方を紹介すれば共感によって治療します。その人の気持ちを理解し共感することで満たされない願望を満たし、また同時にその人の対人関係の改善を行う(ある種の育て直しを行う)ことで問題を修復していきます。コフートという人は人間は願望が満たされないまま育ってしまうと未熟な自己愛を持ってしまうと考えたようです。簡単に言えば、人が歪むのは環境(特に幼少期の親子関係)のせいだとしました。なので、大人になってからでも願望や気持ちを満たしていくことで適切な自己愛、協調性を育てることができると考えたようです。一応断っておくと私は精神科医でもなんでもないただの素人なので、聞きかじりや知ったかぶりで言っています。要はここで言いたいのは、ジコチューにまみれた人間であっても心を健康な状態に戻すことができるということです(精神病レベルは難しいけど)。そのためには適切に他者と触れ人間関係を構築し自分の価値観を少しずつ変えていく必要がある。
これを作中で普段からやっているのがマナ達と言えます。彼女達は自立と依存を非常に高度なレベルで両立しています。友達との人間関係を通じて自分を見直し必要に応じて変えています。自分のスタンスを持ちながらも柔軟に適応している。マナがレジーナに行ったこともある意味では育て直しだと言えます。レジーナの願望を時に満たし、時に抑えることで彼女の他者性を育てていきました。マナ達の愛とは人間関係でいえばそういう機能を果たしています。ここでのポイントは人間関係とは一方的なものではなく、相互的に変っていくことです。例えばレジーナは当初マナ以外は眼中にありませんでしたし、傍若無人な態度を取っていました。しかしそれが収っていくのに合せて六花達の感情的反発も軽減されていきました。こんなことは当たり前のことですが、この当たり前のことができなくなって自分だけにとらわれてしまうのがジコチューです。これは特別な人間だけがそうなるのではなく、大なり小なり人はそういう気持ちを持っているし視野狭窄になる理由は日常の中にいくらでも潜んでいます。現代に生きる私達は孤独で自己中です。それが時に人を不健全(不健康)にする。だから私達は自らの手でこれを治していくことが求められる。
自分の中にあるジコチューをどうすれば愛に変えていけるか。そのためには自分自身の心の強さが必要であり、他者が必要であり、自己と他者の関係性、自立と依存の両立が必須と言えます。タフでなければ生きていけない。優しくなれなければ生きている資格がない。愛とは人を育て、健全な状態へと向かわせるものだと言えます。つまり愛とは結びついたもの、人々を健全化させる機能が果たされている状態なのではないかと思います。そういった意味で本作は愛を実践的、現実的な姿で描写しています。愛ある行動、愛ある人は聖人というよりは健全・健康な人のイメージに近いでしょう。愛を持つことは超人であることではない、むしろ普通の範疇だと言えるわけです。だからこそ愛がジコチューになることもあるし、ジコチューから愛へと変わることもある。私達は常に日常の中でジコチューと戦っている。
なお、現代の自己愛の在り方とかつてのそれには違いがあるそうです。かつて、といっても戦前の話しになりますが、人々の自己愛は社会規範、宗教、国家などに結びついていました。「レ・ミゼラブル」にジャベールという警部が登場します。彼は法を守るために自分の全てを賭けるような人でした。最初私がこの本を読んだときに彼は抽象化された人物だと捉えていましたがそうではないようです。実在した人物でコルベ神父は、身代わりとなって処刑されました。キリスト教徒としてのアイデンティティが彼をそうさせたのではないかと考えられます。つまりかつての社会は、自己を越えた理想・理念に殉じることで自己愛を満たし、たとえ自分に不利益になってもその理想に合致する自分であることが理想とされ望まれた時代だったそうです。現代ではこの発想はかなり希薄化しています。だからコフートはかつての人々を「罪の人」と称しました。社会規範や理想が自分のエゴと相反することによって罪悪感を持ち、葛藤して心の病に発展していったからです。私がもっと昔に生まれていれば自分独りで居たい自由でいたいと思う気持ちと、早く結婚して家庭を持て、両親を安心させろ、家を存続させろというような社会通念、血縁とのギャップが生まれていたでしょう。今を生きている私はどうやって自分の思うように人生を組み立てようかと考えます。これが昔の人々と現代人の違いです。社会と人が現代よりも密接に奥深く結びついていました。戦前に生まれた人は大きな理想や理念のもとに団結し一体化していくイメージが残っているそうですが、今となってはもはや共有できないイメージだと思います。現代人は自己愛を社会や理念と直接的に結びつけません。個人の尊重といえば聞こえが良いですが、要するにお互いに傷つける(傷つく)ことを恐れる時代になりました。こうなってしまった理由として説得力を持たせやすいのは戦争です。国家のために人が一銭五厘(召集令状の郵送費)で使い捨てられました。そこまでやって戦争で負けたので、もうこんなのは嫌だ、国家なんて信じられない、自分が大切だという風に考え方が変っていったというのが理由として付けやすい。もっとも、自己愛の変化は世界的な流れでもあるので、現代の高度・複雑・都市化する文明においては個人主義化(集団形成の弱体化)がベースにあると考えられます。コフート曰く現代人は「悲劇の人」です。自己愛を満たせず、欠けた感覚を味わうからです。孤独と無関心によって苦しみ、迷い、過ちを犯す。
私がここで言いたいのは、人はどのような時代であろうと苦悩は尽きず、またその在り方も違うということです。昔が良くて今がダメだとか、その逆だとか言うのは全くナンセンスです。見方によっては昔の人々は大人で社会的役割を果たそうとした、今の人は我儘で自分のことしか考えていないとも言えるでしょう。しかし反面、人が社会正義の名において摩耗し消費される要因にもなりました。かつては自分を社会の形に合わせることが望まれましたが、今は社会よりも自分を優先させることが望まれる時代なだけです。今を生きる私達は私達が幸せになれる道を見つけ出せばいい。それが生きる者の務めであり、誇りを生み出す原動力だと思っています。……え、これなんの感想かって? 勿論プリキュアの感想です。私が感想を書く理由の1つは、このプリキュアと関係ない話しを連想し纏め自分の考えを洗練するためです(でも文章は散文)。
閑話休題。
この物語が単なる愛VSジコチューの勧善懲悪ではなく自分の中の善と悪の戦いであること、自己と他者の結びつきの中で愛を育んでいけること、人の変容性に焦点を当てていることに私は好感を持ちます。ある人が善と見なされることがあるようにある人が悪と見なされることがある。その差は何なのか、それは一度決まったら変らないものなのか。そもそも善と悪の区分けに意味があるのか。何が人をそうさせるのか。それは苦痛なのか業なのか糧なのか。正義が勝つことなんかよりもずっと大切なことがある。人が生きる中で本当に大切なこと。そのために全力を出すのがプリキュアの物語です。
人の救済に挑んだフレッシュ、心の葛藤を描いたハートキャッチ、絆の回復をテーマにしたスイート、自立をはかったスマイル、本作はそれらを包括しています。さらにここからどこへ行くのか。とても楽しみです。
第25話「華麗な変身!ニューヒロイン登場!?」
①ありすのため息
空港でジコチューが大暴れ。CAの不満が顕在化。毎回思うんだけど、ジコチューの中の人が一番この番組をエンジョイしているんじゃなかろーか。王女を捜すジコチュー。攻撃をバリアで防ぎます。単発なら問題ないものの気合い入れた攻撃は防げない模様。新幹部だけあって召喚モンスターの性能は良いようです。バリアで防げるかどうかで敵の強さが大体分る。親切演出。
美味しいところは全部持っていくことに定評のあるエースが必殺技で割り込みます。そのままジコチューを浄化。
反省会。ロゼッタは自分の失態で仲間を危険な目に遭わせてしまったと反省。そんな彼女をハート達は励まします。チームの貢献度では盾役のロゼッタは重宝しています。問題は紫、お前だよ。
「私から特に言うことはありません」
意外な言葉にロゼッタ達は驚きます。
「あなたは自分で気づく子です。頑張って成長なさい」
前回との差が酷い。ありす評価高ぇ。実際、マナを賢い、六花を頭良いと評するならありすは聡いって感じなので自分で問題を見つけて解決していけるだろうと思えます。自分で反省できる人に説教は不要。ただ、この手のタイプはそれ故に放置されやすいので本人的には深刻なのにそれを汲んでもらえないこともありそうですけど。「君ならできるでしょ?」と言われているに等しいのでこれはこれでプレッシャーです。
大きなため息をつくありす。この執務室がありすの私室なんでしょうか。この子どんな教育受けてるの?
セバスチャンがお茶を淹れます。お茶に口を付けながらありすは確認するように言います。エースの導きでマナちゃんと真琴さんは自らを高めさらに力をつけた。自分も高めなければならない。これはラストシーンと対比的な部分ですね。ありすは今完全に自分のことで頭が一杯でセバスチャンに気が回っていません。結果それを心配したセバスチャンが独断行動に入る。ありすはがむしゃらに、セバスチャンもがむしゃらに、という乖離と空回りが始まります。これも人間関係によく見られる行動パターンで「あなたのためを思って」やっているのにそれが何故か人間関係を崩壊させていくことがあります(スイートは序盤それを主題にしました)。「相手のことを思う自分」に満足してはいけない。が、往々にしてそこで満足するし、相手と意思を繋ぎ合わせるのは非常に面倒で野暮ったいことです。
道場。「お願いいたします」。相手が見あたりませんが……畳がひとりでに跳ね上がります。それを蹴るありす。ああ、そういう……ってどんな特訓だよ!?
今度はカンフーで見かける木人を模したロボットが出てきて組み手を始めます。拳が曇っているとロボットに説教されて打ちのめされます。このロボット作った人はどこまで想定したんでしょうか。確かに毎日こんな生活をしていれば突っ込まないスキルが高まるのも頷けます。
ボロボロになりながらも特訓を続けるありす。この子が頑張り屋なのは間違いなくて、以前コンテストで麗奈と競ったように日頃から色々やっているのでしょう。ありすも六花と同じように自分の好きな人は自分を賭けて守ろうとする人だと思いますが、六花がその気持ちを警戒心や敵愾心に転嫁するのに対して、ありすは防壁を作ろうとするタイプのように見えます。ありすがこの物語で最初にやろうとしたのはプリキュアのプロデュースで、マナ達がやりやすいように保護しようとしました。小学校の頃のエピソードも過剰な防衛反応と見るのが妥当でしょう。そういう意味では彼女は典型的な家を守ろうとする母親タイプなのだと思います。場を守ることに意識を向けている。今回のエピソードでも自分の至らなさ(壁に穴が開いた)を補強しようと努力しています。マナ、真琴に続いてこれも一種の挫折と見なせないこともないですが、ふたりと違ってありすは目的が明確で行動指針もブレていません。迷っているわけじゃない。しかし彼女には足りないものがあるというのが今回のエピソードの意図するところです。
ありすの姿を影から見守るセバスチャンは泣いています。あんたそういうキャラだったの?!
②セバスチャンの隠し事
やよいが見たら大喜びしそうな秘密基地めいた施設。セバスチャンはアタッシュケースを開きます。科学の粋を集めて作られた人工コミューン。
「プリキュア! ラブリンク!」
アタッシュケースに入っていた繊維がセバスチャンにまとわりついてスーツに。
屋敷の庭でテストを試みます。加速は上々、パンチ力も地面に穴を開けられるほど。たぶんキュアパインよりは強いんじゃないでしょうか。息を切らせるセバスチャン。年寄りの冷や水的な。もうツッコミどころがありすぎてどこから突っ込めばいいのか分らないんですが、あのラボはセバスチャン個人のものなのか、四葉家から借用しているのかそこが一番気になります。前者だとすればどんだけ給料もらっているんだって話しだし、後者だとしても一介の執事にどんだけ権限与えられているんだって話しです。いずれにせよ、元ネタであろうバットマン同様金の力でヒーローということに変わりありません。金の力は正義の力!
王女捜しをするイーラとマーモ。ダレています。イーラはマーモの帽子にツッコミをいれます。日焼けはお肌の大敵だと答えるマーモ。この人の暑いのか寒いのか分らない格好に一言もの申したい。マイナスイオン浴びに行こうとどっかへ行ってしまいます。相変わらず勤労意欲に乏しい。「リフレッシュ休暇か!」。イーラさん、さっきからツッコミがちょっと滑ってます。段々ぞんざいな扱いになってきたかと思いきや次回予告の破壊力。
滝に打たれながら精神を整えるセバスチャン。何してるんスかねこの人。この人も普段からこんなことやっているんでしょうか。それを表に出さずに人前に立っているのか。四葉家大変だなぁ。自分の努力を人前に出すか出さないかは人によって差があります。苦労や悩み、愚痴なんかもそうです。ブログなんかでも自分の苦労や悩み、悪い言い方をすると同情して欲しいのかなって思えるような文章を綴っている人を見かけますが、私はそういうのは書かない主義です。理由は単純にカッコ悪いと思っているから。私は、大人は常に人生をエンジョイしているものという目標というか美学があって「人生楽しー」って堂々と言える自分で在りたいと思ってます。辛さ、迷い、不満、愚痴は人生を楽しくするためのスパイスであり糧なので、愚痴たれている暇があったらそのスパイスをどう料理するか試行錯誤することに時間を費やす。大人たるもの悠々自適に自分の人生を作り替える。それが大人の凄さだって見せつけたいじゃないですか。念のため言っておくと、苦労話しや愚痴を言うことがダメということではありません(他人がカッコ悪いのはどうでもいいことなので)。実際そうした愚痴を口にすることで気持ちの整理になったり、人に同情してもらうことで落ち着きや励ましをもらうことができるでしょうから、その辺はその人の処世術、自己防衛策として機能していれば良いと思います。重要なのは人生を楽しむための機構(歯車)を構築できていればいいという話し。この歯車が狂ってしまうと色々面倒なことになるし、たまに油を注す必要もあります。
水辺に来たマーモは体勢を崩して持っていたアタッシュケースを落としてしまいます。入れ替わったケースをセバスチャンが持って行ってしまいます。
ラボに戻って改めて中を開けると化粧品の類が。「なぬー!?」。この人絶対外向きのキャラ作ってるだろ。
マーモも中を開けるとコミューンを見つけます。記憶を思い起こしながらプリキュアラブリンクとつぶやくと変身。音声認識らしい。セバスチャンとは違った格好になります。男女別でコスチューム設定が違うのでしょうか。セバスチャンは一体どんな使用方法を想定していたのか、疑問は深まるばかりです。
美容品を眺めながら思案。ランスが使い方を教えます。この際使い方はいいのです、と冷静に答えるセバスチャン。急いで現場に戻ると中身が空っぽのアタッシュケースだけが残されています。「人工コミューンが、無い、無い、無いーー!」。どうしよう、この人のこと前よりも好きになってきちゃったよ。お茶目な大人って素敵やん。
ありすが声をかけます。っていうか、ここどこなんでしょうか。屋敷の中なのか。
人工コミューンのことはありすには内緒らしい。通信が入ります。四葉デパートにジコチュー出現。大体四葉財閥のもの。
爪楊枝ジコチューがデパートの試食品を食べまくります。グーラが召喚。彼もハムを丸かじり。
すでにプリキュアは現場に待機。ジコチューは試食品で腹一杯になれば金払わずに済むと笑顔で言います。気持ちは分る。「なんて器の小さいジコチューなの」。ですよねー。紙コップを投げ捨てます。「攻撃まで小さい」。精神攻撃は基本。
ジコチューは大きくなります。「成長早っ」。最近ダイヤさんはツッコミしかしてないような気が。
高笑い。変装したマーモが現われます。「みなぎる美しさ! キュ…ティーマダムよ!」。この人既婚者なんですかね。「どちらの奥様でしょう?」「いやいや、マダムじゃなくてマーモだし」。グーラにもおかしなもん拾って食ったのかと言われる始末。正体バレバレです。
「なんということだ…」。滝のような汗を流すセバスチャン。CMへ。リアルタイム視聴中に友人からこのタイミングで一言「もうひどい」とのメールが来ましたが、ほんと、どこに行くのかさっぱり。本気でBパートで纏まるのかと心配しました。
「どうする?」「ツッコミどころが多すぎてどこからつっこんでいいか分らない」。激しく同意。
不審な視線を向けるプリキュア。脱水症状で倒れるんじゃないかというほど汗を垂らすセバスチャン。人の注目を浴びて満足するマーモ。三者三様の反応。高笑いするマーモにジコチューが抗議。すると髪が乱れたらどうする!と扇子で突風を作りだしてジコチューを吹き飛ばします。その隙を突いてプリキュアがフォースアローで浄化。いい気味だと満足して去っていくマーモ。口をあんぐりと開けたまま固まっていたグーラも我に返って撤退。これキングジコチューに報告されたら懲戒もんですね。
話しが見えないプリキュア。ハートは心を入れ替えたのか?と疑問を口にします。地味にこれが次回への導線になっているのかな。セバスチャンは人知れず深刻な表情を浮かべています。彼の様子に戸惑うありす。
ソリティアで亜久里は新聞記事をマナ達に見せます。黒い貴婦人キューティーマダム現る!!との見出し。あちこちに現われては人助けをしていることになっていますが、実際は自作自演。人の注目を浴びたい系のジコチュー。ベールが昼行灯に見えて実は野心家だったりと幹部のジコチュー像が最近浮き彫りになってきました。次回イーラに絡むようなので、幹部達が抱えているジコチューが明らかになっていくのはおそらく意図したシナリオだと推測できます。前回のエピソードで明言されたように全ての人がジコチューを持ち、そのジコチューは愛と繋がっている(っていうか根っこは同じ)と本作では定義づけられています。自己が抱く渇望、欲望が自分だけに向く時それはジコチューと呼ばれ、他者にも向けられ結びついた時に愛と呼ばれる。そうであるなら本作のジコチュー達は悪ではない。やり方を間違えた人々で、その間違いはプリキュアにだって起こる。ジコチューと愛が繋がっていること、ジコチューが愛に、愛がジコチューになり得ることは大変示唆的で、そしてそこに人の幸せと不幸が内在しています。
記事を読んだマナ達はマーモの中で何かが変ったのでは?と訝ります。見た目も変った。ちょっと可愛くなったとランス。女性ファンが急増中だそうです。
いずれにしてもマーモが何を考え、どういった力で変身を遂げているのか調べる必要があると話す亜久里。小学4年生とは思えない冷静な洞察。プリキュアでは実年齢が下がると精神年齢が上がる傾向にあります。
ドキドキはこのように現実に起こっている出来事に対して問題を自分達で見つけてアクションを起こしていくのが特徴です。マーモの件も視聴者はこれが自作自演で彼女の心性になんら変化がないことが分っていますが、そこまで分っていないマナ達はもしかしたら心変わりしたのではないか、どう対処すべきかと考えを巡らせています。非常に柔軟で現実的な反応。現実をどう受け入れ、アクションしていくか。この思考と決断のシークエンスが本作の特徴でありマナ達の自立性、現実検討能力を高めています。
ありすは別のことで頭がいっぱい。セバスチャンは車の中で独りマーモの痕跡を調べます。発見。
③守る力
美容店を訪れたマーモは知名度の高さを利用してタダでサービスを受けます。ちゃっかりしてる。
そこに現われたのが西洋甲冑に身を包んだセバスチャン。コミューンを返せと要求するとマーモはすぐに理解します。勿論返す気はありません。戦闘開始。終了。「やらせはせんぞ」は負けフラグです。ドズル閣下の教訓はいつになったら活かされるのでしょうか。
一足遅くありすが現場に駆けつけます。
申し訳ありません、と頭を下げるセバスチャン。状況としては彼の独断と失態。しかしありすはセバスチャンが何故そうしたのか正しく理解し、彼に頭を下げます。セバスチャンはお嬢様は最高のご主人様だと意気込んで机を叩きます。溢れたお茶を熱がります。そんな姿を見てありすは笑みをこぼします。このやり取りを見てもセバスチャンのこうした姿はありすにとって珍しいものではないことが分ります。身内だからこそ知っている姿。
子どもの頃からセバスチャンが自分を守ってくれたと述懐するありす。優しいセバスチャン、大人げないセバスチャン、間抜けなセバスチャン、どれもありすがよく知っている人の姿です。そんな彼にありすは誇らしげな視線を向けます。やはりこの子は大人だ。自分が愛されていることを正しく知っている。そして自分がその人を愛していることも。
「今度は私があなたを守る番ですわ」
その言葉にセバスチャンは申し訳ないような表情を浮かべます。主人に気を遣わせている自分の至らなさを悔いているのでしょう。それはそれとして、今回ありすもセバスチャンもお互いを好きだとか大切だとか直接的な発言はしていません。全て表情や行動による演出で語っています。彼女達の関係からすれば自然で正しいやり取りですし、また愛情とはこのように行動によって証明され伝わるということでもあります。
遊園地のヒーローショー。子ども達の歓声。
そこにキューティマダムが乱入。マダムの姿を見て子ども達はさらに歓声をあげます。子どもにも大人気。その声に自尊心が刺激されるマーモ。さらに欲目が出てヒーローまで襲ってしまいます。それを見た子ども達はドン引き。泣き出します。マーモが示唆しているのはちょっとしたボタンの掛け違い、思い込み、間違いです。彼女は人からチヤホヤされたいジコチューを持っている。これを正しく叶えることができれば彼女は正真正銘のヒーローになれるでしょう。それに彼女が気づけるか、どれほどの時間を要するかは分りません。私に言わせれば、世間の大半の人、私を含むほとんどの人はマーモと同じです。自分のジコチューをキチンと把握せず、その正しい実現方法を知らないままに、または知っていても面倒臭がって正規の手続きを踏まずに行っている。基本的に愛を育むことや正しい自己実現とは面倒臭いのです。大抵の人はこの面倒臭い手続きを省略するか、それ自体に気づいていません。ここに問題があります。私が言いたいのはジコチューには悪意があるのではなく、無知・無視・身勝手・自己正当化・思い込みがある。だから好意があっても人を傷つけることがあるのです。マーモは悪意があって人を傷つけているのではありません。彼女なりの身勝手な論理によって正当化されていると推測されます。こうした謎理論は日常の中でよく見られます。自分は~をしたんだから~の分は帳消しだ(見合った報酬を得るのは当然だ)って勝手に自分の中で帳尻を合わせたことが誰しもあるでしょう。
この力は全て私の欲望を満たすためにあるのよ!と実に分りやすいことを言うマーモ。
であれば私は鬼にでも悪魔にでもなるとありすは立ち向かいます。悪意が無い者に対して、敵意を向けることは正義たり得るのだろうか。無知な者に必要なのは教師なのではないのか。これはシリーズをとおしてのテーマにもなっています。ちなみにハートキャッチは大幹部とのバトルで相手のジコチューを完膚無きまでにぶちのめすという荒療治が取られています。自分のジコチューの限界に気づき、より高次の目標へと視線を向けることができるかどうか。
キュアロゼッタ単独変身。なにこの前回との差。黄色贔屓に定評のある東堂いづみ。黄色の変身バンクの力の入れようが改めて分ります。
ロゼッタは肉弾戦を仕掛けます。普段盾役ですが肉弾戦も強い。突風で動きが止まります。マナ達が駆けつけ、スパークルソードで突風を相殺します。使われ方が地味というか、最早必殺技でなくなっているところにソードさんの位置づけが見て取れます。
コミューンを返せと要求するロゼッタに、もう名前を書いたと答えるマーモ。小学生かよ。
それならば力尽くでも止める、セバスチャンのためにとロゼッタは意気込みます。人工コミューンは彼が彼女のことを思いやって作ったもの。それを悪用されることはふたりの絆、想いを悪用されるのと同じです。これはありすとセバスチャンの名誉を守る戦いです。溢れ出るオーラ。パターン入りました。
「愛に気づいたようですね、キュアロゼッタ」
亜久里が岩のセットの上に立ちます。登っている姿を想像すると吹き出しそうになります。
「あなたは守り、守られている」
「プリキュア5つの誓い。1つ! 愛することは守り合うこと!」
「いかなる時も守り合い、愛を貫きなさない」
これはとても分りやすく順序だった訓戒ですね。これまでマナ、真琴は悩むことで自分の殻に閉じこもり他者の声、姿が見えなくなるジコチューに囚われていたわけですが、ありすは自分でそれに気づき自覚的にセバスチャンを守ろうとします。他者に対する思慮分別。これが守り合うということに繋がっています。しかし同時にそれは閉鎖的な関係、利害関係を生むことにも繋がっているわけで、身内を傷つける奴は敵として認知されやすくもなります。無論これにも積極的な意味で悪意はないでしょう。私の理解では人が人を傷つける理由の半分は悪意ではなく好意の転嫁(相手に対する愛が憎悪に変るのも含まれます)によるものです。だから私は愛だとか、愛が人を救うだとか簡単に言う人のことを信用しません。愛に含まれる攻撃性、人が愛を唱えるときの自己正当化の欲求と傾向は抗いがたい誘惑で、これに打ち勝てる人間は滅多にいません。自己正当化を弁護するものとして愛の右に出る言葉は無いでしょう。これもシリーズ的なテーマとして扱われていて、スイートでもプリキュアの力とは守る力だと言われましたが、具体的な内容は他者と絆を育むこととして理解されます。つまり敵と友達になればいいじゃん、という話し。本作でもレジーナとの関係がそれを象徴しています。事ある毎に繰り返し繰り返し言っていますが、プリキュアはシリーズの内在論理を作品毎に違うアプローチで取り組みながら深掘りしているのが特徴です。また、それが再生産的ではなく、より高次の論理を引き出す形で集大成的に進んでいるのも大きな特徴です。よく訓練されたプリキュアファンはこれを楽しみます。
エースに変身。自分の変身は単独ノーカットで。この子は隙がない。
変身完了と同時に必殺技。流石エース、誰が主役だろうが知ったことじゃない。今回は黄色く光ります。やはり担当回に合せているようです。ちなみに玩具も色が変わるそうです。
マーモを拘束。ロゼッタに浄化を譲ります。防御技なんですが。案の定マーモがビーム。それを防いで吸収すると反射して攻撃。人工コミューンスーツを破壊します。パワーアップしたことが分るロゼッタさんと、おこぼれをもらっただけにしか見えないソードさんのこの差は一体なんなのでしょうか。プリキュア内格差が深刻です。
あのキャラ気に入っていたのに、と言い残して撤退するマーモ。色々と今回酷い。
「あなたは温かく、そして強い子ね」
すげぇ評価されてるよ。当然の評価ではあるんだけど。セバスチャンは彼女の成長に瞳を濡らします。
セバスチャンにコミューンを壊したことを詫びるありす。あんなものお嬢様には必要なかったと答えるセバスチャン。ありすは彼が淹れたお茶を味わいます。
「末永くよろしくお願いしますわね」
「こちらこそ」
④次回予告
正妻に不倫疑惑。来週も見逃せない!
○トピック
だから次回予告で全部持っていくのやめてください。1話の中で3回も戦闘場面がある珍しい回。
ありすとセバスチャンの心温まるエピソード。最早キャラ崩壊と言えるセバスチャンですが、彼の姿はとても温かく力強いものだと思います。必死になっている人はどこか滑稽です。そしてそんな彼を愛し誇るありすはとても大人です。
前回からの関連として、愛は与えるもの。そして今回は愛は与え、与えれるものとして自己と他者の相互性に言及されています。これによって愛とは自己と他者を相互に結んでいる必要があると作中でも明確になっています。ここまでならよくある友情、家族愛などの閉じた関係性として処理できます。実際、ありすはセバスチャンを守るためだったら相手を倒すことも厭いません。勿論これはプリキュアロジック的にここで終わってはいけないものです。愛の名において敵をぶちのめすのはただの強者の論理です。愛は与えるものと定義されている以上、その条件にカッコ付きで「(身内だけに)愛を与えるもの」とするのは大きな矛盾です。この「身内」と「それ以外」の意識の壁をどうやって突破して相手にも愛を与えていけるかが近年のプリキュアの大きなテーマとなっています。
また、調和型のありすに必要なこととして愛する人を守る力というのが課題にもなっています。これは13話(コンテスト)のエピソードと同じ話で、大切な人を守る、愛を貫くためには力が必要だという認識です。この力というのが物理的か精神的かといえば両方なのでしょうけど、愛には行動力が伴っていなくてはならない。口だけの愛は無力。そしてそれは理性によってコントロールされなければならない(子どもの頃にありすが暴走したのはダメ)…とまとめられるでしょうか。プリキュアの女の子達は子どもですが、いつまでも守られてばかりの子どもではなく、人を愛し、時には厳しい現実や弱さに打ち勝っていく力を持ったたくましい少女であるというメッセージが含まれています。
人を愛すること、愛されること、他者と結びついていく中で発揮される力、そのための力がプリキュアに必要なこととしてエースは明確化を行っているわけですね。
そういうわけで、マナ、真琴、ありすのエピソードの共通項として自分を守ってくれる人の存在に気づくことがあげられます。人のために前に進む、人に与える、人を守る。近しい人の愛情に気づくお話しがメインでした。そして次回。ジコチューと愛が次第に曖昧に、どちらにも行き来するものへと変容(情報開示)しつつあります。良い流れです。ゾクゾクしますね。
第24話「衝撃!まこぴーアイドル引退宣言!」
①変身前は子ども、変身後は大人、毒舌円亜久里
スタジオ収録。真琴は歌い終わるとため息をつきます。
楽屋でダビィがコンサートのチケットが完売したこと、追加公演の話しを持ちかけます。しかし真琴は気乗りしません。歌ってていいのかと自問。王女さまを探すために歌っていたが結局役に立たなかった。そう話す真琴にダビィは大勢のファンがいる、みんな楽しみにしているとフォロー。ですが真琴は思い詰めた表情のまま。
ぶたのしっぽ。話題は当然キュアエース。とても強い謎のプリキュア。トランプ王国に残っていたのはソードだけ。出自不明です。一体何者?と訝る六花。画面がくるくる回ります。珍しい演出。おそらく真琴だけ考えていることが違うことを示唆するためでしょう。分っていることは変身前は歳下ということ。前回同じくらいかと思ってたんですが、確かにマナより背丈が小さい。
「小学校3年生くら…」
「4年生です」
本人登場。流石に9歳のアコを下回ることはありませんでしたが、平均年齢をグッと下げます。ちなみに変身後は柴田Pのインタビューによるとハート達より1個上(15歳)だそうです。キュアエースさんじゅうご歳。あんな貫禄ある15歳なんているものか。
本人を前にして言葉を失うマナと六花、真琴は心ここに在らず、そしてありすはいつものマイペース。
「こんにちは。私の名前は円亜久里ですわ」
これまた難しい名前持ってきたな。真琴はようやく亜久里の存在に気づいたように視線を向けます。
亜久里の姿を認めるとアイちゃんは早速彼女の元へ。すっかり懐いています。一通りスキンシップとったところで、亜久里は厳しい表情を浮かべてマナ達に呼びかけます。「はい!」と同時に答えるマナと六花。このふたりは似ているところがあるのは以前学校でも描かれていましたね。「これはなんですか?」マナ達が食べていたケーキを指します。セバスチャンが作った桃のロールケーキだとありすが説明。セバスチャン何でもありだな。これで足りないのはプリキュアになることだけ。…と思っていた時期が私にもありました。その間にもセバスチャンは亜久里の席をセッティング。
臆することなく亜久里は椅子に座るとケーキを一口食べます。すると壮大なリアクションが始まります。
「おいしい~。ほどよく焼き上がったふわふわのスポンジ。濃厚ながら甘すぎない生クリーム。惜しげもなくふんだんにちりばめられた旬の桃。全てが優しく抱き合って爽やかな初夏を感じます。これは…愛のハーモニー!」
出る番組を間違えていると思います。自分の世界に没入しているのかマナの頭を抱いています。この子といるとすげー疲れそう。六花はたぶん「しまった!その手があったか」とか思ってそう。
呆れるマナを余所に、ありすはスイーツが大好きなんですね、と状況を冷静に観察。この人の突っ込まないスキルは一流やで。
亜久里はセバスチャンを褒めます。身長差すげー。
という褒め言葉は前座。真琴にお前はほんとにプロか?と問い詰めます。正直昨日テレビで見た歌はガッカリだと言います。本当に正直だね。そう言われて何も言い返せない真琴。心当たりがあるのでしょう。マナ達が真琴のフォローに回ります。その間にも亜久里はケーキを口に運びます。世間の評判は知らない。昨日のあなたの歌からは一欠片の愛も感じなかった。感じたものは迷い。口にクリームがついていることなぞつゆ知らず(あるいは知っていても)迷いなく断言できるその度胸を見習いたい。図星を指されてさらに押し黙る真琴。プロとして恥ずかしくないのですか?とさらに続けます。亜久里さんマジ容赦ない。
マナはまこぴーは頑張っている、歌いながらプリキュアもやっていると反論。するとプリキュアとしても半人前、自分が助けなければあなた達は負けていた、全てが中途半端だと返されます。亜久里がこのような性格で物語に入ってきたことの意味は大きい。彼女はストレートにマナ達の甘さ、弱さを指摘している。それはややもすると友達関係、身内意識が働く関係性の中では批判されにくい要素で、成長や発展の妨げになりかねない。例えば会社でも転勤で違う部署から来た人に「このやり方違うんじゃない?」とか「こっちの方がいい」と指摘されて初めて仕事のやり方に疑問が入ったり重い腰があがったりしますね。亜久里は実践的です。つまり「頑張る」ことはもはや評価対象ではない。結果を残すことがそうなのだと言っている。「僕だって頑張っている」が許されるのは学生まで。社会人は成果を上げてナンボ。頑張って成果が出ない奴より怠けても成果だせる人の方が重用される。実際怠けているように見えてもそれはその人の効率性、要領が良いからです。私が見るところでは要領の悪い人はおしなべて決断力に乏しい。判断することが苦手で迷うことが多いらしく物事を停滞させて結果して仕事量が溜っているように見えます。しかも迷っている時間に仕事の精度が比例しない。だから私は時間効率をある程度意識して決断するようにしています。人に訊いてもいいし、進めてしまってもいい。重要なのは仕事の密度を上げること。そしてとっとと家に帰る。常に定時退社を心がける。仕事なんてやってらんねー。早く帰ってプリキュア見たいじゃないですか、録画で何度でも。
亜久里の直言に何も言い返せないマナ達。図星だし何か言い返そうモノならその倍で返ってきそうです。ケーキを食べ終わって口元を拭くと、亜久里は退出します。突然現われてケーキ食って言いたいこと言って帰って行く。どんだけこの子自分のペースで生きてんだ。
夕方。真琴を見送るマナはコンサートを楽しみにしていると声をかけます。しかし真琴は自分はプロ失格、エースの言ったとおり最近ずっと迷っていたことを認めます。王女さまが見つかった今なんのために歌うのか。動機の喪失。歌手をやめると言います。この子は根が真面目過ぎるのか、融通が利かないところがあります。割と自分の考えにはまり込む。以前はマナにプロの姿を見せていた彼女ですが、今はそのプロとしての自覚も動機も失っています。
②愛を取り戻そう作戦
真琴の登校を狙ってマナはスタンバイ。なにやらお面を準備しています。まこぴーに歌わせよう作戦実行。付き添っている六花は終始胡散臭い目で見てます。マナは王女のお面を使って真琴を説得。「マナ、なんのつもり?」。王女さまから止められれば思い直すんじゃないかと思ったそうです。それどうなの?と思うところですが、後々マナの読みそのものは正しかったという事実が判明します。
なんでバレたの?と訊くマナもマナですが、まこぴーなんて呼ばないと答える真琴も真琴。「いや、他にも色々無理が…」と常識人の六花は言葉を失いかけます。ツッコミ力が試される場面です。
今度は下校を狙ってありすが仕掛けます。オーケストラ召喚。四葉フィルハーモニー管弦楽団による生演奏だとありすが言います。これだから金持ちは。
周囲の生徒達の注目も集まり真琴は逃げるよう去っていきます。六花はそろそろ頭痛がしてくるのではないと思えます。ツッコミはするけど具体的に何か行動として起こさない六花は六花らしい。
ジョギングする真琴。腰に付けたコミューン状態のダビィが悲鳴を上げています。まあ、大変だよね。ジコチューに負けない体力作り。赤ちゃんの泣き言と音程がズレた子守歌が聞こえてきます。マナとアイちゃん。真琴に気づいたマナは子守歌を歌って欲しいと頼みます。アイちゃんを引き取ろうとした真琴の腕が途中で止まります。立ち去ろうとする真琴に楽しくなかった?とマナは言葉を投げかけます。歌っているまこぴーはいつもとっても楽しそうだった。それを見ていると胸がポカポカして楽しくなった。しかし真琴は歌っている暇はない、プリキュアとしての自覚にかけると言い残して立ち去ります。自分自身への批判が投影されています。
ダビィはやりたいことをやって欲しいと言います。ダビィは常に真琴にとって良き選択が成されることを望んでいます。
アジト。ボウリングのピンを切ったり、ボールを食べたり。野蛮だと言うマーモに知っててやっているとおちょくるリーヴァとグーラ。元プリキュア担当3人との間に壁が出来ています。王女さまでも探してこい、キングジコチュー様の命令だと言われれば返す言葉もありません。渋々ベール達は出動。リーヴァはテレビに映る真琴に目を付けます。
コンサート当日。たぶん四葉スタジアムとかそんな名前だと思いますが、その楽屋で真琴がまだ来ていないことを知るマナ。この3人はありすのコネかダビィの計らいで関係者枠で来ているのでしょう。真琴捜しを始めます。
真琴はスタジアムの近くのベンチに座っています。動機の喪失、自身の無力感、今やらなければならないこと、その迷いと圧力が彼女の足を重くしています。
バタバタした雰囲気を察したリポーターは控え室に突撃しようか迷います。もしかしたらスクープが狙える。それはルール違反だと思い直したところでジコチュー化。
ステージに立つリーヴァ。ジコチューも登場。ジコチューは観客にジコチューしてるかと訊きます。イェーイ!とリーヴァ。当然のことながら観客は戸惑って無反応、そんな客に向かって音波攻撃を行います。いつも思うんですが、ジコチューとの戦いの痕跡は修復されるとして、巻き込まれた人達はどう思っているんでしょうね。
マナ達が変身して迎え撃ちます。ダイヤがスライディングで体勢を崩し、ハートが打上げ。お、強い。場外へ。
ジコチューが殴りかかろうとして寸止め。ハートに恋人はいますか?と尋ねます。呆けるハート。ここでいますなんて言ったらダイヤさんはドキドキでしょうけどね。続いてダイヤにテストは何点だったか尋ねます。ロゼッタには貯金額を尋ねます。これは一番気になる。「さぁ?数えたことありませんわ」。ですよねー。
ちゃんと答えない3人を殴ります。質問攻めに困惑するダイヤ。プライバシーの侵害だと言うロゼッタ。一番説得力の無い人が言ったよ。ということで、捕縛されます。時間稼ぎと活躍させたい人を出したい時の常套手段。
③愛とジコチュー
戦闘に気づいた真琴がスタジアムに辿りつくとアイちゃんと接触。新しいラビーズ。早速ダビィは使えと指示。「ダビデ、ダビデ、ダビィ!」が合い言葉らしい。ビビデ・バビデ・ブーが元ネタでしょうか。
鏡が出てきます。王女の姿が映り真琴を呼びます。復活したわけではなくアイちゃんの力で会話できているようです。一応これは王女本体は凍結されたままで、肉体的な縁は亜久里と切り離されているということを示唆してもいるでしょうか。益々アイちゃんが何者なのか疑問が強まります。
王女は真琴の歌が届いていたと話します。孤独な自分を励ましてくれていたのはあなたの歌だった。胸がポカポカして元気が出てきた。ありがとう。その言葉に真琴は感銘を受けます。まだ目覚めることはできないが傍にジョナサンがいてくれるので自分は大丈夫だと真琴の心配を和らげる言葉をかけます。「これからは自分のために歌って下さい」「昔のように楽しみながら」「あなたが楽しいと私も嬉しいわ」。
真琴は涙をポロポロと溢します。ダビィはみんなが真琴の歌を待っていることを話します。真琴に抱きしめられながらダビィは応援すると言います。不謹慎な話しですがダビィがいなくなったら真琴は王女さまがいなくなる以上のショックを受けるだろうと思います。ダビィほど真琴のことを常に気遣い、励まし、肯定してくれた存在はいません。もはや半身と言っていい。妖精は往々にしてイマジナリーフレンド的なニュアンスがあるものですが、真琴がダビィを必要としなくなったその時が真の自立のときであり、彼女が指導者(誰かの支えとなる立場)となるときであるような感じがしますね。
ちょっと余談が過ぎましたが、真琴が人間界に来て直接王女の声を訊いたのは今回が初めてです。このとき、真琴はどれほど安心したか、苦労が報われたか、王女の優しさを改めて感じたか、励まされたか。孤独は人の心を蝕む。自分がしていることの意味を確認したい、それが意味あることだと承認されたい、自分は必要とされているのか、人にどう思われているのか知りたい。それは人の根源的な願いであり渇望とすら言えます。孤独ではそれを満たせない。答えのない不安ばかりが心を満たしていく。真琴は今、彼女が一番求めている人の一番求めていた言葉を訊くことで自分の存在が肯定されたのです。きっとこれはマナにもできなかったことでしょう。いみじくもマナは本質を見抜き身を以て示したのです。人の代りにはなれないことを。真琴にとって王女は姉のような存在で、言ってみれば家族的な関係、心的繋がりだろうと思われます。こうした近しい人からの承認行為は人の自尊心を育む上で重要な養分になるでしょう。真琴は王女のために文字通り身を粉にして働いてきた(今もそうしようとしている)わけですが、それではいけないこと、自分自身の望みもまた自分で叶えて良いのだと気づきます。真琴は王女限定の幸せの王子(ダビィはさしずめツバメ)なわけですが、それは正しい愛の形ではないと本作はハッキリ断言しています。愛とは人を縛る鎖にもなることを忘れてはいけません。
なお、近しい人から承認が得られない場合は代替するしかありませんが、これによって本当の充足を得られるかは難しいところで、また時間もかかるようです。だから普通は自分の願望に目をつむり、他者の言葉を聞き流し、見て見ぬふり気づかぬふりをするのです。鈍感になることが自分を傷つけないもっとも楽なやり方だから。狡猾な自己愛は自らを詐称する(こう書くと悪い印象があるでしょうが、適応・順応力の証しでもあります)。たまにそれでは誤魔化しが利かなくなってものすごく面倒臭いことになる人もいます。
戦闘再開。ピンチのプリキュアを救ったのはソードの刃。ソードはみんなにお礼を言います。自分のために戦ってくれていた人へのお礼。これは前回のマナに対する真琴達の計らいと同じ構図ですね。人は迷ってしまうとどうしても視野狭窄に陥ってしまう。それが悪いというわけじゃない。それは人の仕様上どうしようもないことです。だから重要なのはそうやって自分を支えてくれる人への感謝を持つことと、自分が他者の支えになることを知ること。この際自分の無力さ、自己中さは認めるべきだ。その上で人がそれに陥っている時に力になってあげればいい。プリキュアのこうした開き直りが好きです。
「プリキュアなのにどうして歌っているんですかぁ? それでもプリキュアですかぁ?」
小学生かよ。
「私は歌うプリキュアよ!」
開き直りました。
歌ってなんの役に立つ? なんの役にも立たないと言うリーヴァ。
役に立たないかもしれない、無意味かもしれない、でも楽しかった、嬉しかったと話すソード。
「私は歌うことが好きだから、だから歌ってきたの!」
「歌いたいから歌うなんてずいぶん自己中ね」
「そうね」
「でもこんな私を応援してくれる人がいる。だからその人達のために、自分のために、私は歌う!」
見事だ。見事に言い切った。この問答待ってました。人の願いはジコチューである。であるならプリキュアもジコチューなんじゃないのか。ジコチューでないとどうやって証明するのか。証明なんてできない。その必要もない。人が自己中なのは当然だから。おそらく自己中であるかどうかは大した問題じゃない。それは人の前提だからだ。その人の自己中が正当なものとして認められるか否かは別なところにある。
ソードの全身をオーラが包み込みます。
「愛に目覚めたようですね、キュアソード」
亜久里がソードの隣に現われます。こういうパターンらしい。っていうか、ここスタジアムの上なんですがどうやって来たんですか? ハシゴとか登っている姿を想像すると思わず吹きそうになるんですが。
「プリキュアの力は愛から生まれます」
「大好きなことをひたむきに続けること。それも愛なのです」
言い切った。プリキュアマジぱねぇ。自己愛もまた愛。
「迷いが愛の力を妨げていましたが、あなたは迷いを乗り越え新たな力、さらなる大きな愛に目覚めた。お見事です」
「プリキュア5つの誓い! 1つ! 愛は与えるもの!」
「あなたは歌で世界に愛を与えていた。これからも世界に響かせて下さい愛の歌を」
自分の持っている大きな愛を、大好きなものを人に分け与えていきましょう。もっとも、世の中に蔓延する悲惨と悲劇の合い言葉は「あなたのためを思ってやった」でしょうけど。自分の行為を正当化するために使われる愛は果たして愛なのだろうか。それは自分で省みることができるものだろうか。自分がやりたいと思っていることを人はやめられるのだろうか。っていうかなんでそんなこと考えなきゃいけないの? 自分の自己中に従ってダメなの? 「一杯のお茶のためには世界が滅びたっていい」という自己の発する願いは否定されるものなの? これを克服する倫理なり道徳は如何にして提示し得るか。ずいぶん前から言ってますが、これは私が自分に設けている問いの1つです。この問いに答えられない思想や哲学はジコチューに敗北する。私は自己中心的で個人主義な人間ですが、だからこそ自分を律し高めるものを欲する。
エースに変身。今回ソードの単独変身を期待したのですが、そんな尺はエースが認めない。ちなみにソードの変身はフルで通したことがありません。5話で変身したときは途中でハート達のリアクションが挟まれていて純粋な単独変身フルバンクは本編で使われていません。
ジコチューの好きなスイーツはなんですか?という問いに蹴りで答えます。
ここは自分のステージだと言うリーヴァに独りよがりなステージは迷惑だと答えるエース。
「あなたの行為に愛は感じませんわ!」
お前の行為にも愛を感じねーよ。そのまま必殺技発動。今回の口紅は紫色。これはその回のキャラカラーに合わせて変更されるものなんでしょうか。ジコチューの動きを止めてソードにトドメを譲ります。水を差し向けられてそれまで呆けていたソードも仕事します。どう見ても今回の主役は真琴で、ソードが活躍すべき場なのにその機会を奪うエースさんがガチでジコチューな件。お前どんだけ出たがりなんだよ。亜久里(エース)が登場するだけで話しの向きが全部そっちに持ってかれる。ツッコミどころありすぎだろこの人。
真琴のステージが始まります。歌でみんなをこんなに笑顔にできるとマナは感激します。笑顔をジャネジーを消していくと六花。歌で世界を救っているのかもしれない。
最後尾で亜久里は真琴の姿が見えなくてもその歌で彼女の在り様を感じます。
④次回予告
本編の内容忘れさせることに定評のある次回予告。このネタ通した責任者を呼べ。
○トピック
貴重な個人回の出番すら奪うキュアエースのジコチューぶりにいずれ作中でもツッコミが入るんじゃないかと思えてきました。ありすのプライバシー侵害発言並に酷い愛の伝道師です。お前らどの口で言ってるんだ。
プロとして活動している真琴がその動機を見失うお話し。これは真琴が歌を歌っていた理由、作中でも語られたようにその歌が王女捜しには役に立たなかったことを鑑みれば自然なエピソードです。ざっくり言えばこれも1つの挫折のお話し。自分の無力さ、無意味さ、続けることの意味を失う。またこれには王女と会いたい気持ちが強い真琴が王女と会えない(気持ちをやり取りできない)ことによる孤独も関わっています。つまり真琴はこれまでやってきたことに対して承認されていなかったのです。大勢のファンの応援があっても、それは真琴の生の姿、意思を知って尊重されているわけではありません。さらに厄介なのは真琴にとって王女の比重があまりに大きいので王女以外の肯定、承認は彼女の渇望を満たすに足りないものであったことです。マナ達の言葉ですら彼女の心には届いていません。これはとても大事なことで、人は誰でも良いから肯定されたいとは思っていないということです。特定の承認者、承認する相手によって心の響き方が違う。これは当たり前のことなんだけど、案外見落とされやすい点です。よくあるのが勉強もできてスポーツもできてみんなから認められているけど、肝心の親から認められなくてそれがコンプレックスになる、なんてのがあります。友達だからといって問題を解決できるとは限らない、問題の核心が違うところにある場合人は無力になる、というのは本作らしいシビアな人間関係の見せ方だと思います。
また、この手の話しは「自分がやりたいこと」と「自分がやらなければならないこと」の兼ね合いの話しでもあります。これに対する答えはシリーズとおして一貫していて、やりたいことはやれ、です。子ども番組なので子どもの可能性や自主性を伸ばすのは当然の発想でもあるし、自分が好きでやり始めたことが人から支持され、次第にそれが自分にとっても他者にとっても求められる「やるべきこと」となったとき、つまり自分の願いと他者の願いが合致したときに人は大きな充足、社会性を実現する。
今回のポイントはなんと言っても、ジコチューである敵からジコチューと指摘されて、それを肯定した点にあります。自分がやりたいことをやるのは自己願望の実現なのだから自己中です。それに言い訳をせずに、自分のために歌うという結論が支持されている。しかもそれを愛だと言い張っている。これまでもジコチューは人間の根底にある願望で、プリキュア側もジコチュー側も持っているとこの感想で書いてきましたが、公式見解として明確化されたことは大きい意味を持ちます。本質的にジコチューと愛は同じもの。では何故その同じモノがジコチューと言われたり、愛だと言われたりするのか。この違いは何なのか?というところに本作の洞察が深掘りされていくだろうと思います。非常に面倒臭く、子ども向けにこれをどう書くか作り手の力量が試される。この問いを堂々と持ってくるプリキュアはだからこそプリキュアです。常に前進し続ける物語。これがこのシリーズの魅力。
他人のために尽くすことだけが愛ではない。それを突き詰めれば自己犠牲に陥る(人を愛という名の鎖で縛る、あるいは自らを縛りつける)。自分のために行うことも愛である。しかし他者性を失ったものはジコチューと呼ばれる。愛とは自己と他者を結び包括するモノであると言えるかもしれません。ではそれを失ってしまった人達が愛を取り戻すことはできるのだろうか。失った人達はどうなってしまうのか、本当にそれは必要なものなのだろうか。この問いはキングジコチューとレジーナの関係を占う点でも大きなテーマとなりそうです。
第23話「愛を取り戻せ!プリキュア5つの誓い!」
①知らない人がラビーズを持っていきました
前回のあらすじ。
カテジーナ「トチ狂ってお友達にでもなりに来たのかい?」
キュアエースと名乗る知らない人登場。
ということで、全体的に赤い人登場。外見的に王女に似ていますが真琴やダビィは突っ込まないようです。内心では「まさか王女さまがいい歳こいてプリキュアの格好するわけがない」「プリキュアが許されるのは中学生まで」とか思ってるんだけど、もし当たったら色々痛いことになるので口に出せないのかもしれません。え、高校生のプリキュア? なんのことだか、さっぱ……おや、誰か来たようだ。
カテ、もといレジーナはエースを見るとムカムカするようです。相手は見るかに年かさ。にもかかわらずあんな派手な衣装。それに引き替えこちとらイカ墨に一晩漬け込んだんですかって感じの衣装。年頃の女の子としては忸怩たる思いなのも頷けます。
先制。爆発。地形が若干変ります。結構厄介な火力です。勝ち誇った表情を浮かべそうになったところでエースの反撃。ギリギリかわしますが、当たってもいない砂浜が大きくえぐれます。こっちの火力も酷かった。
エースは運動性能も高くレジーナを翻弄。レジーナは力に頼った戦い方で、エースは技を使っているという感じですね。ところで、マーモとベールは何くつろいでるんですかね。
必殺技バンク。はい来ました口紅型新商品。女児の大人になりたい願望、お母さんの真似したい願望を商品化。
「彩れ! ラブキッスルージュ!」
単品価格は3,675円です。なお、変身アイテムのラブアイズパレットは3,990円。この二つのセット商品は7,665円となっておりまして大変お買い……得でもないな(思わず値段二度見した)。
新キャラ登場に合せてBGMも新規。
「ときめきなさい! エースショット!」
「ばきゅ~ん!」
いやいや、最後のかけ声いらないだろ。っていうか、お前ほんと歳いくつだよ。ちなみに字幕だと「ばきゅ~ん」なんですけど、声を訊くと「どきゅ~ん」って聞こえますね。個人的にどきゅ~んの方が色々ぶっ飛んでて好きです。
レジーナに直撃。ボロボロです。流石愛の切り札、愛も容赦もない攻撃です。
マナは傷ついて倒れたレジーナに駆け寄ろうとします。しかしレジーナはプリキュアに敵意をむき出しにします。撤退。マナは身も心もボロボロ。
泣き崩れるマナ。泣けばあの子が戻ってくるのか。そんな彼女にエースは厳しい言葉をかけます。立ちなさい、立ち止まっている余裕などない、とさらに続けます。突然現われて容赦ない言葉をかけてくるエースに六花達は反発します。ありすはマナが傷つけられることに関してはかなり敏感ですね。
「プリキュア五つの誓い!」
「一つ、プリキュアたる者いつも前を向いて歩き続けること」
「もっと強くなりなさい」
見方によってはすげー良い人なんですけどね。助けてくれて、指導までしてくれる世話好きな人なので。今まで作中でプリキュアだったら~する、みたいなのはニュアンス的にあったんですがこれを明示してくるのは分りやすく、また明示すれば嘘がつけなくなるので自分でハードル上げてますね。まあ、すでにレジーナ関連でハードルが異常に高くなっているんですけれども。
無理だ、これ以上強くなれないと弱音を吐くマナ。この件、というかマナがレジーナの問題をどのように捉えているかは正確に分らないところですが、基本的に彼女がレジーナに対して行ったことは友達として出来る範囲の中ではほぼ限界値だろうと思います。相手を常に友達だと思い真摯に接する。実際これでイースやセイレーンの心をこっちに持ってくることができました。同時に彼女達に住む場所も与えてきました。敵を味方にする手段と手順に関して本シリーズは意識的に行っていて、ドキドキにおいても同様の手法が用いられています。キングジコチューの横槍がなければレジーナはマナの家で過ごすことになったはずです。が、本作ではこれをバッサリ切りました。幼い子どもから父親を引きはがすことなんてできるのか、引きはがして解決する問題なのか、と。レジーナの精神年齢から察するにこれは危険を伴います。事実レジーナは自分が抱えた気持ちを理解できずにいました。それはストレスとして、言いしれぬわけもわからぬ不安や葛藤として彼女を苛むでしょう。マナはレジーナのそうした心の内に気づいていませんでした。そもそもたかが友達風情が人の家の親子関係に首突っ込んで勝手に娘さらっていくことがまかり通るわけないのです。連れ戻されて終了(現実的には児童相談所を経由させるしかない)。はじめからマナのやれることには限界があって、まさに今彼女はそれにぶつかったわけです。そしてこれを以てプリキュアは次のステップに入ります。この複雑に絡み合った関係、親子関係、傷つけられる子どもを如何にして救い出すことができるか。それはプリキュアの友達ロジックで解決可能なのか。この物語は立ち止まらない。それはそうと、六花さんの太ももがたまらない。
エースはマナからラビーズを奪います。愛を取り戻すまで預かる。アデュー、と言い残して颯爽と立ち去るエース。この人、よほど自分のキャラに自信と熱意があるらしい。
マナはエースの言葉を認めます。自分にはプリキュアをやる資格がない。マナは何も悪くないと六花も泣きます。ああ、そうか、後のシーンを見てもそうだけど、このメンツでマナに厳しいことを言えるのは真琴くらいだな。その真琴もマナに肩入れしているし、現状でほぼ「4人」と括れつつあるから、初期の頃のような緊張的な関係は難しい。おそらく六花とありすはマナに厳しいことは言えない。だって彼女達は常にマナについてきた子達だから。マナの努力や熱意も知っている。それだけにムチ打つことはできないでしょう。ここでエースという部外者が入るのは正しい。
トランプ王国。レジーナは父の元で眠りにつきます。レジーナ問題は一旦保留。エースについてはキングジコチューも知らない様子。
ということで、新キャラ。リーヴァとグーラ。今更ですが幹部の名前は七つの大罪に因んだものが付けられているそうです。例えばイーラは憤怒(ラテン語ira)、ベールは怠惰(悪魔ベルフェゴール)というように。リーヴァは嫉妬のレヴィアタンがモチーフでしょうか。グーラはまんま大食漢。
新キャラは強い、の法則に則って彼らは今までに3つの世界を手中に収めてきたそうです。イーラはどうせサルしかいない星だろ、と軽口を叩きます。人事異動の季節、プリキュア殲滅はこのふたりに任されます。歯ぎしりする3人。
②知らない人が声かけてきました
商店街はお祭りムード。ドキドキはシナリオ的にギッチリ詰めているせいか、通常ならお祭りをネタに一本話しを書きそうなところをこんな感じで流してしまうようです。
ぶたのしっぽも出店。そこに六花と真琴がやってきます。学校の夏服はカラーリングが変るようです。味見という名のお裾分け。マナは部屋に籠もったままご飯も食べていないようです。何かあったのかと父が尋ねます。マナがふさぎ込むのは滅多にない。詳しい事情を話すわけにいきません。真琴はきっとすぐに元気になると答えます。良い友達を持った、と少しだけ安心する両親。
キュアエースとは一体何者なのか。そんなときは四葉財閥に。「有力な情報は未だ掴めておりません」。ダメでした。相当手強いとランスも言います。ところで、絶対狙ってるだろこのアングル。
マナのお爺さんがダンボール箱を抱えて家から出てきます。荷物はフリーマーケットに出すものだそうです。マナが手伝ってくれる約束でしたが今の状態では無理。六花が手伝うと申し出ます。ありすも同意。真琴も加わります。お爺さん的に真琴の心象がどうなっているのか読めないところですが(一度料理で大ポカやらかしている)、生真面目で根は良い子という認識かもしれません。
フリーマーケット開催。変装用の眼鏡は外して堂々と品を売ります。これは酷い宣伝活動。一見真琴の品を売っているように見えて、実は関係ない人ん家の品。知ってか知らずか、大勢人が押し寄せ品物が売れていきます。そんな光景を見ながら趣旨変ってない?と六花。あ、お爺さん私が代ります。その角度ならダンボールを受け取った拍子に腰を落とせばいける。ちょっと重かったとか体勢を整えるためだったと言い訳もできる。完璧じゃないか。
人が集まれば活気が生まれる、活気がある街はみんなを笑顔にするとお爺さんは言います。ちなみに私は人が多いところに行くとテンションがダダ下がって来た瞬間帰りたくなります(実際帰ることもある)。
カーテン締め切って体育座りのマナ。絵に描いたような落ち込み。
マナの脳裏にはレジーナが部屋で遊んでいる姿が映ります。その枕六花さんが先に目を付けているのでケンカが起きそうです。レジーナの許さない、という言葉が思い返されて苦しみます。たぶん、マナにとっての問題はレジーナとの関係でしょう。本来のロジック的にはレジーナとキングジコチュー、トランプ王国との問題を解決して初めてレジーナと一緒に過ごすことが出来ることになるのですが、彼女はそこまで考えが及んでいないか、目先の問題に衝撃を受けているように見えます。いつもの明晰さを欠いた、短絡的で自分勝手な落ち込みと取ることもできます。厳しい言い方をすればマナはレジーナの本質的な問題に目を向けていません。挫折や落ち込みは自己の無力感の暴露を突きつけられることです。自分ならできると思っていた、その考えが実はただの思い込みでしかなったことを突きつけられる。ここで厄介なのは、そう突きつけられたからといって必ずしも人はそれを正しく認知するとは限らないことです。目を逸らすこともあれば、人のせいにすることもあるし、受け止めない(忘れる)こともある。無力感や瑕疵は自尊心を傷つけるのでそれを認めたくないと思うのは人の正常な心理作用です。何が言いたいかというと、このマナの苦悩は「マナの問題」なのです。マナがこの事実を受け入れるか、どうすべきかは彼女の問題です。これは彼女のジコチューとの戦いです。
話しが飛躍しますが、おそらく元ネタはシラーの詩だと思いますが「友情は喜びを二倍にし、悲しみを半分にする」というのがあります。転じて夫婦の愛などにも使われる言葉ですね。これ、私は嘘だと思ってます。少なくとも私はこれに同意しません。私の認識では喜びが2倍なら悲しみも2倍になる。人を背負うこと、人を受け入れること、人に愛着を持つということは相手との心理的同化を促すので、自分以外の問題にまで首を突っ込むことになるんだから面倒事が増える。だから半分になるなんてことはない。勿論理解者がいるかどうかで心理的負担は増減するでしょうが、人と仲良くなればなるほど感情の起伏(上下幅)が大きくなります。それが悪いなどというつもりはありません。むしろそれで良い。その起伏が人生に彩りを与え、多彩で多様な試練を人に与えていくでしょう。それが人に深みと歪みを与えるのです。この手の文を書くときに私は必ずといっていいほど悪い面も書きます。それはそうした心理作用、関係性が表裏一体だからで決していいとこ取りなどできないからです。度々書いていますが、私は他者にあまり愛着を持ちません。これによって対人関係に悩むことが無く、常に安定した心理状態を保持できますし、問題が生じても割り切れるので落ち込み時間を減らし現実処理を結果的に早めることができます。これを薄情だと言うこともできるでしょう。他の人がどういう心理特性を持っているのか知りませんが、幸か不幸か私は性格的にハッキリ特徴がでているので、この長所を最大化させることで欠点を補い、メリットを引き出します。人がその能力を引き出すにはその人の心理特性(心理的傾向)に合致し、その力が周囲にも承認された状態で自らそうすることを望んでいる必要があると思います。つまり、自分に正直になれ、それを人に認めさせろ(むしろ人から求められるくらいのレベルで)。それが出来ればみんなハッピー。私がマナに期待することはそれです。
そんなマナをシャルルは気遣います。伝説の戦士プリキュアなのだからしっかりしろとも言います。弱音を吐きそうになった刹那、家が光ります。アイちゃんマジック。部屋をノックする音。母がアイちゃんを連れてきます。これにはマナもビックリ。アイちゃんのことは知らないはずです。
映画宣伝CM。恒例の映画専用フォームがありそうです。
母曰く「あなたの妹」。ずいぶん歳離れてるな。大体魔法のせい。うーん、これは主力商品なのに主人公とのスキンシップが足りず結果して宣伝力が弱いと判断された、早い話しテコ入れなのか、物語上今後もノッポさんに持たせておくと話しに絡ませにくくなるので最適化したと捉えるべきか迷うな。いずれにしても妹設定を作ったので扱い易いキャラになったと言えますが。っていうか、映画が結婚ネタで、本編では子育てって順序逆じゃね?
そういうわけで、順調にアイちゃんの発育は進みそれなりに会話出来るレベルに。ラッパラビーズを受け取ります。それを使うとアイちゃんがラッパを鳴らします。お前が吹くのかよ。彼女なりに励まそうとしているらしい。
外にお出かけ。出店が並んでいます。モブキャラが黒くなっています。プリキュアでは珍しい演出。レジーナの姿を見たマナは駆け寄りますが、もちろん幻。気落ちします。
「いつまで背中を丸めているつもり」
びくっ。いやー、私猫背なんですよねー(誰も訊いてねえよ)。
声のした方を向くと、ワンピースを着たマナと同じくらいの女の子が立っています。アイちゃんが彼女の方へ飛んでいきます。女の子もすんなりアイちゃんを受け入れます。え、やっぱそういう展開なの。マジで知らない人路線。
「そんなことではいずれあなたの一番大切なものを失うことになってよ、相田マナさん」
年格好はマナと同じくらいなのに口調がやけに大人びています。でも声が幼い(高い)ので背伸びしている感じにも聞こえる。今までのプリキュアでは無かったパターンのキャラですね。だいたい、口紅付けて明らかにケバ……もとい淑女になることからして異例。
真琴にサインを頼むファン。プライベートなのでお断り。正味、周囲の人達からも不快な視線を浴びています。残念がりますが素直に従おうとすると、はい、今週のジコチュー確定。リーヴァとグーラ。サインペンジコチューと色紙ジコチュー。
ジコチューはインクを飛ばしたり突風を起こして人々に迷惑をかけます。セバスチャンが避難を呼びかけます。この人、この役割が板についてきました。
六花とありすがかけつけ、真琴の音頭で変身。これはこれで隊長っぽくて渋い。変身シークエンスはカット。お早い登場ですこと、とリーヴァ。尺の都合です。
リーヴァは挨拶と同時に帽子で攻撃してきます。木が真っ二つ。とりあえず強いですよアピール。正直、そのカッターでダイヤさんの衣装ちょっと切ってもらえないかなって思った私は健全な一般成人男性。健全な成人独身男性が日曜朝の女児向けアニメを見るかについては長い議論を要するのでここでは割愛したい。
グーラがかみつき攻撃。ロゼッタのバリアを食べてしまいます。呆然とするプリキュア。強いっていうか、やりづれぇ。ジコチューも攻撃してきます。4対3。質的にも量的にも劣勢。
シャルルが敵を感知。電話越しに仲間のピンチを伝えます。便利。
仲間のピンチ。変身出来ない自分。目の前に立っている知らない女の子(アイスが溶けないか心配になります)。数瞬。瞳から迷いが消えます。
「行こうシャルル。みんなのところへ」
「ありがとうございました」
マナは女の子に向くとお礼を言います。この反応は意外だったのか女の子も呆けます。
「あたし、レジーナがいなくなったことで頭がいっぱいになって大事なことが見えなくなってたんですね。でも、何が一番とかじゃなくて、あたしはみんなの笑顔を守りたい。仲間達の笑顔もレジーナの笑顔も。全部!守ってみせる!」
駆け出すマナ。彼女はやはり賢い。すぐに女の子がエースだと気づき、それに混乱することも問いかけることもなく、彼女の言葉、今の状況を受け入れて行動に移している。マナの行動は一見唐突だけど論理的で筋道立っている。自分の中で出た答えにすぐ従うから周囲には唐突に見えるんだな。ただ条件反射で動いているのではなくそこに思考が関与している。これは大事なことです。全肯定も全否定もそこに思考が関与していない点では同じ。思考し、決断する。彼女は自分の視野の狭さ、自分の代わりになってくれている人達のことを知った上で進もうとしています。
ジコチューのインクを浴びてさらには魚拓。散々です。満身創痍になりながらも立ち上がるプリキュア。何度でも言いますがソードの太ももは素敵です。追撃するジコチュー。
そこにマナが割っては入ります。ちょっと待ったコール。声でけぇ。飛びかかったジコチューが墜落します。さすが音痴に定評のあるヒロイン。
ジコチューのインク攻撃をパラソルでガード。そんなんで防げるのかこれ。さらに回して相手にはじき返します。インクを浴びた色紙がペンジコチューにケンカを売って内輪もめ。
「ふん!」
2話で六花が生身で活躍したノリですね。こういうのは遊び心があって楽しい。アイデアや工夫で立ち向かう。こういう逞しい姿のマナがありすは好きなのだと思います。余談ですがこうした戦闘シーンを見てもプリキュアの日常・非日常の境界は曖昧になっています。一般人レベルで戦えてしまう。
「お見事です。相田マナ、いえキュアハート」
木陰から女の子が現われます。
「プリキュア五つの誓い。一つ」
「プリキュアたる者いつも前を向いて歩き続けること」
「そもさん」「せっぱ」みたいな掛け合いだな、これ。このやり取りでダイヤ達も女の子の正体がエースであるとこに気づきます。
女の子はマナに愛を取り戻したのですね、と言いながらラビーズを渡します。愛とは何か。「それは人を思いやる気持ち」。マナが自ら発した言葉。では、愛を失うとはどういうことか、思いやらないことか、対義的にはそうだ。では具体的にはどういう状態か。自分しか見ないことだ。自分の檻、自分の殻に閉じこもること。決断することを恐れ、責任を負うことを恐れることだ。その間にも他の人達が自分を支えたり心配していることを忘れていることだ。自らのジコチューに囚われること。何かに関心したり驚いたり感銘することを忘れ、自己の願望を満たすためだけの木偶に成り下がることだ。感受性の著しい低下と捉えることもできる。ドキドキという言葉は直球だけど分りやすい。驚き、興奮、感銘、感動、興味、新しい体験、対象となるモノに対して自分の心が動いている状態を指す。外界と接続することで人はドキドキを体験する。それを奪う存在はこの物語において立ち向かわなければならないモノである。
③知らない家の子がプリキュアに変身
変身。強そうに見えるオーラを纏うキュアハート。復活した主人公の見せ場…と思わせて敵の目の前を横切る女の子。敵に尻向けてカメラの方に向きながらアイちゃんを呼びます。この子相当な出たがりだな。
「プリキュア! ドレスアーップ!」
顔のアップシーン見ただけで気合いが分ります。この印象はありすと同じ。流石は新商品の看板たる新キャラ。変身アイテムはアイちゃんが供給。商品コンセプトとしては化粧品。アイシャドウを入れます。女の子の瞳に映る7つの灯火。珍しい演出。CMでもこれが売り文句になっているようです。裸のシルエットがくるくる回ったりするのは変身ヒロインの常套演出ですが、何を血迷ったのか7つの炎が本当に燃えてそこから衣装が出現していきます。何これカッコイイ。不死鳥のように再生を想起させます。
「愛の切り札! キュアエース!」
Aのロゴかっこいい。
「美しさは正義の証し! ウィンク一つであなたのハートを射貫いて差し上げますわ」
Aの再現率高ぇ。指なめらかに動きすぎ。試しにやってみようとしたら全然動かなかった。
変身すると大人っぽくなるのは女児向け変身ヒロインの王道。プリキュアでは比較的その要素が少なかったんですが(フレッシュが例外的)、エースさんは分りやすいくらいガンガン行ってますね。よく見ると口紅だけでなくアイシャドウも入ってますし。
ふたりで共同戦線。ハートが正攻法的に戦うのに対して、エースは自分の加速を打ち消すために地面を滑りながら敵の懐に潜り込む(しかも背面で)という無駄にカッコイイ動きを見せます。あ、この人ムーンライト系の人だ。今年のプリキュアはエース小隊って呼ばれそうな予感。一応ハートも初期のノリで優雅な動きもしますが、明らかに格が違います。ドキドキでは珍しいガチバトル。
必殺技。本日2発目。新商品販促は新キャラのお仕事。敵を浄化するときに、ハートキャッチみたいに口紅の回るところをくるくる回したりはしないようです。
謎のプリキュアよりもマナのことが気がかりだったダイヤはハートに抱きつきます。良かった、と涙を浮かべながら喜びます。流石六花さん、誰よりも早く動く。映画の宣伝ポスターでもハートの隣をガッチリ死守。マナが結婚?当然相手は私よ、くらいの意気込みを感じます。
ソードとロゼッタもハートの復活を喜びます。その間も抱きついたままのダイヤさんの熱意に私は心打たれます。
そんな和気藹々とした雰囲気を無視して、エースは試練は始まったばかり、はやく私のステージまで上がってこいと言い残してまた去っていきます。もうこの子がアイちゃんのお世話すればいいんじゃないかな。
④次回予告
王女さま見つけちゃったしね。
○トピック
私はようやく登り始めたばかりよ、この果てしなく遠いプリキュア坂を、的な。
キュアエースに関する私の一番の関心は、このキャラが女児に売れるのか?ですね。今や女児向け定番アニメ。スタンダードとも言える作品ですが、こういう実験を積極的にやってくれるのは楽しいです。果て無き冒険スピリッツ。
5個クリスタル見つけたと思ったら今度は5つの誓い。ステージという言葉を使っているように、ステップを踏みながら成長していくことが予想されます。5話の感想でも触れましたが、人というのは双方のレベルがある程度同じでないと会話も思考も成立しなくなります。六花がマナと同じプリキュアになるために現状よりも一段上がったこと、マナがアイドルとして真剣に仕事をする真琴に並ぶために意識付けを行ったことがここでも再提示されています。ちょっと違うのは六花やマナが自発的にそれを行ったことに対して、エースはそれを強制的に行っていること(それ故にエースはハート達のことを正式なプリキュアとしては認めていないでしょう。せいぜい半人前程度の認識)。これがどう展開されていくのかは楽しみなところです。
キュアエースさんについては、おいおい情報開示とともにやっていくとして、やっぱり注目はレジーナ関連。彼女の登場によって本作のジコチューの意味や扱い、プリキュア側とジコチュー側の関係が浮き彫りになってきたわけですが、ここにきて主人公であるマナの限界を露呈することにもなって、ほんと物語の中心的役割を担ったキャラだと思います。しばらくはエース関連の修行が続くでしょうけど、レジーナがどのように救われうるか、彼女の気持ち、ジコチュー(プシュケー)が昇華されるかは本作の重要なテーマを示すものだと思います。
前回のおさらいになりますが、マナの敗北には2つの要因があります。すなわち、
①レジーナの気持ちに気づけなかった
②レジーナに適切な指針を与えることができなかった
逆にキングジコチューはこの2つをクリアしています。①レジーナの気持ちに気づき②苦しまない方法を与えた。
勿論キングジコチューがやったことは間違ったやり方で、毒にしかなりません。しかし何も与えられないならいっそ毒を飲む方を人は選ぶ。あの状況下でレジーナの問題に気づき対処法を取ることができたのはキングジコチューだけです。マナがやれたことは「あなたは私の友達でしょ?(だから私を傷つけないで)」と言うことくらいでした。キングジコチューが「お前は私の娘だろ?」というのと何ら変らない。レジーナの腕を左右それぞれ持って綱引きしているだけ。「痛い痛い」と心の中で叫んでいる彼女の声に気づいて、優しい言葉をかけたキングジコチューはこの点においても優位性があり軍配が上がるのは当然です。
ほんとに皮肉な話しなんだけど、クソ親でも子どもの理解度ではマナを上回っている。それが彼女を慮っての行動ではなく利用するためのもので毒を盛っているのとなんら変らないことであっても、何も与えられない人よりも、たとえそれがまやかしや毒でも与えられる人を人は選ぶ。苦しんでいる当事者にとってそれが正しいか間違っているかは重要じゃない。この苦しみが消えるならなんだっていいと考えている。これは今回の件以外の全般的なことにも言えます。レジーナの場合は本人が今どういう状態なのかを正確に認知していないこと、彼女の幼さ、弱さにつけ込んでキングジコチューが意のままに従えている点でかなり悪質です。これもまた虐待・ネグレクトなどの家族関係が崩壊した家庭でしばしば見られる実態でもあります。
マナがレジーナに対して行ったことは決して間違ったことではありません。彼女なりにできることを最大限やったでしょうし、中学生にあれ以上のことはできません。大人でも難しい。言ってしまえばこれはマナの過失ではありません。レジーナの気持ちに気づけなかったのだって、そこまで見通せたら逆に化け物です。要するに、このマナの敗北(挫折)は人にはどうやっても解決することのできない問題があること、解決する方法があったとしてもそれを自分が行えるとは限らないことを提示しています。ざっくり言うと諦めろってことなんですが、そうした敗北、無力感を目の前にしたときに傷つく人、元々あれはどうにかできるものじゃなかったと割り切る人、責任転嫁する人がいるでしょう。どれが正解かは知りません。私に言えることは敗北を知ってなお立ち上がり前に進めるバイタリティがあればいいということだけです。ちょっとしたことで傷つき現実対応能力を損なわせるような自尊心なんてクソの役にも立たない。這いつくばってでも人に生きる道筋を求めさせることが自尊心の在り方だと思っています。マナに間違いや過失はない。しかし成長すべきだ。何故ならそれが彼女自身を高め、誇りを与えることになるからです。 そしてそれは彼女に関わる多くの人々に恩恵を与えていくでしょう。
閑話休題。
親と子の問題は、フレッシュのせつな(イース)と似たケースですがせつなの場合が一旦親と離れて自立した精神を養った上で再び対峙したことと対照的です。これはどちらが正しい間違っているというものではなく、ケースバイケースだと思います。せつなとレジーナとでは前者の方が精神的にまだ高く判断力もあります。一時的に親元を離れた方が冷静になり自分を客観視することもできるでしょう。しかしレジーナにはそんな余裕や力は無いように思えます。下手に親から引き離すとそれ自体が害になりかねません。これはこうした壊れた親子関係を扱う場合で厄介な問題だろうと思います。クソ親でも親として必要であるという事実。その意味で本作が行っている一連のエピソードは現実の問題にかなり近いことをやっています。正直、スタッフの正気を疑います。だって、これ、ものすごく面倒臭い話しだもん。これを提起した以上、下手な嘘で誤魔化すことは許されません。子ども向けアニメだからこそ嘘は許されない。自分でハードルを上げるんだからプリキュアは怖い。そしてだから面白い。この物語はそうやってきた物語だと思ってます。常に進み、高みを目指す。やってもらいましょう。見せてもらいましょう。その覚悟を。こっちもそれに全力で付き合います。
第22話「ピンチに登場!新たな戦士キュアエース!」
①団欒
ソリティアへ帰還。
氷漬けの王女を助けるには「王子さまのキスで決まりでしょ」六花さん意外とロマンチストです。それを聞いて慌てる真琴。ここにいる王子さまと言えばノッポさんしかいません。「ジョーさんお願いします!」それでいいのか。
照れながらも実際にやります。六花の反応が可愛い。ラケルは、男の子的な居づらさを感じてそうだな。ありすはセバスチャンの教育的指導が入ります。
変化無し。面目ない、と笑うノッポさん。妖精はこの氷は王女が身を守るために纏った鎧ではないかと診断します。アストロンみたいに敵も手を出せない代わりに自分(味方)も何も出来ない。ところでアストロンって本来どう使う魔法なの?(敵の攻撃パターンを読む、魔法切れを待つ、などか?)
敵のターゲットにもなっているのでどこかに隠さないといけないわけですが、ノッポさんに一計があるようです。隠し場所はみんなにも秘密。後述するエースとの関係をミステリアスにするためでもあるのでしょうが、ノッポさんの場合、色々胡散臭いので別な狙いがあるんじゃねーのかと思えちゃう当たりが信用の無さを物語ります。変なコレクション部屋とかあったらやだなぁ。アイちゃんも連れていきます。
王女の件はこれで良いとして、残る問題はレジーナ。みんなの視線を浴びた彼女はちょっとわざとらしい態度でこれからどうしようかな、とベンチに座ります。パパのことを怒らせた、謝っても許してくれないと落ち込みます。パパのことが大好きかと尋ねるマナ。頷く彼女に、あんなに酷い目に遭わされたのに?と重ねて問う六花。「だって私のパパだもん」。これは大事な問答です。大人になってしまうと忘れてしまいがちですが、基本的に子どもは親を嫌うことができません。自立した人間なら自分に不利益を与える人と距離を開けるなり、和解戦術をとるなり方法があるしそう考えますが、子どもの選択肢は一つしかありません。親に気に入られたい。それだけ。心の底で嫌っていてもそれを態度に表すことは出来ません。何か別なものを嫌うことに置き換えたり、自己否定に向かうしかありません。子どもにとって親は絶対的な存在であり前提です。親は子どもを承認する必要が必ずしもありませんが、子どもは絶対に親を承認しなければなりません。この非対称性が時に子どもに凄まじい抑圧と歪みを与えることがあります。
「あたしもレジーナのことが大好きだよ」
レジーナの隣に座ります。この子は賢い。今彼女はレジーナがパパを好きであることを承認したのだ。自分がレジーナに酷いことをされても好きでいたことを前提にして。自分を助けてくれた時、優しい想いが伝わって嬉しかったと話します。真琴も彼女の言葉に同意します。マナを助けてくれてありがとうと正面を向いてレジーナにお礼を言います。ジコチュー勢そのものに対する憎悪はまだあるでしょうが、レジーナ個人へのわだかまりは消えています。
六花、ありすもレジーナにそれぞれお礼を言います。こうして一人ひとりがレジーナを受け入れたことを描写しているのは丁寧であり、本作が自立した個人を描いている以上必要な手続きでもあります。
大好きな気持ちは絶対伝わる。だからパパへの想いもきっと伝わるとレジーナを励ますマナ。頷く彼女を自分の家に連れて行きます。手を引っ張られたレジーナは驚きながらも笑顔を浮かべます。この温もりが人の心の氷を少しずつ解かす。
親に頭を下げるマナ。レジーナも真似て頭を下げます。また人助けというわけか、とお爺ちゃん。恒例のようです。両親も呆れますが、却下するつもりは毛頭ないようです。レジーナの顔色を見た父は元気を出してもらうために腕を振るいます。
家族揃っての夕食。オムライスを食べたレジーナは美味しい!と感嘆の声をあげます。いつものようにまだまだとお爺ちゃん。しかし母はもう越えていると異論を唱えます。にやりとする父。マナがレジーナに審査してもらおうと提案します。その話しに乗るお爺ちゃん。第三者ならえこ贔屓はなし。父は夫婦だからってわけじゃ…と言いかけて「それもありますけど」と母。この人絶妙だな。
笑いの絶えない団欒を見たレジーナは胸がポカポカします。しかし同時に胸が苦しくもなります。マナの家族と距離を感じる。
部屋でマナのアルバムを見ます。「マナ可愛い!あたしの次にね」ですよねー。
浮かない顔。父との思い出がないと言うレジーナ。思い出そうとしても頭の中がもやーっとするそうです。ふむ、本当の親子ではなない可能性が出てきましたね。この場合の親子関係の真偽は本質的に意味が無いようにも思いますが、一工夫あるかもしれません。
マナはこれから思い出を作っていけば良いと言います。怒らせちゃったし…とまた落ち込むレジーナ。これから、なんてあるのか。マナは力強く絶対伝わる。その証拠にレジーナは自分達に気持ちを伝えてくれた、パパもきっと分ってくれると言います。なかなか説得力のある言葉です。彼女はキチンと実績、見本を示しています。それでもレジーナは気乗りしません。するとマナは落ち着いたら一緒に会いに行こうと言い出します。一緒に気持ちを伝えたい。これには「うん」とレジーナも頷きます。一人で頑張れないのなら一緒にやろう。彼女が人助けをするロジックの大元はこんな素朴な意識なのかもしれません。ちなみにこの会話でも分るようにマナはキングジコチューを倒す気がまるでありません。完全にレジーナの親と見ている。ラスボスに対するこのスタンスは凄い。シリーズ10年目はほんと、どこに行くんだろう。
就寝。レジーナはロフトを使います。あ、他にもベッドあるんだ。にも関わらずマナと一緒のベッドで寝る六花さんはマジ正妻。レジーナも一緒に寝てあげるとマナのベッドの半分を占有します。一緒に眠ります。きっとありすはこれを隠し撮りしながら楽しんでいると思います。
レジーナを探す幹部。前回簡単に捨てたのにも関わらず連れてこいと命じたようです。ジコチュー過ぎると不平を漏らすイーラとマーモ。しかしベールは面白がります。もしまたレジーナが悪に染まれば…。
②一時の逃避
今日はみんなでピクニック。マナの父が車を出します。トンネルを抜けると青い海が広がっています。
浜辺で遊びます。海水浴には少し早いのでこのシチュエーションは不自然ではない。く、やるなスタッフ。これでは海に入れとは言いづらい。海に来たけど水着にはならない。乾坤一擲の妙手。しょうがない、今年もカレンダー待ちかな(それでも水着イラストがある確率は半々。例年の流れだと今年は無いパターン)。ビーチバレーでアタックを決めるありす。このメンツだとマナと体力勝負挑めるのは彼女くらいでしょうね。
夕方。楽しい時間もあっと言う間。楽しかったと話すレジーナ。海を見ていると気持ちが落ち着くと言います。
「僕は心が迷って進めなくなったとき、こうして海に来るんだ」
「そしてどこまでも続く空と海を見てこう思うんだ。この海は世界と繋がっている。この空は果てしない宇宙と繋がっている。だったらちっぽけなことで迷ってないで、ちょっとずつでいいから前に進んでみようって」
ああ、あれだろ、涙は世界で一番小さな海、アンデルセンの言葉だろ?(全然違います)。この手のものだと個人的には「大概の問題はコーヒー1杯飲んでいる間に心の中で解決するものだ。あとはそれを実行できるかどうかだ」が好きですね。迷ったら悩み、悩みながら行動する。それでダメならそれまで。解決できなかったら自分はその程度の器だったと思えばいい。死ななければ次がある。死ぬことに比べれば大概の問題は軽い。人間の器は失敗で決まらない。やった数、成功した数、質、順応性、感受性、向上心、積極性、楽観性、度胸、知性、自尊心その他諸々で決まる。つまり全体に占める割合の中で迷いや不安や失敗は大した数値ではない。というか、そんな項目がない。それに疎外されて他の要素が前に出なくなるのが問題なのだ。
照れ笑いする父。たまにはカッコイイパパもいい、とマナが答えます。マナちゃんのお母さまはそういうところが好きになったのですね、とありすはからかいます。
また胸がポカポカする。でも苦しい。
記念撮影。マナがコケたのを父が支えます。どんな体勢で倒れてんだよ。さすがマナのパパ、と六花。多分内心ではお義父様って呼んでると思います。こんな風にパパと仲良くできたらいいのに…と心の中でつぶやくレジーナ。
③檻と鎖
そこに幹部が現われます。
キングジコチュー様がお待ちだ、と言われたレジーナは心が動きます。帰りたくないと断るレジーナを無理矢理連れて行こうとするイーラにマナの父が割って入ります。突き飛ばされて気絶。ということで、心置きなく変身できます。
幹部との直接対決。4対1なら分がありますが、3人相手だと分が悪い。幹部の攻撃をバリアでガード出てきているあたり、レジーナが召喚するジコチューの方が攻撃力が高いという地味に情けない事実。でも数で押せる。
レジーナはどちらの側にもつけません。マナを気遣うも胸が痛みます。これはジコチュー(父)とプリキュア(友達)の両天秤にかかっているからで、どちらを選んでもどちらかへの背信行為になります。二律背反。その間にもプリキュアは窮地に立たされます。
強い胸の痛みを感じるレジーナ。なんで?
「それはお前が愛を知ったからだ」
現われるキングジコチュー。正確にはその幻影。竜巻がレジーナを包み込みます。プリキュアは手を出すことが出来ません。
父と邂逅するレジーナ。キングジコチューはお前の心には愛が芽生えてしまった、と冷静な声で言います。感情的だった前回とはまるで別人のようです。プリキュアと心を通わせてしまったから、だから心が痛み、苦しくなる。そんなものは捨てて帰っておいで。あくまで穏やかな口調。直感的に分る、やべぇ、このアニメ本気だ。
嫌、私のこと娘じゃないって言ったじゃない!と反発するレジーナ。これが本心ではなく、ちょっとした反抗、ややもすると今自分が言った言葉を打ち消して本当は「愛しているのだ」と言って欲しいことを確認したいがための反発であることは明らかです。
「すまなかった」
「許しておくれ。私にはお前が必要なんだ…」
このセリフを聞いたときに私は悪寒が走りました。プリキュア容赦しねぇ。本当に、本当にクソ親を描く気だ。
「あたしが…?」
父の言葉に先ほどの態度を崩すレジーナ。こうなればあとは意のまま。
「ああ、私の可愛い娘、私だけのレジーナ」
子どもを縛る呪文。呪いの言葉。親の愛を欲する子どもが一番欲しい言葉。何度騙されようと「今度こそ本当のパパ、優しいパパになってくれる。自分を愛してくれる」と期待を抱いてしまう言葉。
胸が痛み出すレジーナ。
「でもあたし、マナ達のことも好き!」
「どうしていいか分らないの!」
「可哀想に…大丈夫だよレジーナ。ジャネジーを受け入れれば苦しみも消えてもっと強くなれる」
「さあ、受け取っておくれ。これがパパからお前へのプレゼントだ」
稲妻がレジーナに落ちます。そしてレジーナの心に闇が広がっていきます。なるほど、これは盲点だった。苦しみが消えていきます。「でも…」。マナ達との想い出が脳裏に浮かびます。苦しみが消える代わりにマナ達との想い出も消える。レジーナの苦しみとは大切なものが増えたことの苦しみ、それをどう扱うべきか、どう序列を付けようか、心のどこに置くべきかという苦しみ。けどその大切なものを忘れてしまえば、苦しむこともない。しかしところてんのようにそれを繰り返すのは、自ら人間性を捨てることと同じことなのではないか。逆説的に、迷うことは人間である証拠であると言えないか。その迷いから人は自分を作っていく。迷いを捨てる過程を含めて人はそこから拾うものがあるはずだ。迷うことを最初から捨てることは間違っているのではないか。ましてそれを子どもに強制する親など、虫酸が走る。私はそういう親をクソ親と呼びます。文字通り周囲を汚染していく元凶。
竜巻が消えてレジーナの姿が現われます。安堵するハート。
「あ~! なんかスッキリした感じ」
突然プリキュアをエネルギー波でぶっとばします。容赦ねぇ。その力に幹部達は息をのみます。
ソードはキングジコチューが邪悪な力を植え付けたのだと推論します。理解早ぇな。また疑心暗鬼ごっこをしても意味が無いのでこれはこれで話しが早い。レジーナはクリスタルに魅入った時と同じように紅い瞳をしています。正常な状態ではない、何者かの恣意が影響していることの示唆と見られるでしょうか。これの厄介なところは、元々レジーナには父親に愛されたい、父親と一緒に居たいという欲求がある点で、それが心の闇を広げている、つまりジコチュー化していることです。基本的にプリキュアでは純粋な洗脳を行いません。人の欲求、心の隙を突くことで少なからず自己責任を問わせます。言い換えればそこから抜け出す鍵も本人が持っていることになります。
ハートの声もレジーナには届かない。「もうあなたは必要ないの」「あたしには必要だよ!」。
ロゼッタ、ダイヤ、ソードも口々にレジーナに想いを伝えますが、全く届かない。ちょっとした仕草からも分るようにレジーナの無垢さ、純粋さは損なわれていない。この子の本質はここにあるのだと思う。それ故に染まりやすい。実際衣装も染まっているし。
ラブリーフォースアローなら悪い心を浄化できるかもしれない、と思いつくソード。石化も浄化できたしナイスアイデア。構えます。照準をレジーナに合わせ……「あたし、やっぱりできない!」
作品的にもマナ個人としても正しい判断です。重要な場面においてプリキュアは必殺技で人の心を浄化しません。それは、圧倒的な力で人の心を変えることが敵のやっていることと同じだからです。結局人の心を操作しているということになってしまう。人の心を変えるには、愛を取り戻してもらうには彼女達自身の心と拳でぶつかり合うしかありません。だから愛を食らえと殴ることはあっても必殺技で浄化することはありません。
レジーナの攻撃をモロに受けて、プリキュアは変身が解除されます。
④ありがとう! 知らない人。
トドメの攻撃を準備するレジーナ。
「さようなら、偽りの愛の戦士プリキュア!」
偽りの愛? 彼女(ジコチュー達)が真の愛と思っているのは自己愛だからか?
困ったときのアイちゃん。クリスタルが新商品にくっついていきます。なんかこの形前に見たことあるな。ミルキィパレット的な。
レジーナの攻撃を粉砕する閃光。光のバラが舞い、観衆の注目を集めます。
「なんなのあなた!」
「愛の切り札! キュアエース!」
えっと、どちら様?
⑤次回予告
改めて過去のEDクレジット見てみたら王女の名前が出てない。なんという偽装工作。王女さまはあれですか、「凍れる時間の秘法」とか使えるんでしょうか。天地魔闘の構えといい、ダイの大冒険と馴染みがあるアニメですな(絶対関係ない)。
○トピック
今年は全然わからんなぁ。っていうか、口紅ですよ、口紅。あれ基本的に大人の象徴として使われるので、少女が主役のプリキュアでは異例です。口紅型の玩具が出そうな予感。すると、ゆくゆくはマナ達も? ふむ、少女から女性へ、というプリキュアにおいては未知の領域へ踏み込む可能性も見えてきましたね。
話しを戻すと、プリキュアの本気を見た回。キングジコチューのレジーナに対する呼びかけはガチです。ガチでクソ親の言動です。もう少しちゃんと言えば、共依存における親の言動そのままです。アルコール依存症などで子どもに暴力を振るう親が、時折見せる優しい言動、親自身が自分を見捨てないで!と子どもにすがりついたり、自分は良い親としてやり直そうと(その場では)思う時に見られる言動です。ああいう態度を取られた時、子どもは親に付いて行くしかなくなります。キングジコチューは自覚的にそれをやっているように見えますが、一番タチが悪いのはこうしたことに無自覚で、子どもの気持ちを全く鑑みずに同様のことを行う親がいることです。(共依存について、他作品で言及した記事があるので興味ある方は「永遠の仔」の感想を参照されたし)
子どもにとって親は絶対必要な存在で、好きな相手でもあります。その親から嫌われることは子どもにとって耐え難い苦痛です。また、レジーナの場合は親に嫌われる理由がハッキリしています。マナ(プリキュア)に荷担したから。マナが好き、パパも好き。でもパパはそれを許さない。そうした時に子どもはどう考え、感じるか。おそらくその子は自分が「悪い子」だと思うでしょう。友達もパパも悪くない。なら友達を好きになってしまった自分は悪い子だと思うしかなくなります。自分が悪いから嫌われるのだと。レジーナはまだそこまで思考が至っていないでしょうが、あのまま葛藤が続くとそれを解消するためにそうした歪んだ解決方法を取る可能性もあります。彼女に大人のような判断力や行動力があるのならそんな思考には陥らないでしょう。しかし彼女は幼い子どもです。子どもというのは言わば親の檻に閉じ込められた生き物で、その中でしか動くことを許されません。奴隷に対する主人の支配と、子どもに対する親の支配とに大きな差はないと言った精神科医もいます。どんなに憎くても、どんなに理不尽でも子どもは親を否定することは出来ない。そのしわ寄せは子ども自身に全てのし掛かります。それは往々にして子ども自身の自己否定(自発的な意思を疎外され、歪められてしまうことも含む)という形を取ります。レジーナのケースは子ども視点で見たときの人間関係、親との関係、力関係をとても分りやすく描いています。これを女児向けアニメで取り扱う本作に只ならぬものを感じます。父親に捨てられたり、父親を娘の前で爆死させたり、家庭崩壊しているエピソードは過去にもありましたが、今回の話しもそれに劣らぬ、いや、ある意味でそれ以上に生々しいテーマに挑んでいます。
余談ですが、子どもが何か問題を抱えている場合、少なくない割合で親に問題があります。例えば子どもに対して関心・共感がない、大切にしない、親からの一方的な行動制限を行うなどです。また、こうした親は貧困家庭に限った話しではなく社会的に成功している家庭でも見られます。親本人は普段行っている教育が当たり前で、子どものためになり、善意でやっているとすら思っていることが多い。そのくせ子どもを意のままに操り、個人としての尊厳を著しく疎外する。しかし私は敢えて彼らが行うことを悪だとは言いません。それもまた愛の一つの形であると思います。ただしその愛は子どもを一つの個、一つの独立した生としてではなく、自分の付属品として同調化を強制する愛、つまり自己愛です。彼らは自分に執着するあまり他者を利用する。愛とは執着することです。だからその対義語は無関心だと言える。そして強固な自己愛は自己すら欺く。この手の人に自省を促すことは不可能に近い。親が歪んでいると子どももそれに巻き込まれてしまう。これは一つの現実です。この悪循環、呪縛、歪んだ対人関係から抜けだし自尊心を回復し、健全な対人関係を結ぶことができる余地は僅かですがあります。人間とは常に変わることができる可能性を持った生き物で、それを牽引してくれる人もいます。ああ、そうか、この流れはこれまでシリーズが積み重ねてきたことの反復でもあるんだな。自尊心の回復、絆の回復、親子の愛情を取り戻し、新しい友達を作っていく。
目的如何にかかわらずキングジコチューは悪い親の見本です。しかしだからといって、レジーナが彼を好きになってはいけない理由にはなりません。子どもが親を好きになることは当たり前のことです。それはマナによって肯定されています。この物語は人を好きになることを肯定する。その好きという意思を力に換えて戦う。別な目線で見れば、キングジコチューもまた治療の必要がある人だと言えます。親を悪者扱いしたら子どもが救われる、というわけではありません。如何にしてレジーナが健全な心と関係を取り戻していけるかが問われます。
そういった流れで見ていくと、正直前回書いた話しはズレてたかな~って思ってきました。マナの博愛に対して人を記号化するのではないか?と書いたんですが、この視点では大事なことを見落としてしまいかねない。そもそも本作は何をしてきた物語なんだ?と考えてみれば、新しい友達を作ってきた物語だと言えます。マナはこれまで「分け隔てなく人と接し」「好きな人に対して誠実であり」「周囲を巻き込みながら友達の輪を広げて」きました。友達を天秤にかけない、天秤にかけないために彼女は幾多の困難に立ち向かっています。時にそれが友達との関係に軋轢を生むことがあっても、時間をかけながら打ち解け信頼関係を作り上げている。自立心を養い適度に依存することでそれぞれがそれぞれの物語を生きる物語を描いている。誰の視点から見てもドキドキの世界は友達を作ることの素晴らしさ、尊さがあり、また同時に自分で決断して選び取っていくことの誇りと気高さを見ることが出来ます。その原動力と理想が彼女に仮託されていると思う方がスッキリする。彼女の愛は極端ではあるけど、バランスが取れている。おそらくレジーナはまたジコチュー側に戻ることになるでしょう。マナは挫折を味わうことになる。それを彼女がどう乗り越え、成長していくか。
いやー、素晴らしい展開です。レジーナと和解して彼女がプリキュアになる、というのが一番単純で分りやすい話しになるはずです。キュアパッションやキュアビートがそれですね。でもそれを敢えてやらなかった。レジーナと敵対関係のまま友達になり、新しい問題が突きつけられています。これまで以上に人間関係の広さ、深さ、複雑さ、そして友達であることの意味と可能性が試されることになります。ほんとにこれ、どんな結末を迎えるのか。最終回が楽しみでしょうがない。